詩編説教044                  主の2014年5月25日

                  指揮者によって。コラの子の詩。
                  マスキール。
神よ、我らはこの耳で聞いています
先祖が我らに語り伝えたことを
先祖の時代、いにしえの日に
  あなたが成し遂げられた御業を。
我らの先祖を植え付けるために
  御手をもって国々の領土を取り上げ
その枝が伸びるために
  国々の民を災いに落としたのはあなたでした。
先祖が自分の腕の力によって勝利を得たのでもなく
あなたの右の御手、あなたの御腕
あなたの御顔のひかりによるものでした。
これがあなたのお望みでした。

神よ、あなたこそわたしの王。
ヤコブが勝利を得るように定めてください。
あなたに頼って敵を攻め
我らに立ち向かう者を
  御名に頼って踏みにじらせてください。
わたしが依り頼むのは自分の弓ではありません。
自分の剣によって勝利を得ようともしていません。
我らを敵に勝たせ
我らを憎む者を恥に落とすのは、あなたです。
我らは絶えることなく神を賛美し
とこしえに、御名に感謝をささげます。

しかし、あなたは我らを見放されました。
我らを辱めに遭わせ、もはや共に出陣なさらず
我らが敵から敗走するままになさったので
我らを憎む者は略奪をほしいままにしたのです。
あなたは我らを食い尽くされる羊として
国々の中に散らされました。
御自分の民を、僅かの値で売り渡し
その価を高くしようともなさいませんでした。
我らを隣の国々の嘲りの的とし
周囲の民が嘲笑い、そしるにまかせ
我らを国々の嘲りの歌とし
多くの民が頭を振って侮るにまかせられました。
辱めは絶えることなくわたしの前にあり
わたしの顔は恥に覆われています。
嘲る声、ののしる声がします。
報復しようとする敵がいます。

これらのことがすべてふりかかっても
なお、我らは決してあなたを忘れることなく
あなたとの契約をむなしいものとせず
我らの心はあなたを裏切らず
あなたの道をそれて歩もうとしませんでした。

あなたはそれでも我らを打ちのめし
  山犬の住みかに捨て
死の陰で覆ってしまわれました。
このような我らが、我らの神の御名を忘れ去り
異教の神に向かって
  手を広げるようなことがあれば
神はなお、それを探りだされます。
心に隠していることを神は必ず知られます。
我らはあなたゆえに、絶えることなく
  殺される者となり
屠るための羊と見なされています。

主よ、奮い立ってください。
なぜ、眠っておられるのですか。
永久に我らを突き放しておくことなく
目覚めてください。
なぜ、御顔を隠しておられるのですか。
我らが貧しく、虐げられていることを
  忘れてしまわれたのですか。
我らの魂は塵に伏し
腹は地に着いたままです。
立ち上がって、我らをお助けください。
我らを贖い、あなたの慈しみを表してください。
                                      詩編第44篇1-27節

説教題:「王なる神に助けを求める」
今朝は、詩編第44篇1-27節の御言葉を学びましょう。

今朝の詩編は、詩編42篇の作者と同じ「コラの子」であります。同じ人であるかどうかはわかりません。また、この詩編も「マスキール」であり、わたしたちに苦難の中でどのように主なる神を信仰するかを教えようとしています。

この詩編がいつ頃作られたかは、驚くほど意見が異なります。実に紀元前10世紀のダビデ王の時代から紀元前2世紀のマカベア時代までと、とても広い範囲にわたっています。

その中で有力な見解は、アンティオキアの教父以来、紀元前2世紀のマカベア時代と考えられてきました。宗教改革者カルヴァンも詩編註解でそれを支持しています。「ここに含まれる訴えと嘆きとは、アンテオコスのはなはだしい専制が、すべてを潰滅させた、悲惨に満ちみちた時代とより適合する」と、カルヴァンは述べています。

この詩編は、神の民イスラエルの嘆きの歌であります。

国民的な苦難のとき、神の民イスラエルは王である主なる神に敵からの助けと守りを求めて神殿で、断食を守るように命じられました。

預言者ヨエルは、そのことを次のように預言しています。「断食を布告し、聖会を召集し長老をはじめこの国の民をすべてあなたたちの神、主の神殿に集め 主に向かって嘆きの叫びをあげよ」(ヨエル書1:14)。

