詩編説教111              主の2020223

 

ハレルヤ。 ハレルヤ(ヤハを賛美せよ)

 

わたしは心を尽くして主に感謝をささげる。わたしは主に感謝する、心のすべ

 

正しい人々の集い、会衆の中で。 てで(心を尽くして)。正しい者たちと会衆の

 

主の御業は大きく 中で。大きい、主の御業は。

 

それを愛する人々は皆、それを尋ね求める。 尋ね求められる、それらを喜ぶ

 

主の成し遂げられることは栄え輝き すべての者たちに。尊厳と威光が彼は働

 

恵みの御業は永遠に続く。 き。そして彼の義は永遠に立つ。 

 

主は驚くべき御業を記念するように定められた。彼は記念を作った、彼の

 

主は恵み深く憐れみに富み 不思議な御業を。 恵み深い憐れみ深い、主は。      

 

主を畏れる人に糧を与え 彼は糧を与える、彼を畏れる者たちに。

 

契約をとこしえに御心に留め 彼は永遠に覚える、彼の契約を。

 

御業の力を御自分の民に示し 彼の諸々の御業の力を、彼は彼の民に告げ

 

諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる 諸国の嗣業を、彼らに与える。

 

御手の業はまことの裁き 彼の両手の御業は、まことと裁き。

 

主の命令はすべて真実 彼の命令のすべては、確かである。

 

世々限りなく堅固に とわに永遠に支えられる。

 

まことをもって、まっすぐに行われる。行われる、まことをもって、真っすぐ

 

主は御自分の民に贖いを送り に。贖いを、彼は贈った、彼の民に。

 

契約をとこしえのものに定められた。 彼は命じた、永遠に、彼の契約を。

 

御名を畏れ敬うべき聖なる御名。 聖なる、そして畏れるべき彼の御名。

 

主を畏れることは知恵の初め。 知恵の初めは主への畏れ。 

 

これを行う人はすぐれた思慮を得る。 良い思慮がこれを行うすべての人々に                    

 

主の賛美は永遠に続く。 ある。彼への賛美を永遠に立つ。

 

                   詩編第111110

 

 

 

説教題:「神の驚くべき御業を記念する」

 

今朝は、詩編111110節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

詩編111編と次の112編は、「アルファベットによる詩」と、括弧して表題が付されています。アルファベットによる詩で有名なのは119編です。ヘブル語22文字のアルファベットで詩が作られています。日本で言えば、いろは歌です。ヘブライ語の22文字のアルファベットの順に22行の詩を作っています。1節の「ハレルヤ」を除くと、22行になります。「ハレルヤ」は、この詩が作られた後に、付け加えられたと、考えられ、いろは歌に本来属していませんでした。

 

 

 

アルファベットによる詩のように技巧的な詩は、バビロン捕囚期、あるいはそれ以後に作られたと考えられています。アルファベットによる詩に対する評価は、二分されています。評価する人と評価しない人に。ヘブル語22文字の順に詩を書くという技巧的制約があることを、ある人はこの詩の欠点と見なします。反対にその制約にもかかわらず優れた詩であると評価する人がいます。

 

 

 

アルファベットによる詩なのですから、技巧的制約は避けられません。また、ある程度の決まり文句で詩を書くことも避けられません。この111編を繰り返しお読みになると、まず言葉に豊かさを感じられないと思います。詩人の言葉が豊かにあふれ出ているという感じはありません。むしろ、ウェストミンスター小教理問答書を読んでいるという感じです。詩人が日常生活で使う言葉ではなく、信仰の言葉で、もっと言えば教理の言葉で主なる神を褒め称えているという感じがします。

 

 

 

神を褒め称える共同体が存在するのです。「ハレルヤ」と。主を賛美せよと。

 

 

 

詩編は、冒頭と最後に頻繁に「ハレルヤ」が出てきます。111編のように冒頭に出て来るのは、10編あります。112編、113編も冒頭に出てきます。詩編の最後に出て来るのは、13編あります。113編は冒頭と最後に出てきます。

 

 

 

特に詩編113118編はハレルヤ詩編と呼ばれ、過越の祭に歌われたと言われています。過越の祭に主イエスが12弟子たちと最後の食事をされ、一同が賛美の歌を歌ってから、オリーブ山に行かれました。その時に歌われた詩編歌が詩編113118編のハレルヤ詩編でした。

 

 

 

新約聖書ではヨハネ黙示録1916節にハレルヤ賛美があります。

 

 

 

旧約でも新約でも主をハレルヤと賛美しますので、教会の礼拝の中でも主をハレルヤと賛美したいです。

 

 

 

残念ながら、教会の備え付けのジュネーブ詩編歌抄には、詩編116117編しかありません。いつかジュネーブ詩編歌150編を教会に備え付け、教会の礼拝で、受難週や聖餐式の時に主をハレルヤと賛美できたらと願っています。

 

 

 

詩編111編は、個人の賛美の歌であります。詩人は、過去のおける主なる神の驚くべき御業を記念して、心に覚えて、主をハレルヤと賛美しているのです。

 

 

 

詩人は、1節で「ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる。」と主を褒め称え、10節で「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。」と主を褒め称えています。それは、詩人個人の救いの体験を、主に感謝しているのではありません。29節の主なる神の救いの歴史における偉大な御業を褒め称えているのです。

 

 

 

それがこの詩編のテーマです。神の救いの歴史の賛美です。

 

 

 

詩人が4節で「主は驚くべき御業を記念するように定められた。」と賛美していますね。

 

 

 

旧約のイスラエルの神の民たちは、神の救いの歴史における神の大いなる御業を、過越の祭、ペンテコステの祭、仮庵の祭でそれぞれ記念して祝いました。過越の祭は、出エジプト、奴隷の地から主なる神に贖われたことを覚えて祝いました。ペンテコステの祭ではシナイ山で主なる神がモーセを通して神の民に十戒の石の板を授けられ、主なる神と契約したことを覚えて祝いました。そして仮庵の祭は、神の民たちが荒れ野の40年の生活を覚えて、神の祝福を祝いました。

 

 

 

この詩編はバビロン捕囚後エルサレムに帰還した神の民たちが再建された神殿で歌われました。

 

 

 

しかし、最初にこの詩編はウ小教理を読んでいるみたいだと言いましたね。旧約の神の民たちは、神の救いの歴史を家長である父親が家庭で子供たちに教えました。

 

 

 

2節の「主の御業は大きく それを愛する人々は皆、それを尋ね求める。」とは、家長である父親が子供たちにそれぞれの家庭で神の救いの御業である出エジプト、シナイ山での主と神の民との契約、そして荒野の40年の生活を教えていたことを背景としていると思います。

 

 

 

詩人は、子供の時から父親に教えられていたことを言葉にして、主なる神の救いの歴史における神の御業の偉大さを、主なる神の驚くべき御業を記念して、この詩編を歌ったのだと思います。

 

 

 

わたしたちがウェストミンスター小教理問答を用いて契約の子たちを教育するように、旧約時代の契約の子供たちは父親から神の救いの歴史における神の偉大な御業を教えられました。そして、それが子供たちの信仰の言葉になりました。彼らは、神の民イスラエルの父祖たちのように出エジプトという救いの体験はありません。シナイ山で主なる神に十戒の石の板を授けられて、主なる神と契約を結んだという体験はありません。荒れ野の40年という生活の体験もありません。しかし、父から子へと伝えられた教えを通して、子供たちに信仰の言葉、教理が与えられ、それが子供たちの心に堅く据えられました。

 

 

 

神の民たちは、親から子へと神の救いの歴史における偉大な神の御業を伝えることによって、その信仰の遺産によってバビロニア帝国からペルシア帝国へと中近東世界が大変動する時代を生き抜いたのです。

 

 

 

次々と中近東世界は、帝国の興亡が続きました。その中で多くの弱小国は滅び、民族も消えました。しかし、神の民たちは国が滅ぼされ、エルサレムの都と神殿が破壊され、そして彼らはバビロンに捕囚され、世界へと離散しても、生き残ることができました。

 

 

 

彼らは、神の救いの歴史における驚くべき神の御業を常に褒め称えました。バビロンに捕囚されても、ペルシア帝国の支配下に置かれても、主なる神を褒め称えることを止めませんでした。

