聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。わたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、喜びをもって受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

 

 

 

 詩編説教016                  主の20111127

 

 

 

                        ミクタム。ダビデの詩。

 

神よ、守ってください。

 

   あなたを避けどころとするわたしを。

 

 

 

 主に申します。  「お前は主に言う」。詩人が自分の魂に呼びかける。

 

「あなたはわたしの主。

 

あなたのほかにわたしの幸いはありません。」

 

この地の聖なる人々 「神に聖別された者たち」→カナンの神々

 

わたしの愛する尊い人々に申します。「尊い人々」→「力強い者たち」はカナンの神々

 

「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。

 

わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず 「モレクの神に子を献げること」レビ記2025

 

彼らの神の名を唇に上らせません。」 異教の神々の名を口にしない。

 

 

 

主はわたしに与えられた分、わたしの杯。   「主はわが分け前の分」

 

主はわたしの運命を支える方。 他の神々ではなく、主が人生のすべてであると告白する

 

測り縄は麗しい地を示し     相続地の領域を決める縄

 

わたしは輝かしい嗣業を受けました。

 

 

 

わたしは主をたたえます。

 

主はわたしの思いを励まし

 

わたしの心を夜ごと諭してくださいます。

 

わたしは絶えず主に相対しています。

 

主は右にいまし

 

わたしは揺らぐことがありません。

 

わたしの心は喜び、魂は躍ります。

 

からだは安心して憩います。

 

あなたはわたしの魂を府陰にわたすことなく

 

あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず

 

命の道を教えてくださいます。

 

わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い

 

右の御手から永遠の喜びをいただきます。

 

                    詩編第16111

 

 

 

説教題:「永遠の喜び」

 

 本日よりアドベントに入ります。1127日から1224日までクリスマスを迎える準備の期間に入ります。「待降節」とも呼ばれています。キリストの第1の到来であるクリスマスに備えると共に、第2の到来であるキリストの再臨にも心を向ける期待と喜びの期間です。

 

 今朝は、ダビデ王の詩編16篇の御言葉を学び、クリスマスに心を向けて、備えましょう。

 

 見出しに「ミクタム。ダビデの詩」とあります。「ミクタム」という言葉は、初めてです。他に5660篇まで見出しに「ダビデの詩。ミクタム」とあります。正確には「ダビデの。ミクタム」です。意味は不明です。

 

 この詩編は、ダビデが主なる神の御守りを確信して、主なる神に身を委ねて祈っています。「神よ、守ってください あなたを避けどころとするわたしを。」ダビデ王は、何か今身の危険を感じて、主なる神に助けを求めて祈っているのではありません。主なる神が、彼の生涯において彼の守り手であることをお示しくださいと、主に身を委ねて祈り求めているのです。彼は確信しています。信仰の確かさによって主なる神のうちに憩う限り、主なる神は必ずダビデを支え助けてくださると。

 

 だから、ダビデは心から主に信仰告白します。ダビデは自分を2人称の「お前」と呼んで、「お前は主に言う。『あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。』」

 

ダビデは、自分を「お前」と呼び、自分の魂に語りかけているのです。「わたしの主はあなただ」と。心に刻みつけています。「あなたのほかにわたしの幸いはありません。」と。

 

 ダビデ王は、自分の魂に「わたしの幸せは、主なる神に逆らってはありません」と言い聞かせています。いや、言い切っています。

 

 そして、ダビデ王は、3節と4節に偶像礼拝を否定することを宣言しました。「この地の聖なる人々」と「わたしの愛する尊い人々」は、ダビデが同じ人たちに皮肉を述べています。「この地の聖なる人々」と「わたしの愛する尊い人々」は、実はダビデが心から寄り頼む主なる神とは、似ても似つかぬ偽りの神であり、偶像です。

 

 ダビデは、偽りの神である偶像に言います。「偶像礼拝者よ、悩みが増すがよい。わたしは、異教の神々のために動物を犠牲にささげる祭は行いません。異教の神々の名を口にすることはしません」。

 

 ダビデが、わたしたちに伝えたいことは、こうです。主なる神以外の神々を追い求める者たちの生涯は悩みが絶えることがないと。異教の神々は、安易に「商売繁盛」「家内安全」を約束しますが、主なる神と似ても似つかぬ偽りの神々ですから、従う者たちに確かな平安と憩いを与えることができないからです。

 

 それに対してダビデ王は、わたしの生涯には主なる神という保証があると賛美します。「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し わたしは輝かしい嗣業を受けました。」

 

