詩編説教091             主の2018422

 

 

 

いと高き神のもとに身を寄せて隠れ いと高き者の隠れ場に住む者は

 

全能の神の陰に宿る人よ 全能者の陰に宿っている。

 

主に申し上げよ 主に、わたしは言う。

 

「わたしの避けどころ、砦  「わたしの避けどころ、そしてわたしの砦

 

わたしの神、依り頼む方」と。わたしの神よ、わたしは彼に依り頼む。」

 

 

 

神はあなたを救い出してくださる まことに彼はあなたを救い出す、

 

仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。仕掛ける者の罠から、滅びの疫病から。

 

神は羽をもってあなたを覆い 彼は彼の羽によってあなたを覆い

 

翼の下にかばってくださる。そして、彼の翼の下に、あなたは避け所を得る。

 

神のまことは大盾、小盾。  神のまことは大盾と小盾。

 

夜、脅かすものをも  あなたは恐れることはない。夜の怖いものを

 

昼、飛んで来る矢をも、怖れることはない。昼間に飛び交う矢を。

 

暗黒の中を行く疫病も 暗黒の中を歩く疫病を。

 

真昼に襲う病魔も  真昼に荒らしまわる悪疫を。

 

 

 

あなたの傍らに一千の人 倒れる、あなたの傍に千人が、

 

あなたの右に一万の人が倒れるときすら そして、あなたの右に万人が。

 

あなたを襲うことはない。 あなたには近づかない。

 

あなたの目が、それを眺めるのみ。 ただあなたの目であなたは見るでしょう。

 

神に逆らう者の受ける報いを見ているのみ。そして悪人たちの報いを、あなた

 

あなたは主を避けどころとし は見るでしょう。まことにあなたは、主、わた

 

いと高き神を宿るところとした。 しの避け所です。あなたはいと高き神をあ

 

あなたには災難もふりかかることがなく なたの住まいとした。あなたには災

 

天幕には疫病も触れることがない。いが臨まないだろう。またあなたの天幕に

 

主はあなたのために、御使いに命じて 疫病が近づかないだろう。まことに彼

 

あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。の御使いたちに彼はあなたの

 

彼らはあなたをその手にのせて運び ために命じる。「あなたのすべての道で、

 

足が石に当たらないように守る。あなたを守るように」。両の手で彼らはあなた

 

あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり を運ぶだろう。あなたの足が石に打ち付け

 

獅子の子と大蛇を踏んで行く。えないようにするだろう。あなたは獅子と毒蛇

 

                   

 

「彼はわたしを慕う者だから  を踏み、若獅子と竜を踏みつけるだろう。彼

 

彼を災いから逃れさせよう。はわたしを慕う。それでわたしは彼を救う。

 

わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。わたしは彼を高く上げよう。

 

彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え なぜなら、彼はわたしの名を知って

 

苦難の襲うとき、彼と共にいて助け いるから。彼はわたしを呼ぶ。それでわ

 

彼に名誉を与えよう。 たしは彼に答える。わたしが彼と共に、苦難

 

生涯、彼を満ち足らせ の中で、彼を救い出し、彼を尊ぶだろう。日々の長さ

 

わたしの救いを彼に見せよう。」でわたしは彼を満ち足らせ、彼にわたしの

 

               救いを見せるだろう。

 

                  詩編第91116

 

 

 

説教題:「神のもとに身を寄せて隠れ」

 

詩編第91116節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

詩編91編は、表題がありません。

 

 

 

90編と91編と92編はよく似た思想の表現があります。たとえば90編の1節と91編の1節と92編の14節です。主なる神を、「わたしたちの宿るところ」「全能の神の陰に宿る人」「主の家に植えられ わたしたちの神の庭に茂ります」。

 

 

 

90編の詩人は、「主よ、あなたこそわたしたちの住まいです」と告白し、91編の詩人は、「いと高き者の隠れ家に住む者たちは、全能者の陰に宿っている」と告白し、92編の詩人は、「主の家の中に移植された者たちは、わたしたちの神の中庭で花を咲かせる」と告白しています。

