詩編説教65         主の2016年1月24日

         指揮者によって。賛歌。
         ダビデの詩。歌。
沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます。
シオンにいます神よ
あなたに満願の献げ物をささげます。
祈りを聞いてくださる神よ
すべての肉なるものはあなたのもとに来ます
罪の数々がわたしを圧倒します。
背いたわたしたちを
  あなたは贖ってくださいます。
いかに幸いなことでしょう
あなたに選ばれ、近づけられ
あなたの庭に宿る人は。
恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって
  わたしたちが満ち足りますように。

わたしたちの救いの神よ
あなたの恐るべき御業が
わたしたちへのふさわしい答えでありますように。
遠い海、地の果てに至るまで
  すべてのものがあなたに依り頼みます。
御力をもって山々を固く据え
雄々しさを身に帯びておられる方。
大海のどよめき、波のどよめき
諸国の民の騒ぎを鎮める方。
お与えになる多くのしるしを見て
  地の果てに住む民は畏れ敬い
朝と夕べの出で立つところには
  喜びの歌が響きます。

あなたは地に臨んで水を与え
豊かさを加えられます。
神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。
あなたがそのように地を備え
畝を潤し、土をならし
豊かな雨を注いで柔らかにし
芽生えたものを祝福してくださるからです。
あなたは豊作の年を冠として地に授けられます。
あなたが過ぎ行かれる跡には油が滴っています。
荒れ野の原にも滴り
どの丘も喜びを帯とし
牧場は羊の群れに装われ
谷は麦に覆われています。
ものみな歌い、喜びの叫びをあげています。
                 詩編第65編1-14節

  説教題:「新年に神をほめたたえよ」
 新年にこの詩編に出会えたこと、この詩編を今学べますことを、わたしは感謝しています。

 詩編65編は、神の民がエルサレム神殿で神を礼拝し、神に祈り、神を賛美することを喜んでいます。

 1-5節は、詩人が神を神殿の神としてほめたたえています。

 詩人は、2節で「沈黙してあなたに向かい賛美をささげます。」と賛美します。礼拝は沈黙から始まります。私語を慎み、静かに心を神に向けて、詩人は礼拝を待ちました。そして礼拝が始まると彼は沈黙を破り、礼拝に集まった神の民と共に神を賛美しました。

 詩人は、2節で「満願の献げ物をささげます」と歌っていますね。詩人は、「祈りを聞いてくださる神よ」と呼びかけています。神に祈りを聞かれた礼拝者たちは、賛美をもって神に感謝の誓いをしました。それが「満願の献げ物」です。

 続いて詩人は礼拝の喜びを歌いました。3-4節です。「祈りを聞いてくださる神よ、すべての肉なるものはあなたのもとに来ます。罪の数々がわたしを圧倒します。背いたわたしたちをあなたは贖ってくださいます。」

 詩人は、すべての肉なる者が礼拝に来て、神に罪を赦していただけるという喜びを歌っています。神の民が神殿で礼拝する神は、罪に圧倒されている者たちの罪を贖うことができるお方です。

 礼拝に来る「すべての肉なるもの」とは、すべての人であります。人は罪ある者、死ぬべき者、何より詩人は、エルサレム神殿の礼拝で神がすべての人の罪を贖われると歌っています。神に依り頼むべき者であります。

  神は、彼らのためにエルサレム神殿に現臨され、彼らの祈りを聞いてくださいます。エルサレム神殿に来るすべての者たちは、神に数々の罪の赦しを求めて、動物犠牲をささげました。そして、神は、礼拝する者たちが「罪を赦したまえ」と祈る祈りを聞いてくださり、彼らの罪をお赦しくださいました。

 詩人は、それを礼拝の喜びとして賛美します。だから、5節で詩人は、彼が幸いであると思う人とは、シオンにいます神を礼拝する者たちであると賛美するのです。
 
  なぜ幸いであるのか。詩人は言います。礼拝に来る人は、神が選ばれた者たちであると。礼拝は神の招きの出来事なのです。神御自身が選ばれた者たちを、御自身がいますシオンの神殿に近づけ、その礼拝において恵みを見させてくださるのです。その恵みとは、聖なる神が礼拝者たちの数々の罪を赦されるという出来事であります。
 
  だから、詩人は、常にエルサレムにとって、神殿での礼拝は無上の喜びでした。「あなたの庭に宿る人」とは、その無上の喜びである礼拝を体験する者です。彼らは、そこで聖なる神の恵みにより、罪の赦しを得て、心を満たされ、神を喜び賛美するのです。

 次に6-9節で詩人は、神を世界の神としてほめたたえています。今詩人は、「わたしたちの救いの神」が遠い海、地の果てに至るまですべての者の望みの神であると賛美します。

 エルサレム神殿で神の民が礼拝する神は、創造主なる神です。ご自身の御力によってこの世界を創造され、この世界を支配されています。
6節の「あなたの恐れるべき御業」とは、神の民イスラエルが奴隷の地エジプトから救い出され、約束の地カナンに導かれていったという歴史的出来事です。詩人は、神が彼らを救い出すことで、ご自身が全世界の支配者であることをすべての諸国民に知らしめられたと賛美します。

 ですから、神は全世界の神ですので、9節の「朝と夕べの出で立つところ」、すなわち、太陽が朝東から上り、西へ沈むところで、詩人はそこに住む人々が「わたしたちの救いの神」を畏れ敬い、喜び賛美すると歌っています。

 詩人は、10-14節で大地に太陽の光と雨を給う祝福の神をほめたたえています。

  神の恵みが今年一年あるゆえに、神の民はパレスチナの土地で多くの収穫を得て、生きることができるのです。10-14節は、詩人が神を農夫にたとえて賛美しています。神は民に今年一年間、雨を給い、太陽の光の恵みで、多くの収穫をお与えくださいます。そのことを通して詩人は、神の民の豊かさを見ています。太陽と雨で穀物が牧草が豊かに成長し、羊の群れが大きくなるでしょう。
  詩人は、神が礼拝の中だけで、民を愛されるのではなく、一年間、雨を給い、太陽を上らせて恵みの光を給い、神の民たちを季節ごとに豊かにしてくださるのを見ています。
 

 詩人がわたしたちにこの詩編を通して伝えたい喜びとは、神殿の礼拝で聖なる神の罪の赦しを得た者にとって、大地は神の祝福であるということです。

 詩人は、わたしたちに罪の赦しの恵みだけでなく、罪を赦された神の民は、日々神から豊かな祝福にあずかり、この大地で神を喜び賛美して生きていくのだと賛美しています。

 新しい年、私たちも詩人のように、この教会の礼拝を通してキリストの十字架による罪の赦しの恵みを信仰によって見させていただくと共に、罪を赦されたわたしたちキリスト者のこの大地での生活が、どんなに神が日々祝福に満ちたものにしてくださっているかを証しできれば幸いでしょう。

 お祈りします。

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編65編の御言葉を感謝します。あなたは主イエスを通して、わたしたちを選ばれ、この教会の礼拝へと導き、わたしたちの罪をお赦しくださり、感謝します。

  わたしたちが住んでいます諏訪の地は、エルサレムからすれば、遠い海、地の果てにあります。しかし、主は、諏訪の地に宣教師たちを遣わし、彼らの福音宣教を通して、今もこの地に教会があり、礼拝がなされ、礼拝に来る者たちに罪の赦しの恵みがもたらされています。

 神は、わたしたちの罪を赦されたのみではなく、わたしたちの日々の生活を祝福してくださり感謝します。

  神は太陽を上らせ、雨を給い、わたしたちが日々必要な糧を得られるようにしてくださっています。
 
  わたしたちもこの詩人のように神を喜び、心から賛美させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 詩篇説教66                主の2016年2月28日

       指揮者によって。歌。賛歌。

全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。
御名の栄光をほめ歌え。
栄光に賛美を添えよ。
神に向かって歌え
「御業はいかに恐るべきものでしょう。
御力は強く、敵はあなたに服します。
全地はあなたに向かってひれ伏し
あなたはほめ歌い
御名をほめ歌います」と。           [セラ

来て、神の御業を仰げ
人の子らになされた恐るべき御業を。
神は海を変えて乾いた地とされた。
人は大河であったところを歩いて渡った。
それゆえ、我らは神を喜び祝った。
神はとこしえに力強く支配し
御目は国々を見渡す。
背く者は驕ることを許されない。        [セラ
諸国の民よ、我らの神を祝し
賛美の歌声を響かせよ。
神は我らの魂に命を得させてくださる。
我らの足がよろめくのを許されない。

神よ、あなたは我らを試みられた。
銀を火で練るように我らを試された。
あなたは我らを網に追い込み
我らの腰に枷をはめ
人が我らを駆り立てることを許された。
我らは火の中、水の中を通ったが
あなたは我らを導き出して
豊かな所に置かれた。

わたしは献げ物を携えて神殿に入り
満願の献げ物をささげます。
わたしが苦難の中で唇を開き
この口をもって誓ったように
肥えた獣をささげ、香りと共に雄羊を
雄山羊と共に雄牛を焼き尽くしてささげます。   [セラ
神を畏れる人は皆、聞くがよい
わたしに成し遂げてくださったことを物語ろう。
神に向かってわたしの口は声をあげ
わたしは舌をもってあがめます。
わたしが心に悪事を見ているなら
主は聞いてくださらないでしょう。
しかし、神はわたしの祈る声に耳を傾け
聞き入れてくださいました。
神をたたえよ。
神はわたしの祈りを退けることなく
慈しみを拒まれませんでした。
                     詩篇第66編1-20節

 説教題:「民の感謝の歌」
 今朝は、詩篇第66編1-20節の御言葉を学びましょう。

 この詩篇は、詠み人知らずの歌であります。エルサレム神殿の礼拝で賛美されていたでしょう。

 この詩篇には、誰もが気付く特色があります。1-12節の主語が「我ら」であり、13-20節の主語が「わたし」です。1-12節は、「民の感謝の歌」であり、1-4節では全地に神賛美を呼びかけ、5-7節では諸国民に神の御業の報告し、神賛美を呼びかけ、8-12節では諸国の民に神賛美を呼びかけ、おそらくバビロン捕囚から救われたことを報告しています。

 ところが、13-20節は、「個人の感謝の歌」であります。誰であるか分かりませんが、「わたし」という神の民イスラエルのある個人が、神が彼の祈りを聞いて下さったことを感謝し、エルサレム神殿に詣でて、神に豊かな燔祭をささげる決意を歌っています。神に祈りを聞かれた人の神賛美であります。

 このように1-12節の前半と13-20節の後半が、余りにも内容が違うので、この詩篇は元々異なる二つの詩篇を一つにしたのではないかと考える人がいます。ところが、その見方は少ないのです。これほどの内容の違いがあっても、多くの人は最初から一つの詩篇であると考えています。

 その有力な理解が、次のようなものです。この詩篇の背景を、祭と考えています。旧約聖書に有名な3つの祭があります。過越、ペンテコステ、仮庵の祭です。それからエステル記にプリムの祭が出てきます。祭になると、神の民イスラエルはエルサレムの都まで巡礼します。そして、巡礼者がエルサレム神殿に詣でて、神を礼拝し、犠牲の動物をささげるのです。この詩篇は、神の民イスラエルが巡礼者として集まる祭を背景にして作られたと考えられています。