 「わたしに与えられた分」とは、「わたしの分け前」であり、嗣業のことです。土地、財産、食糧の自分の分け前のことを、「嗣業」と言います。「わたしの杯」とは、わたしの食糧という意味です。「与えられた分」、「分け前」とは、土地と財産を意味します。わたしの土地と財産と食糧は、この地上の生涯においてわたしたちの命を保証するものです。また、それを所有することの有無が、わたしたちの人生を左右します。

 

 ダビデ王は、主なる神こそがわたしの嗣業であり、すべてであり、命の保証そのものであると告白しています。「運命」とは「くじ」のことです。イスラエルの民は、その人の人生を左右する時にくじを引きました。そのくじを御手の中に支配されているのは主なる神です。預言者ヨナは、主なる神の命令に背いて、船で他国に逃げようとしました。船は海で嵐に遭いました。船に乗っていた人たちはくじを引き、主なる神の御怒りに触れた者を選び、ヨナが選ばれました。ヨナは、海に投げ込まれ、大きな魚の中で3日3晩過ごしてから、主に救われ、ニネベの町に遣わされました。ダビデ王も、主なる神によって羊飼いから王に選ばれました。そして死ぬまで主なる神はダビデをイスラエルの王として支えられました。

 

 測り縄は、土地を測る縄です、主なる神は、ダビデ王に善き生涯をお与えくださいました。ダビデ王は、それを「わたしは輝かしい嗣業を受けた」と告白しています。ダビデ王は、主なる神を自分の分け前として持ち、彼の生涯において「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(詩編231)と告白しています。彼の生涯にまことの幸いに必要なものは何一つ欠けることはありませんでした。

 

 さらにダビデ王が主なる神を賛美するのは、彼の生涯において主なる神が彼の人生を誤らないようにお導き下さったからです。主なる神の保証は物だけでありません。正しい導きです。人の人生のまことの幸いに、「主なる神の正しい導き」が必要です。それは、常にダビデ王の心を主なる神に向けて歩むことです。

 

 人の人生には罪があり、過ちがあります。ダビデ王も彼の生涯において罪と過ちを犯しました。彼の家来ウリヤの妻バト・シェバとの姦淫とウリヤ殺しは、ダビデ王の生涯の中で大きな危機でした。主なる神は、預言者ナタンを通してダビデ王の罪を暴き、裁かれました。しかし、ダビデ王がさらに罪に沈まないように、主なる神に立ち帰るように彼の心を励まし、主なる神に信頼するように諭されました。主なる神は、ダビデ王の生涯常にダビデ王と共に歩まれました。だから、ダビデ王は数多くの逆境を乗り越えることができました。

 

 ダビデ王の80年の生涯は、主なる神という保証があったという喜びを、ダビデは賛美しました。

 

 そして、ダビデ王は、主なる神の保証が地上の生涯だけでなく、永遠であることを賛美しています。

 

 ダビデ王は、主なる神の保証の中で生きるわたしたちの地上における信仰の生涯の喜びを次のように告白します。「わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います」。カルヴァンは、9節の御言葉をこう説明します。「神の保護のもとに、われわれは心の内で平穏に生きることができるだけではなく、心楽しく軽やかに生きることを賛美している」と。そして、彼は、続けてこう言います。「人がただ神の内に憩うことを習得するのでなければ、人は平和にまた素朴に楽しむことはできないし、その命と救いを神の御手の中に置くことはないのである。たとえ、無限の悩みが八方からわれわれを取り囲むような時でも、唯一の道と癒しとは神に目を向けることである、ということを知ろうではないか」と。

 

 ダビデ王は、最後に自分が主なる神の御前にある喜びが死によって絶えることなく、死後永遠に続くことを、永遠の喜びを希望を持ち、賛美しています。10節は、ひと言でいえば復活の希望です。12節の「命の道」は、信仰者の御国への旅立ちを教えています。

 

 ダビデ王は、聖霊によってわたしたちに来たるべきキリストを預言しているのです。族長アブラハム、イスラエル、そして、モーセ、イスラエルの神の民たちは、主なる神に「命の道」を教えられ、主なる神の御顔を仰ぎ見て、地上の生涯を旅しました。その最後は、死を越えた永遠の命の喜びでありました。

 

 その喜びを、わたしたちの生涯に保証してくださったのが、イエス・キリストです。神の独り子キリストは、肉体を取りこの世に生まれられました。そして、主なる神に逆らって、偽りの神々を追いかけて、罪から罪へと滅びの中を歩んでいたわたしたちを、真の神に立ち帰らせて、神と和解し、罪赦されて、永遠の命の喜びに招くために、キリストは十字架に死に、死人の中から甦られました。

 

 主イエスの弟子たち、12使徒たちは、この詩編16篇のダビデ王の賛美を、主イエス・キリストの復活の光の下で読みました。そして、使徒ペトロはペンテコステの日の説教において詩編16節の10節のダビデ王の御言葉が、神が主イエスを死人の中から復活させられたときに初めて実現したと説教しました(使徒言行録22432)

