詩編説教131              主の2023924

都に上る歌。ダビデの詩。        ダビデの 上りの 歌     

主よ、わたしの心は驕っていません。 主よ、驕りません わたしの心は

わたしの目は高くを見ていません。 高ぶりません わたしの両目は

大きすぎることを  わたしは歩きません。大きな業の中を

わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。わたしには不思議すぎる業

                       の中を。

わたしは魂を沈黙させます。 わたしは、静め、沈黙させたのです、わたしの

わたしの魂を、幼子のように 魂を。母から乳離れした子のように、

母の胸にいる幼子のようにします。わたしから乳離れした子のように、わたし

                の魂は。

イスラエルよ、主を待ち望め。待ち望め、イスラエルよ、主を。

今も、そしてとこしえに。今から、そしてとこしえまで。

                     詩編第13113

 

説教題:「わが心を幼子のように」

 

今朝は、詩編第13113節の御言葉を学びましょう。

 

この詩編は、巡礼歌、「都に上る歌」を集めた詩編の中で12番目のものです。この詩編の類型は、信頼の歌です。個人の信頼の歌を、この巡礼歌集に入れるために、3節の御言葉を加えることで、イスラエルの神の民の信頼の歌に編集し、主なる神を待ち望む歌としたのです。

 

1節で「ダビデの」という言葉が表題に付け加えられています。この詩編がダビデ王の歌った、あるいは作った賛美という意味です。神の御前でへりくだる詩人の姿がダビデに相応しいと思われたのでしょう。

 

巡礼は神の民がエルサレム神殿まで詣でる行為です。彼らがエルサレム神殿に入場するとき、誰もがダビデ王のように身をヘリ下り、主なる神に幼子のように信頼するように、この詩編の詩人は歌っているのです。

 

わたしは、今朝の詩編からわたしたちの礼拝態度を学ぶことができると思います。詩人は、1節前半で「主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。」と歌っています。

 

「わたしの心は驕っていません」とは、わたしは傲慢ではありませんという意味です。「わたしの目は高くを見ていません」とは、わたしは他者を見下していませんという意味です。

 

詩人は、わたしたちに神の御前に出るわたしたちの礼拝態度を教えているのです。それは、心の傲慢な者ではなく、兄弟姉妹を見下す者ではありません。

 

旧約聖書を読んでいますと、心を高ぶり、驕ることは、傲慢という人の罪です。それは、神の御前で最初に罪を犯したアダムと妻エバに見ることができます。神はアダムにエデンの園の中央にある善悪を知る木の実を取って食べてはならないと禁じられました(創世記2:17)

 

ところが、エバは、蛇に誘惑され、善悪を知る木の実を目で見て、おいしそうに思い、彼女の目が引き付けられたので、取って食べました。そして、夫アダムにも与えました。このように人の罪は、心が驕り、彼らの目を通してなされました。

 

このようにわたしたちの心の傲慢さがわたしたちの目を通して高ぶりとなり、わたしたちは神の御前で罪を犯すのです。

 

主イエスは、言われました。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』とどうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイ7:15)

 

主イエスが言われるように、わたしたちは心高ぶり、隣人を見下して、非難する者です。しかし、主イエスはわたしたちの心の高ぶりを、わたしたちの目を通してわたしたちが他者を見下し、主の御前で兄弟を裁くという罪を犯し続けているのをご存じなのです。

 

心の驕り、目の高ぶりは、旧約聖書の中では預言者イザヤ以来、人間の罪の本質と見なされるようになりました。預言者イザヤは、こう述べています。「その日には、人間の高ぶる目は低くされ 傲慢な者は卑しめられ 主はただひとり、高く上げられる。」(イザヤ2:11)。「主はシオンの山とエルサレムに対する御業をすべて成就されるとき、アッシリアの王の驕った心の結ぶ実、高ぶる目の輝きを罰せられる。」(10:12)

 

わたしたちの心の驕り、目の高ぶりという罪は、主が最後の審判において裁きをなさる時に、その人の身を滅ぼすことになるというのが、旧約聖書における知恵文学の人生観だったのです。

 

心の驕り、目の高ぶりという人の罪に対して、主を畏れ、心をヘリ下り、主にのみ信頼することが人を幸いに導くのです。

 

さらに詩人は、1節の後半で「大きすぎることを わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。」と歌っていますね。

 

「大きすぎること」とは、主なる神が行為なさる御業のことです。「わたしの及ばぬ驚くべきこと」も、主なる神がなされる御業のことです。主なる神は、創造と救済の御業をなさいます。

 

詩篇136編の詩人は、4節で「ただひとり 驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ」と歌っています。詩人の能力を、すなわち、人の能力を越えた創造と救済の大きな驚くべき御業を、主なる神が行われます。

 

詩人は、主なる神がなさる大きな御業、驚くべき御業を追い求めませんと歌っています。詩人は、自分の能力を越える主なる神の大きな御業と驚くべき御業に関与しないと歌っているのです。

 

ヨブ記423節でヨブが神の御前でヘリ下り、自分の傲慢さを悔い改めています。彼は友人たちと論争します。ヨブは、彼らが神の真の知識を持ち合わせていないと攻撃しました。しかし、主なる神が彼の御前に現われました。すると、彼もまた神について知りえない者であったことが明らかになりました。その時彼ら、自分の心に驕りを持ち、自分の目で高ぶり、友人たちを見下げていることに気づきました。彼は、主なる神に対して真に畏れのない者であったと悔い改めました。ヨブは、この神人のように神の大きな御業に、驚くべき御業に対して何も追い求めることは出来なかったのです。

 

詩人は、2節で「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように 母の胸にいる幼子のようにします。」と歌っています。

 

わたしたちは、先週一週間、いろいろ辛いことが日常生活の中にあったかもしれません。あまりにも辛くて、「主よ、なぜですか。わたしだけがこのように苦しむのでしょうか」と言って、主に祈ったでしょう。

 

しかし、この主日礼拝に主に招かれて、わたしたちが主の御前でなすことは、まずわたしの心を静まらせることであり、主の御前に沈黙し、わたしたちの耳を神の御言葉に傾けることです。

 

詩篇377節で苦難の中にいた詩人がこう歌っています。「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。」詩編622節で詩人は、こう歌っています。「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある」。

 

神を礼拝するというわたしたちの行為は、わたしたちが大きな志を抱くことではありません。わたしたちが誰かに褒められたいというものでもありません。人の評価の基準になるものではありません。例えば、主婦の働きです。家事をすることは労苦が多いです。しかし、給与に還元できません。日々同じことを黙々とするのです。そのように主婦は、家庭においてごく平凡に生きているのです。