 

 

 

なぜなら父から子へと伝えられた信仰が、すなわち、出エジプトによる贖い、シナイ山での十戒の授与と神との契約、荒れ野の40年の生活と約束の地カナンを嗣業として与えられたこと、これらが常に彼らの信仰の客観的な保証となりました。

 

 

 

詩人も同じです。父から教えられた信仰によって彼は、バビロン捕囚からエルサレム帰還、そして神殿の再建を経験したでしょう。彼にとってバビロン捕囚からの解放は第二の出エジプトだったでしょう。

 

 

 

彼は、父親に教えられた信仰の言葉によって、バビロン捕囚後の混乱した社会を生きたのです。再建されたエルサレムの神殿で共に礼拝する者たちと共に生きました。

 

 

 

1節の「正しい人々」は信仰を自覚した者という意味です。神の契約の子たちは、父から子へと信仰が伝えられた信仰の言葉によって、主なる神の驚くべき御業を知らされます。そして、聖霊によってその信仰が生きたものとなり、教えられた神の偉大な御業を生きた事実として主体的に受け取り、主なる神のみを信じて生きるようになるのです。

 

 

 

だから、正しい人々は信仰を自覚した者です。彼は父から教えられた神の偉大な御業を喜ぶ者となり、生涯追い求める者となるのです。その者たちの集いである神の民の礼拝共同体で、偉大な神の御業が知らされ、そして、記念されるのです。

 

 

 

今日、毎週の日曜日の礼拝で、神の偉大な御業が語られ、知らされています。詩人が賛美したシナイ山における主なる神と神の民との契約の内容は、キリストです。出エジプトと第二の出エジプトであるバビロン捕囚からの解放を為された主なる神は、主イエス・キリストの十字架と復活の御業を通して、わたしたちを罪の奴隷から贖い出されて、神の子とし、神の御国の相続人としてくださいました。

 

 

 

こうして詩人たちの信仰とわたしたちの信仰は、神の契約を通して、キリストにあって一つとされているのです。

 

 

 

旧約の神の民たちに荒れ野でマナを与えられた恵みと憐れみに富まれる主は、今わたしたちにパンとぶどう酒をお与えくださり、神の恵みの契約を心に留めさせ、キリストの十字架と復活の驚くべき御業をわたしたちに知らせてくださっています。それによって神の民がカナンの地を得たように、わたしたちは御国を相続させていただけるのです。

 

 

 

9節の「贖い」は、神の民が奴隷状態のエジプトから救出されたことを意味します。これが旧約の神の民たちの信仰の土台です。主なる神の一方的な恩寵によって神の民たちは、主なる神と特別な関係に入りました。主なる神は彼らの神となり、彼らは神の民となりました。それが契約です。

 

 

 

主なる神は、主権的に彼らと契約を結ばれました。

 

 

 

わたしたちも同じです。父なる神が一方的にキリストをこの世に遣わされ、彼の十字架と復活の御業によって、わたしたちは罪と死から贖われ、神の子とされました。

 

 

 

9節の御言葉は、主なる神の主権的行為を賛美しているのです。今日も主なる神は主権性によって日曜日に礼拝をなさせ、神の民を集め、主イエス・キリストの十字架と復活の驚くべき御業を知らせて、恵みの契約を実行し、神の民を贖われているのです。

 

 

 

主なる神は聖なるお方で、義なるお方です。憐れみ深く慈しみ深いお方です。そのお方が驚くべき御業によって神の契約を常に遂行し、この世から神の民を贖われ、神の子とされているのです。

 

 

 

だから、詩人は最後の10節でこう言うのです。「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。

 

 

 

関根正雄氏は「それらを行なう者みなに良き終わりあり」と意訳されています。

 

 

 

詩人は、父から信仰を学び、「主を畏れることは知恵の初め」という教訓を得ました。人間として生きる幸いの一歩は主なる神を敬い礼拝し、賛美することです。同時にその者は良き終わりを得ているのです。だから彼は永遠に神を賛美します。

 

 

 

この10節の御言葉は、わたしたちにウェストミンスター小教理問答の問1と答を思い起こさせないでしょうか。

 

 

 

「人のおもな目的は何ですか。」「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

 

 

 

詩人は、わたしたちの目的を、神を畏れること、神礼拝というのです。人生のどこにおいても、日曜日の礼拝だけでなく、日常生活において神を礼拝し、賛美することと歌っているのです。その者の最後は良き終わりです。神を永遠に喜び、賛美する終わりです。

 

 

 

どうか、ここに居るわたしたちも神の契約の中に置かれ、神を褒め称え、終わりが御国の喜びであることに感謝しようではありませんか。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編111編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

親から子へと伝えられる信仰に生きる者に、主の祝福を祈ります。どうか主よ、わたしたちの子供たちを憐れみ、わたしたちの信仰に、ウェストミンスター小教理問の信仰に生かしてください。

 

 

 

何時の時代も大変動が起こっております。今、新型肺炎の流行で、世界も経済も混乱しています。

 

 

 

しかし、この詩編111編の詩人が歌っているように、主なる神の偉大な御業に、キリストの十字架と復活の御業を心に留めさせてください。

 

 

 

キリストのみに信頼し、今の世を生かしてください。聖書の神の啓示に、その教えである信仰によって、今この世界に神の救いの歴史があり、実際に神の御救いがあることを確信させてください。

 

 

 

旧約時代の神の民たちが主なる神の導きで、大国間を、大国の興亡の中を生き抜いたように、わたしたちの小さな群れが今の時代に急激な変化する世界と社会の中を生き抜くことができるようにしてください。

 

 

 

教会がキリストの偉大な御業を覚えて、記念し、世の人々に告げ知らせる限り、主はこの教会を正しい者の集いとしてくださることを感謝します。

 

 

 

主が主権的にこの教会の群れをお集めくださり、キリストを通しての神の契約が今も生きており、わたしたちが御国の相続人とされていることを感謝します。

 

 

 

どうか、聖霊に寄り頼み、ここで神の御言葉を聴き続けさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

詩編説教112               主の2020322

 

ハレルヤ。 ハレルヤ(ヤハを賛美せよ)

 

いかに幸いなことか  幸いである、

 

主を畏れる人 主を畏れる人は。

 

主の戒めを深く愛する人は。 彼の戒めを、彼は非常に喜ぶ。

 

彼の子孫はこの地で勇士となり 地で勇士となる、彼の子孫は。

 

祝福された真っすぐな人々の世代となる。 正しい者たちの世代は祝福される。

 

彼の家には多くの富があり 財産と富が彼の家の中にある。 

 

彼に善き業は永遠に堪える。彼の義は立つ、永遠に。

 

まっすぐな人には闇の中にも光が昇る。輝き昇る、暗闇の中に光が、正しい者      

 

憐れみに富み、情け深く、正しい光が たちに。恵み深い、憐れみ深い、義し

 

憐れみ深く、貸し与える人は良い人 善い人は、憐れみ、貸す。

 

裁きとき、彼の言葉は支えられる。 裁きにおいて彼の言葉を支持する。

 

主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。 まことに、永遠に彼は揺るがな

 

彼はとこしえに記憶される。 い。義人は永遠に記憶される。

 

彼は悪評を立てられても恐れない。 悪い評判を、彼は恐れない。

 

彼は悪評を立てられても恐れない。 彼の心は、固く主に信頼している。

 

彼の心は堅固で恐れることなく 堅く支えられて、彼の心は恐れない。

 

ついに彼は敵を支配する。 彼が彼の敵たちを見るところまで。

 

貧しい人々にはふるまい与え 彼は極貧の人々にはふるまい与える。

 

その善い業は永遠に堪える。 彼の義は永遠に立つ。

 

彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。 畏彼の角は高く上げられる、栄光の 

 

神に逆らう者はそれを見て憤り 中で。悪人は見て、怒る。                    

 

歯ぎしりし、力を失う。 つ彼の歯で歯ぎしりする。そして彼は溶ける。

 

神に逆らう者の野望は滅びる。 悪人の欲望は滅びる。

 

                   詩編第112110

 

 

 

説教題:「幸いなる人」

 

