詩編説教036                  主の2013922

 

 

 

    指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。

 

神に逆らう者に罪が語りかけるのが  邪悪な者への背きの御告げ

 

わたしの心の奥に聞こえる。

 

彼の前に、神への恐れはない。   神を信じないということ

 

自分の目に自分を偽っているから  自分自身にへつらっているから、

 

自分の悪を認めることも      自 分の悪()を見出せない。

 

それを憎むこともできない。 御告げが彼の眼を曇らせ、悪を認めなくし、憎めなく

 

彼の口が語ることは悪事、欺き  彼の口の言葉は邪悪と欺瞞

 

決して目覚めようとも、善を行おうともしない。  彼の良心が麻痺した。

 

床の上でも悪事を謀り  彼の寝床で、彼は邪悪なことを、彼は考える。

 

常にその身を不正な道に置き

 

悪事を退けようとしない。

 

 

 

主よ、あなたの慈しみは天に  

 

あなたの真実は大空に満ちている。 あなたの真は空()まで 雲と天は同義語

 

恵みの御業は神の山々のよう 神の山々は、神々の集会を主催する至高神エルの山

 

あなたの裁きは大いなる深淵。 裁きは神の統治、深淵徒は、豊かな水源のこと

 

主よ、あなたは人をも獣をも救われる。

 

神よ、慈しみはいかに貴いことか。

 

あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ  「あなたの翼の陰」はエルサレム神殿

 

あなたの家に滴る恵みに潤い  彼らは満ち溢れる、あなたの家の脂肪で 脂肪-甘美

 

あなたの甘美な流れに渇きを癒す。 あなたの歓びの流れを、あなたは彼らに飲ませ

 

命の泉はあなたにあり、なぜなら命の源泉は、あなたと共にあるから。

 

あなたの光に、わたしたちは光を見る。「わたしたちは光を見る」とは、生きること。

 

 

 

あなたを知る人の上に  「あなたを知る」とは、主を礼拝すること

 

慈しみが常にありますように。

 

心のまっすぐな人の上に     またあなたの義を、心のまっすぐな者たちに

 

  恵みの御業が常にありますように。

 

神に逆らう者の手が

 

  わたしを追い立てることを許さず

 

驕る者の足が

 

  わたしに迫ることを許さないでください。

 

 

 

悪事を働く者は必ず倒れる。

 

彼らは打ち倒され

 

  再び立ち上がることはない。

 

               詩編第36113

 

 

 

説教題:「主の光に、光を見る」

 

 今朝は、詩編36篇の御言葉を学びましょう。主の僕、ダビデの歌です。僕とは、主に仕える者のことです。信仰者のことです。

 

 ダビデは、25節で神に逆らう者について賛美し、610節で主なる神を賛美し、1113節で神に逆らう者からの救いを祈っています。

 

 ダビデは、神に逆らう者が誰であるかを明らかにしてはいません。ダビデは、2節に「神に逆らう者に罪が語りかけるのが わたしの心の奥に聞こえる」と歌っています。「語りかける」という言葉は、「ささやき」であります。罪が神に逆らう者にささやきかけるのです。

 

 ダビデが、わたしたちにここで伝えたいことは、神に逆らう者をいちばん深い所で支配しているのは、罪であるということです。罪に唆されて、神に逆らう者は、不信仰になるのです。

 

 ダビデは、神に逆らい者に罪がささやく声を、「わたしの心の奥に」聞いたと歌っています。神に逆らう者の内面を、ダビデは主なる神に教えていただいたのでしょう。

 

 この世は、ダビデの目に神に逆らう者がおごり高ぶり、悪事をしています。そして、彼らは、自分が行う悪事に対して平気でした。どうしてなのだろうと、ダビデは思うのです。

 

 主なる神は、ダビデに教えてくださいました。罪が神に逆らう者にささやき、「彼の目の前に神への恐れがない」と語りかけたからだと。

 

 神への恐れがないとは、主なる神をあがめず、主なる神に服従せず、仕えることをしないという意味です。それを一言でいえば、主なる神に対する信仰がないということです。

 

だから、ダビデは、3節で「自分の目に自分を偽っているから 自分の悪を認めることも それを憎むこともできない」と賛美します。

 

「自分を偽っている」とは、自分におもねるという意味です。神に逆らう者は、主への恐れがありませんので、自分におもねり、自分の悪、自分の罪を認めず、自分の悪と罪を憎むことさえできないのです。

 

主イエスは、「木とその実」のたとえを教えられました時、「人の口からは、心にあふれていることが出て来るものである」と言われました(マタイ1234)。神に逆らう者は、心を罪に支配され、神を恐れません。心が不信仰です。だから、彼の心の思いが口から出てきます。そして、彼の態度となります。

 

それが4節です。「彼の口が語ることは悪事、欺き。決して目覚めようとも、善を行おうともしない」。この悪事は、人への中傷です。欺きとは人に偽りを言うことです。「決して目覚めようとも、善を行おうともしない」とは、善を行うことに聡明であることを止めるということです。今日の言い方だと、「良心が麻痺している」という意味です。ダビデは、わたしたちにこう言いたいのです。神に逆らう者は、罪に唆されて、その心は神への恐れがなく、不信仰な者であり、平気で人を中傷し、人に偽りを述べて、彼の良心は麻痺しているので、平気で悪事をするのだと。

 

それゆえ、ダビデは、5節で「床の上でも悪事を謀り 常にその身を不正な道に置き 悪を退けようとはしない」と賛美します。ダビデが「床の上でも」と言っているのは、寝床のことです。人が夜一人、寝床で考えることが一番重要なことであるという意味です。眠れぬ夜に人は、苦しみ悩み、明日は何をしようかと、自分にとって一番大切なことを考えるものです。神に逆らう者は、常に心の中で悪をたくらみ、悪を嫌うことがありません。