 

 主イエスの復活によって今この地上において避けがたい死に直面しつつ、また高齢化とそれに伴う様々な困難と向き合いつつ、わたしたちは主イエスの保護に信頼するゆえに、ダビデ王のように永遠の喜びをもってこのアドベントの季節に賛美します。「わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を府陰にわたすことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます。」

 

お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちにも、聖霊に導かれてダビデ王のようにこの教会の礼拝を通して「命の道」を教えてください。わたしたちの生涯の保証であり、御国への導き手のである主イエス・キリストへの堅い信仰をお与えください。十字架のキリストを仰ぎ、罪赦され、神と和解する喜びに、わたしの心が喜び、魂が躍り、わたしのからだが安心して憩っている喜びに満たしてください。キリストの御顔を仰ぎ、心満ち足り、このアドベントの季節に永遠の命の喜びを祝わせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 

聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。わたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、喜びをもって受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

 

 

 

 詩編説教017                  主の20111225

 

 

 

                        祈り。ダビデの詩。

 

主よ、正しい訴えを聞き 「聞きたまえ、主よ、正しいことを」

 

わたしの叫びに耳を傾け 「注意深く聞きたまえ、わたしの叫びを」

 

祈りに耳を向けてください。「耳を傾けたまえ、わたしの祈りに」

 

わたしの唇に欺きはありません。「偽りの唇ではない」

 

御前からわたしのために裁きを送り出し 「あなたの面前からわたしの裁きが出る」

 

あなた自身の目をもって公平に御覧ください。「あなたの目は凝視する、正しいことを」

 

あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね 「あなたは吟味する、わたしの心を。あな

 

たは訪れる、夜」

 

火をもってわたしを試されますが 「あなたはわたしを精錬する。」

 

汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。「あなたは見つけない。わたしが企むこと

 

は 過ぎない、わたしの口を」

 

わたしの口は人の習いに従うことなく 「業に、人の言葉によって、」

 

あなたの唇の言葉を守ります。 「あなたの唇の、わたしは守った。」

 

暴力の道を避けて 「小道を、暴虐な者の」

 

あなたの道をたどり 「支えたまえ、わたしの歩みを、」

 

一歩一歩、揺らぐことなく進みます。「あなたの足跡の中で、揺るがない、わたしの足が」

 

 

 

あなたを呼び求めます。 「わたしはあなたに呼ばわる。」

 

神よ、わたしに答えてください。「と、わたしに答えたまえ、神よ。」

 

わたしに耳を傾け、この訴えを聞いてください。「傾けたまえ、あなたの耳を、わたしに」

 

                      「聞きたまえ、わたしの言うことを」

 

慈しみの御業を示してください。 「分けたまえ、あなたの慈しみを。」

 

あなたを避けどころとする人を 「救う方よ、逃げ込む者たちを」

 

立ち向かう者から        「立ち向かう者たちから」

 

右の御手をもって救ってください。「あなたの右手で」

 

瞳のようにわたしを守り 「守りたまえ、瞳のように、娘の目の」

 

あなたの翼の陰に隠してください。「陰の中に、あなたの翼の、わたしを隠したまえ」

 

あなたに逆らう者がわたしを虐げ 「面前で、悪しき者たちの、わたしを荒らす」

 

貪欲な敵がわたしを包囲しています。「わたしの敵どもが魂を、取り囲む、わたしを」

 

彼らは自分の肥え太った心のとりことなり 「彼らの脂肪を、彼らは閉じ込める。」

 

口々に傲慢なことを言います。「彼らの口で、彼らは語る。高慢に」

 

わたしに攻め寄せ、わたしを包囲し 「彼らの歩みを、今、彼らはわれらを取り巻く」

 

地に打倒そうとねらっています。「彼らの目を、彼らは据える、地に倒そうと」

 

そのさまは獲物を求めてあえぐ獅子「彼の姿は、師子のように、切望する、神裂くことを」

 

待ち伏せる若い獅子のようです。「また若い獅子のように、座っている、隠れた所で」

 

 

 

主よ、立ち上がってください。「立ちたまえ、主よ」

 

御顔を向けて彼らに迫り、屈服させてください。「迫りたまえ、彼の顔に。彼を屈服させた

 

                      まえ」

 

あなたの剣をもって逆らう者を撃ち 「助け出したまえ、わたしの魂を、悪人から、あな

 

たの剣で」

 

わたしの魂を助け出してください。

 

主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち「人々から、あなたの手で、主よ、人々

 

から、この世から」

 

命ある者の中から彼らの分を絶ってください。「彼らの分け前は、生ける者の中で」

 