 

 

 

このように9092編には、主なる神は神の民たちの住まいであるという、よく似た思想の表現があります。

 

 

 

90編がバビロン捕囚期に作られ、91編は第二イザヤが活躍していたバビロン捕囚期の終わりごろに作られ、92編はエルサレムへの帰還後に作られたと考えられています。

 

 

 

9092編の詩編を編集した者は、一つの意図をもっていたと思います。それは、紀元前539年にペルシアの王キュロスが神の民たちをバビロン捕囚から解放し、神の民たちが約束の地エルサレムの都に帰還した出来事を、詩編の編集者は第2の出エジプトと見ているのです。

 

 

 

だから、91編を90編と92編の間に入れ、この詩編には表題がありません。

 

 

 

9116節の「生涯、彼を満ち足らせわたしの救いを彼に見せよう」と詩人が歌っている「わたしの救い」とは、バビロン捕囚からの解放のことです。

 

 

 

説教題のとおりに、91編の詩人は、次のように賛美します。主なる神の御許に自分の避け所を得ている者たちは、生涯どこにいても主なる神に守られ、神の祝福を得る幸いな者であると。

 

 

 

90編の詩人は、人は罪ゆえに神の御前に人の生涯は空しく、絶望的な状況にあることを歌っておりました。紀元前586年に主なる神が新バビロニア帝国のネブカドネツァルを用いて、南ユダ王国の神の民たちの罪を裁かれました。彼らは、故国と愛するエルサレムの都と神殿を失いました。そして異教の地バビロンに捕囚されたのです。90編にはその頃の時代背景が歌われています。

 

 

 

ところが、捕囚の地で50年経ますと、一人の無名の預言者が現れ、主なる神が異邦人の王を「わたしの牧者」として遣わし、神の民たちをバビロンから解放されるという慰めのメッセージを語りました。

 

 

 

91編の詩人も第二イザヤと呼ばれる無名の預言者と同じ時代に生きる者としてバビロン捕囚の神の民たちに神の慰めを賛美しました。

 

 

 

いと高き主なる神を避け所、住まいとする者たちは、すなわち、神に信頼する敬虔な者たちは、神の特別な守りと祝福を得て、どこにいても安全であると。

 

 

 

さて、91編は、12節で人間の信仰宣言に始まり、1416節で主なる神が御自身に信頼を寄せる者たちに次のように約束された御言葉で終えられています。主はバビロン捕囚の苦難の中にいる神の民たちと共に居て、彼らが主を求めるならば、彼らに答えて、彼らをバビロン捕囚から解放し、約束の地エルサレムへと帰還させて、御自身の救いを彼らに見させると。

 

 

 

第二イザヤがバビロン捕囚の神の民たちを慰めの主に向けさせたように、91編の詩人は捕囚の中にいる神の民たちの目を主の救いへと向けさせています。

 

 

 

91編は、内容を二つに分けることができます。18節と916節です。18節は、主なる神への信頼の歌です。916節はその信頼に主なる神が応答された歌です。特に1416節は、神御自身の御言葉です。主なる神は御自身を信頼する者と共に居て、苦難の中でも彼らを守り、そして、彼らに御自身の救いを見せ、長き日々に彼らを御自身の祝福で満ち足らせると約束されています。

 

 

 

いと高き神、全能の神は、神の呼び名であり、属性です。この呼び名と属性は、次のことをわたしたちに伝えています。

 

 

 

捕囚の神の民を救ってくださる主なる神は、全能の御力を持たれているという確信です。

 

 

 

だから、バビロン捕囚の地で敬虔な神の民たちは、他の神々ではなく、主なる神を彼らの避け所、彼らの住まいとして信頼を寄せると賛美しているのです。

 

 

 

