詩編説教136              主の20231217

恵み深い主に感謝せよ。  慈しみはとこしえに。 感謝せよ→讃えよ

神の中の神に感謝せよ。  慈しみはとこしえに。 神の神

主の中の主に感謝せよ。  慈しみはとこしえに。 主の主

                      実に彼の慈しみは永遠に

ただひとり

驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ。一人で偉大な不思議な業を行っ

慈しみはとこしえに。 た方を

英知をもって天を造った方に感謝せよ。 425節まで「感謝せよ」はない。

慈しみはとこしえに。 

大地を水の上に広げた方に感謝せよ。 

慈しみはとこしえに。

大きな光を造った方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

昼をつかさどる太陽を造った方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

夜をつかさどる月と星を造った方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

 

エジプトの初子を討った方に感謝せよ。 

慈しみはとこしえに。

イスラエルをそこから導き出した方に感謝せよ。 

慈しみはとこしえに。

力強い手と腕を伸ばして導き出した方に感謝せよ。

             慈しみはとこしえに。

葦の海を二つに分けた方に感謝せよ。 

慈しみはとこしえに。

イスラエルにその中を通らせた方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

ファラオとその軍勢を

葦の海に投げ込んだ方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。

イスラエルの民に荒れ野を行かせた方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

強大な王たちを討った方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

力ある王たちを滅ぼした方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

 

アモリ人の王シホンを滅ぼした方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

バシャンの王オグを滅ぼした方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

彼らの土地を嗣業として与えた方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

僕イスラエルの嗣業とした方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

低くされたわたしたちを

御心に留めた方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

敵からわたしたちを奪い返した方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

 

すべての肉なるものに糧を与える方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

天にいます神に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。 

                   詩編第136126

 

説教題:「慈しみはとこしえに」

今朝は、詩篇第136126節の御言葉を学びましょう。

 

詩篇136編は、「慈しみはとこしえに」というフレーズを各節に繰り返しています。エルサレム神殿の礼拝で賛美されたのでしょう。

 

詩編の類型としては感謝の歌です。

 

13節がこの詩編の導入部です。425節がこの詩編の中心部です。そして、26節がこの詩編の結びです。

 

この詩編には、すべての節に「感謝せよ」という言葉があります。実際には、「感謝せよ」という言葉があるのは、13節と26節です。425節には「感謝せよ」という言葉はありません。

 

神殿の祭司たちが13節で会衆に讃美を促しました。「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。神の中の神に感謝せよ。慈しみはとこしえに。主の中の主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」

 

13節は、「感謝せよ」が文章の冒頭にあります。1節を文字通り直訳すると、「感謝せよ、主に。実に良い」です。わたしたちの聖書は、この「良い」を「恵み深い」と意訳しています。詩人にとっても神の民イスラエルにとっても、主なる神は良きお方、恵み深いお方です。

 

2節の「神の中の神」、3節の「主の中の主」は、「神々の神」「主の主」です。これは、主なる神の最上級の呼び名です。真の神、真の主と同じ意味です。26節の天の神も同じです。

 

13節は、他のものと比較できない至高の神、主への賛美を、感謝を、祭司が会衆に促しているのです。

 

そして、祭司に促された会衆が425節で主の創造の御業を、歴史におけるイスラエルの救済の御業を賛美し、感謝するのです。そのたびごとに祭司たちは、「慈しみはとこしえに。」と賛美しました。

 

49節が神、主による創造の御業を賛美し、感謝しています。4節の「ただひとり」は、他の者の助けを借りないでという意味です。「驚くべき大きな御業」とは、59節の主なる神の創造の御業の数々です。

 

「英知をもって」とは、知恵と分別によってという意味です。神、主は5節で天を、6節で地を創造されました。79節は、神、主が天体を創造されたことを賛美し、感謝しています。主なる神は8節で太陽を創造し、9節で月、星を創造し、太陽に昼を司らせ、月と星に夜を司らせられました。

 

詩人は、植物、動物、人間の創造には触れていません。しかし、詩人は、25節で「すべての肉なるもの」、すなわち、被造物としての生き物を養ってくださる主なる神を賛美し、感謝しています。

 

1015節は、出エジプトの出来事を賛美し、感謝しています。歴史における主なる神の救済の御業を、詩人は賛美し、感謝しています。主なる神は、10節で「エジプトの初子」を打たれました。エジプト人の長子と彼らが所有する家畜の初子を打たれました。エジプトの王は、主なる神が自分の長子やエジプト人たちの長子、家畜の初子を打たれたので、国内にいる神の民イスラエルを、国外に出すことにしたのです。

 

11節で奴隷の地エジプトから神の民イスラエルを解放して下さった主なる神を賛美し、感謝しています。12節で「力強い手と腕を伸ばして」と述べて、主なる神の力強い導きを賛美し、感謝しています。そして、13節で主なる神が紅海を二つに分けられ、14節で神の民イスラエルをその中を通らせ、15節でファラオとエジプト軍を葦の海に投げ込まれたことを賛美し、感謝しています。

 

1622節は、荒れ野の旅と約束の地カナンへの定住が神、主の御業であったと、賛美し、感謝しています。16節でシナイ山での主なる神との会見を記していません。また、荒野における神の民イスラエルのかたくな罪にも触れていません。主がアモリ人の王シホンとバシャンの王オグを滅ぼされたことを賛美し、感謝しています。そして、主がカナンの地を、彼らの嗣業の地としてお与えくださったことを賛美し、感謝しています。

 

2325節は、士師記の時代です。神の民イスラエルはカナンの地に住み、彼らの罪ゆえにしばしば周辺の諸国に支配されました。その度に主は、神の民に士師を送られ、彼らを周辺の諸国から救われました。

 

23節の「低くされたわたしたち」とは、モアブ、カナン等の周辺諸国にイスラエルが支配され、主なる神がイスラエルとの恵みの契約を思い起こされ、士師を遣わされ、彼らを救われました。主なる神が遣わされた士師たちによって敵の手から救い出されたことを感謝しているのです。

 

25節で詩人は、主なる神が御自身が創造された被造物のすべての生き物ためにパンを与えて養ってくださることを賛美し、感謝しています。

 

最後の26節は、この詩編の結びです。「天にいます神に感謝せよ」と賛美しています。これは、最高神を表わす表現です。

 

詩篇136編の詩人は、主なる神の創造と歴史における救済の二つの御業を通して、主なる神を賛美し、感謝しています。

 

135編の詩人は、出エジプトの出来事を、主なる神の選びと記しました。136編の詩人は、出エジプトの出来事を主なる神の苦難からの解放ととらえています。135編は、イスラエルは小さな民であったので、主なる神に宝の民として選ばれたと述べています。しかし、136編は、23節で「低くされたわたしたち」と述べて、至高の神、主が、天にいます神主が神の民イスラエルの低くされたことに目を向けられ、救われることを感謝しています。