今朝は、詩編112110節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

先月学びました詩編111編と同じくいろは歌の形式で、すなわち、ヘブライ語のアルファベットの順で、神を賛美した詩編です。

 

 

 

詩編第1編と同様に、「いかに幸いなことか」と112編の詩人は神に賛美しています。この御言葉は、知恵文学に結びついていると考えている学者がいます。

 

 

 

知恵文学は、旧約聖書の文学の一つの形です。一般には人間の日常的経験に基づく知恵を取り扱う文書を指しています。旧約聖書で有名な知恵文学の文書は、ヨブ記、箴言、コレヘトの言葉です。旧約聖書外典の中には知恵の書とシラ書が有名です。

 

 

 

ヘブライ語で知恵のことを「ホクマー」と呼びます。格言や諺、隠喩などの形式によって表現された文章です。隠喩は修辞法の一つで、たとえを言うのに、「・・・のようだ」という言葉を用いないものです。女性の肌の白さを言うときに、「雪の肌」と表現し、人の冷たさを、「氷の刃」と表現することです。

 

 

 

知恵文学は、日常生活の問題を処理する人間の処世術を言うに留まりません。旧約のイスラエルの民たちは、この知恵文学によって世界の根底にある秩序を言い表そうとしたのです。

 

 

 

彼らは、ヨブや箴言の著者、コレヘトのように知恵をもってこの世界、自然の不思議を論じ、現実の不条理に向き合いました。

 

 

 

現実の不条理に向き合うときには、詩編112編の詩人のように、悪人が最後には滅びるという応報の思想を強調し、神の民たちがこの世で直面している苦難に忍耐するように慰めました。

 

 

 

旧約聖書の知恵文学は、エジプトやメソポタミアの知恵文学を取り入れ、預言者活動と結びついて、捕囚期以後に知恵文学として形づくられたと考えられています。

 

 

 

詩編112編の詩人は、幸いな義人と不幸な悪人を対比しています。神に祝福される人と神に裁かれる悪人の人生を対比しています。

 

 

 

これは、詩編第1編と同じです。要するに詩編は、ただ神を賛美する詩ではありません。義人と悪人の人生の末路を教える教訓詩でもあるのです。

 

 

 

詩編112編の詩人は、神に祝福される義人と悪人を対照的に記していますが、29節まで幸いな人、すなわち、神に祝福される義人とはどんな人かを歌っています。悪人については10節で神が義人を祝福することを見て、悔しがり、滅びると言うのみです。

 

 

 

昔、高校の古文の時間に、鴨長明の『方丈記』の冒頭の一節を覚えさせられました。「行く川の流れは絶えずして、留まるためしなし。」この世界は常に流転し、空しいものであると教えられました。

 

 

 

それに加えて不条理な世界でもあります。条件を満たせば、必ず報いられる世界ではありません。

 

 

 

詩人は、一見応報思想で一人の義人の幸いと一人の悪人の滅びを歌っているように見えるでしょう。

 

 

 

詩人は、人の長くて80年の生涯をうたっているのではありません。神が神の民イスラエルの先祖アブラハムを選ばれて、彼と恵みの契約を結ばれて、彼の神となられ、彼と彼の子孫が神の民となってから、およそ1500年の歴史を踏まえて、この詩編を歌っているのです。

 

 

 

世界が時代と共に移り変わり、また、神の民にとって不条理な世界であろうと、天地万物を創造された神は、この世界の中からアブラハムを選ばれて、神を畏れ、礼拝する民を起こされ、アブラハムによって世界の諸国民が祝福される秩序を作られたのです。

 

 

 

その幸いな人こそ、1節の御言葉です。「いかに幸いなことか 主を畏れる人 主の戒めを深く愛する人は。

 

 

 

詩人は、「幸あれ、主を畏れる人、主の戒めを非常に喜ぶ人は」と賛美しています。

 

 

 

神は、アブラハムを召され、奴隷の地エジプトからアブラハムの子孫たちを贖い出されて、彼らにシナイ山で十戒を授けて、神の民イスラエルを創造されました。

 

 

 

そして神は、彼らの主なる神として彼らと彼らの子孫と共に歩まれたのです。

 

 

 

幸いな人とは、神の契約の民です。彼らは、神を主として礼拝し、十戒を非常に喜んで守ろうとしました。

 

 

 

旧約聖書の申命記において主なる神は、指導者モーセを通して神の民イスラエルに神を礼拝し、十戒を守り行う者に祝福を、主なる神に背を向けて偶像を神として拝み、十戒に従わない者に呪いを宣告されました。

 

 

 

そして、詩人が2節で「彼の子孫はこの地で勇士となり 祝福された真っすぐな人々の世代となる。」と賛美するように、神の民イスラエルの12部族は、約束の地カナンを戦い取り、神の嗣業の地としました。

 

 

 

真っすぐな人々」とは、正しい者たちのこと、義人のことです。主なる神を礼拝し、主の戒めを喜び守っていた神の民の世代は、主なる神が約束通り祝福してくださいました。

 

 

 

彼らは約束の地で神の嗣業地を分け与えられ、財産と富が彼らの家々の中にありました。

 

 

 

3節の「彼の善い業」とは、「彼の義」のことです。「」は主なる神との関係のことです。「永遠に堪える」とは永遠に立つことです。神を礼拝し、神の戒めを守る者たちには、神との関係が永遠に成り立つと、詩人は賛美します。

 

 

 

4節の真っすぐな人、すなわち、正しい者たち、義人たちは、神の民イスラエルのことです。4節の「闇の中」とは、バビロン捕囚のことです。彼らは、異教地バビロンで70年間捕囚生活を送りました。

 

 

 

しかし、ペルシア帝国の王キュロスがバビロニア帝国を滅ぼし、捕囚の地から神の民イスラエルを解放しました。

 

 

 

主なる神は、神の民イスラエルを憐れみ、アブラハム契約を忘れることなく、預言者イザヤやエレミヤらが主なる神の御言葉を預言した通りに、神の民をエルサレムに帰還させ、神殿の再建とエルサレムの城壁を補修させて、主なる神を礼拝し、神の戒めを守る神の民を復興してくださいました。

 

 

 

このように幸いな人は、神を礼拝し、神の契約に生きる神の民です。

 

 

 

更に詩人は、5節で幸いな人は、隣人愛の人であると賛美します。具体的には、神の民がすべて豊かであったわけでありません。この世は不条理な世界です。神の民も没落して、貧しくなり、奴隷になる者もいました。

 

 

 

幸いな人は、貧しい同胞を憐れみ、見返りを求めないで施しました。その幸いな人もこの世の不条理で隣人に訴えられることがあります。その裁きの場で彼の弁明の言葉が支持を得ると賛美しています。

 

 

 

69節において幸いな人が「主に従う人」と呼ばれています。義人のことです。

 

 

 

幸いな人は義人です。この場合の義人は、神との関係概念です。彼は神と神との契約の共同体との関係にある者です。

 

 

 

わたしたち日本人キリスト者の信仰は、どちらかと言えば個人的です。本人の信仰によって義とされるという考え方です。だから、義人と言えば、キリスト者本人のことです。

 

 

 

しかし、詩人にとって義人は、神と神の民イスラエルとの関係概念です。神の民イスラエルの共同体の中で神を礼拝し、神の戒めを守る契約の民が義人です。

 

 

 

だから、義人とは、キリスト者本人が義人であるというよりも、神との契約に応じる在り方が義と呼ばれ、神の契約に従って主なる神を礼拝し、主なる神の戒めを守る神の民を義人と呼んでいるわけです。

 

 

 

主なる神は、恵みの契約の中でとこしえにアブラハムを、イサクを、ヤコブを記憶され、モーセと神の民イスラエルを記憶され、ダビデを記憶されます。そして、キリストを通して神の恵みの契約に入れられた新約のキリスト教会を記憶してくださいます。

 

 

 

だから、わたしたちは、神の民イスラエルと同様に、信仰において揺らぐことはありません。第一と第五の主の日の礼拝で使徒信条を信仰告白しています。そこで第三項で聖霊を信じ、公同の教会を信じると告白しています。

 

 

 