 

 

しかし、御もとに隠れる人は 「あなたの宝で、あなたは満たす、彼らの腹を」

 

  豊かに食べ物をお与えください。

 

子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように。「彼らは満足する、子らによって、そして

 

置く、余ったものを、彼らの幼子らに」

 

わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み 「わたしは義をもって見る、あなたの顔を」

 

目覚めるときには御姿を拝して 「わたしは満足しょう、目覚めるときに、あなたの姿に

 

よって」

 

  満ち足りることができるでしょう。

 

                    詩編第17115

 

 

 

説教題:「主に守られて新しき年を」

 

 今年最後の主の日の礼拝を守りましょう。今朝は、ダビデ王の詩編17篇の御言葉を学び、今年一年の恵みを覚えて、新しき年に備えましょう。

 

 表題に「祈り。ダビデの詩」とあります。この詩編の御言葉に耳を傾け、今年1年の恵みと新しき年への希望を心に留めましょう。

 

 15節は、ダビデ王が自身の潔白と主なる神の正しい裁きを訴え、祈っています。ダビデ王は、「聞きたまえ」「耳を傾けたまえ」「支えたまえ」と、繰り返し命令形で主なる神に祈っています。これは、ダビデ王の主なる神への切実な祈りを表わしています。

 

 ダビデ王は、生涯において何度も命の危険に出くわしました。そのひとつにサウル王による迫害がありました。

 

ダビデ王は、一度としてサウル王の命を奪い、イスラエル王国の王位に就こうとしたことはありません。主なる神が、ダビデ王の心をお調べくだされば、ダビデ王の潔白は明らかです。例えば、ダビデ王はサウル王の命を奪えるチャンスが何度もありました。彼の家来たちは、ダビデ王にサウル王を殺すように助言しました。しかし、ダビデ王は人の言葉に従いませんでした。むしろ、主なる神の御言葉に従い、サウル王を主なる神が立てられた王として敬いました。

 

 またダビデ王は、暴力によって、人の力によって、策略によってサウル王から王位を奪う道を歩みませんでした。あくまでも、主なる神が御言葉によって教えられた道を、サウル王に迫害され、多くの試練を経ながら、一歩一歩しっかりと歩みました。

 

 612節は、ダビデ王が主なる神に彼の命を狙う敵たちのしつこい追跡を訴え、主なる神に助けを求めています。

 

ダビデ王は、主なる神に何よりも「神の慈しみ」を求めました。7節の「慈しみの御業を示してください」という御言葉がありますね。それは、「分かちたまえ、神の慈しみを」という御言葉です。わたしたちの聖書以外にフランシスコ会訳聖書は、「ふしぎを行う、いつくしみを、あらわしてください」と日本語に訳しています。

 

意味が二つあるからです。第1に主なる神さまとダビデ王との契約から見る見方です。主なる神は、ダビデ王を羊飼いからイスラエルの王に召されました。そして、主なる神は、ダビデ王に「わたしはあなたの神となり、あなたをイスラエルの王とする」という契約を結ばれました。ダビデ王は、主なる神その約束に忠実であり、主なる神がダビデ王を常に慈しみ愛してくださいと祈りました。

 

2は、フランシスコ会宅聖書の「ふしぎを行う、いつくしみ」という見方です。それは、主なる神の奇跡的な介入のことです。有名な歴史的事件が出エジプトです。主なる神がモーセを通してイスラエルの民を奴隷の地エジプトから救われました。ダビデ王は、そのように悪人たちの追跡から主が奇跡をもって助けてくださいと祈りました。

 

出エジプトの時、イスラエルの民は大勢のエジプトの軍隊に追跡され、退路を断たれました。そして、主なる神の奇跡の御業によって紅海を渡り、救われました。ダビデ王は、「そのようにわたしも多くの敵たちに囲まれています。出エジプトの神の民たちを、主なる神が奇跡によってエジプト人たちから救われたように、わたしも救ってください。」と祈りました。

 

ダビデ王は、何度もサウル王と彼の家来たちに包囲され、命を狙われました。ダビデ王は、8節に「瞳のようにわたしを守りあなたの翼の陰に隠してください」と祈っていますね。「わたしを守りたまえ、目の娘の瞳のように、あなたの翼の陰の中に、わたしを隠したまえ。」

 

このダビデの祈りは、申命記3210節の御言葉に由来します。主なる神は、出エジプトしたイスラエルの民を、荒野で40年間守られました。「主は荒れ野で彼を見いだし 獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた。」(申命記32:10)

 