 

続いてダビデは、610節において主なる神を賛美しています。ダビデは、67節において主なる神の慈しみと真実と正義と公正を賛美します。そして人をも獣をも救われる主なる神の御心を賛美します。

 

「主よ、あなたの慈しみは天に あなたの真実は大空に満ちている。恵みの御業は神の山々のよう あなたの裁きは大いなる深淵。主よ、あなたは人をも獣をも救われる。」

 

主の「慈しみ」とは、主のヘセド、慈愛のことです。主の慈愛と真実は、コインの表と裏の関係です。主なる神は、アブラハムと契約し、出エジプトにおけるシナイ山でイスラエルの民と契約し、「わたしはあなたの神であり、あなたはわたしの民である」と宣言されました。それゆえにイスラエルの民が主なる神に背いても、主なる神は彼らに慈愛を示し、彼らとの契約をお捨てにならないで、真実をお示しになりました。

 

7節の「恵みの御業」とは、神の正義のことです。「神の山々」は、いちばん高い山を表します。「あなたの裁きは大いなる深淵」とは、「あなたの公正が豊かな水源である」という意味です。

 

ダビデは、わたしたちの目を、神に逆らう者の「悪事と欺き」に対して主なる神の「慈しみと真実」に向けさせています。また神に逆らう者の「悪と不正な道」に対して主なる神の「正義と公正」にわたしたちの目を向けさせています。

 

そして、ダビデは、わたしたちに次のように伝えています。わたしたちは、この世の不信仰者の悪事と不正の道を見るとき、わたしたちの目を天に、大空に向けよう。そこにいます主なる神の慈しみと真実と正義と公正を見ましょうと。

 

わたしたちの目に見る悪人たちの世界、主を恐れない者たちの中傷と偽りの世界、この世界を、主なる神は、人をも獣をも救われる世界に変えられると。ノアの洪水の時代のように、罪が人々の心を唆し、人々が神に逆らい、主なる神は洪水によってすべてのものを滅ぼされました。その時、主なる神はノアと彼の家族と箱舟に入れられた獣たちを救われました。ダビデは、そのことを思い起こして、主なる神の御救いを賛美しています。

 

810節は、ダビデはエルサレムの神の幕屋、すなわち、主なる神の家を賛美します。そこに神の慈しみがあふれています。主なる神の家にエデンの園からの命が流れています。

 

「神よ、慈しみはいかに貴いことか。あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ あなたの家に滴る恵みに潤い あなたの甘美な流れに渇きを癒す。命の泉はあなたにあり あなたの光に、わたしたちは光を見る。」

 

ダビデが神の慈しみを体験するのは、主なる神の家です。エルサレムの神の幕屋です。そこに主なる神がイスラエルの民と共に臨在されました。「あなたの翼の陰」は、エルサレムの神の幕屋です。「人の子らが身を寄せ」とは、ダビデやイスラエルの民がエルサレムの神の幕屋で主なる神を礼拝することです。

 

主なる神の家は、そこに主なる神が臨在し、そこに集うイスラエルの民に豊かな恵みを施されます。ダビデも民たちも、主なる神に動物犠牲をささげ、罪を赦され、「あなたの甘美な流れに渇きを癒す」のです。その「甘美な流れ」とはエデンの園から流れている命の水です。ダビデは、エルサレムの神の幕屋での神礼拝を通して、「命の泉」が神の幕屋に臨在される主なる神にあることを知りました。

 

そして、ダビデは、「あなたの光に、わたしたちは光を見た」と賛美しています。「光を見た」とは、生きるという意味です。ヨブ記316節にヨブが次のように嘆いています。「なぜわたしは、葬り去られた流産の子 光を見ない子とならなかったのか」と。死んでいればよかったという意味です。光を見るとは、生きると言う意味で、見ないとは死ぬという意味でした。

 

「あなたの光」は、神の啓示です。神の御言葉です。詩編119105節に、「あなたの御言葉はわたしの未知の光、わたしの歩みを照らす灯」とあります。ダビデは、主なる神が臨在されるエルサレムの神の幕屋、主なる神の家で主なる神の啓示、主なる神の御言葉を聞いたのです。それは、神の栄光でありますので、ダビデは見たと賛美します。

 

 ダビデが見た光を、新約聖書のヨハネによる福音書が1章において次のように証言しています。「言」である主イエス・キリストの「内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(ヨハネ14)。そして、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた。」(ヨハネ114)

 

 ダビデが見た光は、約束のメシア、キリストでしょう。それはエデンの園から流れ出る命の泉であり、わたしたちの命の源である主なる神御自身です。ダビデが見た主の光の実体は、イエス・キリストがこの世にあらわれられて、明らかになるのです。

 

 ダビデは、1113節において主なる神に祈ります。11節です。「あなたを知る人の上に 慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人の上に 恵みの御業が常にありますように」 

 

 「あなたを知る人」とは、主なる神を礼拝する人です。その人に、ダビデは神の慈しみを祈ります。「心のまっすぐな人」は、罪のないものです。「恵みの御業」は神の正義です。

 

ダビデは、神を礼拝する者に神の慈愛を注ぎ、罪のないものに神の正義を注いでくださいと祈ります。つまり、神の恵みが続くように祈っています。

 

 12節です。「神に逆らう者の手が わたしを追い立てることを許さず 驕る者の足が わたしに迫ることを許さないでください。」

 