この世の不条理の中でこの世にある教会が世の悪評に晒されることは、よくあることです。しかし、教会は常に使徒信条を告白し、はハイデルベルク信仰問答を、ウェストミンスター小教理問答を告白します。それによって詩人が7節で「彼は悪評を立てられても恐れない。彼は悪評を立てられても恐れない。」と賛美している御言葉を、この世の人々に証しするのです。

 

 

 

89節は、幸いな人である神の民イスラエルとキリスト教会の勝利を、詩人は賛美します。神の恵みの契約の中にある教会は、神との関係で常にこの世にあって堅固で恐れることはありません。8節後半の「ついに彼は敵を支配する」は、意訳です。教会の敵を敵として正確に見ることができるという意味だと思います。教会の働きを、神の敵であるサタンが常に妨害していることを、教会が正しく見る時、教会はこの世の誘惑や迫害に耐えることができ、永遠に神との関係を堅持できるのではないでしょうか。

 

 

 

この世に堅く立つ教会、世の光、地の塩となる教会こそ、悪人が最も悔しがることであり、彼らの滅びのしるしなのです。

 

 

 

今朝の御言葉からわたしたちが励まされることは、どんなに小さな教会であっても、神の恵みの契約の中で神礼拝を続け、神の戒めを守ろうとする教会は、この世の変動の中でも、不条理な中でも、主なる神が御自身との関係を固く立ててくださるのです。

 

 

 

そのしるしがキリストの十字架と復活です。神の子キリストが十字架に死なれ、死人の中から復活されることで、世界の諸国民が今、罪の赦しと永遠の命に与る喜びを得たのです。そして、その喜びを今朝も、わたしたちの教会とこの世にある教会がこの世の人々に神礼拝を通して、主の戒めに生きる日常生活のキリスト者たちの証しを通して告げ知らせているのです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編112編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

神の恵みの契約を通して、アブラハムから4000年、教会は神を畏れ、すなわち、神を礼拝し、神の戒めを守り続けてきました。

 

 

 

その間世界は変動し、この世の不条理の中で教会も神の民も苦難を受けてきました。

 

 

 

しかし、主なる神は常に神の民との契約を覚えていてくださり、神の民を苦難の中から救われ、神を礼拝し、神の戒めをまもり、神の契約の中に生きる神の民を創造してくださいました。

 

 

 

今朝は、幸いな人が、神の恵みの契約に生きる神の民であることを教えていただき感謝します。

 

 

 

神の民アブラハムからわたしたちの教会まで4000年間、主なる神は恵みの契約によりこの世に神の民、教会を造り、成長させてくださり、感謝します。

 

 

 

わたしたちは、小さな群れでありますが、恐れることなく、神礼拝を続け、神の戒めを守り、親から子へと神との関係に生きる者として祝福してください。

 

 

 

またアブラハムの恵みの契約に従い、日本の国民がキリストの御救いに与れるようにお導きください。

 

 

 

どうか、聖霊に寄り頼み、これからもこの世で命が続く限り、この教会で神を礼拝し、神の御言葉を聴き続けさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

詩編説教113               主の2020426

 

ハレルヤ。 ハレルヤ(ヤハを賛美せよ)

 

主の僕らよ、主を賛美せよ  賛美せよ、主の僕らよ。

 

主の御名を賛美せよ。 賛美せよ、主の御名を。

 

今よりとこしえに 主の御名が祝福されるように

 

主の御名がたたえられるように。 今から永遠まで

 

日の昇るところから日の沈みところまで 太陽の昇り口から沈み口まで

 

主の御名が賛美されるように。 ほめたたえられる、主の御名は。

 

 

 

主はすべての国を超えて高くいまし 高い、すべての国々の上に、主は。

 

主の栄光は天を超えて輝く。天の上に彼の栄光は。     

 

わたしたちの神、主に並ぶ者があろうか。 だれが比べられよう、わたしたち

 

主は御座を高く置き の神、主に。座するところを高くし、

 

なお、低く下って天と地を御覧になる。 低く下って見る方、天においても、

 

弱い者を塵の中から起こし 地においても。乏しい者を塵の中から起こし、

 

乏しい者を芥の中から高く上げ 屑の中から彼は、貧者を高く上げる。

 

自由な人々の列に 貴人たちと共に、

 

民の自由な人々の列に返してくださる。 民の貴人たちと共に座らせるために。

 

子のない女を家に返し 不妊の女を家に住まわせる方、

 

子を持つ母の喜びを与えて下さる。 息子たちを喜ぶ母として。

 

ハレルヤ。  ハレルヤ(ヤハを賛美せよ)

 

                   詩編第11319

 

 

 

説教題:「わたしたちの神、主に並ぶ者はない」

 

今朝は、詩編11319節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

今朝から学びます詩編113編から詩編118編は、「過越のハレル」と呼ばれています。

 

 

 

「ハレル」とは「ほめたたえよ」という意味です。

 

 

 

1節の「ハレルヤ」は、「主をほめたたえよ」という意味です。この詩編は、主を賛美する歌です。

 

 

 

マルコによる福音書は、1426節で過越の祭の日に主イエスと12弟子たちが最後の食事をし、その食事が終わりますと、「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。」と記しています。

 

 

 

詩編113編がハレルヤで始まり、詩編114編で出エジプトの出来事が賛美されています。それゆえに出エジプトの出来事を記念した過越の祭でハレル詩編が歌われました。

 

 

 

出エジプトの出来事は、今から3500年昔に主なる神が旧約時代の神の民イスラエルを、エジプトの奴隷生活から解放し、救われた出来事です。主なる神は、彼らを救われて、シナイ山に導かれ、そこで彼らと契約を結ばれました。すなわち、主なる神は彼らの神となり、彼らは主なる神の民となるという約束です。主なる神は彼らにその約束を守らせるために十戒をお与えになりました。

 

 

 

そして主なる神は、彼らが子々孫々出エジプトの出来事を記念するように、過越の祭を毎年祝うように定められました。

 

 

 

毎年3月から4月に過越の祭を祝いました。そしてその時に過越の食事をしました。その食事の前後に歌われたのが詩編113編から118編でした。

 

 

 

ユダヤ教の言い伝えによると、食事の前に詩編113編と114編が歌われ、食事の後に詩編115118編が歌われました。マルコによる福音書1426節とマタイによる福音書2630節は、主イエスと弟子たちが詩編115118編を歌いながらオリーブ山に出かけたと推測されています。

 

 

 

キリスト教会では、「過越のハレル」の詩編113編、114編、そして118編を、イースター(復活祭)の夕の礼拝で賛美するのが伝統となっていました。

 

 

 

旧約聖書の神の民イスラエルの信仰は、主なる神のみが唯一の神です。この神の他に神はなく、この神と比較できる者はこの全世界にはいません。

 

 

 

だから、詩人は13節でこの主なる神の御名をほめたたえよと、主なる神のみを礼拝するように招いているのです。

 

 

 

ハレルヤ 主の僕らよ、主を賛美せよ主の御名を賛美せよ。今よりとこしえに 主の御名がたたえられるように。日の昇るところから日の沈むところまで 主の御名が賛美されるように。(13)

 

 

 

詩人は、「主の僕らよ」と呼びかけて、彼らをエルサレム神殿の礼拝に招き、そこで主なる神の御名をほめたたえるように命令しています。

 

 

 

主の僕ら」は、主なる神の所有とされた者という意味です。だから、「」は奴隷です。しかし、旧約聖書の中で「」は奴隷を意味するだけでありません。仕えるという意味もあります。エルサレム神殿で礼拝する神の民イスラエルの会衆たちは、主なる神が選び礼拝に召された者たちです。彼らは、主なる神の御名を賛美するという奉仕に仕えるために、主が礼拝に召されたのです。

 

 

 

詩人は、今より永遠に、そして全世界で主の御名が賛美されるようにと賛美しています(23)

 

 

 

主の御名」とは、単に主のお名前という意味ではありません。礼拝に集う会衆に対する主の臨在を意味します。主なる神は、霊であられます。だから、人の目には見えません。また主なる神は天にいまし、人は地にいます。主なる神はいと高き者、超越者です。通常は今ここにおられませんが、主なる神は、礼拝する者たちのために、今ここに臨在してくださいます。これが主の御名であります。

 