この詩編は、苦難の中にある神の民イスラエルの嘆きの叫びでありました。

また預言者ヨエルは、次のように彼の預言書を書き出しています。「老人たちよ、これを聞け。この地に住む者よ、皆耳を傾けよ。あなたたちの時代に、また、先祖の時代にも このようなことがあっただろうか。これをあなたたちの子孫に語り伝えよ。子孫はその子孫に その子孫は、また後の世代に。」(ヨエル書1:1-2)。

神の民イスラエルは、主なる神の力ある御業を親から子へ、子から孫へ、そして世代から後の世代に語り伝えました。すなわち、主なる神が神の民イスラエルを救われた出来事です。主なる神は奴隷の地エジプトから彼らを救い出され、荒野の40年間をお導きになり、カナンの地の諸国民を追い出し、神の民イスラエルの12部族のためにカナンの土地を取得させられました。

2-4節は、詩人がエルサレム神殿において耳で聞いた主なる神の恵みを思い起こしています。それは、主なる神が神の民イスラエルのために成し遂げられた恵みの御業であります。

主なる神は、カナンの諸国民を追い出し、その地にぶどうの木を植え付けるように神の民イスラエルを定住させられました。そして神の民イスラエルは、ぶどうの木が枝を伸ばして成長するように、カナンの土地の領土を広げていきました。

詩人は、それを主なる神の恵みの御業であったと告白しています。


旧約聖書のヨシュア記に神の民イスラエルがカナン地を占領したことを記しています。それは、彼らが自分たちの力で得たのでも、能力で得たのでもありませんでした。詩人は、主なる神の「御顔の光によるものでした。」と告白しています。詩人は、主なる神の恵みによるものであったと告白しているのです。

また詩人が「これがあなたのお望みでした」と述べていますね。主なる神の側の一方的な恵みと選びであることを、詩人は告白しています。このように詩人は、人の力と能力への信頼を断ち切り、主なる神にのみ信頼を寄せています。

それゆえに5-9節で詩人は、主なる神を「わたしの王」と告白し、心から神を賛美し、主なる神に感謝しています。

主なる神は、神の民イスラエルの真実の王であります。イスラエルの王たちは、ダビデをはじめ、主なる神の代理人にすぎません。主なる神が神の民イスラエルの真の王として共にいて、敵と戦ってくださり、イスラエルに勝利を得させてくださるのです。

詩人は、ヤコブの名を口にしていますね。神の民イスラエルの先祖であります。創世記に登場する族長で、彼の生涯は147年でした。彼は、エジプトのパロと謁見した時に、次のように告白しました。「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯は短く、苦しみ多く、わたしたちの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」(創世記47:9)。

しかし、主なる神はヤコブと共にいてくださいました。彼を多くの苦難から救われました。また彼の12人の子供たちや多くの孫たちに祝福をお与えくださいました。詩人は、ヤコブのように現在苦難の中にある神の民イスラエルを救い、祝福をお与えくださいと祈っているのです。

ヨシュア記で神の民イスラエルが、カナンの諸国民と戦ったことを記しています。神の民イスラエルは、彼らの力によってカナンの諸国民と戦ったのではありません。むしろ、王である主なる神に頼ったのです。王である主なる神の御名を呼び出し、神の民イスラエルは敵と戦いました。

その時主なる神は、神の民イスラエルを敵に勝利するように導かれましたので、神の民イスラエルは勝利し、カナンの地を占領することができました。

詩人は、先祖たちが体験した主なる神の恵みの出来事を、自分の耳で聞きましたので、一日中神殿で神の御名を賛美し、主なる神を感謝しました。

ところが、10節以降で、詩人は過去ではなく現在に目を向けています。今神の民イスラエルは、主なる神に見放され、敵に蹂躙され、苦難の中に置かれています。

10-27節で、詩人は神の民イスラエルの苦難を嘆いています。

10節の「しかし」は、「それなのに」という言葉です。10-17節は、詩人が主なる神に見放された苦難の状況を記しています。

どうして詩人は、主なる神が神の民イスラエルを見放されたことを嘆いているのでしょうか。

第1に王である主なる神が、神の民イスラエルと共にいて、敵と戦ってくださらないからです。

主なる神に見放された神の民イスラエルは、まことに悲惨です。神の民イスラエルは敵との戦いに敗走しました。敵は、神の民イスラエルを憎んでいます。それゆえ敵はイスラエルを侵略し、思いのままに財産を奪い取りました。