 

慈しみは、神の愛です。神の愛がとこしえにという賛美の繰り返しは、神の民イスラエルの主なる神に対する創造と歴史における救済の御業からの信仰の確信ではないだろうか。

 

神の民イスラエルは、主なる神の創造と歴史における救済の御業が継続されることを通して、神の愛が永遠に続くものであることを確信したのです。

 

詩篇136編を通して、今のわたしたちも主なる神の創造と救済の御業を同時に見ることで、神の愛が永遠に続くものであることを確信しよう。

 

わたしたちは、今の暗き世界から創造主であり、救済者であるキリストを通して、御国へと解放されるのです。主日礼拝ごとに、わたしたちは、キリストの御業を賛美し、感謝し、神の愛は永遠に続くと、賛美するのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編136編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

神の民イスラエルが主なる神の創造と救済の御業を賛美し、感謝したように、わたしたちもキリストの御業を賛美し、感謝させてください。

 

創造者であり、救済者であるキリストが、いつもわたしたちの低さに目を留めてくださり、この世から御国へとわたしたちを導きてくださることを賛美し、感謝します。

 

どうか、キリストの御業を見つめつつ、神の愛が永遠に続くものであることを確信させてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 詩編説教137              主の20231217

バビロンの流れのほとりに座り ほとりで バビロン川の

シオンを思って、わたしたちは泣いた。 そこでわたしたちは座した。そして泣

竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。 いた。わたしたちが思い出す時、シオン

わたしたちを捕囚にした民が を。そこにある柳の木々にわたしたちはわたし

歌をうたえと言うから たちの竪琴を掛けた。まことにわたしたちを捕虜

わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして にした者たちが、そこでわたしたち

「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。に歌詞を求めたからだ。わたし

たちを嘲る者たちが慰めにシオンの歌から歌って見せよと。

どうして歌うことができようか。どうしてわたしたちは、主の歌を歌えよう。 

主のための歌を、異教の地で。異国の地で。

 

エルサレムよ もしも、エルサレムよ、

もしも、わたしがあなたを忘れるなら わたしがあなたを忘れるなら

わたしの右の手はなえるがよい。わたしの右手は萎えてしまえ

わたしの舌は上顎にはり付くがよい。わたしの舌はわたしの上顎にくっついて

もしも、あなたを思わぬときがあるなら しまえ。もしもわたしがあなたを思

もしも、エルサレムを い出さないなら もしもわたしがエルサレムを最上の

わたしの最大の喜びとしないなら。 喜びとしないなら。

 

主よ、覚えていてください 思い起こしたまえ、主よ。

エドムの子らを エドムの息子たちを

エルサレムのあの日を エルサレムの日を

彼らがこう言ったのを 彼らはこう言ったのだ。

「裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで。」「裸にせよ、裸にせよ、その基

娘バビロンよ、破壊者よ  まで」 娘バビロンよ、略奪された者たちよ、

いかに幸いなことか 幸いだ、お前に仕返しをする者たちは。

お前たちがわたしにした仕打ちを お前がわたしたちに下した仕打ちを

  お前に仕返す者 幸いだ

お前の幼子を捕らえて岩にたたきつける者は。お前の幼児たちを、掴み取って

                     岩に向かって打ち砕く者は。

                   詩編第13719

 

説教題:「シオンを思ってわたしたちは泣いた。」

今朝は、詩篇第13719節の御言葉を学びましょう。

 

詩篇137編は、歴史的背景がはっきりしています。神の民イスラエルがバビロニア帝国に捕囚された時期であります。そこで神の民イスラエルが受けた苦しみ、恥辱を思い出しながら、嘆きと呪いを、詩人は歌っているのです。

 

1節と3節に「そこで」という言葉があります。新共同訳聖書は省略しています。1節は「バビロン川のほとりで、そこでわたしたちは座した。そして私たちは泣いた。シオンを思い出しながら」です。

 

これは、詩人の過去の出来事を思い起こして、歌っているのです。バビロン川は、運河のことです。場所は分かりませんが、捕囚されたイスラエルの民が居住していた所でしょう。そこでエルサレム神殿で聖歌隊の一員であった詩人が、バビロニア帝国の者たちに辱められたのです。

 

バビロニア帝国の捕囚の民イスラエルを監視していた者たちが、彼らの楽しみのために、あるいは慰めのためにエルサレム神殿で歌われたシオンの歌を歌えと、詩人に強要したのです。

 

詩人は、2節で竪琴を柳の木々に掛けました。これは、詩人が神の民を嘲る者たちの要求を拒んだということだろう。しかし、それは事実ではないだろう。詩人は、バビロニア帝国の者たちの要求を受け入れ、屈辱を味わったことだろう。

 

だから、詩人は3節でこのように歌っているのではないだろうか。「まことにわたしたちを捕虜にした者たちが、そこでわたしたちに歌の言葉を求めたからだ。わたしたちを嘲る者たちが自分たちの楽しみにシオンの歌を歌って見せよ」。

 

この屈辱に、詩人は4節で「どうしてわたしたちは、主の歌を歌えよう。異国の地で。」と述べています。これは、詩人がシオンの歌を歌わされてしまったことに対する後悔の言葉、彼の魂の苦しみの言葉でないでしょうか。

 

だから、詩人は、バビロン川のほとり、運河のほとりに座って、一人泣いていたのでしょう。

 

バビロニアの人々は、詩人にシオンの歌を歌わせて、笑い物にしているのです。おそらく詩人が信じる主なる神を、彼らは無能の神として嘲ったでしょう。そのことを詩人は思い出すと、涙が止まりません。自分がこの異国にいることが悲しくて仕方がありません。

 

だから、エルサレムへの思いが一層に募って来るのです。56節で詩人は、エルサレムを決して忘れないと誓います。もし彼がエルサレムを忘れることがあるなら、彼の右手が切られて、竪琴を奏でられなくなっても良いし、彼の舌が上顎に引っ付いてシオンの歌を歌えなくなっても良いと言っています。

 

詩人は、バビロン捕囚の間、エルサレムを忘れることはありませんでした。エルサレムを最大の喜びとして生きたのです。紀元前586年、第二回目のバビロン捕囚より50年後に、ペルシア帝国のクロス王の解放によって、神の民イスラエルはエルサレへの帰還を許されました。

 