バビロンの捕囚の地で主なる神を信じて、敬虔に生きる者たちは、自らの力で生きているのではありません。主なる神のもとに身を寄せて隠れ、神の陰に宿っているのです。宿るとは、天幕を張って住むことです。神を住まいにしているのです。要するに神に守られている者たちなのです。

 

 

 

だから、彼らは神を「わたしの避けどころ、砦、わたしの神、依り頼む方」と、神を信仰告白するのです。

 

 

 

38節は、捕囚の地にいる敬虔な者たちが信頼を寄せている、自分の住まい、避けどころとしている主なる神が、彼らをどのように守ってくださっているかを、詩人は歌っています。

 

 

 

神は、捕囚の神の民を救ってくださいます。3節で「仕掛けられた罠から」、すなわち、獲物を捕るために罠を仕掛ける狩人のように、バビロン捕囚の地にあのエステル記のハマンのように神の民たちを滅ぼそうと罠を仕掛ける者たちがいるのです。

 

 

 

「陥れる言葉から」は、ヘブライ語聖書を見ますと、「滅びの疫病から」と記されています。新共同訳聖書は70人訳のギリシア語訳旧約聖書を参考にして、訳しています。これは、恐ろしい伝染病のことを指しているのです。人に破滅的な死をもたらす疫病です。

 

 

 

詩人は4節で、二つのたとえで死の危険にある神の民たちを主なる神は守ってくださると賛美します。

 

 

 

1はわしが翼で雛を覆い守るように、神の民を守ってくださいます。第2は神が大盾と小盾となって神の民たちを命の危険から守ってくださいます。

 

 

 

58節は、詩人が出エジプトの事件を思い起こして、賛美しています。主なる神は、エジプトを十の災いで撃たれました。

 

 

 

そして、過越しの夜に主なる神はエジプトの全土の家の長子を打たれました。しかし、家の門に犠牲の動物の血を塗った神の民たちの家は災いを逃れました。

 

 

 

そして、出エジプトした神の民たちは、モーセに率いられて40年間火の柱、雲の柱に守られて、すなわち、昼も夜も主なる神に守られて、約束の地へと旅を続けたのです。

 

 

 

そして、荒れ野の旅で、神の民たちは自らの不信仰で、多くの者たちが病に倒れました。しかし、敬虔な神の民たちはどんな時にも主に守られ、主に逆らう者の滅びをその目で眺めたのです。

 

 

 

916節で詩人は、敬虔な神の民たちに主の守りがあることを歌っています。特に1112節で主なる神は御使いたちを遣わして、神の民たちがこの世で歩むすべての道を守られることを歌っています。

 

 

 

そして、1416節で詩人は、神の御言葉として神が神を礼拝する者たちに救いと祝福を約束されたことを伝えているのです。

 

 

 

礼拝は神に招かれた者が神に呼びかけ、その呼びかけに神が答えられ、彼らに御自身の救いをお見せになるのです。

 

 

 

例えば、この礼拝です。今朝は説教だけですが、常にわたしたちは聖餐へと招かれています。そこでわたしたちは、御言葉と聖餐を通してわたしたちの主イエス・キリストの死と贖いにあずかるのです。

 

 

 

だから、この礼拝で主なる神がバビロン捕囚の神の民たちに詩人を通して「生涯、彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう」と約束されたことは、今実現しているのです。

 

 

 

彼らは、礼拝の中で主なる神がバビロン捕囚から彼らを解放されることを見させられました。

 

 

 

それは、第二の出エジプトの出来事であり、来るべき主イエス・キリストの十字架の贖いの予型でありました。

 

 

 

そして、詩編91編の1112節から、わたしたちはキリストの十字架の贖いが確かにわたしたちの救いのためであったことを確信させられるのです。

 

 

 

ローマカトリック教会は、1112節の御言葉を守護天使の教理として教えています。神の民たちに特定の天使が付いて守ってくれると。

 

 

 