第2に主なる神は神の民イスラエルを食用の羊とされました。そして、彼らを安い値段で他国に売り飛ばされました。神の民イスラエルは、敵の捕虜とされ、奴隷とされました。

第3に主なる神は神の民イスラエルを、隣国の嘲りの的、物笑いの種にされました。そして、不信仰な敵たちが「お前の神はどこにいる」と嘲る声で彼らを辱めました。

この辱めは一日中詩人の前にあり、詩人の顔は恥に覆われてしまいました。さらに敵たちは神の民イスラエルの命を奪おうとしています。

18-19節で詩人は、この神の民イスラエルの苦難の原因を明らかにしています。聖書には、神の民が主なる神に見放される原因を2つ記しています。

誰もが知っているのは、神の民イスラエルが偶像礼拝する罪であります。旧約聖書の申命記から列王記に記されています。神の民イスラエルは、主なる神を捨て、主なる神との契約を破棄し、他の神々を拝みました。主なる神も神の民イスラエルを捨て、北イスラエル王国をアッシリアに売り渡し、南ユダ王国をバビロンに売り渡されました。このように神の民イスラエルは偶像礼拝の罪が原因で、国を滅ぼし、異国に捕囚となる苦難を体験しました。

しかし、詩人は、神の民の苦難にもう1つの原因があることを指摘します。ヨブの苦難であります。旧約聖書にヨブ記という書物があり、ヨブと家族の苦難を記しています。この苦難は、試練でもあります。主なる神がヨブの信仰を悪魔に自慢され、悪魔が主なる神にヨブに試練を与えることを願い、主なる神は許されます。そこでヨブが数々の試練に遭うのです。そして、3人の友人がヨブの罪を責め、因果応報でもってヨブに罪ありと主張します。ところが、ヨブには主なる神に背いて罪を犯したという心あたりがありませんので、主なる神にヨブは自らの潔白さを訴えるのです。

この詩編の詩人も、ヨブと同じです。今自分たちの国に災いが降りかかっています。しかし、詩人には、主なる神が自分たちを見放されることに心当たりがありません。詩人も神の民イスラエルも、主なる神を捨てた覚えはありません。ヨブのように主なる神を神殿で礼拝し、犠牲をささげていました。主なる神がモーセを通して神の民イスラエルと契約を結ばれたことを、決して疎かにしませんでした。詩人の心はヨブのように、主なる神から離れませんでした。むしろ詩人も神の民イスラエルも約束の地カナンで、忠実に信仰生活を守っていたのです。

それでも詩人は、神の民イスラエルを主なる神が見放されているという実感を消すことができませんでした。

20-23節で、詩人はその苦悩を述べています。「山犬の住みか」とは、廃虚のことです。「死の陰」とは、激しい悩みを表しています。神の民イスラエルは主なる神に見放されたゆえに、敵に敗北しました。今やカナンの地は、神の民イスラエルにとって繁栄と祝福の地から廃虚と激しい悩みの地に変わってしまいました。

また敵は、詩人や神の民イスラエルに偶像礼拝を無理強いしたのでしょう。詩人は、自分たちの正しさを次のように主なる神に訴えています。敵の脅迫であっても、わたしたちが主なる神を捨て、異教の神々を礼拝し、祈りをささげたなら、主なる神は必ずわたしたちが心の中に隠している罪を御覧になることでしょう。

詩人は、今の苦難のゆえに主なる神への信仰をやめるつもりはありません。主なる神を信じ、苦難の中に生きることを覚悟しています。詩人と神の民イスラエルが、今一日中主なる神のために殺される者となっているのは、彼らの王である主なる神への信仰を守っているからです。

24-27節で、詩人は王である主なる神の恵みのゆえに、神の民イスラエルを贖い出してくださいと祈り求めています。苦しみの中でヨブは、主なる神に助けを求めて祈りました。「わたしは知っている わたしを贖う方は生きておられ ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも この身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。」(ヨブ記19:24-27)。

同じようにこの詩人も主なる神に祈り求めています。ヨブ同様に苦難の詩人の前に、主なる神は沈黙されています。詩人は、王である主なる神が行動を起こしてくださり、昔彼の先祖たちを奴隷の地エジプトから救われ、約束の地カナンに導かれた救いの御手を自分たちに伸ばしてくださいと訴えています。

御顔を隠されるとは、神が無関心であるという意味です。ですから、詩人は主なる神に訴えています。わたしたちが敵に財産を奪われて貧しくなり、男も女も、子供も老人も虐げられていることを、主なる神は心に留めてくださらないと。