 ダビデは、この世に神に逆らう者、悪人がいることを知っています。彼は自分を偽り、常にダビデを中傷し、ダビデに対して悪をたくらんでいます。ダビデは、この世において神の慈愛と正義がダビデを悪人より救い出してくださるようにと祈ります。命の源であり、人をも獣をも救われる主なる神が、ダビデを悪人より守られるように祈ります。

 

 最後にダビデは、わたしたちに神に逆らう者の行く末を教えて、この詩編を閉じています。13節です。「悪事を働く者は必ず倒れる。彼らは打ち倒され 再び立ち上がることはない。」

 

 ダビデに、主の光である主イエス・キリストが再臨し、最後の神の審判においてすべての神に逆らう者を裁かれるのが、見えたのでしょうか。それとも、ダビデに敵対したサウロに対する主の裁きが見えたのでしょうか。

 

 ダビデは、主なる神を礼拝し、主の光である御言葉を通して、神に逆らう者の実体とその最後を見たのだと思います。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、詩編36篇を通して、「主の光に、わたしは光を見た」という礼拝の喜びと恵みに出会うことができたことを感謝します。ダビデが礼拝を通して見たこの世の悪人たちの行く末を、わたしたちも主なる神を礼拝することを通して、見させてください。主イエス・キリストの恵みにあずからせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 詩編説教037                  主の20131027

 

 

 

        ダビデの詩。              ダビデの

 

悪事を謀る者のことでいら立つな。  苛立つな 悪事を働く者たちのことで

 

不正を行う者をうらやむな。  ねたむな 不義を行う者たちを

 

彼らは草のように瞬く間に枯れる。 なぜなら青草のように早く 彼らはしぼむ

 

青草のようにすぐにしおれる。 また若草の草のように枯れる

 

主に信頼し、善を行え。  依り頼め主に そして善を行え

 

この地に住み着き、信仰を糧とせよ。 地に住め そして信仰を養え

 

主に自らをゆだねよ  そして深く喜べ 主によって

 

主はあなたの心の願い(求めるもの)をかなえてくださる。  彼はあなたに与える。

 

あなたの道を主にまかせよ。  あなたの道を、主の上に転がせ。

 

信頼せよ、主は計らい   そして彼により頼め すると彼が行う

 

あなたの正しさを光のように そして彼は出す、あなたの義を光のように

 

あなたのための裁きを  またあなたの裁きを

 

真昼の光のように輝かせてくださる。 真昼のように

 

   

 

沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。 静まれ、主に向かって そして彼を慕え

 

繁栄の道を行く者や   苛立つな、自分の道で 栄える人のことで

 

悪だくみをする者のことでいら立つな。 悪だくみをする人のことで

 

怒りを解き、憤りを捨てよ。   怒りを鎮め そして憤りを捨てよ

 

自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。苛立つな、自分もまた悪事を行おうと

 

悪事を謀る者は断たれ  なぜなら悪を行う者たちは断たれる

 

主に望みをおく人は、地を継ぐ  しかし主を待ち望む者たちは 彼らは地を継ぐ

 

しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。  もう少しすると、悪しき者はいない

 

彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。 あなたは彼の居た場所を観察する

 

貧しい人は地を継ぎ  しかしへりくだる者たちは地を継ぐ

 

豊かな平和に自らをゆだねるであろう。 そして深い喜びを得る、大いなる平安によって

 

主に従う人に向かって  企む、悪しき者は義人に向かって

 

主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが   歯軋りする、彼に向って、彼の歯を

 

主は彼を笑われる。  わが主は彼を笑う。

 

彼に定めの日が来るのを見ておられるから。 なぜなら彼は見る、彼の日が来ることを

 

主に逆らう者は剣を抜き、弓を絞り 剣を開く、悪しき者たちは、そして彼らの弓を張る

 

貧しい人、乏しい人を倒そうとし  倒すために、貧しい人と極貧の人を

 

まっすぐに歩む人を屠ろうとするが  虐殺するために、道のまっすぐな者たちを

 

その剣はかえって自分の胸を貫き  彼らの剣は彼らの心に入る

 

弓は折れるであろう。 また彼らの弓は折れる

 

主に従う人が持っている物は僅かでも     善い、義人の少しの物は

 

主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。   悪しき者の多くの富より

 

主は御自分に逆らう者の腕を折り  なぜなら悪しき者の腕は折られる

 

従う人を支えてくださる  しかし、義人たちを支える、主は

 

無垢な人の生涯を主は知っていてくださる。 主は知っている、完全な人たちの日々を

 

彼らはとこしえに嗣業を持つであろう。 そして彼らの嗣業は永遠にある

 

災いがふりかかっても、うろたえることなく  彼らは恥じない、災難の時に

 

飢饉が起こっても飽き足りていられる。 飢饉の日々も彼らは満腹する

 

しかし、主に逆らい敵対する者は必ず滅びる  確かに悪しき者たちは滅びる

 

献げ物の小羊が焼き尽くされて煙となるように。主の敵どもは太った羊たちの誉れのよう

 

に消滅する、煙の中で消滅する

 

主に逆らう者は、借りたものも返さない。悪しき者は借りる。しかし支払わない

 

主に従う人は憐れんで施す。 しかし義人は憐れむ、また与える

 

主の祝福を受けた人は地を継ぐ。 なぜなら彼に祝福された者たちは地を継ぐ

 

神の呪いを受けた者は断たれる。 しかし彼に呪われた者たちは断たれる

 

 

 

主は人の一歩一歩を定め  主によって勇者の歩みは備えられる

 

御旨にかなう道を備えてくださる。 また彼の道を彼は喜ぶ

 