ダビデ王もサウル王の魔の手を逃れて、ユダの荒れ野に隠れました。ダビデ王は、主なる神に自分を見出してくださいと祈りました。慈しみで囲み、いたわり、主の瞳のようにお守りくださいと祈りました。サウル王たちは、獅子のようにダビデ王の命を奪おうとしていたからです。

 

13節と14節前半は、ダビデ王が主なる神に彼の敵たちが主に滅ぼされるように祈りました。13節の「主よ、立ち上がってください」という御言葉は、詩編38節で、ダビデが祈っていますね。そこで説明しましたが、主なる神がダビデ王を助けてくださる行動をお取りくださいという祈りの御言葉です。

 

主なる神が神の民を助けてくださることは、主なる神が敵を滅ぼされることです。出エジプトの時、主なる神は、モーセとイスラエルの民を助け、エジプトの王と家来たちを紅海に沈ませて滅ぼされました。

 

ダビデ王は、主なる神が敵たちをこの世から滅ぼし、滅びこそが彼らの人生の分け前であるようにと祈っていますね。

 

14節の後半と15節は、ダビデ王が主なる神を信頼する者たちのこの世における祝福と主なる神に義とされ、主なる神との永遠の命の交わりに生きる喜びを賛美していますね。

 

ダビデ王は言います。主なる神を信じる者は、族長アブラハム、イサク、ヤコブのように彼らの子たちによって満足すると。また、その子孫たちに有り余る豊かな富を残すと。

 

この世の祝福だけではありません。ダビデ王の最終的な願いであり、祈りは、「わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み 目覚めるときには御姿を拝して、満ち足りることができる」ことです。主なる神の御顔を、ダビデ王が義をもって見ることです。そして、目覚める時、彼が死から復活した時に、主なる神の御姿を見て満足することです。

 

 2011年も主に守られて過ぎようにとしています。わたしたちにとって今年一年は、どんな年だったのでしょうか。

 

ダビデ王ほど、命の危険はなかったでしょう。生活に困難はありました。主に信仰を試されることはあったでしょう。

 

礼拝に出られなくなった兄弟に、聖書を読むことと祈ることを勧めました。祈ることは、わたしたちの信仰の呼吸です。

 

ダビデ王は、呼吸するように祈っていますね。そして、主なる神を身近に感じて祈っていますね。「耳を傾けたまえ」「わたしの祈りに耳を向けてください」と。

 

主なる神にあたかも体があるかのように、ダビデ王は主なる神に彼の祈りを、耳を傾けて、身体全体を傾けて聞いてくださるようにと祈っていますね。そのようにダビデ王にとって主なる神は、常に祈りを身近に聞いてくださるお方であることを実感しているのですね。わたしたちのこの一年間の祈りは、どうでしたか。ダビデ王のように主イエスを身近に感じて祈ることができましたか。

 

 次にダビデ王は、潔白でしたが、この世の敵たちには無力でしたね。これがこの世におけるわたしたちの姿ですね。キリスト者は、この世において神の御言葉に従い正しく生きようとしていますね。だけれどもダビデ王のようにわたしたちも無力ではないでしょうか。 

 

この世は主なる神に背を向けている世界です。まじめに生きようとしても大きな壁にぶつかりますね。正しいことをしたいと願っています。しかし、わたしたちはこの世では無力です。だからこそダビデ王のように「ふしぎを行う、神の慈しみの御業」を求めるべきではないでしょうか。

 

わたしは、わたしたちの小さな働きにも関わらず、全能の主なる神がこの一年間恵みのうちにわたしたちとこの教会をお守りくださり、支えられたことを感謝したいと思います。そして、主に期待し、自分たちの身を主にゆだねて、新しき年も歩みたいと思います。

 

 本当に今年は、東日本大震災、福島の第1原発の事故、ギリシアの国の破たん、超円高、タイの洪水と、多くの災害に遭いました。

 

しかし、主なる神は、ダビデの祈りをわたしたちの身に実現してくださいました。ダビデ王は、「御もとに隠れる人には、豊かに食べ物をお与えください。子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように」と祈りましたね。主は、わたしたちキリスト者にこの世における豊かな生活を、御言葉によって約束してくださいました。わたしたちは、この御言葉のとおりに今を生きているのではありませんか。

 

 そして、わたしたちには、この世だけではなく、永遠の命の希望がありますね。ダビデ王が「わたしは正しさを認められ」と述べていますね。どこで、でしょうか。主イエス・キリストの十字架と復活によって、ダビデ王の御言葉が実現しました。そして、わたしたちは、クリスマスを祝いました。同時にわたしたちは、復活の主イエスが再びわたしたちのところに来てくださることを期待しつつ、新しき年を迎えようとしています。わたしたちも、ダビデ王のように永遠に主イエスの姿を拝して、喜びに満たされたいと願っていますね。わたしたちの国籍は、今、この世にありますが、永遠の国籍が天にありますね。そこから主イエス・キリストがこの地上のわたしたちを完全に救いに来られるという希望を持って、去る年、来る年を迎えようとしています。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、今年最後の礼拝を感謝します。この一年間をお守りくださり感謝します。残された一週間十字架のキリストを仰ぎ、罪赦され、神と和解し、キリストの御顔を仰ぎ、永遠に心満ち足りて生きる希望を持ちつつ、新しき年を迎えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