今詩人も神の民イスラエルも、自分で自分を救う力はありません。ヨブのように、塵に伏す、すなわち、死んでしまう以外にありません。詩人も神の民イスラエルも、苦難の中で主なる神に打ち砕かれ、ヨブのように地に横たわっているだけであります。

だからこそ詩人は、主なる神に立ち上がって、王である主なる神が敵と戦ってくださり、敵から神の民イスラエルを救い出してくださいと祈っています。主なる神の慈しみのゆえに、わたしたちを贖い出してくださいと、詩人は祈るのです。

主なる神の慈しみだけが、詩人と神の民イスラエルにとっては苦難の中で唯一の希望となっているのです。すなわち、主なる神が神の民イスラエルを慈しみでもって御自身の民として選ばれ、「わたしはあなたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」と約束してくださいました。詩人は、主なる神のその慈しみに信頼を寄せ続けているのです。

この詩人の主なる神への信頼の御言葉は、神の民たちに主なる神のために殉教をする喜びへと招きました。

また、主イエス・キリストは、預言者イザヤの苦難のしもべの預言に従い、父なる神の御心に服従され、十字架の受難の道を歩まれました。わたしたちは、キリストの十字架の贖いによって罪と死から救い出されました。そして使徒パウロは、ローマ教会のキリスト者たちに、わたしたちキリスト者がキリストのゆえに殺される羊とみなされていることを教えました。初代教会のキリスト者たちは、ローマ帝国によってローマ皇帝を礼拝するように強要されました時、それを拒み迫害されました。その時にパウロが語りました十字架を通して示された神の愛から信者を引き離すものは何もないという確信が、迫害されているキリスト者たちを励ましたのです。

お祈ります。


イエス・キリストの父なる神よ、詩編44篇を通して、神の民イスラエルの苦難を学ぶことができたことを感謝します。

どうか、詩人の苦難の理解を学ばせてください。詩人やヨブのように、主イエスを信じるゆえに、わたしたちはこの世において信仰の試みを受ける時があります。主イエスが教えてくださった主の祈りの「われらを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と、真剣に祈る必要があるのを感じています。

毎週教会の礼拝にあずかり、神の御言葉を聞き、主イエス・キリストの十字架の救いを心より喜び感謝しています。同時に毎日御言葉を読み、祈りますが、日々の生活の中でわたしがいろいろと困難を覚えます時に、わたしの祈りに主が沈黙されているように感じています。

それゆえに今朝の詩人の祈りにわたしたちは、励まされます。わたしたちがどんな困難な中でも、主イエスに常に信頼することができるように、わたしたちの魂と信仰をお守りください。

わたしたちは、異教と世俗化の社会の中に捕囚の民として生きています。周りから「お前のイエスは何をしてくださるのだ」と言われています。気持ちがなえて、なかなかうまくキリストを伝えられません。

それでも、わたしたちはキリストを待ち望んでいます。キリストの御名の他に救いのないことを信じています。わたしたちに少し勇気をください。わたしたちの家族に、友達に、近所の知り合いに、わたしたちの王であるキリストを伝えるために。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

詩編説教045                                     主の2014年6月29日

                      指揮者によって。「ゆり」に合わせて。
                      コラの子の詩。マスキール。愛の歌。
心に湧き出る美しい言葉
わたしの作る詩を、王の前で歌おう。
わたしの舌を速やかに物書く人の筆として。
あなたは人の子らのだれよりも美しく
あなたの唇は優雅に語る。
あなたはとこしえに神の祝福を受ける方。

勇士よ、腰に剣を帯びよ。
それはあなたの栄えと輝き
輝きを帯びて進め
真実と謙虚と正義を駆って。
右の手があなたに恐るべき力をもたらすように。
あなたの矢は鋭く、王の敵のただ中に飛び
諸国の民はあなたの足もとに倒れる。

    神よ、あなたの王座は世々限りなく
    あなたの王権の笏は公平の笏。
   
神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに
神、あなたの神は油を注がれた
    喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。
あなたの衣はすべて 
    ミルラ、アロエ、シナモンの香りを放ち
象牙の宮殿に響く弦の調べはあなたを祝う。
諸国の王女、あなたがめでる女たちの中から
オフィルの金で身を飾った王妃が
  あなたの右に立てられる。

「娘よ、聞け。
耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。
あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。
王はあなたの美しさを慕う。
王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。
ティルスの娘よ、民の豪族は贈り物を携え
あなたが顔を向けるのを待っている。」

