詩編説教116               主の2020年7月26日

わたしは主を愛する。わたしは主を愛する。

主は嘆き祈る声を聞き まことに主は聞かれる、わたしの嘆き祈る声を。

わたしに耳を傾けてくださる。 主はわたしに耳を傾けてくださるから、

生涯、わたしは主を呼ぼう。 そしてわたしの日々、わたしは呼ぼう。

 

死の綱がわたしにからみつき わたしを取り囲んだ、死の縄が

陰府の脅威にさらされ 陰府の責め苦がわたしに臨んだ。

苦しみと嘆きを前にして わたしは苦しみと嘆きに出会った。

主の御名をわたしは呼ぶ。 そして主の御名を、私は呼ぼう。     

「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」「ああ主よ、わたしの魂を逃

れさせてください。」

主は憐れみ深く、正義を行われる。 主は恵み深く正しく、

わたしたちの神は情け深い。 わたしたちの神は憐れみ深い。

哀れな人を守ってくださる主は 主は未熟な者を守られる。

弱り果てたわたしを救ってくださる。わたしは低められた。すると彼はわたし

わたしの魂よ、再び安らうがよい を救った。帰れ、わたしの魂よ、わたしの

主はお前に報いてくださる。 憩いの場に。主がお前に報いてくださるから。

 

あなたはわたしの魂を死から まことにあなたは助け出した、わたしの魂を死

わたしの目を涙から から。わたしの目を涙から

わたしの足を突き落とそうとする者から わたしの足をつまずきから。

助け出してくださった。 

命あるものの地にある限り わたしは歩もう、主の御前で、生ける者の地で。

わたしは主の御前に歩み続けよう。 

わたしは信じる わたしは信じた。

「激しい苦しみに襲われている」と言うときも わたしは「とても惨めである」

不安が募り、人は必ず欺く、思うときも。と言うときも。わたしは不安にから

                   れ、「人はすべて欺く」と言った時も。

主はわたしに報いてくださった。 何をわたしは返せるだろうか、主に。

わたしはどのように答えようか。 わたしの上に施された主の恵みのすべてに。

救いの杯を上げて主の御名を呼び 救いの杯を、わたしは上げよう。そして主

満願の献げ物を主にささげよう  の御名を、わたしは呼ぼう。わたしの誓願

主の民すべての見守る前で。を、主に、わたしは果たそう。さあ彼の民すべての前で。

主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。主の目に貴い、彼の聖徒たちの

どうか主よ、わたしの縄目を解いてください。 死は。主よ、まことに

わたしはあなたの僕。わたしはあなたの僕、わたしはあなたの僕、あなたの

わたしはあなたの僕、母もあなたに仕える者。婢の子、わたしの枷を解いてく

あなたに感謝のいけにえをささげよう ださった。あなたにわたしは献げよう、

あ主の御名を呼び 感謝の犠牲を。そして主の御名を、わたしは呼ぼう。

主に満願の献げものをささげよう わたしの誓願を、わたしは果たそう。

主の民すべての見守る前で さあ彼の民すべての前で。

主の家の庭で、エルサレムのただ中で。主の家の前庭で、エルサレムよ、

ハレルヤ。  あなたの真ん中で。 ハレルヤ。

                   詩編第116119

 

説教題:「われらの死は主の目に価高い」

さて、今朝の詩編116編は、個人の感謝の歌であります。

 

 今朝の詩編116編は、詩人が経験した主なる神の恵み、救いに対して感謝の応答として、彼は生涯エルサレムの神殿で主なる神を礼拝し、賛美し、主の僕として仕え、服従して生きると歌っているのです。

 

34節と811節において、詩人が重い病と苦難から主なる神に救われた体験と彼がどんなに主なる神に信頼しているかを、57節、10節において歌っています。

 

そして、詩人は、主なる神の恵みの救いに対する感謝の応答を、神殿の礼拝において満願の献げ物を主なる神にささげることで、すると歌っているのです。

 

それが、2節、9節、1214節、1719節です。

 

詩人は、主なる神に瀕死の状態の時に、回復を祈りました。その祈りを、主なる神は聞き届けてくださり、彼を癒されました。また、彼は悪人(不信仰な者)に苦しめられました。命を狙われ、不安の中で、周りの人々には欺かれ、まさに四面楚歌の中で主なる神に苦難からの救いを祈りました。

 

主なる神は、5節で詩人が「主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。」と告白し、賛美していますように、彼の主なる神への信頼と祈りに答えてくださり、彼を苦難の中からヨブ記のヨブのように救い出してくださいました。

 

67節を御覧ください。「哀れな人を守ってくださる主は 弱り果てたわたしを救ってくださる。わたしの魂よ、再び安らうがよい 主はお前に報いてくださる。」

 

「哀れな人」は、詩編198節と詩編119130節では「無知な者」(口語訳)と訳しています。昨年12月に聖書協会は新しい日本語訳聖書が出版しました。『聖書協会共同訳』です。それには、「未熟な者」と訳しています。「経験の足りない者」という意味です。

 

詩人は老人ではありません。若いと言っても、30代、40代だったでしょう。人生これからという若さで、重い病で瀕死の状態になりました。老いを重ねて、人の偽りを見抜く経験もなく、身を命の危険にさらしました。

 

「哀れな人」は意訳です。訳者が病める詩人、苦難の詩人をイメージしたのでしょう。若き日々を、重い病気で苦しみ、悪人に苦しめられて、人生の苦境に立ち、毎日死と向き合い、詩人は死の恐怖と涙で過ごしていました。そのイメージから「哀れな人」「弱り果て」という言葉が生まれたのでしょう。「弱り果て」は「低められ」「貶められ」(口語訳・新改訳)という意味の言葉です。

 

 詩人は、未熟な者で人生経験が足りなかったでしょう。若いのに重い病を得て、日々苦しみ、涙で過ごしたでしょう。また、悪人、すなわち、身近にいる不信仰な者たちに欺かれて、命の危険に陥ったでしょう。

 

しかし、彼は、1節で「わたしは主を愛する」という信仰体験をしたのです。詩人は感謝するのではない。主なる神を愛するという信仰体験をしました。

 

その主を愛するという信仰体験をした理由は、2節で「主は嘆き祈る声を聞き わたしに耳を傾けてくださる。」という彼の体験にあります。

 

彼は、明確に表現しませんが、わたしは、この詩人の「わたしは主を愛する」という告白を、こう理解します。彼が主を愛するのは、主が彼を愛されたからです。

 

詩人が瀕死の状態から回復され、命の危険から救い出されたのは、主なる神の憐れみであり、正義でありました。主なる神は神の民との契約を忠実に守られました。だから主は彼の祈りを聞き入れてくださいました。彼の病を癒され、彼を命の危険から救い出してくださったのです。主なる神が民との契約に忠実であられることこそ、神の真実であり、愛です。

 

主なる神は彼の先祖アブラハムと契約を結ばれました。彼と彼の子孫の神となられ、アブラハムと彼の子孫は神の民となりました。それから主なる神は、奴隷の地エジプトから解放した神の民イスラエルとシナイ山で契約を結ばれました。主なる神は彼らの神となられ、彼らは主なる神の民となりました。

 

こうして神の民が主なる神の御前に生きることこそ、彼らにとって命の道となりました。詩人は、救いの体験を通して契約の神である主が恵み深く、正義を行われ、誠実で、愛あるお方であると信じ、信頼したのです。

 

だから、彼は、主なる神を愛して、生涯、主の御名を賛美し、エルサレム神殿で主なる神を礼拝し続けると歌っているのです。それが、詩人にとって死から救われた者の命の道なのです。

 

この詩編からわたしたちが学びますことは、神への信頼はわたしたちの祈りが神さまに聞かれたという信仰体験にあることです。

 

詩人は、その信仰体験によって主なる神が神の民イスラエルの契約の神であることの恵みを体験しました。その告白が「主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い」です。だから、彼は、続けて10節でこう告白するのです。「わたしは信じる 『激しい苦しみに襲われている』と言うときも、不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。」

 

詩人は、主なる神が契約の神として、彼がどんな絶望の状態にあろうと、命の危険にあろうと、真実で、誠実で、愛あるお方であることを信じると歌っています。

 

話は脱線するかもしれませんが、わたしは口語訳聖書、新改訳聖書、そして新共同訳聖書を礼拝で使用する聖書として用いてきました。近年の聖書学の格段の進歩によってわたしたちは、聖書の原文に近い翻訳聖書を読めるようになりました。これは素晴らしいことです。しかし、わたしたちの心に響く信仰の言葉は学問の進歩とは関係がないようです。

 

56節の御言葉を、口語訳聖書は次のような日本語で訳しています。「主は恵み深く正しくいらせられ、われらの神はあわれみに富まれる。主は無学な者を守られる。わたしが低くされたとき、主はわたしを救われた。」

 

この詩編で次に学びますことは、真逆の真理です。わたしたちの幸福は、毎日が楽しいことですか。この世おいて富めることですか。人生で成功することですか。有名な大学に合格し、一流と呼ばれる企業に就職し、学者となり、博士となり、名誉を得ることですか。健康でスポーツができることですか。毎日自分の意志で自由に生きることですか。

 

主なる神に救われた詩人は、そのようなこの世の人々の求める幸せに背を向けています。この世の人々の全く関心のない神を礼拝する人生に幸いを見出だしています。

 

主なる神に瀕死の状態から回復され、命の危険がある苦難から救われたのに、彼はなおこの世において自分の身に苦難があり、不安がある時も、主なる神に信頼すると告白しています。

 

詩人は、自由であること、富めることを賛美していません。むしろ、1219節で詩人は、主なる神に救われた恵みに、どう答えようかと言って、主なる神に主の僕、すなわち、主なる神の奴隷として服従を誓っています。

 

主なる神のために、自分の身を不自由にして、主なる神の民として生涯生きると誓っています。

 

15節で詩人が「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い。」と歌っていますね。聖書協会共同訳は、「主に忠実な人たちの死は 主の目に重い」と訳しています。原文に忠実な訳です。

 

「主に忠実な人たち」とは、聖徒たちのこと、神の民イスラエルとキリスト者たちのことです。主なる神の契約に忠実に従って生きている者たちのことです。詩人は、彼の癒しの体験と苦難からの救いの体験を通して、主なる神は御自身の契約に忠実に生きる神の民たちを空しく滅ぼすようなお方ではないと、信頼しているのです。

 

この世の人々が目を背けること、見たくないと思うもの、何よりもこの世の人々は自分が低められることを避けようとします。病気になること、貧しくなること、無視されること等です。

 

しかし、詩人は、神の民の死を、主なる神は尊ばれると歌っています。そして詩人は、続いて16節で主に救われた自分が主の奴隷であると告白します。彼は、主の御前に一生涯主の奴隷として低められた人生を生きると誓っているのです。

 

このようにお話ししていて、わたしがこの詩編を理解しているのかは、疑わしいです。健康が与えられ、身に危険がなく、ほどほどに自由に生き、悩みと言っても、死ぬほどの苦しみではなく、毎日涙を流すこともなく、不安に恐怖することもなく、今日の一日を感謝して、過ごしているのです。

 

しかし、幸いなことは、信仰の体験は自分が体験しないと理解できないわけではありません。わたしたちの感性は共感するという神の恵みの賜物があります。

 

ご存知の方もあると思います。ニューヨーク大学にあるリハビリテーション研究所の壁に、次のような詩があります。

 

大きなことを成し遂げるために/力を与えてほしいと神に求めたのに/謙遜を学ぶようにと弱さを授かった/偉大なことができるように/健康を求めたのに/よりよきことをするようにと病気を賜った/幸せになろうとして/富を求めたのに/賢明であるように/貧困を授かった/世の人々の賞賛を得ようとして/成功を求めたのに 得意にならないようにと失敗を授かった/求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞きとどけられた 神の意に添わぬ者であるにもかかわらず 心の中に言い表せない祈りは/すべて叶えられた 私は最も豊かに祝福されたのだ

 

詩編116編は、現代この詩によって再びわたしたちの心に届けられているのです。116編とニューヨーク大学の研究室にあるこの詩は、次代を越えて主なる神の契約に生きる神の民の幸いを教えています。それは、人が求めて得るものではなく、主なる神の愛に答えて、主なる神の祝福の中を生きることなのです。

 

そのために詩編116編とこの詩の間で神の愛を主イエス・キリストが現わしてくださいました。御自身の身を低くして、神の御子が十字架の死に至るまで父なる神に服従されました。そのキリストのヘリ下りによって、わたしたちはこの世で得られない永遠の命に祝福に与っているのです。

 

 お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編116編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

どうか、詩人のように、わたしたちも主なる神が祈りに答えてくださったという信仰体験を通して神を愛する信仰へ、神を信頼する信仰へとお導きください。

 

今朝の詩編の御言葉を通して、わたしたちは真逆の真理を教えられました。この世が求めるものが、わたしたちを幸いにするのではなく、幸いはわたしたちの低さに関わらず、神が与えてくださる祝福であるということを学び感謝します。

 

どうか、キリストの十字架の愛に答えて、主の僕として、この教会で礼拝生活を過ごさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教117             主の2020823

すべての国よ、主を賛美せよ。賛美せよ、主を、すべての国々よ。

すべての民よ、主をほめたたえよ。彼をほめたたえよ、すべての民よ。

主の慈しみとまことはとこしえに まことに、力強い、わたしたちの上に、

わたしたちを超えて力強い。 主の慈しみは。そして、主のまことは永遠に。

ハレルヤ。 主を賛美せよ。

                   詩編第11712

 

説教題:「世界の民よ、主なる神を賛美せよ」

 

今朝は、詩編第11712節の御言葉を学びましょう。

 

この詩編は、讃美の詩編です。詩編150編の中で一番短い詩編です。しかし、この詩編の内容は、神の民イスラエルを超えて、全世界の民に向けられた壮大なものです。

 

「すべての国よ」「すべての民よ」とは、「世界の民よ」という意味です。どうして117編の詩人は、世界の民に主なる神を賛美せよ、ほめたたえよと命じているのでしょう。

 

確かに命令形ですが、世界の民を、主なる神への賛美へと招いていると言う方がより正確だと思います。

 

 詩人は、1節で「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。」と、全世界の民に呼びかけています。

 

 2節で、詩人は、1節で全世界の民が主なる神を賛美し、ほめたたえる理由を述べています。「主の慈しみとまことはとこしえに わたしたちを超えて力強い。」

 

 2節の「主の慈しみとまこと」の「慈しみ」は、ヘブライ語の「ヘセド」という言葉です。「慈しみ」「憐れみ」「愛」という意味の言葉です。選民イスラエルへの神の不変の愛を表す言葉です。

 

 旧約聖書において唯一の神である主なる神は、神の選びの民であるイスラエルに対して不変の愛を、契約という形で聖書の歴史を通して表されました。

 

 主なる神が族長アブラハムを召し出して、ウルからカナンへと導かれました。主なる神はアブラハムとそこで恵みの契約を結ばれました。「わたしはあなたとあなたの子孫の神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる」と。そして、主なる神は、アブラハムを諸国民の祝福の源とされました。

 

こうして主なる神はアブラハムからモーセへと恵みの契約を更新されました。主なる神は奴隷の地エジプトからイスラエルの民を救い出されました。そしてシナイ山でモーセを通してイスラエルの民と契約を結ばれました。「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。」そして、主なる神は神が選ばれた民イスラエルを、祭司の国とし、全世界の民の祝福の基とされました。

 

こうして神の民イスラエルは、荒れ野の40年の後、約束の地カナンに導かれ、相続地が与えられ、定住しました。

 

しかし、平和は長く続きませんでした。神の民イスラエルが主なる神を捨て、カナンの神々、大国の神々を偶像礼拝し、主なる神との契約を破ったからです。彼らは、主なる神との契約に不忠実でした。シナイ山で主なる神から賜った十戒を守ることができませんでした。

 

それゆえに主なる神の怒りと刑罰により、他国に侵略され、飢饉等の自然災害に遭い、ついには他国に捕囚されました。

 

しかし、聖書は神の民は主なる神に不忠実であったが、主なる神の民に対するヘセド、不変の愛は変わらなかったことを証ししています。

 

主なる神はカナンに定住した神の民が御自身を捨てて、偶像礼拝の悪を行うと、他国の民を用いて彼らを支配させ、罰せられますが、恵みの契約を覚えて、士師、すなわち、神の民の救世主を送って、彼らを救われました。また、ダビデを始め、王を立てて、彼らを守られました。

 

そして、神の民がなおも主なる神を捨て、他国の神々を偶像礼拝し、悪を行なうゆえに、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、神の民たちは捕囚され、南ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされ、エルサレムの都と神殿は破壊され、神の民たちはバビロニア帝国に捕囚されました。

 

しかし、主なる神の、神の民イスラエルに対するヘセド、不変の愛は変わりませんでした。主なる神はペルシア帝国の王クロスによってバビロニア帝国の捕囚の神の民を解放され、エルサレム神殿と都の城壁を再建、修復させられました。そして、主なる神は、神の民イスラエルと再びエルサレムの第二神殿の礼拝を通して交わりを回復されました。

 

このように選民イスラエルは、主なる神の不変の愛によってこの世に存在し続けて来たのです。

 

主なる神の「まこと」とは、ヘブライ語のエメトです。真実、真理、誠実のことです。偶像は偽りであり、主なる神は永遠に真実です。それゆえに神の民イスラエルが恵みの契約に対して不忠実でも、主なる神は誠実であります。

 

だから、詩人は、主なる神のまことが永遠であると賛美します。

 

詩人は2節で「わたしたちを超えて力強い。」と賛美していますね。岩波書店の旧約聖書翻訳委員会訳では、こう訳しています。「まことにかれの恵みはわれらを圧倒し、ヤハウェの真実(まこと)はとこしえに。」。

 

詩編117編は、歴史的背景がありません。いつの時代であるか、その手掛かりは、この詩人が全世界の民に向けて、すなわち、万国民に向けて主なる神を賛美するように促している点です。

 

選民イスラエルだけではなく、全世界の民が主なる神を礼拝する幻を、この詩人は描いています。

 

 どうして詩人は、主なる神が神の民イスラエルに示された不変の愛と真実のゆえに全世界の民を主なる神への賛美に招こうとしているのでしょうか。

 

 それは、主なる神こそが唯一の神であり、真実だからです。他の神々は偶像であり、偽りであるからです。

 

 神の民イスラエルを通して、主なる神は唯一のまことの神として、彼らに不変の愛をこの世界の中で圧倒的な力として示されました。出エジプトの出来事を、バビロン捕囚からの解放を、詩人は思い巡らせているでしょう。主なる神は唯一の神として、神の民の不誠実に対して、偶像の偽りに対して、不変の愛と真理をとこしえに示されています。

 

 そして、主なる神のヘセド、不変の愛とまことが、今や主イエス・キリストの十字架を通して実現しているのです。

 

 なぜなら、恵みの契約は、選民イスラエルを通して、世界の諸国民に神の祝福が及ぶものであるからです。主なる神は神の御子主イエス・キリストの受肉と十字架と復活の御業を通して、圧倒的な恵みを、この世界と歴史の中に現わされました。

 

 主なる神は、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」という約束を、主イエス・キリストの受肉によって、「神我らと共にいます」という圧倒的な恵みを示されました。

 

 そして、我らと共にいます神、主イエス・キリストは、人として、神の律法を守れず、滅び行く者に代わって、十字架の死に至るまで父なる神に従順に従われて、義を得、そして、彼らの身代わりの罪の刑罰を御自身の身に受けられました。

 

 この神の圧倒的な恵みによって、罪に滅ぶべきわたしたちが、主イエスを救い主と信じて、主イエスが得られた義をいただき、そしてわたしたちの罪は主イエスが十字架に負われたのです。

 

 こうしてわたしたちは、主なる神の不変の愛によって、憐れみによって罪と死から救われ、永遠の命を与えられたのです。

 

 このように主なる神のヘセドとエメトが永遠であることが、神の民の不誠実と弱さにもかかわらず、そしてわたしたちキリスト者の不誠実と弱さにもかかわらず、勝ち得てあまりある圧倒的な恵みの御力なのです。

 

 主イエスのヘセドとエメトがとこしえに絶えないものであるゆえに、わたしたちは主イエスの受肉と十字架と復活にわたしたちの救いを確信することが許されています。

 

 旧約の民も新約のわたしたちも、この詩人の呼びかけに答えて主なる神を、主日礼拝ごとに賛美しましょう。

 

使徒パウロもローマの信徒への手紙第1511節で詩編1171節を引用して、こう言っています。「異邦人が神をその憐れみゆえにたたえるようになるためです。」「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ。」そして、パウロは、こう結んでいます。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」(ローマ15:13)

 

 わたしたちは、主日礼拝を小さな群れで守っていますが、わたしたちが主なる神を賛美しますとき、わたしたちの教会は世界の教会の神賛美と一つとなり、主イエス・キリストの救いの御業を褒め称え、神の恵みの圧倒的な勝利の中にいるのです。

 

 お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編117編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

小さな詩編の中に主なる神の圧倒的な恵みが隠され、わたしたちの思いを超えた神の救いの御業を見聞きさせていただき、心から感謝します。

コロナウイルスと夏の猛暑の中、体調を損ねて礼拝を休まれる方ががいますが、主に守られて、今朝の詩編の御言葉を通して、主なる神の恵みの圧倒的な御力を、今信仰体験できたことをうれしく思います。

 

小さな群れですが、大きな声で主なる神を賛美させてください。今わたしたちだけではなく、世界中の教会が主イエス・キリストの圧倒的な恵みを覚えて、わたしたちと共に神賛美をしています。

 

教会とキリスト者が主なる神のヘセドエメトゆえにこの世において神の恵みの勝利の中にあることを、喜びをもって覚えさせてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教118               主の2020年9月27

恵み深い主に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。感謝せよ、主に。まことに

イスラエルは言え。 慈しみはとこしえに。永遠に彼の慈しみは。さあイスラ

アロンの家は言え。 慈しみはとこしえに。エルは言うように、まことに永遠

主を畏れる人は言え。  慈しみはとこしえに。に彼の慈しみは。さあアロン

家は言うように、まことに永遠に彼の慈しみは。

苦難のはざまから主を呼び求めると さあ言うように、主を畏れる者は、まこと

主は答えてわたしを解き放たれた。に永遠に彼の慈しみは。苦難の中からわた

主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。しは主を呼んだ。わたしに答えた、

人間がわたしに何をなしえよう。広い所で主は。主がわたしに、わたしは恐れ

主はわたしの味方、助けとなって ない。何を行うわたしに、人は。主がわた

わたしを憎む者らを支配させてくださる。しに、わたしを助ける者たちの中に

人間に頼らず、主を避けどころとしよう。だからわたしは、わたしは見るわた

しを憎む者たちを。良い、主の中に

国々はこぞってわたしを包囲するが 逃げ込むことは、人に頼るよりも。すべ

主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。ての国々はわたしを囲んだ。主

彼らは幾重にも包囲するが の名によって、まことにわたしは彼らを断ち切る。

主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。彼らはわたしを囲んだ。またわ

蜂のようにわたしを包囲するが たしを囲んだ。主の名によって、まことに

茨が燃えるように彼らは燃え尽きる。わたしは彼らを断ち切る。彼らはわたし

主の御名によってわたしは必ず彼らを滅ぼす。を囲んだ、蜂のように。揺らめ

いた茨の火のように。主の名によって、

激しく攻められて倒れそうになったわたしを まことにわたしは彼らを断ち切

主は助けてくださった。る。お前はわたしを押しに押した、わたしを倒すため

主はわたしの砦、わたしの歌。に。しかし、主はわたしを助けた。わたしの力

主はわたしの救いとなってくださった。と賛美、主は。そして彼はわたしのた

御救いを喜び歌う声が主に従う人の天幕に響く。めに救いとなった。歓喜と救

主の右の手は御力を示す。いの声が義人たちの天幕の中に。主の御手は御力を

主の右の手は高く上がり 為す。主の右手は高く上がる。

主の右の手は御力を示す。主の右手は御力を為す。

 

死ぬことなく、生き長らえて わたしは死なない。まことにわたしは生きる。

主の御業を語り伝えよう。そして主の御業を物語ろう。

主はわたしを厳しく懲らしめられたが わたしを懲らしめに懲らしめた主は。

死に渡すことはなさらなかった。しかし、死に、彼はわたしを渡さなかった。

 

正義の城門を開け 開けよ、わたしのために義の門を。

わたしは入って主に感謝しよう。わたしは入ろう、それらの中に。感謝しよう、

これは主の城門 主に。これは主の門。

主に従う人々はここを入る。義人たちはその中に入る。

わたしはあなたに感謝をささげる わたしはあなたに感謝する。

あなたは答え、救いを与えてくださった。まことにあなたはわたしに答え、

わたしのために救いになられた。

家を建てる者の退けた石が 建てる者たちが蔑んだ石が

隅の親石となった。 隅の頭になった。

これは主の御業 主からである、それは。

わたしたちの目には驚くべきこと。それは、わたしたちの目には不思議。

今日こそ主の御業の日。これは今日、主が行なった。

今日を喜び祝い、喜び踊ろう。わたしたちは喜び踊ろう、そして喜ぼう、主に

どうか主よ、わたしたちに救いを。あって。ああ主よ、どうか救い給え。

どうか主よ、わたしたちに栄えを。ああ主よ、どうか繁栄させ給え。

 

祝福あれ、主の御名によって来る人に。祝福されるように、主の御名によって

わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。入る者は。わたしたちは祝福

主こそ神、わたしたちに光をお与えになる方。するあなたたちを、主の家から。

祭壇の角のところまで 主は神、そして彼は照らした、わたしたちを。縛れ、

祭りのいけにえを綱でひいて行け。祭のいけにえを、綱で。祭壇の角まで。

あなたはわたしの神、あなたに感謝をささげる。あなたはわたしの神である。

わたしの神よ、あなたをあがめる。わたしはあなたに感謝する。わたしの神、わたしはあなたをあがめる。

恵み深い主に感謝せよ。  慈しみはとこしえに。感謝せよ、主に。なぜなら良い、まことに永遠に、彼の慈しみは。

                   詩編第118129

 

説教題:「恵み深い主に感謝せよ」

 

今朝は、詩編第118129節の御言葉を学びましょう。

 

イングリシュバイブルは、1節と29節を、次のように英訳しています。「主に感謝することは善いことです。なぜかというと、彼の愛は永遠に続くから」。

 

1921節で詩人が歌っているように、主に従う神の民たちがエルサレム神殿で主なる神に感謝することは、善いことである、と詩人は賛美します。その理由は、主の慈しみが永遠に続くからです。

 

詩編118編は、神の民が過越の祭の時に賛美した詩編113編からのハレルヤ詩編の最後のものであります。

 

この詩編は礼拝用の詩編として用いられました。とても洗練された、整えられたものです。1節と29節の御言葉がこの詩編全体を取り囲み、主なる神への感謝の賛美が歌われています。

 

詩人は、神の民に呼びかけています。エルサレム神殿で主なる神に感謝することは、善いことであると。高らかに呼びかけています。その理由は、神殿の礼拝こそが神の慈しみ、すなわち、神の愛がまことに永遠に続くからです。

 

詩人が主なる神に「感謝せよ」と呼びかけるのは、2節の神の民、イスラエル、3節のアロンの家である神殿の祭司たち、そして4節の「主を畏れる人」である異邦人たちです。

 

神殿で礼拝を司る祭司が「恵み深い主に感謝せよ」と神殿に集まりました神の民全体に呼びかけます。すると、神の民全体、すなわち、会衆が「慈しみはとこしえに」と答えるのです。

 

これは、礼拝の交読文です。14節と29節の前半を祭司が読み、後半を会衆が読んだのでしょう。

 

紀元前515年にゼルバベルと大祭司ヨシュアの指導の下、バビロン捕囚から帰還した神の民たちは、かつてのソロモン王が建立したエルサレム神殿のところに第二神殿を建て上げました。

 

それから60年後の紀元前445年に総督ネヘミヤがエルサレムに帰還し、エルサレムの都の城壁を修復しました。

 

おそらくこの詩編は、バビロン捕囚からの解放と神殿とエルサレムの都の再建という背景の中で作られたと思います。

 

この詩編は、二つの内容から成り立っています。518節と1928節です。

 

518節で、主なる神に救われた「わたし」、すまわち、神の民イスラエルの体験を、詩人が報告しています。

 

1928節で、祭司と会衆の代表者が交唱しています。主なる神が神の民を救われたという彼らの救いの経験に基づいて、神の民たちの主なる神への感謝を、礼拝という形でなしています。

 

5節の「苦難のはざまから主を呼び求めると 主は答えてわたしを解き放たれた。」という御言葉は、出エジプト記の22325節の御言葉が思い起こされます。詩人は、出エジプトの事件を思い起こし、讃美しています。

 

詩人の先祖たちは、エジプトで奴隷生活を体験しました。彼らは、重い労働のゆえに主なる神に向けて呻き、叫びました。主なる神は彼らの助け求める声を聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされました。そして主なる神は彼らのところに訪れられ、モーセを通して彼らを奴隷状態から解放されました。

 

詩人は、自分たちのバビロン捕囚からの解放を、出エジプトの先祖たちの信仰体験に重ねているのです。

 

詩人は、バビロンでの苦難の中から彼らが助けを叫び求めると、主なる神が答えてくださったと言っています。

 

主なる神は、ペルシャ帝国のクロス王を起こして、神の民イスラエルをバビロンから解放されました(紀元前539)

 

出エジプトした神の民たちが主なる神とモーセを信頼したように(出エジプト記14:31)6節で詩人は主なる神を信頼すると、告白します。

 

主なる神は出エジプトした神の民の味方になられました。だから、エジプトの王もエジプトの軍隊も何もできませんでした。彼らは、紅海の海に沈み滅んでしまいました(出エジプト記15:121)

 

同じように主なる神は、バビロンからエルサレムに帰還した神の民イスラエルの味方です。だから、周りの諸国の敵たちが神の民に何もできません。

 

7節後半の「わたしを憎む者らを支配させてくださる」は、意訳です。文字通りには、「わたしは敵を見る」です。イングリシュバイブルは、7節を次のように英訳しています。「主はわたしの味方、わたしの助け手、そしてわたしはわたしの敵たちを満足して眺めるだろう」。

 

だから、89節で詩人は、主なる神の救いに対する神の民の応答として、主を頼り、主を避けどころとし、人や王を頼らないと言うのです。

 

詩人、すなわち、神の民たちは、出エジプトとバビロン捕囚からの主なる神の救いという体験を通して、次のことを学びました。主なる神を信頼することこそが、この世のあらゆる困難や敵に打ち勝つ勝利であると。

 

1016節で詩人は、再び苦難からの主なる神の救いを報告しています。そして続いて詩人は神の民たちの喜びの声を、15節で伝えています。

 

この事件は、南ユダ王国のヒゼキヤ王の時代に起こったことです(列王記下18:1337)。ヒゼキヤ王がアッシリア帝国に反旗を翻し、アッシリア帝国がエルサレムの都を包囲しました。ヒゼキヤ王は、主なる神のみに信頼を寄せました。

 

アッシリア帝国の軍隊が蜂のように大勢で群れをなし、エルサレムの都を攻撃に攻撃を加えました。主なる神はヒゼキヤ王と神の民たちを助けられました。主なる神はアッシリア帝国の軍隊を一夜にして185000人打たれました。

 

救われた神の民たちは歓喜しました。このように主なる神は、常に神の民たちに御自身の右の手の御力を、神御自身の御力をお示しになりました。

 

同様に主なる神は、バビロニア帝国のネブカドネツアル王を道具に用いられ、神殿と都を破壊し、多くの神の民たちの命を奪われました。しかし、主なる神は、神の民を憐れみ、残りの者を取って置かれました。神の民を懲らしめに懲らしめられましたが、滅ぼし尽くされませんでした。主なる神は、バビロン捕囚で神の民を残して置かれました。

 

詩人は、神の民が苦難を通して神の慈しみを知りました。17節で詩人は、次のことの意味を理解しました。神の民たちがバビロンの地で死ぬことなく、生き長らえて、再びエルサレムの都に帰還できたことです。主なる神の慈しみに裏打ちされた神の民への刑罰であったと。

 

だから、神の民たちと詩人は生きなければなりません。どんなにこの世が過酷で苦難に満ちていようと、生き長らえなくてはなりません。どんなに主なる神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約に忠実で、神の民をまことに永遠に慈しまれていることを、後の世代に伝えるためです。その中心がエルサレム神殿での礼拝なのです。そこで主なる神に感謝することなのです。

 

そこで詩人は、1925節で神の民の代表者の言葉を語っています。

 

神の民の代表者が19節で「正義の城門を開け わたしは入って主に感謝しよう」と、おそらく神殿の祭司に呼びかけているのでしょう。

 

「正義」とは、義、すなわち、主なる神の救いです。主なる神の救いの門を開けよと、神の民の代表者が祭司に呼びかけています。

 

わたし(神の民イスラエル)は神殿の義の門から内庭、すなわち、神の民が主なる神を礼拝するところに入って、主なる神に感謝の献げ物を供えて、礼拝しようとしているのです。

 

主イエスが次のように言われていますね。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす人は少ない。」(マタイ7:1314)

 

どのように主イエスの御言葉とこの詩人の言葉が結びつくのでしょうか。命に至る門は一つしかありません。

 

それは狭い門です。主に従う人しか入れないからです。

 

よくいろんな宗教があることを、山の登山にたとえる人がいます。登リ口は違っていても、山の頂上は一つだというたとえで、宗教は違っていても、行き着く神さまは同じだと言うのです。

 

ところが、聖書と主イエスは、永遠の命に至る門、すなわち、入口は一つであり、門を間違えれば、命に至らず、滅びに至ると言います。

 

なぜなら、聖書の神は隠れた神ではありません。神は御自身を主なる神として、神の民に顕されました。そして、わたしたちには、イエス・キリストとして顕されました。

 

だから、詩人は、永遠の命に至る門は、主に従う人が入るエルサレム神殿の義の門だと言います。主なる神に感謝し、主なる神を崇めて礼拝する門に入る者だけが、永遠の神の愛に、神の命に満たされるのです。そこでこそ神に救われた喜びがあるのです。

 

主イエスの言われる「狭き門」も、主イエスに従う人が入る門です。教会の門に入り、主イエスを礼拝し、主イエスに救われたことを感謝し、主イエスのみがわたしの救い主だと公に告白するのです。

 

だから、詩人が17節で「主の御業を語り伝えよう」と歌っているのは、具体的にいうと、旧約の神の民たちはエルサレム神殿で礼拝することであり、新約のキリスト者たちは教会で毎週日曜日に礼拝することです。

 

ですから、詩人は、彼自身が神の民の代表として、エルサレム神殿の義の門を通り、神殿の中庭で主なる神に感謝の犠牲を献げて、主なる神を崇めて、礼拝することこそ救いであると言っているのです。

 

さて、神の民の代表は、21節で主なる神の救いに対して感謝を意思表示しています。そして2225節で彼は主なる神の御救いの御業を報告しています。

 

有名な隅の親石のたとえです。エルサレム神殿の礎です。土台のことです。神殿を建築する時に、建てる者たちがこの石は不要であると言って、棄てたのです。ところがその石は神殿の門を支える要石だったのです。

 

ここでは、詩人は、一度主なる神に捨てられた神の民イスラエルのことをたとえているのです。今や神の民イスラエルは第二神殿を中心とする共同体の礎となっているのです。

 

そして、主イエスが、この御言葉を御自身に当てはめておられます。マルコによる福音書12章で主イエスは、神殿の境内で祭司長や律法学者、長老たちにぶどう園と農夫のたとえ話をされました。ぶどう畑で働く農夫たちが主人の遣わした僕たちを殺し、主人の跡継ぎの子どもも殺して、ぶどう園を奪いました。そして主イエスは、彼らに主人は農夫たちをどうするかと尋ねられました。そして御自分でお答えになり、主人は農夫たちを殺して、別の農夫たちにぶどう園を任せるだろうと言われました。そして、主イエスは彼らに今朝の詩編118編の2223節の御言葉を読んだことがないのかと尋ねられました。