 

 

主なる神は、今から永遠に、そして全世界で主なる神を礼拝する神の民に対して臨在してくださるのです。だから、今朝の教会の礼拝が主なる神の臨在によって成り立っているのです。

 

 

 

次に46節で詩人は、わたしたちの神、主の比類なさについて賛美しています。4節では、詩人が主なる神の超越性を賛美します。「主はすべての国を超えて高くいまし 主の栄光は天を超えて輝く(4)と。

 

 

 

5節で詩人は、こう賛美します。「わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。

 

 

 

詩人にとって、わたしたちの神、主は唯一のお方です。この世界に主なる神と並び得るものはいません。主なる神は比類なきお方です。

 

 

 

十戒の第1戒は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない(出エジプト記20:2)です。

 

 

 

出エジプトの出来事を体験した神の民イスラエルにとって、主なる神は比類なきお方です。主なる神と比較できる者は誰もいません。

 

 

 

なぜなら、このお方だけが民の指導者モーセを通して神の民イスラエルに御自身を主なる神として顕され、彼らを数々の奇跡を通して奴隷の地エジプトから贖い出してくださったからです。

 

 

 

天にいます超越者なる主がどのようにして彼らを救われたのでしょうか。

 

 

 

詩人は5節後半から6節でこう賛美します。「主は御座を高く置き なお、低く下って天と地を御覧になる」と。

 

 

 

この世界を超えて高くにいます主なる神が自らを低くして、この世界に来られて、彼らを奴隷の地エジプトから救い出されたのです。

 

 

 

主なる神は天の天にいまし、御自身を低くされて天を御覧になり、更に身を低くして地を御覧になりました。

 

 

 

詩人は、主なる神が御自身を低くされて、神の民を救われたと賛美しているのです。これは、神の愛の証しです。

 

 

 

主なる神が身を低くされることで、出エジプトの出来事がこの世で起こりました。エジプトで奴隷であった神の民イスラエルが解放されたのです。

 

 

 

エジプトで貧しい者であった神の民イスラエルは、塵の中から、芥の中から救い出されました。

 

 

 

」は灰のことです。「」は泥のことです。ヨブ記28節はこう記しています。「ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった。」と。

 

 

 

古代社会では共同体から締め出された者たちは、町の外で塵塚に座らされました。「弱い者」「乏しい者」とは、疫病や貧しさのために村八分にされた者たちです。

 

 

 

主なる神は、御自身の身を低くされ、弱い者と貧しい者を救い上げて、「自由な人々の列に 民の自由な人々の列に返してくださる(8)のです。

 

 

 

「自由な人々」とは、高貴な人々のことです。「列に返してくださる」とは、住まわせてくださるという意味です。

 

 

 

9節で詩人は、「子のない女を家に返し 子を持つ母の喜びを与えてくださる」と賛美しています。

 

 

 

創世記のアブラハムの妻サラは、不妊の女性でした。古代オリエント社会では不妊の女性は夫から離婚を言い渡され、家から追い出されました。有名なハムラビ法典には「子を産まぬ妻と離縁できる」と定められていました。

 

 

 

主なる神の愛と慈しみによって、御自身の身を低くされ、不妊の女性にサラのように子を授けて、母の喜びを与えて、彼女が家に住むことができるようにしてくださるのです。

 

 

 

今朝の御言葉は、クリスマスのメッセージです。クリスマスは、高きにいます神の独り子主イエス・キリストが御自身の身を低くして、人間の身体を取られて、この世に来られ、罪によって滅ぶべきわたしたちを救うために、御自身がわたしたちの罪を背負われ、十字架に死なれました。

 

 

 

また、わたしたちを罪と滅びから引き上げるために、主イエスは十字架の死に至るまで父なる神に従順でした。そしてわたしたちに代わって神の義を獲得してくださいました。主イエスの十字架と復活の御業によって、わたしたちは神の御怒りによって滅ぶべき罪人から、神の御国の相続人である神の子に引き上げられました。

 

 

 

その喜びの中にあるわたしたちは、この詩編113編の詩人が招くこの教会の礼拝に集い、主の御名を賛美するのです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編113編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

主なる神は、霊であられ、この世界を超越したお方です。しかし、わたしたちの神、主として、昔神の民イスラエルを、奴隷の地エジプトから救うために身を低くされ、今、わたしたちを救うために、神の独り子主イエスが人となり、わたしたちに代わって十字架に死んでくださいました。

 

 

 

今朝は、わたしたちの神、主は並ぶものなきものであり、同時にその方が身を低くされ、価値無き者たちを救われ、御国の民に引き上げてくださった主なる神の愛と慈しみを学ぶことができて感謝します。

 

 

 

わたしたちも、神の独り子主イエス・キリストが身を低くされ、十字架の死に至るまで父なる神に従順に従われ、わたしたちの罪を担われ、わたしたちのために神の御前に義を得てくださり、滅ぶべきわたしたちが神の子とされ、御国の相続人されたことを感謝します。

 

 

 

どうか、主イエスの御救いに感謝し、主の日の礼拝ごとに主の御名を賛美させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教114               主の2020524

 

イスラエルはエジプトを イスラエルがエジプトから出たとき

 

ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り ヤコブの家が異なる言葉を語る民

 

ユダは神の聖なるもの から。ユダは彼の聖なるもの(となり)

 

イスラエルは神が治められるものとなった。 イスラエルは彼が治められる

 

                     領域となる。

 

海は見て、逃げ去った。 海は見た。そして逃げ去った。

 

海は見て、逃げ去った。 ヨルダン川は、後ろに向きを変えた。

 

山々は雄羊のように 山々は踊った、羊のように。

 

丘は群れの羊のように踊った。 丘は仔羊たちのように。

 

どうしたのか、海よ、逃げ去るとは。なぜ、海よ、お前は逃げるのか。     

 

ヨルダンの流れよ、退くとは ヨルダン川よ、お前は後ろに向きを変えるのか。

 

山々よ、雄羊のように 山々よ、お前たちは雄羊のように

 

丘よ、群れの羊のように踊るとは。 丘よ、仔羊たちのように踊るのか。

 

 

 

地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に 主の御前におののけ、地よ。

 

ヤコブの神の御前に ヤコブの神の御前に

 

岩を水のみなぎるところとし に岩を水の湧き出る所とし、

 

硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。 に硬い岩を水の泉に変える者。

 

                   詩編第11418

 

 

 

説教題:「神の御前に畏れ、ひれ伏せ」

 

今朝は、詩編11418節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

先月お話ししましたように詩編113編から詩編118編は、「過越のハレル」と呼ばれています。「ハレル」とは「ほめたたえよ」という意味です。

 

 

 

この詩編には「ハレルヤ」がありません。ですから、昔の初代教会の聖書であった70人訳聖書(旧約聖書)では、次の詩編115編と一緒にされていました。

 

 

 

ユダヤ人たちは、この詩編を歌った後に過越の食事をしました。ユダヤ人たちは、過越祭で詩編113編のハレルヤから歌い始め、この詩編114編を歌った後に、過越の食事をしました。そして食事が終わると詩編115編―118編が歌われました。その場面がマルコによる福音書の1426節です。主イエスと弟子たちが「賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」のです。

 

 

 

詩編113編の「ハレルヤ」で始まり、詩編114編で出エジプトからヨルダン川を徒歩で渡る奇跡の出来事を賛美しています。それゆえに詩編114編は、出エジプトの出来事を記念した過越祭で歌われるのです。

 

 

 

さて、先ほどお話ししましたようにこの詩編には「ハレルヤ」という神賛美の言葉がありません。他にも特色があります。短い詩の中に神の民の出エジプトと約束のカナンへの定住を一気に主なる神の奇跡の出来事として賛美しています。そしてこの詩編の最後があまりにも唐突に終わっています。

 

 

 

この詩編の主題は、はっきりしています。主なる神が神の民イスラエルをエジプトから導き出されて、ヨルダン川を渡り約束の地カナンに定住させられた数々の奇跡を賛美しています。

 

 

 

また、2節ずつ区切られていて、4つの内容がはっきりしています。

 

 

 