 

そのように礼拝者も、ただ黙々と毎週同じことを、主婦のように平凡に礼拝するのです。

 

この詩人は、女性ではないかと言いました。詩人は、礼拝における主なる神と自分との交わりを、母と乳飲み子の関係にたとえています。

 

古代のイスラエル社会では、幼子が乳離れする年齢は3歳でした。旧約聖書の創世記は、218節に族長アブラハムが子のイサクの乳離れした日に祝宴を開いたと記しています。乳離れしたイサクは、母サラから乳をもらうことはできません。母サラの作る料理を食べて、成長します。乳飲み子と同様に母サラの作る料理を食べて成長するのです。

 

イサクが乳離れしても、母サラに依存して生きるように、詩人は主なる神に自分は幼子のように信頼すると、信仰告白しています。

 

わたしたちも、この詩人のように幼子のように主イエスを信頼し、心驕ることなく、目を高ぶらせ、隣人を見下げることなく、ただ静まり、沈黙し、神の御言葉に耳を傾けようではありませんか。そして、わたしたちに語りかけられる主なる神がわたしたちを訪れてくださることを待ち望もうではありませんか。

 

わたしたちのこの主日礼拝が、詩人が3節でこう歌っているように、わたしたちの身に起こるように祈ろうではありませんか。「イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに」。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編131編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

主なる神よ、わたしたちの心の驕りを、わたしたちの目の高ぶりを、わたしたちの罪を赦してください。

 

主イエスだけが、この教会を、わたしたちを裁くお方です。しかし、わたしたちは、心高ぶり、わたしたちが目で見たことを通して、兄弟姉妹を、隣人を非難し、裁いています。どうかわたしたちの傲慢の罪を赦してください。

 

どうか、わたしたちの口を閉ざして沈黙させ、神の御言葉にわたしたちの耳を傾けさせてください。

 

神の御国に至る日まで、この教会の主日礼拝を守らせてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教132              主の20231022

都に上る歌。         上りの 歌     

主よ、御心に留めてください。 思い起こしてください、主よ。

ダビデがいかに謙虚にふるまったかを。 ダビデのことを、彼の労苦のすべ

彼は主に誓い てを。彼は主に誓って

ヤコブの勇者である神に願をかけました。ヤコブの強き者に誓願を立てた。

「わたしは決してわたしの家に、天幕に入らず わたしは決してわたしの家の

わたしの寝室に、寝床に上らず 天幕に入らず、わたしの寝台の床にも上ら

わたしの目に眠りを与えず ない。わたしの両目に眠りを与えず、

まぶたにまどろむことを許すまい わたしの瞼にまどろみさえも。

主のために一つの場所を見いだし 主のために場所を、

ヤコブの勇者である神のために ヤコブの強き者のために住まいを見つけるま

 神のいますところを定めるまで で。

 

見よ、わたしたちは聞いた 見よ、わたしたちはそれを聞いた、エフラタで。

 それがエフラタにとどまっていると。

ヤアルの野でわたしたちはそれを見いだした。わたしたちはそれを見つけた、

わたしたちは主のいますところに行き ヤアルの野で。わたしたちは行こう。

御足を置かれる所に向かって伏し拝もう。彼の住まいに。わたしたちはひれ伏そう、彼の御足の踏み台に。

主よ、立ち上がり 立ち上がり給え、主よ、

あなたの憩いの地にお進みください あなたの憩いの場所へと。

あなた自身も、そして御力を示す神の箱も。あなたが、あなたの御力の箱も。

あなたに仕える祭司らは正義を衣としてまとい あなたの祭司たちは義をまと

あなたの慈しみに生きる人々は い、あなたの聖徒たちは、

 喜びの叫びをあげるでしょう。 喜び歌うでしょう。

 

ダビデはあなたの僕 あなたの僕、ダビデのため

あなたが油注がれたこの人を  あなたの油注がれた者の顔を

 決してお見捨てになりませんように。 背けさせないでください。

主はダビデに誓われました。 主はダビデに誓われました。

それはまこと 思い返されることのないまことをもって、

思い返されることはありません。

「あなたのもうけた子らの中から わたしはあなたの胎の実を

  王座を継ぐ者を定める。 あなたの座に就かせると。

あなたの子らがわたしの契約と あなたの息子たちがわたしの契約と

  わたしが教える定めを守るなら わたしが教える定めを守るなら、

彼らの子らも、永遠に 彼らの息子たちもまた、とこしえに

  あなたの王座につく者となる。」あなたの王座に座すであろう。

 

主はシオンを選び 実に主はシオンを選び、

そこに住むことを定められました。 望んで、そこを住まいとされた。

「これは永遠にわたしの憩いの地 これは、永遠までわたしの憩いの地、

ここに住むことをわたしは定める。 ここにわたしは住もう、わたしは

シオンの食糧を豊かに祝福し それを望むから。わたしは、その食糧を

乏しい者に飽きるほどのパンを与えよう。 大いに祝福し、貧しい者たちを

祭司らには、救いを衣としてまとわせる。パンで満腹させよう。わたしは

わたしの慈しみに生きる人は 祭司たちに救いをまとわせる。聖徒たちは、

  喜びの叫びを高くあげるであろう。 大いに喜ぶだろう。

ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる。そこにわたしはダビデの角を

わたしが油を注いだ者のために一つの灯を備える。生えさせる。わたしの油

彼の敵には、恥を衣としてまとわせる。 注いだ者のために、灯火を整える。

王冠はダビデの上に花開くであろう。彼の敵たちに、わたしは恥をまとわせる。

                 しかし、彼の上には王冠が輝くだろう。

                     詩編第132118

 

説教題:「シオンこそ憩いの地」

 

今朝は、詩編第132118節の御言葉を学びましょう。

 

この詩編は、巡礼歌、「都に上る歌」を集めた詩編の中で13番目のものです。この詩編の類型は、王の詩編です。「都に上る歌」(詩編120134)の中では132編が一番長い詩です。

 

フランシスコ会聖書研究所は、この詩編132編に「ダビデの誓いとヤーウェの誓い」というタイトルを付しています。そこから分かりますように、この詩編は、二つの内容に分かれて、互いに補い合っているのです。110節の前半と1118節の後半です。

 

前半では、主にダビデの主なる神への誓約が中心のテーマです。後半は、ダビデの誓約に答えられた主なる神の誓約が中心のテーマです。

 