王妃は栄光に輝き、進み入る。
晴れ着は金糸の織り
色糸の縫い取り。
彼女は王のもとに導かれて行く
おとめらを伴ない、多くの侍女を従えて。
彼女らは喜び踊りながら導かれて行き
王の宮殿に進み入る。
あなたには父祖を継ぐ子らが生まれ
あなたは彼らを立ててこの地の君とする。

  わたしはあなたの名を代々に語り伝えよう。
    諸国の民は世々限りなく
      あなたに感謝をささげるであろう。
                                            詩編第45篇1-18節

  説教題:「イスラエルの王をたたえる」
  今朝は、詩編第45篇1-18節の御言葉を学びましょう。

  見出しの最後に「愛の歌」とあります。これがこの詩編の主題であります。13節に「ティルスの娘よ」と詩人が呼びかけています。イスラエルの王とティルスの外国の女王との結婚式を、詩人が祝福しています。
 
  9節で詩人が「象牙の宮殿に響く弦の調べはあなたを祝う」と賛美し、13節で「ティルスの娘よ、民の豪族は贈り物を携え あなたが顔を向けるのを待っている」と賛美しているところから、ある人々は北イスラエル王国のアハブ王とティルスの女王イゼベルとの結婚式を想像しています。実際に北イスラエル王国の都サマリアの宮殿の跡から大量の象牙細工が出土しています。
 
  しかし、旧約聖書の中に今朝の詩編の背景となる記述は、どこにも見出すことができません。この詩編の詩人がイスラエルのどの王をたたえ、いつの時代の、どの王の結婚式を祝福して賛美しているかは不明であります。
 
  この詩編は、次のように作られています。2節は、詩人の自己紹介です。3-10節で詩人は、イスラエルの王をたたえ、祝福の言葉を贈っています。11-16節で詩人は、王の花嫁ティルスの女王に呼びかけ、花嫁が結婚式に入場します。17-18節で詩人は、王への祝福を歌っています。
 
  この詩編は、最初宮廷詩人がイスラエルの王の結婚式を祝福するために作りました。それを、エルサレム神殿に仕えるレビ人である「コラの子」が、捕囚後にエルサレムに帰還し、エルサレム神殿と都を再建したシオンの民を花嫁として迎えるメシアの結婚式の歌に作り変えて、神殿で歌ったと考えられます。
 
  ですからこの詩編は、どのイスラエルの王の結婚式であったかは、あまり重要ではありません。大切なことは、詩人がたたえるイスラエルの王が神の民のメシアであるということです。
 
  その証拠に、ヘブライ人への手紙の記者は、詩人がたたえるイスラエルの王、メシアを、神の御子キリストと証してして、次のようにこの詩編の7-8節を引用して述べています。「一方、御子に向かっては、こう言われました。『神よ、あなたの玉座は永遠に続き、また公正の笏が御国の笏である。あなたは義を愛し、不法を憎んだ。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。』」(ヘブライ1:8-9)。
 
  ヘブライ人への手紙の記者がこの詩編をメシア預言と理解しましたように、キリスト教会はこの詩編をメシアの詩編として愛してきました。
 
  詩人がたたえるイスラエルの王が御子キリストであれば、花嫁であるティルスの女王は異邦人のキリスト教会であります。キリストと花嫁である教会の結婚式として、キリスト教会はこの詩編を愛して来たのです。
 
  この詩編の元来の姿は、象牙の宮殿での結婚式です。象牙の宮殿の中で荘厳な音楽が響く中、美しく着飾った花嫁がお付きの乙女たちを従え、玉座にいる王のもとまで導かれて行きます。次々と祝いの贈り物が宮殿の奥に運び込まれて行きます。宮廷詩人は、即興で王をたたえ、結婚式を祝福する詩を作り、王座の王の前でその詩を披露し、歌いました。
 
  その世俗の詩を、「コラの子」というレビ人の詩人が、主なる神をたたえる詩編として作り直し、エルサレム神殿で賛美しました。
 
  詩人はヘブライ人への手紙の記者のように明確に御子キリストを示されていません。しかし、3節で詩人が「あなたは人の子らのだれよりも美しく あなたの唇は優雅に語る。あなたはとこしえに神の祝福を受ける方。」と賛美します時、それはこの世の王を越えた存在であります。