人は倒れても、打ち捨てられるのではない。時に彼が倒れる、さかさに落とされない

 

主がその手をとらえていてくださる。 なぜなら主が彼の手を支えている

 

若いときにも老いた今も、わたしは見ていない わたしが若者であったときにもわたしが

 

老いた今も、しかしわたしは見なかった

 

主に従う人が捨てられ  義人が見捨てられるのを

 

子孫がパンを乞うのを  また彼の子孫がパンを乞い求めるのを

 

生涯、憐れんで貸し与えた人には  一日中彼は憐れむ、そして貸す

 

祝福がその子孫に及ぶ  すると彼の子孫は祝福に

 

悪を避け、善を行えば     離れよ、悪から。そして行え、善を

 

とこしえに、住み続けることができる。    そして永遠に住め。

 

主は正義を愛される。 なぜなら主は裁きを愛する

 

主の慈しみに生きる人々を見捨てることなく  そして見捨てない、彼を敬う者たちを

 

とこしえに見守り   永遠に彼らは守られる

 

主に逆らう者の子孫を断たれる。 しかし悪しき者たちの子孫は断たれる

 

主に従う人は地を継ぎ    義人たちは地を継ぐ

 

いつまでも、そこに住み続ける。 そして彼らは永遠にその上に住む

 

 

 

主に従う人は、口に知恵の言葉があり  義人の口は知恵を口ずさむ

 

その舌は正義を語る。  また彼の舌は裁きを語る

 

神の教えを心に抱き  彼の神の諭しは彼の心の中で

 

よろめくことなく歩む  よろめかない、彼の歩みは

 

主に逆らう者は待ち構えて  悪しき者は義人を待ち伏せする。

 

主に従う人を殺そうとする。 そして願う、彼を殺すことを

 

主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ 主は彼を見捨てない、彼の手に

 

罪に定められることをお許しにならない。また彼を罪に定めない、彼が裁かれるときに

 

主に望みをおき、主の道を守れ。 主を待ち望め、そして彼の道を守れ

 

主はあなたを高く上げて  すると彼はあなたを高める

 

地を継がせてくださる。 地を継ぐために

 

あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。 悪しき者が断たれるとき、あなたは見

 

るであろう

 

主に逆らう者が横暴を極め   わたしは見た、無慈悲な悪しき者たちを

 

野生の木のように勢いよくはびこるのを そして茂る、野生の木のようにうっそうとした

 

わたしは見た。

 

しかし、時がたてば彼は消える。 しかし彼は過ぎ去る、すると見よ、彼はいない

 

探しても、見いだすことはできないであろう。そこでわたしは彼を求める、しかし、彼は

 

見つからない。

 

無垢であろうと努め、まっすぐに見ようとせよ。守れ、完全な人を 見よ、正しい人を

 

平和な人には未来がある。  なぜなら将来が平安な人に

 

背く者はことごとく滅ぼされ  しかし背く者たちは一緒に滅ぼされる

 

主に逆らう者の未来は断たれる。 悪しき者たちの将来は断たれる

 

主に従う人の救いは主のもとから来る   しかし義人たちの救いは主から

 

災いがふりかかるとき   苦難の時

 

  砦となってくださる方のもとから。 彼らの砦

 

主は彼を助け、逃れさせてくださる  そして主は彼らを助ける。また彼らを救い出す

 

主に逆らう者から逃れさせてくださる。 悪しき者から彼らを救い出す

 

主を避けどころとする人を、主は救ってくださる。なぜなら彼らは彼の中に逃げ込む

 

          詩編第37140

 

 

 

説教題:「信仰を糧とする」

 

 さて、宗教改革記念日は、1031日です。それは、一つの出来事を記念して定められました。ドイツのマルティン・ルターがヴィツテンベルク城教会の門扉に「95カ条の提題」を貼り出しました。ローマカトリック教会がその当時民衆に免罪符を売り、免罪符を金で買う者は死後の刑罰を軽くしてもらえると教えていました。ルターは、魂の救いを金で買うということに抗議しました。それは、「聖書のみ」「信仰のみ」の立場からの堕落でした。そこでルターは、「95カ条提題」の第1条に「キリスト者の生涯は悔い改めの生涯である」と書き、神の御前に罪を悔い改め、主イエス・キリストを信じる信仰によって救われることを主張しました。

 

そしてドイツに宗教改革運動が起こり、ヨーロッパに全体に広がりました。宗教改革の3大原理と呼ばれているのが、「聖書のみ」「信仰のみ」「万人祭司」です。ローマ教会は、教会の権威を拠り所にしたのに対して、宗教改革者たちは聖書の権威を拠り所にしました。ローマ教会が人の善行を重んじたことに対して、宗教改革者たちは信仰による義を唱えました。ローマ教会が教職と信徒を差別しましたが、宗教改革者たちは「万人祭司」を唱え、神の御前における平等と誰もが礼拝を通して神に近づけることを主張しました。

 

今朝は、宗教改革と宗教改革者を心に留めて、詩編37篇の御言葉を学び、わたしたちの「信仰を糧とした」いと思っています。

 

この詩編37篇は、知恵文学と呼ばれるもの一つです。有名なものは、ヨブ記、箴言、コヘレトの言葉があります。

 

知恵は、「よく生きる技術です」。わたしたち人間は、だれでも知恵を持っています。そして知恵を働かせて、よりよく生きようと努力しています。そのために常に自分の身の周りに目を光らせて、自分がよりよく生きるために常に自分の利益となるものを追い求めていますね。そして、何が自分の命を生かし、何が自分に死をもたらすかを見極めようとしています。

 