聖霊の照明を求めて祈ります。「御父と御子より遣わされた聖霊よ、語る者の唇をきよめ、神の御言葉を語らしてください。わたしたちの心を開き、今朗読される聖書の御言葉と説き明かされる説教を理解し、喜びをもって受け入れさせてください。ただ主イエスの御声に聞き従うことができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。」

 

 

 

 詩編説教017-2                  主の2012129

 

 

 

                        祈り。ダビデの詩。

 

主よ、正しい訴えを聞き 「聞きたまえ、主よ、正しいことを」

 

わたしの叫びに耳を傾け 「注意深く聞きたまえ、わたしの叫びを」

 

祈りに耳を向けてください。「耳を傾けたまえ、わたしの祈りに」

 

わたしの唇に欺きはありません。「偽りの唇ではない」

 

御前からわたしのために裁きを送り出し 「あなたの面前からわたしの裁きが出る」

 

あなた自身の目をもって公平に御覧ください。「あなたの目は凝視する、正しいことを」

 

あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね 「あなたは吟味する、わたしの心を。あな

 

たは訪れる、夜」

 

火をもってわたしを試されますが 「あなたはわたしを精錬する。」

 

汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。「あなたは見つけない。わたしが企むこと

 

は 過ぎない、わたしの口を」

 

わたしの口は人の習いに従うことなく 「業に、人の言葉によって、」

 

あなたの唇の言葉を守ります。 「あなたの唇の、わたしは守った。」

 

暴力の道を避けて 「小道を、暴虐な者の」

 

あなたの道をたどり 「支えたまえ、わたしの歩みを、」

 

一歩一歩、揺らぐことなく進みます。「あなたの足跡の中で、揺るがない、わたしの足が」

 

 

 

あなたを呼び求めます。 「わたしはあなたに呼ばわる。」

 

神よ、わたしに答えてください。「と、わたしに答えたまえ、神よ。」

 

わたしに耳を傾け、この訴えを聞いてください。「傾けたまえ、あなたの耳を、わたしに」

 

                      「聞きたまえ、わたしの言うことを」

 

慈しみの御業を示してください。 「分けたまえ、あなたの慈しみを。」

 

あなたを避けどころとする人を 「救う方よ、逃げ込む者たちを」

 

立ち向かう者から        「立ち向かう者たちから」

 

右の御手をもって救ってください。「あなたの右手で」

 

瞳のようにわたしを守り 「守りたまえ、瞳のように、娘の目の」

 

あなたの翼の陰に隠してください。「陰の中に、あなたの翼の、わたしを隠したまえ」

 

あなたに逆らう者がわたしを虐げ 「面前で、悪しき者たちの、わたしを荒らす」

 

貪欲な敵がわたしを包囲しています。「わたしの敵どもが魂を、取り囲む、わたしを」

 

彼らは自分の肥え太った心のとりことなり 「彼らの脂肪を、彼らは閉じ込める。」

 

口々に傲慢なことを言います。「彼らの口で、彼らは語る。高慢に」

 

わたしに攻め寄せ、わたしを包囲し 「彼らの歩みを、今、彼らはわれらを取り巻く」

 

地に打倒そうとねらっています。「彼らの目を、彼らは据える、地に倒そうと」

 

そのさまは獲物を求めてあえぐ獅子「彼の姿は、師子のように切望する、噛み裂くことを」

 

待ち伏せる若い獅子のようです。「また若い獅子のように、座っている、隠れた所で」

 

 

 

主よ、立ち上がってください。「立ちたまえ、主よ」

 

御顔を向けて彼らに迫り、屈服させてください。「迫りたまえ、彼の顔に。彼を屈服させた

 

                      まえ」

 

あなたの剣をもって逆らう者を撃ち 「助け出したまえ、わたしの魂を、悪人から、あな

 

たの剣で」

 

わたしの魂を助け出してください。

 

主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち「人々から、あなたの手で、主よ、人々

 

から、この世から」

 

命ある者の中から彼らの分を絶ってください。「彼らの分け前は、生ける者の中で」

 

 

 

しかし、御もとに隠れる人は 「あなたの宝で、あなたは満たす、彼らの腹を」

 

  豊かに食べ物をお与えください。

 