 詩人にとっては、主なる神であり、旧約聖書には主なる神が神の民を愛されることを結婚にたとえています。たとえば、有名な預言者エレミヤであります。彼は、エレミヤ書2章2節で次のように預言しました。「行って、エルサレムの人々に呼びかけ 耳を傾けさせよ。主はこう言われる。わたしは、あなたの若いときの真心 花嫁のときの愛 種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。」。

 神の民イスラエルにとって、主なる神が真の王でありました。そして、主なる神は神の民イスラエルの花婿であり、神の民イスラエルは主なる神の花嫁でした。そのように主なる神と神の民イスラエルは、結婚という愛によって堅く結び合わされていました。

 詩人が7節で「神よ」と呼びかけているのは、詩人がたたえるイスラエルの王のことです。しかし、実際にダビデ王やソロモン王をはじめ、北イスラエル王国の王たちにも南ユダ王国の王たちにも、詩人が「あなたの王座は世々限りなく あなたの王権の笏は公平の笏」とたたえることのできる王はいません。

 だから、詩人はたたえるイスラエルの王を「神よ」と呼びかけたのです。

 また詩人が8節で「神を従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに 神、あなたの神は油を注がれた 喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で」と賛美したことも、この世のイスラエルの王たちに当てはまるものはいません。主なる神に義なる人と認められたダビデ王さえ、「自分は母の胎に居た時から罪人であり、神の御前に虫けらである」告白しております。

 神であり、人となり、この世に来られたキリストのみに、詩人の8節の御言葉は当てはまります。洗礼者ヨハネから水で洗礼を受けられたキリストの上に、聖霊が鳩の形で留まられ、喜びの油を注がれました。その時に天から父なる神の御声が聞こえました。「わたしの心のかなう者である」と。

 その通りにキリストは、十字架の死に至るまで父なる神の御意志に従われ、荒れ野の悪魔の誘惑を退けられ、人々のこの世の王になれという誘惑も、退けられました。

また、詩人が5節で「真実と謙虚と正義を駆って」と賛美していますように、キリストは武力によってではなく、真実と謙虚と正義によって、わたしたちの救いを成し遂げてくださいました。それが、キリストの十字架の死でありました。

 詩人が歌う11節以下の御言葉は、メシアであるキリストとわたしたち異邦人教会の結婚式を描いています。詩人のこの詩は、マスキールです。教訓詩です。詩人が呼びかける娘は、キリストの花嫁であるわたしたちです。

 第一の勧告は、「あなたの民とあなたの父の家を忘れよ」です。使徒ペトロがペトロの手紙一の1章18-19節で、次のように述べています。「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」

 また使徒パウロも、テサロニケの信徒への手紙一の1章9-10節で、次のように述べています。「また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」

 詩人は、わたしたちに「あなたがたは、洗礼を受けてキリストの花嫁になったのだから、この世のものを忘れ、花婿であるキリストをひたすら待ち望む」ように勧めるのです。

 詩人の第2の勧告は、12節です。「王はあなたの美しさを慕う。王はあなたの主、彼の前にひれ伏すがよい。」

 詩人の「王はあなたの美しさを慕う」という言葉に、受難のキリストを、わたしは重ねるのです。主イエスは、十字架の前の夜に12弟子たちの足を洗われました。使徒ヨハネは、ヨハネによる福音書に次のように証ししています。13章1節です。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」それが、十字架のキリストの姿でありました。それほどまでにして、キリストは、罪人であるわたしたちを愛し抜かれたのです。

 詩人は、王であるキリストこそわたしたちの主、わたしたちの神として礼拝し、仕えるように励まし、勧めています。

 この詩編は、キリストとわたしたちの教会との関係を心に留めるとき、わたしたちの信仰生活に大きな喜びを与えてくれる詩編であります。

  お祈ります。
 
 
  イエス・キリストの父なる神よ、詩編45篇を通して、キリストと教会の関係を結婚式として学ぶことができたことを感謝します。
 
  どうか、詩人のようにわたしたちも、王であるキリストをたたえさせてください。
 
  この詩編を通して神の御子キリストの十字架の救いを瞑想させていただき、感謝します。
 
  今朝の詩編の御言葉に励まされ、一週間の日々の生活においてわたしたちがこの世の誘惑をキリストのごとく退けて、キリストのみを礼拝し、来るべき再臨のキリストを待ち望むことができますようにお導きください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