したがって、わたしたちは、知恵ある者として、わたしたちの存在の条件について、たとえば生と死、愛と苦しみ、善と悪、神との関係、他人との関係という大問題を常に考えています。そして、どうしたら自分はよりよく生きることができるかを追い求めているのです。自分が生きる意味とは何か。どうして人生に苦しみがあるのか。子供から大人まで、青年から老人まで、この問題に国境と年齢の差別はありません。

 

知恵は本来普遍的であり、時空を超えています。人の苦しみと死、生と愛に国境も時代の差もありません。

 

さて、主なる神が指導者モーセを通して、奴隷の地エジプトからイスラエルの民を救い出し、彼らと恵みの契約を結ばれ、主なる神がイスラエルの民の神となり、イスラエルの民が神の民となりました。そして、主なる神は、イスラエルの民に契約のしるしとして割礼を施し、彼らが主なる神に服従し、神の恵みに生きるように十戒を与えられました。

 

ウェストミンスター信仰告白は、律法の時代、すなわち、旧約聖書の時代は、恵みの契約は、次のようにして執行されたと告白しています。「律法のもとでは、それは約束、預言、犠牲、割礼、過越の小羊、その他ユダヤの国民に与えられた予型や規定によって執行され、それらはすべて来るべきキリストを予示していて、約束のメシヤへの信仰に選民を教え育てるのに、その時代にとっては聖霊の働きによって十分で有効であった。このメシヤによって、彼らは完全な罪のゆるしと永遠の命を得ていた。」

 

この詩編37篇を学ぶとき、わたしたちは、この詩編が知恵文学と呼ばれているものであり、作者のダビデが律法の時代、旧約聖書の時代において恵みの契約の中に生きていたことを心に留める必要があります。

 

ダビデは、主なる神との関係の中に生きていました。その中で彼にとって大きな問題は、次のことでした。主なる神に従わない者たちがこの世で栄えていることでありました。そうした中で神の民がよりよく生きるのはどうすればよいのかという問題です。

 

主なる神に従わない者たちが今栄えているだけでありません。主なる神に従う神の民を迫害さえしているのです。神の民は、この世に栄えている悪人の存在に心を悩まさないわけにいかないのです。

 

そこで知恵がいるのです。詩編37篇の25節に「若いときにも老いた今も、わたしは見ていない。主に従う人が捨てられ、子孫がパンを乞うのを」と歌っています経験豊かなダビデの知恵が必要なのです。

 

ダビデは老人です。彼は、「若いとき」、羊飼いの少年の時に主なる神によってイスラエルの王として召されました。先代のサウル王の長い迫害を経て、ユダとイスラエルを統一し、ダビデ王国を建て、治めました。ダビデの生涯のほとんどは、戦争でした。

 

彼は、同時に一生涯主なる神との恵みの契約に生きました。そしてサウル王を始め、主なる神に従わない者たちに迫害され、苦しめられました。その度にダビデは、知恵を尽くして生きのびてきたのです。彼の豊かな信仰経験、人生経験から得た答が、37篇の111節です。

 

豊かな信仰経験、人生経験を積んだ知恵者ダビデが、「わたし」という一人称で、この詩編37篇の読者である「あなた」を諭す形で、この詩編37111節にこの詩編のテーマが歌われています。

 

ダビデは、主なる神との恵みの契約の中に生きる者に次のように諭しています。「悪人が今この世において栄えていることに心を悩ますな。主なる神への信頼に基づく正しい生き方をする者こそが、このイスラエルの約束の地を受け継ぐのだから」。

 

ダビデが3節、9節、11節で、「この地」「地を継ぎ」と言っているのは、主なる神が恵みの契約を族長アブラハムと結ばれた時より約束されたカナンの地のことです。出エジプトしたイスラエルの12部族が嗣業の地として得たカナンの地です。ダビデの王国の地でもあります。

 

ダビデは、この詩編の読者に、恵みの契約の中を生きる者に次のように勧めています。「主なる神に従う者は、いかなる困難や艱難があろうとも、主なる神がアブラハムに約束されたカナンの『地を受け継ぐ』という約束が与えられているのだから、そのことをしっかり心に刻み、主なる神を信頼し、信仰を糧にして、善を行うように」と。

 

1220節は、ダビデがサウル王の迫害を心に留めて、主に従う人に向かって主に逆らう者が迫害することを述べています。サウル王の迫害に対してダビデがしたことは、知恵を尽くして逃げることでした。サウル王がダビデを殺そうとしても、主なる神がダビデを守り、サウル王の滅びを、彼がペリシテ人に滅ぼされることを定められていました。ダビデが13節に「主は彼を笑われる。彼に定めの日が来るのを見ておられるから」と歌っているとおりです。神に従わない者は、動物犠牲のように煙となり、この主の約束の地から消し去られるのです。

 

2129節は、ダビデが神に従う人の祝福を歌っています。ダビデは、主に従う人の祝福と主に従わない人の呪いを対比して、神に祝福された人は、約束の地を受け継ぎ、神に呪われた者は、約束の地から主によって断たれると述べています。

 

ダビデは、恵みの契約に従って主なる神を信頼し、信仰を糧として、正しく生きる者に次のように励ましています。2325節です。要約すればこうなります。「主はその人の道を備え、喜ばれ、その人がどんな困難な中にあっても、主が支えられる。若い時から老人になった今までわたしは、主の約束の地において義人が捨てられ、その子孫が乞食となるのを」。

 

3040節は、この詩編のまとめです。ダビデは、主なる神に従う人のまことの幸いと主に逆らう人の最後の滅びを歌っています。

 