 祭のとき、エルサレム神殿の礼拝で、巡礼者たちは最初に神の民の感謝をし、続いて個人の感謝のささげものをしました。それに従ってこの詩篇は神賛美をしているのです。

 そのような礼拝形式から生まれた神賛美と考える人は、この詩篇を次のように3つに分けて考えるのです。1-7節が聖歌隊の合唱です。8-12節が民の感謝の歌です。そして、13-20節が個人の感謝の歌です。

 わたしたちは、この詩篇66編の成り立ちから、旧約の神の民イスラエルの信仰を学ぶことができます。

 それは、神との契約という信仰です。神の民イスラエルの個々の巡礼者たちは、主なる神が神の民イスラエルと結ばれた契約という客観的な歴史的事実に基づいて自分たちの救いを信じることができ、神に感謝することができたということです。

 契約とは、主なる神と神の民イスラエルが特別な関係に入ることです。神の民イスラエルの先祖アブラハムと主なる神は特別な関係を持たれ、彼の神となり、彼と彼の子孫は神の民となりました。主なる神は、そのことを覚えていてくださり、アブラハムの死後400年経ち、神の民イスラエルがエジプトで奴隷状態であったとき、主なる神は彼らに指導者モーセを遣わされ、奴隷の地エジプトから彼らを解放されました。そして、主なる神は彼らをシナイ山に導かれ、モーセを通して彼らに十戒を授けて、契約を結ばれました。主なる神は、彼らと特別な関係を持たれ、彼らの神となり、彼らは神の民となりました。

 この詩篇は、この契約という事実に基づいて、すなわち、主なる神が神の民イスラエルの神となり、神の民イスラエルが神の民、神の子らとなるという特別な関係に基づいて、民へ
の感謝の歌と個人の感謝の歌が一つとなり、歌われているのです。このように旧約聖書の信仰を、わたしたちがよく理解する鍵は神と神の民イスラエルとの契約であります。

 1-7節は、詩人が全地に呼びかけて、神を崇め、賛美するように招いています。この「全地」とは、地に住むすべての者です。地球上にいるすべての者に、詩人は神を崇め、神を賛美せよと呼びかけているのです。

  2節と4節の「御名」は主なる神御自身ことです。詩人は地球上に住むすべての者たちに、神の栄光を賛美し、神を崇め、礼拝せよと招いています。詩人は、主なる神が地球上のすべての者に礼拝され、賛美されるお方であると宣言しているのです。
 
  わたしたちの礼拝でも最初に招詞がありますね。教会で、復活の主イエスは礼拝を通して地球上に住むすべての者たちに神を崇め、神を賛美せよと招かれているのです。
 
  そして詩人は、5節で呼びかけた全地に住む者たちに「神の御業を見よ」と命じています。「人の子になされた恐るべき御業」とは、主なる神がモーセを通してエジプトに下された十の災いと、特に6節の出エジプトの出来事です。出エジプト記14章21-31節にこの出来事が記録されています。主なる神は、モーセに神の民イスラエルを導かせ、紅海の海を乾かして、彼らを徒歩で渡らせ、救われました。そして彼らの後を追ってきたパロと彼の家臣たちは、神に滅ぼされ、海の藻屑となりました。
 
  6節に「人は大河であったところを歩いて渡った」と、詩人は歌っていますね。神の民イスラエルは出エジプトの後、荒れ野で40年過ごしました。そして、ヨルダン川を渡り、約束の地カナンに入り、そこで過越の祭を祝い、神を礼拝し、賛美しました。
 
  詩人は全地に住む者たちに主なる神が神の民イスラエルを救われ、神に反抗したパロと彼の家来たちが滅ぼされ、カナンの先住民たちが滅ぼされたことを示しました。そして7節で神は大能をもって永遠に支配されるお方であり、神の御目は地球上に住むすべての者たちに注がれ、誰も神に向かって反抗することは許されていないと歌っています。
 
  1-7節でわたしたちは、この詩人を通して聖書の神信仰を教えられます。それは、この歴史の中で神がなされた御業を見ることです。出エジプト、荒れ野の40年、そして、カナン侵攻、こうした一連の歴史的出来事の中で神は神の民イスラエルとの契約に基づき、彼らを救い、彼らの敵を滅ぼされました。
 
  1-7節が過去の出来事であるなら、8-12節は現在の出来事です。詩人は、今世界の諸国民に神を礼拝し、神を賛美せよと呼びかけます。
 
  約束の地に入った神の民イスラエルは、主なる神が遣わされた多くの預言者たちを通して罪の悔い改めを迫られ、神に立ち帰るように促されたのに、心を頑なにし、他の神々を偶像礼拝し、主なる神を怒らせました。そのためにダビデが築いた王国は、その息子ソロモンの死後、二つに分裂し、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、神の民イスラエルの12部族のうち10部族が捕囚されました。南ユダ王国もバビロン帝国に滅ぼされ、神の民イスラエルのユダ族とベニヤミン族が捕囚されました。
 
  しかし、主なる神は、神の民イスラエルとの契約を覚えていてくださり、ペルシア帝国の王キュロスを通してバビロンに捕囚された民を解放し、ダレイオス王を通してエルサレム神殿とエルサレムの町の城壁を再建させられました。
 
  10-12節は、詩人がバビロン捕囚の苦しみとそこからの解放を歌っているのです。12節の「豊かな所に置かれた」とは、バビロン捕囚から解放された神の民イスラエルが今、エルサレム神殿を再建し、エルサレムの町の城壁を再建し、神を礼拝し、神に犠牲の動物をささげ、神を喜び賛美できることを歌っているのです。
 
  さて、13-20節は、詩人が個人の感謝の歌を歌っています。祭のとき、再建されたエルサレム神殿に入り、犠牲の動物を携え、満願の献げ物をしました。
 
  彼にどんな深い悩みがあったのか、具体的なことはわかりません。しかし、彼はその中で、神に向かって唇を開き、神に口をもって誓約をしました。それは、エルサレム神殿で神に動物の犠牲をささげる、すなわち、豊かな燔祭をささげるという誓いだったのでしょう。
 
  彼は、神に祈り、エルサレム神殿で豊かな燔祭をささげることができました。そこで詩人は16節から20節で神に祈りを聞かれた者の感謝と喜びの神賛美を歌っているのです。
 
  彼の神賛美は、同じ信仰を持つ神の民イスラエルに対する証しであります。彼は、主なる神が彼を通して成し遂げてくださったことを物語ります。歴史を通して神の民イスラエルを救われる神は、信仰者を通して御自身の救いをなされるお方でもあります。だから、詩人は個人の感謝の歌を歌っているのです。
 
  詩人が証しする神の御救いは、神が彼の祈りを聞かれたことであります。そのことで彼は、神を崇め、賛美しています。
 
  詩人は、彼の信仰の友たちに、神はわたしの心の中に悪事がないのをご覧になり、わたしの祈りを聞いて下さったと歌っています。神は、御自身の身を傾けて彼の祈りを熱心に聞き、彼の願いをかなえてくださったのです。
 
  だから、彼は神をたたえます。詩人の祈りを退けず、慈しみを拒まれない神を、礼拝し、賛美するのです。
 
  わたしたちは、この詩人の個人の感謝の歌から次のことを学びましょう。詩人が言う「悪事」とは不法のことです。詩人は心に不法がないので、神に祈りを聞いていただけたのです。そして、彼は祈りを神に聞き入れられたゆえに、神を礼拝し、感謝し、神賛美しています。
 
  この詩人の証しを聞いて、キリスト者であるわたしたちは、キリストのゆえに大きな喜びをいただいていることを知らされます。
 
  なぜなら、詩人が聞いて下さいと言う、その証しを聞いて、わたしの心に浮かんだ御言葉は、ローマの信徒への手紙4章7-8節です。詩篇32編1-2節のダビデの御言葉です。「いかに幸いなことでしょう 背きを赦され、罪を覆っていただける者は。いかに幸いなことでしょう 主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」
 
  先ほど詩人の深い悩みは、具体的に分からないと言いました。しかし、彼の証しを聞き、パウロやダビデのように神から罪を赦されたという喜びを、共に体験できる者は、詩人が神に罪を赦されたゆえに、彼の祈りを神に聞かれたと理解するのではありませんか。
 
  だから、わたしたちは次のことを信じます。わたしたちは、キリストの十字架によって神に罪を赦されました。そして、神はわたしたちの罪を赦されたのみではなく、キリストの執り成しによってわたしたちの祈りを聞き入れてくださいます。
 
  ですから、一人の旧約学者は、次のように述べています。「福音の信仰は罪ある者への赦しの信仰であり、この赦しをもたらしたイエス・キリストの御名、すなわち、執り成しによる祈りは聞かれるという信仰である。それ故二〇節はキリストによって真に成就したと言える。」
 
 わたしは、この旧約学者の言うことにアーメンです。教会は、地球上に住む者たちに神を崇め、賛美せよと、礼拝を通して招くことを許されています。なぜなら、キリストの十字架によって神は、人の罪を赦され、キリストの復活によって「神は我らの魂に命を得させてくださる」のです。そして、神は教会の、わたしたちキリスト者の祈りを、このキリストの執り成しのゆえに退けられません。今教会を通して神は地球上に住むすべての人に慈しみを拒まれません。実際に、教会に聖霊と御言葉を通してキリストは、臨在され、十字架の福音を通して人の罪を赦し、赦された者を御自身の食卓へと招かれています。その招きに、神の民イスラエルだけでなく、シリアの夫人も招かれました。彼女の娘は悪霊に苦しめられていたのです。彼女は、主イエスに言いました。「わたしは食卓の下にいる子犬です。だから、喜んで食卓から落ちるパンくずをいただきます。」主イエスは彼女の信仰を喜ばれ、彼女の娘をいやされました。

 ですから、ここにいる方は、誰も神の慈しみを拒まれてはいません。一緒に神を礼拝し、賛美し、そして聖餐を共にしてください。シリアの夫人のように、信仰を告白していない者はパンとぶどう酒にあずかれませんが、教会の食卓の主であるキリストは、決して共にいる者たちへの慈しみを拒むことはなさいません。「我らの足がよろめくことを許されない」のです。わたしたちは、聖餐を共にする契約の子たちと求道者たちがキリストを信じ、罪を赦され、共にこの食卓のあずかることを祈っております。そして、キリストはわたしたちの祈りを執り成してくださるので、父なる神は必ず聞き届けてくださると信じます。

 お祈りします。

 イエス・キリストの父なる神よ、詩篇66編の御言葉を学ぶことが許され感謝します。詩人が賛美しますように、地球上に住む者たちが神を崇め賛美しますようにしてください。

 神の民イスラエルが神との契約により、神との特別な関係を持ち、常に神に救われたように、教会とわたしたちキリスト者も、神との契約によりキリストと特別な関係を持ち、キリストにより罪を赦され、神の子とされ、永遠の命をいただいていることを感謝します。

 3月に入り、キリストの受難と十字架、そして、キリストの復活を覚えて日々を歩みます。願わくは3月27日のイースター伝道集会にわたしたちの家族、友人、この町の人々をお招きください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

 

