詩編説教018                  主の2012226

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、わたしたちの耳をお開きください。今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。わたしたちの心を開いて、主イエスをわたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主の御心を知り、行わせて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた。

 

主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。「そして彼は言った、わたしはあなたを慕う。」

 

主はわたしの岩、砦、逃れ場

 

わたしの神、大岩、避けどころ「わたしの神、わたしの大岩、わたしは彼の中に逃げ込む」

 

わたしの盾、救いの角、砦の塔 「高き砦」

 

ほむべき方、主をわたしの呼び求め

 

敵から救われる。「わたしの敵ども、わたしは救われる」

 

 

 

死の縄がからみつき 「わたしにからみつく死の縄目が」

 

奈落の激流がわたしをおののかせ 「そして破滅の川が」

 

陰府の縄がめぐり 「陰府の縄目がわたしを取り囲む」

 

死の網が仕掛けられている。「わたしを待ち伏せる、死の罠が」

 

苦難の中から主を呼び求め 「わたしの悩みの時に、わたしは主を呼ぶ」

 

わたしの神に向かって叫ぶと

 

その声は神殿に響き 「彼は聞く、彼の神殿からわたしの声を」

 

叫びは御前に至り、御耳に届く。「そしてわたしの叫びは、彼の御前に彼の耳に入る」

 

 

 

主の怒りは燃え上り、地は揺れ動く。「そして揺れ動き、震える、地は」

 

山々の基は震え、揺らぐ。「そして山々の基は震え、そして揺れ動く。なぜなら彼が怒る」

 

御怒りに煙が噴き上がり「煙が上がる、彼の鼻に」「そして彼の口から火が食い尽す」

 

御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。「炭火が彼から燃え上る」

 

主は天を傾けて降り「すると彼は傾ける、天を。そして降る」

 

密雲を足もとに従え「そして密雲を彼の足もとに」

 

ケルプを駆って飛び「そして彼は乗る、ケルプの上に、そして飛ぶ」

 

風の翼に乗って行かれる。「そして彼は滑空する、風の翼の上に」

 

周りに闇を置いて隠れがとし「彼は置く、闇を。彼の周りに彼の隠れがとして」

 

暗い雨雲、立ちこめる霧を幕屋とされる。「彼の幕屋を、水の暗闇を、天の雨雲を」

 

御前にひらめく光に雲は従い「彼の真向かいの輝きから彼の雨雲が通り過ぎる」

 

雹と火の雨が続く。「雹と火の炭が」

 

主は天から雷鳴をとどろかせ「そして雷鳴をとどろかす、天の中で主は」

 

いと高き神は御声をあげられ「またいと高き方は与える、彼の声を」

 

雹と火の雨が続く。「雹と火の炭を」

 

主の矢は飛び交い「そして彼は彼の矢を放つ。そして彼らを追い散らす。」

 

稲妻は散乱する。「そして稲妻を、多くなる、そして彼らを茫然とさせる」

 

主よ、あなたの叱咤に海の底は姿を現し「そして現れる、水の川底が」

 

あなたの怒りの息に世界はその基を示す。「現れる、世界の基が、あなたの叱咤により」

 

                    「主よ、あなたの鼻の霊の息により」

 

主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ「彼は遣わす、高い所から私を捕らえる」

 

大水の中から引き上げてくださる。「わたしを引き上げる、多くの水の中から」

 

敵は力があり「彼はわたしを救い出す、強いわたしの敵から。またわたしを憎む者から。」

 

わたしを憎む者は勝ち誇っているが 「なぜなら、彼らはわたしよりも強い。」

 

なお、主はわたしを救い出される。

 

彼らが攻め寄せる災いの日「彼らがわたしに攻め寄せる、わたしの災難の日に」

 

主はわたしの支えとなり「主はわたしにとって支え」

 

わたしを広い所に導きだし、助けとなり「わたしを引き出す、広い所に私を助け出す」

 

喜び迎えてくださる。「なぜなら、彼はわたしを愛している。」

 

 

 

主はわたしの正しさに報いてくださる。「わたしに報いる、主は。わたしの義に従って」

 

わたしの手の清さに応じて返してくださる。「わたしの両手の清さに従って、彼は返す」

 

わたしは主の道を守り「なぜなら、わたしは主の道を守る」

 

わたしの神に背かない。「そしてわたしは悪を行わない。わたしの神から」

 

わたしは主の裁きをすべて前に置き「なぜなら、すべての彼の裁きは、わたしの前に」

 

主の掟を遠ざけない。「そして彼の掟を、わたしはわたしから遠ざけない」

 

わたしは主に対して無垢であろうとし「そしてわたしは彼と共に完全である」

 

罪から身を守る。「そしてわたし自身を守る、わたしの罪から」

 

主はわたしの正しさに応じて返してくださる。「そして返す、主は。私に、私の義に従って」

 

御目に対してわたしの手は清い。「わたしの両手の清さに従って、彼の目の真向かいで」

 

 

 

あなたの慈しみに生きる人に「慈しみ深い人と共に、あなたは慈しみ深くある」

 

  あなたの慈しみを示し

 

無垢な人には無垢に「完全な男と共に、あなたは完全である」

 

清い人には清くふるまい「清い者と共に、あなたは清くある」

 

心の曲がった者には背を向けられる。「ひねくれ者と共に、あなたはひねくれる」

 