 

主イエス・キリストは捨てられ、ゴルゴタの丘の上で十字架刑によって死なれ、墓に葬られました。ところが、主なる神は主イエス・キリストを墓の中から復活させられ、キリスト教会の礎とされました。

 

キリストとそのキリストの福音が教会の土台であり、預言者と使徒たちも教会の土台であると言われます。

 

旧約の時代では、神の民イスラエルが捨てられ、バビロンへと捕囚されました。諸国の民は彼らを嘲りました。しかし、主なる神は、彼らを再びエルサレムに帰還させられました。そして彼らによってエルサレム神殿を再建させ、エルサレムの都の城壁を修復させて、ユダヤ教共同体の礎とされました。

 

神の民のバビロン捕囚からの解放と神殿の再建、エルサレムの城壁の修理とユダヤ教を中心とする神の民の共同体の形成は、まさに主なる神の驚くべき御業でありました。

 

誰が思ったでしょうか。バビロニア帝国に徹底的に神殿と都を破壊され、神の民がバビロンに捕囚されたのに、彼らが再びエルサレムに帰還し、神殿を再建し、都の城壁を修理し、主なる神を礼拝する共同体を再建するとは。

 

しかし、主なる神の救いの御業によって、世界の諸国民がエルサレム神殿の礼拝を通して命に至る礎が据えられたのです。

 

こうして主イエス・キリストが来られるまで、エルサレム神殿の礼拝を通して、あるいはシナゴグの会堂を通して主なる神を信じる人々が主なる神に感謝し、主なる神を崇めて、礼拝することを通して、主なる神の救いと命が与えられたのです。

 

そして、神の御国の福音がユダヤ民族からキリスト教会に移されます。

 

その事件が主イエス・キリストの十字架の死と復活であります。

 

主イエス・キリストは、ユダヤ人たちに見捨てられ、ゴルゴタの十字架刑で殺され、墓に葬られました。しかし、主なる神は彼を三日目に復活させられました。主イエス・キリストは死に勝利し、復活し、キリスト教会の礎となられました。

 

主なる神は、まことに信じられない奇跡をなさいます。本当にわたしたちの目には信じられない、驚くべきことです。

 

詩人にとって、神の民イスラエルにとって、土曜日の安息日は「今日こそ主の御業の日」です。主なる神は、諸国から神の民をエルサレムの神殿に招かれます。そして主に従う人々は神殿で主なる神に感謝をし、動物犠牲を献げ、主なる神を礼拝します。それを通して、主に従う人々は、まさに自分たちが主なる神に救われた喜びを、主なる神の命の恵みに生きている喜びを賛美したのです。

 

同じことがわたしたちのこの教会の礼拝において起こっているのです。主なる神、わたしたちの父なる神は、主イエスを死者の中から復活させ、わたしたちの主イエス・キリストとしてくださいました。

 

教会は、毎週の日曜日に礼拝をし、主イエス・キリストとその福音を人々に伝えております。

 

誰がキリストの十字架の死がわたしの罪のためであったと信じたでしょうか。誰が主イエス・キリストはわたしたちの永遠の命の保証として復活させられたと信じたでしょうか。

 

この教会で今主イエス・キリストを礼拝していること、主イエス・キリストの福音を聞いていること、そしてわたしたちが主イエス・キリストの救いを信じて、主イエスを救い主として信頼し、今ここで主イエス・キリストに感謝し、主イエスを・キリストをわたしたちの神と崇めていること、何よりもわたしたち罪人が今神の御前で義人とされていること、その喜びにわたしたちの心が躍ることは、まさに神の奇跡の御業であるのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編118編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

わたしたちの思いを超えた主なる神の救いの御業を今朝もこの礼拝で見聞きさせていただき、心から感謝します。

 

今朝で9月の最後の主日礼拝となりました。コロナウイルスと夏の猛暑に守られ、今朝の詩編の御言葉を通して、主なる神の永遠の慈しみを見聞きさせていただき、うれしく思います。

 

小さな群れですが、この上諏訪湖畔教会を、主なる神がお守り支えてくださりありがとうございます。

 

この教会がある限り、ここで主イエスに感謝し、礼拝する者がいる限り、そしてこの教会で主イエス・キリストとその福音が語り続けられる限り、今ここに主なる神の御救と永遠の慈しみがあることを、今朝の御言葉によって確信させてください。

 

礼拝できることが主なる神の奇跡です。キリストの十字架によってわたしたちの罪が赦され、キリストの復活によってわたしたちに永遠の命が保証されていることを、この礼拝で確信させられる度に、どうか、わたしたちが救われたことだけではなく、もっと多くの方々が主イエス・キリストの御救いに与れるように祈り、救われた喜びを、多くの人々に伝えるために、わたしたちに勇気をください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

詩編説教119-1          主の20201025

いかに幸いなことでしょう 幸いだ

まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。完全な道、主の律法を歩む者たちは。

いかに幸いなことでしょう 幸いだ

主の定めを守り 彼の定めを守る者たちは。

心を尽くしてそれを尋ね求める人は。 心を尽くして彼を求める。

彼らは決して不正を行わず  事実彼らは不正を行わず

主の道を歩みます。彼の道を歩く。

あなたは仰せになりました あなたは命じた、

あなたの命令を固く守るように、と。あなたの指図を、固く守るように。

わたしの道が確かになることを願います どうかわたしの道が堅固であって、

あなたの掟を守るために。 あなたの掟を守れるように。

そうなれば、あなたのどの戒めに照らしても その時わたしは恥じない。

恥じ入ることがないでしょう。あなたのすべての戒めを、わたしが目にしても。

あなたの正しい裁きを学び わたしはあなたに感謝する、真っすぐな心で。

まっすぐな心であなたに感謝します。わたしがあなたの義の裁きを学ぶ時に。

あなたの掟を守ります。あなたの掟を、わたしは守るでしょう。

どうか、お見捨てにならないでください。わたしを決して見捨てないで下さい。 

                   詩編第11918

 

説教題:「いかに幸いなことでしょう」

本日は、宗教改革記念礼拝を守り、共に御言葉と聖餐の恵みに与り、宗教改革の恵みを覚えて、主に感謝し、主を誉め称えましょう。

 

今朝から、詩編第119編をヘブライ語のアルファベット22文字に従って、8節ずつ学びます。

 

詩編の中で一番長い詩です。また最も巧みな言葉と構成で表現された詩です。

 

神の啓示は、モーセ五書、すなわち、旧約聖書の最初の五つの書、「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」においては通常「律法」と訳されています。

 

しかし、神の啓示を意味するヘブライ語は「律法」だけではありません。神の啓示を意味する8つの同義語があります。同じヘブライ語の中に発音は違うのですが、意味が同じヘブライ語が8つあります。

 

「教え(律法)」「ことば」「仰せ(命令)」「掟」「法」「定め」「諭し」「指図(示し)」です。

 

詩人は、その8つの類義語を、8節ずつのアルファベット順の詩の中に「あなたの・・・」という形で入れているのです。しかし、今日伝えられた詩編119編には入っていない段落もあります。

 

この119編をアルファベット順に8節ずつ学びます。各段落の間に意味や関連、あるいは展開は見られません。我が国のいろは歌かるたのように一種の格言集、教訓詩と考えられます。

 

また詩編119編には、「守る(護る)」「教える」「忘れない」等の律法に対する態度を表わす言葉が頻繁に8つの類義語と一緒に使われています。

 

詩人は、バビロン捕囚期、あるいはエルサレムへの帰還後に活躍したと考えられています。

 

表題はありません。注解書には、様々な表題がつけられています。「おきて」「律法の不思議なみ業」「わたしの心にあなたの言葉を」「神の教えは、命の源」等々です。

 

「おきて」という表題があるように、この詩編119編は神の律法の問題だけを扱っています。

 

しかもこの詩編119編は、詩人の信仰体験に裏打ちされた詩です。神の律法を、この詩人は誰から、どこで、どのような態度で、何をテキストにして学び、実践したのか、彼の信仰とその人生を歌っているのです。

 

詩人は、神の僕です。祈りの人です。119編は詩人の祈りです。彼が学ぶのは神です。神が彼の教師です(3339)。神の創造が、彼が学ぶ教室です(73節、8991)。生徒は「あなたの僕」です(17節、23節他)。学ぶテキストは「あなたの律法」です(97100)。詩人が神の律法を学ぶのは、知識を得るためではありません。神の律法に従って歩むという彼の生き方にあります(917)

 

以上がこの詩を学ぶために益となるものです。彼の信仰と彼が神の律法を人生の羅針盤にして、どのように彼は神の律法を通して、神の僕として生きようとしているかを、この詩編119編から学べるでしょう。

 

神の律法は、神の御言葉です。わたしたちキリスト者が唯一の権威として、信仰と生活の規範としている聖書です。

 

聖書の神の御言葉こそがわたしたちを神に、キリストに向けさせる力です。

 

この詩人にとっては神の律法を学ぶことが喜びであり楽しみです。キリスト者であるわたしたちも聖書を学ぶことが喜びであり、楽しみです。

 

詩編119編の詩人は、礼拝を通して神の御言葉である聖書を学ぶわたしたちの模範であるのです。なぜなら、彼は、わたしたちに人が神の律法に従って歩むべき信仰の道を伝えようとしているからです。

 

それは、幸いの道です。神の祝福の道です。

 

詩編全体が神の律法に従って歩むべき幸いなる信仰の道を教えようとしています。だから、詩編第1編で詩人は「いかに幸いなことか」と賛美するのです。詩人は「主の教え」、すなわち、神の律法を愛する者の幸いを賛美します。神の律法を毎日口ずさむ者の幸いを賛美します。神の律法に従って生きる者にのみ神の祝福があるからです。

 

主なる神が永遠であるように、神の律法もとこしえに続くのです。そして神の民を、主なる神に向けさせ、永遠の命を与えるものです。

 

聖書の神の御言葉も永遠に続きます。そしてわたしたちを主イエス・キリストに向けさせ、キリストの命を与えてくれるのです。

 

だから、詩人は、13節で次のように神の律法に従って歩む者の祝福を祈っているのです。「どうか神の律法に従って神の道を踏み外さない者に神の祝福をお与えください」と。

 

「どうか神の律法を守り、心を尽くして神を求め続ける者に、神の祝福をお与えください」と。

 

「どうか、義人の道を歩む者に、神の祝福を与えてください」と。

 

4節と5節で詩人は、こう歌っています。「あなたは仰せになりました あなたの命令を固く守るように、と。わたしの道が確かになることを願います あなたの掟を守るために。」

 

詩人は、主の道に生きることを、信仰の道を願っています。その願いを実現するために、詩人は自らに依り頼むことを捨てているのです。自力で生きるのではなく、主なる神に寄り頼むのです。彼は、神の御前に義人として生きるために、神の律法を、神の御言葉を求め続けているのです。

 

それは礼拝人生、神中心の人生を生きるということです。

 

それこそが、詩人から恥を取り去ると、6節でこう言うのです。「そうなれば、あなたのどの戒めに照らしても 恥じ入ることがないでしょう。」

 

詩人は苦難の人です。貧しい人です。だから、富める者から、権力者たちから迫害された義人なのです。バビロン捕囚から解放され、エルサレムの都に帰還した神の民たちは、異邦人たちの支配の中に置かれました。富める者たちは、異邦人の支配者たちと手を組み、同胞の貧しい者たちを搾取したのです。また、彼らは神の律法を捨て、異教の民と結婚しました。

 

詩人は、富める者たちに迫害されても、神の律法を守り、神に従って歩もうとしたのです。だから、詩人はどんな苦難の中でも、主に恥じることはないと歌うのです。

 

そして詩人は、78節でこう賛美します。「あなたの正しい裁きを学び まっすぐな心であなたに感謝します。あなたの掟を守ります。どうか、お見捨てにならないでください」。

 

詩人は、礼拝において主なる神の正しい裁きを学び、主に感謝すると歌っています。

 

そして、主なる神に身を寄せて、神の律法に従って歩む義人を、わたしをお見捨てにならないで下さいと祈っているのです。

 

詩編119編の詩人は、苦難の神の僕です。貧しい人です。祈りの人です。それは、まさに主イエス・キリストの姿に似ていないでしょうか。

 

神の律法に従って歩んだ義人が主なる神に「わたしを見捨てないでください」と祈る姿は、十字架の主イエスを思いこさないでしょうか。使徒パウロが賛美していますように、十字架の主イエスは死に至るまで父なる神の従順に従われました。

 

119編の詩人は、143節で「苦難と苦悩がわたしにふりかかりますが あなたの戒めはわたしの楽しみです。」と賛美しています。

 

ある旧約学者は、「これは人間の心理としては不可能である」と言っています。しかし、十字架の主イエスはまさにその境地だったのではないでしょか。

 

今朝からこの長い詩編を学びます。どうかこの詩人を通して十字架の主イエスに出会ってください。この詩編を通して十字架の主イエスの招きに与ってください。

 

終りに今朝の宗教改革記念礼拝を覚えましょう。

 

この詩編の詩人と同じく、宗教改革者たちは苦難の神の僕でした。祈りの人でした。貧しい人でした。

 

聖書のみが彼らが寄り頼む権威でした。だから、彼らはこの詩人のように、聖書を通して語られる神にのみ従おうとしました。

 

ローマカトリック教会の権威もローマ法王の権威も認めませんでした。キリストのみの命令に従ったのです。

 

この詩人は神に従った義人の道に生きるために、神の律法に寄り頼みました。彼は毎日律法の神の言葉口ずさみました。それが彼を主なる神に向けさせ、彼に命を得させ、彼の義の道、神に従って生きることを確かなものにしました。

 

宗教改革者たちも信仰義認に生きるために、聖書に、聖書が証しするキリストに寄り頼みました。彼らは自分たちが罪人であると自覚していました。彼らの生涯が、ルターが言うように悔い改めの毎日でした。しかし、聖書が証しするキリストが罪人の彼らを義とされるだけでなく、聖霊によってキリストに従う道を、信仰の道を歩ませてくださったのです。

 

宗教改革者ルターは、宗教改革が広まり、急進的な改革者が現れ、町と教会が混乱した時、国家権力によって命の保証を得られなくなっており、身を隠していました。しかし、彼は、身の危険を冒して、混乱した町と教会に戻りました。そして、彼が始めたのは説教でした。彼は、聖書の御言葉を説き明かし、群衆たちをキリストへと向けさせました。神の御言葉が民たちにキリストへと向けさせ、人に動かされるのではなく、神の御言葉に動かされることが正しいと理解したのです。

 

この詩人のように、宗教改革者たちが信仰義認に生き続けるために、自分たちの内に力を求めるのではなく、神の律法、すなわち聖書の御言葉に、その証しである説教の神の御言葉に求めたのです。

 

そして、彼らが礼拝で語り、民衆たちが聞き続けた神の御言葉によって教会だけでなく世界が変革されました。

 

それから500年以上経ち、今世界はコロナウイルスの災禍の中で世界も教会も混乱しています。しかし、詩編119編の詩人と宗教改革者たちが今のわたしたちに伝えるメッセージは、神の律法、聖書の御言葉だけがわたしたちが聞き従うべき唯一の権威であるということです。

 

神の御言葉だけがわたしたちを主イエス・キリストに向けしめ、わたしたちを信仰の道を固く確実なものとしてくれるのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編119編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

今朝は宗教改革記念礼拝を守り、共に聖餐の恵みに与れることを感謝します。

 

また今朝の礼拝から月一度詩編119編の御言葉を学べる事を感謝します。

 

詩編119編の詩人の生き方を通して、主イエスの受難の道を、宗教改革者たちの信仰に、思いをはせることができて感謝します。

 

今コロナウイルスの災禍の中で教会も世界も混乱しています。どうか宗教改革者たちのように、聖書の神の御言葉に堅く立ち、信仰と礼拝を続けさせてください。

 

今年は諏訪地方で宗教改革を覚えて、プロテスタント諸教会が集まることができませんが、それぞれの教会で宗教改革を覚えて礼拝がなされていると思います。祝福してください。

 

改革派教会においても宗教改革記念礼拝がなされ、聖餐がなされている教会があると思います。どうか祝福してください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教119-2             主の20201122

どのようにして、若者は  何によって清く保てるでしょう。

歩む道を清めるべきでしょうか。 若者は、彼の道を。

あなたの御言葉どおりに道を保つことです。守ること,あなたの御言葉に従って

心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。 わたしの心の全てでわたしは

あなたの戒めから あなたを尋ね求めます。わたしを迷わせないでください。

迷い出ることのないようにしてください。 あなたの命令から。

わたしは仰せを心に納めています。わたしは心の中に蓄えます。あなたの

あなたに対して過ちを犯すことがないように。 御言葉を。わたしが罪

主よ、あなたをたたえます。 を犯さないために、あなたに対して。ほむべき、

あなたの掟を教えてください。あなた、主よ。わたしに教えてください。

あなたの口から与えられた裁きを あなたの掟を。わたしの唇で物語る。

わたしの唇がひとつひとつ物語りますように。あなたの口の裁きすべてを。

どのような財宝よりも あなたの証しの道をわたしは喜びます。すべての

あなたの定めに従う道を喜びとしますように。 財宝にまさって。

わたしはあなたの命令に心を砕き あなたの命令を、わたしは思い巡らし、

あなたの道に目を注ぎます。 わたしは見つめたい、あなたの道を。

わたしはあなたの掟を楽しみとし あなたの定めを、わたしは楽しみましょう。 

御言葉を決して忘れません。 わたしは忘れないでしょう、あなたの御言葉を。

                   詩編第119916

 

説教題:「神の御言葉を楽しむ」

先月から詩編第119編を学び始めました。

 

前回お話ししました。詩編119編はアルファベットの詩です。8節ずつアルファベット順に、ヘブライ語22文字に従って歌われています。8掛ける22文字で、176節の大変長い詩編です。

 

アルファベットに従ってヘブライ語の22文字の順に、8節ずつ学びたいと思っています。

 

詩編119編の詩人がこのように8節ずつにしたのは、前回お話ししました。「律法」を表わす8つの言葉を各節に一つずつ入れるためです。

 

それは、「律法」、「法」、「言葉」、「掟」、「命令」、「定め」、「指図」、「仰せ」です。それに「あなたの」あるいは「彼の」という、主なる神を表わす代名詞が付されています。

 

原則は8節にこの8つの言葉を使うことです。しかし、8節にこの8つの言葉がすべて使われているのは、アルファベット文字の5つだけです。他は、同じ言葉が反復されています。

 

前回は、ヘブライ語の22文字のアルファベットの最初、アレフでした。今朝は二番目のベトです。

 

さて、119編の詩人は、神の僕です。祈りの人です。彼にとって、主なる神がシナイ山でモーセを通して神の民にお与えくださった神の律法は、知恵の源泉であり、人を祝福する主なる神の羅針盤です。だから、詩人は神の律法を通して、神の僕として生きようとしているのです。

 

まさにこの詩編は、実践的教訓詩と言えます。彼だけではなく、共に神の民たちにも、神の律法に従って生涯を生きてほしいと願っています。

 

どのようにすれば、その生涯を神の律法に従って歩めるのか。まさにそれは義人の道です。義人は、その人が正しいという意味ではありません。主なる神と常に関係して生きている人です。

 

詩編119編の詩人は、どうしたら人は主なる神の御前に正しくあり得るのかと問い続けているのです。

 

主なる神の御前で正しい者であり続けるために、彼が寄り頼むものは彼自身ではありません。主なる神に寄り頼むのです。もっと正確に言いますと、主なる神が神の民に賜った神の律法に信頼を寄せているのです。

 

この詩人の姿勢は、わたしたちキリスト者にとって模範です。わたしたちも主イエス・キリストに服従して生涯を生きたいと思っています。その道こそがキリスト者にとって幸いの道です。

 

その道に生きる規準、規範がわたしたちキリスト者は聖書です。詩人は神の律法から教えられ、学ぶように、わたしたちは聖書から教えられ、学びます。

 

詩人はエルサレム神殿の礼拝を通して、神の律法を学びました。わたしたちは、この主日礼拝を通して聖書を学んでいます。

 

そこから引き出されることは、詩人とわたしたちは共に主イエス・キリストから幸いな生き方を学んでいるのです。

 

言い過ぎになるかもしれませんが、神の律法の言葉は主イエス・キリストであり、聖書は主イエス・キリストを証しするものです。

 

だから、詩人は神の律法の御言葉を学ぶことが喜びであり楽しみだと何度も告白しています。わたしたちも聖書の御言葉を学ぶことが喜びであり、楽しみです。

 

そういうわけで、今朝の説教題を「神の御言葉を楽しむ」と付けました。

 

9節を見てください。で詩人は、こう歌っています。「どのようにして、若者は 歩む道を清めるべきでしょうか。あなたの御言葉どおりに道を保つことです。」

 

この「若者」は、詩人のことです。彼は、自分のことを遜って言っているのです。「何によってわたしは、自分の道を清く保つことができるでしょうか。」

 

自分の道とは、主なる神との関係です。主なる神との関係で、詩人は何によって正しさを保って生きることができるのかと問うているのです。

 

そして、詩人は、自問自答しているわけです。「あなたの御言葉どおりに道を保つことです。」と。

 

「あなたの御言葉」は、律法のことです。神の律法を守り抜くことであると、詩人は答えているのです。

 

主の御言葉である神の律法に従って歩まない限り、詩人は主なる神との正し関係を保って生きることはできないと考えているのです。

 

そこで10節で詩人は、こう歌っているのです。「心を尽くしてわたしはあなたを尋ね求めます。あなたの戒めから 迷い出ることがないようにしてください。」

 

「心を尽くして」は、「わたしの心の全てで」という言葉の意訳です。主なる神との関係を正しく保つために、彼は全身全霊で神の律法を尋ね求めるのです。

 

「あなたの戒め」は、6節に出てきました。「命じる」からの派生名詞で、命令です。戒めは神の命令です。すなわち、神の律法のことです。

 

だから、詩人は主なる神との正しい関係に生きるために、全身全霊で神の律法を研究します。だから、神の律法からわたしを離れさせないでくださいと、主なる神に祈っているのです。

 

詩人が神の律法から離れて、主なる神と正しい関係に生きられないように、わたしたちも聖書を離れて、主イエス・キリストとの正しい関係に生きることはできません。

 

詩人の律法に対する研究熱心は、わたしたちの聖書の学びに対する熱心さに通じているでしょう。

 

さらに詩人は、律法を研究するだけでありません。神の律法の言葉を心に納めて、罪を犯さないと、11節で次のように歌っています。

 

「わたしは仰せを心に納めています。あなたに対して過ちを犯すことがないように。」

 

「仰せ」という言葉は、「言う」からの派生名詞です。これも律法のことです。「心に納めます」は、詩人の心に蓄えることです。神の律法の教えを自分の宝として、詩人は心の中に蓄えていると歌っているのです。

 

神の律法の教えを彼の心に蓄え、宝とすることで、彼は常に主なる神の御心に生きようとし、罪から守られるのです。

 

同じようにわたしたちも聖書の教えを心に蓄えるのです。

 

その効用は、罪から守れるためです。

 

神の律法の教えは、詩人を神賛美に導きました。そして詩人は、主なる神が彼に律法を教えてくださるように祈り求めているのです。

 

12節です。「主よ、あなたをたたえます。あなたの掟を教えてください。」

 

「たたえます、あなた、主」です。「掟」は「刻み付ける」からの派生名詞です。律法のことです。詩人は、主なる神に「あなたの掟をわたしに教えてください」と祈っています。

 

これもわたしたちが聖書を読みます時、説教を聞きます時に、わたしたちが主をほめたたえ、「主よ、御言葉をください。」「主よ、聖書のこの御言葉を教えてください」と祈ることと似ています。

 

詩人もわたしたちも主なる神に教えられなければ、神の律法も聖書も理解できないことを、そしてそれを実行できないことを知っています。

 

詩人にとって神の律法を聞くことは、詩人が人々に神の裁きを伝え、証しする道です。

 

ですから、詩人は13節と14節でこう歌っているのです。「あなたの口から与えられた裁きを わたしの唇がひとつひとつ物語りますように。どのような財宝よりも あなたの定めに従う道を喜びとしますように。」

 

「あなたの口から与えられた裁き」は、文字通りには「あなたの口の法」です。7節の「あなたの正しい裁き」と同じ言葉です。

 

それは、「あなたの義に基づく法」ですので、主なる神の裁きのことです。詩人は、人々に神の律法を語り伝え、人々に神の口から出る裁きを伝えようとしました。そして、彼は、人々に神の律法に従って歩む道を証しすることを喜びとしていたのです。

 

「あなたの掟に従う道」は、文字通りには「あなたの証しの道」です。

 

わたしたちは、詩人のように人々に神の律法を語り伝えてはいません。人々に神の裁きを伝えていません。福音を伝えています。

 

「あなたの口から与えられた裁き」は、キリストの十字架です。わたしたちの罪の身代わりに死なれたキリストを語り伝えているのです。そして、十字架のキリストをわたしたちの主として証ししているのです。

 

詩人がどんな財宝より神の律法が喜びであるように、わたしたちはどんな財宝よりも十字架の主イエス・キリストが宝であります。

 

詩人は常に主なる神の律法を思い巡らすと言っています。そして主なる神の道に目を注いでいます。

 

15節で詩人は、こう歌っています。「わたしはあなたの命令に心を砕き あなたの道に目を注ぎます。」

 

この「命令」は、「指示する」「顧みる」「試す」「罰する」などの意味がある動詞からの派生名詞です。「指図」です。これも律法です。

 

「心を砕き」は思い巡らすことです。「あなたの道」は主なる神を示す道です。これも律法のことです。

 

詩人は、神の律法に思いを巡らし、主なる神を示す道に注目します。わたしたちは、キリストの十字架に思いを巡らし、キリストの受難の道に注目するのです。

 

詩人にとって神の律法を思い巡らすことは、楽しみであり、決して神の律法を忘れることはできませんでした。

 

16節で詩人はこう歌っています。「わたしはあなたの掟を楽しみとし、御言葉を決して忘れません。」

 

未来形です。「わたしはあなたの掟を楽しむだろう。御言葉を決して忘れないだろう。」

 

詩人は神の律法を宝のように大切にし、それを心から楽しもうとする心に溢れています。だから、彼は、決して神の律法を忘れないだろうと歌っているのです。

 

私たちにとっても聖書は宝物です。聖書が証しする主イエス・キリストとの信仰の交わりを、わたしたちは楽しむでしょう。主イエス・キリストを証しする聖書を、わたしたちも決して忘れることはないでしょう。

 

詩人は、この世の富よりも神の律法を重んじて、これを喜び楽しんでいます。神の律法を心から喜び、それに従って生きようとしています。

 

それは、わたしたちが十字架のキリストと共に死に、復活のキリストと共に新しい命に生きることに通じてはいないでしょうか。彼にとって神の律法は、キリストではないでしょうか。彼は、律法を愛し、神の口から出る裁きによって死に、再び神の律法によって生かされているのではないでしょうか。

 

わたしたちは、彼からキリストと共に死に、キリストと共に新しい命に生きる喜びを教えられないでしょうか。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編119編を続けて学べる喜びを感謝します。

 

詩人が心から神の律法を愛し、楽しむように、わたしたちも心から聖書を愛し、楽しむことを得させてください。

 

キリストと共に死に、キリストと共に新しい命に生かされている喜びで満たしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教119-3           主の20201227

あなたの僕のためにお計らいください 報い給え、あなたの僕を。

わたしは命を得て、御言葉を守ります。わたしは生き、守りたい。あなたの言

わたしの目の覆いを払ってください。葉を。わたしの両目の覆いを払い給え。

あなたの律法の驚くべき力に わたしは目を注ぎたい。あなたの律法の中から

わたしは目を注ぎます。 の数々の不思議を。

この地では宿り人にすぎないわたしに わたしはこの地で寄留者です。

あなたの戒めを隠さないでください。 隠さないでください、あなたの戒めを。

あなたの裁きを望み続け わたしの魂は粉々に砕け散ります。

わたしの魂はやつれ果てました。 いつもあなたの裁きを切望して。

呪われるべき傲慢な者をとがめてください 𠮟りつけてください、呪われる高

あなたの戒めから迷い出る者を 慢な者たちを、あなたの戒めから迷い出た者

辱めと侮りをわたしの上から払ってください たちを。覆いを取り給え。わた

あなたの定めを守っているのですから。しの上から辱めと侮りを。まことに

地位ある人々が座に就き あなたの定めを、わたしは守っています。たとえ

わたしのことを謀っていても 高官たちが座に就き、わたしについて語り

あなたの僕は あっても、あなたの僕は

あなたの掟にのみ心を砕いています。 あなたの掟を語るだろう。 

あなたの定めはわたしの楽しみです。 あなたの定めこそわたしの楽しみです。

わたしに良い考えを与えてくれます。 わたしの良き助言の人々。

                   詩編第1191724

 

説教題:「あなたの定めはわたしの楽しみです」

先月から詩編第119編を学び始めました。

 

前回は詩編119916節の「ベト」のアルファベットで始まる詩を学びました。今朝は、第三番目の「ギメル」のアルファベットで始まる1724節の詩を学びましょう。

 

詩編119編を学びます時に、「律法」を表わす8つのヘブライ語の言葉を心の留めてください。

 

それは、「律法(教え)」、「法(裁き)」、「言葉」、「掟」、「命令(戒め)」、「定め」、「指図」、「仰せ」です。

 

1724節においてこの8つの言葉の内、「指図」と「仰せ」という二つの言葉が欠けています。その代わりに「命令」と「定め」という言葉が繰り返し使われています。「命令」は、新共同訳聖書では「戒め」と訳されています。

 

119編の詩人は、神の僕です。ですから自分のことをヘリ下り、17節と23節で「あなたの僕」と告白しています。

 

」は、他者に従って任務を行う者のことです。聖書の場合は、神に従って生きる者のことです。

 

ですから主の僕は、第一に主なる神を信頼し、正しく生きる人々です。旧約聖書ではアブラハム、ヤコブ、モーセ、ダビデ等を思い起こすでしょう。わたしたちキリスト者たちも、この詩人と同じく主の僕です。

 

第二に主の僕は、主なる神より特別の使命を与えられ、遣わされた人です。旧約聖書では祭司、預言者、王です。主の器として用いられたネブカドネツァル王も主の僕です。新約聖書では12使徒たち、使徒パウロ、そしてわたしたちキリスト者たちも主より特別の使命を与えられ、この世に遣わされた主の僕です。

 

詩編119編の詩人は、主なる神を信頼し、神の律法を通して、主の僕として生きているのです。

 

だから、詩人は17節でこう告白するのです。「あなたの僕のためにお計らいください わたしは命を得て、御言葉を守ります。」

 

「お計らいください」は、「報いてください」という言葉です。詩人は、主なる神に恵みを請うているのです。

 

その理由を、詩人は「わたしは命を得て、御言葉を守ります。」と告白しています。詩人は、主なる神の恵みに生かされて、御言葉、すなわち、神の律法を守り抜きたいのですと、告白しているのです。

 

この詩人は、同じ主の僕であるわたしたちキリスト者の模範です。わたしたちもこの詩人と同じように、主イエスを信頼し、聖書の御言葉に従って主の僕の道を歩みたいと願っています。

 

そのためにわたしたちもこの詩人のように、まず神の恵みを請うべきです。神の恵みにわたしたちが生かされて、初めて聖書の御言葉に生きることが可能となるからです。

 

詩人は、18節でこう告白します。「わたしの目の覆いを払ってください。あなたの律法の驚くべき力に わたしは目を注ぎます。」

 

「わたしの目の覆いを払ってください」は、「わたしの目を開いて、よく見せてください」という祈りです。聖霊の照明を求める祈りです。

 

詩人が律法を読む時、彼は聖霊の照明を祈るのです。聖霊が彼の目を開いてくださり、神の律法から出る「驚くべき力」を見させてくださることを祈り求めているのです。

 

「あなたの律法の驚くべき力」とは、神の律法の内から出て来る数々の不思議な御業であります。詩人は、神の律法には彼を救う御力があると、信じているのです。

 

これは、わたしたちキリスト者も同じでしょう。聖書を読む時、説教を聞く時、わたしたちは聖霊の照明を祈り求めます。それは、わたしたちが聖書の御言葉に、説教の御言葉に、わたしたちを救う御力があると信じているからです。

 

だから、詩人は神の律法に、広く言えば、旧約聖書の御言葉に、彼の目を集中するのです。同様にわたしたちも聖書の御言葉に集中します。

 

詩人は、19節でこう告白します。「この地では宿り人にすぎないわたしに あなたの戒めを隠さないでください。」

 

詩人の告白は、神の民の告白です。ダビデは、詩編3913節で、こう告白しています。「主よ、わたしの祈りを聞き 助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙しないでください。わたしは御もとに身を寄せる者 先祖と同じ宿り人。」

 

ダビデ同様に詩人は、主なる神による保護を必要とすることを自覚しています。詩人は、人の人生のはかなさを知っているのです。

 

23節で詩人は、「地位のある人々が座に就き わたしのことを謀っていても」と告白するように、身分の高い人々から虐げられた人です。主なる神だけを、彼は信頼し、助けを求めているのです。

 

だから、彼は、「あなたの戒めを隠さないでください」と祈るのです。神の律法だけが彼の救いであり、彼の助けであるからです。

 

詩人は20節でこう告白します。「あなたの裁きを望み続け わたしの魂はやつれ果てました。」

 

「あなたの裁き」は、「あなたの法」です。詩人は、神の律法にあこがれ続けて、彼の魂が擦り切れるほどであると言っているのです。

 

「ベト」の916節で詩人が神の律法に寄せた思いを、更に強めて告白しているのです。

 

わたしたちは、聖書に対して、この詩人のような強いあこがれを持っているでしょうか。

 

詩人は、2123節でこう告白します。「呪われるべき傲慢な者をとがめてください あなたの戒めから迷い出る者を 辱めと侮りをわたしの上から払ってください あなたの定めを守っているのですから。地位ある人々が座に就き わたしのことを謀っていても あなたの僕は あなたの掟にのみ心を砕いています。」

 

詩人は苦難の中に置かれています。23節の「地位ある人々」は、君主、高官でしょう。身分の高い人々が神の律法を守らず、貧しい神の民を搾取し、虐げていたのでしょう。詩人は彼らから辱めと侮りを受けていたのでしょう。

 

詩人はどんなに苦難の中にあっても、神の律法から離れなかったのです。主なる神の御心に従っていたのです。

 

23節は、受難のキリストを思い起こします。サンヘドリンの会議で、ポンティオ・ピラトの裁判で沈黙しておられる主イエスを思い起こします。ユダヤ人たちやポンティオ・ピラトが主イエスの刑を協議していた時、主イエスは父なる神の御心に従順に従われていました。

 

詩人は、24節でこう告白します。「あなたの定めはわたしの楽しみです。わたしに良い考えを与えてくれます。」

 

詩人にとって、神の律法は彼の楽しみ、喜びでした。また神の律法は、彼の助言者でした。「良い考え」は、「わたしの助言の良き人々」です。

 

聖書がわたしたちにとって楽しみであり、喜びであり、聖書はわたしたちのよき助言者であり、相談相手であるのです。

 

わたしたちがキリストと出会えるのは聖書です。キリストの御言葉を聞くのも、聖書です。わたしたちは、詩人のように聖書を通してキリストと出会い、キリストをわたしたちの良き相談相手にしているのです。

 

ラテン教父アウグスティヌスは、詩編をキリストの言葉として繰り返し読むように奨励しました。詩編の御言葉を、主イエスは愛されて、よく引用されています。何よりも詩編の御言葉は、わたしたちを十字架のキリストへと導いてくれています。