 詩篇説教67                主の2016年3月20日

       指揮者によって。伴奏付き。賛歌。歌。
神がわたしたちを憐れみ、祝福し
御顔の輝きを
    わたしたちに向けてくださいますように  [セラ
あなたの道をこの地が知り
御救いをすべての民が知るために。

    神よ、すべての民が
        あなたに感謝をささげますように。
  すべての民が、こぞって
    あなたに感謝をささげますように。

諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように
あなたがすべての民を公平に裁き
この地において諸国の民を導かれることを。  [セラ

  神よ、すべての民が
        あなたに感謝をささげますように。
  すべての民が、こぞって
    あなたに感謝をささげますように。

大地は作物を実らせました。
神、わたしたちの神が
  わたしたちを祝福してくださいますように。
神がわたしたちを祝福してくださいますように。
地の果てに至るまで
  すべてのものが神を畏れ敬いますように。
                                         詩篇第67編1-8節

 説教題:「世界が神を畏れ敬うように」
 本日より受難週に入ります。キリストの最後の7日間をルカによる福音書でたどり、キリストの御受難と十字架の死を瞑想し、次週のイースターに備えていただきたく願っています。

 さて、今朝は詩篇第67編1-8節の御言葉を学びましょう。

 この詩篇は、詠み人知らずの歌であります。エルサレム神殿の礼拝で立琴の伴奏に合わせて賛美されていたでしょう。

 詩人が7節で「大地は作物を実らせました」と歌っていますように、この詩篇は収穫の感謝と関係があると思いますが、この詩篇が収穫の時期に作られたと判断できる材料はありません。

 この詩編で、詩人が何を賛美しているか、その中心は何かを学びましょう。

 まずこの詩篇の4節と6節で繰り返されるリフレーンの御言葉が目に留まりませんか。

  「神よ、すべての民が あなたに感謝をささげますように。すべての民が、こぞって あなたに感謝をささげますように。」

  詩人は神に呼びかけて祈ります。神の民イスラエルと諸国民たち、すべての民が感謝をささげるように、と。「神に感謝をささげる」とは、神を礼拝することです。だから、詩人は、神が神の民イスラエルと諸国民たちすべてに、礼拝をなさせてくださいと祈るのです。

 さらに、この詩篇に目を留めてください。すると、2節と7節と8節で詩人が繰り返し神に祝福を祈っていることに目が留まりませんか。詩人は、神が「わたしたち」、すなわち、神の民イスラエルを祝福してくださるようにと祈っています。そのところを注目したある旧約学者は、「この詩篇は祝福の歌である」と言っています。

 2節の詩人の祝福の祈りに注目してみてください。思い当たる方はいませんか。礼拝の祝祷、すなわち、祝福の宣言です。旧約聖書の民数記6章の有名な大祭司アロンの祝福です。わたしは用いたことがありません。礼拝の終わりの祝福の宣言でアロンの祝福を祈る牧師がいます。

  「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。」(民数記6:24-26)。
 
  詩人はアロンの祝福をそのまま祈っているわけではありません。この詩篇を理解する一つのポイントは、詩人が大祭司アロンのように神に神の民イスラエルの祝福をとりなし、祈っていることです。
 
  わたしは、この詩人は祭司ではないのかと思っています。彼は、エルサレム神殿での礼拝で、祭司として礼拝に集う神の民イスラエルのために神に祝福をとりなし祈っていただろうと、思っています。
 
 そして、3節で詩人は、彼が、神に、神の民イスラエルの祝福をとりなし祈る理由を次のように述べています。「あなたの道をこの地が知り 御救いをすべての民が知るために」。

 「あなたの道」、神の民イスラエルが神に至る道であります。神は、神の民イスラエルが御自身の道を歩めるようにと、シナイ山でモーセを通して彼らに律法を授けられました。また、幕屋を造り、そこに御自身が臨在し、神に仕える祭司とレビ人をそこに置き、そして、神は彼らに安息日を守り、幕屋で礼拝することをお命じになりました。こうして神は、彼らが神の律法を守り、主に従って歩むなら祝福を約束し、彼らが他の神々を偶像礼拝し、神の律法に背くならば、呪いを下すと宣言されました。

  今神は、この詩人を通して神の民イスラエルだけでなく、彼らを通して世界の諸国民を御自身の祝福へとお招きになりました。

  ですから、詩人は、神に神の民イスラエルを祝福してくださり、彼らの祝福を通して諸国民が救われて、共に神を礼拝し、神に喜び仕え、神の祝福にあずからせてくださいと祈りました。
 
  詩人が5節で「諸国の民が喜び祝い、喜び歌いますように」と祈っていますね。詩人は、神の御救いを知った諸国民が本当に心から自由に喜び、神を礼拝賛美する姿を見ているかのように歌っています。
 
  そして、詩人は、5節と7節で喜び祝い礼拝する動機を次のように述べています。第1は「あなたがすべての民を公平に裁き」ということです。第2は「大地を実らせ」、祝福してくださることです。
 
  わたしは、この詩篇を通して、御受難のキリストを瞑想することに、益があると思います。キリストは、ヘブライ人の手紙に紹介されているように、わたしたちの大祭司であります。キリストは、大祭司として父なる神にわたしたちをとりなしてくださいます。
 
  わたしは、詩人とキリストの祈りに、すなわち、神の民イスラエルとキリスト者たちに神の祝福をとりなし、祈るということに、共通性があると思います。
 
  また、神は、主の道を歩ませるために、旧約の神の民たちにはモーセを通して神の律法を与えられ、わたしたちキリスト者にはキリストの福音をお与えくださいました。わたしたちは、キリストの福音によって神の御救いを知らされました。
 
  だから、詩人が言う「あなたの道」を、わたしはキリストの福音が伝えるキリストと理解します。ヨハネによる福音書で、主イエス御自身が言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:5)。
 
  詩人が「あなたの道をこの地が知り 御救いをすべての民が知るために」と預言したことは、イエス・キリストを通して実現したと、わたしは主イエス御自身の御言葉で確信します。今や、世界の諸国民はすべて、主イエスを通して父なる神に至り、永遠の命の喜びに満たされているのです。諸国の民は喜び祝い、喜びの歌を歌っているのです。
 
  わたしは、この詩人が預言しているように、今世界の諸国民が自由に神を喜び礼拝できることは、「あなたがすべての民を公平に裁き、この地において諸国の民を導かれる」結果であると思います。
 
  だから、わたしは、この受難週に、この詩人の預言の言葉を心に留めながら、キリストの御受難と十字架、そして、復活、昇天と神の右に座されたことを思いめぐらせるのが、わたしたちの信仰にとって益があると思います。
 
  本日より土曜日までキリストの御受難と十字架の死を思い、過ごします。週報に記載したルカによる福音書の御言葉を用いていただければ幸いです。同時にヨハネによる福音書を、キリスト讃歌を心に留めてほしいと思います。言葉である、永遠の神の御子キリストが何のために肉体を取ってこの世に来られたかを、瞑想してください。どうして、父なる神がキリストを十字架に渡たされたか、心に留めてほしいと思います。あのキリストの十字架で、この詩人が預言した「あなたがすべての民を公平に裁き」ということが実現したのだと知ってほしいと思います。
 
  そして、次の主の日はイースターです。一緒に復活の主キリストをお祝いしたいと思います。主イエスは三日目に復活されました。そして、復活の後、40日目に昇天さました。今復活の主イエスは父なる神の右に座しておられます。すなわち、復活の主イエスは、この世界を御支配なさっています。そして、主は、聖霊と御言葉によって、すなわち、教会の福音宣教を通して、神の民を集められています。
 
  だから、この詩人が「この地において諸国の民を導かれる」と預言したことは、ペンテコステ以来、エルサレムから地の果てに至るまで教会の福音宣教によって実現しているのです。
 
  そして、教会の福音宣教によって詩人が「大地は作物を実らせました。」という預言も実現しました。ヨハネによる福音書で主イエスは、次のように言われています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)。キリストは死なれました。キリストは甦られました。キリストは天に昇られました。キリストは世界を支配されています。キリストは天より聖霊を遣わされました。この地にキリストの教会が建てられ、キリストは教会に世界宣教をお命じになりました。以来2000年、キリスト教会はエルサレムから始まり、わたしたちのところまで、まさに地の果てに至るまで、世界が神を畏れて敬うように、と、絶えずキリストの福音を伝えているのです。

お祈りします。

 イエス・キリストの父なる神よ、詩篇67編の御言葉を学ぶ機会を得、感謝します。本日より受難週に入ります。一週間、キリストの御受難と十字架を瞑想して過ごします。詩篇67編の御言葉が、その瞑想に役立つものとしてください。

 次週のイースターに、伝道集会をします。詩人が祈りますように、どうか、わたしたちを、主よ、祝福してください。わたしたちを通して、家族やこの町の人々が主の御救いを知ることができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

詩篇説教68                主の2016424

 

 

 

       指揮者によって。ダビデの詩。

 

       讃歌。歌。

 

神は立ち上がり、敵を散らされる。

 

神を憎む者は御前から逃げ去る。

 

煙は必ず吹き払われ、蝋は火の前に溶ける。

 

神に逆らう者は必ず御前に滅び去る。

 

神に従う人は誇らかに喜び祝い

 

御前に喜び祝って楽しむ。

 

神に向かって歌え、御名をほめ歌え。

 

雲を駆って進み方に道を備えよ。

 

その名を主と呼ぶ方の御前に喜び勇め。

 

 

 

神は聖なる宮にいます。

 

みなし子の父となり

 

やもめの訴えを取り上げてくださる。

 

神は孤独な人に身を寄せる家を与え

 

捕われ人を導き出して清い所に住まわせてくださる。

 

背く者は焼けつく地に住まねばならない。

 

 

 

神よ、あなたが民を導き出し

 

荒れ果てた地を行進されたとき                [セラ

 

地は震え、天は雨を滴らせた

 

シナイにいます神の御前に

 

神、イスラエルの神の御前に。

 

神よ、あなたは豊かに雨を賜り

 

あなたの衰えていた嗣業を固く立てて

 

あなたの民の群れをその地に住まわせてくださった。

 

恵み深い神よ

 

あなたは貧しい人にその地を備えられた。

 

 

 

主は約束をお与えになり

 

大勢の女たちが良い知らせを告げる

 

「王たちは軍勢と共に逃げ散る、逃げ散る」と。

 

家にいる美しい女も戦利品を分けている。

 

あなたたちは二つの鞍袋の間に横たわるのか。

 

鳩の翼は銀に、羽は黄金に被われている。

 

 

 

全能者が王たちを散らされるとき

 

ツァルモン山に雪が降るであろう。

 

神々しい山、バシャンの山

 

峰を連ねた山、バシャンの山

 

峰を連ねた山よ、なぜ、うかがうのか

 

神が愛して御自分の座と定められた山を

 

主が永遠にお住みになる所を

 

 

 

神の戦車は幾千、幾万

 

主はそのただ中にいます。

 

シナイの神は聖所にいます。

 

主よ、神よ

 

あなたは高い天に上り、人々をとりことし

 

人々を貢ぎ物として取り、背く者も取られる。

 

彼らはそこに住み着かせられる。

 

 

 

主をたたえよ

 

日々、わたしたちを担い、救われる神を。

 

この神はわたしたちの神、救いの御業の神

 

主、死から解き放つ神。

 