主に従う人は、約束の地を受け継ぎ、主なる神の民から断たれることはありません。むしろ神の民としての未来が約束されています。主なる神は、主に従う人を、恵みの契約の中に生きる者を、主なる神との平和の中に置かれ、災いの時には避け所となり、救ってくださいます。 

 

宗教改革者にとってこの詩編は、慰めとなり励ましとなったでしょう。カルヴァンは、この詩編37篇の注解書の中で次のように述べています。「この詩編の教えがいっそう有益なのは、それがわれわれの目を現世の事柄への思いから外れさせ、神がそのしもべらに助けを与えるため、み手を伸ばし、悪しき者に対して、あたかも、邪悪にも神の父らしき慈愛と寛仁を濫用する、盗賊や冒涜者に対するごとく、彼らの過去の生き方について厳しい報告を要求されるまで、神の摂理に寄り頼むように、われわれに命じるからである。」

 

ルターもカルヴァンも、ダビデが4節で「主に自らをゆだねよ」と勧めたことに従い、神の摂理に信頼しました。彼らは、彼らの前に悪をなす者に悩まされず、主イエスを信頼し、善、すなわち、主の御心に従い生きました。ルターはドイツの地に、カルヴァンはフランス人でしたが、スイスのジュネーブに住みました。ルターは聖書をドイツ語に訳し、ドイツの民衆たちの信仰を養いました。二人は生涯聖書を研究し、説教し、「聖書のみ」「信仰のみ」「神の栄光のために」生きました。

 

カルヴァンは、この詩編註解において次のように述べています。「ある信仰者は窮乏の中にある、ということが起こるであろう。そのようにあることが、彼らにとって有益であるからである。そこで、たとえある信仰者が、やむなく、その生活の糧を乞い歩くことがあろうとも、その心を高く挙げ、現在、この世的な祝福において欠けのあるところを、神が大いに報いてくださる浄福に満ちた嗣業に目を留むべきである。」

 

信仰を糧とする。宗教改革者たちを通して、わたしたちもダビデの勧める神の摂理に信頼し、この諏訪の地に住み、神の御心を行い、来るべき御国に、わたしたちの心を高く挙げて生きて行こうではありませんか。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、宗教改革と宗教改革者を覚えて、詩編37篇を通して、「信仰を糧とする」という題で礼拝の説教を聞きました。ダビデがわたしたちに悪人のこの世における一時的な栄えに心悩まさないで、神の摂理に身を委ねて、主を信じ、主の御心を行い、来るべき約束の神の御国に、わたしたちの信仰の心を高く挙げて生きるように促されました。信仰の弱い者ですが、弱いなりに、この世においてよりよく主に身を委ねて生きることができるように、聖霊なる神よ、今朝の御言葉を通してわたしたちに知恵をお与えください。聖霊と御言葉を通して与えられた知恵を通して、わたしたちキリスト者の未来の祝福、わたしたちが嗣業する神の御国を見させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

詩編説教038                  主の20131117

 

 

 

     賛歌。ダビデの詩。記念。        賛歌 ダビデの 記念するための

 

主よ、怒ってわたしを責めないでください。  主よ、墳怒によってわたしを責め立てず

 

憤って懲らしめないでください。    憤りによってわたしを懲らしめないでください。

 

 

 

あなたの矢はわたしを射抜き  なぜならあなたの矢がわたしの中に突き刺さったから。

 

御手はわたしを押さえつけています。 また下った。わが上に、あなたの御手が

 

わたしの肉にはまともなところもありません。 わが肉に健全なところはない。

 

   あなたが激しく憤られたからです。  あなたの激しい憤りのために

 

骨も安らぎがありません。   わが骨の中に平安がない。

 

  わたしが過ちを犯したからです。 わが過ちのために

 

わたしの罪悪は頭を越えるほどになり なぜならわが咎がわたしの頭を越えるから。

 

耐え難い重荷となっています。    重い荷のように、わたしより重くなる。

 

負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます   わが傷は悪臭を放ち、膿む。

 

  わたしが愚かな行いをしたからです。 わが愚かさのために

 

わたしは身を屈め、深くうなだれ  わたしは屈み、うなだれる、非常に。

 

一日中、嘆きつつ歩きます。   一日中、顔が曇りつつ、わたしは歩き続ける。

 

腰はただれに覆われています。  なぜならわが腰はただれで満ちているから。

 

わたしの肉にはまともなところもありません。またわが肉には健全なところがない。

 

もう立てないほど打ち砕かれ   わたしはしびれる。またつぶされる。非常に。

 

心は呻き、うなり声をあげるだけです。 わたしはわが心の呻きからうなる。

 

   

 

わたしの主よ、わたしの願いはすべて御前にあり  主よ、あなたの御前に

 

嘆きもあなたには隠されていません。またわが嘆きは、あなたから隠されていない。

 

心は動転し、力はわたしを見捨て  わが心はわななき、わが力はわたしを離れた。

 

目の光もまた、去りました。 またわが目の光は それもまた、わたしと共にない。

 

疫病にかかったわたしを  わたしを愛する者たちとわが友人たちは

 

  愛する者も友の避けて立ち  わが疫病に向かって立つ。

 

わたしに近い者も、遠く離れ立ちます。 またわが近親者たちは、遠くに立つ。

 

わたしの命をねらう者は罠を仕掛けます。そして罠を仕掛ける、わが魂を求める者は

 

わたしに災いを望む者は  またわが災いを求める者は、滅びを語る。

 

  欺こう、破滅させよう、と決めて  そして、欺瞞を、一日中つぶやく。

 

一日中それを口にしています。

 

 

 

わたしの耳は聞こえないかのように わたしは耳が聞こえない者のように

 

  聞こうとはしません。   聞こえません。

 