 

アドベントが終わり、新年を迎えようとしています。コロナウイルスの災禍の中での一年でしたが、主はわたしたちの教会を、そしてわたしたちをお魔織りくださいました。地方の小さな教会であるがゆえに、1年間欠かさず礼拝を行い、祈祷会を、諸集会、諸活動を行うことができました。

 

また長老が与えられ、小会の活動が継続できて感謝でした。長老の提案で、初めて教会員の誕生日を祝うことができました。

 

社会が急激に変化する中で、教会が平常通りにイスター伝道集会とクリスマス礼拝も行なうことができました。祈祷会と聖書の学びの集い。教理の学びを行うことができて、感謝でした。

 

文集「風」を7月と12月に発行できて、感謝でした。

 

教会の財政も支えられて感謝でした。今年度は大幅の赤字を予想していましたが、黒字で繰越できます。本当に詩人が祈るように、わたしたちは主の恵みに生かされて、この教会での礼拝を行い、キリスト者の生活を続け、主に恵みの応答としての献金をなすことができて、感謝です。

 

来年も主の恵みに生かされて、この教会の礼拝のために、わたしたちの交わりのために励みましょう。そして礼拝のオンライン化を通して諏訪地方、伊那地方、松本地方の人々にキリストの福音を伝えましょう。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今年一年間詩編の御言葉を学ぶ機会が与えられ感謝します。

 

詩編119編の詩人が神の律法を愛したように、わたしたちも聖書を愛し、楽しむことができるようにしてください。

 

キリストと共にこの一年歩めたことを感謝します。どうか、キリストと共に新しい年を歩ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教119-4              主の2021124

わたしの魂は塵に着いています。 伏した、塵に、わたしの魂は。

御言葉によって、命を得させてください。わたしを生かしてください、御言葉

わたしの道を申し述べます。 どおり。わたしの道をわたしは伝えた。すると、

わたしに答え、あなたの掟を教えてください。 あなたはわたしに答えられた。

あなたの命令に従う道を見分けさせてください。 わたしに教えてください、

わたしは驚くべき御業を歌います。 あなたの掟を。あなたの指図の道を、

わたしの魂は悲しんで涙を流しています。わたしに悟らせてください。わたし

御言葉のとおり、わたしを立ち直らせてください。 は思い巡らしましょう。

偽りの道をわたしから遠ざけ あなたの不思議な御業を。わたしの魂は涙する、

憐れんで、あなたの律法をお与えください。 悲しみのゆえに。わたしを堅く

信仰の道をわたしは選び取りました。立たせてください、御言葉のとおりに。

あなたの裁きにかなうものとなりますように。偽りの道をわたしから遠ざけ

主よ、あなたの定めにすがりつきます。 あなたの教えを、恵んでください。

わたしを恥に落とさないでください。 真実の道をわたしは選択しました。

あなたによって心は広くされ あなたの法をわたしは置きました。あなたの

わたしは戒めに従う道を走ります。定めにわたしはすがりつきます。主よ、

                わたしを辱めないでください。あなたの

                命令の道を、わたしは走ります。まことに

              あなたはわたしの心を広げてください             ます。              

 

                   詩編第1192532

 

説教題:「信仰の道に歩み、苦しみを解かれる」

今朝は詩編第1192532節の御言葉を学びましょう。

 

詩編第119編はアルファベットで始まる詩です。今朝は、アルファベットの第四番目の「ダレト」で始まる2532節の詩を学びましょう。

 

「律法」を表わす8つのヘブライ語の言葉があります。その中で、25節は「言葉」、26節は「掟」、27節は「命令(指図)」、28節は「言葉」、29節は「律法」、30節は「裁き」、31節は「定め」、32節は「戒め(命令)」が使われています。「言葉」が25節と28節で二度繰り返され、「仰せ(イムラー)」という律法を表わす言葉が欠けています。

 

119編の詩人は、苦難の神の僕です。彼はその苦難について具体的に述べてはいません。彼は神に25節で「わたしの魂は塵に着いています。」と告白し、28節で「わたしの魂は悲しんで涙を流しています。」、29節で「偽りの道をわたしから遠ざけ」、31節で「わたしを恥に落とさないでください。」と祈っています。このように詩人の神への嘆きの訴えと祈りから、彼が命の危険の中に置かれていたと、わたしたちが想像することは容易でしょう。

 

詩人は神を「あなた」と親しく呼びかけ、彼の苦難を訴えて、御言葉、すなわち、律法のとおりに彼を力強く生かしてくださいと祈っているのです。

 

新改訳聖書2017は、「私のたましいは ちりに打ち伏しています」と訳しています。「塵」は地面のことです。詩人の魂が地の中に伏しているのです。これは、彼の魂が墓の中にあるということです。彼の魂は死んでいるのです。

 

だから、詩人は、神に続けて「御言葉によって、命を得させてください。」と祈願しているのです。詩人の祈願は皆、命令形です。彼は神に「御言葉通りに、神の律法のとおりに、わたしに命を得させよ」と命令しているのです。

 

詩編第44編の詩人、コラの子が教訓詩を歌っています。彼はバビロン捕囚を経験した人です。異教の地バビロニア帝国に捕囚となり、そこで生きなければなりませんでした。彼はそれを神の御心と受け止めました。しかし、捕囚の神の民たちは、そこで蔑まれ、辱めを受けました。まさに死人同様の生活をしていたのです。だから、コラの子は、彼らの現状をこのように祈り、訴えて、主なる神に捕囚の地からの救いを祈り求めました。「我らの魂は塵に伏し 腹は地に着いたままです」(詩編44:26)

 

119編の詩人は、詩編44編の詩人、コラの子と同世代の人でしょう。彼もまた、バビロン捕囚の苦難を経験していたでしょう。

 

ある旧約聖書学者が、25節の御言葉について、こういう見解を語っています。「魂が塵に伏すような体験から本当の信仰が始まるのである」と。

 

わたしたちの信仰体験も、この詩人と同じであると思います。同じ体験をしたという意味ではありません。信仰の形が似ているのです。詩人の「わたしの魂は塵に着いています」という告白は、わたしたちの場合は「わたしは罪に死にました」と告白するでしょう。だから、詩人は律法に基づいて神に命を得させよと祈願するのですが、わたしたちは聖書に基づいて、聖霊が罪に死んだわたしたちの心を再生し、信仰によって命を得させてくださいと祈るでしょう。

 

わたしたちは、この詩人から聖書に基づいた信仰によって死から命に生かされる信仰の道を教えられるのです。

 

だから、詩人は、神に26節でこう祈願するのです。「わたしの道を申し述べます。わたしに答え、あなたの掟を教えてください。」

 

ある翻訳聖書は、「わたしが歩んだ道を告げると、あなたは答えられた」と訳しています。詩人の場合は、神に彼の今の数々の嘆きを、そして、バビロン捕囚という多くの苦難を告げたのでしょう。それに対して神は詩人に答えてくださったのです。それは、神の詩人への憐れみです。

 

月二回、第一と第三の木曜日に聖書を学ぶ集いで旧約聖書のエゼキエル書を学んでいます。捕囚の地から預言者エゼキエルがユダヤの地に住む神の民たちにエルサレムの都と南ユダ王国の滅亡と第二回目のバビロン捕囚を預言しています。預言者エゼキエルは、主なる神が神の民の偶像礼拝の罪と、そこから生じる彼らの貪欲の罪によって彼らが主の御前に数々の罪を犯し、隣人の血を流し、主なる神の御怒りを買って、滅ぼされ、捕囚されることを預言しました。

 

今、詩人は、神に彼が歩んだ道を、神の民たちの罪の道を告白したのでしょう。彼の告白に神が答えられたとは、神は彼の罪を赦されたということです。詩人は神に赦されて、再び神の律法を学び、生きる道に立ち帰ることができたのです。

 

この信仰の形も、わたしたちと似ていますね。聖書の神に罪を赦されるためには、わたしたちが歩んだ罪の道を告白しなければなりません。神が答えられる必要条件です。罪を告白する者は、キリストの十字架という神の答を得るでしょう。神は、それによってわたしたちへの憐れみを差し出されます。そこからわたしたちの信仰生活と共に聖書生活が始まるのです。

 

詩人は、神に27節でこう歌っています。「あなたの命令に従う道を見分けさせてください。わたしは驚くべき御業を歌います。」

 

「命令」は、「指図」という言葉です。律法のことです。「見分けさせてください」も命令形です。詩人は、神に「神の律法に従う生き方を、わたしに悟らせよ」と祈っているのです。

 

「わたしは驚くべき御業を歌います。」は、旧約聖書の出エジプトの出来事です。バビロン捕囚からの解放も第二の出エジプトの出来事でした。詩人が「歌います」と言っているのは、思い巡らすことです。

 

わたしたちも聖書の御言葉に従う道、生き方を悟れるように、主に祈るべきです。そして、聖書を読むことで、キリストの十字架と復活という神の御救いの恵みの御業を繰り返し思い巡らそうではありませんか。

 

詩人は、神に28節で「わたしの魂は悲しんで涙を流しています。御言葉のとおり、わたしを立ち直らせてください。」と祈願しています。

 

詩人は、神にバビロン捕囚という状況下で悲しみ、涙すると嘆いています。だから、そこからの解放を願って、神に「御言葉のとおり、わたしを立ち直らせてください。」と祈願するのです。

 

今わたしたちも、世界中がコロナウイルスの捕囚の中にあります。魂が悲しみ涙するのは、詩人が絶望状況にあるのです。今、わたしたちもそのような状況にあります。

 

今世界は、ワクチンに期待しています。わたしたちも期待しています。しかし、それを上回る勢いでコロナウイルスの感染が広がり、今やわたしたちの身の回りに感染の危険が迫っています。

 

わたしたちも詩人同様に「聖書の御言葉通りに、わたしを立ち直らせてください。救ってください」と祈る以外にありません。

 

宗教改革者カルヴァンは、詩編注解の中でこのところを次のように述べています。「そこで預言者は、このような極端な悲あいの中にあって、持つことのできる唯一の救済策は、神がみ手を差し伸べられることにある、と確信する」。

 

彼は神の律法を通して神が差し伸べてくださる救いの御手のみが、彼を絶望状況から立ち直らせると確信しているのです。

 

わたしたちも同じではありませんか。コロナウイルスの捕囚からわたしたちを救えるのは、主イエス・キリスト、ただ一人です。そして、昨年一年間、わたしたちは、このお方の差し伸べてくださる恵みの御手によって守られ、支えられたのです。今年も同じです。主イエスは、わたしたちをコロナウイルスの捕囚から必ず救い出してくださいます。聖書の証しする主イエス・キリストこそ、わたしたちの唯一の希望です。それによってわたしたちは、今この上諏訪湖畔教会で礼拝生活を続けているのです。

 

詩人は、神に29節で「偽りの道をわたしから遠ざけ 憐れんで、あなたの律法をお与えください。」と祈っています。

 

捕囚の地は、異教の地です。神の民たちは偶像礼拝への罪の誘惑、この世の富への誘惑から免れません。詩人も同様です。詩人は神に偽りの道から彼を遠ざけてくださいと祈ります。そのために彼は、神の律法を恵んでくださいと祈っているのです。

 

神の律法は、詩人にとって知識の対象ではありません。彼が神を信じて生きる霊的な糧です。信仰に生きる霊的なパンです。信仰の飢饉は、神が神の民にその霊的パンである神の律法を恵まれないので起こるのです。

 

キリスト者にとっても、聖書の御言葉は信仰に生きる霊的パンです。ある敬虔なキリスト者の家庭の食卓には聖書の聖句が霊的なパンとして置かれていました。毎日一つの聖句を取り出し、読まれ、それが家族の一日の信仰の糧となりました。

 

日本キリスト改革派教会は、聖書の一つ一つの聖句を読むよりも、聖書を通読するか、あるまとまった聖書の御言葉を読むという習慣が定着しています。それは良い事だと思います。同時にこの詩人のように、ある敬虔なキリスト者の家庭のように、聖書の御言葉を、この日に神が恵んでくださった霊的パンとしていただくという思いを持つことも大切ではないでしょうか。

 

もう一つ、偽りの道で、注意すべきことは、人間理性で判断する生き方です。罪人であるわたしたちの理性的判断は、虚栄と偽りに傾きやすいです。わたしたちは、偽りの道に陥りやすいのです。この世の神々を神とし、神の造られた被造物を神とする偽りに陥りやすいのです。だから、聖書の御言葉を神の恵みとして日々いただかなくてはなりません。主イエス・キリスト以外にわたしたちを救われるお方はいないことを確信して歩まなければなりません。

 

詩人は、神に30節で「信仰の道をわたしは選び取りました。あなたの裁きにかなうものとなりますように。」と祈っています。

 

「信仰の道」は、真実の道です。偽りの道に対して、詩人は真実の道を選択しました。詩人の人生の最終目標は、神の裁きに耐えられることです。彼にはこの世で栄華に生きるという望みはありません。ただ彼は、神の御心に適う信仰の道を歩み、神の裁きにおいて神が彼を祝福して下さことを願っているのでしょう。

 

わたしたちも主イエス・キリストを信じ、従う道を選びました。そして、わたしたちはキリストの再臨に向けて、神の裁きの日に向けてこの世で生きているのです。

 

だから、詩人が神に31節で「主よ、あなたの定めにすがりつきます。わたしを恥に落とさないでください。」と祈っています。

 

神の律法は、神の御心です。詩人は、神の律法を通して神の御心に、神の慈しみと憐れみに寄り縋ると告白するのです。「わたしを恥に落とさないでください」とは、神が詩人を見捨てることがないようにという祈りです。

 

詩人は神に32節で「あなたによって心は広くされ わたしは戒めに従う道を走ります。」と歌っています。

 

「戒めに従う道」は、「あなたの命令の道」です。神の律法に生きる道です。それは、信仰の道を歩むことです。それによって詩人は、「あなたによって心は広くされ」と歌っています。神に心が解放されたという意味です。

 

詩人は、神の律法に生きる、すなわち、神の御心を信じて生きることによって、彼の心がバビロン捕囚の苦しみから解放されたのです。神が彼の心を苦しみから解放してくださったからです。

 

わたしたちも、詩人と同じです。聖書の御言葉に従って生きることは、主イエス・キリストを信じて生きることです。

 

このキリストの十字架によって、わたしたちは知ってのとおり、使徒ペトロが述べていますように、先祖伝来の空しい生活から贖い出されました(Ⅰペトロ1:18)。キリストの十字架の御言葉が、罪に死んだわたしたちに神に向けて生きる心を与えてくれました。その御言葉によって、詩人のようにわたしたちもこの世の苦難の中で心を解放され、信仰に生きる喜びを得ることができたのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今年最初の詩編119編の学びに感謝します。

 

詩編119編の詩人が神の律法を愛し、神の律法に生きようとしたように、わたしたちも聖書を愛し、聖書の証しする主イエス・キリストへの信仰に生かしてください。

 

詩人にとって、神の律法に生きる信仰の道が苦しみからの解放であったように、わたしたちも聖書の御言葉に生きる信仰によって、この世の罪と苦しみからわたしたちの心を解放してください。

 

詩人から信仰に生きる者の豊な人生を学ばせてください。彼を模範として、わたしたちの信仰生活を導いてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

詩編説教119-5             主の2020228

主よ、あなたの掟に従う道を示してください。示し給え。主よ、あなたの掟の

最後までそれを守らせてください。 道を。わたしはそれを守る、終わりまで。

あなたの律法を理解させ、保たせてください。わたしに悟らせよ、わたしは

わたしは心を尽くしてそれを守ります。あなたの律法を守ろう。心を尽くして

あなたの戒めに従う道にお導きください。それを守ろう。わたしを導き給え、

わたしはその道を愛しています。あなたの命令に従う道に。まことにわたしは

不当な利益にではなく それを喜んでいるのです。傾け給え、わたしの心を

あなたの定めに心を傾けるようにしてください。 あなたの証しに。不当な

むなしいものを見ようとすることから 利益にではなく。わたしの両眼を

わたしのまなざしを移してください。 移し給え。空しいものを見ること

あなたの道に従って あなたの道によって

命を得ることができますように。 わたしを生かし給え。

あなたの僕に対して、仰せを成就してください。あなたの僕のために仰せを立

わたしはあなたを畏れ敬います。 て給え。それはあなたへの畏れのためです。

わたしの畏れる辱めが 過ぎ去らせ給え、

わたしを避けて行くようにしてください。 わたしが恐れる辱めを。

あなたは良い裁きをなさいます。 まことにあなたの法は良いものです。

御覧ください 見よ、 

わたしはあなたの命令を望み続けています。 わたしはあなたの指図を欲する。

恵みの御業によって あなたの義によって

   命を得させてください。 生かし給え。             

 

                   詩編第1193340

 

説教題:「恵みの御業によって命を得させてください」

今朝は、アルファベットの第五番目の「ヘー」で始まる詩編119編の3340節の詩を学びましょう。

 

「律法」を表わす8つのヘブライ語の言葉の中で、「言葉」が欠けています。その代わりに37節で「道」という言葉が使われています。また、「ヘー」のヘブライ語で始まる33節で「主よ」と、詩人は呼びかけています。他に七つあります。次回に学ぶ「ワウ」も、詩人は「主よ」と呼びかけています。

 

詩人は、「アドナイ」、「主よ」と呼びかけて、彼の祈りをささげています。33節で彼は、こう祈ります。「主よ、あなたの掟に従う道を示してください。最後までそれを守らせてください。」と。

 

「あなたの掟」は、神の律法のことです。「あなたの掟に従う道」は、「神の律法の道」です。

 

神の民イスラエルは、モーセの時代に奴隷の地エジプトから脱出し、シナイ山で主なる神と恵みの契約を結びました。主なる神は彼らの神となり、彼らは神の民となりました。そして、彼らは主なる神の民として約束の地カナンで生きるために、モーセを通して十戒を授かりました。これが神の律法であり、それに従うことが神の民の道でありました。そして彼らがこの道に従う限り、彼らは主なる神との交わりと祝福に生きることができました。

 

詩人は、すでに12節で「主よ、あなたをたたえます。あなたの掟を教えてください」と同じ祈りをしています。14節で詩人は、「どのような財宝よりもあなたの定めに従う道を喜びとしますように」と祈っています。詩人は、この世の富や栄華よりも、主なる神が神の民に授けられた神の律法が大切でありました。主なる神と共に、主なる神の御心を第一として生きることが、神の民として生きる本分であり、唯一の幸いな人生でありました。だから彼は、彼の人生が終わるまで神の律法に従う道を歩ませてくださいと祈るのです。

 

この詩人の祈りを通して、わたしたちは一つの真理を教えられます。神の律法に従う道は、神の律法を知ることなしにあり得ないのです。

 

だから、詩人は、34節でこう祈ります。「あなたの律法を理解させ、保たせてください。わたしは心を尽くしてそれを守ります。」

 

神の律法に従う道は、神の御心を知ることから始まります。詩人は、そのために主なる神に神の律法を理解させてくださいと祈ります。人は学んでも忘れるという弱さを持った者です。だから、詩人は主なる神に、彼が学んだ神の御言葉を彼の心に蓄え、保たせてくださいと祈ります。そして彼は、「わたしは心を尽くしてそれを守ります。」と告白しています。彼は、彼が学び、そして理解した神の律法を、彼の信仰と生活の唯一の規準として守り通すと、固く決意しているのです。

 

ウェストミンスター小教理問答は、問1で「人生のおもな目的は何ですか」と問い、「人生のおもな目的は神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである」と答えています。そしてウ小教理は、わたしたちが神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ道を歩むために、聖書が必要であると教えています。なぜなら、聖書こそが主なる神がわたしたちにお与え下さった信仰と生活の唯一の規準であるからです。

 

このように神の律法と聖書は相互に互換性があります。わたしたちは神の律法を聖書に当てはめて、この詩編を読むことを許されています。

 

それゆえに詩人が35節で「あなたの戒めに従う道にお導きください。わたしはその道を愛しています。」と祈り、告白するのに、わたしたちは共感するでしょう。同じ体験をしていると、思うでしょう。

 

聖書は、聖霊の学校です。聖霊がわたしたちの先生です。聖霊に導かれ、教えられ、わたしたちは聖書に従う道を歩むことができるのです。だから、礼拝において聖書と説教を理解できるように、聖霊の導きを祈り求めるのです。

 

詩人は、「わたしはその道を愛しています」と告白していますね。ヘブライ語聖書は、「わたしは喜ぶ」です。詩人は、神の律法に従う道を、「わたしは喜ぶ」と告白しています。詩人は、神の律法に従う道を、すなわち、神の御心に服従して生きることを喜ぶと告白するのです。これが神の恵みの契約の中に生きる神の民の本分です。

 

新約のキリスト教会は、キリストの十字架の贖いによってわたしたち異邦人を神の恵みの契約に加えました。そしてわたしたちは、キリストとひとつに結びつけられました。十字架のキリストと共にわたしたちは罪に死に、キリストの復活と共にわたしたちはキリストの命に生かされました。だから、生きているのはわたしではなく、わたしの内に生きておられるキリストです。そして、わたしたちは聖霊の学校で聖霊に導かれ、教えられて聖書を学び、キリストを信じ、服従して生きる喜びを見いだしたのです。

 

だから、詩人が主なる神に3637節でこう祈る言葉に心を留めようではありませんか。「不当な利益にではなく あなたの定めに心を傾けるようにしてください。むなしいものを見ようとすることから わたしのまなざしを移してください。」

 

今朝も祈りました主の祈りに「試みに遭わせず 悪よりお救いください」という祈りがありますね。この世の誘惑と試練は、わたしたちにとって大きな問題であります。

 

詩人は、この世の誘惑からお守りくださいと祈っているのです。人間の本性は、生まれながらに罪によって腐敗しています。だから、この世の欲という誘惑から逃れることは困難です。

 

ニュースで政治家や官僚の不当な利益、すなわち、賄賂やお金の授受が報道されています。わたしたちもブランド物などの高価な物を得ようと、多額の借金をし、生活を破綻させることがあります。

 

詩人の祈りからわたしは、創世記3章の堕落物語を思い起こしました。エデンの園で蛇がエバを誘惑しました。蛇に誘惑されたエバは、主なる神が食べることを禁じられた善悪を知る木の実を見ました。彼女の目がそれを見て、彼女の心にそれが欲しいという誘惑を生み出しました。彼女は食べ、夫アダムにも与えました。こうして人類は罪によって堕落しました。

 

詩人は、この世の誘惑に弱いことを自覚しているのです。だから、彼は、こう祈るのです。「主よ、人は誰もが自分の目で見たものに惹かれます。わたしにもその弱さがあります。だから、わたしの目が常にあなたの律法に傾けられ、この世の空しいものに惹かれないようにしてください。どうか神の律法に従う道に生かしてください。その道にこそ主なる神との交わりに生きる命があるからです。」

 

38節の詩人の祈りは、神の民の本分に生かしてくださいという祈りです。宗教改革者カルヴァンは、この詩人の祈りからこう述べています。「われわれの人生で中心的なのは、神がわれわれを統べ治められることである、と知る必要が大きい」。

 

詩人は知っています。彼は主の僕です。彼の主人は主なる神です。彼の人生のすべてにおいて彼の願いが実現するのではありません。主なる神の御心が成るのです。主の祈りでわたしたちは、この世を主なる神が統べ治められていることを信じていますので、「天に成るごとく、地にも成させたまえ」と祈ります。

 

詩人の祈りからわたしは、改革派教会の創立宣言の最後の部分を思い起こします。「世界の希望はカルヴィン主義の神にあり。神よ願くは汝の栄光を仰がしめ給へ。我等与へられし一切を汝に捧ぐれば、汝のみを我等の神、我等の希望と仰がせ給へ。汝が既に我等の衷に肇め給ひし大いなる聖業を完遂せしめ給へ。アーメン。」

 

わたしたちは、聖書の神が創造主、摂理の神であると信じます。神は世界を統治されています。そして神が語られた御言葉は、わたしたちへの約束として天においても地においても成るのです。こうしてわたしたちは、主なる神を崇め賛美します。詩人は、神を礼拝すると告白します。これが神の民の本分なのです。

 

詩人は、39節で自らが迫害されたことを歌っています。具体的なことはわかりません。恥が彼を避けて行くようにと、彼は祈ります。この祈りを支えているのが、「あなたは良い裁きをなさいます」という彼の確信です。

 

神の民がこの世で迫害され、恥辱を受けることは避けられません。しかし、詩人は、「まことにあなたの法は良いものです」と告白しています。神の律法は、神の民にとって良きものであるので、彼がこの世において辱めを受ける時に、その恥から彼を逃れさせてくれるのです。

 

使徒パウロが次のように言うのを思い起こします。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

 

詩人は40節でこう祈っています。「御覧ください わたしはあなたの命令を望み続けています。恵みの御業によって 命を得させてください。」

 

「御覧ください」は、「見よ」です。詩人は、わたしたち読者に注意を促します。「あなたの命令」は神の律法です。わたしたちの聖書です。詩人は、聖霊の学校で神の律法を学び、「恵みの御業によって 命を得させてください」という希望を祈ることができたのです。

 

改革派教会の創立40周年宣言の「聖書について」の中に次のような宣言文があります。「聖書は聖霊の学校であって、そこには、神御自身の栄光、人間の救いと信仰と生活のために知らねばならず、また知って益あることは、何一つ省略されていない」。

 

詩人は、聖霊の学校で神の律法、すなわち聖書を学び、神が「恵みの御業」、すなわち、「義の御業」によって命を得させてくださるという神の救いを知りました。

 

具体的な内容に触れていませんので、神の義の御業によって命を得させる救いの内容は、はっきりとは分かりません。

 

主なる神と神の民イスラエルとの関係は、人の義によってではなく、神の義の御業によって成り立っていました。神の義は、主なる神が神の民との間に正しい関係を築いてくださる事です。

 

例えば、動物犠牲です。神の民は神の幕屋や神殿で主なる神に動物犠牲を献げました。犠牲の動物が神の民の罪を担わされました。これは、キリストの十字架の予型です。

 

神が独り子キリストを、人としてこの世に遣わされ、わたしたち神の民の罪の贖いの犠牲として、ただ一度十字架の上で死なれることによって、すなわち、神がキリストにおいて人の罪を裁かれるという神の正義を通して、わたしたちは罪から贖われたのです。

 

詩人の「神の恵みの御業によって命を得させてください」という祈りを、今レントの季節に十字架のキリストを瞑想する助けとしましょう。

 

キリストの十字架は、神の義の御業であり、神の恵みの御業であります。だから、わたしたちは、ただ主イエスの十字架を心に留めて、それがわたしたちの罪のためであったと信じるだけで良いのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編1193340節の御言葉の学びを感謝します。

 

どうか詩編119編の詩人と同様に、わたしたちの聖霊の学校でこの詩編119編を学ばせてください。

 

聖霊がわたしたちを詩編119編の神の御言葉を導き、教え、主イエス・キリストの十字架へと立たせてください。

 

今朝の詩編の御言葉に堅く立ち、神の御言葉を愛し、それに従って生きることを心から楽しませてください。

 

レントの季節です。十字架のキリストを瞑想し、詩人同様に、この世から目を背けて、神の御言葉へと、十字架のキリストへと、わたしたちの目を移してください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教119-6            主の2021328

主よ、あなたの慈しみと救いが わたしに来るように、あなたの慈しみが、主

仰せのとおり、わたしを訪れますように。よ。あなたの救いが仰せのとおりに。

わたしを辱めた者に答えさせてください。わたしは答えよう。わたしを辱めた

わたしは御言葉に依り頼んでいます。 者に、言葉を。実にわたしはあなたの

真実をわたしの口から奪わないでください。御言葉を信頼する。奪わないで

あなたの裁きを待ち望んでいます。 ください。わたしの口から真実の言葉を。

わたしがあなたの律法を守る者でありますように。実にあなたの法を、わたし

常に、そしてとこしえに。は待ち望んでいます。わたしは守ろう、あなたの律

広々としたところを行き来させてください。法を。常にとこしえに、永遠に。

あなたの命令を尋ね求めています。 わたしは歩き回ろう、広い所を。実に

わたしは王たちの前であなたの定めを告げ あなたの指図を、わたしは求め

決して恥とすることはないでしょう。ます。わたしは告げよう。あなたの定め

わたしはあなたの戒めを愛し を王たちの前で。わたしは恥じないでしょう。

それを楽しみとします。 わたしは楽しむでしょう、わたしが愛するあなたの

わたしはあなたの戒めを愛し 命令を。わたしは上げましょう、もろ手を、

それに向かって手を高く上げます。わたしが愛するあなたの命令に。わたしは

わたしはあなたの掟を歌います。 思い巡らそう、あなたの掟を。

                   詩編第1194148

 

説教題:「御栄えは主に在れ」

本日より受難週が始まります。今年はマルコによる福音書に従って、主イエス・キリストの最後の一週間を辿りましょう。そういう意味では、マルコによる福音書が今朝の礼拝のテキストとして相応しかったでしょう。

 

しかし、わたしは月に一度詩編の御言葉を学ぶことも捨てがたく思っています。特に詩編第119編をヘブライ語のアルファベットに従って、7節ずつ学んでいます。今朝は、第六番目の「ワウ」で始まる詩編119編の4148節の御言葉を学びましょう。

 

「ワウ」で始まるヘブライ語は、接続詞の「ワウ」しかありません。ヘブライ語の「ワウ」で始まる他の単語がありません。ですから、7節すべてが接続詞の「ワウ」で始まります。接続詞「ワウ」は、日本語に訳すと、「そして」「・・と・・」「しかし」「それなら」などです。新共同訳聖書はすべて訳出してはいません。

 

先月に「へー」で始まります3340節の御言葉を学びました。すべての節が祈願文になっていました。今朝の4148節では祈願文は43節だけであります。ほとんどの節において未完了動詞の一人称、「わたしは・・・・しましょう」が用いられています。

 

さて、今朝の詩編119編の4148節は、詩人がどんな状況下でこの詩編を賛美しているのでしょう。

 

詩人は支配者層によって困難な状況に置かれております。主なる神の約束の御言葉のゆえに、詩人は主なる神の慈しみと救いが訪れて、詩人を解放してくださるように、主なる神を賛美し、神の律法を思い巡らしているのです。

 

詩人は、4143節において彼の困難な状況を次のように述べています。「主よ、あなたの慈しみと救いが 仰せのとおり、わたしを訪れますように。わたしを辱めた者に答えさせてください。わたしは御言葉に依り頼んでいます。真実をわたしの口から奪わないでください。あなたの裁きを待ち望んでいます。」

 

また、46節において詩人は、こう述べています。「わたしは王たちの前であなたの定めを告げ 決して恥とすることはないでしょう。」

 

「王たち」は詩人を辱める支配者層の者たちです。詩人は、42節において「わたしを辱めた者に答えさせてください。わたしは御言葉に依り頼んでいます。」と述べています。直訳しますと、こうです。「わたしは答えましょう。わたしを辱めた者に、言葉で。実にわたしはあなたの御言葉に信頼しましょう。」

 

詩人は彼を辱める支配者層の者たちに言葉で彼の信仰を弁明しなければならない状況に置かれていたのでしょう。

 

そのため詩人は、41節で主なる神の慈しみと救いが彼を訪れるように、と祈っています。「仰せのとおり」とは、神の約束の御言葉のことです。

 

旧約聖書の創世記と出エジプト記を読んでみてください。主なる神はイスラエルの先祖アブラハムと恵みの契約を結ばれています。主なる神はアブラハムと彼の子孫の神となり、アブラハムと彼の子孫は主なる神の民となるという約束です。

 

主なる神は、アブラハムとの約束の御言葉をお忘れになりませんでした。アブラハムの死後、彼の子孫たちはエジプトで奴隷生活をしました。主なる神は、アブラハムとの約束を思い起こされました。そして主なる神はモーセを召して、彼らをエジプトの奴隷状態から贖い出されました。主なる神は、エジプトを裁き、そこから神の民を救い出されたのです。

 

詩人は、出エジプトの出来事を思い起こしています。だから、彼は41節において「主よ、あなたの慈しみと救いが 仰せのとおり、わたしを訪れますように。」と告白し、43節において「あなたの裁きを待ち望んでいます」と告白しているのです。

 

詩人を辱める者たちが、だれであるか、明らかではありません。もし詩編119編がバビロン捕囚の状況下で歌われているのであれば、王たちはバビロニア帝国の王たちであり、詩人を辱める者はバビロニア帝国の支配者たちでしょう。

 

詩人はバビロニア帝国の捕囚の状況下で、主なる神の慈しみと救いが訪れ、バビロニア帝国の支配層の者たちを裁かれ、バビロン捕囚の神の民たちを解放してくださいと祈っているのでしょう。

 

エジプトから解放された神の民たちは、シナイ山で神の律法を授けられました。神の律法は、主なる神の御意志です。イスラエルの民は神の律法によって主なる神との交わりを回復しました。彼らは主なる神のみを礼拝し、神を愛し、隣人を愛する交わりを回復しました。まことに彼らは神の律法を通して神の民として生きることができたのです。

 

だから、詩人は、44節において「わたしがあなたの律法を守る者でありますように。常に、そしてとこしえに。」と告白しているのです。これは詩人の決意です。異教の地バビロンに捕らわれ、支配者層から辱めを受けても、詩人は神の律法を守る者として、神の民として、主なる神との交わりの中に生きると決意しているのです。

 

詩人と同世代の預言者ダニエルの仲間たちは、ネブカドネツァル王が造った偶像を、神として礼拝することを拒否し、燃える炉に投げ込まれました。しかし、主なる神は彼らを守り救われたのです。

 

詩人が彼を辱める王たちに神の律法に従って偶像礼拝をしないと告げるとき、彼もまた決して恥とすることはないと告白しています。主なる神が守ってくださるからです。

 

詩人は、神の律法を守ることによって、自らの救いの達成を願ったのでありません。彼が守る神の律法の中に主なる神の慈しみと救いを見いだしたのです。

 

主なる神は、アブラハムと彼の子孫を、一方的な恵みの主権によって神の民に選ばれました。だから、主なる神の慈しみと救いが彼らを訪れるのです。

 

詩人は、神の律法から、恵みの契約によって神の民に慈しみと救いとして訪れられる神の御心を見いだしたのです。だから、詩人は神の律法を愛するのです。それを楽しむのです。そして、神を礼拝し、御栄えは主に在りと賛美するのです。

 

本日より受難週です。今日主イエスはろばの子に乗り、エルサレムの都に王として入城されました。そして金曜日に主イエスはゴルゴタの丘で十字架刑によって死なれ、墓に葬られます。

 

この主イエスが復活の主イエス・キリスト、今栄光の王としてこの教会と世界を支配されているお方です。

 

わたしたちは、この栄光の主イエス・キリストを、この世の人々に告げ知らせなければなりません。わたしたちを罪と死から、律法から解放し、自由と永遠の命をお与えくださった栄光の主イエスを。次の主日のイースター礼拝で心から御栄えは主に在りと、ほめたたえようではありませんか。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編1194148節の御言葉の学びを感謝します。

 

本日より受難週に入ります。どうかわたしたちを詩編119編の詩人を通して、主イエス・キリストの十字架の御下に立たせてください。

 

十字架の主イエスは、栄光の主として、今天におられます。そして今朝の詩編の御言葉を通して、わたしたちの救い主として、この教会に訪れてくださる事を感謝します。

 

十字架の主イエスの罪の赦しと永遠の命の喜びを、わたしたちが聖書の御言葉から、礼拝の説教を通して語られる福音から楽しませてください。

 