神は必ず御自分の敵の頭を打ち

 

咎のうちに歩み続ける者の

 

  髪を覆われた頭を打たれる。

 

主は言われる。

 

「バシャンの山からわたしを連れ帰ろう。

 

海の深い底から連れ帰ろう。

 

あなたの敵を打って足をその血に浸し

 

あなたの犬も分け前として敵の血に舌を浸す。」

 

 

 

神よ、あなたの行進が見える。

 

わたしの神、わたしの王は聖所に行進される。

 

歌い手を先頭に、続いて楽を奏する者

 

おとめらの中には太鼓を打つ者。

 

聖歌隊によって神をたたえよ

 

イスラエルの源からの主を。

 

若いベニヤミンがそこで彼らを統率する。

 

ユダの君侯らは彼らの指導者

 

ゼブルンの君侯ら、ナフタリの君侯らもいる。

 

 

 

あなたの神は命じられる

 

  あなたが力を帯びることを。

 

神よ、力を振るってください

 

わたしたちのために行動を起こしてください。

 

あなたの神殿からエルサレムの上に。

 

あなたのもとに王たちは献げ物を携えてきます。

 

叱咤してください、葦の茂みに住む獣を

 

諸国の民を子牛のように伴う猛牛の一群を

 

銀の品々を踏みにじるものを。

 

闘いを望む国々の民を散らしてください。

 

エジプトから青銅の品々が到来し

 

クシュは、神に向かって手を伸べる。

 

 

 

地の王国よ、共に神に向かって歌い

 

主にほめ歌をうたえ

 

いにしえより高い天を駆って進む方に。

 

神は御声を、力強い御声を発せられる。

 

力を神に帰せよ。

 

神の威光はイスラエルの上にあり

 

神の威力は雲の彼方にある。

 

神よ、あなたは聖所にいまし、恐るべき方。

 

イスラエルの神は御自分の民に力と権威を賜る。

 

神をたたえよ。

 

 

 

             詩篇第68136

 

 

 

 説教題:「神は聖所にいます」

 

 今朝は、詩編第68136節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

 1節の表題に「ダビデの詩、讃歌、歌」とあります。わたしは、この詩編をダビデの歌と思って、まず読んでみました。読んで心に浮かびましたのは、「主なる神の行進」であります。イスラエルの神の民が、主なる神に導かれてエジプトの国を脱出し、シナイ山に至りました。そこで主なる神は彼らの前に現れ、彼らに十戒の板を授けられました。そして、主なる神は彼らを支配し、神の御国を形成されました。それから主なる神は、契約の箱を先頭に立て、40年間彼らを荒れ野で導かれました。そして、約束の地カナンを嗣業の地として与えられました。その後ダビデが王国を建て、都のエルサレムに契約の箱を移して、シナイの神はエルサレムを永遠の住まいとされました。それをこの詩編は神の行進として描いています。

 

 

 

 わたしはサムエル記下の6章でダビデが神の契約の箱をエルサレムに運ぶことを記しています記事を読み、その時にダビデが歌った歌からこの詩編が生み出されたのではないかと思います。ですから、わたしはこの詩編を、ダビデの信仰告白であり、ダビデが出エジプトからエルサレムに聖所が定められるまでの神の救いの歴史を、絵巻物のように歌ったのだと思います。

 

 

 

 そして、この詩編は、出エジプトやエルサレムに聖所が定められたことを記念して、毎年エルサレムで祝われます祭の時に賛美され、今日の形になったのでしょう。

 

 

 

 ダビデは、神の御名をいろいろ使って賛美します。「神よ」、「主よ」、「全能者よ」と呼び、神がなされた御業をほめたたえ、そして神の民イスラエルだけでなく、世界の諸国民にも神の栄光をほめたたえるように呼びかけています。

 

 

 

 この詩編の主題は、2節の御言葉です。ダビデは、民数記103536節のモーセの言葉を心に留めて、神の勝利の行進を歌っております。神の勝利の行進は、出エジプトに始まり、荒れ野の40年間、そして約束の地カナンに入り、聖所をエルサレムに定めるまで続きました。ダビデ以後も神の勝利の行進は続きました。主なる神に導かれ、バビロン捕囚から帰還し、神の民イスラエルはエルサレムの都を再建し、第2神殿を建て、そこで毎年祭を祝うごとにこの詩編を賛美しました。

 

 

 

 ですから、いのちのことば社から「新聖書講解シリーズ」が刊行され、「旧約11」の『詩編』の前半を、引退教師の富井悠夫先生が担当され、先生はこの詩編に「神の国の進展を祈る」という題をつけられています。そしてこの詩編のテーマを次のように解説されています。「神の勝利の行進が主題となっており、その勝利の行進は過去から現在、未来へと続く神の国の拡張、進展である。」

 

さらに富井先生は、次のように記されています。「イスラエルはシナイ山において神の国として確立された。そして今やシオン(エルサレム)に神の契約の箱が安置され、イスラエルの信仰と希望は更に拡大され、礼拝を通して周囲に神の臨在をあかしすることができるようになった。その喜びの表明と未来における神の国の世界的栄光を歌っている詩編である。この意味で、まさにメシア詩編と言える。」

 

 

 

 詩編150編の中でこの詩編が一番解釈の困難なものとされていますが、富井先生の導きに助けられて、この詩編を味わってみましょう。

 

 

 

 この詩編を一つの作品の詩と見れば、始まりがあり、終わりがあります。詩編は、始まりと終わりで神を賛美しています。27節と3336節です。始まりと終わりの神賛美に挟まれて、8節から32節でダビデは、信仰告白をしています。神の勝利の行進を声高々に賛美し、神に栄光を帰しています。

 

 

 

 彼の信仰告白の内容、すなわち、神の勝利の行進の内容は、神の民イスラエルの過去と現在と未来に向けられています。

 

 

 

 819節でダビデは、出エジプトからダビデが王国を建て、聖所を都エルサレムに定めたまでの過去における神の救いの御業を回顧しています。神は、神の民イスラエルをエジプトから導かれ、シナイ山で彼らに現れ、十戒を授け、ご自身が支配する神の御国を確立されました。そして、シナイの神はシナイ山から約束の地カナンへと勝利の行進をされ、永遠にエルサレムに御自身が住まわれる聖所を定められました。

 

 

 

 2032節で、詩人は目を現在から未来に向けます。神の行進の最後の勝利と神が全世界的な王国を建てることを待望しています。神の民イスラエルが喜び、神に闘いをいどむ諸々の国民が辱められ、神の平和が地上を支配することを、詩人は待望しています。

 

 

 

 今、神は聖所にいまし、神の民たちに礼拝を通して現れ、勝利の行進を続けられています。だから、常に神は苦難にある神の民を救われ、孤児ややもめのように神にしか頼れない社会的弱者たちを父親のように守り、育てられます(67)

 

 

 

 819節のシナイの山から約束の地カナンへの旅路は、わたしたちキリスト者にとっては、この世から天国への旅路です。19節でダビデが「主よ、神よ あなたは高い天に上り、人々をとりことし」と歌っていますね。ダビデは、シナイの神、主がカナンの先住の諸民族の王たちに勝利された後、天に帰られたと賛美しています。そして、主に導かれた神の民イスラエルはカナンに定着させられました。そこでダビデの王国が建てられ、その都エルサレムに聖所が定められ、主はそこに永遠に住まわれるのです。

 

 

 

 2032節で、ダビデはおそらく御霊によって未来を見せられたのでしょう。2324節は神の勝利の行進によって神の民がバビロン捕囚からエルサレムに帰還するという預言でしょうか。あるいは、北イスラエル王国のアハブ王と妃イゼベルの滅びの預言でしょうか。また2528節でダビデは、神の勝利の行進を見ています。おそらく歴代誌下30章でヒゼキヤ王がイスラエルとユダに使者を遣わして過越祭をエルサレムで祝わせます。そのことを言及しているのではないでしょうか。2932節でダビデが預言していることは、ペンテコステの日に成就しました。

 

 

 

 使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙48節で、この詩編の19節の御言葉を引用して、キリストの昇天に言及しています。

 

 

 

十字架と復活の主イエス・キリストが、サタンと罪と死に勝利され、天に昇られ、父なる神の右に座され、今教会と世界の支配者として、勝利の行進をされています。今も昔も神の民はこの世において苦難の中にあります。

 

 

 

勝利の行進をされているキリストは、「貧しい人々は幸いである」と福音を告げて、今も神にのみより頼まざるを得ない者を守り、御国に導かれています。

 

 

 

主は羊飼いであり、弱いわたしたち、羊を保護し、この世で迷子になるわたしたちを捜し、肩に担い、本来あるべきところに戻してくださいます。

 

 

 

主イエスは、十字架と復活によってわたしたちを罪と滅びと死から解放してくださる神です。ダビデは、わたしたちのように明確ではありませんが、「日々わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神 主、死から解き放つ神。」と信仰告白することで、彼もまた十字架と復活の主イエス・キリストを待ち望んでいたことを、わたしたちは確信するのです。

 

 

 

富井悠夫先生は、先ほど紹介した本で、次のように記されています。「イエス・キリストの復活と聖霊の降臨によってこの詩編で期待された神の世界的顕現と統治が実現された」と。

 

 

 

それが、515日に祝う聖霊降臨、ペンテコステです。どうかこの詩編を繰り返しお読みください。主の日の礼拝ごとに復活し、昇天されたキリストが、ペンテコステの日以来聖霊と御言葉を通して世界の教会の礼拝に現れ、今も勝利の行進をし、わたしたちを神の御国へと導いてくださっています。ダビデが御霊によって「神よ、あなたの行進が見える。わたしの神、わたしの王は聖所に行進される」と歌いました喜びを、わたしたちも信仰によって、御霊に導かれて、ここで見させていただこうではありませんか。御言葉を聞くことを通して、洗礼の場に立ち会うことによって、何よりも次週の礼拝と515日のペンテコステ礼拝で聖餐の恵みにあずかることを通して、見させていただこうではありませんか。

 

 

 

勝利の行進をされているキリストは、エマオの途上で見知らぬ旅人の姿で、二人の弟子たちに同伴されました。その時主イエスは、二人の弟子たちが「一緒にお泊りください」とお誘いしなければ、なおも先に行こうとされていました。

 

 

 

今も同じではないでしょうか。主イエスは常にわたしたちの傍らにおられ、わたしたちが呼び止めなければ、さらに先に行こうとされているのではないでしょうか。だから、わたしたちは、毎週日曜日にここに集まり、礼拝をし、主よ、わたしたちはここにいますと呼びかけ、この地上においてわたしたちが戦わざるを得ない苦しみを申し上げるのです。

 

 

 

主は聖所にいまして、わたしたちの日々の苦しみを担い、死から永遠の命に至る御国へとわたしたちを導いてくださり、再び主が来られる日に、わたしたちを備えてくださるのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、詩篇68編の御言葉を学ぶ機会を得、感謝します。55日がキリストの昇天日であり、515日がペンテコステです。詩篇68編の御言葉が、その瞑想に役立つものとしてください。

 

 

 