あなたは貧しい民を救い上げ「なぜならあなたは貧しい民を救う」

 

高ぶる目を引き下ろされる。「そして高い目を、あなたは低くする。」

 

主よ、あなたはわたしの灯を輝かし「なぜなら、あなたはわたしの灯を輝かす、主よ」

 

神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。「わたしの神はわたしの闇を照らす」

 

あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし「なぜならあなたによって私は走って行く、

 

わたしの神によって、城壁を越える。    略奪隊を」

 

神の道は完全「神、彼の道は完全な」

 

主の仰せは火で練り清められている。「主の言うことは精錬されている」

 

すべて御もとに身を寄せる人に「彼は彼にすべて逃げ込む者たちの盾である」

 

  主は盾となってくださる。

 

 

 

主のほかに神はない。「まことにだれが主以外に神」

 

神のほかに我らの岩はない。「まただれが我らの神のほかに大岩」

 

神はわたしに力を帯びさせ「彼はわたしに力を帯びさせる方」

 

わたしの道を完全にし「そして彼はわたしの道を完全にする」

 

わたしの足を鹿のように速くし「彼は私の両足を牡鹿と同じようにする方」

 

高い所に立たせ「そしてわたしの高い所の上に、彼はわたしを立たせる」

 

手に戦いの技を教え「わたしの両手に戦いのために教える方」

 

腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。「わたしの両腕で青銅の弓を引く」

 

 

 

あなたは救いの盾をわたしに授け「そしてあなたはわたしにあなたの救いの盾を与える」

 

右の御手で支えてくださる。「そしてあなたの御手はわたしを支える」

 

あなたは、自ら降り「またあなたの謙遜は、わたしを強くする」

 

  わたしを強い者としてくださる。

 

わたしの足は大きく踏み出し「あなたは広げる、わたしの下にわたしの歩幅を」

 

くるぶしはよろめくことがない。「それでよろめかない、わたしのくるぶしは」

 

敵を追い、敵に追いつき「わたしは追う、わたしの敵どもを。そして彼らに追いつく」

 

滅ぼすまで引き返さず「そしてわたしは帰らない、彼らを滅ぼすまで」

 

彼らを打ち、再び立つことを許さない。「私は彼らを打ち破る。彼らは立つことができない」

 

彼らはわたしの足もとに倒れ伏す「彼らは倒れる、わたしの両足の下に」

 

あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせ「またあなたは帯びさせる、戦いのための力を」

 

刃向かう者を屈服させ「あなたは屈服させる、わたしに刃向かう者たちを、わたしの下に」

 

敵の首筋を踏ませてくださる。「そしてわたしの敵どもを、あなたは私に与えた。首筋を」

 

わたしを憎む者をわたしは滅ぼす「また私を憎む者たちを、わたしは彼らを滅ぼす」

 

彼らは叫ぶが、助ける者は現れず「彼らは叫ぶ、しかし、救う者がいない。」

 

主に向かって叫んでも答はない。「主に対して、しかし彼は彼らに答えない」

 

わたしは彼らを風の前の塵と見なし「そしてわたしは彼らを粉にする。風の前の塵のよう

 

野の土くれのようにむなしいものとする。 にする。外の泥のように、彼らを空にする。」

 

あなたはわたしを民の争いから解き放ち「あなたはわたしを助け出す、民の争いから」

 

国々の頭としてくださる。「あなたはわたしを置く。異邦人たちの頭に」

 

わたしを知らぬ民もわたしに仕え「民はわたしが知らない、わたしに仕える」

 

わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い「耳で聞くと、彼らは私に聞き従う」

 

敵の民は憐れみを乞う。「外国の子らはわたしにへつらう」

 

敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。「外国の子らはしおれる。また震える、彼らの砦

 

から」

 

主は命の神。「生きている、主は。」

 

わたしの岩を称えよ。「そしてほむべきかな、わたしの大岩は」

 

わたしの救いの神をあがめよ。「そして高められる、わたしの救いの神は」

 

わたしのために報復してくださる神よ「神は、わたしのために復讐をさせる方」

 

諸国の民をわたしに従わせてください。「そして従わせる、諸国民を、わたしの下に」

 

敵からわたしを救い「わたしを助け出す方、わたしの敵どもから」

 

刃向かう者より高く上げ「またわたしに刃向かう者たちから、わたしを高く上げる」

 

不法の者から助け出してください。 「暴虐の人から、あなたはわたしを助け出す」

 

主よ、国々の中で 「それゆえわたしはあなたに感謝する。諸国民の中で、主よ」

 

  わたしはあなたに感謝をささげ

 

御名をほめ歌う。 「そしてあなたの名に、わたしはほめ歌おう」

 

主は勝利を与えて王を大いなる者とし 「彼は彼の王の救いを大きくする」

 

油を注がれた人を、ダビデとその子孫を 「そして施す、慈しみを、彼の油注がれた者に」

 

とこしえまで 「ダビデに、また彼の子孫に、永遠まで」

 

  慈しみのうちにおかれる。

 

                   詩編第18151

 

 

 

 説教題:「主なる神は命の神」

 

 今朝は、詩編第18篇の御言葉を学びましょう。ダビデ王が賛美した「王の感謝の歌」です。サムエル記下第22章にそのままこの詩編が記されています。

 