ダビデは、契約の箱を安置する主なる神の神殿を建てると誓いました。そして、彼は契約の箱をダビデ王国の首都エルサレムに運び入れました。それに対して主なる神は、ダビデのためにシオンを選び、彼と彼の子孫をとこしえにシオンで君臨させると誓われました。その上で主なる神は、シオンを繫栄させ、大いに祝福することを保証されました。

 

これがこの詩編の内容の要約です。

 

もう少し丁寧にこの詩編を学びましょう。前半は、15節と610節に分けることができます。ダビデの誓約とダビデが契約の箱をシオン、すなわち、エルサレムに運んだことを歌っています。

 

詩人は、1節で主なる神に「思い起こしてください、主よ。」と呼びかけています。それは、わたしたちの聖書では「ダビデがいかに謙虚にふるまったか」と記されていますが、文字通りには「彼の労苦のすべて」です。それが35節のダビデの主なる神への誓約です。

 

旧約聖書は歴代誌上29章でダビデが息子ソロモンのためにエルサレム神殿の建築に心血を注ぎ備えたことを記しています。詩人は、そのダビデの労苦を思い起こしてくださいと呼びかけ、ダビデの誓約を記しているのです。

 

ダビデが誓約した主は、2節で「ヤコブの勇者である神」とあります。旧約聖書の創世記4924節に「ヤコブの勇者の御手」とあり、主なる神の別の呼び名です。イスラエルの族長たちに遡る主なる神の御名に、ダビデは誓約したのです。主なる神のために、神殿を建てる場所を見つけるまで、眠らないと。

 

詩人は、25節のダビデの誓約を引用し、610節でダビデが神の箱をエルサレムの都に運び入れたことを述べています。

 

6節の「エフラダ」は、ダビデの出身地ベツレヘムです。「それを聞きつけ」とは、神の箱について聞いたのです。そして、神の箱を「ヤアルの野」で見つけたのです。そこに契約の箱がしばらくとどめ置かれたのでしょう。

 

詩人は、7節で主なる神の契約の箱が安置された神殿に入り、主なる神を礼拝しようと呼びかけています。

 

810節は、詩人たち、神の民イスラエルの願いです。サムエル記下の6章でダビデが神の契約の箱をエルサレムに運び入れた記事があります。ダビデは民衆の前で喜び踊り、神の箱をエルサレムに運び入れるために壮大な行列がなされました。民と祭司の歓呼の中で神の契約の箱が神の幕屋に運び入れられました。

 

詩人は、10節でそれと同様に主の僕ダビデのために、油注がれた者、すなわち、ダビデと彼の子孫を、主が見捨てられないようにと、願っているのです。詩人がダビデのためにと述べていますのは、1節のダビデの誓いと1112節で主なる神がダビデに与えられた誓いのゆえに、ダビデと彼の子孫を、油注がれた者、すなわち、メシアを見捨てないでくださいと願っているのです。

 

後半は、主なる神が二つのことを誓約されています。第一に1112節で主なる神はダビデ王朝の永続を誓われています。第二に1314節で主なる神がシオンを選び、主なる神がそこを憩い地とし、とこしえに住まわれると誓われています。

 

主なる神は、ダビデと彼の子孫たちが神の契約と定め、すなわち、神の律法を守る限り、ダビデ王朝を永続させると約束されました。そして、主なる神は、シオン、エルサレムを選ばれ、配慮し、そこに神の共同体を形成されました。

 

1516節は、主なる神のシオンに対する配慮です。主なる神はシオンの食糧を大いに祝福され、「乏しい者」、すなわち、エルサレムの神の共同体をパンでもって飽かせてくださいます。祭司たちは、貧しい者たち、すなわち、神の共同体の救いを配慮する者とされます。だから、シオンの聖徒たちは大いに喜ぶことでしょう。

 

詩人は、1718節でシオンを探し出したダビデのために、主なる神がシオンの共同体を救う新しい支配者を立てると誓われています。17節の「ダビデのために一つの角をそこに芽生えさせる」とは、強い新しい王を起こすという意味です。王的な統治者です。

 

ダビデ王朝は、バビロニア帝国に滅ぼされ、再興されることはありませんでした。しかし、詩人たちが願った油注がれた者、すなわち、メシアを主なる神が見捨てられないという希望がイスラエルの共同体の中に生き続けたのです。

 

18節の新しい王は、ダビデ王朝の王ではありません。しかし、そのメシア、新しい王の頭にダビデの王冠が輝くのです。

 

今朝の詩編132編の御言葉から、わたしは二つのことを学びたいと思います。第一に主なる神は、神の家に常にいますということです。神の家、シオンの神の共同体の中に主なる神は常に臨在されました。

 

主なる神がいます場所は、わたしたち神の民にとって常に憩いの地であります。シオンは、わたしたち神の民にとって憩いの地です。わたしたち神の民の目的地であり、この地上の旅のゴールです。わたしたちが憩いの地を見いだすことは、わたしたちの本国に、わたしたちの真の家に帰ることです。

 

詩篇84編の詩人が「いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら まして、あなたを賛美することができるなら」と歌っています。神の家、シオンの神の共同体は、わたしたちの教会、キリストの共同体です。そこに主イエスは常にいてくださいます。わたしたちに聖霊と聖書を通して、御言葉を語り続けてくださるのです。わたしたちに聖餐の恵みに与らせて、わたしたちを霊的な食物で満たしてくださるのです。

 

わたしたちの聖書は、1節で「ダビデがいかに謙虚にふるまったか」と、詩人の言葉を訳しています。この日本語を生かすならば、詩人は、ダビデの自己犠牲と謙遜さを、主なる神に心とめてくださるように祈っていると、わたしたちは理解できないでしょうか。詩人は、ダビデの打ち砕かれた有様に、謙虚さに、心を留めています。神の神殿を、ダビデは自己犠牲によって、彼の主なる神への献身としてなそうとしたのです。

 

だから、35節のダビデの誓いは、彼の偉大なる自己犠牲でした。なぜなら、ダビデは自らの憩いの場所を顧みずに、主が住まわれる場所を、憩いの地を探し求めました。彼は、主の僕として本当に自らをへりくだらせました。

 

このダビデに呼応する油注がれた者、メシア、新しい王がいます。父なる神の独り子主イエス・キリストです。神であるキリストは、僕の形を取られ、人間の姿でこの世に来られました。そして、ダビデ以上にへりくだられ、十字架の死に至るまで、父なる神に従順に従われました。こうして、キリストは我らと共にいる神として、罪と死の悲惨の中にいるわたしたちを救い、この世から御国へと導いてくださっているのです。