  詩編説教046                 主の2014年7月27日

                      指揮者に合わせて。コラの子の詩。
                      アラモト調。歌。
神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
わたしたちは決して恐れない
地が姿を変え
あなたの唇は優雅に語る。
山々が揺らいで海の中に移るとも
海の水が騒ぎ、沸き返り
その高ぶるさまに山々が震えるとも。

大河とその流れは、神の都に喜びを与える
いと高き神にいます聖所に。
神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。
夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。
神が御声を出されると、地は溶け去る。

    万軍の主はわたしたちと共にいます
    ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
   
主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。
主はこの地を圧倒される。
地の果てまで、戦いを断ち
弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
 
「力を捨てよ、知れ
わたしは神。
国々にあがめられ、この地であがめられる。」

  万軍の主はわたしたちと共にいます。
  ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。

                                            詩編第46篇1-12節

  説教題:「神はわが避けどころ」
  今朝は、詩編第46篇1-12節の御言葉を学びましょう。
 この詩編は、エルサレム神殿の礼拝において歌われました。そのために神殿で奉仕していたコラ族のレビ人が、この詩編を作りました。表題に「アラモト調」とありますが、ある日本語の聖書には、「おとめらの声で」と訳されています。若い女性のソプラノに合わせて歌われたのでしょう。

 2節がこの詩編の主題であります。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」

 人生に栄枯盛衰は必然であります。栄える時があれば、衰える時があります。その人生の最も困難なときに、神はわたしたちと共にいてくださり、わたしたちの避けどころ、また、砦となり、わたしたちの苦難のただ中でわたしたちを守り助けてくださるのであります。

 詩人は、インマヌエル、「神、われらと共にいまし、われらを守りたもう」という確信を歌っています。

 この詩人が生きた時代は、南ユダ王国でヒゼキヤ王が支配していた時代だろうと思います。

 ダビデ王とその子ソロモン王の時代に栄えたイスラエル王国は、その後南北に分裂し、坂を転がるように衰えて行きました。中近東にアッシリア帝国が起こり、南下して勢力を拡大し、北イスラエル王国を滅ぼしました。

 そして、アッシリア帝国のセンナケリブ王は、南ユダ王国に攻め込み、神の都エルサレムの都を包囲しました。

 3節と4節は、アッシリア帝国のパレスチナ侵略を、天変地異にたとえています。南ユダ王国を取り巻く中近東世界は、アッシリア帝国の勃興と侵略によって諸国と諸国民が騒ぎ立っていました。

 「わたしたちは決して恐れない 地が姿を変え 山々が揺らいで海の中に移るとも 海の水が騒ぎ、沸き返り その高ぶるさまに山々が震えるとも。」

 この御言葉を読み、わたしは、あの2011年の3.11東日本大震災を思い起こしました。おそらく同じように思い起こされた方があるでしょう。その天変地異の恐怖の中に置かれても、詩人は決して恐れないと告白しています。なぜなら、彼には、避けどころである神がいます。常に神は彼と共におられ、彼を助け、守り、砦となってくださるからです。

 詩人にとって、天変地異の時の避けどころである神は、歴史の苦難において避けどころである神でもあります。

 5-8節は、アッシリア帝国のセンナケリブ王に神の都エルサレムが包囲されたことを背景にして歌われています。

 中近東とパレスチナの諸国と諸国民は、アッシリア帝国の侵略に対して無力でありました。神々も、諸国と諸国民をアッシリア帝国の侵略から救い出せませんでした。

 そして、今アッシリア帝国が南ユダ王国を侵略し、神の聖所がある神の都エルサレムを取り囲んでいます。

 「大河とその流れ」とは、誇張された表現ですが、ヒゼキヤ王が造りました地下水道のことを述べているのでしょうか。歴代誌下32章30節に「上(かみ)の方にあるギホンの湧水をせき止め、ダビデの町の西側に向かって流れ下るようにしたのも、このヒゼキヤであった」と記しています。ヒゼキヤ王が地下水道の工事をし、人口の川が造られ、一年中都に水が流れました。水を確保することができ、エルサレムの都は喜びました。

 そのエルサレムの都に聖所があり、主なる神がわたしたちと共におられるので、都は揺らぐことはないと、詩人は告白しています。

 6節の「夜明けとともに」とは、アッシリア帝国がエルサレムの都を攻撃する時刻のことであります。センナケリブ王は、夜明けとともにエルサレムの都を攻撃しようとしました。しかし、主なる神が介入され、夜に主の御使いを遣わされました。主の御使いはアッシリア軍の18万5千人を撃ち、夜が明けるとアッシリア軍の18万5千人は死体となっていました(列王記下20:35)。