 1節の詩編の表題にも、この詩編がダビデ王の作であると説明しています。ダビデ王は、主なる神によって彼のすべての敵たちとサウル王の手から救い出された日に、感謝して賛美しました。

 

 少し長い詩編ですので、前半と後半に分けて、学びたいと思います。今朝は、132節までを学びましょう。

 

 ダビデ王は、一人の戦う戦士として、主なる神を心から信頼し、彼の生涯を歩みました。

 

24節は、ダビデ王の主なる神への信仰告白であり、賛美です。ダビデ王は、「わたしはあなたを慕う。主よ、わたしの力よ」と、主なる神への信頼を告白します。

 

ダビデ王の生涯は、サウル王をはじめに、イスラエル王国の周辺にあります諸国のすべての敵たちと戦う日々でした。ダビデ王は、「わたしの力の主」である主なる神に、一戦士として力を与えられ、「砦」「避けどころ」「盾」である主なる神に命の危険から守られました。主なる神は、ダビデ王にとって難攻不落の城であり砦でした。

 

47節にダビデ王は、「主は命の神」と告白していますね。これは、「生ける神である、主は」という、ダビデ王の信仰告白です。

 

ダビデ王が信頼する神、慕い、愛する神は、命の神です。今生きておられる神です。彼が死の危険にあり、助けを求めると、彼の声に答えて、すべての敵から救い出してくださる神です。

 

57節にダビデ王は命の危険から主なる神に助けを求めたことを歌っています。ダビデ王は海の津波の恐ろしさを経験したことがあったのでしょうか。「彼にからみつく死の縄目」、「奈落の激流」、これは破滅の川であります。「陰府の縄目が彼を取り囲む」、死と滅びが彼を取り囲むという意味です。「死の網が仕掛けられている」。東日本大震災の津波の恐ろしさを思い起こす方もあるでしょう。

 

目の前は死である、滅びである。その絶望の中で、ダビデ王は生きておられる、命の神である主を呼び求めました。

 

生きる神、主は、ダビデ王がエルサレムに運んだ神の箱に、その箱を納めるために設けた神の幕屋に居てくださいます。主は、人の耳を創造されたお方であり、ダビデが助けを求める声を、神の幕屋から聞き届けてくださいました。

 

816節は、命の神、生ける主なる神の臨在を、ダビデ王は賛美しています。生きる神主は、地震の中、火の中、密雲の中、暗い嵐の雨の中、天からの雷鳴の中におられます。これは、イスラエルの民が出エジプトにおいてシナイ山で体験した主なる神の現臨です。

 

出エジプト記191819節にこう記されています。「シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。」

 

15節の「主の矢」は稲妻のことです。それは、地を震え上がらせる神の武器です。16節は、主が嵐によって紅海の水を干上がらせ、民たちが海底を渡った体験から生まれた表現です。ダビデ王は、海の津波のように敵意に満ち、人に死をもたらすような大水でさえ、嵐のような神の怒りの前に退くことを賛美しています。生ける神である主は、ダビデ王を津波のように恐ろしい敵たちの危険からお救いくださるのです。

 

1720節は、生ける神、主の主権的な救いを、神の愛を、ダビデ王が賛美しています。主は、高い天におられます。そこから主権的にダビデ王に助けの手を伸ばされます。ダビデ王は、地の上で、この世で、津波のように人を滅ぼす大勢の敵たちに取り囲まれています。敵たちはダビデ王に対して勝利を確信しています。四面楚歌の中でダビデ王を救われるのは、命の神である主です。

 

「広い所に導き出す」とは、主なる神がダビデ王を彼の苦難から解放するという意味です。ダビデ王が主なる神の救いを確信できるのは、「喜び迎えてくださる」(20)からです。これは、ヘブライ語をそのまま日本語にすれば、「なぜなら、彼はわたしを愛している」となります。

 

使徒パウロが、ローマの信徒への手紙831節以下にキリスト者があらゆる苦難に勝利する秘訣がキリストのわたしたちへの愛にあることを教えていますね。復活のキリストは高き所にいます。父なる神の右にいます。そこからこの地に住むわたしたちを愛してくださる、この愛から地上のどんな苦難も死も、わたしたちを引き離すことはできません。

 

2125節は、ダビデ王が生ける神主は主に忠実な者に対して忠実に報いられることを教えています。ダビデ王は、自分が罪のない人間であると自らを誇り、主張しているのではありません。神がダビデ王を一方的に愛してくださって、主なる神に服従できるようにしてくださるのです。罪から離れるようにしてくださるのです。主なる神を礼拝し、神の御言葉を聞き、従えるように、信仰の道に歩ませてくださるのです。

 

2632節は、ダビデ王が非の打ちどころのない神の道を賛美します。主なる神は、ダビデ王を、そして王と同様に主なる神を信じる者を愛して、御自身のところに喜び迎えるために、非の打ちどころのない神の救いの道を示されています。

 

それは、主の慈しみに生きる人には、主の慈しみを示し、清い人には清くふるまい、心の曲がった者には背を向け、貧しい民を救い、おごる者を低くし、ダビデ王の心に信仰の灯を灯し、神の民の王として民を主なる神に導くようにされています。ダビデ王は、生ける神に城壁のように守られ、また主より力を与えられて、諸国のすべての敵たちに勝利したと歌っています。

 

ダビデ王から、わたしたちは、命の神、生きておられる主なる神を学びます。主は生きておられ、今も苦難の中にあるわたしたちの叫びの声を、この教会の礼拝を通して聞いてくださっており、助けの手を差し出されています。

