詩編説教110               主の2020126

 

      ダビデの詩。賛歌。 ダビデの賛歌

 

わが主に賜った主の御言葉。 主がわたしの主に語られたこと。

 

「わたしの右の座に就くがよい。 「わたしの右に座れ。

 

わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」 わたしがあなたの敵たちを

 

                    あなたの両足の足台に置くまで」。

 

主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。 主はあなたの力の杖をシオ

 

敵のただ中で支配せよ。 ンから差し出される。「支配せよ」、あなたの敵たち

 

あなたの民は進んであなたを迎える の真ん中で。あなたの民は自発的な献げ

 

聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ 物、あなたの力の日に。聖なる 

 

曙の胎から若さの露があなたに降るとき。輝きの中で、曙の胎からあなたには

 

若き日の露

 

主は誓い、思い返されることはない。 主は誓い、思い返されない。       

 

「わたしの言葉に従って 「あなたは永遠に祭司。

 

あなたはとこしえの祭司  わたしの言葉に従って

 

   メルキゼデク(わたしの正しい王)。」メルキゼデク。

 

 

 

主はあなたの右に立ち わが主はあなたの右に

 

怒りの日に諸王を撃たれる。 彼は彼の怒りの日に王たちを撃つ。

 

主は諸国を裁き、頭となる者を撃ち 彼は諸国民を裁き、死体で満たし、

 

広大な地をしかばねで覆われる。 頭を撃つ、広大な地の上で。

 

 

 

彼はその道にあって、大河から水を飲み 道で川から彼は水を飲み、

 

頭を高く上げる。 それゆえ彼は頭を高く上げる。                     

 

 

 

                   詩編第11017

 

 

 

説教題:「新しい王の誕生」

 

今朝は、詩編11017節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

詩編110編は、王の詩編、メシア詩編と呼ばれています。イスラエルの王が即位した時に歌われた詩編であります。

 

 

 

主なる神の託宣の御言葉によれば、即位する王は祭司でもあります。詩編110編の詩人は、主なる神が王を助けて諸国民を裁き、王が勝利することを歌っています。

 

 

 

この詩編はダビデ王国の時代に遡ります。

 

 

 

1節の「ダビデの詩。賛歌。」は、「ダビデの歌」という表題です。イスラエルの王ダビデが歌った詩編という説明です。

 

 

 

1節の「わが主に賜った主の御言葉」は、「主は、私の主に言われた。(聖書協会共同訳)です。「わが主」は即位した新しい王です。主なる神が新しく即位した王に御言葉を語られました。

 

 

 

それが1節後半の「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」です。「わたしの右の座」は、最高位の象徴的表現です。王としての名誉ある座です。主なる神は、即位した新しい王に「わたしの右の座に就くがよい」と宣言され、神の御支配に参与せよと命じられたのです。

 

 

 

そして主なる神は、新しく即位した王に、次のように約束されました。「わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」。主なる神は、王に「わたしはあなたの敵たちをあなたの両足の足台にしよう」と言われました。エジプトのツタンカーメン王(紀元前14世紀)の玉座と足台が今も残っており、足台には、エジプトの諸々の敵の像がありました。王は、玉座に就き、彼の両足を足台に置き、諸々の敵を両足で踏みつけました。そのように主なる神は、王に即位した新しい王に「敵をあなたに支配させよう」と約束されたのです。

 

 

 

2節の「主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。」は、新しいイスラエルの王が「シオン」、すなわち、エルサレム神殿で即位式での王権の授与を背景にして歌っています。「あなた」は新しい王です。「力ある杖」は支配権を象徴する王笏です。新しい王の支配がシオン、エルサレムの神殿から諸国へと伸ばされて行きます。

 

 

 

2節後半の「敵のただ中で支配せよ」は、主なる神の託宣の御言葉です。主なる神は、新しい王に諸国民の敵を支配するように命じられました。

 

 

 

3節の「あなたの民は進んであなたを迎える」は、「あなたの民は、自発的な献げ物。あなたの力の日に」という文章です。聖書協会共同訳は、「あなたの民は進んで身を献げる。あなたの出陣の日に」と訳しています。新しい王が諸国民の敵と戦うために出陣する日に、神の民たちは進んで王に従うと、詩人は歌っています。

 

 

 

3節の「聖なる方の輝きを帯びてあなたの力が現れ 曙の胎から若さの露があなたに降るとき。」は、うまく文章になりません。いろいろと訳されています。関根正雄氏は、詩編27節の「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」に対応させて、「聖なる山で、あけぼのの胎から わたしは君を露のように生んだ。」と訳されています。王の誕生、王の即位を歌っているのです。聖なる山は、シオンであり、エルサレム神殿がある場所です。

 

 

 

関根氏は次のようにこの3節後半を理解されています。「神が王を生む」ことは、結局即位に際して王が神の子とされることであり、古代東方、ことにエジプトで王が始めから神的存在と考えられているとは違う。イスラエルでは始めから神と人との区別は明確であって、それゆえ王といえども、特別な神の言によって神の子となることを許されるのであると。