 

こうして詩編132編が預言しました一つの角、新しいメシアが、神の聖徒であるわたしたちのために、救いという一つの灯を備えてくださったのです。

 

今ここに、いることの喜びを、どうかここで実際に御言葉を聴くことを通して、オンライン礼拝を通して、わたしたちと共に御言葉を聴かれることを通して、共にしていただきたいと、わたしは願う者であります。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編132編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

どうか、わたしたちも、ダビデのヘリ下りに、自己犠牲に、心を留めさせてください。

 

この教会に、今わたしたちが居て、あるいはオンライン礼拝を通して、わたしたちと共にいることで、わたしたちが共に聴く神の御言葉によってわたしたちの憩いの地、御国へと導かれているという喜びに与らせてください。

 

詩篇132編の詩人もダビデの謙遜と自己犠牲を通して、新しいメシアを待ち望み、わたしたちの信じる主イエスをメシアとして待ち望んでいたことを知れて感謝します。

 

どうか、この教会で御言葉と礼典を通して、常にキリストの臨在に触れ、わたしたちの本国である御国へと歩ませてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教133              主の20231029

都に上る歌。ダビデの詩     ダビデの上りの歌     

見よ、兄弟が共に座っている。 見よ、なんと良く、なんと麗しいことか。

なんという恵み、なんという喜び。 兄弟たちが一緒に座ることは。

 

かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り 頭にかぐわしい油が注がれるように、

衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り あごひげに、アロンのあごひげに、

ヘルモンにおく露のように 彼の衣服の襟まで滴る。ヘルモンの露のように、

シオンの山々に滴り落ちる。 シオンの山々にまで下る。

 

シオンで、主は布告された 実に、そこで主は命じた、祝福を、

祝福と、とこしえの命を。永遠にいたるまでの生命を。

                     詩編第13313

 

説教題:「見よ、神の家族が共に集まる」

 

今朝は、宗教改革記念日礼拝を守りましょう。

 

宗教改革は、15171031日にルターがヴィッテンベルクの城教会の扉に95か条の提題を貼り、ローマカトリック教会の免罪符の販売に反対したことから始まりました。

 

ルターは、若き日に神の義を神の裁きと思い、恐れ苦しみました。しかし、聖書を読み、神の義が神の裁きではなく、神が恵みによってわたしたちがイエス・キリストを信じる時に与えてくださる義であることを知りました。そして、彼は、神の救いが人の善行によって与えられるのではなく、信仰のみによって与えられることを確信し、カトリック教会のすべての人の功績による救いに反対したのです。

 

ルターの95か条の提題は、瞬く間にヨーロッパに広がりました。そして、ルターとほぼ同じ頃にスイスのチューリッヒでもツヴィングリーが市議会の支援を得て1523年に宗教改革運動を始めました。

 

ツヴィングリーが死ぬと、ジュネーブで宗教改革運動をしていたカルヴァンが指導者になりました。カルヴァンは、一時ストラスブールに退きましたが153664年まで25年間ジュネーブ教会で宗教改革運動を指導しました。

 

カルヴァンの影響がスイス、彼の故国フランス、イギリス、オランダ、アメリカへと広がりました。そして、19世紀の幕末にアメリカの宣教師たちがわたしたちの国に宣教し、日本キリスト教会が創設され、戦後日本キリスト改革派教会が創設されました。

 

わたしたちの教会は、源をたどれば、ジュネーブ教会の宗教改革者カルヴァンに行き着くのです。

 

宗教改革運動は、三つの点が大切です。第一は、信仰義認です。キリストに対する信仰のみによって罪が赦されるという教えです。第二に聖書の権威です。人や教会の権威ではなく、聖書のみがわたしたちの信仰と生活の唯一の規準です。わたしたちの信仰は、聖書の御言葉に聞き従う信仰です。第三にキリストだけが唯一の仲介者です。神と人を取り持つ御方はキリスト以外にいません。だから、わたしたちすべてがキリストをこの世の人々に伝える義務があります。

 

プロテスタント教会は、万人祭司です。牧師も信徒です。信徒も、信徒説教者がいるように、聖書の御言葉を説き明かし、家族や知人、そして諏訪の人々のために執り成しの祈りをすることが許されています。

 

ルターとカルヴァンから一つの思想が生まれました。それは、天職という思想です。わたしたちは、この世の職業を通して、仕事を通して、神に仕えることができるという思想です。それを、職業の召命観と言います。自分の仕事、職業をするときに、わたしたちは神に祈るのです。聖霊が特定の時と場所に生きるわたしたちに働きかけてくださるのです。神の御心に適うのであれば、わたしたちはそこで主の働きを見ることができます。主が信仰を起こしてくださるからです。

 

だから、教会に牧師が不在であることは、わたしたちに不安となるでしょうが、大きな問題ではありません。それよりも、わたしたちの信仰です。ルターは、95か条の提題の第一条に、キリスト者の全生涯は罪の悔い改めであると記しています。教会が常に生きた所となるためには、カルヴァンが言うように、神の御言葉によって教会が常に改革されなければなりません。そのためには、常にわたしたちの罪に対する悔い改めと祈りがなければなりません。

 

教会は、人が集まるところですが、その中心はキリストの臨在です。聖霊のお働きが中心です。聖霊はわたしたちの信仰を通して、礼拝と説教と聖礼典と伝道を通して、お働き下さいます。

 

宗教改革の貢献は、いろいろありますが、わたしはわたしたちの信仰の主体性に大きく貢献してくれたと思っています。それは、主イエス・キリストの御間に堅く立つという信仰です。キリスト以外の者に寄り頼まないという信仰です。

 

さて、詩編第13313節の御言葉を学びましょう。

 

この詩編は、巡礼歌、「都に上る歌」を集めた詩編の中で14番目のものです。表題に「ダビデの」があります。122編、124編、131編の表題と同じです。また、短い詩編です。131編、この詩編、そして134編は3節しかありません。短いですが、インパクトのある詩編です。

 

この詩編の類型は、知恵の詩編です。1節の御言葉から分かりますように、兄弟が一緒に住む家への神の祝福を歌った教訓詩です。

 

旧約聖書の申命記25章に家名の存続を記した規定があります。レビラート婚の規定です。古代のイスラエルは、神の嗣業の地が他家に移らないように、跡継ぎの男子を生むための定めがありました。長男が死ぬと次男が長男の嫁と結婚して、長男の子を設けることです。

 