詩人は12節で、「イスラエルはエジプトを ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り ユダは神の聖なるもの イスラエルは神が治められるものとなった。」と賛美します。これは、出エジプトの出来事と神の民、イスラエルの12部族、すなわち、後に南ユダ王国と北イスラエル王国に分かれる神の民の誕生をテーマにして歌っています。

 

 

 

詩人は34節で、「海は見て、逃げ去った。海は見て、逃げ去った。山々は雄羊のように 丘は群れの羊のように踊った。」と賛美します。これは、神の民が出エジプトするとき、紅海を渡した奇跡、そしてシナイ山で主なる神と出会ったこと、そしてその後ヨルダン川を渡って約束の地カナンを占領した喜びをテーマとして賛美しています。

 

 

 

詩人は、56節で、「どうしたのか、海よ、逃げ去るとは。ヨルダンの流れよ、退くとは 山々よ、雄羊のように 丘よ、群れの羊のように踊るとは。」と賛美します。詩人は勝ち誇ったように、海とヨルダン川と山と丘に問いかけています。

 

 

 

」は紅海のことです。「逃げ去る」とは紅海の奇跡のことです。海が強い東風によって真二つに分けられ、神の民たちは海の底を歩いて渡りました(出エジプト記14)

 

 

 

それを詩人は神話的な表現で賛美しているのです。神が天地を創造された時、海は神に敵対するものでありました。しかし、神は海を御自身の支配下に置かれました。主イエスがガリラヤ湖の嵐を静められたとき、その嵐を、弟子たちは非常に恐れました。海は人の手で支配できないからです。今日も同じです。台風を予測することは出来ますが、人の手でなくし、被害を無にすることはできません。

 

 

 

神の民イスラエルは、出エジプトの時、紅海を見て絶望しました。後ろから追いかけて来るエジプトの王と軍隊に、行き場を失った彼らが滅ぼされると思ったからです。しかし、主なる神は神の民イスラエルが紅海を渡るという奇跡の御業をなさったのです。

 

 

 

56節の詩人の問いかけは、神の民イスラエルが立ちはだかる大自然を前にし無力となるとき、その大自然を完全に支配されるのがイスラエルの神、主であると歌っているのです。

 

 

 

それゆえ詩人は78節で、「地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に ヤコブの神の御前に 岩を水のみなぎるところとし 硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。」と賛美します。これは、詩人が56節で海やヨルダン川、山や丘に問うたことに対する答えです。

 

 

 

主なる神の主権的な支配がテーマとして歌われております。主なる神は、神の民イスラエルをエジプトの国から救い出し、約束の地であるカナンに定住させるために、人には不可能なこと、すなわち主なる神は大自然を完全に支配し、御自身の救済の御業を完全に遂行されたのです。

 

 

 

もう一度最初に戻り、12節を御覧ください。「イスラエルはエジプトを ヤコブの家は異なる言葉の民のもとを去り ユダは神の聖なるもの イスラエルは神が治められるものとなった。

 

 

 

これは、主なる神が神の民イスラエルを、主なる神と神の民イスラエルの先祖アブラハムとの契約に基づいて(創世記15:1316,出エジプト記2:24)、異教の地エジプト人の地から救い出し、約束の地カナンに定住させ、ユダとイスラエルを誕生させられたということです。

 

 

 

詩人は、王国時代の人でしょう。南ユダ王国と北イスラエル王国が存在していたでしょう。どうしてこの二つの王国が存在するのかを、主なる神の出エジプトの出来事、シナイ山での主なる神の顕現、そしてヨルダン川を渡り、約束の地カナンを占領したという主なる神の歴史的救済の中にその根拠を見出したのです。

 

 

 

4節の「山々は雄羊のように 丘は群れの羊のように踊った。」と6節の「山々よ、雄羊のように 丘よ、群れの羊のように踊るとは。」は、シナイ山における主なる神の顕現によってシナイ山に地震が起こったという出来事を、ユーモラスに表現しています。出エジプト記1918節です。「シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙ように立ち上り、山全体が激しく震えた。

 

 

 

古代の人々は、現代人以上に自然の脅威を恐れました。海や山に比べると、人間は小さな存在でした。現代でも台風、地震、津波等の自然災害に人は無力です。コロナウイルスに、今のわたしたちは手の施しようがありません。

 

 

 

しかし、詩人がこの詩編で歌っている事は、主なる神は大自然を完全に支配するお方です。そして、主なる神は、出エジプト記において神の民イスラエルを救うために、十の災害と紅海の奇跡、シナイ山での顕現でシナイ山全体を地震で震わすことで、そしてヨルダン川を徒歩で渡る奇跡を通して、御自身の御力を用いられたということです。

 

 

 

詩人は、78節で、「地よ、身もだえせよ、主なる方の御前に ヤコブの神の御前に 岩を水のみなぎるところとし 硬い岩を水の溢れる泉とする方の御前に。」と賛美し、シナイの荒れ野で神の民イスラエルに岩から水を豊かに与えられた奇跡を賛美しています。

 

 

 

詩人にとって主なる神は、創造主であり、摂理の神であり、救い主です。だから、御自身の主権によって御自身が創造された自然を支配し、その御力によって神の民イスラエルをお救いくださるお方です。

 

 

 

神の民イスラエルには、主なる神の他に礼拝すべき神はいません。彼らを、エジプトからカナンの地へと導かれた主なる神のみが彼らが畏れ、ふれ伏すべき神です。

 

 

 

そして、主イエスは、過越祭の夜に弟子たちと共に、この詩編を歌われた後、一緒に最後の食事をされました。そしてその食事が終わりますと、詩編115118編を歌いながら、オリーブ山に弟子たちと共に行かれました。

 

 

 

この詩編は、わたしたちに主イエス・キリストを豊かに指示していると、わたしは思うのです。

 

 

 

主イエスも十字架と復活という奇跡を通して、わたしたちを罪と死の奴隷状態から救い出され、神の民であるキリスト者と教会をこの世に聖霊を通して誕生させてくださいました。

 

 

 

そして主なる神が出エジプトした神の民をシナイ山に導き、そこで主なる神は神の民イスラエルに現れ、モーセを通して神の民に十戒を授け、神の律法を教えられ、ヨルダン川を渡らせ、約束の地カナンへと定住させられました。

 

 

 

同様に主イエス・キリストも、十字架と復活によって御自身の民を教会へと召し出し、聖霊を通して聖書を与え、教え、死を渡らせて、御国へと導かれています。

 

 

 

主イエスは、わたしたちを救い、御国へと導くために、御自身の主権的な御力を、自然を完全に支配する力をお用いになります。

 

 

 

今コロナウイルスの脅威の前にわたしたちは無力です。しかし、主イエスは、ガリラヤ湖の嵐を静められ、多くの病人たちを癒され、死人を甦らされました。

 

 

 

ですから、このお方だけが、わたしたちを罪と死から解放し、わたしたちを御自身のものとしてくださり、わたしたちが畏れふれ伏すべきお方として、今朝もこの教会の礼拝でわたしたちと共に居てくださるのです。

 

 

 

そして主イエスは、今わたしたちにこう約束してくださるのです。「また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。『書き記せ。「今から後、主に結ばれて死ぬ死人は幸いである。」と。』“霊”も言う。『然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報いられるからである』(ヨハネの黙示録14:13)

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編114編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

短い詩編の御言葉の中に、主なる神の偉大さと、御救いの力強さを覚えて、感謝します。

 

 

 

今、世界はコロナウイルスの脅威に人々は怯えています。わたしたちも不安を隠すことができません。

 

 

 

自然は、人の手で征服することはできません。むしろ、最近のわたしたちは、地震、台風、集中豪雨、そしてコロナウイルスの脅威と毎年苦しめられています。

 

 

 

しかし、今朝の詩編の御言葉を通して、わたしたちの神、主は、創造者であり、摂理の神であり、御自身の主権によって自然を完全に支配され、その御力でわたしたちを死から救うことがおできになるお方です。

 

 

 

昔神の民イスラエルを、奴隷の地エジプトから救い、約束の地カナンへと導かれた主なる神よ、どうかわたしたちを罪と死から救い、永遠の御国へとお導きください。

 

わたしたちには、主なる神と並ぶものはありません。この教会の礼拝を通して主なる神のみを畏れ、ひれ伏させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