 わたしたちも、ダビデのように、ペンテコステから日本キリスト改革派教会の創立、わたしたちの教会の先輩たちが教団を離脱し、改革派教会に加入し、2018年に70周年を迎えますことを、キリストの勝利の行進として理解し、主の御救いの御業をほめたたえさせてください。一人の兄弟が召されれば、わたしたちの教会の誕生の次第を知る者はいなくなります。しかし、キリストの勝利の行進はキリストの再臨の日まで続きます。どうかわたしたちに御霊と信仰によって常にキリストが聖所をいまし、勝利の行進をされていることを見させてください。そして、その喜びを家族やこの町の人々に告げ知らせることができるようにしてください。

 

 

 

どうかダビデが「主は約束をお与えになり 大勢の女たちが良い知らせを告げる」と預言していることを、わたしたちの教会に、諏訪の地にあります教会の上に実現してください。

 

 

 

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 詩篇説教69                主の2016522

 

 

 

       指揮者によって。「ゆり」に合わせて。

 

ダビデの詩。

 

神よ、わたしを救ってください。

 

大水が喉元に達しました。

 

わたしは深い沼にはまり込み

 

足がかりもありません。

 

大水の深い底まで沈み

 

奔流がわたしを押し流します。

 

叫び続けて疲れ、喉は涸れ

 

わたしの神を待ち望むあまり

 

目は衰えてしまいました。

 

理由もなくわたしを憎む者は

 

  この頭の髪より数多く

 

いわれなくわたしに敵意を抱く者

 

 滅ぼそうとする者は力を増していきます。

 

わたしは自分が奪わなかったものすら

 

償わねばなりません。

 

 

 

神よ、わたしの愚かさは、よくご存じです。

 

罪過もあなたには隠れもないことです。

 

万軍の主、わたしの神よ

 

あなたに望みをおく人々が

 

  わたしを恥としませんように。

 

イスラエルの神よ

 

あなたを求める人々が

 

  わたしを屈辱としませんように。

 

 

 

わたしはあなたのゆえに嘲られ

 

顔は屈辱に覆われています。

 

兄弟はわたしを失われた者とし

 

同じ母の子らはわたしを異邦人とします。

 

あなたの神殿に対する熱情が

 

  わたしを食い尽くしているので

 

あなた嘲る者の嘲りが

 

  わたしの上にふりかかっています。

 

わたしが断食して泣けば

 

 そうするからといって嘲られ

 

粗布を衣とすれば

 

  それもわたしへの嘲りの歌になります。

 

町の門に座る人々はわたしを非難し

 

強い酒に酔う者らはわたしのことを歌います。

 

 

 

あなたに向かってわたしは祈ります。

 

主よ、御旨にかなうときに

 

神よ、豊かな慈しみのゆえに

 

わたしに答えて確かな救いをお与えください。

 

泥沼にはまり込んだままにならないように

 

  わたしを助け出してください。

 

わたしを憎む者から

 

大水の深い底から助け出してください。

 

奔流がわたしを押し流すことのように

 

深い沼が

 

ひと呑みにしないように

 

井戸があたしの上に口を閉ざさないように。

 

恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください。

 

憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください。

 

あなたの僕に御顔を隠すことなく

 

苦しむわたしに急いで答えてください。

 

わたしの魂に近づき、贖い

 

敵から解放してください。

 

わたしが受けている嘲りを

 

恥を、屈辱を、あなたはよくご存じです。

 

私を苦しめる者はすべて御前にいます。

 

嘲りに心を打ち砕かれ

 

わたしは無力になりました。

 

望んでいた同情は得られず

 

慰めてくれる人も見いだせません。

 

人はわたしに苦いものを食べさせようとし

 

乾くわたしに酢を飲ませようとします。

 

 

 

どうか、彼らの食卓が彼ら自身に罠となり

 

仲間には落とし穴となりますように。

 

彼らの目を暗くして

 

  見ることができないようにし

 

腰は絶えず震えるようにしてください。

 

あなたの憤りを彼らに注ぎ

 

激しい怒りで圧倒してください。

 

彼らの宿営は荒れ果て

 

天幕には住む者もなくなりますように。

 

あなたに打たれた人を、彼らはなおも迫害し

 

あなたに刺し貫かれた人の痛みを話の種にします。

 

彼らの悪には悪をもって報い

 

恵みの御業に

 

彼らを決してあずからせないでください。

 

命の書から彼らを抹殺してください。

 

あなたに従う人々に並べて

 

  そこに書き記さないでください。

 

わたしは卑しめられ、苦痛の中にあります。

 

神よ、わたしを高く上げ、救ってください。

 

 

 

神の御名を賛美してわたしは歌い

 

御名を告白して、神を崇めます。

 

それは雄牛いけにえよりも

 

角をもち、ひづめの割れた牛よりもなお

 

  主は喜ばれるでしょう。

 

貧しい人よ、これを見て喜び祝え。

 

神を求める人々には

 

  健やかな命が与えられますように。

 

主は乏しい人々に耳を傾けてくださいます。

 

主の民の捕われ人らを

 

  決しておろそかにはされないでしょう。

 

 

 

天よ地よ、主を賛美せよ。

 

海も、その中にうごめくものすべて。

 

神は必ずシオンを救い

 

ユダの町々を再建してくださる。

 

彼らはその地に住み、その地を継ぐ。

 

主の僕らの子孫はそこを嗣業とし

 

御名を愛する人々はその地に住み着く。

 

             詩篇第68136

 

 

 

 説教題:「神を求める者に健やかな命を」

 

 今朝は、詩編第69137節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

 1節の表題には、この詩編がエルサレム神殿の礼拝で、聖歌隊の指揮によって「ゆり」という曲に合わせて歌われたこと、この詩編の作者がダビデであることを記しています。

 

 

 

 この詩編は、ダビデの作であるという点については、異論があります。むしろ、詩編69編の苦難の僕は預言者エレミヤではないか、捕囚期、あるいは捕囚後に熱心にエルサレムの第2神殿が建てようとした無名の者ではないか、いろいろと推測されています。

 

 

 

 わたしは、10節と3537節の御言葉等からバビロン捕囚後、エルサレム神殿を再建するためにとても熱情を傾けた一人の信仰者であると考えています。

 

 

 

 詩編69編は、作者の問題よりも、詩編22編と並んで、この詩編がメシア詩編であるということの方が重要だと思います。

 

 

 

ヨハネによる福音書を連続して、今礼拝で説教しています。主イエスが過越祭の時にエルサレムの都に上られ、エルサレム神殿を清められた事件を学びました。主イエスは鞭を作られ、神殿の境内で商売していた羊や鳩を売る者や両替人たちを追い出されました。その姿を見ていました主イエスの弟子たちが、この詩編6910節に「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあることを思い起こした、とヨハネによる福音書は記しています。初代教会のキリスト者たちは、この詩編69編の御言葉からがキリストと彼の受難の預言を多く読み取りました。

 

 

 

少し先走り過ぎたかもしれません。この詩編に戻りましょう。この詩編は、詩人が主なる神に救いを祈り求めているものです。個人の嘆きの歌と感謝の歌から成っています。

 

 

 

詩人は、2節前半で「神よ、わたしを救ってください」と主なる神への救いの嘆願で始め、2節後半から29節まで、詩人は個人の嘆きの歌を歌い、30節で再び救いを嘆願し、個人の嘆きの歌を閉じています。そして、31節より37節まで詩人は、個人の感謝の歌を歌っています。この個人の感謝の歌は、主なる神が詩人の救いの嘆願に答えてくださったことに対して、詩人が主にささげた賛美の誓いであります。

 

 

 

この詩編には、神の民、信仰者のこの世に生きる姿が明確に映し出されています。

 

 

 

まずは、神の民、信仰者、そして、わたしたちキリスト者のこの世における困難な状況であります。詩人は、今己の困難な状況を、神に救いを嘆願することで訴えています。2節後半から5節です。

 

 

 

「大水」「深い沼」は、自然災害を表しているのではありません。詩人が死を身近に感じる困難な状況にあることをたとえているのです。困難な状況の原因は、主なる神が御顔を隠されていることにあります。だから詩人の魂は、まるで大水で深く泥の中に沈められ、何が何だか分からないという混乱の中で、まるで何も見えない闇の中で光を求めてももがいているのです。

 

 

 

彼の苦しみは、ヨブ記のヨブの苦しみに似ています。5節です。「理由もなくわたしを憎む者はこの頭の髪よりも数多く いわれなくわたしに敵意を抱く者滅ぼそうとする者は力を増して行きます」。詩人は熱心に神に救いを嘆願します。神を求めても、神は御顔を隠され、神に祈るほど、彼の前に敵が増してきます。そして、詩人は、泥棒扱いされ、罪を犯していないのに、償いを求められました。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、1525節でキリストは弟子たちに御自身が迫害され、受難の道を歩まれることを預言し、それによってこの5節の「人々は理由もなく、わたしを憎んだ」という御言葉が成就すると言われています。

 

 

 

神の民、信仰者、そして、キリスト者のこの世における困難は、ヨブのように、そして、キリストのように、「理由なく、いわれなく」人々の憎しみに遭うということです。

 

 

 

この世の不条理に、その困難な状況で、この詩人は何をしたのでしょうか。彼は、御顔を隠された神に心を向けたのです。ヨブは、「理由もなく」「いわれもなく」愛する子たちを奪われ、財産を奪われ、自身の身に耐えがたい病を得ました。そこで彼は何をしたのでしょうか。心を神に向けたのです。詩人も同じです。神に心を向けて、彼は自分の愚かさを告白し、自分が母の胎にいる時から罪に汚れた者であると告白したのです。

 

 

 

同時に彼は、彼の苦しみの姿を見て、同じ神の民、信仰者が、わたしたちキリスト者が詩人を恥としないようにと、神に祈ります。なぜなら、詩人の苦しみは、彼の身から出た錆ではないからです。彼は、自分の苦しみが神のためであることを知っていました。彼は、神を愛し、神に頼るゆえに、多くの敵に辱められ、身内に見捨てられているのです。ヨブの苦しみを見て、彼の妻が「神を呪って、死ぬ方がましです」と言った時、ヨブは妻の暴言を戒め、「わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言いました。詩人もヨブも理由のない苦しみを神のためと理解しました(613)

 

 

 

この詩人から学びます真の信仰者、神の民、キリスト者は、常に自分が神の御前に生きていることを意識している者であります。神の御前に自分の罪を隠すことはできないことを知り、告白する者であります。

 

 

 

 このように詩人は告白するので、1420節で彼は神に向かっているのです。「わたしは自分により頼まず、神の恵みと慈しみに信頼します。どうか、神よ、わたしを死と敵と、敵の迫害から来る恥から救い出してください」と。

 

 

 

 詩人は、ヨブのように人の嘲りに心を打ち砕かれました。人に無視され、蔑まれ、無力な者になりました。22節は、本来食事が信頼関係を表すのですが、詩人は逆になっていると嘆くのです。人々も身内も詩人の苦しみを見て、彼は神に打たれたのだと、慰めるよりもむしろ蔑み、迫害するのです。

 

 

 

 ヨハネによる福音書は1929節で十字架のキリストがこの22節の御言葉を成就したことを「喉が渇く」と言われ、酸いぶどう酒を主イエスの口に飲ませようとした時、主イエスは「成し遂げられた」と言われて、息を引き取られました。

 

 

 