申命記255節に「兄弟が共に暮らしていて」とあります。古代のイスラエルは一つの家に兄弟が共に生活していました。それが、神が祝福された家族の姿でした。

 

「兄弟が共に座っている」とは、兄弟が共に暮らしている、一緒にいるということです。詩人は、それが神の祝福であると歌っているのです。

 

「恵み」は良い、美しいという意味です。「喜び」は、麗しいという意味です。旧約聖書では人間の愛情や友情の関係に用いられています。神にも用いられています。主イエスは、神を「善いお方」とおっしゃいました。

 

1節の兄弟は、狭い意味では兄と弟でしょう。広い意味は、イスラエルの同胞です。巡礼歌ですから、広い意味で理解するのが良いと思います。

 

本来この詩編は、父が死に、兄弟が別れることなく、一緒に住み、仲良く生きていることの美しさを歌ったものであったかもしれません。

 

しかし、詩人は、この詩編を巡礼歌として歌っています。イスラエルは、バビロン捕囚以後、多くの離散のユダヤ人たちが生まれました。遠く異国の地に生きる者たちが、エルサレムに巡礼し、神殿という一つの空間に一緒に座って神を礼拝するのです。詩人は、その姿が良きものであり、麗しいものであると歌っているのです。

 

その美しく、麗しい姿を、詩人は、2節と3節で二つの譬えを用いて歌っているのです。

 

2節は、大祭司が神殿で任職する時の様子です。「かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り 衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り」。

 

古代イスラエルでは、王と大祭司と預言者が任職する時に、頭から香油を注がれました。「かぐわしい油」は、香油です。アロンの髭は、古代のオリエント世界においては男の威厳の象徴でした。また、髭は美しいものと考えられていたそうです。任職する大祭司の頭に豊かな香油が注がれ、大祭司のあご髭に垂れ、そして、彼が着ている長い衣服の襟にまで香油が垂れました。

 

詩人は、その姿を見て、3節の主なる神が祝福を命じられたことに関係づけているのです。兄弟が一緒にいることは、大祭司の頭に豊かに注がれた香油のように、神の豊かな祝福に与っている姿であると、詩人は歌っているのです。

 

第二の譬えは、ヘルモン山の露です。ヘルモン山は、アンティレバノン山脈の南端にある高山です。2814メートルで、ヘルモン山に積もった雪が解けて、ヨルダン川の水源となります。「ヘルモンにおく露のように」とは、豊かな露のようにという意味でしょう。ヘルモン山からの豊かな露がパレスチナの乾燥したエルサレムの山々まで下り、地を潤し、植物や動物の命を、人々の命を支えているのです。

 

詩人は、兄弟が一緒に座することを、ヘルモン山の露にたとえています。大祭司の頭に注がれる香油は、神の祝福を意味しており、ヘルモン山の露は命を意味しています。兄弟が一緒に座する姿を、詩人は神の祝福と命の交わりと見ているのです。

 

兄弟を、わたしは礼拝共同体と理解したいと思います。広い意味で理解したいです。詩人は、離散のユダヤ人たちが諸国からエルサレムに巡礼し、神殿で共に礼拝をすることの美しさと祝福を歌っているのです。

 

主イエスは、山上の説教において兄弟に腹を立ててはならないと教えられました。兄弟喧嘩をしているなら、神を礼拝する前に兄弟と仲直りし、それから神を礼拝しないさいと教えられました。そして、主イエスは、御自身の十字架によってわたしたちが兄弟を愛する道を開いてくださいました。

 

だから、使徒パウロは、わたしたちに「兄弟愛をもって互いに愛し、総計をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」と勧めているのです。キリストは、御自身の十字架によって兄弟が一緒にいることから兄弟を互いに愛し合うように高めてくださいました。

 

キリストの十字架と復活の御業によって、兄弟が共に座するこの教会の礼拝が3節の後半に記されているように、「シオンで、主は布告された 祝福と、とこしえの命を。」という所になっているのです。

 

わたしたちは、それぞれのところから主の日にこの教会の礼拝へと集められています。そして、共に座って、神を礼拝するのです。礼拝で語られる説教を通してキリストの十字架による罪の赦しの恵みにいつも与っています。

 

そして御言葉だけではなく、聖餐に共に与るのです。わたしたちの主に在る交わりは、この世のみではありません。永遠の命を約束され、神の御国へと招かれているのです。

 

詩篇133編はとても短いものですが、わたしたちがこの教会で一つの主の食卓を囲みます時に、わたしたちがこの世の死を越えて永遠に神の御国において一つの神の家族となるように、主イエスは聖霊を通して今もこの教会でお働きになっていることを確信させられるのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編133編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

どうか、わたしたちが今この教会で一つに集まり、神の御言葉を聴き、聖餐の恵みに与れることを、心を留めさせてください。

 

わたしたちは、何もしてはいません。信じているのです。主イエスがここに集まるわたしたちの罪のために十字架に死なれたことを、わたしたちの永遠の命の保証として復活されたことを。

 

宗教改革者たちのように、主イエス・キリストを信じる信仰によって、わたしたちは救われることを信じます。

 

聖書の御言葉だけが、わたしたちの希望であることを信じます。

 

どうか、主イエスよ、わたしたちも宗教改革者たちのように、主イエス・キリストのみに信頼し、神の御国に心を向けて歩ませてください。

 

どうか、今朝の御言葉と聖餐を通して、主イエスがわたしたちに告げられる御言葉を聴かせてください。主の祝福ととこしえの命を。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教134              主の20231119

都に上る歌。         上りの歌     

主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。 さあ、たたえよ、主を、すべての主の僕

夜ごと、主の家にとどまる人よ。 たちよ。立っている者たちよ、主の家で、

聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。 夜に。挙げよ、あなたたちの両手を

聖所に向かって。そしてたたえよ、主を。

天地を造られた主が あなたを祝福するように、主がシオンから

シオンからあなたを祝福してくださるように。 天と地を造った者が。

                     詩編第13413

 

説教題:「主をたたえよ」

 

今朝は、詩編第13413節の御言葉を学びましょう。詩編134編は、詩篇120編から始まりました「都に上る歌」、すなわち、巡礼歌の15番目で、最後のものです。

 

「都に上る歌」は、年に一回祝う祭のためにエルサレムに上京してくる巡礼者たちが歌ったものです。詩編134編は仮庵の祭の時に、巡礼者たちがエルサレム神殿で夜の礼拝で歌ったものです。

 