実は、バビロニア帝国に捕囚された民は、ユダヤ人たちだけではありませんでした。他の民もいたのです。しかし、ユダヤ人たちだけがエルサレムに帰還し、エルサレム神殿を再建し、エルサレムの都を修復し、彼らの共同体を再建しました。彼らは、この詩人のようにエルサレムへの思いを決して忘れることなく、次の世代に伝えていたのです。詩編137編は、後の世代にエルサレムへの思いを伝える良き教材となったでしょう。

 

さらに詩人は、79節でバビロニア帝国とその侵略を手伝ったエドム人への恨みと復讐を歌っています。

 

詩人は、主にエドム人のことを覚えていてくださいと祈ります。彼らに主が復讐されるためです。バビロニア帝国が南ユダ王国を侵略し、エルサレムの都を攻撃したとき、エドムの人々もその攻撃に加わっていました。エドム人は、イスラエル、すなわち、ヤコブの兄エソウの子孫です。イスラエルと兄弟です。エドム人は兄弟を裏切り、エルサレムの都が破壊尽くされるように呪いました。主がそのことを忘れないで、いつの日かエドムを裁かれるように、詩人は祈っています。

 

また、詩人はバビロニア帝国を呪っています。エルサレムの都を破壊し、神の民を虐殺し、彼らの財産を奪い、捕囚したバビロニア帝国を滅ぼす者が幸いな者となるようにと祈っています。バビロニア帝国が犯した悪事を仕返しする者が幸いとなり、バビロニア帝国の子供たちが殺され、帝国が滅びるように祈っています。

 

この復讐の祈り、賛美は、わたしたちに人気がありません。詩編歌を歌うことにつまずきとなっています。

 

主イエスは、敵をも愛せよと言われました。暴力には暴力によって仕返しするなと命じられました。しかし、詩篇の中には、この詩編のように嘆き訴える詩人が復讐を祈るものが多くあります。

 

報復を願うのが人の本能です。やられたら、やり返すのです。数年前に「半沢直樹」というテレビドラマで、倍返しが流行になりました。主人公の半沢直樹が銀行で不正な取引で窮地に立たされ、倍返しで不正な者たちを退治する痛快劇でした。

 

旧約聖書はそうした人間の本能を肯定しているのです。今イスラエルとハマスの戦争が問題になっていますが、不当に攻撃されれば、報復を願うのが人の常です。仕返しは、人の持つ本能です。

 

今のイスラエルの国には、大国アメリカに支援によってハマスに報復する十分な武器があります。しかし、詩篇137編の詩人や神の民イスラエルは、バビロニア帝国に、エドム人に報復する力はありませんでした。むしろ、エルサレムに帰還した後も、神の民たちは屈辱を受け続けなければなりませんでした。

 

だから、この詩人のように神に報復を祈る以外になかったのです。旧約聖書は、人の本能だからと言って、神の民が自ら報復することはありません。エジプトに奴隷として300年間苦しめられました。彼らはエジプト人に報復して、奴隷から解放されたのではありません。主なる神がエジプト人たちに報復して下さったのです。

 

だから、旧約聖書の申命記に主なる神が「わたしが報復し、報いをする」(32:35)と言われています。使徒パウロもこの御言葉を引用して、「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(ローマ12:19)と述べています。使徒パウロは、わたしたちに復讐は主に委ね、善をもって悪に勝つように勧めています。

 

わたしたちキリスト者は、聖霊をいただいています。これは、聖霊の御力でわたしたちが善き業をなせるということです。だから、使徒パウロが勧めるように、悪に対して善によって仕返しをするのです。

 

残念なことは、イスラエルの国が神の民の国ではないことです。もしイスラエルの国が主イエスを信じて、主エスのように貧しいパレスチナの人々を慈しみ憐れむことができたら、平和が実現したのではないでしょうか。復讐し、パレスチナの子供たちを虐殺し、パレスチナの人々を滅ぼすよりも、貧しい子供たちを助け、援助することで将来に平和を得る方がよいと思うのです。

 

それと聖書を正しく理解すべきです。詩編137編の詩人が主なる神に復讐を祈るのは、彼に復讐の力も手段もなかったからです。彼や神の民イスラエルが無力であるから、彼らは主なる神に復讐を祈ったのです。

 

それを克服する道は、わたしたちにとっては聖霊に寄り頼む以外にないと思うのです。憎しみを愛に変えてくださいという祈り以外にありません。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今年最後の礼拝で詩編137編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

詩人や神の民イスラエルがこの世で味わう苦しみは、わたしたちの苦しみと同じです。わたしたちも涙し、御国を思うことがあります。どうか、この詩人や神の民イスラエルが、エルサレムを忘れなかったように、わたしたちも御国とそこから来られる再臨のキリストを忘れることがないようにしてください。

 

今年最後の日が主の日であったことを感謝します。どうか、新しき年、キリストの再臨と御国の完成を希望を持ち、待ち望ませてください。

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教138              主の2024128

        ダビデの詩。               ダビデの

わたしは心を尽くして感謝し わたしはあなたに感謝する。わたしの心のすべ

神の御前でほめ歌をうたいます。 てで。神々の御前で、わたしはあなたをほ

聖なる神殿に向かってひれ伏し め歌います。わたしはひれ伏します。あなた

あなたの慈しみとまことのゆえに の聖なる神殿に向かって。わたしは感謝

御名に感謝をささげます。 する。あなたの御名のゆえに。あなたの慈しみ

その御名のすべてにまさって とあなたの真実のゆえに。まことにあなたは

あなたは仰せを大いなるものとされました。あなたは大きくされた。す

呼び求めるわたしに答え べての御名にまさってあなたの御言葉を。わたし 

あなたは魂に力を与え  が呼ばわる日に、あなたはわたしに答え、わたしの

解き放ってくださいました。 魂に力を与えてくださった。

 

地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。 あなたに感謝する。主よ、地上の

あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました。王たちはすべて。まことに彼ら

主の道について彼らは歌うでしょう。は聞きました。あなたの口の御言葉を。

主の大いなる栄光を。 彼らは歌う。主の道について。まことに主の栄光は大き

主は高くいまして い。まことに主は高くにいて、

低くされている者を見ておられます。 低き者を顧みられている。

遠くにいましても 高き者を遠くから

傲慢な者を知っておられます。 知っておられます。

 

わたしが苦難の中を歩いているときにも たといわたしが苦難の中を歩むとも、

敵の怒りに遭っているときにも あなたはわたしを生かし、わたしたちの敵た

わたしに命を得させてください。 ちの怒りに、あなたはあなたの手を伸ばさ

御手を遣わし、右の御手でお救いください。 れる。あなたの右手でわたしを

                    救われます。

主はわたしのために 主は成し遂げられる。わたしのために。

すべてを成し遂げてくださいます。 

主よ、あなたの慈しみが 主よ、あなたの慈しみは永遠に。

とこしえにありますように。あなたの御手の業を、放さないでください。

御手の業をどうか放さないでください。 

                   詩編第13818

 