 

 

 

今、キリスト者であるわたしたちは、この恵みに主イエス・キリストにあってあずかっています。神の御言葉によってわたしたちは、キリストを長子とする神の子であり、御国の相続人です。

 

 

 

主イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時、父なる神は主イエスに「わたしの愛する子、わたしの心に適う者だ」と言われました。わたしたちは、洗礼によってわたしたちの罪を洗い流されただけでなく、キリストと一つとされ、神の子とされました。

 

 

 

このように詩編110編の御言葉からわたしたちは神の恵みにより神の御言葉を通して神の子とされる喜びの福音を聞くことが許されています。

 

 

 

4節の「主は誓い、思い返されることはない。『わたしの言葉に従ってあなたはとこしえの祭司メルキゼデク(わたしは正しい王)。』」は、主なる神が次のように宣言されたのです。即位した新しい王はとこしえに祭司を兼ねていると。

 

 

 

祭司メルキゼデク」は、旧約聖書の創世記1418節に出てくる人物です。族長アブラハムが諸国の王たちと戦い、甥のロトとその家族を救った時に、サレム、後のエルサレムの王であり、祭司であったメルキゼデクがアブラハムを祝福しました。彼は、アブラハムの勝利を祝福し、いと高き神が称えられるようにと祈りました。

 

 

 

イスラエルの王は、メルキゼデクのように王であり祭司として、主なる神をほめたたえる者です。

 

 

 

5節と6節の「主はあなたの右に立ち 怒りの日に諸王を撃たれる。主は諸国を裁き、頭となる者を撃ち広大な地をしかばねで覆われる。」は、主なる神がイスラエルの王に代わって諸王と諸国の民たちと戦って下さると、詩人は歌っています。「主はあなたの右に立ち」とは、主なる神が王の援助者になってくださることです。「怒りの日」は主の怒りの日、主が裁かれる日です。

 

 

 

列王記下19章でヒゼキヤ王の時代にエルサレムを包囲したアッシリア帝国の大軍が一夜にして主なる神に撃たれて、大地にしかばねとなったという出来事を思い起こしてください。

 

 

 

7節の「彼はその道にあって、大河から水を飲み」は、諸国との戦いで勝利した王がエルサレムに帰る途中、川で水を汲んで飲み、休息したことを、詩人が歌っているのでしょう。王は主なる神に守られて平和で安全であるということです。

 

 

 

頭を高く上げる」は、王の勝利を示しています。王の勝ち誇るさまを、詩人は歌っているのです。

 

 

 

ヘンリエッタ・ミアーズは、彼の著書『旧約聖書の概説』で詩編についてこう記しています。「詩編はキリストで満ちている。それは、キリストの苦しみと死の全プログラムを描いている」と。

 

 

 

十字架の受難の道を歩まれているキリストは、ファリサイ派の人々とメシアは誰の子であるかを論争されました。ファリサイ派の人々は、メシアをダビデの子であると主張しました。主イエスは、彼らに詩編1101節の御言葉を引用され、どうしてダビデは聖霊に導かれてメシアを主と呼んでいるのか、ダビデがメシアを主と呼ぶのであれば、メシアはダビデの子ではないだろうと反問されました。

 

 

 

主イエスのお言葉から詩編110編はダビデの詩と考えられました。主イエスの時代の人々は皆、そう信じていたのです。

 

 

 

しかし、主イエスにとってこの詩編が誰の詩かは問題ではありませんでした。主イエスがダビデの子ではなく、神の子であることが大切でした。なぜなら、主イエスは、神の子として今受難の道を、十字架への苦しみの道を歩まれているからです。

 

 

 

主イエスは、またメルキゼデクのような大祭司としてわたしたちの罪を執り成すために、この世に来られました。そして御自身を十字架に献げることで、大祭司の役割を果たしてくださいました。

 

 

 

このように王であり、大祭司であるキリストの十字架の死のゆえに、わたしたちは罪と死から解放され、また、王であるキリストが再臨され、すべての者を裁かれ、永遠の御国にわたしたちを神の子として入れてくださるという希望に生きることを許されているのです。

 

 

 

 お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編110編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

今、この詩編110編を通して、イスラエルの新しい王の誕生を学びました。イスラエルの王が神の御言葉によって神の子となることを許されているように、わたしたちも毎週の礼拝で語られる御言葉によって主イエス・キリストのゆえに罪を赦されたのみでなく、神の子とされ、御国の相続人を許されていることを感謝します。

 

 

 

キリスト者のこの世の生活は、自らの弱さのゆえに、なお罪があり、神の御心に従うことができず、一時的に心を頑なにし、神の怒りと不興を被ることがあります。しかし、主イエスはわたしたち神の選民の王であり大祭司であられます。わたしたちを援助し、わたしたちのために敵と戦って下さり、わたしたちの大祭司として父なる神に日々執り成してくださっています。

 

 

 

わたしたちは主に依り頼む以外にありません。どんな困難な中でも主イエスの御受難を心に定め、王であるキリストの御支配に身を委ね、御国に向けて歩ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。