1節の「夜ごと」は、聖書協会共同訳は「夜通し」と訳しています。新改訳聖書2017は、新共同訳聖書と同じく「夜ごとに」と訳しています。フランシスコ会聖書研究所訳は、「夜」と訳して、70人訳ギリシア語旧約聖書に従ってそれを2節に入れています。70人訳旧約聖書は、1節への追加として「われらの神の家の庭に立つ者よ」という文章を入れています。

 

「主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人よ。聖所に向かって手を上げ、主をたたえよ。」

 

夜にエルサレム神殿の庭に集まった巡礼者たちを、神殿に仕える祭司たちやレビ人たちが「主をたたえよ」と勧告しています。

 

詩篇133編同様、冒頭に「見よ」という間投詞の言葉があります。わたしたちの新共同訳聖書は、日本語訳に反映させていません。聖書協会共同訳、新改訳聖書2017、フランシスコ会聖書研究所訳は、「さあ」という言葉を入れています。詩編134編の詩人は、「さあ、たたえよ、主を」と歌っています。

 

1節と2節の「たたえよ」と3節の「祝福してくださる」という動詞は、ヘブライ語でベーラクという同じ言葉です。ベーラクを、1節と2節で「たたえよ」と訳したのは、日本語で「神を祝福する」とは言わないからです。

 

礼拝で主をたたえることが定着したのは、第二神殿の時代です。ネヘミヤ記86節で、こう記しています。「エズラが大いなる神、主をたたえると民は皆、両手を挙げて、『アーメン、アーメン』と唱和し、ひざまずき、顔を地に伏せて、主を礼拝した。」そこから「主をたたえよ」という言葉が典礼の言葉として礼拝の中で定着したのでしょう。

 

1節の「主の僕ら」と「主の家にとどまる人」は、巡礼者たち、会衆だと、わたしは思います。エルサレム神殿で主に仕える祭司やレビ人たちという考えもありますが、わたしはエルサレム神殿に詣でた巡礼者たちだと思うのです。

 

「主の家にとどまる人」とは、主の家に立つ者のことです。立つは仕えるという意味がありますので、祭司たちと考えることは出来ると思います。しかし、旧約聖書のレビ記95節に、こう記しています。「彼らがモーセに命じられたとおり献げ物を臨在の幕屋の前に持って来ると、共同体全体は進み出て、主の御前に立った。」

 

また、祭司たちが自らを主の僕と呼ぶことはあっても、会衆が祭司たちに向かって「主の僕たち」と呼ぶことはないそうです。

 

わたしが言いたいことは、1節と2節で巡礼者たちが祭司たちに向かって「たたえよ、主を」と励ましているのではいということです。むしろ、仮庵の祭の時にエルサレム神殿を詣でた巡礼者たちに、祭司が「たたえよ、主を」と、夜の礼拝で促した言葉です。

 

巡礼者たちは、夜神殿で、すなわち、主がいます聖所に向かって、両手を挙げて、主に祈り、礼拝をしました。祭司は、会衆たちに一度だけではなく、二度、礼拝において主をたたえることを促しました。

 

巡礼者たちに「主をたたえよ」と2度促す祭司は、神の祝福をよく知る者です。なぜなら、祭司は主なる神と民の間を執り成す者だからです。祭司が巡礼者たちに御言葉を通して、神殿での祭儀を通して、神の祝福を伝えるのです。その意味で祭司は、イエス・キリストの予型であります。

 

祭司は、3節においてエルサレムを離れて行く巡礼者たちにシオンからの神の祝福を宣言しています。「天地を造られた主が シオンからあなたを祝福してくださるように。」と。

 

詩編134編の詩人は、神の祝福が天地万物を創造された主から来ることを知っています。さらに、祭司は、神の祝福がシオンから、主なる神がいますエルサレムから来ることを知っています。

 

まだ詩人は、キリストの救いを知りません。神の永遠の命の祝福を知りません。しかし、天地万物を創造された主が、わたしたちの住む世界を創造され、何よりも命を創造され、御自身が創造されたすべてのものを善しとされ、祝福されたことを知っているのです。

 

モーセは、旧約聖書の申命記3019節で、こう主なる神の御言葉を述べています。「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るように」と。

 

神の民たちがこの世界に生きるということは、天地万物の創造者の創造の御業に、その摂理の御業に深く関係しているのです。

 

わたしたちは、今、とんでもない時代に、まったく先は闇であるという世界にいると思っているでしょう。しかし、どんな時代に生きる神の民にも、シオンから神の祝福を告げてくれる祭司がいるのです。

 

彼は、巡礼者たちのように今教会の礼拝に来る者に、わたしたちに「主をたたえよ」と促すのです。なぜなら、わたしたちがたたえる主は、天地の創造者であり、造られたすべてのものを御覧になり、「はなはだ良かった」と宣言されました。この御方は、命の源であり、命を造られ、守られているお方です。

 

わたしたちは、主が天地万物の造り主であると信じることができて初めて、この御方から真の命をいただき、いただいた命をいつまでも持ち続けることができることを知るのです。

 

なぜなら、今も教会は礼拝で「主をたたえよ」と促し続けているのです。主は天地の創造者であるだけではありません。人としてこの世に来られた主イエス・キリストです。主は、わたしたちの罪を贖われただけではありません。主はわたしたちの罪によって堕落したこの世界を再創造されます。

 

その時、わたしたちだけではなく、神が創造された世界も新しい命に生きるのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編134編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

詩篇120編から学び始めました巡礼歌を、今日終えることができて感謝します。わたしたちにとってシオンは、この教会であり、この礼拝であります。今朝も詩編134編の御言葉を通して、神の祝福をいただけることを感謝します。

 

小さな群れでありますが、恐れることなく、わたしたちが神の御前に出て、主を礼拝し、主の御言葉を聴き、心から主をほめたたえさせてください。

 

今、戦争、飢餓、温暖化によって、人もこの世界も命が危機にさらされています。どうか、天地万物の創造主であり、人となられた主イエスよ、わたしたちに永遠の命をお与えください。

 

この教会がこれからも神の祝福を語り続けられ、主をたたえることができるようにしてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教135              主の20231126

ハレルヤ。ハレルヤ     

賛美せよ、主の御名を 賛美せよ、主の御名を。

賛美せよ、主の僕らよ 賛美せよ、主の僕たちよ。

主の家に 立っている者たちよ、主の家の前に。

わたしたちの神の家の庭に居並ぶ人々よ。わたしたちの神の家の中庭に。

主を賛美せよ、恵み深い主を 主を賛美せよ、まことに主は恵み深い。

喜ばしい御名をほめ歌え。彼の御名を褒め称えよ、まことに(御名は)麗しい。

 