詩編説教115               主の2020年6月28

 

わたしたちではなく、主よ わたしたちではなく、主よ。

 

わたしたちではなく わたしたちではなく

 

あなたの御名こそ、栄え輝きますように まことに、あなたの御名に与えよ、

 

あなたの慈しみとまことによって。 栄光を。あなたの慈しみの上に、

 

                   あなたのまことの上に。

 

なぜ国々は言うのか なぜ、言うのか、外国の民は。

 

「彼らの神はどこにいる」と。 「彼らの神はどこにいる」と。

 

わたしたちの神は天にいまし しかし、わたしたちの神は天に

 

御旨のままにすべてを行われる。 彼が喜ぶところのことをすべて、彼は行われる。     

 

国々の偶像は金銀にすぎず 彼らの偶像は金と銀、

 

人々の手が造ったもの。 人の両手の業。

 

口があっても話せず 口が彼らに、しかし、彼らは話せない。

 

目があっても見えない。 両目が彼らに、しかし彼らは見えない。

 

耳があっても聞こえず 両耳が彼らに、しかし彼らは聞こえない。

 

鼻があってもかぐことができない。鼻が彼らに、しかし、彼らは嗅げない。

 

手があってもつかめず 彼らの両手が、しかし、彼らは触れない。

 

足があっても歩けず 彼らの両足が、しかし、彼らは歩けない。

 

喉があっても声を出せない。 彼らは声を出せない。彼らののどで。

 

偶像を造り、それに依り頼む者は  それらのようになる、それらを造る者は。

 

皆、偶像と同じようになる。 それらを信頼するところの者は皆。

 

 

 

イスラエルよ、主に寄り頼め。 イスラエルよ、主を信頼せよ。

 

主は助け、主は盾。 彼こそ主の助け、主の盾

 

アロンの家よ、主に寄り頼め。 アロンの家よ、主に信頼せよ。

 

主は助け、主は盾。 彼こそ主の助け、主の盾。

 

主を畏れる人よ、主に寄り頼め。 主を畏れる者たちよ、主を信頼せよ。

 

  主は助け、主は盾。  彼こそ主の助け、主の盾。

 

 

 

主よ、わたしたちを御心に留め  主よ、わたしたちを覚えて、

 

  祝福してください。  祝福するように

 

イスラエルの家を祝福し  祝福するようにイスラエルの家を。

 

アロンの家を祝福してください。祝福するように、アロンの家を。

 

主を畏れる人を祝福し  祝福するように、主を畏れる者を。

 

大きな人も小さな人も祝福してください。 祝福するように、大きなものと

 

主があなたたちの数を増してくださるように 小さなものを共に。増し加える

 

  あなたたちの数を、そして子らの数を。ように、主があなたがたの上に。

 

天地の造り主、主が  あなたがたの上に、あなたがたの息子たちの上に。

 

  あなたたちを祝福してくださるように。 祝福されるように、あなたがた

 

天は主のもの、地は人への賜物。  は、天地の創造者、主によって。天は主の天、彼は地を、人の息子たちに与えた。

 

 

 

主を賛美するのは死者ではない 死人たちは、主を賛美しない。

 

沈黙の国へ去った人々ではない。沈黙に下るものすべてではない。

 

わたしたちこそ、主をたたえよう しかし、わたしたちは主を賛美しよう。

 

今も、そしてとこしえに。   今から永遠まで。

 

ハレルヤ。  ハレルヤ。

 

                   詩編第115118

 

 

 

説教題:「天は主のもの、地は人への賜物」

 

今朝は、詩編115118節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

詩編は月一回の説教ですから、思い起こしていただくために、何度も同じ説明をしています。詩編113編から詩編118編は、「過越のハレル」と呼ばれていて、ユダヤ人たちは、これらの詩編を過越の時に神賛美しました。

 

 

 

ユダヤ人たちは、過越祭で詩編113編のハレルヤから歌い始め、詩編114編を歌った後に、過越の食事をしました。そして食事が終わると今朝の詩編115編から118編までを歌いました。その有名な場面がマルコによる福音書の1426節です。過越の食事を終えた主イエスと12弟子たちが「賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」と記しています。

 

 

 

詩編115編は、本来神殿での礼拝で賛美されていた詩編でしょう。神の民は、バビロン捕囚を経験していました。ペルシア帝国のクロス王によってエルサレムへの帰還が許され、彼らは帰国し、エルサレム神殿を再建し、エルサレムの城壁を修復し、神の民の共同体を再建しようとしていたでしょう。

 

 

 

紀元前586年にバビロニア帝国のネブカドネツァル王によって南ユダ王国は滅ぼされ、エルサレムの都と神殿は破壊され、神の民はバビロニア帝国に捕囚されました。

 

 

 

神の民にとってバビロン捕囚は屈状的な体験でした。2節の「なぜ国々は言うのか 『彼らの神はどこにいる』」と。 

 

 

 

 これは、バビロニア帝国で神の民たちが異国の民たちに苦しめられた体験の言葉です。2節の「国々」という言葉は、「外国の民」という意味です。具体的に誰であるかと、詩人は歌っていません。

 

 

 

 古代の戦争は神々の戦いでもありました。国が敗北することは、その国の神が敗北することです。バビロン捕囚の神の民たちは、悲惨な状況に置かれていました。それを見て外国の民たちが彼らを嘲って、「お前たちの神はどこにいる。どうしてお前たちを救ってくれないのだ」と言い続けたのでしょう。外国の民たちの目には、神の民が礼拝している主なる神が無能に見えたのです。

 

 

 

 それに対して神の民たちは、彼らに3節で「わたしたちの神は天にいまし 御旨のままにすべてを行われる。」と答えていたのです。

 

 

 

 「天」とは、主なる神の限りない高さを意味するそうです。宗教改革者ルターは、それを主なる神の独占的活動と言いました。今日の言葉であれば、神の超越性、全能性、主権性と言えるでしょう。

 

 

 

 神の民にとって、主なる神は外国の民たちが「お前の神はどこにいる」という問いをはるかに超えたお方なのです。人が目で見て、把握できるお方ではありません。彼らが日常に神として拝んでいる偶像ではありません。

 

 

 

 主なる神は、この世界や人間を越えた主権者として、この世界と人間を御支配されています。そしてこの世界は、主なる神の御心、すなわち、永遠の御計画がなされているのです。

 

 

 

 そして詩人は、外国の民たちが拝む神を、人の手で造られた偶像であると批判しているのです。

 

 

 

48節を御覧ください。「国々の偶像は金銀にすぎず 人々の手が造ったもの。口があっても話せず 目があっても見えない。耳があっても聞こえず 鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず 足があっても歩けず 

 

喉があっても声を出せない。偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる」

 

 

 

 逆に神の民たちは、彼らが拝み、信頼する神々の空しさ、無力さを嘲っているのです。彼らの偶像は、主なる神のように生きる神ではありません。天地万物の創造者ではありません。むしろ、金銀にすぎません。人の手で造られたものです。だから、人格はなく、物に過ぎず、生きて働くことはありません。人間と同じ姿に作られていますが、見ることも話すことも、手でつかみ、足で歩くこともできません。喉があっても声を出すことはできません。

 

 

 

 偶像は、身近な神でありますが、神の民のように苦難に遭えば、人が助けなければなりません。人が持ち運ばなければなりません。だから、偶像を信頼する者は、神の民たちの苦難の中では無力で、役に立たないものとなるのです。

 

 

 

だから、詩人は、神の民たちに天にいまし、御心のままにこの世界を支配されている主なる神を信頼しなさいと命じているのです。

 

 

 

外国の民たちが神の民たちに「お前たちの神はどこにいる」と問うほどに、主なる神は今捕囚の地で、そして帰還したエルサレムの地で彼らから遠くにおられるのです。神の民たちが「天にいます」というほどに、主なる神は彼らから遠くにおられるのです。

 

 

 

主なる神は、外国の民たちが拝む偶像のように日常生活の中で身近に感じることの出来る存在ではありません。目で見て、触ることはできません。人の感覚としては、遠くに感じ、知ることもできず、まるで隠された神です。

 

 

 