口は話せないかのように、聞こうとはしません。しゃべれない者のように

 

わたしは聞くことのできない者 わたしは聞かない人のようになった。

 

口に抗議する力もない者となりました。 彼の口に非難がない。

 

 

 

主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。なぜなら、

 

わたしの主よ、わたしの神よ

 

御自身でわたしに答えてください。 あなたは答えたまえ、わが主よ、わが神よ。

 

わたしは願いました。なぜならわたしは言った。彼らがわたしについて喜ばないように。

 

「わたしの足がよろめくことのないように

 

彼らがそれを喜んで       わが足が揺らぐ時、わたしに対して彼らが大きくなる。

 

尊大にふるまうことがないように」と。

 

わたしは今や、倒れそうになっています。なぜならわたしは、今にもつまずきそうである。

 

苦痛を与える者ものが常にわたしの前にあり そしてわが痛みはわたしの前に、常に。

 

わたしは自分の罪悪を言い表そうとして なぜならわが咎を、わたしは告げる。

 

犯した過ちのゆえに苦悩しています。 わたしは心配する、わが罪のために。

 

わたしの敵は強大になり そしてわが敵どもは、生き生きとして強くなる。

 

わたしを憎む者らは偽りを重ね また多い、偽りのわたしを憎む者たちが。

 

善意に悪意をもってこたえます。 そして善に代わり悪を報いる者たちは

 

わたしは彼らの幸いを願うのに  彼らはわたしに敵対する。

 

彼らは敵対するのです。  わたしが善を追求する代わりに。

 

 

 

主よ、わたしを見捨てないでください。

 

わたしの神よ、遠く離れないでください。

 

わたしの救い、わたしの主よ   急ぎたまえ、わが助けのために

 

すぐにわたしをたすけてください。

 

          詩編第38123

 

 

 

説教題:「神よ、見捨てないでください」

 

詩編38篇は、ダビデの賛歌であり、詩です。1節の見出しにある「記念」とは何か、詳しいことは分かっていません。

 

ダビデは重病人です。ダビデの病気について、旧約聖書のサムエル記と列王記には、何も記されていません。詩編の中でのみ、わたしたちはダビデが病気になったことを知ることができます。

 

ところで、わたしたちは、病気と罪についてどう考えているのでしょうか。ことわざに「病は気から」と言いますね。「病気は、気の持ちようで良くも悪くもなる」という意味です。

 

その「気」とは「心の持ちよう」でしょうか。あるいは「気分」でしょうか。昔、中国から来ました陰陽思想によると「気」とは、わたしたち人間の存在を成り立たせている質料であると教えています。

 

 病気を、古代の人々はもっと深い問題であると考えていたのではないでしょうか。ところが、今日テレビドラマで「ドクターX」のような外科医のドラマが流行り、名医が外科手術すると病人は簡単に治るように、わたしたちは思わされています。

 

 ダビデは、自分の病気を単純に医者に見せれば、解決できるとは信じていません。なぜなら、彼は自分の病気を自分の罪の結果であると確信しているからです。

 

 ダビデは、わたしたちとは異なり、病気は主なる神から送られてくると信じていました。ですから彼は、主なる神に向かって2節で「主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。」と祈り嘆願しています。

 

彼の病気は、主なる神が彼に送られたものです。主なる神の怒りと憤りの刑罰です。ダビデは、彼の罪に対する主なる神の刑罰を、彼の病気と理解し、罪の赦しと病気からの回復を祈り求めています。

 

 病気のことを、3節でダビデは「あなたの矢」、すなわち、「神の矢」と呼んでいます。主なる神がダビデに向けて神の刑罰としての病気を矢のように放たれました。神の矢である病気は、見事にダビデであたり、彼の体を刺し通しました。その結果、4節でダビデは主なる神に「わたしの肉にはまともなところがありません」と訴えています。病気のためにダビデは肉体の健康が損いまいました。「骨にも安らぎがない」ほど、ダビデは重病人となりました。

 

 5節と6節を見ますと、ダビデは、自分の病気の原因を知っています。主なる神がダビデを激しく怒り、憤られ、病気を彼に下されたのは、彼が主なる神の御前に罪を犯したからです。

 

ではダビデはどうして罪を犯したのか。ダビデは、主なる神に5節で「わたしの罪悪は頭を越えるほどになり耐え難い重荷となっています」と告白していますね。この「罪悪」は、咎のことです。最初の人類であり、人類の代表者であったアダムが、エデンの園において神の御前に罪を犯しました。これを原罪と言います。それによって生まれてくるすべての人には、咎があります。咎とは、人間が腐敗して生まれることです。この腐敗は霊的で、わたしたちの目には見えません。しかし、聖なる神の御目には、ダビデはじめ、すべての人間は咎があり、腐敗に満ちています。

 

それゆえにダビデには、咎が耐え難い重荷になっていました。それはすべての人類が生まれながらに負わされた傷として、くさい臭いを放つように目に見える愚かな罪として現れてきます。ダビデが人妻バト・シェバと犯した姦淫の罪がよく知られていますね。

 

7節の「わたしは身を屈め、深くうなだれ、一日中、嘆きつつ歩きます」は、ダビデの悲嘆と苦しみをあらわす行動です。重病人のダビデは、主なる神に対する彼の罪に苦しんでいるのです。

 