説教題:「低くされた者を顧みる」

今朝は、詩篇第13818節の御言葉を学びましょう。

 

この詩篇は、個人の賛美の歌です。詩人であるわたしが心を尽くして、主に感謝し、主をたたえているのです。

 

この詩編は、三つに区分できます。13節、46節、そして78節です。詩人は、1節で「わたしは心を尽くして感謝し 神の御前でほめ歌をうたいます。」と、神を賛美しています。「心を尽くして」は、「わたしの心のすべてで」という言葉です。旧約聖書の申命記65節で主なる神がモーセを通してイスラエルの民に「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と命じられました。この「心を尽くして」と同じ言葉です。

 

詩人は、申命記に従って心を尽くして主なる神を礼拝し、主なる神を賛美しょうとしているのです。

 

1節の「神の御前で」は、「神々の御前で」です。70人訳旧約聖書は、「御使いたちの前で」と訳しています。詩編821節で「神は神聖な会議の中に立ち 神々の間で裁きを行われる」とあります。この神々は天使的存在です。

 

しかし、詩人は4節で「地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。」と賛美しています。ある詩編注解者は、この詩編がイザヤ書の影響の下に書かれたと説明しています。イザヤ書の4466章です。そこで預言者イザヤは、主なる神を諸国民の神々の神として、イスラエルの神の民だけではなく、諸国民を支配されるお方として預言しているのです。この「神々の御前で」は、諸国民の神々の御前で、主なる神のみをほめたたえるという意味になります。

 

詩人は、異教の地にいたのかもしれません。そこからエルサレムの神殿に向かって礼拝したのでしょう。詩人は、2節で「聖なる神殿に向かってひれ伏し あなたの慈しみとまことのゆえに 御名に感謝をささげます。」と賛美しています。詩人が礼拝でささげるのは、動物犠牲ではありません。主を賛美する歌です。

 

礼拝をする根拠は、「あなたの慈しみとまことのゆえに」です。主なる神のヘセド、慈愛と慈しみとエメト、真実、まことのゆえに、詩人は神の御名を感謝する、賛美する、すなわち、礼拝すると歌っているのです。

 

詩人は、主なる神を礼拝する時、その礼拝で主なる神が「その御名のすべてにまさって あなたは仰せを大いなるものとされました。」と歌っています。70人訳旧約聖書は、「すべての名を越えてあなたの言葉を大きくされた」と訳しています。

 

主なる神は、御自身の口から御言葉をお語りになります。主なる神は、詩人に御言葉を語りかけるお方です。

 

だから詩人は、3節で「呼び求めるわたしに答え あなたは魂に力を与え 解き放ってくださいました。」と歌っているのです。これは、詩人が主なる神に救われたという詩人の簡潔な報告です。主なる神は、お言葉をお持ちですから、詩人が主なる神に求めた助けに、答えてくださり、主の御言葉によって彼の魂に力をお与えくださったのです。

 

2節の「仰せ」は、詩篇119編では神の律法の呼び名の一つです。詩編119編の神の律法は、わたしたちキリスト者にとっては、聖書です。主なる神は、わたしたちが主なる神に助けを求めて、聖書の御言葉を読みます時に、聖書の御言葉をもって答えてくださるのです。聖書の御言葉によってわたしたちの魂を元気づけてくださり、あらゆる悩みと苦しみから解き放ってくださるのです。

 

神の民イスラエルにとって魂は、意志と力の座でした。主なる神に力を与えられる時、彼らの魂が広くなりました。それが、この詩人の8節の心境なのです。彼は、使徒パウロが万事を益としてくださる神を信じたように、主が彼のためにすべてを成し遂げてくださることを信じました。主なる神に慈しみに、彼の人生が包まれていることを確信したのです。それが彼の魂が広くなったということです。

 

詩人は、主なる神の証し人として、異教の地に、異国に生きていたのでしょう。彼と同じように、異国の王たちが主なる神の御言葉を聴いてほしかったのです。だから、46節で、彼は次のように賛美しました。

 

「地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました。主の道について彼らは歌うでしょう。主の大いなる栄光を。主は高くいまして 低くされている者を見ておられます。遠くにいましても 傲慢な者を知っておられます。」

 

詩人は、低くされている者です。詩人だけではなく、神の民イスラエルは、低くされているものです。預言者イザヤは、他国の王に支配された虫にも等しい神の民イスラエルの神がこの世界の神であり、歴史を導く主であると預言しています。

 

詩人は、イザヤが預言する神を信じています。そして、詩人は、次のように願うのです。この世界の神である主なる神をこの世の王たちが礼拝し、神の律法の御言葉を聴き、主なる神に従って生きる道について賛美することを。主なる神の大いなる栄光が表わされることを。

 

このように詩人は、主なる神が彼個人を救われるだけではなく、諸国民の王を救われ、主なる神の栄光がこの世に現わされることを願っているのです。

 

しかし、詩人がわたしたちに伝えたいことは、次のことです。主なる神は高きにいますお方ですが、低くされ、虐げられた者を顧みてくださるお方であるということです。

 

傲慢な者は、詩人を虐げる者たちです。この世の権力者です。主なる神は、傲慢な者を遠くから、主なる神がいます天から知っておられるのです。それは主なる神が傲慢な者を裁くためです。詩人は、低くされた者と傲慢な者を並べることで主なる神が傲慢な者を低くくし、虐げられて低くされた者を高めるお方であることを歌っているのです。

 

サムエル記上の2章でハンナが祈った御言葉と同じです。ハンナは驕り高ぶるな、主なる神は何事でも知っておられる神、高ぶる者を低くし、弱い者、貧しい者を高くしてくださると祈りました。

 

この祈りは、主イエスの母マリアに受け継がれました。彼女は、身の低いこの主のはしためにもめを留めてくださったと祈り、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く挙げてくださったと祈りました。

 

彼女たちの祈りの間に、この詩人の祈りがあるのです。

 

詩人は、78節で再び彼の救いに目を向けているのです。詩人は、苦難の中にいます。異教の地に、異国に住み、敵の虐げに遭っています。そのような状況に置かれても、詩人は主なる神を賛美することを止めません。主なる神の救いの御手を請い続けるのです。

 

預言者ダニエルがエルサレムの方角に向かって毎日祈りをしていたように、詩人も毎日エルサレムの方角に向けて祈り、礼拝をしていたでしょう。

 

詩人は、78節で「主はわたしのために すべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの慈しみが とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。」

 