91編の詩人は、主なる神が教えられる神の御使いの任務を賛美しているのです。神の御使いたちの任務は、神の民たちがこの世で歩むすべての道を守ることでした。

 

 

 

「足が石に当たらないように守る」とは、石につまずくことがないように守ることです。

 

 

 

しかし、荒れ野で主イエスを誘惑しましたサタンは、12節の神の祝福の言葉を悪用して、主イエスを悪に誘おうとしました。

 

 

 

悪魔は、巧みに12節の御言葉を曲げて、神の御使いが父なる神に信頼している主イエスを守ってくれるから、神の子であれば助かるだろうだから、この高い建物から飛び降りて見ろと命じたのです。

 

 

 

そこで主イエスはサタンに「神を試みてはならないとある」と言われて、彼の誘惑を退けられました。

 

 

 

それによって主イエスは、御自身が神の子であるという特権を御自分のために用いないで、神と人のためにだけその生涯を捧げられました。

 

 

 

主イエスは、御自分の命を犠牲とし、わたしたちを罪と死から、悪魔のわなから救い出してくださったのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は詩編91編の御言葉を学ぶことができて感謝します。

 

 

 

 詩人の祈りを通して、わたしたちは常に神を礼拝する者たちを神が守られ、救われる祝福を見せていただきました。

 

 

 

わたしたちは、世俗化という捕囚の中にあります。神を信じることが日本の社会の中で軽んじられています。

 

 

 

その中で今朝もわたしたちは、主に招かれて、この礼拝に来ました。

 

 

 

その者たちを、91編の詩人の祈りを通して、神は常に守り、どんな災いも近づくことないようにしてくださると約束してくださいました。

 

 

 

ありがとうございます。

 

 

 

本当にあなたは生きて、わたしたちを救われる神です。

 

 

 

どうか、91編の詩人の祈りを、神が聞き届けてくださったことを、わたしたちの礼拝を通して、毎週御言葉を聞くことで、毎月聖餐式にあずかることで、また、わたしたちの教会で洗礼式が行われるごとに、主イエス・キリストの十字架の救いの喜びを実感させてください。

 

 

 

どうか、日曜日、わたしたちをこの教会にお招きくださり、主イエス・キリストが復活されたことを、共に喜び祝わせてください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

詩編説教092              主の2018527

 

 

 

          賛歌。歌。安息日。

 

いかに楽しいことでしょう 善い

 

主に感謝をささげることは 主に感謝することは

 

いと高き神よ 御名を歌い ほめ歌うことは、あなたの御名を。いと高き神よ。

 

朝ごとに、あなたの慈しみを 述べ伝える(のは)、朝にあなたの慈しみ、

 

夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは 夜ごとにあなたのまこと。

 

十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ 十弦の琴に載せて、竪琴に載せて

 

琴の調べに合わせて。 琴による響きに載せて。

 

 

 

主よ、あなたは まことに主よ、あなたは

 

御業を喜び祝わせてくださいます。るわたしを喜ばせる、あなたの御業に

 

わたしは御手の業を喜び歌います。よって。あなたの両手の御業によってわた

 

主よ、御業はいかに大きく しは喜び歌う。何と大きい、あなたの御業は。主

 

御計らいはいかに深いことでしょう。よ。とても深い、あなたの考えは。

 

愚かな者はそれを知ることなく 粗野な人はしらない。

 

無知な者はそれを悟ろうとしません。愚かな者はこのことを悟らない。

 

 

 

神に逆らう者が野の草のように茂り 、悪人たちが青草のように芽生え、

 

悪を行う者が皆、花を咲かせるように見えても 不義を働く者すべてが茂る

 

永遠に滅ぼされてしまいます。 彼らが永遠に滅ぼされるために。

 

主よ、あなたこそ、永遠に高くいます方。しかし、あなたは高い者、永遠に、

 

主よ、あなたに敵対する者は、必ず滅び 。まことに見よ、あなたの敵たちは、

 