そして、この苦しみは、彼が自力で解決できる問題ではありませんでした。それゆえ8節でダビデは、主なる神に「腰はただれに覆われています」と告白しています。「腰」は、文字どおりの「腰」のことではありません。わたしたちは、心を示す時に心臓を指差しますね。良心の痛みを、「わたしの胸が痛い」というように表現します。ダビデの時代の人々は、腰を指差しました。そこにわたしたちの感情の座、心があると信じていました。8節は、今でいえばダビデが良心の痛みを告白しているのです。そして、8節と9節においてダビデは、罪によって自分の体も心も健全さを失い、到底自分で自分の罪は解決できないし、自分は全く無力な者であると告白しているのです。

 

しかし、同時にダビデは、自分の外に希望を持っています。病気をダビデに送られたのは、主なる神です。同時にダビデの罪を赦し、ダビデの病気を回復してくださるのも、主なる神です。何よりもダビデを守り、救われるお方は、主なる神以外にありません。

 

だから、ダビデは、10節で「わたしの主よ、わたしの願いはすべて御前にあり」と祈り、訴え、16節で「主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。わたしの主よ、わたしの神よ。御自身でわたしに答えてください」と祈り、21節で「主よ、わたしを見捨てないでください。」と嘆願し、そして23節で急いで救ってくださいと祈り求めているのです。

 

ダビデは、11節でも自分の無力さを告白しています。彼の心は動転し、自ら立ち上がる気力は失われ、彼の目から光が失われるように、自分に信頼することもできなくなりました。

 

では、人に頼ることはどうでしょうか。12節です。ダビデの病気が何か、分かりません。ヨブ記にヨブが体中にできものができて、病気した時、友人たちと妻から見放されたことを記しています。友も肉親も病気のヨブの助けになりませんでした。同様に、重病人のダビデに対して、愛する友たちも肉親の者たちも助けになりません。ダビデを見放しました。

 

それどころか、ダビデの命を狙っていた敵が、ダビデに罠を仕掛けてきました。彼らは、ダビデの災いと不幸を喜ぶ者たちです。何とかダビデを滅ぼそうと、一日中謀をめぐらしています。

 

重病人のダビデは、1415節にありますように全くの無力です。耳の聞こえない人と話すことのできない人と同じです。敵に対して何もできません。非難することも抗議することもできません。

 

だから、ダビデは、主なる神にすべてを委ねるのです。ダビデは、主なる神に祈ります。敵がダビデのつまずきとよろめくのを見て、喜び、尊大にならないようにと。

 

1821節に重病人のダビデの置かれている環境の厳しさが歌われています。ダビデは、自力で自分を助けることも、友や肉親たちに助けてもらうこともできません。一日中、主なる神が放たれた矢である重病の中で、ダビデは自分の罪と敵に日々苦しめられています。どんなにダビデが神の御前に自分の罪に苦しんでも、18節の「苦痛を与えるものが常にわたしの前にあり」という現実は変わりません。罪の苦しみと敵から与えられる苦しみは変わりません。19節と20節にダビデが罪に苦しめば苦しむほど、敵はますます強大になり、ダビデの善意を悪意に代えて、ダビデに向かって来るのです。

 

ダビデにとって主なる神のみが救いであり、助けであり、希望です。それゆえにダビデは、2223節で主なる神の救いを祈り求めるのです。第1にダビデは、主なる神に見捨てないでくださいと祈ります。第2に主なる神に離れないでください、共にいてくださいと祈ります。第3にすぐに救ってくださいと祈ります。

 

実は、詩編38篇は、詩編6篇、詩編32篇に続く、第3番目の「悔い改めの詩編」であります。4節と6節と19節にダビデは、罪に対する主なる神の怒りと憤りを自分の病気の原因であると明確に言い表しています。どちらか言えば、ダビデは罪の苦しみに喘ぎ、主なる神にのみ助けを祈り求めています。

 

残念ながら、わたしたちは、ダビデの祈りを主なる神が聞き届けてくださって、ダビデが救われたことを知ることはできません。

 

しかし、この詩編を通して、わたしたちは一つのことを学ぶことができます。それは、わたしたちキリスト者がダビデ同様に、まことの悔い改めと信仰を持っていることです。このダビデの悔い改めの詩編からその喜びを教えられます。

 

すなわち、ダビデのようにまことの悔い改めと信仰も持つ者は、ダビデ同様に自分と人に対して失望しても、神に対しては失望しません。

 

わたしたちは、ダビデ同様に自分の罪によって、主は怒りと憤りの矢をわたしたちに放たれ、わたしたちはこの世において、自分の家庭の中に、職場に、住んでいる地域の中で、また日本の国においてあらゆる苦しみに遭い、神からの罰に服して生きているのです。ダビデのように自分の罪に毎日苦しんでいるのです。それは自分の病気だけではありません。自然災害も、人災も戦争も、人間関係の不和も、わたしたちキリスト者のこの世におけるすべての苦しみは、ダビデが告白するようにわたしたちの罪と関係し、主が御自身の怒りの矢をわたしたちに放たれた結果、生じているのです。

 

それゆえにわたしたちの苦しみは、自分に絶望し、人に絶望する厳しい環境にダビデのようにわたしたちを置くのです。しかし、わたしたちは、ダビデ同様に、苦しみに耐えながら、なお主なる神を、救い主イエス・キリストに向かって憐れみを求め、助けを祈り求める希望が与えられているのです。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、詩編38篇を通して、ダビデの悔い改めの詩編を学びました。ダビデ同様にわたしたちも自分たちの罪のゆえにこの世おいて多くの苦しみと悩みを耐え忍んでいます。ダビデのように自分に絶望し、人に絶望しています。しかし、ダビデと同じようにわたしたちの救い主イエスに望みを持ち、救いを求める希望があることを感謝します。いよいよ来月はクリスマスを迎えます。わたしたちの希望である救い主イエスを・キリストを、諏訪の地の人々に伝えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。