十字架のキリストを瞑想し、一週間を過ごさせてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

詩編説教119-7             主の2021425

あなたの僕への御言葉を思い起こしてください。思い起こしてください。あな

あなたはそれを待ち望ませておられます。 たの僕への(あなたの)言葉を。それ

あなたの仰せはわたしに命を得させるでしょう。をあなたはわたしに希望させ

苦しみの中でもそれに力づけられます。られました。これが苦難の中にあるわ

傲慢な者はわたしを甚だしく見下しますが たしの慰めです。まことにあなた

わたしはあなたの律法から離れません。の仰せがわたしを生かしました。高ぶ

あなたの裁きはとこしえに堪えることを思い る者たちがひどくわたしを嘲笑

主よ、わたしは力づけられます。しますが、あなたの律法から離れません。わ

神に逆らう者に対する燃える怒りが たしは思い起こします、永遠よりのあな

わたしを捕らえています。 たの法を。主よ。わたしは自らを慰めました。

彼らはあなたの律法を捨て去る者です。激怒がわたしを捕えました。あなたの

この仮の宿にあって 律法を捨てる悪人たちのゆえに。あなたの掟はわたしに

あなたの掟をわたしの歌とします。とって歌となりました。わたしの寄留の家

主よ、夜ともなれば御名を唱えで。わたしは思い出しました、夜の間にあなた

あなたの律法を守ります。 の御名を。主よ、わたしはあなたの律法を守り

あなたの命令に従うこと ましょう。このことがわたしに起こったのは、わ

それだけが、わたしのものです。 たしがあなたの指図を守ったからです。

                   詩編第1194956

 

説教題:「苦難の中で力づけられる」

 

今朝は、詩編第1194956節の御言葉を学びましょう。

 

詩編119編の特色は、詩人がヘブライ語のアルファベット22文字に従って、8節ずつ22に区切ってこの詩編を歌っていることです。

 

どうして詩人は8節ずつに区切って歌っているのでしょうか。すでに説明しましたように、律法を表わすヘブライ語の8つの言葉を入れるためです。

 

すなわち、8つ言葉はこれらです。「律法(トーラー)」、「法(ミシュパティーム)」、「言葉(ダバール)」、「掟(フッキーム)」、「命令(ミツウォート)」、「定め(エドート)」、「指図(ピックディーム」、「仰せ(イムラー)」。

 

詩編119編の詩人は、そのような制限を加えた上で、神の民が神の律法を知恵の源として生きることの幸いと慰めを豊かに歌っています。信頼の歌の形式で、あるいは嘆きの歌の形式で、そして祈りと祈願の形式で神の律法に生きる者の幸いを表現しようとしています。

 

詩人が「あなたの律法を守ります」と言います時、それは、彼が十戒として守ると言っているだけではありません。

 

神の恵みの契約として、主なる神が礼拝において神の民たちに語られる御言葉として、あるいは神の民の共同体における法として、主なる神が僕である詩人になされる命令として、あるいは教訓として、また、神の民たちの信仰の証しとして、神の律法が豊かに表現されています。

 

さて、詩人が4950節で次のように歌っています。「あなたの僕への御言葉を思い起こしてください。あなたはそれを待ち望ませておられます。あなたの仰せはわたしに命を得させるでしょう。苦しみの中でもそれに力づけられます。」

 

この詩人の賛美の御言葉から、わたしたちは主なる神が恵みの契約の神であることを連想しないでしょうか。

 

詩人が「あなたの僕への御言葉を思い起こしてください。」という讃美から、わたしたちは主なる神とアブラハムとの恵みの契約を思い起こさないでしょうか。

 

旧約聖書の創世記です。主なる神が神の民イスラエルの先祖アブラハムと結ばれた契約です(創世記15章等)

 

創世記を読みますと、主なる神は彼だけではなく、彼の子のイサクと、孫のヤコブとも恵みの契約を結ばれました(26章、28)

 

主なる神はアブラハムと彼の子孫たちとこの契約を結ばれました。そして主なる神は彼らの神となられ、彼らは主なる神の民となりました。

 

主なる神は、アブラハムとの恵みの契約を決してお忘れになりませんでした。僕であるアブラハムに約束された御言葉を、主なる神は常に思い起こされ、彼の子孫たち、すなわち、神の民イスラエルを救われました(出エジプト記2:2325)

 

今詩人と神の民たちは、異教の地バビロニア帝国で捕囚生活をしています。そして詩人や捕囚の地にいる神の民たちに、主なる神は恵みの契約に生きる希望を持たせようとされています。

 

それを、詩人は「あなたはそれを待ち望ませておられます」(49)と歌っています。

 

この希望は、神の民イスラエルの出エジプトという救いの体験に根差しています。

 

出エジプト記です。主なる神が、奴隷状態にある神の民たちの嘆きの声を聞かれて、アブラハムとの恵みの契約を思い起こされたと記しています(出エジプト2:2325)

 

主なる神は、モーセを彼らの指導者に立てられました。彼らを奴隷の地から約束の地カナンへと導かれ、救われました(出エジプト記3章-申命記)

 

今捕囚の地において主なる神は、神の民たちに預言者たちを通してアブラハムとの恵みの契約のゆえに彼らを解放し、再びエルサレムに帰還させることを告げられました。

 

詩人は、おそらく預言者たちを通して語られた主の御言葉によって命を得させられたのです。

 

「あなたの仰せはわたしに命を得させるでしょう」という詩人の告白は、異教の地でまるで死人同様に生きていたのに、主なる神の御言葉によって再び主なる神を礼拝し、主と共に生きる希望を与えられたという意味でしょう。

 

だから、詩人は、今バビロニア帝国での捕囚生活という苦難の中にいても、主なる神の御言葉によって力づけられていると歌っているのです。

 

「力づけられる」とは、自ら慰めを得ている、励まされているという意味です。

 

詩人にとって神の律法に生きる神の民の幸いは、主なる神が神の民を常に思い起こしてくださることです。主なる神が、常に神の民に心を留めてくださることによって、この世の苦しみの中にいる神の民たちに救いと慰めという出来事が生じるのです。

 

その恵みを、詩人は知っています。だからどんな苦難の中にいても、詩人は主の御言葉に力づけられ、自ら慰めを得ると歌っているのです。

 

詩人には、敵がいます。51節の「傲慢な者」、53節の「神に逆らう者」です。傲慢な者と神に逆らう者は、共に不敬虔な者たちです。

 

詩編第1編の詩人が1節で「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず」と歌っています。

 

詩編119編の詩人のように、神の律法に喜びを見いだす者が自らしないことは、詩編第1篇の詩人が1節で歌っていることです。

 

傲慢な者、神に逆らう者、罪の中にいる者たちは、主の律法を、主のみ教えを捨てます。しかし、第1編の詩人と第119編の詩人は、決して神の律法を捨て、神の律法から離れません。むしろ、主の律法に常に喜びと思いを向け続けるのです。神の律法に彼らの身と思いを沈潜し続けるのです。そこにこそ主なる神の幸いがあるからです。

 

だから、詩編119編の詩人は、5152節でこう歌っています。

 

「傲慢な者はわたしを甚だしく見下しますが わたしはあなたの律法から離れません。あなたの裁きはとこしえに堪えることを思い 主よ、わたしは力づけられます。」(5152)

 

更に彼は5354節でこう歌っています。

 

「神に逆らう者に対する燃える怒りが わたしを捕らえています。彼らはあなたの律法を捨て去る者です。この仮の宿にあってあなたの掟をわたしの歌とします。」

 

詩人は、神の律法を守る自分と神の律法を捨てる傲慢な者と神逆らう者を対比しています。

 

詩編第1篇の詩人と同じように、詩編119編の詩人は、この対比によって神の民の主の恵みに生きる道を教えようとしているのです。

 

恵みの神の恩寵に生きる神の民は、神の律法を捨てません。神の律法から離れません。神と共に生きる喜びと幸いがあるからです。

 

神の律法は主なる神の御心そのものであり、神の御心の内に生きる神の民にこそ神の祝福と幸いがあるのです。

 

そして主なる神は、御自身の御心に適う者を祝され、敵対する者を呪われ、裁かれるのです。

 

詩人は、それゆえに傲慢な者たちに蔑まれても、主に慰めを得ると歌っているのです。

 

詩人は、神の律法を守り、異教の地バビロニア帝国での生活は苦しかったでしょう。

 

しかし、彼にとって、この世は54節で詩人が言うように「仮の宿」です。捕囚が永遠に続くのではありません。「仮の宿」は寄留の家のことです。

 

必ず主なる神は、神の民たちを、寄留の家であるバビロニア帝国から救い出してくださり、エルサレムに帰還させてくださいます。そこで再び神の民たちは、主なる神を礼拝するのです。

 

その喜びを、詩人は「あなたの掟をわたしの歌とします」と告白しているのです。エルサレムの都に再び神殿が建てられ、神の民たちは主なる神を礼拝し、主なる神を賛美するのです。

 

詩人は、5556節でこう歌っています。

 

「主よ、夜ともなれば御名を唱え あなたの律法を守ります。あなたの命令に従うこと それだけが、わたしのものです。」

 

詩人は、神の律法を旧約聖書という書かれた形で知っているのです。レビ記と申命記には、主なる神への礼拝と命令が具体的に指図されています。詩人は、その神の律法のみ教えどおりに主を礼拝し、主に服従して生活するのです。

 

そして彼は、神の律法を守り、主なる神を礼拝し、主なる神の御いしい従う経験を重ねることで、今の神の律法を喜ぶ自分になったのだと告白するのです。

 

ウェストミンスター小教理問答の第一問に「人生のおもな目的は何ですか」とありますね。その答えはこうです。「人生のおもな目的は神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである。」

 

いつもウ小教理を読むごとに、この問1と答は不思議だと思いました。これは、何か信仰の命題なのかと思いました。

 

しかし、詩編119編の詩人が56節で「あなたの命令に従うこと それだけが、わたしのものです。」と告白する御言葉に出会って、ウ小教理の問1と答は、この問答を作ったウェストミンスター会議の牧師や神学者たち、長老たちの信仰経験から生まれたのではないかと、わたしは思ったのです。

 

喜んで自分の人生を神の栄光のために、神を永遠に喜ぶように生きようとするのは、彼らが聖書の御言葉に生きて、主なる神への礼拝を守り続けた経験を積み重ねたからではないかと。

 

昨日、一人の女性から電話がありました。堂々巡りの会話を1時間費やしました。しかし、徒労であったとは思っていません。その女性は、終始一貫して神の存在が信じられないと言われました。また、キリスト教の神は大勢の人を殺して、残虐であると言われました。いろいろ弁明はしましたが、納得はされませんでした。

 

話しは嚙み合いませんでしたが、一つ収穫がありました。どうしてわたしは、キリスト教を信じて、牧師になったのかということを、詩編119編の詩人の御言葉から教えられました。

 

「わたしがこうなったのは あなたの指図をわたしが守るからです」。

 

詩編119編の詩人が56節で告白している言葉を、そのように訳すことができると思います。

 

ミッションスクールの大学の近くに、日本キリスト改革派教会の宝塚教会がありました。わたしは大学の恩師に誘われて、その教会の礼拝に出てから、毎週の日曜日に礼拝において牧師の説教を聞き続けました。熱心な求道者ではありませんでした。よく眠っていたからです。

 

しかし、牧師が聖書から解き明かす説教は、まさに主の指図でした。聖霊は、その指図に従って、わたしに信仰を与え、洗礼と導き、神の恵みの契約の一員にしてくださいました。

 

そして聖書に従って、礼拝を守り、聖書と教理を学びました。こうして深く聖書に親しむ生活を続けました。その体験の積み重ねから伝道者への召しを与えられ、神学校に入りました。そして、卒業して四国中会で伝道者として働き始めました。今年6月終わりで伝道者40年になります。

 

この40年間、聖書の御言葉に親しみ、主を礼拝し、主の御言葉を語り続ける体験を積み重ねてきました。「それだけが、わたしのものです。」

 

わたしは、思うのです。あと何年生きることができるでしょうか。これから命ある限り、この上諏訪湖畔教会で聖書の御言葉に従って礼拝を共に守り、共に聖書の御言葉を、主の指図をわたしたちは守り、その経験の積み重ねによって、この詩人のようにわたしたちが神の栄光をあわらし、永遠に神を喜ぶことが、わたしたちのものだと告白したいと思うのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編1194956節の御言葉の学び、詩編119編の詩人の信仰生活を学ぶ機会を得られたことを感謝します。

 

どうかわたしたちが聖書に従って上諏訪湖畔教会の礼拝を守り、牧師の説教を聞き続けて、この経験の積み重ねによって、それだけがわたしのものですと告白させてください。

 

詩編119編の詩人を通して、幸いな人生が物質的な豊かさではなく、聖書の御言葉に親しむ中にあることを教えられました。

 

どうか主の恵みの契約の中にわたしたちを生かしてください。主をわたしたちの神とし、わたしたちが主の民である恵みに生かしてください。

 

どうかこの世の苦しみの中で、主イエスがわたしたちに心を留めてくださり、苦難の中からわたしたちを救われるという希望を持たせてください。

 

どうか共に聖書に従って神を礼拝し、神の御言葉を聞き続け、それだけがわたしのものとなるようにしてください。

 

どうか聖霊よ、わたしたちが聖書の御言葉に従い、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ばせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教119-8           主の2021530

主はわたしに与えられた分です。わたしの分け前、主は。

御言葉を守ることを約束します。わたしは言った、あなたの言葉を守ることを。

御顔が和らぐのを心を尽くして願い求めます。わたしは願う、あなたの御顔を

仰せのとおり、わたしを憐れんでください。心の全てで。わたしを憐れんでく

わたしは自分の道を思い返し ださい。あなたの仰せのとおり。わたしはわが

立ち帰ってあなたの定めに足を向けます。道をよく考えて、わたしの両足をあわたしはためらうことなく なたの定めに返しました。わたしは急ぎ、躊躇い

速やかにあなたの戒めを守ります。ませんでした、あなたの戒めを守ることを。

神に逆らう者の縄が 悪人たちの縄が

わたしをからめとろうとしますが わたしに巻き付いても

わたしはあなたの律法を決して忘れません。あなたの律法を、わたしは忘れま

夜半に起きて せん。真夜中にわたしは起きて、

あなたの正しい裁きに感謝をささげます。あなたを讃えます、あなたの義の法

あなたを畏れる人、あなたの命令を守る人 に従って。わたしは友だ、あなた

わたしはこのような人の友となります。 を畏れる者たちの、またあなたの指

主よ、この地はあなたの慈しみに満ちています。 図を守る人たちの。主よ、

あなたの掟をわたしに教えてください。あなたの慈しみで、地は満ちています。

                  あなたの掟を、わたしに教えてくださ                 

い。

                   詩編第1195764

 

説教題:「主を信じる者の友となる」

 

今朝は、詩編第1194956節の御言葉を学びましょう。

 

ヘブライ語のアルファベット、「ヘト」の段落です。

 

さて、詩人は、57節で「主はわたしに与えられた分です」と信仰告白しています。ヘブライ語の二文字の短い信仰告白です。そのまま日本語にすると、「わたしの分け前、主は」です。

 

詩人だけではなく、詩編16編の詩人ダビデも「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。」と信仰告白しています。「分け前」も「杯」も共に主なる神から分け与えられた財産です。「わたしの嗣業」と同じ意味です。

 

「嗣業」は、「嗣ぐ」という動詞から派生した名詞です。相続した財産、特に土地のことです。

 

旧約聖書のヨシュア記に主なる神が神の民イスラエルの12部族に占領したカナンの地を嗣業の土地として分け与えられたことを記しています。

 

ところが、神の民イスラエルの中で祭司アロンの家系とレビ族は、土地ではなく主なる神御自身を嗣業としました。

 

旧約聖書の民数記1820節で主なる神は大祭司アロンにこう言われています。「あなたはイスラエルの人々の土地のうちに嗣業の土地を持ってはならない。彼らの間にあなたの割り当てはない。わたしが、イスラエルの人々の中であなたの受けるべき割り当てであり、嗣業である。」。

 

大祭司アロンの家系とレビ族は、神の民イスラエルのために主の幕屋に仕えることが、神から受ける分け前でした。

 

このことを承けて、119編の詩人は「主はわたしの分け前」と信仰告白しています。分け前とは神からの恵みの賜物のことです。それが土地であり、息子たちであり、神の民イスラエルです。

 

詩人が祭司、あるいはレビ人であったかどうか、分かりません。

 

旧約聖書の哀歌324節で預言者が、こう信仰告白しています。「『主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い わたしは主を待ち望む。」と。

 

哀歌の預言者は、祭司とレビ人が嗣業の地を持たず、主なる神を分け前としていることに関係して信仰告白しているのではありません。

 

南ユダ王国とエルサレムの都は、バビロニア帝国のネブカドネツァル王によって滅ぼされました。神の民イスラエルはバビロニア帝国に捕囚されました。すべての支えを失ってしまいました。しかし、彼は主なる神だけが彼と神の民を支えてくださるので、「わたしは主を待ち望む」と信仰告白しています。

 

哀歌の預言者が「主こそわたしの受ける分」と信仰告白するのは、ただ主なる神だけが恵みを施してくださる御力を持たれているという意味です。だから、彼は「わたしは主を待ち望む」と、主なる神にのみ希望を持っているのです。

 

119編の詩人も「主はわたしに与えられた分」と信仰告白するのは、主なる神だけが彼に恵みを施され、彼を支えてくださるお方という意味です。

 

それによって彼は、彼の生きる支えとなってくださった主なる神の恵みに対して、57節の後半で彼は、主なる神にこう誓うのです。「御言葉を守ることを約束します」と。

 

119編の詩人は、主なる神に信仰の服従を誓っているのです。

 

さらに詩人は、58節で主なる神に赦しを乞い求めています。「御顔が和らぐのを心を尽くして願い求めます。仰せのとおり、わたしを憐れんでください。」

 

旧約学者の関根正雄氏は、こう訳されています。「心をつくしてわたしはあなたの宥しを求める。みことばに従ってわたしに恵みを与えて下さい。」と。

 

「御顔が和らぐのを」とは、主なる神が詩人の罪を赦してくださることです。詩人は主なる神に全力で罪の赦しを乞うているのです。

 

詩人がどんな罪を主なる神に対して犯したのか、分かりません。詩人は心をつくして主なる神に赦しを乞うています。「仰せのとおり、わたしを憐れんでください。」と。

 

その背景に主なる神が神の民イスラエルとシナイ山で契約を結ばれました時、主なる神はモーセを通して彼らに十戒を授けられた出来事があります。

 

主なる神は彼らにこう言われました。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(出エジプト20:56)

 

主なる神の慈しみは、岩の如く堅固で変わることはありません。だから、詩人は主なる神の御言葉に従って変わることのない主なる神の慈しみに寄り頼んでいるのです。

 

親鳥が鄙を翼で覆うように、主なる神が詩人を慈しみで覆ってくださり、彼の罪を赦し、憐れんでくださいと、彼は乞い願っているのです。

 

詩人は、59節で「わたしは自分の道を思い返し 立ち帰ってあなたの定めに足を向けます。」と、罪を悔い改めています。彼は主なる神に立ち帰り、主の律法に堅く立ちますと誓っているのです。

 

詩人は60節で「わたしはためらうことなく 速やかにあなたの戒めを守ります。」と誓っています。神の戒めを守るのに、彼は躊躇しない、速やかに実行します。

 

そして彼は、神の律法を守り抜く覚悟をしているのです。

 

だから、彼は、61節で「神に逆らう者の縄が わたしをからめとろうとしますが わたしはあなたの律法を決して忘れません。」と誓っています。

 

詩人は、異国で捕囚生活をしています。偶像礼拝の罪の誘惑を、彼は常に身近に感じながら生きていたでしょう。また同時に富の誘惑もあったでしょう。主なる神を畏れないで、不正に富を蓄え、悪事に誘おうとしたでしょう。

 

詩人は、常に神の律法を守り、主なる神を支えにして生き抜くことを誓っているのです。

 

詩人は、62節で「夜半に起きて あなたの正しい裁きに感謝をささげます。」と歌っています。詩人は、真夜中に起きて、主なる神に感謝をささげました。これは、夜中に定められた祈りの時のことです。

 

「あなたの正しい裁き」とは、「あなたの義の法に従って」です。これは、神の正しい律法ということです。詩人は、神の正しい律法に従って真夜中に起きて、主なる神に感謝をささげるのです。

 

さらに詩人は、捕囚の地で一人信仰生活をしているのではありません。仲間がいます。だから、彼は、63節で「あなたを畏れる人、あなたの命令を守る人 わたしはこのような人の友となります。」と言うのです。

 

彼が友となるのは、主なる神を畏れる者たち、主なる神の律法を守っている者たちです。彼は、捕囚の地で信仰の友たちと共に主なる神を礼拝し、主なる神の律法を守り、共に生きていくと言っているのです。

 

捕囚の地は、神の民イスラエルにとって過酷な地であったでしょう。彼らは偶像礼拝を強要され、不正に満ちた社会の中に生きなければなりませんでした。

 

しかし、詩人は64節で次のように主なる神を賛美し、主なる神に服従して生きて行こうとしています。「主よ、この地はあなたの慈しみに満ちています。あなたの掟をわたしに教えてください。」。

 

確かに現代でもこの世は不義と不正に満ちています。わたしたちは今コロナウイルスの捕囚の中にあります。

 

この災禍の中で2年目を過ごしています。コロナウイルスによって格差社会があらわになりました。

 

今東京オリンピックの開催が問題になっています。スポーツの祭典という美名の下で巨額の放映権で貴族生活をしている人々を支えるために、日本国民は大きな犠牲を、命を犠牲にしようとしています。

 

また毎日、ネットニュースでこの世の不正が暴かれています。そしてオリンピックだけではなく、この世の富める者がさらに富を得るために多くの貧しい者たちを犠牲にし、虐げています。

 

しかし、わたしたちが目にする罪に満ち、不正に満ちたこの地を、詩人は主なる神の慈しみが満ちていると賛美しています。

 

詩人は、主なる神に神の律法を教えてくださいと祈ります。64節のこの「あなたの掟」は、神の律法です。すなわち、神御自身の御心です。詩人は、主なる神御自身の御心を知り、この世を生き抜こうとしています。

 

宗教改革者カルヴァンは、こう述べています。「神は、その約束のすべてにおいて、われらのために自発的な債務者として御自身を示される」と。

 

この不正に満ちた地に生きる神の民イスラエルのために、主なる神は恵みを与える義務を負う者として、御自身をヘリ下り、お示しになりました。

 

捕囚の地から彼らを帰還させるために、主なる神はペルシア帝国のキュロス王をお用いになりました。

 

主なる神は、神の民イスラエルを慈しまれて、エルサレムに帰還させて、神殿とエルサレムの都を復興されます。

 

そして、キリストの教会を建て上げるために、主なる神はヘリ下り、人としてこの世に来てくださいました。御子主イエス・キリストの十字架と復活を通して、この世に父なる神の愛をお示しになりました。わたしたちが詩人のように心をつくして自分たちの罪を赦し求めるようにしてくださったのです。

 

今では主なる神の御心を、聖霊と聖書を通して、わたしたちは知る道を与えられているのです。十字架の主イエスの御前でわたしたちは、自分たちの罪を告白し、罪の赦しを乞い願うのです。

 

その時に主イエスを通して、わたしたちの世界に神の慈しみが満ちあふれていることと主なる神を畏れ、主イエスの信仰に共に生きる友たちを、わたしたちも見出すことが許されているのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編1195764節の御言葉を学び、詩人の信仰を学ぶ機会を得られたことを感謝します。

 

どうか詩人のように、わたしたちもためらうことなく主なる神の御前にわたしたちの罪を悔いることができるようにしてください。

 

どうかこの世の悪の誘惑に対して神の御言葉によって打ち勝たせてください。

 

どうか主なる神を畏れる者たちと神の御言葉を守る者たちを、わたしたちも友として共に信仰に歩ませてください。

 

わたしたちも、この世に主イエス・キリストの十字架と復活の福音を通して、この世に主なる神の慈しみが満ちていることを見させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

詩編説教119-8           主の2021627

主よ、あなたの御言葉のとおり あなたは善を行った、あなたの僕に、

あなたの僕に恵み深くお計らいください。主よ、あなたの言葉に従って。

確かな判断力と知識をもつように 悟りと知識を、

わたしを教えてください。 わたしに教えてください。

わたしはあなたの戒めを信じています。まことにわたしはあなたの命令を信じ

わたしは迷い出て、ついに卑しめられました。ています。惨めになる前に、わ

今からは、あなたの仰せを守らせてください。たしは迷っていましたが、今は

あなたは善なる方、すべてを善とする方。あなたの仰せを、わたしは守って

あなたの掟を教えてください。 います。あなたは善き方、そして善を施す方。

傲慢な者は偽りの薬を塗ろうとしますが あなたの掟を、わたしに教えて

わたしは心を尽くしてあなたの命令を守ります。ください。高慢な者はわたし

彼らの心は脂肪で閉ざされています。の上に偽りを塗りました。わたしは心を

わたしはあなたの律法を楽しみとします。尽くしてあなたの指図を守ります。

卑しめられたのはわたしのために良いことでした。太っています、脂肪のよう

わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。に、彼らの心は。わたしは、

あなたの口から出る律法はわたしにとって あなたの律法を楽しみます。

幾千の金銀にまさる恵みです。わたしが苦しめられたのは、わたしには

              善い事でした。わたしがあなたの掟を学ぶため

              でした。わたしにはあなたの口から出る律法は、

              幾千の金銀に勝る幸いです。 

                   詩編第1196572

 

説教題:「善なる主、善とする主」

 

今朝は、詩編第1196572節の御言葉を学びましょう。

 

詩人は、68節で「あなたは善なる方、すべてを善とする方。」と信仰告白しています。今朝はこの御言葉を心に留めて、お話ししましょう。

 

聖書の神、主なる神は、人間に、近づかれる神です。

 

主なる神は、神の民イスラエルの先祖、アブラハムに近づかれました。主は、彼を召し出され、御自身の御旨を啓示されました。

 

そして、主なる神はアブラハムと恵みの契約を結ばれました。主なる神が彼と彼の子孫の神となり、アブラハムと彼の子孫が主なる神の民となるという契約です。

 

それによって、この世に神の民イスラエルが存在するようになりました。

 

主なる神は、アブラハムとの契約をお忘れになりませんでした。彼の子孫たちを、奴隷の地エジプトから救い出されて、シナイ山でアブラハムとの契約を更新し、彼らに十戒の二枚の板を授けられました。

 

それが、年月を経て、神の律法という書物にまとめられ、今日の旧約聖書が編纂されました。神の民イスラエルは、神殿の礼拝においてレビが神の律法を朗読し、それを解説するのを聞くという形で、主なる神と交わり、主なる神に服従しました。

 

主なる神は、神の啓示の書である聖書とその説き証しである説教を通して、わたしたちに近付いてくださるのです。そして、主なる神は、わたしたちが神と隣人を愛して、共に生きる道を教えてくださるのです。その教えが十戒であり、主イエスの愛の律法です。

 

主なる神が神の民に与えられた神の律法、特に十戒はわたしたちに神の御前における罪を自覚させるものです。ミァーズという聖書学者は「律法はわれわれに自分の罪の大きさを示す神の鏡である」と言っています。

 

そして神の律法は、わたしたちの罪を明らかにするだけではなく、わたしたちに十字架のキリストが必要であることを指示してくれているのです。

 

詩編119編にはイエス・キリストは出てきません。しかし、詩人は、神の御言葉であるキリストを、彼の師とし、彼は主の僕として神の律法を愛し、楽しみ、喜んで学んでいます。

 

詩人は、まるで苦難の主イエスに従うかのように、苦難の道を歩んでいます。

 

詩人は、69節で「傲慢な者は偽りの薬を塗ろうとしますが わたしは心を尽くしてあなたの命令を守ります。」と歌っています。

 

フランシスコ会訳聖書は、「高ぶる者はうそを造り出してわたしを傷つける」と意訳しています。

 

詩人は、神の民の中にいる不敬虔な者たちから迫害されていたようです。彼らは、詩人についてのデマを流しました。神の民たちの目から詩人の本当の姿を隠し、デマによって詩人を中傷し、深く心を傷つけました。

 

七十人訳旧約聖書は、「おごる者たちの不正が我が上に増したが」と訳しています。

 

第二神殿以後のユダヤ社会の中で傲慢な者たちが主なる神を畏れないで、不正をなし、それが詩人の上に災いをもたらしていたと理解しているようです。

 

ヨブ記134節で次のような記述があります。「あなたたちは皆、偽りの薬を塗る役に立たない医者だ。」と。

 

ヨブの言葉です。彼が苦難の中にいたとき、彼を慰めるために3人の友人たちが訪れました。そして、彼らはヨブの苦しみを因果応報的に理解しました。ヨブが罪を犯したから、神は彼に災いを下されたのだと。しかし、彼らの助言はヨブを慰めるどころか、ヨブの心を深く傷つけるものでした。

 

詩人は、70節で「彼らの心は脂肪のように閉ざされています」と述べています。脂肪には神経がありません。だから、脂肪は無感覚です。傲慢な者たちの心は、脂肪のように主なる神に対して無感覚になっているのです。だから、彼らは、主なる神を畏れることなく、心を閉ざして、不正をなし、貧しい詩人を苦しめていたのです。

 

しかし、詩人は、苦難の中で主なる神から離れようとしません。むしろ、逆です。主なる神の律法を、心を尽くして守ると、彼は主なる神に誓っています。

 

詩人は71節で「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」と歌っています。

 

「卑しめられた」は、「苦しめられた」ことです。詩人は傲慢な者たちから苦しめられ、卑しめられたのです。しかし、その苦難を通して、彼は神の律法を学ぶという幸い、恵みを得ました。

 

「良い」という言葉は、幸いを意味します。詩人にとって苦難は、神の律法を学ぶ良き機会となり、彼にとって幸いとなりました。

 

そして、詩人は72節で次のように歌っています。「あなたの口から出る律法はわたしにとって幾千の金銀に勝る」と。

 

詩人は、苦難を通して神の律法を学ぶ機会を得て、神の律法がこの世の金銀に勝るものであることを知りました。

 

だから、詩人は、67節で次のように賛美しています。「わたしは迷い出て、ついに卑しめられました。今からは、あなたの仰せを守らせてください。」

 

「迷い出て」は、知らずに犯す過失を表す術語です。67節をそのまま日本語にすると、こうなります。「苦しむ前に、わたしは迷っていましたが しかし、今は、あなたの言葉をわたしは守っています。」

 

彼が主の御前にどんな過失を犯していたのかは分かりません。

 

分かることは、詩人が苦難を契機に回心したことです。苦難の前は神の律法から離れていたのかもしれません。しかし、苦難を経て、今詩人は、主なる神に立ち帰り、神の律法を守り、神の民の道に生きているのです。

 

65節で詩人は、「主よ、あなたの御言葉のとおり あなたの僕に恵み深くお計らいください」と歌っていますね。祈りの形ですね。

 

しかし、ヘブライ語の聖書は、そのまま日本語にすると、こうです。「あなたは善を行った、あなたの僕に、主よ、あなたの言葉に従って。」。

 

詩人は、「主よ、あなたはあなたの御言葉に従って、あなたの僕を良くしてくださいました」と言っているのです。

 

「良くする」という言葉は、「善をなす」ということです。そしてこの「善」という言葉が「恵み」を意味します。だから新共同訳聖書は、「あなたの僕に恵み深くお計らいください」と訳しているのです。

 

詩編を調べる時、わたしが参考にする本の一つは、月本昭男氏の「詩編の思想と信仰」という本です。

 

月本氏は65節をこう訳されています。「あなたはあなたの僕に幸いを果たされました。ヤハウェよ、あなたの言葉にしたがって。」

 

「良い」を、「幸い」と訳されています。「幸いを果たされました」という訳は素晴らしいです。詩人の心を良く表していると思います。

 

詩人の関心は、主なる神が詩人にどんな幸いをお与えくださったか、です。

 

詩人は、主なる神が彼に良きことをしてくださった、幸いを果たしてくださったと、過去における主なる神の恵みを賛美しているのです。

 

だから、詩人は、主なる神を、68節で「あなたは善なる方、すべてを善とする方」と信仰告白するのです。

 

「善」は、「恵み」を意味します。だから「あなたは恵み深く、恵みを施される」と訳すこともできます。

 

聖書の神は、「善なる方」で、すべてを善とするお方であり、恵み深くて、恵みを施されるのです。

 

だから、詩人は68節で「あなたの掟を教えてください」と祈っているのです。神の律法、すなわち、聖書だけが、主なる神が善なるお方で、わたしたちのためにすべてを善としてくださり、恵み深くて、わたしたちに恵みを施されることを教えることができるのです。

 

しかし、主なる神がわたしたちに、66節で詩人が言う「確かな判断力と知識を持つように」して下さらなければ、わたしたちは神の律法と聖書が教えていることを理解できないのです。

 

月本氏は、66節を「聡明さと知識を私に教えてください。じつに、わたしはあなたの命令を信じました。」と訳されています。

 

わたしたちが主なる神と主なる神がわたしたちのために為された恵みを知る手段は、聖書のみです。

 

しかし、詩人が祈っていますように、判断力と知識、あるいは聡明さと知識を持たないと、理解することは難しいでしょう。

 

聖書はわたしたちの感覚では読むものです。しかし、詩人にとって、神の民イスラエルにとって、神の律法、聖書は聞くものです。神殿の礼拝でレビ人が神の律法を朗読し、解説するのを、神の民たちは聞きました。

 

使徒パウロがローマの信徒への手紙1017節で信仰についてこう述べています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」と。

 

教会では、教会学校があります。子どもたちか大人まで、礼拝前にキリスト教教理の学びをします。その学びが、わたしたちが礼拝で説教を聞くことの予備知識となります。聖書についての知識を持ち、その知識によって、聖書の御言葉、神の御言葉を理解するのです。

 

詩人は、66節で「わたしはあなたの戒めを信じています」と信仰告白しています。彼は、神の律法の書を神の御言葉と信じているのです。彼の心で判断しているのです。

 

また、69節で、傲慢な者たちの心が脂肪のように、神の律法に対して無感覚になっているが、彼は主なる神に「わたしは心を尽くしてあなたの命令を守ります。」と力強く誓いをしています。

 

神の律法を、聖書を正しく聞き取ることは、主なる神に服従する信仰と主なる神を信じて従うことを、一つに合わせた神への応答であり、彼の判断であります。

 

詩人は、30節で「信仰の道をわたしは選び取りました」と告白しています。この詩人の告白は、神の民、そしてキリスト者であれば、経験している信仰の判断です。

 

契約の子たちは両親と共に、親と共に礼拝で聖書朗読と説教を聞くのです。求道者も信者と共に礼拝で聖書朗読と説教を聞くのです。

 

それは、この諏訪地方で、諏訪大社のお膝元で、キリスト教を、主イエスを信じて生きる信仰の道を選び取ることなのです。

 

そのために詩人同様に、わたしたちも主なる神に「心の聡明さによって得られる判断と聖書を学び、説教を聞いて理解するために必要な知識を教えてください」と祈る事が大切だと思います。

 

心の聡明さ、判断力は、聖霊の助け無くして得られないでしょう。

 

では、神に背を向けて生きている人々が、どこで心の聡明さを得るのでしょう。どこで主を畏れる心を得るのでしょう。

 

聖書の箴言の中に「主を畏れることは、知恵の初め。」(箴言1:7)とあります。「主を畏れる」ことは、真に主を知ることなくして起こり得ないでしょう。

 

わたしにとって主なる神への畏敬を心に持つ機会となったのは、教会の礼拝の場です。まさにわたしがキリストの十字架の言葉を聞いた時です。わたしの罪のために、その身代わりとして死なれたキリストの福音を聞いた時です。

 

キリストの十字架によって、わたしたちの罪と同時に、キリストの義と聖が明らかにされました。キリストがわたしたちの贖いとなってくださったので、わたしは毎週ごとに教会の礼拝において主なる神に近づくことがゆるされているのです。