主はヤコブを御自分のために選び まことにヤコブを選んだ、主は彼のために。

イスラエルを御自分の宝とされた。イスラエルを彼の宝として。

わたしは確かに知った。 まことにわたしは知っている、

主は大いなる方 主は偉大。

わたしたちの主は、どの神にもまさって大いなる方。わたしたちの主は、すべて

天において、地において 神々より。主は欲する全てのことを成し遂げられた、

海とすべての深淵において 天においても地においても、海においても深淵に

主は何事をも御旨のままに行われる。おいてでも。

地の果てに雨雲を湧き上がらせ 彼は雨雲を上らせる、地の果てから。

稲妻を放って雨を降らせ 稲妻を、彼は造った、雨のために。

風を倉から送り出される。 風を送り出される、彼の倉から。

 

主はエジプトの初子をことごとく 彼は撃たれた、

人の子も家畜の子も撃ち 人から家畜までエジプトの初子たちを。

エジプト中に、しるしと奇跡を送られた 彼は送られた、しるしと奇跡の数々

ファラオとその家臣すべてに対して。 を、エジプトのただ中に、ファラオと

                 彼の僕たちすべてに。

主は多くの国を撃ち、強大な王らを倒された 彼は撃たれた、多くの国々を、

アモリ人の王シホン、バシャンの王オグを 殺された、強い王たちを。アモリ人

カナンの王国をことごとく。 の王シホンとバシャンの王オグとカナンの王国

彼らの領地を嗣業として のすべてを。彼は与えられた、彼らの地を嗣業と

嗣業として御自分の民イスラエルに与えられた。 して、彼の民イスラエルの

                      嗣業として。

主よ、御名はとこしえに。 主、永遠にあなたの御名。

主よ、御名の記念は代々に。 主、代々にあなたの称号。

主は御自分の民の裁きを行ない 実に主は彼の民を裁かれ、

僕らを力づけられる。 彼の僕らを憐れまれる。

 

国々の偶像は金や銀にすぎず 国々の偶像は金と銀である。

人間の手が造ったもの。 人の両手の業である。

口があっても話せず 口があっても、話せない。

目があっても見えない。 両目があっても、見えない。

耳があっても聞こえず 両耳があっても、聞こえない。

鼻と口には息が通わない。 ああ口には息もない。

偶像を造り、それにより頼む者は 偶像のようになる、偶像を作る者たちは。

皆、偶像と同じようになる。 また、偶像に寄り頼む者たちのすべても。

イスラエルの家よ、主をたたえよ。 イスラエルの家よ、主をたたえよ。

アロンの家よ、主をたたえよ。 アロンの家よ、主をたたえよ。

レビの家よ、主をたたえよ。 レビの家よ、主をたたえよ。

主を畏れる者よ。主をたたえよ。 主を畏れる者たちよ、主をたたえよ。

シオンから主をたたえよ。 たたえられよ、主よ、シオンから、

エルサレムにいます主を。 エルサレムに住まう方よ。

ハレルヤ。 ハレルヤ。

                     詩編第135121

 

説教題:「主は選び、宝とされた」

今朝は、詩篇第135121節の御言葉を学びましょう。

 

詩篇135編は、ハレルヤで始まり、ハレルヤで終わる詩編です。ハレルヤは、主を賛美せよという意味です。ハレルヤは、礼拝での神の民の叫びです。この詩編は、ハレルヤに取り囲まれているのです。

 

13節がこの詩編の導入部です。「ハレルヤ。賛美せよ、主の御名を 賛美せよ、主の僕らよ 主の家に わたしたちの神の家の庭に居並ぶ人々よ。主を賛美せよ、恵み深い主を 喜ばしい御名をほめ歌え。」

 

「主の僕らよ」とは、主を礼拝する者です。「主の家」「わたしたちの神の家の庭」であるエルサレム神殿の中庭に集う会衆です。中庭は、イスラエル人の成人男子と婦人と異邦人が区切られて、主を礼拝しました。

 

礼拝を導く先導者がおり、彼が主は恵み深く、喜ばしい御名であるゆえに、会衆に主を賛美せよと促しました。

 

1921節がこの詩編の結びです。「イスラエルの家よ、主をたたえよ。アロンの家よ、主をたたえよ。レビの家よ、主をたたえよ。主を畏れる者よ。主をたたえよ。シオンから主をたたえよ。エルサレムにいます主を。ハレルヤ。」

 

礼拝を導く者はイスラエルの会衆に、祭司たちに、レビ人たちに、そして主を畏れる者たちに主をたたえよと促します。そして、シオンにおける会衆からエルサレムにいます主への祝福で、この詩編は閉じられています。

 

このようにこの詩編は、礼拝で主を賛美するものです。そして、神の民が礼拝するエルサレム神殿が主の祝福に与る場所であると同時に、主をたたえる所であることを教えられます。

 

この詩編の中心の部分は418節です。賛美すべき主の御業と主の御力が賛美されています。

 

主を賛美する理由は、二つあります。4節と5節です。一つは、イスラエルの基となる物語です。4節の「主はヤコブを御自分のために選び イスラエルを御自分の宝とされた。」という御言葉です。申命記67節の御言葉の引用です。「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。」

 

もう一つは、5節の御言葉です。「わたしは確かに知った。主は大いなる方 わたしたちの主は、どの神にもまさって大いなる方。」

 

主なる神の偉大さは、主権者なる神です。神の民は、礼拝においてはっきりと確信されられます。主なる神の偉大さを。人の作る偶像の神々よりも大いにまさるお方であると。

 

主なる神の偉大さは、6節で主の無条件の主権として、賛美されています。「天において、地において 海とすべての深淵において主は何事をも御旨のままに行われる。」

 

主が無条件の主権者であるのは、主が天と地を創造され、海とすべての深淵を創造されたお方だからです。主は、万物の所有者であり、すべてのものの主権者です。

 

そして、御自身の主権を、自然の摂理を通して行われているのです。それが7節の御言葉です。「地の果てに雨雲を湧き上がらせ 稲妻を放って雨を降らせ 風を倉から送り出される。」これは、自然界における嵐を、主が摂理によって支配されているということです。

 

主イエスが弟子たちとガリラヤ湖で舟に乗られた時に、突然に嵐が起こりました。その時主イエスは舟の後ろの方で眠られていました。弟子たちが嵐を恐れ、主イエスに助けを求めました。主イエスが嵐を叱られると、嵐は止み、ガリラヤ湖は凪となりました。

 