 

あらゆる苦難からダビデ王を救われた主は、わたしたちを救われるお方でもあります。ダビデ王に「わたしはあなたを愛する」と言われ、御自身のところに喜んで迎え入れられる主は、わたしたちをキリストの十字架を通して愛してくださるお方です。わたしたちに聖霊を遣わされ、わたしたちを、従順にキリストに従わせるお方です。神を礼拝し、御言葉に生きるように導いてくださるお方です。罪からわたしたちを守り、広き所である天の御国に導き、わたしたちをこの世の苦しみから解放してくださいます。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、あなたは命の神、生きておられます。どうかダビデ王のようにわたしたちの助けを求める声を聞き取り、わたしたちを苦しみから解放してください。キリストの十字架を覚えて、レントの季節を過ごします。キリストを通して示された神の愛に常に心を向けて、この世を歩ませて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 詩編説教0182                  主の2012429

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、わたしたちの耳をお開きください。今朗読される聖書の御言葉とその説き明かしである説教を理解させてください。わたしたちの心を開いて、主イエスをわたしたちの救い主として喜んで受け入れ、主イエスに信頼し、服させて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

 主のほかに神はない。「まことにだれが主以外に神」

 

神のほかに我らの岩はない。「まただれが我らの神のほかに大岩」

 

神はわたしに力を帯びさせ「彼はわたしに力を帯びさせる方」

 

わたしの道を完全にし「そして彼はわたしの道を完全にする」

 

わたしの足を鹿のように速くし「彼は私の両足を牡鹿と同じようにする方」

 

高い所に立たせ「そしてわたしの高い所の上に、彼はわたしを立たせる」

 

手に戦いの技を教え「わたしの両手に戦いのために教える方」

 

腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。「わたしの両腕で青銅の弓を引く」

 

 

 

あなたは救いの盾をわたしに授け「そしてあなたはわたしにあなたの救いの盾を与える」

 

右の御手で支えてくださる。「そしてあなたの御手はわたしを支える」

 

あなたは、自ら降り「またあなたの謙遜は、わたしを強くする」

 

  わたしを強い者としてくださる。

 

わたしの足は大きく踏み出し「あなたは広げる、わたしの下にわたしの歩幅を」

 

くるぶしはよろめくことがない。「それでよろめかない、わたしのくるぶしは」

 

敵を追い、敵に追いつき「わたしは追う、わたしの敵どもを。そして彼らに追いつく」

 

滅ぼすまで引き返さず「そしてわたしは帰らない、彼らを滅ぼすまで」

 

彼らを打ち、再び立つことを許さない。「私は彼らを打ち破る。彼らは立つことができない」

 

彼らはわたしの足もとに倒れ伏す「彼らは倒れる、わたしの両足の下に」

 

あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせ「またあなたは帯びさせる、戦いのための力を」

 

刃向かう者を屈服させ「あなたは屈服させる、わたしに刃向かう者たちを、わたしの下に」

 

敵の首筋を踏ませてくださる。「そしてわたしの敵どもを、あなたは私に与えた。首筋を」

 

わたしを憎む者をわたしは滅ぼす「また私を憎む者たちを、わたしは彼らを滅ぼす」

 

彼らは叫ぶが、助ける者は現れず「彼らは叫ぶ、しかし、救う者がいない。」

 

主に向かって叫んでも答はない。「主に対して、しかし彼は彼らに答えない」

 

わたしは彼らを風の前の塵と見なし「そしてわたしは彼らを粉にする。風の前の塵のよう

 

野の土くれのようにむなしいものとする。 にする。外の泥のように、彼らを空にする。」

 

あなたはわたしを民の争いから解き放ち「あなたはわたしを助け出す、民の争いから」

 

国々の頭としてくださる。「あなたはわたしを置く。異邦人たちの頭に」

 

わたしを知らぬ民もわたしに仕え「民はわたしが知らない、わたしに仕える」

 

わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い「耳で聞くと、彼らは私に聞き従う」

 

敵の民は憐れみを乞う。「外国の子らはわたしにへつらう」

 

敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。「外国の子らはしおれる。また震える、彼らの砦

 

から」

 

主は命の神。「生きている、主は。」

 

わたしの岩を称えよ。「そしてほむべきかな、わたしの大岩は」

 

わたしの救いの神をあがめよ。「そして高められる、わたしの救いの神は」

 

わたしのために報復してくださる神よ「神は、わたしのために復讐をさせる方」

 

諸国の民をわたしに従わせてください。「そして従わせる、諸国民を、わたしの下に」

 

敵からわたしを救い「わたしを助け出す方、わたしの敵どもから」

 

刃向かう者より高く上げ「またわたしに刃向かう者たちから、わたしを高く上げる」

 

不法の者から助け出してください。 「暴虐の人から、あなたはわたしを助け出す」

 

主よ、国々の中で 「それゆえわたしはあなたに感謝する。諸国民の中で、主よ」

 

  わたしはあなたに感謝をささげ

 

御名をほめ歌う。 「そしてあなたの名に、わたしはほめ歌おう」

 

主は勝利を与えて王を大いなる者とし 「彼は彼の王の救いを大きくする」

 

油を注がれた人を、ダビデとその子孫を 「そして施す、慈しみを、彼の油注がれた者に」

 