 

キリストの十字架の福音こそが、わたしにとって幾千の金銀に勝る神の恵みなのです

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編1196572節の御言葉を学び、詩人の信仰を学ぶことを通して、自らの信仰を辿る機会を得られたことを感謝します。

 

どうか詩人の信仰を、わたしたちの信仰の鏡として、自らの信仰を見つめ直させてください。

 

どうか詩人のように、この世における苦難が、わたしたちが聖書を学ぶ機会となるようにしてください。

 

どうか詩人のように毎週の主の日の礼拝で、聖書朗読と説教を聞くことによって、わたしたちはこの諏訪の地で、異教の社会の中で、主イエスに従う道を選び取ったのだということを確信させてください。

 

どうか、上諏訪湖畔教会がこの世の人々に大胆にキリストの十字架の福音を伝えさせてください。

 

わたしたちの礼拝と主にある交わりを通して、ここに復活の主イエスが共に居てくださっていることを証しさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教119-9           主の2021627

御手がわたしを造り、固く立ててくださいました。あなたの御手がわたしを造

あなたの戒めを理解させ、学ばせてください。 り、わたしを固く据えた。わ

あなたを畏れる人はわたしを見て喜びます。 たしに悟らせたまえ、わたしは

わたしが御言葉を待ち望んでいるからです。学ぼう、あなたの命令を。あなた主よ、あなたの裁きが正しいことを を畏れる者たちは、わたしを見て喜び

わたしは知っています。 ましょう。まことにわたしは御言葉を待ち望み

わたしを苦しめられたのは ました。わたしは知る、主よ。あなたの法は義、

あなたのまことのゆえです。真実でもってわたしを苦しめられたことを。

あなたの慈しみをもって どうぞ、あなたの慈しみが

わたしを力づけてください。 わたしの慰めとなるように。

あなたの僕への仰せのとおりに。 あなたの僕へのあなたの仰せのとおりに。

御憐れみがわたしに届き あなたの憐れみがわたしに訪れて、

命を得させてくださいますように。わたしは生きるでしょう。

あなたの律法はわたしの楽しみです。 実にあなたの律法はわたしの喜びです。

わたしを偽りによって迷わせた傲慢な者が 傲慢な者たちが恥ますように、

恥に落とされますように。 わたしを虚偽で抑圧したからです。

わたしはあなたの命令に心を砕きます。 わたしはあなたの指図を思い巡らし

あなたを畏れる人、あなたの定めを知る人が  ましょう。わたしに戻るよう

わたしのもとに立ち帰りますように。 に、あなたを畏れる者たちとあなたの

わたしの心があなたの掟に照らして  定めを知る者たちが。わたしの心が

無垢でありますように。あなたの掟によって完全となるように。

そうすればわたしは恥じることがないでしょう。 わたしは恥じ入ることが

                       ないでしょう。

                   詩編第1197380

 

説教題:「命を得させる神の憐れみ」

 

今朝は、詩編第1197380節の御言葉を学びましょう。

 

ヘブライ語のアルファベットのヨドの段落です。この段落は、神の律法を表わす8つの言葉がすべて出てきます。戒め、御言葉、裁き、仰せ、律法、命令、定め、掟です。

 

詩人は、78節で「わたしを偽りによって迷わせた傲慢な者が 恥に落とされますように。」と祈っています。傲慢な者たちの偽りによって詩人は、苦しめられていました。

 

神の民イスラエルの敵は、外と内にいます。外の敵は異邦人たちです。内の敵は、神の民イスラエルの中にいる悪人たちです。悪人は不敬虔な者たちのことです。

 

78節の「偽り」とは、虚偽のことです。詩人は、悪人によって事実を曲げられ、苦しい立場に追い込まれていました。彼の友たちも、彼から離れてしまいました。

 

だから、彼は、79節で「あなたを畏れる人、あなたの定めを知る人が わたしのもとに立ち帰りますように。」と祈っているのです。

 

また、詩人は、彼の苦難を主なる神の真実のゆえであると歌っています。75節です。「主よ、あなたの裁きが正しいことを わたしは知っています。わたしを苦しめられたのは あなたのまことのゆえです。」

 

「あなたの裁き」を、宗教改革者カルヴァンは、詩編注解においてこう記しています。「神が人間を招いて悔い改めへと至らせるための懲罰という意味で用いていると思われる」と。

 

わたしは、ちょっと、違うのでは、と思うのです。詩人は、主なる神に自分の罪を告白しているでしょうか。むしろ、彼は彼の敵が恥に落とされ、彼の友が彼に立ち帰るように祈っているのです。

 

詩人は、同胞の神の民に虚偽によって事実を曲げられ、苦境に陥りました。そして63節で詩人が「あなたを畏れる人、あなたの命令を守る人 わたしはこのような人の友となります。」と歌った、彼の友たちに誤解され、彼らは彼から離れ去りました。だから、詩人は、主なる神に彼らが彼のところに帰ってくれるようにと祈っているのです。

 

少し話がそれてしまいましたね。もう一度「あなたの裁き」に戻りましょう。彼は、75節で「主よ、あなたの裁きが正しいことを わたしは知っています。わたしを苦しめられたのは あなたのまことのゆえです。」と歌っています。

 

詩人は、苦難を受け、身を低くされました。彼は、その苦難の中で主なる神の裁きが正しくて、自分の苦難は主なる神の真実のゆえであると告白するのです。

 

言葉の説明だけでは、納得できませんね。聖書から一つ例を挙げてみましょう。旧約聖書のヨシュア記7章です。有名なアカンの盗みの罪を、神の民たちがくじを引いて明らかにした事件を記しています。

 

神の民イスラエルが奴隷の地エジプトを脱出し、40年間荒れ野を放浪した後、指導者ヨシュアに率いられて約束の地カナンに入りました(旧約聖書のヨシュア記)

 

彼らはヨルダン川を渡り、エリコの町を占領しました(ヨシュア記6)。その時にアカンが主なる神への奉納物にすべき銀を盗みました(ヨシュア記7)

 

主なる神は神の民イスラエルに怒りを発せられました。だから、神の民たちは、小さな町アイを占領できませんでした(同上)

 

ヨシュアが主なる神にお伺いを立てました。すると、主なる神は、彼に神の民イスラエルが罪を犯して、主との契約を破ったと答えられました。そして、主なる神は、ヨシュアに民を清めるように命じ、彼らにくじを引かせて、罪を犯した者とその家族、彼らの持ち物すべてを滅ぼすように命じられました。

 

くじの結果、ユダ族のアカンが罪を犯したことが判明しました。ヨシュアは、アカンに告げました。「わたしの子よ、イスラエルの神、主に栄光を帰し、主をほめたたえ、あなたが何をしたのか包み隠さずわたしに告げなさい。」(ヨシュア記7:19)。アカンは包み隠さず彼の犯した罪を告白しました。

 

主なる神はアカンを裁き、彼と彼の家族、そして彼の持ち物すべてを滅ぼされました。アカン自身が、そしてヨシュアを始めイスラエルの民たちすべてが主なる神の裁きを正しいとし、主なる神に栄光を帰し、主をほめたたえました。

 

これが神の民イスラエルの信仰であり、この詩人の信仰です。

 

75節の「まこと」は、「信じる」「真実」「アーメン」と同じです。態度がしっかりしていて信頼できるという意味です。

 

神の民イスラエルの信仰は、一時的なものではありません。彼らの先祖アブラハムが主なる神と恵みの契約を結び、主なる神は彼と彼の子孫の神となり、彼と彼の子孫は主なる神の民となりました。それから詩人の時代までおよそ1700年を経過していたでしょう。

 

神の民のイスラエルの信仰は、継続的に信じ続けられました。主なる神はアブラハム、その子イサク、そして孫のヤコブと契約を更新されました。そして、出エジプト後、シナイ山で主なる神は指導者モーセを通して神の民イスラエルと契約を更新されました。

 

主なる神は、神の民イスラエルの不信仰のゆえに、恵みの契約をお捨てにはなりませんでした。神の民イスラエルが1700年間主なる神への信仰を持ち続け、恵みの契約を保ち続けたのは、彼らの努力ではありません。主なる神が真実であられたからです。主なる神の態度はしっかりしていて、信頼できるものでした。主なる神は彼らを愛し、憐れみ、一方的に恵みを与え続けてくださいました。

 

だから、詩人は、今苦難の中にいても、主なる神に全き信頼を寄せているのです。主なる神は真実のお方であり、苦難の中にいる詩人をお見捨てになりません。むしろ、彼のところに主なる神が訪れてくださって、慈しみ、すなわち、主なる神が変わらない愛によって彼を慰め、励ましてくださるようにと、彼は祈ります(76)

 

また、主なる神の憐れみが彼を訪れ、彼が主なる神との生きた交わりを得られるようにと、彼は祈ります(77)

 

詩人は73節で「あなたの戒めを理解させ、学ばせてください」と祈っています。74節で「わたしが御言葉を待ち望んでいるからです」と歌っています。76節で「あなたの仰せのとおりに」と歌っています。77節で「あなたの律法はわたしの楽しみです」と告白しています。78節で「わたしはあなたの命令に心を砕きます」と歌っています。

 

詩人が述べています神の律法は、十戒や旧約聖書という文字で書かれたものではありません。詩人の心に刻まれた主なる神の御意志です。

 

預言者エレミヤがエレミヤ書313334節でこう述べています。「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない。」

 

詩人は、73節で「御手がわたしを造り、固く立ててくださいました。」と神賛美しています。

 

主なる神は、人を御自身のかたちに似せて、男と女に創造されました。人は創造主である主なる神と交わる者として造られました。そして、人は、心に神の律法を刻まれました。だから、詩人は、自分は神の律法に、神の思いに心を向けて生きる者として造られ、この世に固く据えられていると歌っているのです(73)

 

そして詩人は、80節で「わたしの心があなたの掟に照らして 無垢でありますように。」と祈っています。なぜなら、不敬虔な者たちのように、主なる神よって恥に落とされることはないからです。

 

わたしたちキリスト者は、主イエス・キリストの十字架によって罪を赦されただけではありません。聖霊によって再創造され、わたしたちの内には聖霊である主イエスが内住されています。

 

使徒パウロは、こう言っています。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ローマ14:79)

 

詩人は、主なる神の僕として、主なる神の律法に、彼の心に刻まれた主なる神の思いを巡らせて、どんな危難の中でも生きたのです。

 

彼を見て、わたしたちは喜ばないでしょうか。主イエスのものになったわたしたちのこの世における人生の模範を見出すからです。

 

神の御言葉を、主イエスを待ち望みましょう。どんな苦難の中でも主イエスの十字架による神の愛に信頼しましょう。主イエス・キリストの十字架による神の憐れみだけがわたしたちの罪を赦し、わたしたちに永遠の命を得させることができることを、心から確信しようではありませんか。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編1197380節の御言葉を学び、詩人の信仰を学ぶことを通して、わたしたちの信仰を顧みる機会を得たことを感謝します。

 

詩人の信仰は、わたしたちの信仰です。共にアブラハムの恵みの契約にあずかる者たちの信仰を学ぶことができて感謝します。

 

どうか詩人のように、この世におけるわたしたちの苦難を、主なる神の真実のゆえであることを確信させてください。

 

どうか詩人のように、変わることのない主なる神の愛と憐れみを、キリストの十字架を通して確信させてください。

 

どうか、毎週の主の日の礼拝で、わたしたちがキリストの御言葉を聞き、心に神の愛を刻むことができるようにしてください。

 

 どうか主イエスよ、毎週の礼拝ごとにわたしたちを訪れてくださり、あなたの慈しみと憐れ身によって、わたしたちを慰め励まし、わたしたちに永遠の命を得させてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教119-10           主の2021822

 

わたしの魂は 慕い絶え入るばかりです、あなたの御救いを わが魂は。

あなたの救いを求めて絶え入りそうです。あなたの御言葉を、わたしは

あなたの御言葉を待ち望みます。 待ち望みました。慕い絶え入りました、

わたしの目はあなたの仰せを待って衰えました。わが両眼は、あなたの仰せを。

力づけてくださるのはいつか、と申します。 いつあなたはわたしを慰めて

わたしは煙にすすけた革袋のようになっても くださるのか、と言って。

あなたの掟を決して忘れません。まことにわたしは煙の中の革袋のように

あなたの僕が長らえる日々はどれほどでしょう。なったが、あなたの掟を

わたしを迫害する者に対して わたしは忘れませんでした。あなたの僕の

いつあなたは裁きをしてくださるのでしょう。日々は幾つ。いつあなたは

傲慢な者はわたしに対して落とし穴を掘りました。行なわれますか、わたしを

彼らはあなたの律法に従わない者です。迫害する者たちの裁きを。掘りました、

あなたの戒めはすべて確かです。わたしに傲慢な者たちは落とし穴を。彼ら

人々は偽りをもってわたしを迫害します。はあなたの律法に従いません。

わたしをお助けください。あなたの命令はすべて真実です。偽りで彼らは

この地で人々はわたしを わたしを迫害しました。わたしを助けてください。

絶え果てさせようとしています。ほとんど彼らはわたしを滅ぼそうとしました、

どうかわたしがあなたの命令を この地で。しかしわたしはあなたの指図を

捨て去ることがありませんように。捨てませんでした。

慈しみ深く、わたしに命を得させてください。あなたの慈しみによって、

わたしはあなたの口から出た定めを守ります。わたしを生かしてください。

あなたの口の定めを守らせ

てください。

                   詩編第1198188

 

説教題:「迫害を受ける僕の祈り」

 

今朝は、詩編第1198188節の御言葉を学びましょう。

 

ヘブライ語のアルファベットのカフの段落です。この段落では、神の律法を表わす言葉が次のように出てきます。81節の「御言葉」、82節の「仰せ」、83節の「掟」、84節の「裁き」、85節の「律法」、86節の「戒め(命令)」、87節の「指図(命令)」、88節の「定め」です。

 

8188節は、迫害を受ける僕の祈りです。

 

詩人を迫害するのは、異教徒や異邦人ではありません。詩人は85節で「傲慢な者」「神の律法に従わない者」と述べています。詩人の同胞の民が彼を迫害するのです。

 

詩人は、78節で「わたしを偽りによって迷わせた傲慢な者が 恥に落とされますように。」と祈っていますように、85節で「傲慢な者たちはわたしに対して落とし穴を掘りました」と述べ、86節で「人々は偽りをもってわたしを迫害します。わたしを助けてください。」と、神に祈っています。

 

詩人は、神の律法に従わない者、傲慢な者、すなわち、悪人によって偽りの証言で、神の民たちの前で裁かれたのでしょう。

 

十戒の第九戒に「隣人に関して偽証してはならない」(出エジプト記20:16,申命記5:20)とあります。

 

悪人たちが彼を、偽りの証言で罠にかけ、苦しめたのでしょう。旧約聖書の列王記上21章に次のような出来事を記しています。北イスラエルの王国のアハブ王は王宮のそばにあったナボトのぶどう畑を手に入れたいと思いました。ところがナボトは彼の嗣業の土地を手放しませんでした。そこで王の妻イゼベルが偽りの証言によってナボトに王を呪ったという罪を着せました。そして偽りの裁判によってナボトは処刑にされ、王は彼のぶどう畑を奪いました。

 

悪人たちは、偽証によって詩人を罪人に仕立て上げようとしたのでしょう。そして彼らは、神の民たちの裁判において誓うという形で偽証によって詩人を罠にかけたのでしょう。

 

悪人は、主の御名によって偽りの証言をしたのですから、彼らの偽証は主なる神に対する直接な罪です。主なる神は悪人の罪を裁くと、神の御言葉、神の律法で約束してくださっています。

 

だから、主なる神はナボトを偽証によって殺し、彼のぶどう畑を奪ったアハブ王と妻もイゼベルに対して裁きを下されました。

 

悪人たちが偽りの証言によって彼を窮地に落とし入れましたので、主なる神に彼を苦難から救われるように希い願い続けたのです。

 

旧約の預言者ダニエルが悪人たちの偽りの証言によってライオンの穴に落とされ、主なる神に救われたように、詩人は神の御言葉が彼を救ってくれるように待ち望みました。

 

彼の苦難は長く続きました。彼の両目で、82節の「あなたの仰せ」、すなわち、神が書かれた律法で約束してくださったことを見ようと、待ち望みましたが、彼は疲れ果ててしまいました。

 

詩人は、彼の苦難がいつ終わり、主なる神は何時彼を慰めてくださるのか、83節で主なる神に申し立てています。

 

詩人は、主なる神に83節で「わたしは煙にすすけた革袋のようになっても」と述べていますね。「煙の中の革袋」です。詩人の危機的状況をたとえているのです。

 

神の民イスラエルは遊牧民たちのように天幕で生活した経験があります。エルサレムの都に住むようになっても、その経験は親から子へと伝えられたでしょう。

 

天幕の中で食事のために火がたかれました。その煙のために革袋の外側が煙ですすけました。革袋は乾燥し、表面にひびが入りました。その革袋のように詩人は迫害の熱と煙によって弱り果て、命の危険の中にあったのです。

 

詩人は、主なる神にそのような危機の中で、「あなたの僕はこれからどれ程生きられますか」と問うています。

 

しかし、詩人は、彼の苦難の中でも、83節で「あなたの掟を決して忘れません」と述べています。この「掟」は神の律法のことです。わたしは、出エジプト記2016節と申命記第520節の御言葉が浮かびます。彼は、十戒の第九戒の御言葉を決して忘れないと述べているのでしょう。

 

だから、詩人は、悪人の偽証に対して、主なる神の裁きを信じているのです。彼は、主なる神に84節で「わたしを迫害する者に対して いつあなたは裁きをしてくださるのでしょう。」と述べています。

 

詩人を罪に陥れるために、悪人たちは偽りの証言によって落とし穴を掘り、主なる神に対して罪を犯し、主なる神の律法に従っていません。それでも彼らは、この世において栄えているのです。権力を振るっているのです。

 

しかし、詩人は、86節で「あなたの戒めは確かです」と述べています。主なる神が約束された御言葉が真実であると確信するのです。

 

わたしたちに適用して言えば、書かれた聖書の神の御言葉の約束は確かである、真実であると、詩人は告白するのです。だから、詩人は、主なる神に素直にこう祈る事ができるのです。「人々は偽りをもってわたしを迫害します。わたしをお助けください。」と。

 

詩人は、命の危険の中にいます。耐えることに限界が来ています。しかし、詩人は、主なる神に87節で主なる神の命令を捨てることがないようにと祈るのです。

 

書かれた神の律法、すなわち、聖書の神の御言葉に、詩人が願う、彼の魂が焦がれる救いがあるからです。たとえ、詩人の命が尽きても、88節で詩人は主なる神にこう祈る事ができるのです。

 

「慈しみ深く、わたしに命を得させてください。わたしはあなたの口から出た定めを守ります。」

 

これは、神の民イスラエルの信仰の経験です。主なる神の僕である詩人は、同じ主なる神の僕アブラハム、モーセ、ダビデ、預言者たちの苦難を共にする者です。彼らの苦難を、旧約聖書は神の約束の御言葉に固く結び付けているのです。

 

主なる神はアブラハムと恵みの契約を結ばれました。「わたしはあなたとあなたの子孫との神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる」と約束されました。アブラハム、このイサク、孫のヤコブと、主なる神の僕はこの世において苦難の道を歩みました。しかし、彼らの生涯、そして彼らの子孫たちの生涯において主なる神は常に共に居てくださいました。

 

今朝の詩人の御言葉から、宗教改革者ジョン・カルヴァンは、次のように述べています。「最大の苦しみに陥ることがあろうとも、神に従順であることを止めないということが真の敬虔の体験なのである」と。

 

どうかこの詩人のように、聖書を通して、説教を通して語りかけてくださる神の御言葉を捨て去らないでください。その御言葉に慰めを得ようとしても、得られない苦しみが、この世にキリスト者として生きている限り、この詩人のようにあるかもしれません。

 

しかし、この詩人のように「あなたの戒めはすべて確かです。」と、わたしたちも告白しようではありませんか。聖書の神の御言葉の約束に基づいて、わたしたちが待ち望む救いには、一点の疑いもない子とは真実である」と告白しようではありませんか。

 

そして、この詩人が賛美する通りに、十字架の死に至るまで父なる神に従順であられた主イエス・キリストに、わたしたちの両目を向けようではありませんか。

 

主イエス・キリストは、この世における御自身の苦難を通して、詩人が祈りに答えて、「慈しみ深く、わたしに命を得させて」くださったのです。

 

神の律法に従わない者たちの罪を、主イエスは十字架において御自身の身に引き受けてくださったのです。

 

聖書の神の御言葉の約束は、この主イエスを信じる者は救われて、永遠の命を得るのです。だから、わたしたちは、この詩人のように聖書の神の御言葉を忘れてはなりません。捨ててはなりません。

 

どんな苦難の中にあろうと、十字架の主イエス・キリストを離れなければ、主なる神の救いを、わたしたちは聖書の神の約束の御言葉に基づいて待ち望むことができます。

 

だから、常に聖書を通して十字架の主イエス・キリストを、教会もわたしたちもこの世に向かって語り続けることが大切であります。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編1198188節の御言葉を学び、詩人の苦難の意味を学ぶ機会を得たことを感謝します。

 

詩人は、悪人の偽りによって命の危険の中にあっても、聖書に記された神の約束の御言葉から両目を離しませんでした。苦難に耐える限界の中でも、忘れず、捨て去ることなく、主なる神の御言葉に従順に生きることができるように、主なる神が彼に命を得させてくださり、救われるように祈りました。

 

わたしたちは、詩人の信仰によって、主なる神の僕たちの信仰と苦難を教えられました。アブラハム、モーセ、ダビデたちが神の恵みの契約に生きた信仰を思い起こすことができて感謝します。

 

何よりも、主イエス・キリストの十字架の苦難を通して、主イエスの従順によってわたしたちが救われた恵みを覚えて、心より感謝します。

 

どうか詩人のように、わたしたちも十字架の主イエスを常に両眼で見て、変わることのない主なる神の愛と憐れみを、わたしたちに命を得させてくださる神の救いを確信させてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

 

詩編説教119-11          主の2021926

 

主よ、とこしえに  永遠に主よ。

御言葉は天に確立しています。 あなたの言葉はまっすぐに立つ、天で。

あなたへの信仰は代々に続き  代々にあなたの真実(エムナー)(続き)

あなたが固く立てられた地は堪えます。あなたは地を固く立て、それは確立し

この日に至るまで  た。あなたの法に則り、それらは今日確立している。

あなたの裁きにつき従って来た人々は  実にすべてがはあなたの僕です。

すべてあなたの僕です。 

あなたの律法を楽しみとしていなければ あなたの律法がわたしの楽しみで

この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。 なければ、その時、わたし

わたしはあなたの命令をとこしえに忘れません。 は滅びていた、わたしの悩

それによって命を得させてくださったのですから。みの中で。永遠にわたしは

わたしはあなたのもの。どうかお救いください。 忘れない、あなたの指図を。

あなたの命令をわたしは尋ね求めます。 実にそれらによってあなたはわたし

神に逆らう者はわたしを滅ぼそうと望んでいます。を生かしてくださった。

わたしはあなたの定めに英知を得ます。あなたのもの、わたしは。わたしを

何事にも終わりと果てがあるのをわたしは見ます。救ってください。実に

広大なのはあなたの戒めです。あなたの指図を、わたしは尋ね求める。悪人

          たちは、望んでいます、わたしを滅ぼすことを。

あなたの定めをわたしは熟考しよう。完全なもの皆に

          わたしは終わりを見ました。広い、あなたの命令は非常

          に。

                   詩編第1198996

 

説教題:「神の御言葉は天に確立しています」

 

今朝は、詩編第1198996節の御言葉を学びましょう。

 

ヘブライ語のアルファベットのラメドの段落です。この段落では、神の律法を表わす言葉が次のように出てきます。89節の「御言葉」、90節の「信仰(真実)」、91節の「裁き()」、92節の「律法」、93節の「命令(指図)」、94節の「命令(指図)」、95節の「定め」、96節の「戒め(命令)」です。

 

90節の「信仰」はヘブライ語の「エムナー」で、「真実」という意味です。それを律法の同義語として、119編の詩人は用いています。93節と94節で「命令」という言葉が繰り返されています。これは「指図」という言葉です。ですから、このラメドの段落では、「掟」と「仰せ」という律法を表わす二つの言葉が欠けています。

 

先行のカフの段落、8188節は、迫害を受ける僕の祈りでした。詩人は何度も主なる神に救いを懇願しました。悪人が詩人の滅びを望んでいるという詩人の苦境は変わりません(95)

 

 

しかし、詩人は、主なる神の律法に楽しみと救いの希望を見出しています。それがラメドの段落の御言葉です。

 

詩人は、89節で「主よ、とこしえに 御言葉は天に確立しています。」と賛美します。口語訳聖書は、「主よ、あなたのみ言葉は天においてとこしえに堅く定まり」と訳しています。岩波書店の旧約聖書の詩編は、「とこしえにヤハウェよ、あなたの言葉は天に立つ」と訳しています。面白いのはリビングバイブルです。「ああ神様、あなたのおことばは天にある。びくともしない岩のようです。」と、未信者の方々にも理解していただこうとしています。

 

神の民たちはバビロン捕囚から帰還しました。その中に119編の詩人もいたでしょう。エルサレム神殿を再建し、エルサレムの城壁を補修し、帰還した神の民たちは彼らの共同体を造り上げるために、周りの異邦人たちの迫害と妨害に苦闘していたでしょう。

 

さらに彼らの中に主なる神に逆らう悪人たちがいました。彼らは富める者たちで、偽りの証言によって詩人を苦しめ、貧しい者たちを搾取し抑圧していました。

 

119編の詩人にとって身の危険がある困難な状況下で、彼が唯一信頼をおけるものが、主なる神の存在と主なる神の御言葉、律法でありました。

 

主なる神は永遠に天において変わることのない神の御言葉、神の律法を打ち立てておられます。神の御言葉は、この世の状況がどんなに変化しても、変わることはありません。

 

ですから、詩人は、90節で次のように神賛美できるのです。「あなたへの信仰は代々に続き あなたが固く立てられた地は堪えます。」

 

「あなたへの信仰」は、「あなたの真実」です。これは、アブラハム契約です。主なる神は、アブラハムと恵みの契約を結ばれました(創世記15章、17)。主なる神は、アブラハムと彼の子孫の神となり、彼と彼の子孫は主なる神の民となる約束です。この契約の保証として、主なる神はアブラハムに子のイサクを与え、カナンの地を嗣業の地として与えると誓われました。アブラハムと彼の子孫は、割礼と主なる神への服従(信仰)を求められました。

 

この契約は、既に天において確立していました。それを主なる神は、この世において実行されたのです。この恵みの契約に対する主なる神の真実は、アブラハムからイサク、ヤコブへと、そして神の民イスラエルへと引き継がれました。主なる神は、恵みの契約に対する真実を証しされ、奴隷の地から神の民を解放し、彼らを約束の地カナンに導かれました。そして、主なる神は約束の地にダビデ王国を建て、その王国が滅び、神の民たちがバビロンに捕囚されると、ペルシャ帝国のクロス王を立てて、彼らを約束の地に帰還させ、エルサレム神殿を再建し、エルサレムの都を再建されました。主なる神の真実によって、神の民は再び約束の地に生きることを許されたのです。

 

主なる神の真実は、この神の恵みの契約に対する真実です。神の民たちは繰り返し不信仰によって主なる神との恵みの契約を破りました。しかし、主なる神は、神の律法に記されたこの恵みの契約を破棄されませんでした。

 

詩人は91節で「この日に至るまで あなたの裁きにつき従って来た人々は すべてあなたの僕です。」と賛美しています。「あなたの裁き」は、あなたの法です。それを、恵みの契約と仮定すれば、今の詩人の時代まで、恵みの契約に従って来た者はすべて主の僕であると理解できます。

 

詩人が92節で「あなたの律法を楽しみとしていなければ この苦しみにわたしは滅びていたことでしょう。」と賛美しています。詩人が主なる神の律法に楽しみを見出したのは、その律法に記された法でありましょう。恵みの契約でありましょう。神の民の中の悪人たちが詩人を偽証によって罪に帰そうとしています。彼らは、詩人の命を滅ぼそうとしています。しかし、主なる神は御自身の律法によって、アブラハムとの恵みの契約の中に彼を入れてくださっているのです。

 

93節と94節の「命令」は、「指図」、または「証し」と訳せる言葉です。だから、詩人は93節で「わたしはあなたの証しをとこしえに忘れません。それによって命を得させてくださるからです」と神賛美しているのです。詩人は、94節で「わたしはあなたのもの。どうかお救いください。あなたの証しをわたしは尋ね求めます。」と神賛美しています。

 

このように主なる神の書き記された神の律法は、旧約聖書と言ってよいでしょう。そこに恵みの契約があり、それがアブラハムを始め神の民たちに命を得させているのです。その命は、恵みの契約の本質そのものです。主なる神が神の民の神となり、彼らが神の民となることです。主なる神と神の民たちの交わりこそ永遠の命です。詩人は、この恵みの契約によって彼は主なる神のものであると告白し、神の律法である旧約聖書から恵みの契約を探求し、この困難な状況からの救いを願っているのです。

 

95節で詩人が神賛美しますように、悪人が彼を滅ぼそうと願っているからです。詩人の願いは、この世に生き長らえることではないでしょう。命はこの世だけに限定されません。彼はとこしえの命を願っているのです。それは、具体的には主なる神の民となるということです。主なる神のものとなることで、詩人は主なる神と共にとこしえの命を得られるのです。

 

最後に詩人は、主なる神の創造と終末に目を向けています。詩人が生きている世界は、すべて主なる神が造られた世界です。神が造られたものはすべて、始まりがあり、終りがあります。

 

聖書の世界は、神が時間を造られ、万物を造られました。そして神の造られた世界は、終りが来るのです。神が造られた世界と歴史には終わりが来ます。

 

詩人は、ダビデ王国が滅び、ダビデ王国を滅ぼしたバビロニア帝国が滅んだことを見てきました。だから、彼は96節でこう神賛美します。「何事にも終わりと果てがあるのをわたしは見ます。広大なのはあなたの戒めです。」

 

この世ではどんなものでも、どんな出来事でも始まりがあり、終りがあります。その中で神の律法が記しています恵みの契約も始まりがあり、終りがありますが、それを定められた主なる神には、始めも終わりもありません。神の造られた世界は、永遠の主なる神の御計画によって、恵みの契約が神の民イスラエルだけではなく、異邦人にまで広がっているのです。

 

天に確立された御言葉、その証しである恵みの契約は、御子主イエス・キリストが仲保者となられ、わたしたち異邦人も、神の民とされ、神の御国の相続人としていただけるほどに、広大な恵みの契約なのです。

 

今生きているわたしたちの世界は、不条理であり、何時わたしたちは不幸な目に遭うか分かりません。

 

シモーヌ・ヴェイユがこう述べている言葉を昔読んだことがあります。すっかり忘れていましたが、この詩人の御言葉を理解しようとしました時に、昔の説教を読み返しました。

 

シモーヌ・ヴェイユはこう述べています。「本当の不幸が存在するといえるのは、人生を引っつかみ、根絶やしにするような出来事が起こって、直接にか間接にか、とにかく社会的、心理的、肉体的にその人生のありとあらゆる部分を痛めつける場合だけである」。

 

しかし、シモーヌ・ヴェイユは、続けてこう述べています。「じっと神の方へと向けられたたましいを持っている人は、決して絶望することがない」と。

 

聖書の詩編を読み、119編の詩人を知っていたのでしょうか。まさにシモーヌ・ヴェイユが述べているように、この詩人は常に彼の魂を主なる神に、神の律法の御言葉に向けているのです。神の恵みの契約の中に生きた詩人の信仰の先輩たちの信仰の歩みを見て来たのです。不幸な人生を生きた者がおり、主なる神に救われ、守られて、生きた者もいました。

 

しかし、今わたしたちは、主イエス・キリストを見ることが許されています。父なる神の独り子、主イエスが受肉し、この世で多くの苦難を身に受けられ、罪無き方であったのに、わたしたちの罪の身代わりとして十字架に死なれました。

 

このお方が今や恵みの契約の仲保者として、詩人同様にわたしたちを恵みの契約によって、キリストのものとしてくださったのです。罪に死ぬわたしたちに、御自身の復活によってわたしたちを罪から救い出し、キリストと共に生きる永遠の命を得させてくださったのです。

 

そして恵みの契約が終わります時に、キリストは再臨され、神の御国を打ち立ててくださるのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編1198996節の御言葉を学び、詩人から恵みの契約に生きているわたしたちの喜びを学ぶ機会を得たことを感謝します。

 

詩人は、直接に恵みの契約を述べてはいません。しかし、彼が神賛美しているのは、神の恵みの契約に生かされた神の民の喜びです。

 

永遠の契約によって主なる神は、キリストを仲保者とする恵みの契約を御計画され、アブラハムとの恵みの契約によって、彼と彼の子孫、すなわち、神の民イスラエルと恵みの契約を結ばれました。

 

繰り返し神の民は、主なる神を捨て、他の神々に服従しましたが、主なる神は恵みの契約に対して真実であられ、彼らを御自身の下に連れ帰られました。

 

そして、キリストが受肉して来られ、十字架の死によって異邦人たちにも恵みに契約の道を開いてくださいました。

 

恵みの契約、すなわち、この世における神の民たちの救いの歴史を見ます時に、主なる神の恵みの大きさを、深さを、高さを見ます。そしてこの世のあらゆる苦難の中にあっても、主なる神と共にある命、永遠の命を与えられている喜びを覚えます。

 

どうか主なる神の恵み契約に、私たちの家族を、この町の人々を与らせてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。 

詩編説教119-12           主の20211024

 

わたしはあなたの律法を        何と、

どれほど愛していることでしょう。 わたしはあなたの律法を愛している。

わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。終日、それを思い巡らします。

あなたの戒めは わたしの敵よりも、わたしを賢くするでしょう、

わたしを敵よりも知恵ある者とします。 あなたの命令は。

それはとこしえにわたしのものです。 実に永遠に、それはわたしのものです。

わたしはあらゆる師にまさって目覚めた者です。 わたしの教師たちすべてに

あなたの定めに心を砕いているからです。 まさって、わたしは理解した。実

長老たちにまさる英知を得させてください。に、あなたの定めをわたしは思い

わたしはあなたの命令を守ります。巡らせます。長老たちにまさって、わたし

どのような悪の道にも足を踏み入れません。は熟考しました。実にわたしは

御言葉を守らせてください。 あなたの命令を守りました。すべての悪の道か

あなたの裁きから離れません。らわたしは足を遠ざけました。あなたの御言葉

あなたがわたしを教えてくださるからです。を、わたしが守るためです。

あなたの仰せを味わえば あなたの法から、わたしは離れませんでした。実に

わたしの口に密よりも甘いことでしょう。あなたはわたしに教えてください

あなたの命令から英知を得たわたしは  ました。何と滑らかであるか、

どのような偽りの道をも憎みます。 わたしの顎に、あなたの仰せは。

                 密よりもわたしの口に(甘い)

                 あなたの指図からわたしは熟考しました。

                 それゆえわたしは偽りの道をすべて憎み 

                 ます。   

                 

                   詩編第11997104

 

説教題:「あなたの律法を愛する者」

 

今朝は、詩編第11997104節の御言葉を学びましょう。

 

ヘブライ語のアルファベットのメームの段落です。この段落では、神の律法を表わす言葉が次のように出てきます。97節の「律法」、98節の「戒め(命令)」、99節の「定め」、100節の「命令」、101節の「御言葉」、102節の「裁き()」、103節の「仰せ」、104節の「命令(指図)」です。

 