子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように。「彼らは満足する、子らによって、そして

 

置く、余ったものを、彼らの幼子らに」

 

わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み 「わたしは義をもって見る、あなたの顔を」

 

目覚めるときには御姿を拝して 「わたしは満足しょう、目覚めるときに、あなたの姿に

 

よって」

 

  満ち足りることができるでしょう。

 

                    詩編第17115

 

 

 

説教題:「主に満ち足りる」

 

 昨年の12月の最後の主日礼拝においてこの詩編17篇を説教しました。同じ所を2度続けて説教します。ダビデ王の祈りに、なおわたしは聞くべき言葉があると思うからです。

 

 ダビデ王は、イスラエル12部族の中のユダ族に属する羊飼いの少年でした。7人兄弟の末っ子でした。主なる神は、預言者サムエルを通して、少年ダビデに油を注ぎ、イスラエルの王にお選びになりました。

 

ダビデは、信仰の人でした。生涯主なる神を信頼し、その振る舞いにおいて常に主なる神に忠実に従いました。主なる神は、ダビデを豊かに祝福されました。少年ダビデは、イスラエルの敵ペリシテの英雄ゴリアトを倒し、イスラエルの勝利をもたらしました。イスラエルの人々は勝利を喜び、「サウル王は敵を千人倒し、ダビデは万人を倒した」と誉め称えました。その時からサウル王は、ダビデを妬みました。サウル王の心に悪霊が入り込み、何度もサウル王はダビデの命を奪おうとしました。

 

ついにダビデは、サウル王の娘を妻にし、サウル王の身内になったのに、サウル王の迫害の手から逃れて、ユダの荒れ野、砂漠に隠れ住まなくてはなりませんでした。

 

ダビデには、主なる神に助けを祈り、サウル王から逃げる以外に手はありませんでした。だから、ダビデは、主なる神に「聞きたまえ」「耳を傾けたまえ」「支えたまえ」と、繰り返し祈っています。

 

ダビデが祈り、信頼する主なる神は、聖なる神、義なる神です。不義な者の祈りを聞かれません。それ故にダビデは、主なる神に自分の潔白さを訴えて、主なる神に助けを求めているのです。

 

サウル王がダビデを殺そうとするのは、サウル王がダビデを妬み、恐れているからです。ダビデが、王位を狙っていると、絶えず不安であったからです。

 

だから、ダビデは、主なる神に彼の心を調べてくださいと訴えました。ダビデは、サウル王が疑うような悪い思いを持ったことはありません。

 

人は夜に、人が寝静まったころに、悪いことを考え、企てます。その夜に主なる神がダビデを訪れて、彼の心を探られても、ダビデは「わたしの心にサウル王を殺して、イスラエル王国の王位に就こうとする悪い心を見出されないでしょう」と言っています。

 

ダビデは、主なる神が油を注ぎ王とされたサウルを、力で倒して王になるという野心はありませんでした。

 

だから、サウル王から逃げたのです。逃げながら、主なる神の喜ばれる道を探し求めたのです。5節に「あなたの道をたどり、一歩一歩、揺らぐことなく進みます」と、ダビデが歌っていますね。「あなたの足跡の中で、揺るがない。わたしの足が」という言葉です。ダビデ王は、信仰の人であると申しました。イスラエルの敬虔な信仰者は、常に過去の信仰者を見上げました。族長アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、そしてモーセ、ヨシュアたちです。彼らの信仰の生涯に、主なる神の足跡を見て、ダビデも同じ信仰の道を歩みました。だから、ダビデは確信しました。どんなにサウル王が彼を迫害し、命を狙おうと、主なる神はアブラハム、モーセを祝福し、あらゆる災いと困難から救われたように、彼を救ってくださると。

 

そして、ダビデは、自分一人、主なる神を信じているのではありません。彼と共に逃げている家来たちがいます。ダビデの家族の者たちも、サウル王の迫害を恐れて、ダビデの所に来ました。サウル王に不満のある者たち、貧しい者たちもダビデの所に集まりました。彼らは、ダビデと同じように主なる神を信じる者たちでした。

 

ダビデは、彼と行動を共にした信仰者たちのためにも、主なる神に助けを切に祈りました。彼は、主なる神を避けどころとする人々に、ダビデと行動を共にする信仰者たちに、「慈しみの御業を示してください」と祈りました。

 

「慈しみの御業を示してください」とは、「あなたの慈しみを分けてください」というダビデの祈りです。ダビデは、一人の信仰者として、アブラハムやモーセという信仰の先輩たちの生涯を通して、主なる神の足跡を追い求めました。

 