主イエスは、創造者として、無条件の主権を持たれ、嵐を静められました。この詩人のように、主イエスの弟子たちは確かに、主イエスが偉大なお方であり、天においても地においても、海とすべての深淵において主イエスは何事をも御旨のままに行われることを確信したのです。

 

主の偉大さは、天地を創造し、それを保持されているだけではありません。歴史の主権者です。主なる神は、御心のままに諸国の民の中からアブラハムを御自身の民として選ばれ、その孫であるヤコブを選ばれ、彼の子孫を神の民として選ばれ、彼らを奴隷の地エジプトから解放し、約束の地カナンへと導かれ、彼らにその地を嗣業の地として与えられました。

 

それが812節の御言葉です。「主はエジプトの初子をことごとく 人の子も家畜の子も撃ち エジプト中に、しるしと奇跡を送られた ファラオとその家臣すべてに対して。主は多くの国を撃ち、強大な王らを倒された アモリ人の王シホン、バシャンの王オグを カナンの王国をことごとく。彼らの領地を嗣業として 嗣業として御自分の民イスラエルに与えられた。」

 

どのように主が主権的にヤコブを選ばれ、彼の子孫を主御自身の宝とされ。イスラエルの基を築かれたかを纏めて物語っています。

 

主なる神は、エジプトに数々の災いを送られ、最後にエジプト人と彼らの家畜の初子を殺すという災いを通して、イスラエルを奴隷の地エジプトから解放されました。そして、彼らに敵対するカナンの王たちを撃破し、約束の地カナンを彼らの嗣業の地として与えられました。

 

13節と14節で詩人は、神の民を裁き、憐れまれる主の御名が永遠であるとたたえています。「主よ、御名はとこしえに。主は御自分の民の裁きを行ない 僕らを力づけられる。」

 

14節は、申命記3236節からの引用です。「主は御自分の民の裁きを行ない 僕らを力づけられる。」この主の裁きは、神の民の罪を裁くことではありません。主が神の民を正しく守られるということです。

 

詩篇686節で詩人が「神は聖なる宮にいます。みなしごの父となり やもめの訴えを取り上げてくださる。」と歌っています。この「やもめの訴え」は、やもめを裁くおいう意味で、神の裁きのことです。それによって神はやもめを搾取する者から彼女を神の民として正しく守られるのです。

 

1518節で、詩人は偶像とそれを信奉する者たちを非難しています。主なる神は、生ける神です。主なる神とは対照的に、偶像は人が作ったものです。この世界には、立派な偶像があります。金銀で作られたものがあり、人々の信仰の対象になっています。

 

「国々の偶像は金や銀にすぎず 人間の手が造ったもの。口があっても話せず 目があっても見えない。鼻と口には息が通わない。偶像を造り、それにより頼む者は 皆、偶像と同じようになる。」

 

永遠の神主に対して偶像は、人が作ったものです。預言者イザヤは、こう言っています。「木は薪となるもの。人はその一部を取って体を温め 一部を燃やしてパンを焼き その木で神を造ってそれにひれ伏し 木像に仕立ててそれを拝むのか。」(イザヤ44:15)。続いてイザヤは言います。「彼らは悟ることなく、理解することもない。目はふさがれていて見えず 心もふさがれていて、目覚めることはない。反省することもなく、知識も英知もなく 『わたしは半分を燃やして火にし その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。残りの木で忌むべきものを造ったり 木の切れ端を拝んだりできようか』とは言わない。彼は灰を食らい 惑わされた心は、その道を誤らせる。彼は自分の魂を救うことができず 『わたしの右の手にあるのは偽りではないか』とすら言わない。」(44:1820)

 

偶像は、人の手の業であり、生きた者ではありません。目や口、鼻、耳という器官があっても、見たり、話したり、聞いたりできません。理性がなく、判断できません。それゆえ詩人は言います。偶像を作る者も偶像を拝む者も偶像と同じになり、正確な知覚や判断力を失うと。

 

わたしたちは、詩人の御言葉に触れて初めて、わたしたちの生活の身の回りにある偶像とそれを拝むことの空しさや狂気というものを自覚させられるのです。

 

真の神である主は、天地の創造者であり、すべてのことを御旨のままに行なうことがおできになります。だから、自然を摂理で支配され、保持することも、この世界の歴史を通して神の民を御自身の宝として選び、救うこともおできになります。

 

このような神は他に存在しないのです。主以外は、人の手で作られた偶像ですし、人の頭で考え出された偶像です。詩人はそれを拝む者、信頼する者も偶像と同じものとなると述べています。なぜなら、偶像礼拝者は真の神を知ることも、見ることも、神の御声を聞くこともできないからです。

 

聖霊の息吹によって、偶像のように死んだ者であるわたしたちが生きた者に変えられない限り、真の神に出会うことも、神の御言葉を聴くこともできないのです。

 

その場こそエルサレム神殿だったのです。そこに主なる神は臨在され、神の民に祭司たちやレビ人たちを通して、御言葉を語られました。神の民たちは、神の御言葉である聖書の朗読を聞き、聖霊に心を開かれて、生きる真の神である主に出会い、主の御言葉を聴いたのです。

 

今朝、わたしたちは詩編135編の御言葉を聴くことができました。詩人同様に、わたしたちも確かに主なる神の偉大さを知り、確信させられました。神は、人の手で作られた偶像ではないと。天地万物の創造者、生ける神です。だから、主は御心のままに自然を支配し、歴史においてアブラハム、イサク、ヤコブを御自分の民として選ばれました。イスラエルの神の民を、奴隷の地エジプトから解放し、御自分の宝とされました。そして、彼らにカナンの地を御自身の嗣業の地として与えられました。

 

今、神はキリストを通してわたしたちを選ばれました。そして、神はわたしたちを御自身の宝とし、わたしたちに神の御国を嗣業の地として与えてくださっているのです。

 

わたしたちも心から主キリストをたたえましょう。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編135編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

日欧日にこの教会で、礼拝を通して、わたしたちが聖書の御言葉を、神の言葉を聞けることを感謝します。

 

わたしたちは、詩篇135編の御言葉を通して、天地万物の創造者なる主に出会い、4000年の歴史の中で主が御自身の民を選らばれ、御国へと導かれている恵みを見させていただきました。

 

どうか、この教会で御言葉と礼典を通して、常にキリストの臨在に触れ、キリストに導かれて、わたしたちが御国へと歩ませてください。

 

わたしたちの家族を、この町の人々を偶像礼拝から解放してください。そして、真の神に出会わせてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。