119編の詩人は、主なる神の律法を愛する者です。彼は、97節で「わたしはあなたの律法を どれほど愛していることでしょう。」と告白し、賛美しています。

 

そして、彼は、その姿を続いて、こう賛美します。「わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。」

 

詩編第12節で「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人」と賛美されています。まさに119編の詩人は、その人です。「あなたの律法」と「主の教え」は同じものです。

 

「わたしは絶え間なくそれに心を砕いています。」とは、詩編119編の詩人が一日中主の律法を思い巡らしているのです。それは、詩人が喜びと絶えざる思いを主の律法に、主の教えに傾けているからです。

 

この幸いが詩編150編を通して一貫して流れている詩編のテーマです。

 

97節の「どれほど」は、感動詞です。これは活用のない自立語で、感動、呼びかけや話の受け答えを表わします。「何と」「まあ」「もしもし」「はい」「いいえ」と。

 

119編の詩人は、97節の文頭でこの感動詞を使って、彼の感動の思いを、わたしたち読者に伝えているのです。

 

だから、日本語訳も文頭で「何と」と訳した方がよいと、わたしは思います。彼にとって、彼が主の律法を、すなわち、主の教えを愛しているということは感動でありました。彼が一日中神の律法に沈潜し、心砕き、思い巡らしているのは、まさに主の恵み、幸いであるとしか言えませんでした。

 

詩編がわたしたちに伝えている祝福、「幸いなるかな」、「恵まれたる」は、宗教的な生であり、敬虔な生き方です。それは、主なる神への服従と信頼を促すのです。

 

そのような祝福の中心に神の律法、すなわち、主の教えがあります。それを詩人は喜びとし、絶えず、すなわち、一日中主の律法を思い巡らしています。

 

神の律法は単なる命令、規則ではありません。主なる神の教えなのです。それは、主なる神の御意志そのものです。神の律法を思い巡らすことは、主なる神の御心を思い巡らすことです。

 

詩人は、98100節で次のように賛美していますね。

「あなたの戒めは わたしを敵よりも知恵ある者とします。それはとこしえにわたしのものです。わたしはあらゆる師にまさって目覚めた者です。あなたの定めに心を砕いているからです。長老たちにまさる英知を得させてください。わたしはあなたの命令を守ります。」

 

「あなたの律法」は、本来「あなたの教え」です。それが8つの言葉でいろいろと表されています。旧約聖書の中でこれらの言葉は、主なる神が神の民たちに信仰と行いを指示し、指図し、導き、主なある神の御意志のすべてを表わすものとして使われています。

 

そして詩人は、わたしたちが聖書を神の言葉として知っていますように、書かれた神の律法を主の教えとして知っているのです。

 

わたしたちが書物としての聖書をわたしたちに信仰に導くもの、わたしたちに神の知恵を与えて、わたしたちを永遠の命に導くものと知っているように、詩人も書かれた神の律法を、命を活かす神の知恵をえるもの、主の道と御旨を知ることができるものと知っているのです。

 

だから、詩人は一日中書かれた神の律法を読み、口ずさみ、主の道と主のみ旨を彼の胸に刻もうとするのです。その詩人のエートス、すなわち、生活習慣が神の律法を喜び、愛すると言うことなのです。

 

 詩人にとって「あなたの律法を愛する」は、主なる神に信頼するということです。彼は、自分の命を主なる神に委ねるゆえに、その詩人の命の導き手としての神の律法を信頼しているのです。それを詩人は、97節で「何とわたしはあなたの律法をあいしているのでしょう」と感動しているのです。

 

98節の「知恵ある者とします」は、神の律法が詩人を敵よりも賢くするという意味です。99節の「目覚めた者です」は、聡明にする。すなわち、詩人が彼の先生たちより洞察力が与えられるという意味です。100節の「長老たちにまさる英知を得させてください」は、詩人が長老たちにまさってよく熟考させてくださいという意味です。

 

「長老たち」は、老人たちです。旧約聖書では長老が出エジプト記に登場しています。彼らはイスラエルの12部族と民全体の代表者でした。そして、詩人が生きていた時代でも長老たちが神の民たちを指導していました。

 

101104節は、詩人が神の律法を愛さない悪人の道に歩まないことを述べています。主の道と悪人の道、これも詩編の中では重要なテーマです(詩編第1)

 

詩人は、わたしたちにこう伝えようとしています。神の律法を愛する者は、悪人の道を、偽りの道を憎むことを。

 

詩人にとってこの世の人生は、主なる神の主権の下に生きるか、それを拒絶するか、主の祝福の道を歩むか、災いの悪人の道を歩むか、この二者択一です。

 

よく考えて見てください。今わたしたちがどんな時代に生きているのか。わたしたちは、何によって生きるのか、よく考えて見てください。

 

詩人は、書かれた神の律法によって生きると宣言するのです。だから、101節で彼は、「どのような悪の道にも足を踏み入れません。御言葉を守らせてください。」と言っています。

 

彼の命を導く神の律法に思いを巡らし、常に彼は主の御心を求めています。だから、悪の道に足を踏み入れないと断言しています。悪の道は主の御心以外の道です。偶像礼拝、この世に生きがいや楽しみを追い求めることです。すなわち、悪人たちの間違いは、主なる神以外に人生の祝福を、楽しみを追い求めるという幻想です。

 

しかし、正しい道筋は、主なる神の教えられた道以外にありません。書かれた神の律法に示された主の道以外に、詩人は歩みません。だから、彼は書かれた神の律法である御言葉を守るのです。

 

102節の「あなたの裁き」は、「あなたの法」です。詩人は、この世から現実逃避しようとしているのではありません。

 

神の律法は、詩人を聡明にし、悪の道と偽りから彼を遠ざけてくれます。彼は悪人から遠ざかり、別の世界に住もうとしているのではありません。

 

新共同訳聖書が「法」を「裁き」と訳したのには意味があると思います。この世は法によって裁かれ、社会の秩序を維持しています。

 

神の律法を愛する詩人は、罪の世界そのものから出て行こうとしません。悪人との接触を避けて、聖なる者たちだけで生活する理想郷を追い求めてはいません。

 

神の民がこの世で神を信じない者たちと共に生きることは避けられません。偶像礼拝のこの世の現実から神の民が逃れる場所はどこにもありません。

 

聖書は何と教えているでしょう。主イエスは金持ちと貧しい者を区別されません。どちらの者とも交わられます。罪人やファリサイ派の人々とも交わられます。しかし、父なる神の御心から背を向けることはありません。主イエスは12弟子たちと共に罪人たちと食事をされました。また悪霊につかれた者と交わり、彼らから悪霊を追い出され、宗教的に汚れた重い皮膚病の者たちを触って、癒されました。しかし、主イエスは彼らの生き方に御自身を任されることはありませんでした。

 

主イエスは、この世で富める道を、この世の王として生きる道をご存じでした。しかし、サタンが主イエスにこの世の栄華を約束した時に、主イエスは父なる神の御心のみに従うと宣言し、十字架の道を歩まれたのです。

 

その主イエスの十字架の道をよく考えて見てください。この世はわたしたちにお金があれば、何でも可能だよと約束してくれます。しかし、主イエスが語られた愚かな金持ちのように、今夜わたしたちの命がなくなれば、この世の金も豊かさも何の意味があるのでしょうか。

 

しかし、聖書はわたしたちに十字架の主イエスを救い主と信じる者には永遠の命が約束されていると教えます。そしてその教えは、キリストの死からの復活が保証してくれていると教えています。

 

この聖書の教えを味わう者は、詩人が103節で述べていることを、その通りだと思うのではありませんか。「あなたの仰せを味わえば わたしの口に密よりも甘いことでしょう。」

 

詩人がここで述べていますように、書かれた神の律法、わたしたちの場合は聖書です。聖書を思い巡らすのです。口に唱え、その御言葉をわたしたちの心に蓄えるのです。すると、聖霊がわたしたちに生きる知恵をくださいます。混迷を極めている今の世界の中で、わたしたちが主の御心に従って生きることのできる賢い知恵を与えて下さいます。

 

聖書を読み、思い巡らすことで、毎週の礼拝において語られる神の御言葉を聞き、思い巡らせることで、わたしたちは主がわたしたちに教えてくださる理解力を持つことが出来るのです。

 

わたしたちの生きている世界は混迷の中にあります。この先、日本と世界がどうなるのか分かりません。

 

今衆議院選挙が始まりました。選挙演説する者も、マスコミもいろいろなことを言い、わたしたちを自分の方に誘おうとするでしょう。その時、何がわたしたちのものさしになるのでしょうか。

 

自分の考えでしょうか。家族の考えでしょうか。良き隣人の考えでしょうか。違うでしょう。書かれた聖書の神の御言葉です。主イエス・キリストです。

 

主イエスは、人の偽りの言葉ではなく、父なる神の御言葉のみに心を委ねられて、十字架の道を歩まれました。そして、わたしたちは、その道にわたしたちの永遠の命の祝福を見たのです。

 

わたしたちの今の生活を豊かにします。諏訪地方をもっと便利な町にして、暮らしを良くします。

 

これは、サタンが主イエスを誘惑した言葉と同じです。わたしたちの本当の幸いは自分たちがこの世で何かを成し遂げることの中にありません。聖書は、罪のこの世は最後に滅びると教えているのです。

 

そこから救われる道は、キリストの十字架による救いの他にありません。わたしたちは、聖書からその救いに至る信仰を得る知恵を得ているのです。だから、詩人が104節で言うように、「あなたの命令から英知を得たわたしたちは、どのような偽りの道をも憎みます」と言うべきではありませんか。

 

衆議院選挙で、わたしたちが問題とするのは、キリスト者はどこの政党に入れるべきか、ということではありません。聖書をよく読み、今朝の説教をよく聞かれて、まずは主の御心を思い巡らせてください。

 

その時に詩人を通して主なる神はわたしたちにこう約束してくださいます。「わたしを敵よりも知恵ある者とします」と。詩人の敵はこの世は自分の思い通りだと考えているでしょう。しかし、詩人とわたしたちキリスト者は、この世界が主なる神の御心に従って動いていると信じています。神の隠された御手を知るゆえに、この世のみを考えて生きている者よりも賢い知恵を与えられています。

 

聖書を通して詩人とキリスト者は、真実と偽りを見向く知恵を与えられています。だから、わたしたちは、今の日本の現状をよく見て、何が正しくて、何が偽りであるかを見抜く知恵を、聖書の神の教えによって与えられているのです。

 

善悪の知恵は、本来神の知恵でした。人間は、主なる神に背を向けることで、この善悪の知恵を手に入れました。だから、人は誰でも善悪の判断によって行動するのです。しかし、詩人とキリスト者は自分の善悪の判断で行動するのではありません。聖書をよく読み、神の御言葉を心に蓄えることで、主なる神が教えられる善悪の判断によって行動するのです。

 

この基準に従えば、キリスト者は自民党の者に投票しないという主張は成立しません。キリスト者は共産党の者に投票するのは間違いだとは言えません。

 

ではキリスト者はどういう行動をするのでしょうか。詩人が言うように、「あなたの裁きから離れません」。法に従うのです。日本国憲法は、聖書ではありませんが、主なる神の支配の中にあります。主の御心でなければ、この世のものは実現しないのです。だから、わたしたちは法を守り、投票すべきです。

 

そして、大切なことは、神の摂理を信じることです。主なる神は神の民の救いのために、異邦人のネブカドネツァル王やキュロス王をお用いになりました。悪人や悪をも善に変えるお方です。ですから、自民党の候補者であろうと、共産党の候補者であろうと、主なる神はわたしたち国民を救い、あるいは裁くために用いられると信じることが大切でしょう。

 

何よりも大切なことは、わたしたちの国が偽りの道を歩まないことです。戦前のように天皇が現人神とされ、日本国民が天皇を偶像礼拝させられる道を防がねばなりません。

 

主なる神に取って代わろうとする憎むべきものがこの日本の国に現れ、わたしたちの教会を支配しないように、共に祈ろうではありませんか。

 

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編11997104節の御言葉を学び、詩人が書かれた神の律法を愛し、そこから得た神の知恵によって偽りの道を遠ざけたことを学ぶ機会を得て、感謝します。

 

どうか詩人のように、わたしたちも聖書を愛する者としてください。

 

聖書を読み、よく思い巡らし、御言葉を心に蓄えさせてください。

 

それによって、どうかわたしたちに神の知恵をお与えください。わたしたちは善悪を判断する力があります。その力を、自分勝手に使うのではなく、聖書の神の御言葉に従って使わせてください。

 

どうかわたしたちをこの世の誘惑や試みからお守りください。そして、常にキリストにわたしたちの目を向けてください。

 

キリスト者の本質が信仰にあることを、常に心に留めさせてください。

 

どうか、わたしたちの思いや考えではなく、主なる神の御心に、わたしたちが従えるようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教119-13           主の20211128

 

あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの足のための灯、あなたの言葉は、

わたしの歩みを照らす灯。 そして、わたしの行路の光。

わたしは誓ったことを果たします。 わたしは誓う。そしてわたしは果たす。

あなたの正しい裁きを守ります。 あなたの義の法を守るために

わたしは甚だしく卑しめられています。わたしは卑しめられている、非常に。

主よ、御言葉のとおり  主よ、わたしを生かしてください。

命を得させてください。   あなたの御言葉に従って。

わたしの口が進んで捧げる祈りを わたしの口の自発的な献げ物を

主よ、どうか、受け入れ  主よ、どうか受け入れてください。

あなたの裁きを教えてください。  あなたの法を、わたしに教えてください。

わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。  わたしの魂は常にわたしの手の中に

それでも、あなたの律法を決して忘れません。しかし、あなたの律法を、わたしは忘れません。

主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けています。  仕掛けた、悪人たちは、わたしに網を。

それでも、わたしはあなたの命令からそれません。  しかし、あなたの指図から、わたしは

あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。 迷い出ませんでした。わたしは嗣ぎました。

それはわたしの心の喜びです。 あなたの定めを、永遠に。実にそれはわたしの心の喜びです。

あなたの掟を行うことに心を傾け わたしは傾けました、わたしの心を、あなたの掟を行う

わたしはとこしえに従って行きます。 ために。永遠に、報いのために。

                

                   詩編第11997104

 

説教題:「神の御言葉、わたしの道の光」

 

今朝は、詩編第119105112節の御言葉を学びましょう。

 

ヘブライ語のアルファベットのヌンの段落です。この段落では、神の律法を表わす言葉が次のように出てきます。105節と107節の「御言葉」、106節と108節の「裁き()」、109節の「律法」、110節の「指図(命令)」、111節の「定め」、112節の「掟」です。「仰せ」と「命令」が抜けています。110節の「命令」は指図のことです。

 

119編の詩人は、苦難の主の僕です。主なる神の律法を愛し、守るゆえに、110節の「主に逆らう者」に罠に掛けられ、命を狙われています。「主に逆らう者」とは、悪人、邪悪な者たちです。彼らはユダヤ共同体の支配者階級の者たちでしょう。

 

4956節のザインの段落で、詩編119編の詩人は、「主に逆らう者」たちを、傲慢な者たちで、詩人を見下しと歌い、神の律法を捨て去る者であり、熱心に神の律法を守る詩人に怒りを燃え上がらせていたことを歌っています。

 

107節で苦難の主の僕は、「わたしは甚だしく卑しめられています。」と告白しています。「卑しめられる」という言葉は、67節と71節に出てきました。苦しめられる、惨めになるという響きの言葉です。75節で「わたしが苦しめられたのはあなたのまことのゆえです」と、詩人が歌っていますが、これは彼が主なる神のゆえに身を低くされ、苦しんだという意味です。

 

詩人は、邪悪な支配層の者たちに見下され、低くされ、卑しめられた貧しい者、主なる神の苦難の僕です。

 

詩人は、109節前半で「わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。」と歌っていますように、詩人が邪悪な支配階級の者たちから常に命を脅かされています。彼は、熱心に神の律法を守ることで、常に命の危険を冒しているのです。

 

人は命の危険に遭遇した時、彼の心が永遠というものに捕らえられるのではないでしょうか。

 

コヘレトの言葉の3章でコヘレトは、時について、人のこの世におけるあらゆる機会について言及し、こう述べています。「人が労苦してみたところで何になろう。わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」(コヘレトの言葉3:911)

 

主なる神は天地の創造主、無限、永遠の御方です。人は有限で、この地で朽ちる者です。人は、創造主を見極めることは出来ません。しかし、創造主は、人に永遠の思う心を与えて下さいました。そして、その心に主なる神は、神の律法を授けてくださいました。

 

詩人は、貧しい者です。手仕事をしながら、神の律法を熱心に学んでいたでしょう。彼に嗣業の土地はありません。だから、彼は、111節で「あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。それはわたしの心の喜びです。」と歌っているのです。彼には、主なる神が彼に授けてくださった神の律法しかありませんでした。そして神の律法は、苦難の中に置かれている彼にとって楽しみであり、喜びでした。

 

ですから、詩人は、105節で「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」と告白しているのです。

 

詩人にとって神の律法こそ、すなわち、神の御言葉こそ、彼の命を生かし、彼の人生を導く光であり、力なのです。

 

わたしたちは、この詩人のように神の律法、すなわち、わたしたちにとっては聖書を聴くことで、キリスト者の生活に生かされているのです。

 

この世の日常の世界は、まるで神と関係のない世界に見えます。

 

毎週日曜日に礼拝を通してわたしたちは神の御言葉を聞くのです。

 

すると、暗闇のこの世界で、神と関係がないと思われているこの世界で、わたしたちのキリスト者としての人生に御言葉の光が射します。

 

この暗闇の世界に、光が受肉し、わたしたちの行くべき道を照らしてくださったのです。

 

この世界は、聖書の神とはまるで関係のない世界であり、社会です。日本は神々の世界であり、人の和が重んぜられます。

 

だからこの詩人のように、聖書のみに、聖書の神にのみを信じて生きることは、社会を乱す者、協調性のない者、寛容でない者として見下されます。

 

日本国憲法のお陰でわたしたちには信教の自由があり、今迫害はありません。しかし、今憲法の改正がなされようとしています。先ずは憲法九条が改正され、日本は戦争のできる国となるでしょう。

 

更に天皇が国民に崇められるように、改正されていくのではないでしょうか。

 

憲法の改正によって日本が変われば、主イエス・キリストをわが主と告白するわたしたちは、戦前のように卑しめられるのではありませんか。

 

わたしたちは、この詩人のように「わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります。」と言えるでしょうか。

 

この教会の教会員となることを誓った洗礼の時の誓約を、わたしたちは常に果たすことができるでしょうか。

 

心配する必要はありません。

 

この世に受肉し、クリスマスにこの世に来られた光の子は、わたしたちが洗礼を受けた時、わたしたちと結びついてくださいました。聖霊として、わたしたちの内に住んでくださっています。キリストが内住してくださっています。

 

だから、この世界の闇の中でわたしたちがキリスト者として生きるゆえに卑しめられ、見下されても、キリストは聖霊によって聖書の御言葉のとおりにわたしたちに命を得させてくださいます。

 

それは、主イエスをキリストと信じる信仰によって、永遠の神の御前に生きる命です。

 

また、聖霊は、わたしたちに祈りの賜物をお与えくださいます。だから、わたしたちもこの詩人のように口を通して祈りを主にささげることを許されています。

 

祈りは、この世に生きるキリスト者の道を照らす御言葉と共に、主イエスの御心に従って生きるための道しるべです。だから、聖霊は、わたしたちに主イエスと共に生きる道を祈りという手段を通して教えてくださるのです。

 

聖霊は、内的手段として詩人の心に直接、神の律法を心の喜びとされます。直接に主なる神を信じて、永遠に主なる神に従う信仰を与えて下さいます。

 

そして、聖霊は詩人に外的な恵みの手段として、神の律法、すなわち、神の御言葉と祈りを与えて下さいました。

 

わたしたちも詩人同様に、聖霊によってわたしたちの心に主イエスをキリストと信じる信仰を、神の御前に自分たちの罪を悔いる心を与えられました。

 

詩人にとってキリストの十字架と復活の救いの御業は将来の約束です。神の律法、すなわち、神の御言葉は、詩人にとって神の嗣業として、その祝福を約束し、永遠の命を、彼の報いとして約束しています。

 

112節の「あなたの掟を行うことに心を傾け わたしはとこしえに従って行きます。」は、意訳したものです。そのまま訳しますと、こうです。「わたしは傾けました、わたしの心を、あなたの掟を行うために。永遠に、報いのために。」

 

 詩人は、主から永遠に報いをいただくために、彼の心を神の律法を行うことに傾けると歌っているのです。

 

 これは、詩人が行いによる救いを願っているのではありません。

 

 神の律法の祝福です。神の御言葉に服従することの祝福です。

 

 神の律法はわたしたちに神の御前における罪を自覚させる働きがあります。しかし、本来の働きは、わたしたちを神の祝福にあずからせるのです。神の律法は守る者を命に生かす働きがありました。

 

 しかし、人類の先祖で、代表者であるアダムの原罪によって、人類は共に罪を犯し、堕落しました。神の律法は、人の罪を裁くものとなりました。

 

 キリストの十字架と復活の御業によって、神の律法は人の罪を裁く機能ではなく、人に永遠の命を与える機能に回復されました。

 

 この世では詩人が107節で「わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり、命を得させてください」と歌っていますように、この世ではわたしたちは罪人として卑しめられています。キリストの十字架によって神から罪を赦され、キリストの復活によって永遠の命を保証されていますが、なおこの世では死ぬべき罪の体を持っているのです。

 

 しかし、聖霊が毎週礼拝でわたしたちが聴き続けます神の御言葉を通して、わたしたちの心を励まし、慰め、キリストにある永遠の命に与らせてくださるのです。

 

 完全にわたしたちは、この世で聖化されませんが、常にわたしたちの罪と闘いつつ、心を十字架と復活のキリストへと傾けて、そこから離れることなく、御国の約束に生きることのできるようにしてくださっているのです。

 

 その祝福に歩む道は、わたしたちが主の日の礼拝で神の御言葉を聞き続けるという、まことに忍耐を要する方法以外にありません。

 

この光の道は、主イエスが言われる狭き門であり、細き道であるかもしれません。しかし、主の恵みによって、今や礼拝がオンライン化され、ここに集まる必要がありません。どこにいてもわたしたちは一緒に神の御言葉を聞き続けることができるのです。

 

詩人には想像もできないでしょう。わたしたちも想像も出来ませんでした。しかし、オンライン礼拝で共に神の御言葉を聞くことが、わたしたちの心の喜びとなっていることは、確かではないでしょうか。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編119105112節の御言葉を学び、詩人の信仰から神の御言葉を聞く恵みを学ぶ機会を得て、感謝します。

 

どうか詩人のように、わたしたちも聖書の御言葉を、礼拝で聞く説教の神の御言葉を、わたしたちがこの世に生きるための導きの光としてください。

 

毎週の礼拝で聖書の解き明かしである説教を聞くことで、どうか聖霊よ、御言葉をわたしたちの心に響かせてください。

 

それによって、どうかわたしたちに聖書を通して神が約束してくださった命を得させてください。神の御国の相続人としての祝福に与らせてください。

 

どうかわたしたちをこの世で主イエス・キリストへの信仰に生かしてください。この世で卑しめられ、見下されても、常にわたしたちの心を十字架と復活のキリストに傾けさせてください。

 

どうか、わたしたちがへりくだって、聖霊に常に頼らせてください。聖霊がわたしたちの心にキリストへの信仰と罪の悔い改めを起こさせてください。また、御言葉と祈りと礼典を用いて、わたしたちの信仰を強めてくださり、神の律法を守らせてくださり、聖化の道という神の祝福に生きることのできるようにしてください。

 

どうか、オンライン礼拝を用いてください。離れていても、礼拝を通して一緒に神の御言葉を聞き、共に御国の相続人として、永遠の命の喜びを共にさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教119-14           主の20211226

 

心の分かれている者をわたしは憎みます。 二心の者らをわたしは憎み、

あなたの律法を愛します。 あなたの律法をわたしは愛する。

あなたはわたしの隠れが、わたしの盾 わたしの隠れ家、そしてわたしの盾、あなたは。

御言葉をわたしは待ち望みます。 あなたの御言葉を、わたしは待ち望む。

悪事を謀る者よ、わたしを離れよ。 わたしから離れ去れ。悪を行なう者らよ。

わたしはわたしの神の戒めを守る。  主わたしは守ろう、わたしの神の命令を。

あなたの仰せによりすがらせ あなたの仰せに従って、わたしを支えてください。

命を得させてください。 するとわたしは生きるでしょう。

わたしの望みを裏切らないでください。わたしの望みのゆえに、わたしを辱めないでください。

わたしを支えてください。 わたしを支えてください。

そうすればわたしは救われます。 するとわたしは救われるでしょう。

いつもあなたの掟に目を注ぎます。そしてわたしは目を注ぎましょう、常にあなたの掟に。

あなたの掟から迷い出る者は  あなたはすべて棄てられた、

ことごとく打ち捨てられました。   あなたの掟から迷い出た者らを。

彼らは欺く者、偽る者です。  実に彼らの欺瞞は偽りである。

この地であなたに逆らう者はことごとく  あなたは金滓のように消し去られた、

金かすのように断ち滅ぼされました。    地の悪人たちのすべてを。

それゆえにわたしはあなたの定めを愛します。 それゆえわたしは愛する、あなたの掟を。

あなたを恐れてわたしの身はすくみます。震える、あなたへの恐れのためにわたしの肉は。

あなたの裁きを畏れ敬います。 そしてあなたの法を、わたしは畏れる。

                            詩編第119113120

 

説教題:「主を畏れ、新しき年を迎える」

 

今朝は、詩編第119113120節の御言葉を学びましょう。

 

ヘブライ語のアルファベットのサメクの段落です。この段落では、神の律法を表わす言葉が次のように出てきます。113節の「律法」、114節の「御言葉」、115節の「戒め」、116節の「仰せ」、117節と118節の「掟」、119節の「定め」、120節の「裁き()」です。115節の「戒め」は命令のことです。この段落では「掟」が二度使われ、律法を表わす「指図」という言葉が省かれています。

 

119編の詩人は、主なる神の律法を愛する敬虔な者です。だから、彼は、113節でこう述べています。「心の分かれている者をわたしは憎みます。あなたの律法を愛します。」

 

彼は、自分のことを、神の律法から離反した者と比較して、二心の者ではなく、神の律法を愛する者であると告白しています。

 

113節の「心の分かれている者」とは、二心の者です。主イエスは、二心の者をマタイによる福音書624節でこう言われています。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富に仕えることはできない。」

 

主イエスは、御自身の弟子たちに神と富を同時に主人にできないと警告されました。なぜなら、神は万物の創造者、支配者です。しかし、神は霊なるお方です。人の目には見えません。ところが、お金は、目に見えてこの世界を支配しています。実際お金がなければ、この世でわたしたちは生活できないのです。

 

神の民はこの世に生きています。お金、即ち、マモンが支配する世に生きているのです。神の民の中には、心が神とマモンに仕える者たちが出て来るのです。今の言葉で言うと、世俗二元論の生き方です。教会に来れば主を礼拝し、この世では神よりもお金を崇めて、生きているのです。

 

詩人は、そのような二心の者たちを憎みました。なぜなら、彼らは神の律法を離れ、主の目に悪を行なうからです。

 

詩人は、二心の者を、115節で「悪事を謀る者よ」と呼びかけ、118節で「あなたの掟から迷い出る者」と呼び、「彼らは欺く者、偽る者」と言っています。そして、119節で「この地であなたに逆らう者」と言い、彼らは主に滅ばされると述べています。

 

二心の者たちに対して、詩人は113節で「あなたの律法を愛します」と述べます。114節で彼は主なる神を自分の保護者、守り手とし、神の御言葉に信頼すると述べます。そして、116117節で彼は、主なる神が彼に語りかけてくださる御言葉に信頼して、この世から救われたいと願っています。それゆえに彼は、主なる神に、わたしの信頼を裏切らないでくださいと祈っているのです。

 

詩人は、憎むべき二心の者たちに対して決別を宣言します。115節です。二心の者たちは一見敬虔そうに見えます。しかし、彼らは、主の目に悪を行ない、また謀り、同胞の貧しい者たちから彼らの嗣業の地を搾取し、寡婦たちを食い物にしていたのです。それゆえに悪事を謀る者たちに対して彼は、「わたしから離れ去れ」と彼らとの決別を宣言しています。

 

二心の者たちを、詩人は憎み、呪っているのです。そして、彼は、彼らの最後を次のように述べます。118119節です。「あなたの掟から迷い出る者はことごとく打ち捨てられました。彼らは欺く者、偽る者です。この地であなたに逆らう者はことごとく金かすのように断ち滅ぼされました。」

 

「終わり良ければすべて良し」という諺がありますね。詩人は彼らの最後を見ました。彼らは主の裁きによって滅びました。

 

詩人は憎むべき二心の者の最後を見ました。彼らは、主なる神の律法から迷い出て、悪を謀り、行ないました。彼らは主なる神に逆らう者、主の目に悪人となりました。主なる神は彼らを打ち捨てられました。彼らは金かす、即ち、金属の屑のように、主に粉々に裁断されて、滅ぼされました。

 

わたしは、こう思っています。119編の詩人は旧約聖書の申命記とよく読んだことでしょう。そして、申命記を基準にしてイスラエルの民たちが約束の地カナンに定住してからバビロン捕囚に至るまでの彼らの歩みを振り返ったのではないでしょうか。

 

そこで彼は、神の民の道に二つの道があることを見出しました。命に至る祝福と滅びに至る呪いです。主なる神を愛する祝福の道と二心を持ち、主なる神を捨てて、滅びに至る呪いの道です。

 

彼は、彼らを反面教師にして、113節と119節で神の律法を愛し、116117節で神に信頼して歩み、いつも神の律法を心に留めました。

 

詩人の「あなたの律法を愛します」という信仰告白は、彼が神の律法を守るという主なる神への誓いでもあります。そして、その誓いの具体的な表れが、わたしたちの主日礼拝です。

 

今年最後のこの礼拝で、わたしは今年の上諏訪湖畔教会の恵みを思い巡らしています。特に心に記憶すべきは、一人の兄弟の召天と一人の兄弟の受洗です。二つの出来事は、わたしたちの教会における主なる神の祝福の出来事だと、思うのです。

 

主イエスは、一人の兄弟の最後を見せてくださいました。若き日に主イエスの十字架の贖いと復活を信じて救われた兄弟の晩年に至るまでを見せてくださいました。詩人が116117節で述べている通りです。主日礼拝で語られる主の御言葉、すなわち、福音として提供された主イエス・キリストに、兄弟はよりすがられ、支えられて、御国へと導かれました。

 

「わたしたちの国籍は天にある」、これこそ兄弟の望みであり、わたしたちの望みです。兄弟はその望みを、主イエが裏切られないことを確信されていました。実に主イエスは、死人の中から甦られたことを信じられていたからです。来年の春に教会の墓地に埋葬される兄弟を、そしてわたしたちを、再臨の主イエス・キリストが死人の中から復活させてくださるのです。これが、わたしたちが待ち望んでいる救いなのです。

 

また、わたしたちにとって、もう一つの喜びは、クリスマス礼拝でひとりの兄弟が受洗され、わたしたちの教会の教会員になられたことです。

 

詩人が「あなたの律法を愛する」と述べていることは、わたしたちがクリスマス礼拝の洗礼式で見たことです。兄弟が洗礼式において六つの誓約をされました。それを守ることがわたしはこの詩人の言う「あなたの律法を、掟を愛する」ことだと思うのです。そして、その六つの誓約は、具体的には主日礼拝を守るために誓約しているのです。

 

毎週主日礼拝に出席すれば、「あなたの律法を愛する」ことになりません。詩人は、114節で「御言葉をわたしは待ち望みます」と述べています。そして116117節の御言葉が続いています。礼拝における神の御言葉に真摯に耳を傾けましょう。わたしたちへの福音として提供されている主イエス・キリストを信頼しましょう。わたしは主イエス・キリストに支えられて、御国に、永遠の命に至るのです。

 

来年の1月より主日礼拝でヘブライ人への手紙を連続講解説教します。どうか楽しみにしてください。わたしたちの大祭司主イエス・キリストについて学びましょう。大祭司主イエス・キリストは、この世で試練と誘惑に遭われ、試練と誘惑に弱いわたしたちのことをよく知られ、父なる神に執り成してくださり、この世のおいてわたしたちの信仰生活、教会生活を支えて、御国まで導いてくださいます。

 

どうか、わたしたちの教会に加えられた一人の兄弟がこれから20年、30年と大祭司主イエス・キリストの執り成しによって、御国に至るまで教会生活を支えられるように祈りましょう。

 

行く年、来る年、年の変わり目です。12月はアドベントとクリスマス、来年の16日はキリストの公現日です。全世界に対するキリストの顕現を記念する日です。主イエスの洗礼と東方の博士たちの訪問を記念します。そして2月からレントの季節を教会は迎えます。

 

この教会の時に、詩人が120節で「あなたを恐れてわたしの身はすくみます。あなたの裁きを畏れ敬います。」と述べている御言葉に心を留めましょう。

 

わたしたちは、上諏訪湖畔教会で毎年、毎週主日礼拝を繰り返しています。しかし、教会の時は今年が終わり、来年の新しい年を迎えているという風に円環運動しているのではありません。今年から来年へと復活された主イエス・キリストの再臨の約束に向けて、毎年毎年前に進んでいるのです。

 

実にキリストの再臨を待ち望むわたしたちの信仰の旅時には最後の難所があります。使徒信条の第二項のキリストについての最後の条項です。「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」。

 

二心の悪人たちだけが主なる神に裁かれるのではありません。

 

わたしたちも最後の神の審判の前に立つのです。12月のアドベントの季節にクリスマスを準備し、キリストの再臨に備えてきました。同時にわたしたちは、今年一年を振り返り、自らの罪の大きいことに心を留めざるを得ないのです。

 

その時に再臨のキリストの裁きを、わたしたちはこの詩人のように恐れ、わたしたちの身もすくむでしょう。

 

しかし、わたしたちは主を畏れて、新しい年を迎えようではありませんか。新しい年、わたしたちは、主イエス・キリストの十字架へと歩むのです。

 

12月の今年最後の主日礼拝で詩編119編の詩人の詩を学ぶことで、わたしたちは主イエス・どうしてキリストの御降誕を祝いするのかと思い巡らせましょう。そして新しい年を迎えて、生まれられた主イエスが十字架への御受難の道を歩まれることを思い巡らせましょう。

 

そのようにして実にわたしたちは、毎年、毎週の主日礼拝を通して、詩人が述べています「あなたの裁きを畏れ敬って」いるのです。

 

どうか心に留めてください。主なる神は御自身に逆らう悪人たちだけを、最後の審判で滅ぼされるのではありません。わたしたちも、再臨のキリストの最後の審判に立たなければなりません。自分の罪が裁かれ、永遠の滅びを宣告されると、それを思うと、わたしたちも詩人のように自分の身がすくむのです。

 

しかし、わたしたちの恐れは神が解決してくださいました。最後の審判の裁きを前倒し、神はキリストの十字架を通して、わたしたちの罪を裁かれました。そして主イエス・キリストは復活し、わたしたちが神から罪を赦され、永遠の命の祝福にあるしるしとなってくださいました。

 

だから、わたしたちは、毎年、毎週の主日礼拝で十字架の主イエスをわたしたちの主、わたしたちの神として礼拝し、十字架の主イエスが死人の中から復活してくださったことをお祝いしているのです。

 

この喜びを、主日礼拝を通してわたしたちが覚えるために、今年最後のこの主日礼拝はあるのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今年最後の主日礼拝で詩編119113120節の御言葉を学び、詩人の信仰から神の恵みを学ぶ機会を得て、感謝します。

 