 詩人は、2329節で復讐を祈るのです。彼はすべての者に見捨てられ、一人の同情者も得られませんでした。彼を蔑む者たちが思ったように、詩人自らも神に打たれたことを認めています。詩人を迫害する者たちは、己を神の位置に引き上げる神の冒涜者であり、神の厳しい裁きを自らに招いている者たちであります。神が彼らの名を命の書から消し去られるように祈るのです。26節は、使徒言行録120節で主イエスを裏切ったユダの自殺において成就したと初代教会は理解しました。

 

 

 

 詩人は、30節でヨブのように卑しめられて、苦痛の中にあるわたしを、神よ、救ってくださいと祈り、嘆きの歌と復讐の祈りを閉じています。

 

 

 

 30節と31節の間にどれほどの時の流れ、時間の隔たりがあるのか、分かりません。分かることは、詩人の祈りを、主なる神は聞き入れてくださいました。彼は、神に救われました。彼が熱心に願ったエルサレム神殿の再建はなお先のことかもしれません。しかし、詩人はその実現が確実であり、捕囚の民がエルサレムに帰還し、再びエルサレムで神を礼拝する時が来ることを確信し、彼は神に感謝の歌をささげているのです。

 

 

 

 詩人は歌いました。犠牲よりも信仰をもって神を礼拝することを、主は喜ばれると。わたしたちが今、している礼拝を、主なる神は喜ばれているのです。

 

 

 

 33節の「貧しい人」「神を求める人々」、そして34節の「乏しい人」「主の民の捕われ人」とは、詩人のように、ヨブのように、「理由なく、いわれなく」苦難の中で主を礼拝し、主に救いを祈り求める者たちです。彼らは、この世の困難な状況でも自分たちが主の御前に生き、自分たちの罪を主に隠すことができないと知る者たちです。

 

 

 

だから、彼らは礼拝に集い、主なる神に心を向けるのです。彼らは詩人のように、ヨブのように、神を崇め礼拝する中で、「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられる」と信じ、告白する者たちです。詩人は、彼らを祝福します。「神を求める人々」、すなわち、神を礼拝する人々に、健やかな命が与えられるように、と。

 

 

 

主イエスは、「健やかな命」を「永遠の命」と言われた。そして、主イエスは、弟子たちに言われました。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストとを知ることです。」

 

 

 

今わたしたちは、神の御前に生きる者として、自らの罪を告白し、わたしたちがこの礼拝で知るキリストとキリストの父なる神の恵みと憐みのゆえに、この詩編を通して十字架のキリストの死のゆえに、わたしたちの罪が赦され、キリストの復活のゆえにわたしたちもこの世においては死を経験しなければなりませんが、キリストが死に勝利されたように、わたしたちも死から永遠の命によみがえらされるという希望に生かされています。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、詩篇69編の御言葉を学ぶ機会を得、感謝します。

 

 

 

 わたしたちも、詩人のように、この世において困難な状況に置かれることがあります。理由なく人々の憎しみに遭い、苦しい立場に立たされることがあります。

 

 

 

日々、わたしたちは神が隠された中で、嘆き、助けを求めざるを得ません。その時にわたしたちがこの詩人やヨブのように、神の御前に生きる罪人であることを告白させてください。

 

 

 

わたしたちが礼拝ごとに「わたしたちは知っています。わたしたちを贖う方は生きておられる」と信じて、主を仰がしてください。

 

 

 

どうかこの詩編を、一週間読み続け、親しみ、常に十字架のキリストを瞑想させてください。

 

 

 

どうかこの詩人が「神を求める人々には、健やかな命が与えられるように」と祈る御言葉が、わたしたちのこの礼拝の上に実現し、わたしたちがこの教会の礼拝を通して、主イエス・キリストと父なる神を知り、父とキリストと共に永遠に生きる喜びを与えてください。

 

 

 

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

詩篇説教71                主の2016724

 

 

 

主よ、御もとに身を寄せます。 「あなたの中に、主よ、わたしは逃げ込む」 

 

とこしえに恥に落とすことなく 「わたしに恥をかかせないでください。永遠に」

 

恵みの御業によって助け、逃れさせてください。「あなたの義によって」

 

あなたの耳をわたしに傾け、お救いください。

 

常に身を避けるための住まい、岩となり

 

わたしを救おうと定めてください。「常にあなたは命じる、わたしを救うように」

 

あなたはわたしの大岩、わたしの砦。

 

 

 

わたしの神よ、あなたに逆らう者の手から 「悪人の手から」

 

悪事を働く者、不法を働く者の手から  「不正を行う者、冷酷な者から」

 

わたしをのがれさせてください。

 

主よ、あなたはわたしの希望。 「なぜなら、あなたはわたしの望み」

 

主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み 「わが主よ、神よ、若いころからの依り所」

 

母の胎にあるときから

 

あなたに依りすがって来ました。

 

あなたの母の腹から

 

わたしを取り上げてくださいました。

 

わたしは常にあなたを賛美します。

 

多くの人はわたしに驚きます。

 

あなたはわたしの避けどころ、わたしの砦。「あなたはわたしの力のさけどころ」

 

わたしの口は賛美に満ち 「満たされる」

 

絶えることなくあなたの輝きをたたえます。「一日中あなたの輝きが」

 

 

 

老いの日にも見放さず 「わたしを投げ捨てないでください。老齢の時に」

 

わたしに力が尽きても捨て去らないでください。「わたしの力が尽きるころ」

 

敵がわたしのことを話し合い 「なぜなら、わたしの敵はわたしに言う

 

わたしの命をうかがう者が共に謀り 「見張る者たちがわたしの魂を一緒に相談する」

 

言っています。 「神は彼を捨てたと言って」

 

「神が彼を捨て去ったら、追い詰めて捕らえよう。「追え、そして彼を捕らえよ、

 

彼を助ける者はもういない」と。 「なぜなら、いない、彼を救い出す者が」

 

神よ、わたしを遠く離れないでください。「神よ、遠く離れないでください、わたしから」

 

わたしの神よ、今すぐわたしをお助けください。「わたしの神よ、わたしの助けのために

 

わたしの魂に敵対する者が           急いでください。

 

  恥に落とされ、滅ぼされますように。

 

わたしが災いに遭うことを求める者が

 

 嘲りと辱めに包まれますように。 「嘲りと辱めで身を包むように」

 

 

 

わたしは常に待ち望み

 

繰り返し、あなたを賛美します。「わたしはすべてのものの上に賛美を加える」

 

わたしの口は恵みの御業を 「わたしの口はあなたの義を物語る」

 

御救いを絶えることなく語り 「一日中、あなたの救いを」

 

なお、決して語り尽すことはできません。「なぜなら、わたしは知らない、数を」

 

しかし、主よ、わたしの主よ

 

わたしは力を奮い起こして進みいで 「わたしは行く、力強い業の中で、わが主よ、神よ」

 

ひたすら恵みの御業を唱えましょう。「わたしは思い出させる、あなたの義を、あなただけ

 

神よ、わたしの若いときから     を」「神よ、あなたはわたしを教えた、若い頃から」

 

  あなた御自身が常に教えてくださるので

 

今に至るまでわたしは  「そして、今まで」

 

  驚くべき御業を語り伝えて来ました。「わたしは伝える、あなたの不思議な御業を」

 

 

 

わたしが老いて白髪になっても 「そして、老齢と白髪までも」

 

神よ、どうか捨て去らないでください。

 

御腕の業を、力強い御業を 「わたしがあなたの腕を世代に伝えるまで」

 

  来るべき世代に語り伝えさせてください。 「すべての・・に、来る力強い御業を」

 

神よ、恵みの御業は高い天に広がっています。「あなたの義は、神よ、高いところまで」

 

あなたはすぐれた御業を行われました。「あなたは大きなことを行った」

 

神よ、誰があなたに並びえましょう。「神よ、誰があなたのような」

 

 

 

あなたは多くの災いと苦しみを 「神よ、あなたはわたしに多くの苦難と災いを見せる」

 

  わたしに思い知らせられましたが

 

再び命を得させてくださるでしょう。「あなたが帰る。わたしを生かす

 

地の深い淵から 「地の深い淵からあなたは帰る。わたしを上げてください。」

 

  再び引き上げてくださるでしょう。

 

ひるがえって、わたしを力づけ 「あなたは増す。わたしの大きさを。振り向く。わたしを

 

すぐれて大いなるものとしてくださるでしょう。  慰める」

 

わたしもまた、わたしの神よ   「わたしもまた、あなたに感謝する、琴の楽器で

 

琴に合わせてあなたのまことに感謝をささげます。 あなたの真を、わたしの神よ」

 

イスラエルの聖なる方よ

 

わたしは竪琴に合わせてほめ歌をうたいます。

 

わたしの唇は喜びの声をあげ「わたしの唇は喜びを歌う、わたしがあなたにほめ歌を歌う時」

 

あなたが贖ってくださったこの魂は 「あなたが贖ったところのわたしの魂は」

 

  あなたにほめ歌をうたいます。

 

わたしの舌は絶えることなく 「わたしの舌も一日中、あなたの義を口ずさむ。」

 

  恵みの御業を歌います。

 

わたしが災いに遭うことを望む者が 「わたしの災いを求める者たちが

 

どうか、恥と辱めに落とされますように。 なぜなら恥じた。なぜなら辱められた」

 

             詩篇第71124

 

 

 

 説教題:「安けく行かしめたまえ」

 

 今朝は、詩編第71124節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

 詩編第71編には、表題がありません。詩編第70編に続けている写本もあります。有名な70人訳聖書には、「ダビデの、ヨナダブの子らと最初の捕囚民との」という表題が付されています。

 

 

 

 「ダビデの」という表題が付されているのは、「ダビデの歌」という表題が付された詩編第31編の24節が本編の13節に引用されているからです。

 

 

 

 また、「ヨナダブの子ら」が何を意味しているのかは分かりませんが、「最初の捕囚民との」という表題を付したのは、歴代誌下3617節に「主はカルデヤ人の王を彼らに向かって攻め上らされた。彼は若者たちを聖所の中で剣にかけて殺し、若者のみならず、おとめも、白髪の老人も容赦しなかった。主はすべての者を彼の手に渡された」という記録があり、この「白髪の老人」の一人がこの詩編の作者であると理解したからです。

 

 

 

 詩編71編の作者は、レビ人、祭司であったと、わたしは思います。

 

 

 

彼は、6節で母の胎にいる時から主なる神に信頼していたと告白しています。母の胎にいる時から彼は主を賛美していました。そして、9節で老いた今、彼は主に願います。「わたしは力が尽きようとしています。」すなわち、彼に死が身近に迫っているのです。

 

 

 

 このようにこの詩編の作者は、一生をレビ人、祭司として身を主にささげ、老齢に至り、捕囚という苦難に遭った者です。彼は、捕囚の地で主に嘆き、なおも主に信頼し、主を賛美しています。

 

 

 

 わたしは70人訳聖書の伝統に従い、バビロン捕囚時代にこの詩編が歌われたと思います。

 

 

 

 詩人は遠くエルサレムと神殿を離れ、異邦人の地で彼の敵から神に見捨てられ、誰からも助けてもらえないと嘲られております。しかし、彼は今の逆境の中で彼の若い頃より信頼して来た主なる神に助けを求め、18節でこの神の救いを後の世代に伝えようとしています。