「すべてを成し遂げてくださいます。」とは、終りまで導くという意味です。主なる神は、今だけの御方ではありません。天地万物を創造され、世界の歴史を支配し、導いておられるお方です。詩人は、彼のために、主なる神が彼のこの世における終りまで導いてくださるのです。彼は、主なる神の永遠の慈しみを信じているのです。この世がどんなに試練の多い時であり、苦難の時であり、敵に迫害されても、詩人は主なる神の永遠の慈しみを信じ、主なる神が万事を益として、彼の人生を完成してくださることを信じているのです。

 

だから、詩人は、主なる神が御業を止められ、投げ出されることがないようにと祈っています。

 

本当に不思議です。主なる神がこの世で低くされたイスラエルの民に目を留められたことは。数も少なく、弱小の民であったイスラエルを、主なる神は彼らの先祖アブラハムを選び、ヤコブと12人の子たちを選び、イスラエルの民を選ばれました。彼らは、天地万物の創造者、地上の歴史を導く唯一の主を信じました。

 

詩人は、アッシリア帝国が滅び、バビロニア帝国が滅んだことを知っていたでしょう。中近東世界はペルシア帝国が支配していました。ペルシア帝国もアレキサンダー大王に滅ぼされ、今日この世で幾多の大国が興り、滅びました。詩人は、大国の興亡に、歴史を支配する主が高き者を低くし、低くされた者を高くするのを見たのです。

 

その最大の出来事が主イエス・キリストの十字架と復活です。神である御子が人の子として、この世に低くされ、十字架で死なれました。そして、三日目に復活されたのです。

 

わたしたちの教会は、その証人です。そして、わたしたちは、この詩人のように、この世では小さな教会の群れですが、主イエスの慈しみによってここで神礼拝を通してこの世に生かされているのです。御国における完成の時まで導かれていくのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編138編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

詩人の救いの経験と賛美を通して、主なる神が低くされた者を顧みてくださるお方であることを学ぶことができて感謝します。

 

わたしたちもこの世の権力者から見れば、くずのような存在です。この世において何の力もありません。

 

しかし、この教会で毎週礼拝し、主なる神を賛美できることを感謝します。主の御言葉に、わたしたちの魂がいつも元気づけられていることを感謝します。

 

この詩人が賛美しましたように、わたしたちも主イエスに救われ、導かれて、この世において万事が益となるようにしていただき、御国へと最後まで導いていただけることを感謝します。

 

どうか、主の証し人として、キリストの御救いの御業を宣べ伝えさせてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教139              主の2024218

      指揮者によって。ダビデの詩。  指揮者に。ダビデの。

賛歌。             歌。

主よ、あなたはわたしを究め 主よ、あなたはわたしを調べ

わたしを知っておられる。 わたしを知っておられる。

座るのも立つのも知り あなたは知っておられる。わたしが座るのも、立つの

遠くからわたしの計らいを悟っておられる。 も。あなたは悟られる、遠くから

歩くのも伏すのも見分け わたしの思いを。あなたはわたしが歩むのも、憩う

わたしの道にことごとく通じておられる。 のもお見通しで、わたしの歩みの

わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに すべてを知っておられる。まことに

主よ、あなたはすべてを知っておられる。わたしの舌に言葉がなくても、見よ、

前からも後ろからもわたしを囲み  主よ、あなたはすべてを知っておられる。

御手をわたしの上に置いていてくださる。後ろから前からあなたはわたしを囲

その驚くべき知識はわたしを超え み、あなたの御手をわたしの上に置いてく

あまりにも高くて到達できない ださる。その知識はわたしには不思議であり、

               高くて、わたしには達し得ない。

どこに行けば どこに行きましょう。

あなたの霊から離れることができよう。 あなたの霊から離れて。

どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。どこに逃れましょう。あなたの

天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 御顔を逃れて。わたしが天に昇って

陰府に身を横たえようとも も、あなたはそこにいます。わたしが陰府に

見よ、あなたはそこにいます。 床を設けても、見よ、あなたはそこに

曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも います。わたしが曙の翼を上げ

あなたはそこにいまし ても、海の果てに住っても。

御手をもってわたしを導き そこでもあなたの御手がわたしを導き、

右の御手をもってわたしをとらえてくださる。 あなたの右手がわたしを捕らえます。

わたしは言う。 わたしは言った。

「闇の中でも主はわたしを見ておられる。 「闇だけがわたしを覆い、 

夜も光がわたしを照らし出す。」 わたしを囲む光が夜となれば」

闇もあなたに比べれば闇とは言えない。あなたには闇さえも暗くなく

夜も昼も共に光を放ち 夜も昼のように輝き、 

闇も、光も、変わるところがない。 闇は光と同じである。

                   

あなたは、わたしの内臓を造り まことにあなたは、わたしの内臓を造り

母の胎内にわたしを組み立ててくださった。 あなたはわたしの母の胎で

わたしはあなたに感謝をささげる。わたしを編み上げられました。わたし

わたしは恐ろしい力によって はあなたを讃えましょう。わたしが不思議に

  驚くべきものに造り上げられている。 造られ、あなたの御業が不思議

御業がどんなに驚くべきものか であるゆえに。

  わたしの魂は良く知っている。 わたしの魂は良く知っている。

秘められたところでわたしは造られ わたしの骨は、あなたから隠されません

深い地の底で織りなされた でした。わたしは秘められたところで造られ、地

あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。 の底で織りなされました。

胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。胎児のわたしを、あなたの

わたしの日々はあなたの書にすべて記されている 目は御覧になり、あなたの

まだその一日も造られないうちから。書にその全てが記されました。造られた

あなたの御計らいは  日々がその一日もないうちに。神よ、わたしにとって

  わたしにとっていかに貴いことか。 あなたの思いは何と貴く、何とその

神よ、いかにそれは数多いことか。 数は大きいことでしょう。

数えようとしても、砂の粒より多く わたしがそれらを数えると、それらは砂

その果てを極めたと思っても 粒よりも多く、わたしが目覚めると、わたしは

  わたしはなお、あなたの中にいる。 なおあなたと共にいます。

どうか神よ、逆らう者を打ち滅ぼしてください。 どうか神よ、あなたが悪人

わたしを離れよ、流血を謀る者。を殺してください。血を流す者よ、わたしから

たくらみをもって御名を唱え 離れよ。彼らは企んであなたのことを語り、

あなたの町々をむなしくしてしまう者。 あなたの町々を虚しく取り上げ

主よ、あなたを憎む者をわたしも憎み ました。主よ、わたしはあなたを憎む

あなたに立ち向かう者を忌むべきものとし 者を憎み、あなたに歯向かう者を激しい憎しみをもって彼らを憎み 嫌悪しないでしょうか。憎しみの極みで

彼らをわたしの敵とします。わたしは彼らを憎みます。わたしにとって彼らは敵となったからです。

神よ、わたしを究め 神よ、わたしを調べてください。

わたしの心を知ってください。 わたしの心を知ってください。

わたしを試し、悩みを知ってください。 わたしを吟味し、わたしの不安を

御覧ください   知ってください。

  わたしの内に迷いの道があるかどうかを。 わたしの中に偶像の道がある

                     かどうかを見て

どうか、わたしを         わたしを

 とこしえの道に導いてください。 永遠の道に導いてください。

詩編第139124

 