 主なる神が介入されると、アッシリアの全軍は、地が溶け去るように消えてしまいました(7節)。

 8節の「万軍の主」という神の名称は、宇宙的王権、天と地の万軍を統べ治める神の権威を示しています。「ヤコブの神」とは、イスラエルの民が神の契約の民として特別に神の愛顧の中にあることを示しています。その神がわたしたちと共にいて、わたしたちの砦の塔、すなわち、要塞としてわたしたちをお守りくださると、詩人は歌っています。

 詩人は、9節より「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう」と呼びかけています。原文は、「いざ見よ、主の御業を」です。

 詩人は、預言者イザヤと同様に主なる神が全世界を審判された後に来る平和の実現の幻を見せられました。

 主なる神は、エルサレムの都を攻めて来たアッシリア軍18万5千人を撃たれました。おそらく詩人は、エルサレムの都からアッシリア軍の死体を見渡し、主なる神がこの世の終わりに世界を審判され、その後に実現される平和の幻を見ました。

 「主はこの地を圧倒される。」(9節)とは、主なる神がアッシリアの全軍のように全世界を審判されることを預言しています。「地の果てまで、戦いを断ち 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。」(10節)とは、その後に主なる神が実現される平和であります。

 預言者イザヤもその光景を次のように預言しています。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」(イザヤ2:4-5)。

 ですから、主なる神は詩人を通して、御自身の御言葉を次のようにお告げになりました。「力を捨てよ、知れ わたしは神。国々にあがめられ、この地で崇められる。」(11節)。

 最近の日本語訳聖書(フランシスコ会聖書研究所訳)を見ますと、「静まれ、わたしを神と知れ。わたしは諸国の民のうちでたたえられ、地において崇められる。」と訳しています。

 またある旧約学者は「心を静めて知れ、われこそ神、わたしは民らの中に高くされ、地の上に高くされる」(関根正雄氏)と訳しています。

 詩人を通して主なる神が告げられたことは、次のことです。神は、主なる神の他にありません。わたしたちが天変地異や戦争等の人生の苦難のただ中に置かれました時、わたしたちは恐れる必要はありません。その時、必要なことは心を静めて、主なる神以外に神がないことを知ることです。そして、主なる神が常にわたしたちと共にいて、わたしたちの避けどころとなり、わたしたちの要塞となって、わたしたちをどのような困難からも救い出し、お守りくださることを信じ、主なる神を崇めなさいと。

 わたしたちは、今朝の詩編を主イエス・キリストを通して理解する時に、豊かな恵みと慰めにあずかることができます。

 インマヌエル、神わたしたちと共にいますことを、神は、人となられたキリストを通して、わたしたちに実現してくださいました。キリストは、わたしたちの内に住まわれるために、人としてこの世に来られました。そして、わたしたちの内に住まうために、罪に汚れたわたしたちを、神の御前に義とし、聖とするために、身代わりに十字架に死なれました。そして、キリストは死者の中から復活され、永遠にわたしたちと共にいるために、天に昇られました。そして、わたしたちに聖霊をお与えくださいました。今、わたしたちは、聖霊を通してわたしたちの内にいますキリストを信じることができるのです。

 そして、キリストはわたしたちの神として、わたしたちと共にいてくださり、わたしたちの苦難の時のわたしたちの避けどころであり、わたしたちをあらゆる恐れから守る砦の塔であられます。
 
  お祈ります。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、詩編46篇を通して、神はわたしたちの避けどころであることを学ぶことができたことを感謝します。
 
  詩人のようにわたしたちも、今からこの世の終わりまでを見通して、この世を歩ませてください。
 
  今わたしたちの国は、平和のために戦争の道を歩もうとしています。主なる神は、わたしたちに詩人を通して「力を捨てよ、知れ、わたしこそ神」とお告げくださいました。どんな時にも、インマヌエル、神、わたしたちと共にいますことを信じて、神に信頼して歩ませてください。
 
  この詩編を通して神の御子キリストが人の子として、この世に来てくださり、聖霊を通して常にわたしたちの内にいてくださることを瞑想させていただき、感謝します。
 
  今朝の詩編の御言葉に励まされ、一週間の日々の生活においてわたしたちが常にキリストと共に生き、将来のキリストの再臨と神の審判、そして神の永遠の平和を待ち望ませてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。