どうか詩人のように、わたしたちが聖書を愛し、主日礼拝を守り、常に身を低くし、神の御言葉を傾聴させてください。

 

どうか聖霊よ、わたしたちが詩人のように二心の者を憎み、決別し、神の御言葉にわたしたちの心を常に傾けさせてください。

 

アドベントとクリスマスが終わり、今週に新年を迎えます。どうかわたしたちが12日の主日礼拝から十字架の主イエスをわたしたちの主、わたしたちの神として礼拝させてください。そして、再臨のキリストを心から待ち望ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教119-15           主の2022123

 

わたしは正しい裁きを行います。 わたしは行いました、法と義を。

虐げる者にわたしを任せないでください。 わたしを委ねないでください、虐げる者

恵み深くあなたの僕の保証人となってください。 たちに。保証し給え、あなたの僕を、

傲慢な者がわたしを虐げませんように。 恵みへと。わたしを虐げませんように、

御救いを待って、わたしの目は衰えました。 傲慢な者たちが。わたしの両眼は絶え入る、

あなたの正しい仰せを待って。 あなたの救いとあなたの義の仰せを。

慈しみ深く 行い給え、あなたの僕に、あなたの慈しみに従って。

あなたの僕のために計らってください。 

あなたの掟をわたしに教えてください。 あなたの掟をわたしに教えてください。

わたしはあなたの僕です。 わたしはあなたの僕です。

あなたが分からせてくだされば わたしに分からせてください。

あなたの定めを知ることができます。 そうすればわたしはあなたの定めを知ります。

主の働かれるときです。  主よ、行動の時です。

人々はあなたの律法を破棄しています。  彼らはあなたの律法を破棄しました。

それゆえ、金にまさり純金にまさって  それゆえ、わたしは愛します、あなたの命令を、

わたしはあなたの戒めを愛します。   金よりも、また純金よりも。

それゆえ、あなたの命令のすべてに従って それゆえ、すべてのあなたの指図に

わたしは真っすぐに歩き わたしは真っすぐに歩みました。

偽りの道をことごとく憎みます。 偽りの道をすべて、わたしは憎みました。

                            詩編第119121128

 

説教題:「わたしは真っすぐに歩く」

 

今朝は、詩編第119121128節の御言葉を学びましょう。

 

ヘブライ語のアルファベット22文字の一つ、アインの段落です。この段落では、神の律法を表わす言葉が次のように出てきます。121節の「裁き()」、122節は欠いています。123節の「仰せ」、124節の「掟」、125節の「定め」、126節の「律法」、127節の「戒め(命令)」、128節の「命令(指図)」です。122節は、律法を表わす言葉がないので、「あなたの僕」を「あなたの言葉」と読み替える者がいます。

 

119編の詩人は、122節、124節、125節で3度「あなたの僕」と、自分が主なる神の僕であることを繰り返し告白しています。

 

彼は、主の僕として、121節で「正しい裁きを行います。」と述べています。文字通りに訳すと、「私は行ないました、法と義を」です。

 

「正しい裁き」とは、正義と法です。「裁き」は、ここでは公正のことです。詩人は、虐げる者たちが神の民イスラエルの社会的弱者たちを抑圧し、彼らを搾取することから守ろうとしたのです。

 

詩編72編の「ソロモンの詩」で、ソロモン王は、14節でこう祈っています。「神よ、あなたによる裁きを、王に あなたによる恵みの御業を、王の子に お授けください。山々が民に平和をもたらし 丘が恵みをもたらしますように。王が民を、この貧しい人々を治め 乏しい人の子らを救い 虐げる者を砕きますように。」

 

詩人は王ではありませんが、主の僕として、彼は虐げる者たちが貧しい人々を搾取することから守るとしたのでしょう。

 

その結果、詩人は虐げる者たちの恨みを買いました。そして苦境に陥りました。

 

そこで彼は主なる神にこう祈りました。「虐げる者にわたしを任せないでください。恵み深くあなたの僕の保証人となってください。傲慢な者がわたしを虐げませんように。」(121節後半-122)

 

詩人は、主なる神に虐げる者たちの迫害から詩人を守り、解放してくださるように祈っています。

 

詩人は、126節で虐げる者たちについてこう述べています。「人々はあなたの律法を破棄しています」と。

 

神の民の貧しい人々を搾取することは、神の律法を棄てることでした。

 

旧約聖書のレビ記1913節で主なる神は、神の民に「あなたの隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない」と命じられています。申命記2414節で主なる神は、神の民にこう命じられています。「同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない。」

 

虐げる者たちが同胞の貧しい人々と寄留者たちを抑圧し、搾取することを、主は禁じられました。

 

だから、詩人は、126節で「主の働かれるときです」と言っているのです。主が虐げる者たちを裁くという行動をなさる時ですと、詩人は述べているのです。その理由は、彼らが主なる神との契約を破り、神の律法を破棄したからです。

 

このように詩人は、主なる神の僕として正義と公正を行いました。それゆえに神の民の支配者層である虐げる者たちから迫害を受けたのです。

 

詩人は、主の僕として困難な中でよく忍耐し、主の御救いを待ち望みました。ただ忍耐するのではなく、神の律法を守り、主なる神の御意志に従いました。

 

123124節で詩人は、こう述べています。「御救いを待って、わたしの目は衰えました。あなたの正しい仰せを待って。慈しみ深く あなたの僕のために計らってください。」

 

123節は、82節とほぼ同じです。「わたしの目はあなたの仰せを待って衰えました。力づけてくださるのはいつか、と申します。」

 

詩人は、虐げる者たちの迫害によって大変厳しい状況に置かれました。主なる神以外に彼を、虐げる者たちの手から守り、解放できる者はいません。

 

しかし、彼は忍耐しなければなりませんでした。日々主の救いを待てども、虐げる者たちが詩人を迫害する状況は変わりません。

 

その絶望的な状況化で、詩人は主の御仰せを信じて、神の律法にのみすがりました。

 

神の律法とは、体系化された法律ではありません。詩人にとって神の律法とは、この世界の現実の中に働く義なる神の御意志です。

 

それゆえに詩人は、絶望的な中で主の裁きを、彼の救いとして忍耐して待ち望みました。

 

詩人は、主の僕として、神の律法を愛し、学ぶ者です。

 

詩人は、124節後半から125節でこう述べています。「あなたの掟をわたしに教えてください。わたしはあなたの僕です。あなたが分からせてくだされば あなたの定めを知ることができます。」

 

神の律法は、わたしたちにとっては聖書です。聖書は神の御言葉です。キリストの霊である聖霊がわたしたちに教えてくださり、説得してくださるので、わたしたちは聖書を理解し、聖書の証しする主イエスをキリストと信じるのです。

 

神の律法も聖書も、この世では学問の対象です。よく研究され、その成果をわたしたちは神の律法と聖書を理解するために用いています。

 

しかし、どんなにこの世の学問によって神の律法と聖書を学んでも、この詩人のように主なる神御自身が神の律法と聖書を教えてくださらなければ、主イエスがわたしたちの救い主であることも、神の律法と聖書を金よりも純金よりも愛することはありません。

 

それ以上に主なる神の僕として、詩人は、こう告白するのです。「それゆえ、あなたの命令のすべてに従って わたしは真っすぐに歩き 偽りの道をことごとく憎みます。」(128)

 

主を信じる神の民にとって、神の律法は、信仰と生活の規準となるのです。聖書は神の御言葉です。それゆえに主イエスをキリストと信じるわたしたちは、この詩人と同じく、聖書を信仰と生活の規準とし、主イエスの御前で真っすぐに歩もうとするのです。

 

神の律法と聖書を信仰と生活の規準にして、主の僕はこの世を真っすぐに歩みます。それは、主の御前に生きるということです。そして、偽りの道から離れるのです。

 

偶像礼拝と主の御心に背くことから離れるのです。

 

このように神の律法は、神の民たちがこの世で生きて行く上で倫理的実践となり、聖書はわたしたちキリスト者がこの世を生きて行く上で倫理的実践となるのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今年も主日礼拝で詩編119編の御言葉を学び、詩人の信仰から神の恵みを学ぶ機会を得て、感謝します。

 

どうか詩人のように、わたしたちも主の僕として歩ませてください。

 

どうか聖霊よ、わたしたちが聖書を理解し、信仰と生活の規準として、主の御前を真っすぐに歩ませてください。

 

わたしたちを偽りの道から遠ざけてください。物言わぬ偶像を憎み、主が憎まれる不道徳から離れさせてください。

 

わたしたちも貧しい者を虐げる者から、貧しい者を守り、支えることが出来るようにしてください。苦境に陥っても、聖書の御言葉に希望を持たせてください。忍耐し、主の御救いを待ち望ませてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教119-15           主の2022227

 

あなたの定めは驚くべきものです。 驚くべきものです、あなたの定めは。

わたしの魂はそれを守ります。 ゆえにそれを守りました、わたしの魂は。

御言葉が開かれると光が射し出で  あなたの言葉の扉は輝きます。

無知な者にも理解を与えます。 無学な者たちを悟らせます。

わたしは口を大きく開く、渇望しています。 わたしの口を大きく開けて、渇望します。

あなたの戒めを慕い求めます。 まことにあなたの命令を慕い求めます。

御顔をわたしに向け、憐れんでください。向いてください、わたしの方に。わたしを憐れんで

御名を愛する者への裁きに従って。  ください。あなたの御名を愛する者への法に従

仰せのとおり   って。わたしの歩みを確かにしてください。あなたの仰せによって。

  わたしの足どりを確かなものにしてください。 

どのような悪もわたしを支配しませんように。支配させないでください、わたしをすべての悪

虐げる者からわたしを解き放ってください。 に。贖い出してください、わたしを、人の虐げ

わたしはあなたの命令を守ります。 から。そうすれば、わたしは守ろう、あなたの指図を。

御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。 あなたの顔を、輝かせてください。あなた

あなたの掟を教えてください。  のしもべに。そして教えてください、あなたの掟を。

わたしの目は川のように涙を流しています。 わたしの両眼は、川のように涙を流しています。

人々があなたの律法を守らないからです。 人々があなたの律法を守らない故に。

 

                            詩編第119129136

 

説教題:「悪からお救いください」

 

今朝は、詩編第119113120節の御言葉を学びましょう。

 

ヘブライ語のアルファベットのペーの段落です。この段落では、神の律法を表わす言葉が次のように出てきます。129節の「定め」、130節の「御言葉」、131節の「戒め(命令)」、132節の「裁き()」、133節の「仰せ」、134節の「命令(指図)」、135節の「掟」、136節の「律法(教え)」です。律法を表わす八つの言葉がすべて使われています。

 

119編の詩人は、主なる神の僕です。彼は神殿で奉仕する祭司、レビ人ではありません。僕とは一般に「奴隷」と言われていました。彼は主の奴隷で、神の律法を愛する敬虔な者です。

 

彼はペルシア帝国が中近東を支配していた時代の人です。神の民イスラエルは、ペルシア帝国のキュロス王によって紀元前583年にバビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還しました。

 

帰還した神の民は紀元前536年にエルサレム神殿の再建に着手しました。しかし、妨害され、工事は中止となりました。16年後の紀元前520年に神殿工事が再開され、紀元前516年にエルサレム神殿が完成しました。67年かけて第二神殿を再建しました。

 

律法学者エズラがエルサレムに帰還したのは、紀元前458年でした。彼は、ヨシヤ王の時代にエルサレム神殿で申命記を発見し、ヨシヤ王の宗教改革に大きな役割を果たした大祭司ヒルキヤの子孫でした。

 

旧約聖書のエズラ記によると彼は、神の律法を調べ、実行し、神の民に教えました。彼は、神の律法に従い神の民たちと結婚した異邦人の妻たちを追放しました。神の民から罪や汚れを、一切の悪を徹底して排除しようとしました。

 

そして、紀元前445年にネヘミヤがエルサレムに帰還し、総督となりました。彼は神の民の指導者として、都の城壁を修復し、完成しました。

 

エズラとネヘミヤの指導によって宗教改革が行われました。エズラは神の民を集めて、律法の書を読み、仮庵の祭を奨励しました。ネヘミヤは、城壁の再建という主なる神の召しを、祈りによって実行しました。敵が様々な妨害をし、彼の命を脅かす中で、彼は神の民たちを励まし、52日間という驚くべきスピードで城壁を完成させました。彼もまたエズラと同様に神の律法に基づいて神の民に安息日を厳守することを命じ、異邦人の妻を追放しました。

 

しかし、どんなに宗教改革しても、この世から罪と汚れを排除できません。なぜなら、人は罪によって腐敗しているからです。

 

律法学者エズラが死に、指導者のネヘミヤが紀元前433年にエルサレム総督の任を解かれて、エルサレムを去りますと、神の民たちの罪、不義、悪、不法がイスラエル共同体に蔓延りました。

 

ヨシヤ王の宗教改革が徹底して行われると、ヨシヤ王の死後その反動が起りました。王も神の民も主なる神を畏れず、神の律法を守りませんでした。大国の神々やカナンの神々を偶像礼拝をしました。そして、彼らの背信が主なる神の怒りを買いました。主なる神は、バビロニア帝国のネブカドネツァル王を用いて、南ユダ王国とエルサレムの都を滅ぼされ、神の民をバビロン捕囚されたのです。

 

同様にエズラとネヘミヤは、宗教改革を断行して神の民たちの中から罪と汚れを取り除こうとしました。神の民たちの中から異邦人の妻と子を離縁させました。そして共同体を罪と汚れから守りました。そして、神の民たちに熱心に安息日律法を守るように命じました。

 

しかし、詩人は136節で「わたしの目は川のように涙を流しています。人々があなたの律法を守らないからです。」と嘆いています。

 

詩人は、エズラ・ネヘミヤの時代を思い起こして、人々が神の律法を守らないことを嘆いているのでしょうか。

 

常にこの世の時代は変わるのです。詩人の時代の神の民たちは、主なる神を畏れず、神の律法を守りません。共同体の中に悪と不義と不正が満ちているのです。

 

詩人は、彼の時世に反発するかのように、133134節でこう主なる神に祈り求めて、神の律法を守ると誓っています。「仰せのとおり わたしの足どりを確かなものにしてください。どのような悪もわたしを支配しませんように。虐げる者からわたしを解き放ってください。わたしはあなたの命令を守ります。」

 

134節の「虐げる者」とは、神の民を抑圧する同胞です。彼らは貧しい神の民を暴力的に支配していたのです。権力によって、お金の支配によって、社会的に貧しい神の民たちを、あるいは社会的に弱い立場にある神の民たちを虐げていたのです。

 

119編の詩人は、同胞に虐げられる社会的弱者でした。だからこそ詩人は、主なる神に神の律法によって彼を守り支え、共同体の中にどんな悪事が満ちていても、詩人がそれに支配されることがないようにと祈りました。

 

主イエスが12弟子たちに教えられた主の祈りの「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」という祈りを思い起こさせる詩人の祈りです。

 

「試み」は試練と誘惑です。試練は信仰者の信仰を鍛錬するものです。誘惑、すなわち、信仰者に悪をなさせるのは、信仰者を堕落させるものです。

 

試練は、信仰者を鍛錬するものですが、誘惑同様に信仰者の人生を揺るがすものでもあります。試練も誘惑も、わたしたちの人生に突然やって来るのです。それに備えることは出来ません。気づけば、わたしたちの日常生活が一転しているのです。わたしたちは悩み苦しみ、信仰の危機に立たされるのです。

 

ある時、自分の周りの人が皆敵であると思える状況に陥ります。そして今まで自分が築いてきたものすべてを失うのです。詩人の「人を虐げる者からわたしを解放してください」という祈りは、共同体が変わってしまって、彼一人では何の対処もできない、人々の悪に対して自分で対処できないのです。

 

だから、彼は主なる神に救いを求めました。詩人は、人々のように神の律法を守らないで、どのような悪が彼を支配することも許せません。だから、彼は、主なる神が悪と見做されることを決して見過ごしにはできません。それゆえに虐げる者たちは、詩人を抑圧しようとしたでしょう。彼らは、言葉で脅し、人々を使って彼を虐げようとしたでしょう。主なる神を信じ、神の律法に寄り頼むことがなければ、彼らの虐げによって自殺へと追い込まれていたかもしれません。

 

しかし、詩人は、自らの死によって今の苦難から逃れようという思いは、全くありません。彼は、主なる神の救いを信じています。神の律法を信じているのです。

 

詩人は、129節でこう告白しています。「あなたの定めは驚くべきものです。わたしの魂はそれを守ります。」

 

「驚くべきもの」とは、不思議な御業であるという意味です。「定め」は神の律法です。「不思議な御業」とは、主なる神の御救いの御業です。詩人は信じているのです。神の律法には救いの力があると。だから、彼の魂は神の律法の言葉を守ろうとするのです。

 

わたしたちの立場で考えると、わたしたちは聖書の御言葉を驚くべきものと信じていることです。聖書の御言葉にはわたしたちを救う力があると、わたしたちは信じているでしょう。

 

詩人が130節で「御言葉が開かれると光が射し出で 無知な者にも理解を与えます。」と述べていますね。文字通りに日本語にすると、「あなたの言葉の扉は輝く。無学な者を悟らせる」です。「無知な者」「無学な者」とは、未経験のゆえに過ちを犯す者のことです。

 

わたしたちは、異邦人で、罪人です。生まれながらに主なる神を知らず、罪を犯していた者です。しかし、聖霊がわたしたちに聖書の御言葉を理解させてくださり、わたしたちは主イエス・キリストを通して神を知り、罪を知り、その罪からの救いを知らされました。

 

詩人が131節で「わたしは口を大きく開く、渇望しています。あなたの戒めを慕い求めます。」と述べていますね。詩人が大きく口を開けて、渇望するのは、主なる神の御救いです。聖書の御言葉によってキリストの十字架の御救いを知らされた者は、それを心から待ち望むようになるでしょう。

 

神の律法は、詩人に神の御心を悟らせました。だから、彼は神の律法を通して、主なる神の御救いを待ち望んだのです。だから、彼は、どんな試練と誘惑の中でも絶望することなく、神の律法を信じて、主の御救いを待ち望もうとしました。

 

同じようにわたしたちには、聖書があります。わたしたちは聖書の御言葉を信じています。キリストの十字架と復活の救いの御業を信じています。死んで甦られた主イエスが再び私たちの所に来られて、わたしたちが主に救われることが実現することを信じているのです。

 

詩人が132節で「御顔をわたしに向け、憐れんでください。御名を愛する者への裁きに従って。」と述べていますね。文字通りに日本語にしますと、「向けてください、わたしの方に。わたしを憐れんでください。法に従って、御名を愛する者への」

 

わたしは、この詩人の祈りは聞かれたと思います。主イエスの十字架こそ罪あるわたしたちに主なる神が向いてくださった憐れみです。この十字架の神の裁きなくして、わたしたちが神の御名を愛する者とはなり得ませんでした。

 

少し読み込みすぎかもしれませんが、詩編119編の詩人の御言葉から、わたしたちがキリストの十字架の御救いを思い巡らせることは、神が与えてくださる恵みではないでしょうか。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編119129136節の御言葉を学び、詩人の信仰からキリストの十字架の御救いを思い巡らせることができて、感謝します。

 

どうか詩人と同じように、わたしたちが聖書の不思議な御力を信じさせてください。聖書の御言葉に、わたしたちを救う御力のあることを信じさせてください。

 

どうか聖霊よ、わたしたちが聖書の御言葉を読みます時に、主日礼拝で説教を聴きます時に、詩人のように御言葉の扉を輝かせ、わたしたちの心に御言葉を蓄え、理解することが出来るようにしてください。

 

どうか、わたしたちを憐れみ、十字架のキリストがわたしたちの罪のために死なれ、キリストがわたしたちの永遠の命の保証として甦られたことを信じさせてください。そして、再び私たちの所に来られるキリストを待ち望ませてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教119-16           主の2022327

 

主よ、あなたは正しく あなたは正しい、主よ。

あなたの裁きはまっすぐです。 そして真っすぐです、あなたの法は。

あなたは定めを与えられました。 あなたはあなたの定めを命じられた。

それはまことに正しく確かな定めです。 義と大いなる真実をもって

わたしの熱情はわたしを滅ぼすほどです。 わたしを滅ぼす、わたしの熱情が。

敵があなたの御言葉を忘れ去ったからです。 まことにあなたの御言葉を忘れ去りました、

あなたの仰せは火で練り清められたもの。 わたしの敵たちが。あなたの仰せはしっかりと

あなたの僕はそれを愛します。 練られています。あなたの僕は、それを愛します。

わたしは若く、侮られていますが わたしは若く、軽んじられていますが、

あなたの命令を決して忘れません。 あなたの指図を、わたしは忘れません。

恵みの御業はとこしえに正しく あなたの義はとこしえに正しく、

あなたの律法はまことです。 あなたの律法は真実です。

苦難と苦悩がわたしにふりかかっていますが 苦難と苦悩がわたしに降りかかっても、

あなたの戒めはわたしの楽しみです。 あなたの命令は、わたしの楽しみです。

あなたの定めは あなたの定めは

とこしえに正しいのですから とこしえに正しい。

わたしに理解させ、命を得させてください。わたしに理解させてください。わたしは

生きるでしょう。 

                            詩編第119137144

 

説教題:「神の定めを理解させ、命を得させてください」

 

今朝は、詩編第119137144節の御言葉を学びましょう。

 

ヘブライ語のアルファベットのツァデーの段落です。この段落では、神の律法を表わす言葉が次のように出てきます。137節の「裁き()」、138節と144節の「定め」、139節の「御言葉」、140節の「仰せ」、141節の「命令(指図)」、142節の「律法」、143節の「戒め(命令)」です。本段では「定め」が二度使われ、「掟」が省かれています。

 

119編の詩人は、主なる神は「正しい」と信仰告白しています。この「正しい」という言葉は、ヘブライ語の「ツァデック」です。

 

この言葉は、旧約聖書においては王の政治、裁判から神の民の社会生活における倫理のすべての面で、「正しさ」という意味で用いられています。

 

さらに詩人は、138節では「ツェデク」、すなわち、「正義」の「義」という言葉を使っています。詩人は、142節でも、「恵みの御業はとこしえに正しく」と、この言葉を使っています。

 

138節と142節の「正しく」は、ツェデク、すなわち、「義」という言葉です。142節の「恵みの御業はとこしえに正しく」は意訳です。文字通りには「あなたの正義は永遠に義です」です。「正義」は、「ツェダーカー」です。

 

だから、詩人は137節で「主なる神は正しい」と信仰告白し、138節で「主なる神は義と大いなる真実をもって、あなたはあなたの定めをお命じになられた」と告白しています。

 

詩人は、わたしたちにこの告白で次のことを伝えるのです。神の律法は、神の義に基づいているのだと。神の義に根拠を置いて、主なる神は神の民に神の律法を授けられました。

 

だから、ヘブライ語のツェデク、すなわち、義は、その根拠が主なる神にあります。旧約聖書のレビ記において主なる神は、神の民にこうお命じになりました。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。(レビ記19:2)と。そして、主なる神は、神の民イスラエルにさらにこのようにお命じになり、「わたしのすべての掟、すべての法を守り、それを行いなさい。わたしは主である。」(レビ記19:37)と言われました。

 

聖であり、義である主なる神が神の民イスラエルに「あなたたちは聖なる者となりなさい」と命じられて、彼らに神の律法を授けられ、それを守り、行なうように命じられました。

 

だから、詩人にとって「正しさ」は、主なる神の命令に服従することです。具体的には、主なる神が神の民イスラエルに授けられた律法を守り行うことです。

 

詩人は、わたしたちに主なる神は正しく、主なる神が神の民に授けられた神の律法も正しいものであり、その律法を守り、行なうことが神の民の正しさであると述べているのです。

 

ところが、この世の有様は、詩人が信じていることが通用しません。むしろ、詩人をつまずかせるのです。

 

だから、詩人は139節でこう正直に告白するのです。「わたしの熱情はわたしを滅ぼすほどです。敵があなたの御言葉を忘れ去ったからです。」

 

詩人の敵とは、同胞の民です。主なる神に服従しないで、主なる神が授けられた神の律法を守らない者たちです。

 

彼らは神の律法を捨て、詩人を蔑み、迫害しました。詩人は、彼らに激しい妬みを覚えました。彼らは、主なる神に服従せず、神の律法を守らないのに、この世で栄華を極めていたからです。

 

「わたしの熱情」とは、詩人の嫉妬です。水曜日に祈祷会でジュネーヴ教会信仰問答を学んでいます。今十戒の第二戒を学びました。偶像と偶像礼拝を禁じた戒めです。そこで主なる神は、偶像礼拝を禁じられて、こう言われています。「わたしは主、あなたの神、わたしは熱情の神である」(出エジプト記20:5)。「熱情の神」とは嫉妬深い神という意味です。

 

主なる神は、わたしたちが主なる神以外の神を偶像礼拝することに激しく嫉妬され、怒りを下される御方です。詩人も神の律法を忘れて、主なる神よりもこの世での権力を欲して、栄華な生活をしている者たちを見て、激しく嫉妬しました。その時、彼の身に誘惑が襲い掛かり、彼の身を滅ぼそうとしたのでしょう。

 

この世で信仰者は、常に試みに出会うのです。試みは、二つあります。試練と誘惑です。試練は、信仰者の信仰を鍛えます。彼の信仰を訓練し、忍耐を通して信仰を成長させてくれます。反対に誘惑は、信仰者の信仰を堕落させます。誘惑によって詩人は、主なる神への信頼を失いかけました。信仰者にとって主なる神への信頼を失うことが、まさに主なる神から離れ、わが身を滅ぼすことです。

 

詩人を誘惑から守ったのは、神の御言葉である神の律法でした。彼は、140節でこう告白しています。「あなたの仰せは火で練り清められたもの。あなたの僕はそれを愛します。」

 

主なる神は、神の民を神の律法によって治められました。主なる神は出エジプトを通して神の民をシナイ山に導かれました。指導者モーセを通して彼らに十戒の二枚の板を授けられました。彼らは約束の地カナンに入ると、他の神々を偶像礼拝しました。主なる神は彼らを神の律法によって裁かれ、遂に彼らをネブカドネツァル王の手に引き渡され、バビロンへと捕囚されました。そして、ペルシャ帝国のクロス王によって神の民を解放し、再びエルサレムに帰還させられ、彼らは神殿とエルサレムの都を再建しました。

 

神の民たちは、バビロン捕囚を経て、主なる神が命じられた神の律法を守り行うことが、主なる神と共に祝福に生きる道であることを確信させられたのです。だから、詩人は主なる神の僕として主なる神に服従し、神の律法を愛して守り行うと告白するのです。

 

そして詩人は、141節で次のように主なる神に誓いを立てているのです。「わたしは若く、侮られていますが あなたの命令を決して忘れません。」

 

「若く」とは、年齢のことではありません。詩人が弱く小さな存在であるという意味です。権力者たちから相手にされないほど弱い立場にある者だという意味です。どんなに敵から攻撃され、堅く律法を守ることを嘲られようと、彼は神の律法を決して忘れることはないと誓っているのです。

 

142節で詩人は、神の正義が永遠の義であり、神の律法が真実であることを告白しています。144節でも詩人は、神の掟、すなわち、神の律法が永遠に正しいと告白しています。神の義も律法の正しさも永遠であるとは、詩人一代で終わらないということです。子々孫々、永遠に神の義と神の律法の正しさは変わりません。

 

詩人にとって神の正義は永遠の義であり、主なる神が神の民に授けてくださった神に律法はとこしえに正しく、彼らの子々孫々に及ぶものなのです。

 

今わたしたちは神の律法を通してではなく、主イエス・キリストの福音を通して、聖書の御言葉を理解し、命を得させていただく恵みに与かっているのです。

 

受難週が410日から始まります。キリストの最後の一週間を瞑想します。そして、今年は417日にイースターを迎えます。

 

詩人が143節で「苦難と苦悩がわたしにふりかかっていますが あなたの戒めはわたしの楽しみです。」と告白しています。

 

詩人は、苦難と苦痛の中にあって、主なる神の律法を守り、行なうことに楽しみを見いだしています。詩人は、来るべきメシア、キリストの受難を彼の身を通して、わたしたちに告げているのです。

 

受難週の主イエスは、御自身の身に苦難と苦悩を引き受けられました。そして十字架の上で主イエスは、「わが神わが神、なぜわたしを見捨てられるのですか」と叫ばれました。これは、わたしたちの罪を身代わりに引き受けられたからです。主イエスは、わたしたちに代わって神の呪いを引き受けられました。

 

同時に主イエスは、十字架の死に至るまで父なる神に従順に従われました。主イエスにとって神の律法は、詩人の言う「わたしの楽しみ」でした。主イエスは、神の律法を守り行われ、父なる神から義をいただかれました。

 

その主イエスの義がわたしたちに与えられるのです。主イエスを信じる信仰によって、わたしたちは神の義をいただき、わたしたちの罪は主イエスが十字架の死を通して担われたのです。

 

福音を通して、この喜びをわたしたちが理解できる時、わたしたちは主なる神の御前に真に生きることが出来るのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編119137144節の御言葉を学び、今わたしたちがレントの季節に十字架のキリストの御苦しみを覚えて日々歩める恵みを覚えて、感謝します。

 

どうか詩人のように、わたしたちに聖書の御言葉を信じさせてください。わたしたちに語られる神の御言葉に、わたしたちを救う御力のあることを信じさせてください。

 

どうか聖霊よ、わたしたちが今朝聞いた神の御言葉を理解し、その理解がわたしたちを信仰から信仰に生きる力としてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教119-17           主の2022424

 

心を尽くして呼び求めます。 わたしは呼びました、心を尽くして。

主よ、わたしに答えてください。 わたしに答えてください、主よ。

わたしはあなたの掟を守ります。 あなたの掟を、わたしは守りましょう。

あなたを呼びます、お救いください。 わたしはあなたを呼びました。わたしを救ってくださ

わたしはあなたの定めを守ります。 い。そうすればわたしはあなたの定めを守りましょう。

夜明けに先立ち、助けを求めて叫び わたしは夜明けに先立ち、求めて呼びました。

御言葉を待ち望みます。 あなたの御言葉を、わたしは待ち望みました。

わたしの目は夜警に先立ち 先立ちました、わたしの両眼は夜警の時に。

あなたの仰せに心を砕きます。 あなたの仰せを、わたしは深く思いました。

主よ、慈しみ深くわたしの声を聞き わたしの声を聞いてください。あなたの慈しみによって、

あなたの裁きによって命を得させてください。 主よ。あなたの法に従ってわたしを生かして

悪だくみをもって迫害する者が近づきます。 ください。近づきました。迫害する者たちが悪

彼らはあなたの律法に遠いのです。 意をもって。あなたの律法から彼らは遠いのです。

主よ、あなたは近くにいてくださいます。 近くにいます、あなたは、主よ。

あなたの戒めはすべて真実です。 あなたの命令はすべて真実です。

あなたの定めを見てわたしは悟ります。 昔からわたしは知っています、あなたの定めを。

それがいにしえからのものであり まことに永遠にあなたがその基を据えられました。

あなたによってとこしえに立てられたのだ、と。 

                            詩編第119145152

 

説教題:「神がとこしえに立てられた律法」

 

今朝は、詩編第119145152節の御言葉を学びましょう。

 

ヘブライ語のアルファベットのコフの段落です。この段落では、神の律法を表わす言葉が次のように出てきます。145節の「掟」、146節と152節の「定め」、147節の「御言葉」、148節の「仰せ」、149節の「裁き()150節の「律法」、151節の「戒め(命令)」です。本段では「定め」が二度使われ、「指図」が省かれています。

 

119編の詩人は、150節で「悪だくみをもって迫害する者が近づきます」と歌っています。彼を迫害する者が悪巧みをもって、悪意をもって身近に迫り来ているのです。そうした中で、詩人は145節で「心を尽くして呼び求めます。主よ、わたしに答えてください」と、主なる神に救いを訴えています。

 

145節で「わたしは呼ぶ」、146節で「わたしはあなたを呼ぶ」、147節で「わたしは助けを求める」と、詩人は繰り返し主なる神の御名を呼びかけ、主に救いを訴えています。この詩人の主の御名を繰り返し呼ぶ姿に、彼の身に危険が迫り来ていることを、そこから必死で詩人が主なる神に救いを、助けを訴えていることが強く感じ取れるでしょう。

 

また、詩人は、主なる神に145節で「お答えください」、146節で「お救いください」、149節で「わたしの声を聞き」、「命を得させてください」と、祈りを次々と重ねています。詩人は、主なる神に強く訴えています。彼を迫害する者からお救いくださいと。

 

詩人は、彼を迫害する者については、150節で「彼らはあなたの律法に遠いのです」と述べています。これは、詩人を迫害する者たちが主なる神から遠く離れた者たちであるという意味だと思います。

 

彼らに対して詩人は、145節で「わたしはあなたの掟を守ります」と告白し、146節で「わたしはあなたの定めを守ります」と告白しています。詩人は、どんな危機的な状況に置かれても、主なる神との恵みの契約を守り、主と共におり、主なる神の身近に、常にいると告白しているのです。

 

145149節で、わたしたちは、詩人の祈りの姿を見ることができます。心を尽くして詩人は祈ります。彼の目は、ただ主なる神に注がれています。彼は、主なる神にのみ依り頼んで、彼の救いを、助けを祈り求めています。

 

145149節で、わたしたちは彼から次のように祈りについて学ぶことが出来るでしょう。祈りは、心を尽くしてなすべきものです。ただ主なる神にのみ寄り縋る信仰が必要です。

 

わたしは、旧約聖書のサムエル記上第1章のサムエルの誕生の物語を思い起こしました。サムエルの母ハンナには、子供がいませんでした。そのことでハンナは多くの悲しみ、苦しみがありました。ハンナは、主なる神に呼び求め、答えていただくために、シロにある主の幕屋に行きました。そして、彼女は主なる神に子供が与えられるように熱心に祈りました。

 

彼女は詩人のように心を尽くして祈りました。彼女の祈りは、大きな声を出して祈るものではありませんでした。彼女の唇は動いていても、声は出ていませんでした。大祭司のエリは、彼女が祈る姿を見ていました。まるで酒に酔っているように見えました。だから、彼は彼女に注意しました。「いつまで酔っているのか。酔いを醒ましなさい」と。彼女は、答えて言いました。「今祈っているのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです」と。それを聞いた大祭司エリは、彼女を慰め、祝福しました。「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と。彼女は、子のサムエルが与えられ、サムエルを主の御用のために献げました。すると、主は彼女に多くの子をお与えくださったのです。

 

詩人やハンナのように、心を尽くして主に祈り、主にのみに寄り縋る信仰者を、主は決してお見捨てにはなりません。

 

次に147148節で詩人が祈った時間を記しています。147節の「夜明けに先立ち」とは、詩人が夜明け前の朝早くから祈ったということです。148節の「わたしの目は夜警に先立ち」とは、夜回りのことです。夜に三交替でエルサレムの都を守るために、夜回りしたのです。夜警の交代時間が午後6時、10時、そして午前2時でした。詩人は、夜明け前の朝早くから夜景が交替する午後10時、午前2時まで、すなわち、夜遅くまで一日中祈っていたのです。

 

詩人は祈りつつ、「御言葉を待ち望み」、神の律法を思い巡らせました。148節の「あなたの仰せに心を砕きます」は、神の律法を深く思うことです。

 

主なる神は、神の民と契約を結ばれ、彼らに御言葉によって約束されました。神の民たちは、主なる神の御言葉に約束が実現することを希望し、願いました。そして、詩人は神の御言葉に心を砕き、思い巡らせたのです。

 

カルヴァンは、詩人についてこう述べています。「悪意に懲り固まった者らが、後からひしと追い迫り、彼に危害を加えようと飛びかかり、神の律法から隔たることはなはだしい。彼らは廉直と公正への愛をいっさい遠くへ投げ捨てるからである。その敵どもが神への恐れと律法への尊崇の念をいっさい投げ捨て、もしも神が傍近くおられなかったとすれば、彼を死に渡そうと、待ち構えているのを目にすることは、預言者にとって惨めな状態であったに違いない。」