説教題:「わたしはあなたの中にいる;」

今朝は、詩篇第139124節の御言葉を学びましょう。

 

この詩篇は、個人の賛美の歌です。詩人は、創造主なる神の全知と偏在性を賛美し、詩人自身が常に創造主と共にあることを告白しています。同時に詩人は創造主なる神に敵対する悪人を憎み、彼らの滅びを祈っています。

 

この詩編は、大きく分けると118節と1924節に分けることができます。まるで違う二つの詩編を一つに合わせたような詩編です。しかし、実際は一つの詩編です。1節の「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる」という御言葉と23節の「神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください」という御言葉が全く違う内容の詩編を一つの詩編としているのです。

 

だから、この詩編を一つの詩編と理解して見て行きますと、この詩編は四つに区分できます。16節、712節、1318節、そして1924節です。

 

16節で詩人は、要約するとこう賛美します。主なる神は、わたしのすべてを知っておられると。そして、712節で詩人は、主なる神からどこにも逃れられないと賛美します。そして、1318節で主なる神が創造主として詩人を母の胎で造られた不思議、そして創造主である主の御業の不思議さを賛美しています。そして、1924節で詩人は、主なる神が悪人を滅ぼされることを祈っています。詩人は彼らの敵となり、主なる神が彼を偶像礼拝の道ではなく、永遠の道に導いてくださいと祈っています。

 

この詩編は、詩人が主なる神を一つの理解をもって賛美し、告白しているのです。主なる神は、創造者であり、救い主であるという理解です。

 

18節後半がそのカギとなる御言葉です。「その果てを極めたと思っても わたしはなお、あなたの中にいる。」この御言葉は、別の訳があります。新改訳聖書2017は、こう訳しています。「私が目覚めるとき 私はなおも あなたとともにいます」と。この訳に従うと、詩人は主なる神の創造を、終りの時から見ているのです。主なる神は、詩人のすべての行ないを、そして彼の心をよくご存じです。詩人がいる所に共にいてくださいます。主なる神は、詩人を母の胎で造られただけではなく、彼の生涯の終りまで共にいてくださるのです。詩人が目覚めるときとは、詩人の終末の自覚であります。その時も創造主は詩人と共にいてくださるのです。これは、創造主の救済の御業を、詩人が賛美しているのです。

 

そこで詩人は、神が創造された世界の救いを考えているのです。聖書を読めば、神が創造された世界は、人間の罪によって堕落しました。創造主の敵対する悪人がこの世に蔓延りました。詩人にとっては、この世界の悪人の存在が除かれない限り、この世界の救いは実現しないのです。

 

だから、創造主の全知を、偏在性を、彼を母の胎で創造された創造主の御業をほめ讃えた詩人が、突然19節で「どうか神よ、逆らう者を(悪人を)滅ぼしてください」と祈ったのです。詩人は、この世界の終わり、完成の日には悪人は除かれ、この世界に悪がなくなるべきだと信じているのです。

 

この詩編は、知恵の詩編でもあります。わたしたちがどのように主なる神と交わるべきかを教えてくれます。神と詩人の関係は、「あなた」と「わたし」です。詩人は、創造主なる神を親しく「あなた」と呼びかけ、「あなたはわたしを知っておられる」と心からの信頼を寄せているのです。

 

人の友だち関係も同じではないでしょうか。友がわたしのことをよく知ってくれていれば、それだけ親しみが増します。まして創造主は、詩人のすべてを知り尽くしても、彼を愛されました。だから、彼がどこにいても、常に彼と共に居てくださり、彼は親しく「あなた」と呼びかけることができる主なる神の中に常にいるのです。

 

さらに詩人は、創造主なる神と共に生きることが、神の祝福の道であることを教えてくれます。5節の「御手をわたしの上に置いてくださる」、10節の「あなたはそこにいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる」と、詩人は、彼が主なる神と共に生きて、神の祝福の中にあることを歌っています。

 

この詩人は、この詩編でエルサレム神殿の礼拝についてはひと言も触れていません。彼の詩編の背景は、詩人の日々の日常生活です。彼は、日々の生活の中でどこにいても、主なる神と共に居たのです。主が共に居てくださるので、詩人には闇がありません。主なる神が光で照らし出してくださるかです。詩人は、たとえ死の陰の谷を歩んでも、主なる神が共にいてくださり、彼を災いから守ってくださると信じたでしょう。

 

詩人は、自分のことを不思議な存在であると自覚しています。創造主は彼を母の胎で造られました。主は胎児の彼をよく知っておられました。それだけではなく、彼のことを、主は命の書に記してくださっていました。彼は、創造主の御計画の中で彼の人生のすべてを定められていることを知りました。彼の人生を、主は常に心に掛けてくださっているのです。砂粒のように多くの人々の中で、主は詩人を常に心にかけ、守り、導いてくださるのです。そのように詩人は、主に貴き存在として配慮されているのです。

 

1990年代前後から日本は、デフレの時代になりました。失われた30年と呼ばれています。何が起こったか、わたしたちは、自己責任という軛をはめられ、会社をリストラされ、正社員として採用されないで、派遣社員として働き、あるいは、就職できず、パートやアルバイト生活を余儀なくされました。デフレの時代、人の命よりも金でした。人の幸せより、お金や物の豊かさが優先されました。

 

今日本はインフレに戻り、働く人々の賃金が上がり、少しは人々の生活が幸いになってほしいと、わたしは思うのです。しかし、詩人は、人が真に幸せなのは、創造主なる神と「あなた」と「わたし」の関係を築く時だけだと言っているのです。

 

わたしたちの世界は、デフレであれ、インフレであれ、悪人が存在し、悪が存在する世界です。詩人は、23節で「神よ、わたしを究め わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください」と歌っています。この世界に、創造主に敵対する悪人がおり、悪が存在する限り、神の民にとって、わたしたちキリスト者にとって平和はありません。心に不安が常にあるのです。23節の「悩み」はわたしたちのこの世における不安です。

 