とこしえまで 「ダビデに、また彼の子孫に、永遠まで」

 

  慈しみのうちにおかれる。

 

                   詩編第183251

 

 

 

 説教題:「主の他に神はない」

 

 今朝は、詩編第183251節の御言葉を学びましょう。この詩編の後半である3251節は、ダビデ王が主なる神に感謝した賛美であります。

 

 ダビデ王は、主なる神に3つのことを感謝しています。第1の感謝は、3235節の御言葉です。ダビデ王は、生涯戦士でありました。サウル王に仕えて以来、日々戦いに明け暮れていました。

 

3235節の御言葉は、ダビデ王が常に主なる神に整えていただいて、戦いを準備し、勝利に導かれたことを感謝しています。

 

もしダビデ王の戦いを一枚の絵に描くならば、「主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない」という御言葉を額縁にして描かなければ、ダビデ王の戦いの絵は仕上げることができません。

 

ダビデ王は、主なる神に心から感謝し、「まことに、だれが神であろうか、主なる神をおいて。だれが岩であろうか、われらの神のほかに」と声高らかに賛美しています。

 

ダビデ王のすべての戦いは、主なる神が戦いの準備を整えてくださいました。主は、ダビデ王に戦う力を与えられました。主はダビデ王を「高台に立たせて」、戦いの勝利を賜りました。

 

だから、ダビデ王は、戦いを教え、勝利に導く主なる神のみに信頼を寄せました。「戦いにおいてわたしを助けたのは、主なる神のみであり、ほかにない」と。

 

ダビデ王同様にわたしたちキリスト者は、この世において信仰の戦いがあります。わたしたちは、キリストの兵士です(Ⅱテモテ23)

 

わたしたちの信仰の戦いを、1枚の絵に描くと、「主イエスのほかに神はない。主イエスのほかに我らの救いはない」という額縁が必要です。主イエスは、キリスト者のすべての信仰の戦いを整えてくださいます。わたしたちに聖霊と御言葉によって戦う力と祈る力を与えてくださいます。わたしたちが御国に至ることができるように、信仰の道を確かなものとしてくださいます。わたしたちの信仰を、礼拝ごとに御言葉で養い、洗礼と聖餐の礼典によって強めてくださいます。

 

ダビデ王が戦うとき、その助けと力と勝利が主なる神からのみ来るように、わたしたちキリスト者が信仰の戦いをするとき、その助けと力と勝利が主なるイエス・キリストからのみ来るのです。

 

ですからわたしたちも、ダビデ王のように「主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない」と声高らかに、主なる神、主イエス・キリストを賛美しようではありませんか。

 

 ダビデ王の第2の感謝は、36節から44節前半の御言葉です。ダビデ王の戦いは、イスラエルの内と外に対してです。ダビデ王は、主なる神がイスラエルの内にいる政敵に対して勝利を与えてくださったことを感謝します。

 

その政敵とはサウル王です。主なる神は、ダビデ王の「救いの盾」となり、サウル王の迫害の手から守られました。主なる神は、ダビデ王を「右の御手でささえて」くださり、ダビデ王の命をお守りくださいました(36)

 

「あなたは、自ら降り、わたしを強い者にしてくださる」と、ダビデは賛美していますね。イスラエルの民の真の王である主なる神が、身を低くくし、まるで一兵士のようになってくださいました。兵士が王の救いの盾となり、身を挺して王を守るように、主なる神はダビデ王の盾となり、彼を守り、また彼と共に戦ってくだしました。

 

 ですからダビデは、イスラエルの国の中のすべての敵を屈服させました。サウル王は、晩年ペリシテとの戦いを恐れ、主なる神に助けを求めました。しかし、主なる神は答えられませんでした。サウル王と彼の子たちは、ペリシテとの戦いに敗れ、死にました。彼らの遺体は野にさらされました。

 

 ダビデ王は、サウル王の死後、同胞のイスラエルの民と戦わなければなりませんでした。しかし、主なる神は、ダビデ王にユダとイスラエルを統一させ、イスラエル王国を再建させ、王とされました。主なる神は、ダビデを王とし、同胞との戦いから解放されました。

 

 キリストは、神であられましたが、御自身の身を低くされ、わたしたちと同じ人となり、この世に来てくださいました。主イエスは、サタンの誘惑に打ち勝ち、十字架の死と復活を通して、わたしたちを罪と死から解放して、神の御国の一員に加えてくださいました。今わたしたちは、キリストの十字架の死のゆえに罪を赦された罪人です。この世におけるわたしたちの信仰生活は、なお敵であるサタンと罪と死との戦いがあります。

 

 しかし、身を低くし、人となり、十字架に死なれた主イエスは、復活されました。そして、わたしたちに御霊を与えて、わたしたちの信仰を助け、守ってくださっています。そして、わたしたちを、罪と死から解放し、わたしたちの魂を清め、新しい復活の体を与え、御国の一員としてくださるのです。

 

 わたしたちも、ダビデ王のように主なる神、主イエス・キリストに「あなたは、自ら降り、わたしを強い者としてくださった」と賛美しようではありませんか。

 

 ダビデ王の第3の感謝は、44節後半から46節の御言葉です。ダビデ王は、主なる神に外敵である異邦人たちに対する勝利を感謝しています。ペリシテ、モアブ、アンモン、アラム、エドム等の外敵に、主なる神は、ダビデ王を勝利に導き、ダビデ王は異邦人たちを支配下に置きました。