 

 

 

 彼には、苦難の中で模範とするモデルがありました。ダビデです。

 

 

 

 彼は、ダビデの歌を引用し、苦難の中で主を信頼するダビデを、今の彼の信仰の模範としました。だから、彼は、ダビデの詩編3124節の歌を引用し、ダビデが一生主を信頼し、苦難の時には主に逃れたように、わたしも若い頃から老齢の今に至るまで主を信頼し、今のバビロン捕囚という苦難の中で主に逃れますので、ダビデと同じように助けてくださいと嘆願しているのです。

 

 

 

 「わたしの岩、大岩、砦」「身を避けるための住まい」、すなわち、「隠れ家」という言葉は、主なる神への信頼を表す言葉です。

 

 

 

 2節と15節、16節、19節、24節に5度「恵みの御業」という言葉が出てきます。ヘブライ語旧約聖書では「あなたの義」という言葉です。ダビデは、主なる神に「あなたの義によって」わたしを苦難からお助けくださいと祈りました。

 

 

 

 神の義とは、神の正義、神の正しさです。ダビデやこの詩編の詩人のように、イスラエルの神の民にとって、彼らの救いは神の義によって、神が自らの正しさを証しされることで訪れるのです。

 

 

 

 それを、わたしたち改革派教会の伝統では、神の恵みの契約と言っています。神がアブラハムと彼の子イサク、そして、孫のヤコブと恵みの契約を結ばれて、「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」と約束してくださいました。その約束のしるしが、アブラハムの子孫たちとカナンの土地でありました。

 

 

 

 主なる神は、この恵みの契約を忘れられませんでした。アブラハムの子孫がエジプトで奴隷生活をしていた時も、主なる神は覚えていて、民の指導者モーセを通して奴隷の地エジプトからアブラハムの子孫たちを救い出し、約束の地カナンへと導かれました。これが、恵みの御業であります。主なる神は、出エジプトの救いを通して、御自身の正しさを民に証しされたのです。

 

 

 

 ですから、ダビデもこの詩人も、彼らの救いの根拠を、神の義に求めたのです。恵みの契約によって御自身の正しさを証し、神の民を救われる神の恵みの御業に信頼したのです。

 

 

 

 詩人は、48節で「わたしの神よ」と呼びかけて、異邦人から、悪を働き、不法を成す者からの救いを願っています。

 

 

 

 「あなたに逆らう者の手」とは、バビロンの異邦人の手から、バビロン捕囚からという意味だと思います。「悪事を働く者」「不法な者」とは、悪い者、不義な者、憐みを知らない残忍な者たちです。

 

 

 

 詩人は、苦難の中でダビデを信仰の模範とし、常に「主よ、あなたはわたしの希望」と告白します。

 

 

 

 恵みの契約ゆえに、ダビデは主なる神に3節で「わたしを救おうと定めてください」と嘆願しています。恵みの契約のゆえに主なる神は、命じられるのです。ダビデを救うように。このように恵みの契約の民は、この世でどんな苦難の中でも、主なる神が命じられるのです。「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」と約束した者とその子孫を救うように。

 

 

 

 詩人は、母の胎にいる時から、恵みの契約の中にあり、それゆえに主なる神は、いかなる時にも、どんな苦難の中でも、御自身の義によって彼を救ってくださると、深く主なる神に信頼を置いているのです。

 

 

 

 詩人にとって、主なる神の恵みの御業に対する感謝の応答が8節の詩人の主なる神への賛美であり、礼拝でありました。彼にとって礼拝は、「絶えることなくあなたの輝きをたたえます」ということでありました。

 

 

 

「絶えることなく」とは、一日中ということです。ユダヤ人たちは、その日一日、時刻を決めて神を礼拝しておりました。わたしたち改革派教会は、南アメリカ長老教会の伝統で、主の日に朝と夕に礼拝を守り、日曜日をキリスト教安息日としてその日一日神を礼拝するという習慣があります。

 

 

 

 914節で詩人は、老齢で、力尽きて、死に至る自分を自覚しながら、彼の命を狙う敵からの救いを、今救ってくださることを祈り求めているのです。

 

 

 

 バビロン捕囚は、老齢で、体力と気力が尽きようとしている詩人にとっては、厳しい状況でした。

 

 

 

詩人の敵は、異邦人たちでしょう。異邦人たちは、容赦なく詩人の命を狙っています。詩人を助けてくれる者は、捕囚の地には誰もいないのです。

 

 

 

それゆえに詩人は、異邦人の地で主に助けを求めるのです。捕囚の地でも、主は、詩人にとって「わたしの神」、恵みの契約の神です。だから、詩人は今助けてくださいと祈ります。

 

 

 

恵みの神の助けは、神の民の敵への裁きを伴うのです。出エジプトで、主なる神は神の民イスラエルを救うと同時に、エジプトの王と家来、そして民たちを恥と滅びに陥れて、裁かれました。

 

 

 

恵みの契約の神を、ダビデや詩人のように「わたしの神」と信頼を寄せる者には、この詩人のようにこの世の苦難の中で「わたしは常に待ち望み、繰り返し、あなたを賛美します」という望みと平安があります。その望みと平安は具体的には詩人の個人的礼拝であり、神の民と共にする共同体の礼拝であります。

 

 

 

1520節で、詩人は礼拝共同体の喜びを賛美しています。第115節で共同体の礼拝において恵みの神の御救いが神の民イスラエルに語り伝えられています。

 

 

 

216節で老齢の詩人が恵みの契約の神を「わたしの主」と呼びかけて、力を奮い起こして、神の民たちと共に主が御自身の義を証しして、神の民を救われたことを唱えています。

 

 

 

3に詩人は、17節で若い頃から主なる神が神の恵みの御業を教えてくださったので、彼は老齢に至るまで神の偉大な救いの働きを伝えてきたと述べています。

 

 

 

だから、第4に詩人は、18節で今老齢になり、白髪になっても、体力と気力が衰えても、神が見捨てられないようにと、祈ります。なぜなら、詩人の召しは、次の若い世代に主の恵みの御業を伝えることであるからです。

 

 

 

5に詩人は、19節で神の恵みの御業がこの地上を越えて高い天にまで広がっており、主なる神は驚くべき御業をなさり、それによって主なる神に並ぶことのできる神がないことを明らかにされたと賛美しています。

 

 

 

詩人が復活と永遠の命を信じていたかどうか、わかりません。しかし、19節と20節で詩人がこの世を越えた高い天という世界に信仰の目を向けていたこと、この地上で主は詩人に多くの苦難と災いを見せられ、今詩人は死に向かっています。しかし、彼は絶望しません。なぜなら、主が「再び命を得させてくださるでしょう」と希望を持っているからです。

 

 

 

19節後半の御言葉は、次のような文章です。「あなたが帰る。わたしを生かす。そして、深い地の淵からあなたが帰る。わたしを上げてください」

 

 

 

詩人は、自分が老いて、死に、深い地の淵から、主なる神が彼を引き上げてくださると信じています。

 

 

 

わたしは、この御言葉から、キリストの復活を想像しました。キリストが、十字架で死なれて、死の底から復活し、わたしたちのところに帰られました。それによってわたしたちは罪を神に赦されただけでなく、神の子とされ永遠の命を得る者とされ、永遠の死から永遠の命へと生かされました。また、キリストの再臨を想像しました。天に昇られたキリストは、再びこの地上に帰られます。その時にわたしたちは死んだ者は甦らされ、生きている者は新しい体を与えられ、神の御国へと引き上げられます。

 

 

 

2124節で、詩人はバビロン捕囚の地にありながら、すでにそこから解放され、約束の地エルサレムで、そこの神殿で主なる神に感謝し、礼拝し、賛美しています。恵みの契約の神を、わたしの神よと呼んで、竪琴に合わせて神を賛美しています。

 

 

 

神礼拝は、詩人にとって、神が贖われた詩人の魂の神賛美でした。聖霊のお働きにより、神の民イスラエルは、恵みの契約の神を、「わたしの神、わたしの主」として感謝し、賛美します。

 

 

 

この詩人から、今のわたしたちは、信仰者として老後をいかに生きるかを学ぶことができます。

 

 

 

1にダビデを信仰の模範とすることです。老いることは、誰もが避けられません。詩人やダビデのように、老いて体力も気力も衰えることは避けられません。

 

 

 

2にダビデと詩人のように、希望無き人ではなく、常に主なる神に望みを持つ老後を生きましょう。人にではなく、常に主に信頼を置き、礼拝共同体、すなわち、この教会から離れないことです。

 

 

 

3に老いたる神の民の眼は、昔を回顧するだけではありません。来るべき世代に眼を向けます。彼は若い時から神との深い交わりで主の祝福を確信していました。だから、次の若い世代に目を向けて、彼らに神の救いの素晴らしい祝福を伝えようとしました。

 

 

 

今朝の御言葉から、もしわたしたちが反省することがあるとすれば、次のことです。今老齢を迎えた教会員がダビデやこの詩人のように、常に主なる神に望みを持っておられるかどうかです。主の日の礼拝ごとに主なる神をほめたたえ、次の若い世代に目を向けておられるかどうかです。もしこの詩人のように老いたる者が、勇気を持って自分の孫に、孫と同じ世代の子供たちに話しかけて、キリストを語り伝えることができれば、わたしたちの教会の未来に一つの希望が与えられるでしょう。

 

 

 

次に老いたる信者が、この詩人から学ぶべきは、この世のものから神の恵みに目を向けることです。老いたる者は、長い人生を生き、それだけ苦しみと災いを経験しています。死を身近に感じているでしょう。

 

 

 

だからこそ、復活の命に、死後の命の希望に心を向けてほしいと、今朝の御言葉を通して、主はわたしたちに勧めてくださっています。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、詩篇71編の御言葉を学ぶ機会を得、感謝します。

 

 

 

 ダビデとこの詩人を通して、わたしたちは、高齢を迎え、老いを迎えたキリスト者がいかに苦難と悩み多いこの世で、主を信頼し、安けく行かしめられるかを、学ぶことが許され感謝します。

 

 

 

今、わたしたちの教会も高齢者が多くなり、主の日の礼拝に出ることも困難な状況です。肉体的な問題もありますが、信仰の問題の方が大きいと思います。

 

 

 

日々困難な中にある老いたる兄弟姉妹たちが、主なる神に助けを求める祈りを、恵みの契約の神が、「わたしの神、わたしの主」として聞き届けて下さり、今の礼拝ができないという困難からお救いください。

 

 

 

どうか、老いたる者たちに、若い頃の主の御救いと恵みを思い起こさせて、孫や孫の世代の子供たちに神の恵みを語る機会をお与えください。

 

 

 

わたしたちはいつまでもこの世に生き続けることはできません。そのことを老いたる兄弟姉妹が一番よく知っておられます。だから、主よ、老いたる兄弟姉妹たちが復活の主イエス・キリストに目を向け、死後の復活と永遠の命の喜びに心向けるようにしてください。

 

 

 

どうか今朝のこの詩編を、一週間の生活の中で繰り返し読み、親しみ、老いを迎えている者は、今の生活を反省し、これから老いを迎える者はその準備をなすことができるようにしてください。

 

 

 