しかし、神の民たちは主なる神がモーセを通して奴隷の地エジプトから彼らの先祖たちを解放し、シナイ山で神の民たちと契約を結ばれ、彼らの神となられたことを知っています。

 

 

 

主なる神が彼らの先祖たちを約束の地カナンに導かれ、バビロン捕囚まで次々とモーセのような預言者たちを遣わされ、彼らを導かれたことを知っております。偶像のように見えなくても、触れられなくても、身近に感じられなくても、主なる神は生きた神です。預言者と祭司を通して神の民たちに御言葉を語られ、礼拝を通して交わる人格的な神です。そして神の民の王を通して、神の民たちを御支配されるお方です。

 

 

 

ですから、詩人は、911節で次のように神を礼拝する神の民たちに次のように命じています。天にいます主なる神を信頼しなさいと。

 

 

 

「イスラエルよ、主に寄り頼め。主は助け、主は盾。アロンの家よ、主に寄り

 

頼め。主は助け、主は盾。主を畏れる人よ、主に寄り頼め。主は助け、主は盾。」

 

 

 

「イスラエル」は神の民の名称です。その起源は族長ヤコブの12人の息子た

 

ちです。イスラエルの12部族です。神の民たちに主なる神を信頼せよと命じて

 

います。出エジプトからエルサレムへの帰還まで主なる神が神の民を守られた

 

のです。

 

 

 

 「アロンの家」は、祭司階級の者たちのことです。エルサレム神殿で仕えて

 

いる者たちです。「主を畏れる人」とは、改宗した異邦人たちのことです。他民

 

族から主なる神を信じる者となった神の民たちです。

 

 

 

 詩人は、1216節で主なる神に神の民への祝福を願っています。

 

 

 

 「主よ、わたしたちを御心に留め 祝福してください。イスラエルの家を祝福し アロンの家を祝福してください。主を畏れる人を祝福し 大きな人も小さな人も祝福してください。主があなたたちの数を増してくださるように   あなたたちの数を、そして子らの数を。天地の造り主、主があなたたちを祝福してくださるように。天は主のもの、地は人への賜物。

 

 

 

 この祝福は、主なる神を信らする者にのみ主なる神が賜る祝福です。この主の祝福は、主なる神の恵みの賜物です。

 

 

 

 主なる神は、神の民の先祖アブラハムと契約を結ばれたお方です。主なる神は、アブラハムに「わたしはあなたとあなたの子孫たちの神となる。そしてあなたとあなたの子孫たちはわたしの民となる」と約束されました。

 

 

 

 主なる神は、このお約束を常に思い起こされます。12節の「主よ、わたしたちを御心に留め」とは、主なる神がアブラハムとの契約を思い起こしてくださることです。主なる神は、アブラハムとの契約を思い起こされて、エジプトで奴隷生活していた神の民を救われました。そして、バビロン捕囚の神の民たちを救われました。

 

 

 

 そして、今詩人は、主なる神に神の民たちの再建を祝福してくださいと願っているのです。信仰共同体である神の民たちの再建を願っているのです。

 

 

 

 エルサレムに帰還した神の民たちは、少なかったのです。エルサレムに帰還しなかった離散のユダヤ人たちの方が多かったでしょう。しかし、彼らは、主なる神が彼らの先祖アブラハムに約束してくださった祝福を知っているのです。

 

 

 

 創世記の15章で主なる神はアブラハムに夜空の星を数えよと命じられ、あなたの子孫をこの星の如く増やすと約束されました(創世記15:5)。詩人は信仰によって主なる神がアブラハムとの約束を守られ、彼らと彼らの子孫を増やしてくださることを信じて、増やし祝福してくださいと願っているのです。

 

 

 

 祝福を願うことの出来る根拠は、主なる神が天地の創造者であるからです。

 

 

 

 16節の「天は主のもの、地は人への賜物」は、17節の「主を賛美するのは使者ではない 沈黙の国へ去った人々ではない。」という御言葉と共に考えると、詩人の世界像が分かります。

 

 

 

 詩人は、天と地と沈黙の国(死者の国である陰府)の三層の世界に分けています。天は主なる神がいます。地は主なる神が人に賜った地です。そして死者の国である陰府です。天は主なる神の領域であり、地は天地万物の創造者である主が人に委託された賜物です。この地は主なる神と人が関係する領域です。そして死んだ者たちが行く陰府です。ここは神の光が射しません。神と人が関係することのない領域です。

 

 

 

 詩人にとって主なる神を礼拝し、賛美できるのは、天地創造者なる神が人にプレゼントしてくださったこの地においてだけなのです。神は、この地で人と豊かに交わられるのです。それが聖書の世界です。

 

 

 

 神は天にいまし、人は地におり、神と人は絶対的隔たりの中にあります。しかし、今この地において人は主なる神との交わりを許されています。主なる神を礼拝賛美できます。しかし、人は死ぬと沈黙の国、陰府に行くのです。そこは神と人の交わりはありません。すなわち、死後においては、神と人の関係は変えられないのです。

 

 

 

詩人の世界像は、わたしたち現代人には神話であります。しかし、詩人が考えている事は、わたしたち以上に今この地に生きていることの素晴らしさを知っていることです。今ここでわたしたちが主イエスを、父なる神と、聖霊なる神、三位一体の神を礼拝賛美している事の素晴らしさをよく知っているということです。

 

 

 

わたしたちが聖書の神を知ることは、今だけです。主イエスを救い主として家族に知らせ、この町の人々に知らせるのも今だけです。死んだ人にはもう神を知る機会も、知らせる機会も、こうして一緒に礼拝する機会もありません。

 

 

 

だから、詩人は、1節で「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく あなたの御名こそ、栄え輝きますように あなたの慈しみとまことによって」と賛美し、18節で「わたしたちこそ、主をたたえよう。今も、そしてとこしえに。」と賛美しているのです。

 

 

 

今ここでなす公同礼拝で、詩人は主なる神を礼拝し、賛美しようと呼びかけています。主なる神を、主イエスを、父なる神を、聖霊なる神を、礼拝し賛美するのは、今この地に生きているわたしたちだけです。

 

 

 

詩人には約束のメシアは遠い存在です。わたしたちのように神の御国が明らかではありません。しかし、詩人はこの地を去った人々がわたしたちと共に主なる神を礼拝し賛美することないと言いますが、今一緒に礼拝賛美している者たちは、永遠に主なる神をたたえると歌っています。

 

 

 

公同礼拝において詩人は、主なる神と永遠に生きる喜びに満たされているのです。

 

 

 

ウェストミンスター小教理問答の問一と答を思い起こします。「人のおもな目的はなんであるか。」答「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。」

 

 

 

これは、わたしたちが御国に行くと実現するのではなく、今朝の詩編115編の詩人に言わせると、今ここでわたしたちが日曜日ごとに公同の礼拝を行っている時に、わたしたちはすでにウ小教理の問一と答を実現しているのであり、それは永遠に続くのであるということです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編115編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

わたしたちも異教の地、日本において少数のキリスト者として生きています。幸いに今は迫害がなく感謝します。しかし、常に「お前の神はどこにいる」と問いかけられる日々を生きています。

 

 

 

人の作った偶像が身近にある中で、わたしたちの神は天にいまし、御子イエス・キリストは御国にいまし、この世界を御心のままに支配されていると告白することができるように、お導きください。

 

 

 

この詩人のように今ここで主なる神を礼拝し、賛美できる喜びを心の留めさせてください。

 

 

 

先月の詩編に続いて、今朝の詩編の御言葉を通して、わたしたちの神、主は、創造者であり、摂理の神であり、御自身の主権によってこの世を支配され、その御力でわたしたちを守り、導くお方であることを信じさせていただき感謝します。

 

 

 

昔神の民イスラエルを、奴隷の地エジプトから、バビロン捕囚から救われた主なる神よ、わたしたちを罪と死から、主イエスの十字架と復活によって救われ、今この礼拝を通して永遠の御国へとお導きください感謝します。

 

 

 

どうかわたしたちがこの世の偶像に屈することなく、大胆に家族知人にキリストの福音を伝えることができるようにお導きください。

 

 

 

この教会の礼拝を通して主なる神の栄光をあらわし、永遠に神を喜びことができるようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。