今の日本の乱れた政治状況で、道徳的腐敗の中で、わたしたちはキリスト者として生きることができるだろうか。国が右傾化し、再び戦前の悪夢が繰り返されないだろうかと、わたしたちは不安になるでしょう。

 

詩人は、主なる神にわたしたちの心を知っていただき、わたしたちの心に偶像礼拝への迷いの道がないかどうかを見ていただき、永遠の命の道への導いていただきなさいと勧めているのです。

 

ラテン教父のアウグスティヌスは、『告白』と言う書物で「あなたに憩うまで安らぎを得ない」と告白しています。わたしたちの日常生活は、常に先に不安を抱える毎日です。また、キリスト者として生きようとすれば、いろいろなところで人との摩擦が生まれ、抵抗が生まれます。その時に自分は自分であると、この世の色や人々の動きに迷わされないで生活できるのは、わたしたちのことを、主イエスは知っていてくださるということです。

 

レントの季節に入りました。主イエスがわたしたちのために十字架と苦しみの道を歩まれたことを、日々瞑想し、今朝の詩編139編の御言葉を繰り返し読み、十字架のキリストに従って歩もうではありませんか。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、レントの季節を迎え、詩編139編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

どうか、主イエスの御受難と十字架の御苦しみを覚えて、139編の詩人の信仰者として生きる知恵を学ばせてください。

 

創造主は、わたしたちのことをすべてご存じです。わたしたちがどこに行こうとも常に共に居てくださいます。

 

何よりもわたしたちを母の胎にいるときから、わたしたちを造り、わたしたちを命の書に記し、わたしたちの生涯のすべてを御計画してくださいました。そして、何も主はわたしたちと共にいて、わたしたちを祝し、守ってくださいます。

 

この詩人が賛美しましたように、わたしたちも、創造主を「あなた」と呼び、親しい関係にし、この世における不安の中で、主の喜ばれる道を歩み、永遠の命に至る道を歩めるように、お導きください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 詩編説教140              主の2024225

      指揮者によって。賛歌。  指揮者に。歌。

ダビデの詩。             ダビデの。

主よ、さいなむ者からわたしを助け出し わたしを助け出してください、主よ。

不法の者から救い出してください。 悪人から。暴虐の者からわたしを守って

彼らは心に悪事を謀り ください。彼らは心の中で悪事を考え

絶え間なく戦いを挑んできます。 毎日戦いを引き起こします。

舌を蛇のように鋭くし 憩う彼らは彼らの舌を鋭くします、蛇のように。

蝮の毒を唇に含んでいます。 毒蛇の毒が彼らの唇の下に。

 

主よ、主に逆らう者の手からわたしを守り わたしを守ってください、悪人の

不法の者から救い出してください。 手から。暴虐の者からわたしを守って

わたしの歩みを突き落とそうと謀っている者から。ください。彼らは考えた。

傲慢な者がわたしに罠を仕掛け わたしの歩みを突こうと。傲慢な者がわたし

綱や網を張りめぐらし に罠を仕掛け、縄を広げ、網を通り道のそばに。

わたしの行く道に落とし穴を掘っています。罠を、彼らはわたしに置きました。

 

主にわたしは申します。 霊わたしは主に言います。

「あなたはわたしの神」と。「あなたはわたしの神」と。

主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。耳を傾けてください。主よ、

主よ、わたしの神よ、救いの力 わたしの嘆願の声に。神よ、わたしの主

わたしが武器を執る日 よ。わたしの救いの力よ。あなたはわたしの頭を覆い

先頭に立ってわたしを守ってください。 ます、武器の日に。

 

主よ 主よ、

主に逆らう者に欲望を満たすことを許さず 許さないでください、悪人の欲望

たくらみを遂げさせず を。彼のたくらみを、遂げさせないでください。

誇ることを許さないでください。 彼らは高ぶっているのです。

わたしを包囲する者は わたしを囲む者たちの頭は

自分の唇の毒を頭にかぶるがよい。 彼らの唇の毒が覆うがよい。 

火の雨がその上に降り注ぎ 降りかかるがよい、彼らの上に炭火が。

泥沼に沈められ 火の中に彼が彼らを落とし 泥沼から

再び立ち上がることのないように。 彼らは立ち上がるな。 

舌を操る者はこの地に固く立つことなく 舌の人は、この地で固く立つこと

不法の者は災いに捕らえられ はない。暴虐の悪人は、災いに捕らえられて

追い立てられるがよい。 追い立てられよ。

 

わたしは知っています わたしは知っています。まことに主は、行なわれます。

主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ 貧しい者の裁きを

乏しい人のために裁きをしてくださることを。 困窮者たちの裁きを。

主に従う人は御名に感謝をささげ 義人たちはあなたの御名に感謝し

正しい人は 正しい人たちは

御前に座ることができるでしょう。あなたの御顔と共に住むでしょう。

詩編第140114

 

説教題:「主は貧しい者の訴えを聞かれる」

今朝は、詩篇第139124節の御言葉を学びましょう。

 

詩篇第138編から145編、この八つの詩編は、表題に「ダビデの詩」とあり、「ダビデの小詩集」と呼ばれています。その中で140編から143編は、敵に窮地に陥れられた信仰者が主なる神に救いを祈り求めている詩編です。

 

イスラエルの人々にとって、ダビデは迫害された義人の原型です。彼は、何度もサウル王に命を狙われ、逃げ回りました。詩篇140編の詩人は、敵によって言葉巧みに罪に陥れられ、主なる神に救いを求めているのです。そして詩人は、主なる神に彼らの企てた悪事と災いが彼ら自身に降りかかるようにしてくださいと祈っています。

 

この詩編は、大きく分けると212節と1314節に分けることができます。212節は個人の嘆願の歌で、1314節は個人の信頼の歌です。

 

212節は、セラによって24節、56節、79節、そして1012節に分けることができます。セラは、意味がよく分かっていません。この詩編では内容の区切りになっています。

 

詩人の敵は、2節で「さいなむ者」、「不法な者」、5節で「主に逆らう者」、6節で「傲慢な者」、12節で「舌を操る者」と呼ばれています。2節の「さいなむ者」とは、悪い人間です。2節と5節と12節の「不法な者」とは、暴虐の人です。貧しい者を搾取し、抑圧する者たちです。社会的な暴力をふるう者です。5節の「主に逆らう者」は悪人です。6節の「傲慢な者」は神を恐れず、悪事を企む者です。

 

詩人の敵から分かることは、26節で詩人が実に困難な状況に置かれていることです。詩人は貧しき者の一人です。敬虔な人です。彼は、権力ある悪人に虐げられているのです。旧約聖書の北イスラエル王国のアハブ王の宮殿の隣りにぶどう畑を所有していたナボトのように、讒言され、裁判に訴えられ、敵の巧みな言葉によって罪に陥れられたのです。ナボトは、アハブ王の妃イゼベルの悪巧みによって罪を着せられ、死刑にされ、彼の所有地を奪われました。