悪を行う者は皆、散らされて行きます。主よ、まことに、見よ、あなたの敵た

 

あなたはわたしの角を野牛のように上げさせ ちは消え失せる。不義を働く者

 

豊かな油を注ぎかけてくださることでしょう。すべては散り散りになる。あ

 

わたしを陥れようとする者をこの目で見 なたは高く上げる、野牛のように、

 

悪人がわたしに逆らって立つのを わたしの角を。わたしは注がれる、新鮮な

 

この耳で聞いているときも。油で。わたしの目は見つめる、わたしを狙う

 

者たちを。立ち上がる者たちの中でわたしに敵

 

神に従う人はなつめやしのように茂り 対し害しようとする。わたしの両耳は

 

レバノンの杉のようにそびえます。聞く。義人はなつめやしのように花咲く。

 

白髪になってもなお実を結び レバノンにある杉のように聳え立つ。

 

命に溢れ、いきいきとし 移植された者たちは主の家の中で、わたしたち

 

述べ伝えるでしょう。の神の中庭で花を咲かせる。なお彼らは白髪の中で

 

わたしの岩と頼む主は正しい方 実を結ぶ。彼らは艶やかで、みずみずしい。

 

御もとには不正がない。述べ伝える。「主は真直ぐで、わたしの大岩、彼の内に

 

不正がない。」

 

 

 

                    詩編第92116

 

 

 

説教題:「神は正しい」

 

 

 

詩編第92116節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

この詩編には、1節に表題があります。「讃歌。歌。安息日に」。

 

 

 

表題の「安息日」は、この詩編92編だけが「安息日の典礼用」とされているのです。

 

 

 

讃歌」は、ヘブライ語で「ミズモール」と読み、ハープのような弦楽器を伴う詩です。通常は「ダビデ」のような作者の名と一緒に出てきます。

 

 

 

」は、ヘブライ語で「シール」と読み、「歌」という意味です。特に詩編120134編では「都に上る歌」という表題のように修飾語が付けられています。

 

 

 

 この表題と23節の御言葉から推測して、この詩編は安息日にエルサレム神殿の礼拝で主に仕えるレビ人によって賛美されたものだと考えられています。

 

 

 

今のわたしたちが手にしている詩編150編が今の形になったのは、紀元前300年のヘレニズムか、200年以後のマカバイ時代であると考えられています。

 

 

 

詩編を理解します時に鍵となるのが、詩編の種類です。詩編は祈りの4つの型があります。賛美、感謝、嘆願、信頼です。それから個人と団体に分けられます。92編は、個人的感謝の歌であります。

 

 

 

エルサレム神殿で主に仕えるレビ人が主に感謝して歌った歌に、神殿での礼拝者たちに心合わせて歌うように用いられたものでしょう。

 

 

 

詩人は、2節で神に感謝して賛美することは素晴らしいと歌っています。

 

 

 

24節は、この詩編の序文です。前書きです。

 

 

 

普通、レビ人はエルサレム神殿に礼拝に来る人々に、「主を感謝せよ」「主に向かって歌え」と呼びかけます。すなわち、礼拝者たちに勧告する形のものが多いのです。

 

 

 

ところが、この詩編の詩人は違います。2節で「いかに楽しいことでしょう」と歌い始めています。

 

 

 

これは意訳です。ヘブライ語は1語です。「トヴ」、すなわち、「善い」です。2節の1行目は、ヘブライ語の旧約聖書では、「トヴ」、「善い」という1語なのです。

 

 

 

詩人は、礼拝者たちに賛美を促すのではなく、彼自身の礼拝についての反省を述べているのです。

 

 

 

安息日にエルサレム神殿に来て、いと高き者である主に、感謝し、その御名を賛美することは善いと。

 

 

 

この「トヴ」、「善い」は、「美しい」という意味にも用いられます。だから、詩人は、安息日にエルサレム神殿で神に感謝し、神の御名を賛美することは、善い、美しい、素晴らしいと反省しているのです。