同時にダビデは、信仰の共同体、イスラエルの一員です。信仰の共同体、イスラエルが族長アブラハムから始まり、千年間、ただ主なる神の慈しみによって続いて来たことを見抜いているのです。岩波書店の刊行する旧約聖書の詩編は、「不思議な恵みの業をなさって下さい」と日本語に訳しています。イスラエルの民が指導者モーセに率いられて、紅海の海を渡る奇跡を通して、エジプトの奴隷状態と迫害から救われました。そして、荒れ野の40年を旅し、モーセの死後、後継者ヨシュアに率いられて、ヨルダン川を渡る奇跡を通して、約束の地に入りました。

 

ダビデは潔白でした。しかし、無力でした。サウル王の圧倒的な力の前に、彼ができることは主なる神に彼と行動を共にする者たちのために、主なる神の慈しみ、不思議な恵みの業を祈り求めることでした。だから、ダビデは、モーセとヨシュアに率いられたイスラエルの民が、主なる神の慈しみ、不思議な恵みの業に、神の奇跡に救われたように救ってくださいと祈りました。

 

ダビデは、この世において一人の信仰者、一つの神の共同体の弱さを知っているのです。この世の権力と圧倒的な暴力の前に、まるで若い力あるライオンのように襲いかかるこの世の敵対者たちに、信仰者も神の共同体も無力なのです。逃げる、隠れる以外にありません。そして、サウル王の圧倒的な力の前に、逃れ、隠れることしかできないダビデと行動を共にする者たちを、ダビデは主なる神に「瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠してください」と祈っています。絶えず主なる神がダビデと共に行動する者たちに目を留め、お守りくださいと祈っています。どんなに苦しいときも、主なる神がわたしたちを見てくださっている、守ってくださっていると確信できることほど大きな喜びはありません。

 

しかし、ダビデは知っていました。自分の力で、イスラエルの共同体の力で、この世の悪を解決できないことを。この世の悪、人の罪、ダビデには解決できません。だから、彼は、主なる神に祈りました。「主よ、立ち上がってください」と。そして、ダビデは、主なる神がこの世の神の敵を裁かれ、神の民から悪しき者を分けて下さいと。

 

ダビデは、この世に神の共同体が続くことを願いました。主なる神がアブラハムに約束された祝福が、イスラエルという神の共同体を通して継続し、主なる神を信じる者たちがこの世で豊かに祝福され、彼らの孫たちも、子子孫孫繁栄することを願いました。

 

しかし、ダビデがもっと祈り求めたのは、主なる神との永遠の交わりでした。彼が主なる神の御前に義とされ、主なる神の御顔を仰ぎ、彼がいつかは死に、その死から目覚めて、復活する時には、永遠に主なる神を拝み、主なる神の栄光の中に自分が満ち足りることです。

 

このようにこの詩編17篇からダビデの信仰を辿ると、ダビデの信仰とわたしたちの信仰は一つだと気づきます。使徒パウロが「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦難を経なければならない」と言っています。

 

ダビデがサウル王から迫害されたとき、彼は主なる神に祈ることと逃げることをしました。わたしたちも、教会も同じです。エルサレム教会がユダヤ人から迫害を受けた時、主イエスの弟子たちや信者たちはエルサレムの町から逃げました。そして、祈りました。

 

彼らは、ダビデのように主イエスに従った弟子たちの信仰の生涯に目を留めて、信仰の道を仰ぎました。信者も教会も無力でしたので、主イエスの慈しみ、十字架と復活の御業による救いを祈り求めました。復活の主イエスが、信者と教会に常にどこにでも居てくださり、瞳のように見守ってくださることに喜びを見出しました。

 

しかし、わたしたちも教会もこの世の悪を、神の敵を征服し、解決することはできません。この世は常に神の民と神に敵する者が入り混じっています。そして、神に敵対する者の力と暴力が圧倒しています。

 

だから、教会とキリスト者は、ダビデのように死人の中からよみがえり、悪魔と罪と死に勝利された復活の主キリストの再臨と最後の審判を祈り求めるのです。

 

その時に同時にダビデがもっとも願った喜びに、わたしたちと教会は与るのです。キリストの御前に義とされ、新しい復活の体を与えられ、永遠に神との交わりの中に生きる喜びです。

 

ダビデもわたしたちも、同じ主なる神を信じ、キリストに従い、御国を目指して、この世を生き、神の御前に義とされ、永遠に神との交わりにあずかり、神を拝み、賛美し、神に満ち足りることを望んでいるのです。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、今年も詩編を学び、主を礼拝し、賛美し、仕える喜びを感謝します。ダビデ王の信仰とわたしたちの信仰は一つであり、同じ救い主主イエス・キリストを信じ、罪赦され、キリストの御顔を仰ぎ、永遠に心満ち足りて生きる希望を持ちつつ、新しき年を過ごさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。