 

 しかし、詩人は、敵の迫害という惨めな状態の中で全く失望してしまったのではありません。彼は、149節で「主よ、慈しみ深くわたしの声を聞き」と呼びかけています。そして詩人は、続けて「あなたの裁きによって命を得させてください」と祈ります。詩人は、主なる神の慈しみと正義によって敵の迫害の中で惨めな状態にあるわたしを愛し、生かしてくださいと祈っているのです。

 

 この世において敵の迫害により惨めな状況に置かれた時、詩人もハンナも主の慈しみを心に留めて祈りました。主は慈しみのゆえにわたしの祈りの声を聞き、救ってくださると信じることなくして、心を尽くし祈る事はできません。

 

 カルヴァンは、こう述べています。「神さまはやさしく人間をみもとに招き、その恵みはすべての者に用意されている、と約束されるからである。それゆえに各自が神は自分に対して憐れみ深くあられることを確信するために、預言者の範例に倣って神がご自身を約束されたとおりの方として示してくださるように願い求めることを学ぶべきである。」

 

 彼のこの世における現実は厳しいものでした。彼に、迫害者が悪意を持って、悪だくみをもって近づいていました。150節の御言葉は、ゲツセマネの園で父なる神に祈られていた主イエスを捕えるために来た裏切り者のユダと祭司長の手下たちを思い起こします。

 

 ユダは、主イエスを銀貨30枚で祭司長たちに売り渡しました。彼は神の御心から遠くにいました。

 

しかし、十字架の受難の道を歩まれていた主イエスは、わたしたちの近くにいてくださいました。主イエスの十字架によって、神の律法、すなわち、聖書に証しされた神の御心はすべて真実であることが明らかにされました。

 

それが、教会の礼拝という場所であります。わたしたちは151節で詩人が言う、神が彼に近いこと、近くにいますことを、教会の礼拝という場で実感するのです。神の御言葉が語られ、聴かれるところに、主イエスはいてくださいます。御言葉と共に礼典が執行される礼拝の場に、主イエスはわたしたちと共に居てくださいます。

 

そして、わたしたちは礼拝を通して神の律法、すなわち、神の御意志は永遠から永遠に堅く立つことを知るのです。神の御言葉は永遠に変わることはありません。詩人は、主なる神と神の律法の永遠性を賛美するのです。

 

わたしたちキリスト者にとっては、神の律法は聖書の御言葉です。この神の御言葉は、永遠から神が語られ、そして、永遠に変わることはありません。主なる神は、永遠から御自身の民の救いを御計画され、永遠に神の民を御国に堅くお立てになります。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編119145152節の御言葉を学び、祈りの大切さを教えられ感謝します。

 

どうか詩人のように、心を尽くして祈らせてください。主にのみ寄り縋る信仰を持って祈らせてください。

 

この世における多くの苦しみのゆえに、詩人やハンナのように、主の慈しみと正義を信じて祈らせてください。

 

どうかわたしたちに聖書の御言葉を信じさせてください。この神の御言葉が永遠から永遠に真実であることを信じさせてください。

 

どうか聖霊よ、わたしたちの教会で神の御言葉が語られ、聴かれる時、礼典が執行される時、主イエスの臨在をわたしたちの近くに感じさせてください。

 

今朝聞いた神の御言葉を理解し、わたしたちが信仰から信仰に生き、永遠の御国にヘと歩ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教119-18           主の2022522

わたしの苦しみを顧みて助け出してください。 御覧ください、わたしの苦しみを。わたしを

わたしはあなたの律法を 助け出してください。まことにあなたの律法を、

決して忘れたことはありません。 わたしは忘れませんでした。

わたしに代わって争い、わたしを贖い 争ってください、わたしの争いを。わたしを贖ってく

仰せによって命を得させてください。 ださい。あなたの仰せによって、わたしを生かしてく

神に逆らう者に、救いは遠い。 ださい。悪人たちから救いは遠い。

あなたの掟を尋ね求めないからです。 まことにあなたの掟を、彼らは尋ね求めませんでした。

主よ、あなたの憐れみは豊かです。 あなたの憐れみは豊かです、主よ。

あなたのさばきによって命を得させてください。あなたの法によってわたしを生かしてくださ

わたしを迫害する者、苦しめる者は多いが い。多いのです、わたしを迫害する者たちと苦し

わたしはあなたの定めから離れません。 める者たちは。あなたの定めからわたしは離れませ

欺く者を見れば忌むべきものと思います。 んでした。わたしは裏切り者たちを見て、嫌悪し

彼らはあなたの仰せを守りません。 ました。彼らはあなたの仰せを守らないからです。

御覧ください 御覧ください。

わたしはあなたの命令を愛しています。まことにあなたの指図を、わたしは愛しています。

主よ、慈しみ深く 主よ、あなたの慈しみによって

わたしに命を得させてください。 わたしを生かしてください。

御言葉の頭はまことです。あなたの御言葉の全体は真実です。

あなたはとこしえに正しく裁かれます。 永遠に、あなたの義の法はすべて。

                            詩編第119153160

 

説教題:「わたしに命を得させてください」

 

今朝は、詩編第119153160節の御言葉を学びましょう。

 

ヘブライ語のアルファベットの二十二文字の一つ、レシュの段落です。この段落では、神の律法を表わす言葉が次のように出てきます。153節の「律法」、154節と158節の「仰せ」、155節の「掟」、156節と160節の「裁き()」、157節の「定め」、159節の「命令(指図)」です。159節の「命令」は、「指図」のことですので、本段では「命令」が省かれています。

 

前段のコフと同様に、119編の詩人は主なる神に助けを祈り求めています。前段では149節で、詩人は主なる神に助けを祈り求めて、「あなたの裁きによって命を得させてください」と祈っています。

 

今朝のレシュの段落では、詩人は154節で「仰せによって命を得させてください」と祈り、156節で「あなたの裁きによって命を得させてください」と祈り、159節で「わたしに命を得させてください」と3度繰り返して祈っています。

 

これがこの段落の特色です。

 

詩人がそのように祈る状況を、153節で「わたしの苦しみを顧みて助け出してください」と祈り、157節で「わたしを迫害する者、苦しめる者は多い」と述べています。

 

また詩人は、158節で「欺く者を見れば忌むべきものと思います」と述べています。

 

詩人は、主なる神から離れた悪人から迫害を受け、苦しみを与えられていました。また、彼は神の律法に忠実に生きていました。悪人たちは神から離れているのに、神の民たちの目には敬虔な者として生きていたのでしょう。それを見て詩人は、心から嫌悪しました。「忌むべきものと思います」は、主なる神に呪われた者と思って、彼らを嫌悪しているのです。

 

詩人は、神から離れた者らが権勢をふるい、詩人を迫害し、苦しめる社会に生きています。その中で彼は、決して神の律法を忘れることなく生きています。

 

だから、彼は153節で「わたしの苦しみを顧みて助けてください」と主なる神に呼びかけることが出来るのです。そして、詩人は続けて154節で「わたしに代わって争い、わたしを贖い 仰せによって命を得させてください」と祈る事が出来るのです。

 

この詩人の祈りから、わたしは旧約聖書の出エジプト記を思い起こします。神の民イスラエルがエジプトの国で奴隷生活をし、エジプトの王パロから迫害を受け、多くの苦しみを与えられました。

 

彼らの苦しみは主なる神に届きました。主なる神は、彼らにモーセとモーセの弟アロンを遣わされました。主なる神は、神の民イスラエルに代わって、エジプトの王パロと争ってくださいました。そして主ある神は、エジプトの国に十の災いを下されました。その後主なる神は、神の民を贖い、彼らを奴隷から解放してくださいました。

 

詩人は、そのような救いを主なる神の求めているのでしょう。出エジプトの出来事が彼の身にも主なる神によってなされるようにと、祈っているのです。

 

この詩人の信仰と祈りから三つのことを学びましょう。154節の「仰せによって命を得させてください」、156節の「あなたの裁きによって命を得させてください」、159節の「わたしに命を得させてください」です。

 

第一の「あなたの仰せによって命を得させてください」は、詩人が神の約束に従ってわたしに命を得させてくださいと祈っているのです。「仰せ」は「あなたの仰せ」、すなわち神の約束です。

 

宗教改革者カルヴァンは、このところを次のように解説しています。「われわれが生きる望みを見るのも、神がそのみことばによってわれわれの解放者となるであろう、と約束されたからである」と。

 

詩人が決して忘れない神の律法は、わたしたちキリスト者にとっては聖書です。聖書の神様は、約束の神様です。約束したことを必ず成就する神様です。それが神様の真実です。

 

主なる神は神の民イスラエルの先祖アブラハムと恵みに契約を結ばれました。「わたしはあなたの神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる」と。アブラハムは、主なる神を信じて、その約束に生きました。彼の子イサクも孫のヤコブも、そしてヤコブの12人の子供たちと彼らの子孫、すなわち、神の民イスラエルは主なる神との恵みの契約に生きました。

 

主なる神は、アブラハムと彼の子孫たちと結ばれた恵みの契約の約束を守られました。だから、出エジプトの出来事を通して神の民をエジプトの奴隷の地から解放され、約束の地カナンに導かれました。

 

詩人は、主なる神の民イスラエルに対する憐れみの豊かさをよく知っているのです。私たちも聖書を読みます時に、主なる神が神の民イスラエルに対してどんなに多くの憐れみを示されたかを知っております。約束の地カナンに入りました神の民イスラエルは、主なる神に背いて、カナンの神々を偶像礼拝しました。彼らの数々の罪と背信にもかかわらず、主なる神はアブラハムとの恵みの契約をお捨てになりませんでした。

 

アッシリアとバビロニア帝国によって神の民イスラエルの王国が滅ぼされ、彼らが捕囚の民となり、異邦人の地で生きなくてはならなくなっても、主なる神は彼らと共にいて下さいました。そして、彼らは再び故国に、エルサレムの都に帰り、神殿と都を再建しました。

 

詩人は、神の民イスラエルに対する主なる神の憐れみの豊かさに心から賛美し、第二に次のことを述べています。「あなたの裁きによって命を得させてください」と。

 

主なる神は、神の民イスラエルに代わってエジプトの王パロと争ってくださいました。そして主なる神は、エジプトの王パロとエジプトの神々を十の災いによって裁かれました。そして、神の民イスラエルを贖い、奴隷から解放されました。

 

主なる神は、神の民イスラエルの罪も裁かれました。そして、彼らの中から残りの民を救われました。アブラハムのすべての子孫が救われたのではありません。主なる神の約束をアブラハムのように信じた神の民が救われました。

 

聖書を読めば、神の裁きもまた、神の民の救いとなります。人は神の御前に罪を犯す存在です。しかし、聖書の神様は、詩人が告白するように憐れみ豊かな神様であります。罪に沈む神の民をそのまま捨て置くお方ではありません。約束通りに救ってくださるのです。

 

だから、主なる神の裁きに身を委ねることは、神の民にとっては幸いの道であります。

 

159節で詩人は、こう祈っていますね。「御覧ください。わたしはあなたの命令を愛しています。主よ、慈しみ深く わたしに命を得させてください。」と。

 

これが三つ目に学ぶことです。わたしたちキリスト者にとっては、「あなたの命令(指図)」とは聖書です。わたしたちは聖書を愛しています。聖書は神の民に対して、わたしたちキリスト者に対して、主の慈しみで満ちているからです。

 

詩人が「主よ、慈しみ深く」と祈ります時、わたしたちキリスト者は十字架の主イエスを仰ぐことでしょう。わたしたちの罪のために死なれた主イエスを通して、わたしたちは主の慈しみ、主の愛の豊かさを知るからです。

 

キリストの十字架と復活によってわたしたちは、命を得させられました。永遠の命に生きる喜びを与えられました。

 

詩人は、160節で「御言葉の頭はまことです。あなたはとこしえに正しく裁かれます」と賛美しています。

 

「御言葉の頭」とは、教会の頭はキリストと告白する時の「頭」です。キリストが教会の全体であるように、御言葉の全体がまことであるということです。どうしてか、神の裁きが永遠であるからです。

 

わたしたちは罪人ですから、主なる神の裁きを逃れられません。罪を裁かれ、死ぬのです。だから、人は誰でも、死ぬのです。死をのがれることは出来ません。

 

しかし、神は主イエス・キリストの十字架によってわたしたちの罪を裁かれました。永遠に裁かれたのです。その裁きは正しく、真であるので、わたしたちはキリストが復活された時に、キリストの命に与ることが出来ました。十字架のキリストと共に罪を裁かれ、復活のキリストと共に永遠の命に生きる者とされているのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編119153160節の御言葉を学び、主なる神の慈しみの豊かさによってわたしたちが永遠の命に生かされている恵みを教えられ感謝します。

 

どうか詩人が祈りますように、わたしたちにも聖書の神様の約束によって、神の裁きと愛によって命を得させてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教119-18           主の2022626

 

地位ある人々が理由もなく迫害をしますが 高官たちはわたしを迫害する、理由なく。

わたしの心が恐れるのはあなたの御言葉だけです。 しかしあなたの御言葉を、恐れる、

仰せを受けてわたしは喜びます。 わたしの心は。喜ぶ、わたしは、あなたの仰せを。

多くの戦利品を得たかのように。 見つけた者のように、戦利品の多くを。

わたしは偽りを忌むべきこととして憎み 偽りを、わたしは憎み、忌み嫌う。あなたの

あなたの律法を愛します。 教えを、わたしは愛する。

日に七たび、わたしはあなたを賛美します。 一日に七度、わたしはあなたを賛美する。

あなたの正しい裁きのゆえに。 あなたの義の法のゆえに。

あなたの律法を愛する人には豊かな平和があり 大きな平和があなたの律法を愛する者たち

つまずかせるものはありません。 にある。そして彼らにつまずかせるものがない。

主よ、わたしは御救いを仰いで待ち わたしは待ち望む、あなたの御救いを、主よ。

あなたの戒めを実行します。 あなたの命令を実行する。

わたしの魂はあなたの定めを守り 守る、わたしの魂は、あなたの定めを。

それをどこまでも愛します。 そしてわたしはそれらをとても愛する。

あなたの定めと命令を守っています。 わたしは守る、あなたの指図と定めを。

わたしの道はすべて御前にあるとおりです。 まことにわたしの道のすべては御前に。

                            詩編第119161168

 

説教題:「律法を愛する人には豊かな平和」

 

今朝は、詩編第119161168節の御言葉を学びましょう。

 

ヘブライ語のアルファベットのシンの段落です。この段落では、神の律法を表わす言葉が次のように出てきます。161節の「御言葉」、162節の「仰せ」、163節と165節の「律法」、164節の「裁き()」、166節の「戒め(命令)」、167節の「定め」168節の「定め(指図)」、「命令(定め)」です。本段では「律法」と「定め」が二度使われ、「掟」が省かれています。

 

119編の詩人は、前段の「レシュ」で何度も主なる神に救いの祈願を繰り返しました。153節で詩人は、主なる神に敵の迫害の苦しみから助け出してくださいと祈りました。154節で詩人は主なる神が彼を贖ってくださいと祈りました。そして、154節で詩人は主なる神に命を得させてくださいと祈りました。

 

詩人は、ユダヤ社会の支配者階級の人々から迫害されていました。詩人の祈りは切実でした。彼を迫害し、虐げる地位ある人々から助けてくださいと祈りました。彼はユダヤ社会では身分の低い下層階級の者でした。ですから彼は、主なる神がエジプトの王の迫害から奴隷であった神の民を解放されたように、地位ある人々の迫害と虐げからの解放を祈りました。そして彼は、主と共に生きる命を得させてくださいと祈り求めました。

 

シンの段落も、161節で詩人は、「地位ある人々が理由なく迫害します」と歌い、ユダヤ社会の支配者たちの邪悪さを歌っています。

 

「地位ある人々」とは、高官、すなわち、上流階級の人々です。彼らは、理由なくユダヤ社会の下層階級の詩人を迫害し、虐げました。

 

この世は、いつも格差社会です。そして上流階級の人々が詩人のように下層の貧しい階級の者たちを搾取し、虐げるのです。

 

しかし、詩人は、「わたしの心が恐れるのはあなたの御言葉だけです。」と歌っています。

 

詩人の目と心が向けられているのは、主なる神だけです。彼の心が恐れているのは、「あなたの御言葉」だけです。神の律法は、まさに主なる神の御言葉であります。主なる神の御心そのものです。だから、詩人は次のように告白しているのです。「わたしの心は主なる神の御心のみを恐れる」と。

 

どんなに上流階級の人々によって理不尽な迫害、虐げを受けようと、詩人の神の律法に対する信頼は揺らぎませんでした。

 

これは、わたしたちキリスト者がこの詩人から学ぶべき点です。わたしたちは、この聖書を通して、わたしたちに語りかけられる神の御言葉に信頼すべきです。

 

次に詩人は、神の律法を喜び、愛しています。詩人は、「仰せ」、すなわち、神の律法を通して語られる主の御言葉を喜んでいます。

 

神の律法を通して主なる神が彼に代わって彼らと戦い、勝利してくださると、彼は信じています。だから、「多くの戦利品を得たかのように」喜ぶのです。これは、多くの戦利品を見つけた者のように喜ぶということです。

 

わたしたちキリスト者は、主イエス・キリストの十字架と復活の御業においてこの喜びを見つけるのです。

 

主イエスはわたしたちのためにサタンと戦われ、十字架と復活の御業を通して勝利されました。わたしたちは洗礼によってキリスト共に葬られ、キリストを死者の中から復活させられた神の力を信じて、キリスト共に復活させられました。

 

この喜びこそ、詩人が歌っている「多くの戦利品を得たかのように」喜ぶことに通じていると、わたしは思うのです。

 

キリスト共に死に葬られて、罪に死んだわたしたちキリスト者は、主なる神が聖なるお方であるように、聖なる者としてこの世を生きるのです。

 

詩人も同じです。主なる神は神の民イスラエルに神の律法を通して「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ記19:2)と命じられました。

 

だから、詩人は、主なる神と同じように「偽りを忌むべきこととして憎む」と歌っています。「偽り」とは神の民が主なる神を捨てて、他の神々、偶像を礼拝することです。詩人は、神の律法を、特に神の十戒を愛するので、偶像礼拝を忌み嫌うと述べているのです。

 

詩人は、164節で「義の法に従って」、すなわち、神の律法に従って日に七度主を賛美する、礼拝すると歌っています。文字通り、詩人は日に七度主を礼拝したという意味ではありません。

「日に七たび」とは、日に何度もという意味のヘブライ的慣用句です。

 

 第一と第三の木曜日に旧約聖書の学びの集いを開いて、今ダニエル書を学んでいます。ダニエル書第6章にダニエルの迫害の物語があります。ダニエルはペルシアの国の三人の大臣の一人となり、他の大臣たちよりも王に信頼されていました。それを妬みました他の大臣と総督たちは、奸計によってダニエルが王の勅令を守れない状況を作り、罪を犯した者としてライオンの穴に放り込みました。

 

 1か月間、王を差し置いて、他の神々や人に祈り、願い事をしてはならないという王の勅令です。

 

 ダニエルは、この王の勅令をよく知っていましたが、敬虔なユダヤ人の生活を変えようとしませんでした。彼は王宮から自宅に帰りますと、日に三度エルサレムの都に向かって主を礼拝讃美し、主に祈りました。

 

 それを見届けました役人が大臣たちに報告し、大臣たちは王に勅令のことを述べて、ダニエルを獅子の穴に放り込みました。しかし、主なる神が天使を遣わし、獅子のたちの口を塞がれたので、ダニエルは無事でした。

 

 ダニエルのように、詩人も日に三度主なる神を礼拝讃美し、主なる神に祈ったでしょう。

 

 詩人は、165節で「あなたの律法を愛する人には豊かな平和があり つまずかせるものはありません。」と歌っています。

 

 神の律法を愛する人は、主なる神との間に大きな平和があるのです。主なる神の祝福の中に生きている人です。だから、彼の御前に、彼が歩む道に、彼をつまずかせるものは何もありません。

 

詩人は、166節で神の律法を実行すると宣言しています。今彼は迫害の中にあります。しかし、彼は、神の御救いを待ち望みながら、神の律法を実行すると宣言しています。

 

わたしたちキリスト者も神の御救いの完成を待ち望みつつ、聖書の神の御言葉の約束を信じて、主イエスの戒めを実行しています。主イエスがヨハネによる福音書で11弟子たちに命じられた新しい掟です。「あなたがたは互いに愛し合いなさい」という命令です。

 

詩人は167節で「わたしの魂はあなたの定めを守り それをどこまでも愛します」と歌っています。

 

キリスト者は、聖霊の導きにより、心を清められ、聖書の神の御言葉を愛して心の貯え、聖書の御言葉を守り、歩めるようにしていただけるのです。

 

詩人は、敬虔な神の民として、神の律法を守り、常に彼が歩む道は、主の御前なのです。

 

これは、改革派信仰のスローガンである「神の御前に」ということに通じていると、わたしは思うのです。わたしたちは、この詩人のように「わたしの道はすべて御前にあるとおりです」と告白しょうではありませんか。

 

キリストの十字架と復活の御前に、罪を赦され、御国への永遠の命を保証されたわたしたちのこの世におけるすべての道があるのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編119161168節の御言葉を学び、聖書の御言葉に信頼し、主の御前に歩むことの大切さを教えられ感謝します。

 

どうか詩人のように、聖書が語ります神のみにわたしたちが目と心を向け、礼拝させてください。

 

この世において、詩人同様にわたしたちキリスト者も地位の高い人々の迫害があり、理不尽な思いを味わうことがあります。

 

どうかわたしたちが人ではなく、聖書の御言葉に信頼し、歩ませてください。聖書を通して語られる父子御霊なる神のみを恐れ、礼拝させてください。

 

どうか聖霊よ、わたしたちの教会で神の御言葉が語られ、聴かれる時、礼典が執行される時、主イエスの臨在をわたしたちに感じさせてください。

 

詩人同様に、わたしたちの救いの完成を、御国到来を待ち望ませてください。神の御言葉に、わたしたちが心から従うことが出来るようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教119-19           主の2022724

 

主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。達しますように、わたしの叫びが、あなたの

御言葉をあるがままに理解させてください。御前に、主よ。あなたの御言葉に従って、わたし

わたしの嘆願が御前に達しますように。 に理解させてください。届きますように、わたしの

仰せのとおりにわたしを助け出してください。願いがあなたの御前に。あなたの仰せに従って

わたしの唇から賛美が溢れるでしょう  わたしを救い出してください。溢れるでしょう、

あなたが掟を教えてくださいますから。 わたしの唇は賛美が。まことにあなたはわたしに

わたしの舌はあなたの仰せを歌うでしょう。教えて下さいます、あなたの掟を。歌うでしょう、

あなたの戒めはことごとく正しいのですから。 わたしの舌はあなたの仰せを。まことに

あなたの御手はわたしの助けとなるでしょう。あなたの命令はすべて義です。ありますように、

あなたの命令を選び取ったのですから。 あなたの御手がわたしを助けるために。まことに

主よ、御救いをわたしは臨みます。 あなたの指図を、わたしは選び取りました。わたしは

あなたの律法はわたしの楽しみです。 慕い求めました。あなたの御救いを、主よ。あなたの

わたしの魂が命を得てあなたを賛美しますように。 律法は、わたしの喜びです。わたしの

あなたの裁きがわたしを助けますように。 魂が生きて、あなたを賛美できますように。

わたしが小羊のように失われ、迷うとき あなたの法がわたしを助けてくれますように。

どうかあなたの僕を探してください。 わたしは迷い出ました、滅びる小羊のように。

あなたの戒めをわたしは決して忘れません。 探し出してください、あなたの僕を。まことにわたしはあなたの命令を忘れません。

                            詩編第119169176

 

説教題:「どうかあなたの僕を探してください」

 

今朝は、詩編第119169176節の御言葉を学びましょう。本日で詩編119編の御言葉の学びは終わります。

 

ヘブライ語の22文字のアルファベットの最後のタウの段落です。この段落では、神の律法を表わす言葉が次のように出てきます。169節の「御言葉」、170節と172節の「仰せ」、171節の「掟」、173節の「命令」は「指図」です。172節と176節の「戒め」は「命令」のことです。174節の「律法」、175節の「裁き」は「法」のことです。本段では「仰せ」と「戒め」、すなわち、「命令」が二度使われ、「定め」が省かれています。

 

119編の詩人は、これまで何度も主なる神に救いを祈願しました。律法を喜び愛し、楽しみ、賛美し、律法への信頼を証しして来ました。

 

詩人は、タウの最後の段で、主への救いの祈願、律法への賛美、そして律法への信頼を繰り返して、この詩編119編を閉じているのです。

 

ところが、詩人は、この詩編を閉じるに当たって、自らを主なる神の御前に失われた一匹の小羊に譬えています。そして彼は主なる神にあなたの僕を探し出してくださいと祈っています。

 

何とも不可解な詩人の神賛美です。

 

わたしは推理小説、特に探偵小説が好きです。主人公の探偵が殺人事件の謎解きをします。彼は苦しみ、悩み、自らも危険にさらされ、最後に謎を解いてしまいます。彼は犯人と犯人の殺人の動機を明らかにするのです。こうしてすべてのことは丸く収まるのです。

 

わたしは、この清涼感が探偵小説の醍醐味であると思います。だから、同じことを、この詩編119編にも願いながら、読み進めるわけです。

 

一つ一つの段落を読むごとに、詩人が主なる神の僕として苦難の中に生きていることを、わたしたちは肌に感じました。

 

神の民イスラエルはバビロン捕囚から解放されました。バビロニア帝国が滅び、新たにペルシア帝国が起こりました。ペルシア帝国のキュロス王は、神の民イスラエルに故国に帰ることを許しました。

 

帰還した神の民たちは、エルサレムの都に戻ると、第二神殿を再建しました。そして主なる神を礼拝しました。

 

祭司であり律法学者であるエズラが帰還しました。彼は神の民イスラエルに神の律法を教えて、神の律法に従って生きるように指導しました。さらに指導者ネヘミヤが帰還しました。彼はエルサレムの城壁を修復しました。こうして、神の民イスラエルは神の律法を中心にし、新たな出発をしました。

 

旧約聖書のエズラ記とネヘミヤ記を読んでみてください。そこに今わたしがお話したことを記しています。読んでいて、わたしは探偵小説の最後を読むような清涼感を味わいます。

 

罪を犯した神の民イスラエルが、主なる神の裁きによって70年間バビロンの捕囚の地で苦難を味わいます。しかし、主なる神はアブラハムとの恵みの契約を忘れられていません。「わたしはあなたとあなたの子孫の神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる」という契約です。

 

この恵みの契約は、モーセが奴隷の地エジプトから神の民をシナイ山に導いたときに、新たに更新されました。主なる神は神の民イスラエルと恵みの契約を結ばれて、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」と約束してくださいました。そして主なる神は、神の民イスラエルを「あなたがたを祭司の国とする」と言われました。この民は、世界の中で最も弱く、小さく、貧しいです。しかし、この民が世界の諸国民を主なる神に執り成す祭司となるのです。神の民イスラエルを通して、彼らの神、主こそ世界の諸国民の希望となるのです。

 

神の民イスラエルは、バビロン捕囚を通して中近東世界を支配するバビロニア帝国、それに続くペルシア帝国と関わりながら生きて行きました。彼らは、彼らの神、主が天地万物の創造者であり、神の民イスラエルだけではなく、世界の諸国民を支配する御方であることを認識しました。

 

同時に彼らの生きる環境と価値観が変化したでしょう。詩人のように神の律法に従い、エルサレム神殿の礼拝を中心にした彼らの信仰生活が世俗化によって失われて行きました。捕囚後の神の民たちの生活は、今のわたしたちの生活同様に、グローバルな世界と関わり、格差社会が広がりました。

 

帰国したユダヤ人たちは、富める者と貧しい者に分かれました。富める者はこの世を愛して、詩人のように貧しい者を搾取し、抑圧しました。

 

詩人は貧しい律法学者だったでしょう。使徒パウロのように手に職を持ち、日々労苦して糧を得ていたでしょう。しかし、彼は常に神の律法と共に歩みました。彼は、それを主なる神を愛するように愛していました。神の律法は詩人にとって憧れであり、待ち望むものでした。

 

詩人のようにわたしたちも聖書に憧れ、期待します。聖書を、わたしたちが読みます時に、聖霊が聖書の御言葉を通してお働き下さいます。聖霊が主の御言葉の意味を、主イエスの御心を教えて下さいます。だから、聖書の御言葉を心に思い巡らせることが大切です。

 

天使ガブリエルがマリアに受胎告知をした時、マリアは心でそれを思い巡らせました。彼女は告げられた御言葉から逸脱しませんでした。マリアは、聴いたその御言葉に従って歩みました。

 

彼女のようにわたしたちも、今のグローバルな世界の中で聖書の御言葉に、そして、今ここで礼拝説教として語られている神の御言葉を心に思い巡らせましょう。神の御言葉から離れないで、わたしたちの人生を主なる神と共に生きて行こうではありませんか。

 

詩人にとって神の律法は、単なる文字でありません。使徒パウロが「文字は殺しますが、霊は生かします」(Ⅱコリント3:6)と言いました。神の律法は神の御意志です。だから、詩人は、神の律法を通して主なる神に救いを祈り求めました。主なる神との交わりで、彼の魂が生かされることを求めました。敵の悪巧みから主なる神に守られ、救われることを祈り求めました。

 

まさに詩人にとって神の律法は主なる神御自身であり、主の義であり、恵みであり、救いでした。

 

さらに詩編119編の詩人は、わたしたちに似ています。わたしたちが聖書を読みます時、教会との関係で読んではいません。わたしと主イエスとの個人的な関係で読んでいます。わたしたちは、わたしが聖書を愛し、わたしと家族と友の救いを祈り求めるのです。だから、この詩人が言うように、聖書の御言葉はわたしの足を照らす灯です。わたしの人生の歩むべき道を照らす光なのです。

 

今朝は、一つ一つの御言葉を解説しません。むしろ、わたしは、この詩編119編の全体から今朝の御言葉を思い巡らせることが大切だと思います。

 

そして、詩篇119編こそ聖書を読むわたしたちの手本であると思います。詩人が律法を愛し、律法を通して主なる神と出会ったように、わたしたちは聖書を愛して、聖書を通して主イエスに出会うのです。

 

詩人にとって神の律法は主なる神の御意志であり、御言葉でした。彼の信仰と生活の唯一の規準でした。同様にわたしたちにとっても聖書が神の御言葉であり、信仰と生活の唯一の規準です。

 

詩人は、彼のいろいろな悩みを神の律法を思い巡らせることで解決しました。わたしたちも同じです。この礼拝説教でわたしは、聖書の御言葉を説き明かします。しかし、具体的なことを、語ることはありません。聖書をわたしたちの生活に適用し、主はわたしたちにこうすることを願われていると語る牧師もいます。それが正しいのかもしれません。

 

しかし、わたしは119編の詩人のやり方に学びたいのです。彼は、神の律法を彼の生活に一々適用していません。むしろ、彼は神の律法を通して主なる神の御心を尋ね求めているのです。心に思い巡らせているのです。

 

詩人には敵がいます。彼らは詩人を滅びに導こうと、悪を企んでいます。しかし、詩人は神の律法に具体的に敵から逃れる処方箋を求めてはいません。主なる神が彼を悪人から救い出してくださることを祈り求めています。神の律法が証しする主なる神の正義を、真実を、慈しみを信頼しています。

 

これは、主イエスの母マリアのように、神の律法である主なる神の御言葉を、彼の心で思い巡らせているということです。

 

詩人は神の律法を、彼の愛するものとして個人化しています。神の律法は本来神の民のものです。しかし、詩人は、神の律法を個人化し、内面化しています。そして、そこで主なる神の御意志が働くのです。聖霊が神の律法を通して、彼を主イエスへとお導きになるのです。

 

だから、この詩編119編は、わたしたちの目には不可解な終わり方をしているのです。詩人のように神の律法を愛し、憧れ、魂に命を得ようとする者、そして、神の律法を信頼し、それに助けを求める者は、誰でも、主なる神の御前に迷える小羊であるのです。

 

詩人のようにわたしたちも聖書を愛しています。聖書に憧れています。永遠の命を、神の御国を待ち望んでいます。聖書に信頼しています。聖書の証しする主イエス・キリストによる救いを信じています。聖書を前にして、わたしたちは失われた一匹の羊です。主イエスが見つけてくださらなければ、滅び行くものでした。

 

キリストの十如何に出会わなければ、わたしたちは自分の罪によって滅ぶべき、この世で一番弱い動物である小羊でした。

 

詩篇119編の詩人は、バビロン捕囚の時代に生きた預言者エゼキエルが書いた預言書、エゼキエル書を読んでいたでしょう。エゼキエル書の341116節の主なる神の御言葉を知っていたでしょう。そこで主なる神は、御自身が羊飼いとして、御自身の羊を探し出し、世話をし、養うと約束されています。主の羊たちは、諸国から集められます。そして、主は失われた者を尋ね求め、探し出し、主の憩いに休ませてくださいます。

 

詩人は、主なる神にわたしもあなたの僕として、失われた小羊として、探し出してくださいと祈ります。

 

詩篇119編に主なる神の詩人の祈りに対する答はありません。

 

ところが意外なところから、詩人に答える者が現われました。ユダヤのガリラヤに、メシアが現われました。彼は、神の国の福音を宣べ伝えました。病人を癒しました。体の不自由な人々を直しました。そして悪霊につかれた者から悪霊を追い出しました。

 

彼は12弟子たちと共に貧しい者、差別されている者たちの家に入り、一緒に食事をしました。

 

神の律法の文字に拘泥するファリサイ派の人々や律法学者たちは、徴税人や罪人たちと一緒に食事をする主イエスを非難しました。

 

主イエスは、彼らに失われた1匹の羊の譬えを話されました。主イエスは、100匹の羊を飼う羊飼いでした。主イエスは99匹を残してでも、迷子になり、失われた一匹を探す羊飼いです。

 

主イエスは、詩篇119編の詩人に答えて言われました。「わたしは、失われた1匹の小羊であるあなたを探し回るだろう。そして見つかったら、喜んで担ぎ、主の家に連れて帰ろう。友や近所の者を集めて、『一緒に喜んでください。見失っていた羊を見つけました。』と言おう」と。

 

詩人が神の律法を通して尋ね求めていたのは、わたしたちが聖書を通して尋ね求めている主イエスだったのではないでしょうか。

 

わたしたちは、この世にあっては迷える羊であり、主イエスに見いだされた者なのです。今朝の礼拝を通してそのことを心から喜び、共に主を賛美しようではありませんか。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編119169176節の御言葉を学び、詩篇119編を学び終えることができましたことを感謝します。

 

こんな終わりになろうとは、思いもしませんでした。しかし、詩人によって、聖書を通して主イエスに出会える喜びを知りました。

 

どうか詩人同様に、わたしたちも聖書を愛し、憧れ、聖書をわたしたちの人生を歩む灯とさせてください。聖書を通して主イエスともっと個人的につながり、わたしたちの心で聖書の御言葉を思い巡らせ、聖霊が働いてくださるところとしてください。

 

主イエスが慈しみ深く、正しく、真実なお方であることを見させてください。

 

どうかわたしたちも詩人のように失われた1匹の小羊であり、十字架の主イエスに見いだされた者であることを、わたしたちの心に深く留めさせてください。

 

どうか聖霊よ、わたしたちだけではなく、この教会の外にいる主イエスの失われた小羊を、主イエスが探し出してくださり、導いてくださって、共に喜べる教会としてください。

 

 

 

@kこの祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。