 

 実際にハマトの王トイは、ダビデ王がアラムに勝利した噂を聞いて、和睦を乞い、ダビデ王に貢物を贈りました(サムエル記下8912)

 

 今、キリストはわたしたちに福音宣教を命じて、世界の人々を、御自身に従わせようとされています。わたしたちも神に敵対する者でありましたが、キリストの福音を通して、キリストをわが神とあがめ、キリストに服従しました。

 

 20世紀と21世紀は宣教の時代です。世界中に宣教師たちが遣わされ、彼らの語る福音を通してアフリカ、アジア、南アメリカの人々がキリストをわが神とあがめ、キリストに服従しています。

 

 ダビデ王の「わたしのことを耳にしてわたしに聞き従い」という賛美は、今やキリスト教会の福音の宣教によって実現しているのです。わたしたちは、キリストは今や福音の宣教を通して、ダビデ王のように王として世界を支配されていることを賛美しようではありませんか。

 

 最後にダビデ王は、主なる神に感謝する理由をまとめて賛美しています。47節から51節の御言葉です。

 

 イスラエルの民、ダビデ王とその子孫の信仰を、1枚の絵にしようとすれば、「主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ。」という額縁が必要です。

 

主なる神は、命の神です。主なる神は生きておられます。人類の最初の人、人類の代表者アダムと主なる神は、命の契約を結ばれました。しかし、アダムは主なる神との命の契約を破りました。人類と世界に、罪と死という悲惨が入り込みました。

 

主なる神は命の神であり、造られたこの世界に生きることを止められませんでした。主なる神は、イスラエルの民とわたしたちの信仰の父、アブラハムと恵みの契約を結ばれました。主なる神は、アブラハムに一方的に彼に子孫と土地を与えると約束し、キリストによる救いと御国を約束されました。

 

そして、主なる神はアブラハムから千年後、ダビデ王と恵みの契約を結ばれました。主なる神は、ダビデ王と彼の子孫を祝福し、彼の子孫からメシア、キリストが生まれることを約束されました。

 

ダビデ王は、主なる神が彼に約束されたメシアによって、ダビデ王と彼の子孫が永遠に主なる神の慈しみの中で生きることができるようにと、祈っています。

 

キリストは、アブラハムとダビデの子孫として、この世に来られました。サタンも敵対する者たちも、キリストを、預言者イザヤが預言した通りに、異邦人のローマ総督ピラトの下、不法な裁判によって、十字架刑に処し、葬りました。

 

しかし、父なる神はダビデ王の祈りを聞き届けて、キリストを墓の中から甦らせられました。そして、キリストはキリスト教会の福音の宣教を通して、世界の民をキリストに服従させておられます。キリストは再び来られて、わたしたちを神の永遠の慈しみの中に、御国に迎え入れてくださいます。

 

今朝のダビデ王の賛美を通して、主なる神は命の神であり、今もわたしたちと共に生きておられ、主なる神の約束は永遠であることを教えられます。ダビデ王と彼の子孫に約束されたキリストが、今わたしたちの教会の頭として福音の宣教を通して世の人々を罪と死から救い、わたしたちを御国へと導いてくださっているのです。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、主なる神のほかに、わたしたちを、罪と死から救う神はおられません。主なる神は、命の神です。わたしたちと、今も共に生きてくださっています。どうかダビデ王のようにわたしたちの耳に、キリストの十字架の御救いの恵みを聞かせてください。キリストの福音を通して、キリストをわたしの神とあがめ、キリストに心から服従させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

詩編説教019                  主の2012325

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、わたしたちの内にお住みくださり、わたしたちの耳をお開きください。今朗読される詩編の御言葉とその説き明かしである説教に心を集中させ、理解させてください。わたしたちの魂に語りかけ、主イエス・キリストをわたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。自然と聖書より主の御心を知り、主の御旨にかなうように歩ませて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

                指揮者によって。賛歌。「指揮者によるダビデの賛歌」

 

                ダビデの詩。

 

天は神の栄光を物語り            「天は、語っている、神の栄光を」

 

大空は御手の業を示す。  「そして彼の両手の業(作品、行為)を、告げている、大空は」

 

昼は昼に語り伝え      「昼は昼に、語る、言葉を」語る→泉が湧く、注ぎ出す。

 

夜は夜に知識を送る。   「そして夜は夜に、示す、知識を」

 

話すことも、語ることもなく 「話すことがない、また言葉がない。」

 

声は聞こえなくても     「聞かれないで、それらの声が」

 

その響きは全地に      「すべての地に、出る、それらの響きは」線・弦→響き

 

その言葉は世界の果てに向かう。「また世界の端まで、それらの言葉は」それらの→何を指

 

すか不明、①天、②昼と夜。

 

そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。「太陽のために、彼は置いた、幕屋を、その中に()

 

太陽は、花婿が天蓋から出るように「そして彼は、新郎のように出て来る、彼の天蓋から」

 

勇士が喜び勇んで道を走るように「彼は喜ぶ、勇士のように、走ることを、道を」

 

天の果てを出で立ち 「天の端から、その出る所は、まためぐる所は、それの端の上に」

 

天の果てを目指して行く。

 

その熱から隠れうるものはない。「そして何もない、隠れるものは、その熱から」

 