 

 

 

3節でユダヤ人たちが安息日にエルサレム神殿で朝と夕に礼拝するという習慣があったことが分かります。

 

 

 

神殿で臨在される神にお会いすることは、いつでもということではありません。神は神の民と会って、交わる時刻を指定されています。「朝ごと」「夜ごと」と時刻を指定されています。旧約聖書の世界では具体的な時を離れて神との関りや交わりを考えることはできません。

 

 

 

朝ごと」「夜ごと」という具体的な時間の中で、実際に神殿に神は臨在され、礼拝に来た神の民とお会いになり、交わられるのです。

 

 

 

だから、「朝ごと」「夜ごと」に神殿で神の民が神を礼拝することは、「あなたの慈しみ」と「あなたのまこと」を「述べ伝えること」でした。

 

 

 

あなたの慈しみ」は、選ばれた民に対する神の不変の愛を意味します。「あなたのまこと」は、神の民が神の契約に不誠実で、神から一時的に裁きを受けても、神の慈しみは変わらないという神の信実を意味しています。

 

 

 

エルサレム神殿で神の民たちが朝ごと、夕ごと主なる神に感謝し礼拝することは、神の慈しみとまことを証しする行為であると、この詩人は歌っているのです。

 

 

 

この伝統は、キリスト教会の中に受け継がれ、改革派教会の中でも主の日に朝ごと、夕ごとに礼拝している教会があります。

 

 

 

詩人は、4節で礼拝の賛美は楽器を伴って行われることを歌っています。

 

 

 

さて、詩人は57節で神に感謝し賛美することの根拠を歌っています。そして、詩人は816節で神の正しさを賛美するのです。

 

 

 

さて、5節の冒頭に「キー」というヘブライ語の接続詞があります。「なぜならば」と訳せる言葉です。「まことに」という訳も可能です。

 

 

 

詩編の賛美は、詩人が日常生活の個々の出来事について神に感謝しているのではありません。

 

 

 

神の御業そのものを神殿で礼拝する者たちと共に賛美することが中心です。礼拝者たちが自分を離れて、心を一つとし、神の御業を賛美することが、詩編における信仰の最も純粋な姿なのです。

 

 

 

詩人は、安息日に朝ごと夕ごとに神殿の礼拝で神に感謝し神の御名を賛美することがどうして善いことであり、人の幸福なのか、その根拠を57節で述べています。

 

 

 

5節と6節の神の「御業」「御手の業」は、詩人が個人的に特別に経験することを許された神の助けを意味しています。

 

 

 

詩人は、この世に悪人が存在することに悩み、彼は主なる神に彼らからの救いを願いました。

 

 

 

悪人のこの世における圧倒的な力に、詩人は苦しみました。しかし、神は永遠からの御計画で、彼を悪人たちから救われたのです。

 

 

 

悪人は、エステル記のハマンを思い起こせばよいと思います。神は、エステルをペルシア王国の王妃とすることで、悪人ハマンのユダヤ人撲滅計画を挫折され、ハマンがモルデガイを極刑にしようと設けた木に、彼と彼の家族を極刑にされました。

 

 

 

このような神の救いの配剤を、神など存在しないと言う愚かな者や主なる神とその御業に対して無知な者は知ろうとも理解しようともしません。彼らにとって安息日の礼拝は無意味な行為でしょう。

 

 

 

しかし、神に感謝し神の御名を賛美し、神を礼拝する者たちは、神がこの世界で、歴史の中で悪人に対して裁きをなさる正しい方であることを知るのです。

 

 

 

詩人は、816節で神の正しさを賛美します。彼は、悪事をなす悪人を滅ぼし、義人をいつまでも栄えさせられる主なる神の正しさを賛美しています。

 

 

 