どうか、この詩人のように、わたしたちも老いても、神を喜び、感謝し、日曜日の礼拝ごとに、神を崇め、賛美することができるようにしてください。

 

 

 

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 詩篇説教72                主の2016821

 

         ソロモンの詩

 

神よ、あなたによる裁きを、王に    あなたの裁きを、王に与えたまえ。

 

あなたによる恵みの御業を、王の子に  あなたの義を、王の息子に

 

  お授けください。

 

王が正しくあなたの民の訴えを取り上げ 義をもってあなたの民を裁き

 

あなたの貧しい人々を裁きますように。 また裁きであなたの貧しい人たちを

 

山々が民に平和をもたらし

 

丘が恵みをもたらしますように。    また丘々は義をもって

 

王が民を、この貧しい人々を治め    民の貧しい人々を裁くように

 

乏しい人の子らを救い         極貧の者の息子たちを救うように

 

虐げる者を砕きますように。      

 

 

 

王が太陽と共に永らえ         彼らが太陽と共にあなたを畏れるように

 

月のある限り、代々に永らえますように。そして、月の前で代々に

 

王が牧場に降る雨となり        苅場の上で雨のように降るように

 

地を潤す豊かな雨となりますように。  地のしたたり にわか雨のように

 

生涯、神に従う者として栄え      義人は彼の日々に花咲くように

 

月の失われるときまで         月のないまで、平安の豊かさ

 

  豊かな平和に恵まれますように。

 

 

 

王が海から海まで           海から海まで支配するように

 

大河から地の果てまで、支配しますように。 大河から地の果て

 

砂漠に住む者が彼の前に身を屈め    荒野の住民たちは彼の面前で跪くように

 

敵が塵をなめますように。       彼()の敵は塵をなめるように

 

タルシシュや島々の王が献げ物を タルシシュと島々の王たちが贈物を持って来るように

 

シェバやセバの王が貢ぎ物を納めますように。

 

すべての王が彼の前にひれ伏し

 

すべての国が彼に仕えますように。

 

王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を  なぜなら、彼は極貧の助けを求める者たちを救い出す

 

助けるものもない貧しい人を救いますように。 そして貧しい者、彼を助ける者がいない

 

弱い人、乏しい人を憐れみ          極貧の者と弱った者を、彼が憐れむように

 

乏しい人の命を救い             極貧の者たちの魂を、彼は救うように

 

不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。虐げと暴虐から彼が彼らの魂を贖うように

 

王の目に彼らの血が貴いものとされますように。

 

 

 

王が命を得ますように。           王が生きるように

 

彼にシェバの黄金がささげられますように。

 

彼のために人々が常に祈り     彼のために常に祈るように

 

絶え間なく彼を祝福しますように。 一日中彼を祝福するように

 

 

 

この地には、一面に麦が育ち    その地の穀物の豊かさがあるように

 

山々の頂にまで波打ち       山々の頂きに

 

その実りはレバノンのように豊かで その実がレバノンのように揺れるように

 

町には人が地の青草ほどにも茂りますように。地の青草のように町から人々が栄えるように

 

王の名がとこしえに続き     彼の名が永遠にあるように

 

太陽のある限り、その名が栄えますように。   太陽の前に彼の名が増えるように

 

国々の民は皆、彼によって祝福を受け   そして、彼によって祝福し合うように

 

彼を幸いな人と呼びますように。 すべての国々は彼を幸福な者と呼びますように

 

 

 

主なる神をたたえよ     ほうむべきかな 主は神

 

イスラエルの神

 

  ただひとり驚くべき御業を行う方を。    彼だけで不思議な業を行う方

 

  栄光に輝く御名をとこしえにたたえよ  ほうむべきかな、彼の栄光の名は永遠に

 

  栄光は全地を満たす。   彼の栄光が全地を満たしますように

 

  アーメン。アーメン。

 

 

 

  エッサイの子ダビデの祈りの終わり。 エッサイの息子ダビデの祈りが終わる

 

  

 

             詩篇第72120

 

 

 

 説教題:「王の祈り」

 

 今朝は、詩編第72120節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

 この詩編の20節の御言葉は、ダビデの詩歌集(詩編272)の全体の結びの言葉です。

 

 

 

「ダビデの祈り」とは、「ダビデの讃歌」という意味です。ダビデの詩歌集は、詩編第2編のダビデが王に即位する讃歌で始まり、第72編の王の祝福を祈る讃歌で終わると、詩編の編集者が記しているのです。

 

 

 

詩編72編は、「王の祈り」、すなわち、王の歌であります。1節に「ソロモンの詩」という表題があります。

 

 

 

1節の「王」がダビデ、「王の子」が彼の後継者ソロモンと考えられています。ですから、この詩編は、「王の子」すなわち、ダビデの息子であるソロモンが作りました。

 

 

 

詩編150編の中で表題に「ソロモン」の名があるのは、この詩編と有名な127編です。

 

 

 

ソロモンは王に即位しました時に、主なる神が彼に何でも願うがよいと言われたので、次のように願いました。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」(列王記上3:9)

 

 

 

彼は、この詩編で貧しい民に対する王の正しい裁きと王への祝福、そして来るべきメシアによる世界の統治を祈り、賛美しています。

 

 

 

この詩編で祈り、賛美される王は、国と民に大いなる平和と秩序と繁栄をもたらす者であります。

 

 

 

たとえば、3節でソロモンは王の義の統治により「山々が平和をもたらし、丘々が恵みをもたらしますように」と祈ります。王が義を持って貧しい者を助け、虐げる者を砕くことで、国に神との平和、正しい秩序が生まれ、国土が豊かになります。

 

 

 

また、ソロモンが一つの理想とする王は、一人の救済者であります。1214節でソロモンは、次のように祈っていますね。「王が助けを求めて叫ぶ乏しいも人を 助けるものもない者を救いますように。弱い人、乏しい人を憐れみ 乏しい人の命を救い 不法に虐げる者から彼らの命を贖いますように。王の目に彼らの血が貴いものとされますように。」

 

 

 

これは、王が主なる神の代理者であるからです。主なる神が御自身の義によって、すなわち、公正な裁きで、この地上に平和と命をもたらされるように、王は神の義を、神に代わってこの地上に実現し、この地上で虐げられた貧しい者を救い、神の民に平和と命をもたらすのです。

 

 

 

だから、ソロモンは24節で直接主なる神に王に神の義を与え、神の民を正しく裁かせてくださいと祈ります。王の子である自分にも、神の義をお与えくださいと願うのです。

 

 

 

世界の平和と豊かさは、人間の能力によるのではありません。神が王に立てられた者が神から与えられた神の義を行使し、神の民を正しく裁くことで、神が実現してくださるのです。

 

 

 

1節の「あなたによる裁き」とは、神の裁きです。この裁きという言葉は、「正しさ」と同じで、12節以下に見られる王が貧しい人、虐げられた貧しい人を救うことです。

 

 

 

王が主なる神に代わってこの地上の貧しい人、虐げられた人を救うことで、国に神の平和がもたらされ、神の豊かな恵みがもたらされます。

 

 

 

ソロモンは、この詩編で神の平和を、この地上に戦争がないこと、人間関係において争いがない状態とは言ってはいません。王の義の支配で国中が命に満ちあふれている状態を指しています。

 

 

 

王が神の民を神に代わって公正に裁き、神に代わって王が貧しい人と虐げられた乏しい人を救うことで、王が統治する国は神と人との間に真の平和が生まれ、それによって国は神に祝福されて豊かになり、人々は繁栄し、命が国中に満ちあふれるのです。

 

 

 

だから、ソロモンは、預言者ナタンを通して主なる神が父ダビデに約束されたことの実現を、811節で願っています。パレスチナ、大河ユーフラテス川、アラビアの砂漠、地中海の島々までダビデ王国が支配できるようにと。

 

 

 

そして、15節でソロモンは、王が主なる神に祝福され、主の御前に生き、イスラエルの国の内外の人々が王の祝福を常に祈るように願っています。

 

 

 

国の為政者が神の祝福の中を生き、国民も外国の者も、国の為政者のために常に神の祝福を祈ることが、国の平和と繁栄と豊かな命に深く結び付いているのです。

 

 

 

王が主なる神に代わり神の義をもって彼の民を裁き、貧しい者を救い、虐げる者から乏しい者を救い出すことで、主なる神の平和と秩序が王国に実現します。すなわち王と彼の民は、主なる神との間に平和を得ます。その結果、神の祝福によって国土は豊かになり、民たちは神の豊かな恵みを得て、命に満ちあふれるのです。

 

 

 

だが、ソロモンは、この地上だけに目を向けてはいません。永遠に王が主なる神との交わりに生きることを願っていますし、神の義の支配が永遠に続き、神の民が永遠に神の豊かな恵みに生きて、命にあふれることを願っています。

 

 

 

彼は、主なる神の代理者でありますが、メシアではありません。むしろ、彼は、この詩編で王の祈りを通して、真のメシアを預言する者です。

 

 

 

真のメシアは、民の貧しき者を裁き、そして、救われます。13節と14節で貧しい者と乏しい者の命を救われ、不法に虐げる者から彼らの命を贖われます。そして、17節でソロモンが祈りますように、メシアの名は永遠に続きます。

 

 

 

そのメシアは、ソロモンが18節で「主なる神をたたえよ イスラエルの神 ただひとり驚くべき御業を行う方」と賛美しています。

 

 

 

今、わたしたちは、ヨハネによる福音書を学んでいます。そこに紹介されています主イエス・キリストは、永遠の神のひとり子であり、この世に受肉し、ナザレの主イエスとして生き、罪の暗闇に沈むわたしたち罪人を救うために、わたしたちに代わって十字架に死に、わたしたちの命を贖い、永遠に父なる神の御前に生かすために、死人の中から復活されました。

 

 

 

ソロモンは、十字架のキリストを、死人の中から甦られたキリストを、主なる神、イスラエルの神、ただひとり驚くべき御業を行う方として、待ち望んでいたのではないでしょうか。

 

 

 

今や世界中に、十字架のキリストの栄光は満ちあふれています。そして、今わたしたちも今朝の礼拝を通して栄光に輝くキリストを、わたしたちの神、わたしたちの主と、ほめたたえるのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、詩篇72編の御言葉を学ぶ機会を得、感謝します。

 

 

 

 ソロモンの「王の祈り」を通して、世の為政者が主なる神の義をもってこの世界を治めることが、わたしたちがこの世において平和に生き、豊かな命に生きる道であると学ぶことができて感謝します。

 

 

 

しかし、現実の世界は神なしの世界です。神を排除し、人間の知恵で、力で、この世を治め、人々は平和と豊かさを求めようとしています。

 

 

 

神が為政者を立て、彼が神の義と憐みで国を統治しない限り、神と国、神と国民の間に真の平和は成り立たず、国と国民に本当の平和と豊かさはきません。

 

 

 

だからこそ、神のひとり子キリストが、受肉し、この世の来てくださり、十字架によって、神とわたしたちの間に真の和解を与えてくださったことを感謝します。

 

 

 

どうか、今朝のこの詩編を、一週間の生活の中で繰り返し読み、世界の為政者が神の義によって貧しい者を救い、国と国に神の平和をもたらし、すべての民が豊かな恵みを得て、命にあふれるように祈らせてください。

 

 

 

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。