 

 

主の律法は完全で、魂を生き返らせ「主の律法(教え)は、完全な、回復させる、魂を」

 

主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。「主の証しは確実で、無知な人を賢くする」

 

主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え「主の命令は、真直ぐな、喜ばせる、心を」

 

主の戒めは清らかで、目に光を与える。「主の戒めは清い、目を照らす」

 

主への畏れは清く、いつまでも続き 「主への畏れは、純な、立つ、永遠に」

 

主の裁きはまことで、ことごとく正しい。「主の裁きは、真実、正しい、ことごとく」

 

金にまさり、多くの純金にまさって望ましく「好ましい、金よりも純金よりも、多くの」

 

密よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。「また甘い、密より、また蜂の巣の滴り」

 

 

 

あなたの僕はそれらのことを熟慮し「あなたの僕もまた、照らされる、これらによって」

 

それらを守って大きな報いを受けます。「これらを守るときに、大きな報酬」

 

知らずに犯した過ち、隠れた罪から 「間違いを、だれが悟る、隠れたものから」

 

  どうかわたしを清めてください。「わたしを清めたまえ」→「無罪を宣告する」

 

あなたの僕を驕りから引き離し「また故意の罪から引き止めたまえ、あなた僕を」

 

  支配されないようにしてください。「それがわたしを支配しないように」

 

そうすれば、重い背きの罪から清められ 「すると、わたしは完全になる」

 

わたしは完全になるでしょう。「またわたしは清まる、多くの咎から」

 

どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない「嘉せられるように、わが口の言葉が」

 

心の思いが御前に置かれますように。「またわが心の思いが、あなたの御前に」

 

主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。「主よ、わが大岩、またわが贖い主よ」

 

                   詩編第19115

 

 

 

 説教題:「自然と人の命を支配する神」

 

 レントの第5週の主の日を迎えました。今朝は、主イエス・キリストの御受難を覚えて詩編第19篇の御言葉を学びましょう。

 

 詩編19篇の作者であるダビデ王は「主よ、わたしの岩よ、わたしの贖い主よ」と信仰告白し、主なる神をわたしたちが知ることのできる二つの道を教えてくれています。それは、自然と聖書です。

 

 ダビデ王は、27節に自然における神の栄光を賛美します。812節は、ダビデ王が主の律法を、特別啓示である神の御言葉の完全さ、美しさを賛美しています。そして、1315節は、ダビデ王が主なる神に罪の赦しと主の御心にかなう生活ができるように祈っています。

 

 27節においてダビデ王は、自然における神の栄光を次のように賛美しています。252行目までは、天空が語り出す神の栄光を賛美しています。53行目から7節までは、天空を駆ける太陽の軌道を歌っています。

 

 あるキリスト者がシナイ半島を旅行しました。モーセが主なる神から十戒を授けられたと伝えられていますシナイ山にカタリナ寺院があります。旅人のキリスト者は、そのふもとで一夜を過ごしました。彼は、次のようにその夜の体験を証ししています。「手の届かんばかりの降るような美しい星の群れを見て、まさにこの詩人と同じように、そこに神の存在のたたずまいを感じたことでした。そして、主の語りかけを聞くことができるようにされた自分を、神に感謝したことでした」。

 

 耳をすませば、天空に語る声がする。それが、「天は神の栄光を物語り」ということです。詩編の中でダビデ王や他の詩人たちが賛美します「神の栄光」は、主なる神が創造された世界のすべての輝きの中に啓示された神の臨在を意味し、その栄光は人が王に対して抱く服従と敬いの思いを呼び起こすのです。

 

 ダビデ王は、わたしたちに神が創造された天と大空に耳を澄ませよと言います。「天空の語る声に耳を傾けて御覧なさい。あなたにも天空が創造主なる神の栄光を、その素晴らしい御業を語る声が聞こえるでしょう」。「昼の空には昼の空の言葉があり、翌日の昼に語り継がれています。夜空にも、夜空の知識というものがあり、音として聞こえなくても、音楽のように調べを奏でているのです。そして全地に渡って自然は神の栄光の音楽を響かせています。」

 

 そして、ダビデ王はわたしたちにさらに昼間の空を見なさいと言います。「わたしたちが空を仰げば、太陽が輝いているではないか。主なる神のお作りになったものだ。まるで太陽は、婚礼の花婿のように夜が明けて、祝いの部屋から現れ出るように東の果てより昇るではないか。また、マラソンランナーが喜び勇んで道を走りぬけるように、大空の軌道を東の端から西の端に駆け抜けて行くではないか。そして、太陽の熱が世界のすべてのものに届き、すべてのものの命を目覚めさせ、呼び起こし、その営みを支えているではないか。そのように太陽は、わたしたちに創造主の創造の輝きを告げて余りあるではないか。」

 

 ダビデ王は、8節からは自然から主なる神の律法を賛美しています。8節の「主の律法」を、ダビデ王はいろいろに言い変えています。「主の定め」「主の命令」「主の戒め」「主への畏れ」「主の裁き」と。

 

ダビデ王は、わたしたちに主なる神の律法がいかに人を生かす働きをしているのか教え、賛美しています。

 

 ダビデ王はわたしたちに言います。「あなたの魂を、主なる神の律法に向けて御覧なさい。主なる神が創造された天空から全地に響き渡る神の栄光の調べが、主なる神の律法から直接にわたしたちに聞こえてくるではないか。」