 

詩人は、具体的にはどのような事で敵に裁判に訴えられ、窮地に陥っているのかは分かりません。しかし、詩人が主なる神に救いを求めていることは、彼の困難な状況を物語っています。敵の攻撃は絶え間なく続いています。裁判で敵は言葉による暴力を詩人に奮って、詩人の息の根を止めようとしているのです。

 

詩人は、2節と5節で繰り返し主なる神に救いを祈り求めているのです。詩人にとっては、緊急を要する事態でありました。詩人の行く手には、敵の罠が張りめぐらされていました。猟師が鳥や獣に罠を仕掛けるように、敵は詩人に何重もの罠を仕掛けて、詩人を罪に陥れようとしているのです。

 

詩人は、78節で主なる神に訴えたのです。主なる神に詩人は信頼して、敵からの救いを祈る声を聞き届けてくださいと。詩人にとっては、わたしの神である主だけが彼の救いの力でした。

 

詩人は、この世の裁判に訴えたのではありません。8節で「わたしが武器を執る日 先頭に立ってわたしを守ってください」と、詩人は述べていますね。これは、エルサレム神殿における主なる神の裁きの場です。そこで神殿の祭司が主なる神の裁定を伝えるのです。その時に主なる神が詩人をお守りくださるようにと祈っているのです。

 

詩人は、その主なる神の裁判がどうなったかを述べてはいません。しかし、詩人の祈りは聞かれたことを、912節の御言葉はわたしたちに伝えています。詩人は、主なる神に祈りました。主が言葉巧みに詩人を罪に陥れようと企んだ敵の悪事と災いが彼らの身に降り注いでくださるようにと。そして、この地に二度と彼らを立てなくしてくださいと。

 

詩人の敵への呪いの言葉が、詩人を、主なる神が敵から救われたことを、わたしたちに伝えてくれています。詩人は、言葉巧みに人を罪に陥れる者がこの世に蔓延ることがないように、彼らが自分たちが企んだ悪事や災いに捕らえられるようにと祈っているのです。

 

詩人は、1314節で主なる神を信頼して、主なる神が貧しい者の訴えを取り上げ、困難に陥っている者のために裁きをしてくださると賛美しています。13節は910節に、14節は12節に対応して、主なる神が貧しい者の訴えを聞かれ、困窮している者を裁判で公正に裁かれることを賛美しているのです。

 

エルサレム神殿で主の裁きがあるから、義人は主の御名を感謝し、正しい者は、すなわち、直き者は主の御顔の御前で座ることができるのです。心から主をたたえ礼拝できるのです。

 

中近東世界では、古く古代より法律があり、裁判制度が確立していました。十戒の第九戒に「偽証してはならない」とあります。法律と裁判制度を破壊するのは、偽りです。舌の人であるわたしたちは、詩人の敵のように言葉巧みに隣人を罪に落とし入れるのです。だから、昔の有名な法典には、偽証する者は死刑に処すると定められていたのです。

 

しかし、ナボトの範例があるように、この世は北イスラエル王国のように、主なる神の裁判の場がありません。だから、主なる神がモーセを通して十戒を与えられ、裁判で「偽証してはならない」と禁じられたにもかかわらず、アハブ王の妻イゼベルは、ナボトに罪を着せて、裁判で殺させたのです。

 

しかし、南ユダ王国にはエルサレム神殿に主なる神の裁きの場がありました。詩人のように、搾取され、抑圧され、言葉巧みに罪に陥れられる貧しい者たちは、主に訴えることができました。

 

詩人は、知っていました。主なる神は、貧しい者、神の民の訴えを、主なる神が聞いてくださり、この世で困窮する神の民を、主なる神が公正に裁かれることを。そして、義人は、主の裁きのゆえに主の御名を賛美し、正しい者、すなわち、敬虔な者たちは主の御前で喜んで礼拝できることを。

 

実は、使徒パウロがローマの信徒への手紙で、正しい人は一人もいないと主張し、この詩編の4節の御言葉を引用し、次のように述べています。「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある」。

 

詩人は、はっきりと主イエス・キリストを預言しているわけではありません。しかし、主なる神の御前に罪のない人は一人もいません。そして、詩人が呪いましたように、舌の人は悪い人間です。パウロの言う「罪人」です。それは、わたしたち一人一人ではないでしょうか。オレオレ詐欺に代表されるように、人をだまし、陥れる者が多くいます。舌の人であるわたしたちは、平気で言葉で隣人を、家族を、兄弟姉妹を傷つけています。詩人の呪いの言葉がわたしたちすべての人を捕らえているのです。舌の人は、この地に固く立つことはできません。必ず死ぬということです。そして二度と立ち上がることはないとは、復活しないということです。

 

しかし、詩人は、わたしたちに一つの希望を伝えるのです。「主は必ず、貧しい者の訴えを取り上げ 乏しい人のために裁きをしてくださることを」。

 

わたしたちは、人は罪に死ぬことを知っています。わたしたちが詩人の呪いの言葉の中に捕らわれた罪人であることを知っています。

 

だから、わたしたちは真実死が怖いです。自分の死の向こう側にある得体のしれないものが怖いです。しかし、主なる神は、エルサレム神殿で御自身の裁きの場で詩人の訴えを聞かれました。そして、エルサレム神殿はキリストの十字架によって使命を終えたのです。主なる神は、キリストの十字架によってわたしたちの罪を赦してくださり、わたしたちと和解してくださいました。正しい人は一人もいません。しかし、その正しくないわたしたちのために、キリストが神に裁かれ、わたしたちは自らの罪から解放される喜びを与えられました。

 

だから、詩人は、キリストの十字架のことを暗示するのです。十字架によってわたしたちは、神に義とされたからです。詩人は、わたしたちが主を賛美し、この教会で喜び賛美することを暗示しているのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、レントの季節に入り、詩編140編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

どうか、主イエスの御受難と十字架の御苦しみを覚えて、140編の詩人の祈りを学ばせてください。

 

詩人は、悪人の言葉巧みな企みと罠によって困難に陥り、主なる神に救いを求めました。

 

主は、詩人の祈りを聞かれ、御自身の裁きによって救われました。詩人の御言葉から使徒パウロは、正しい人は一人もいないことを主張し、キリストの十字架、この神の裁きだけがわたしたちの救いであることを明らかにしました。

 

キリストの十字架がわたしたちの罪のためであることを信じて、今ここで主を礼拝し、賛美できる幸いを心から感謝します。

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。