 

 昔、ジャーナリストの立花隆氏が『宇宙からの帰還』という本を出版しました。とても話題になり、テレビでも放映されました。わたしがその本の中で興味を覚えたのは、立花氏が元宇宙飛行士の伝道者にインタヴューされた記事でした。その宇宙飛行士は、月面に降り、神の臨在に触れたと答えています。彼は、キリストを自分の王として服従し、敬い、宇宙から帰還して伝道者となりました。

 

 ダビデ王は、宇宙体験のないわたしたちにも同じことが起こると教え、賛美します。それは、主なる神の律法体験、神の御言葉体験です。

 

 ダビデ王は、わたしたちに言います。「主なる神の律法は、主の教えの御言葉である。それは完全であるゆえに、主ご自身のように生きて働き、わたしたちの魂を生き返らせるのだ。そして、わたしたちを神に創造された状態に戻してくれる。神に服従していた状態に。

 

神の定めとは、神の御旨を具体的に表わした規則である。それは真実であるので、無知で無経験ゆえに罪を犯す者に、神の知恵を与えてくれる。確信を持って主に従うように。

 

神の命令とは神の『これをせよ』という命令である。神の戒めとは『これをするな』という禁止である。神の命令と戒めの御言葉は、神のご臨在同様にあなたがたに命を与え、あなたがたの心を喜ばせるものである。そして、この世に生きるあなたがたの道に光を与えてくれる。

 

主への畏れとは、わたしたちが主に服従することである。わたしたちは永遠に主なる神に服従し続けるのだ。そしてわたしたちが主に服従し、この世に生きるとき、隣人との関係において真実と正義に基づいて主は裁かれるのだ。

 

だから、あなたがたは日々聖書を読みなさい。あなたがたがこの世の誘惑と誤りに陥らないように。あなたがたは日々神の御言葉の警告と注意を受けるがよい。

 

天空の語りかけは、あなたがたの耳に聞こえない。しかし、聖書は神の律法として、戒めと命令として、福音としてあなたがたの耳に聞こえ、あなたがたの魂に届くのだ。だから、聖書に親しむ者は、魂に命を得、主なる神に導かれ、喜びを得る。それはこの世の純金よりも価高く、蜂の巣の蜜のしたたりよりも甘いのだ。」

 

そして、ダビデ王は、自然と聖書の御言葉を通して神の栄光を語り、臨在し、人の命を支配される主なる神に祈ります。神の律法を、聖書を、神の御言葉を賛美するダビデ王は、それを通して臨在される主なる神に心から服従し、主なる神の御心に心から従えるようにと祈ります。

 

ダビデの祈りは、第1に主なる神に罪と誤りからの赦しを願っています。罪と誤りがある限り、ダビデ王は自分を主なる神の臨在の喜びに居続けることができないからです。だからダビデ王は祈りました。「わたしが自覚していない隠れた罪と誤りからわたしを清めてください」。

 

ダビデ王の第2の祈りは、主なる神の僕としての祈りです。驕りからの解放の祈りは、二つの意味が考えられます。ひとつは傲慢の罪です。己を神とする罪です。神に対する不服従の罪です。神の僕ダビデが一番避けるべき罪です。

 

もう一つは、「驕る者」、すなわち、異邦人たちからの解放の祈りです。ダビデは祈りました。「ペリシテ人、アンモン人、アラム人、エジプト人等の異邦の人々の支配を許さず、わたしを真の神を知らず偶像の神々を拝む者たちの支配下に置かないでください」

 

ダビデ王の第3の祈りは、ダビデ王が主の御心に従って常に主なる神の御前に生きることができるようにという祈りです。

 

ダビデ王は祈ります。「わたしの罪をお赦しくださるだけでなく、常にわたしを受け入れてください」。

 

ダビデ王が主なる神に祈ることのできる根拠が、ダビデ王の信仰告白です。「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」。ダビデ王にとって、主なる神はダビデの祈りをお聞きくださる岩なのです。ダビデ王は、岩のように確かな主なる神の保証の上で、わたしは祈ると喜び賛美しています。

 

贖い主とは、イスラエルの民の中で、最も身近な近親者であり、彼がお金を支払って奴隷となった身分から解放してくれる者です。ダビデ王は、主なる神が自分に最も近いお方であり、自分を罪から救い出す近親者であり、憐れみに富んだ贖い主だと確信しています。

 

そして、このダビデ王の祈りに、彼の死後千年を経て、主イエス・キリストが神であるのに人となり、この世に来られ、十字架の上で答えられました。

 

だから、昔から教会は、この詩編をクリスマスのための詩編として礼拝に用いてきました。自然における神の啓示と聖書における神の啓示との頂点として、主イエス・キリストの受肉、クリスマスを瞑想してきたのです。

 

ダビデ王のように、自分の罪を知り、無力さを知り、贖い主なるキリストに憐れみを祈る拠り所を持つ者は幸いであります。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、あなたは自然と聖書を通してご自身の栄光を表わされました。わたしたちはあなたの御言葉、聖書を通して日々あなたの臨在の前にいます。どうかダビデ王のようにあなたに心から服従することができるようにしてください。キリストの十字架を覚えて、レントの季節を過ごしています。キリストの十字架を通して示された神の愛と罪の赦しと和解に常に心を向けて、この世を歩ませて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。