812節で詩人は、主なる神がこの世に栄える悪人たちを滅ぼされることを、彼を滅びに陥れようとする悪人を主が滅ぼされることを、神礼拝を通して聞かせられ、悪人の栄えるこの世において平安を得ています。

 

 

 

さらに1316節で詩人は、主が悪人を確実に裁かれるので、神の民が悪人に対して勝利を得ていることを確信します。それは、神は不正をなし、悪人に味方されることはないからです。

 

 

 

だから、詩人は、常に神を礼拝し、神の中に生きて、神の正しさにあずかり、神は不正をなさらないことを神礼拝を通して聞かされ、この世の悪人は必ず神に滅ぼされるいと確信しているのです。

 

 

 

このように詩人は、神礼拝を通して神に感謝し、神の正しさを確信できました。そして、そのことによって、たとえこの世に悪人が栄えていても、神の正しさから彼らの滅びを、信仰の目で見ることができました。

 

 

 

この日本の国で少数者として生きるわたしたちは、この詩人から学ぶ必要があります。

 

 

 

神が定められた時刻に神に感謝し主の御名を賛美する礼拝が、今のわたしたちにとってどんなに善いことであるか、幸せな事かを学ぼうではありませんか。

 

 

 

わたしたちもこの世において悪人が栄え、わたしたちが虐げられ、不利益を蒙ることに悩まされます。ある時は、信仰を揺さぶられるでしょう。

 

 

 

だが、この礼拝を通して、わたしたちも神は正しいことを聞かされています。だからこそ、神は罪人の身代わりに主イエス・キリストを十字架に付けられて、わたしたちの罪を滅ぼし、さらに、礼拝ごとにキリストの愛からわたしたちを引き離すことはないと語り続けてくださっています。

 

 

 

この礼拝は、わたしたちが神の慈しみとまことを証しする場なのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は詩編92編の御言葉を学ぶことができて感謝します。

 

 

 

 詩人は、わたしたちに神を礼拝することの喜びを伝えてくれて感謝します。

 

 

 

わたしたちは、この世では少数者です。日本の社会の中で軽んじられ、弱い立場に置かれています。

 

 

 

この世の政治は、弱い者を助けないで、金持ちを助けています。政界も財界も官庁も悪と不正に満ちています。

 

 

 

それでもわたしたちがこの世に絶望しないのは、主が正しいお方で、悪人を裁かれるからです。

 

 

 

92編の詩人が神礼拝を通して、神は正しいというメッセージを聞かされたように、わたしたちもこの礼拝で常に神は不正をなさず、正しい方でこの世の悪人を滅ぼされることを信じさせてください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

詩編説教093              主の2018624

 

 

 

主こそ王。 主は王である。

 

威厳を衣とし 威厳を着ている。

 

力を衣とし、身に帯びられる。 主は着ている、力を身に帯びている。

 

世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。 世界も固く据えられ、

 

御座はいにしえより固く据えられ 揺らぐことはない。あなたの座は固く

 

あなたはとこしえの昔からいます 立つ。あなたは昔から、永遠の昔から。

 

 

 

主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。 主よ、大川はあげる。大川はその声を

 

潮は打ち寄せる響きをあげる。あげる。大川はその轟をあげる。

 

大水のとどろく声よりも力強く 多くの水の声よりも、

 

海に砕け散る波。 海に砕け散る波よりも

 

さらに力強く、高くいます主。主は高き所で。力強い。

 

 

 

主よ、あなたの定めは確かであり あなたの証しはとても確かである。

 

あなたの神殿に尊厳はふさわしい。 あなたの家に聖なることはふさわしい。

 

日の続く限り。  主よ、日々の長さの限り。

 

 

 

                    詩編第9315

 

 

 

説教題:「王なる主」

 

 

 

今朝は、詩編第9315節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

この詩編には表題がありません。

 

 

 

1節の「主こそ王」は、ヘブライ語の2語から成る神の民の力強い信仰告白です。

 

 

 

「アドナイ マラフ」

 

 

 

別に「主は王に即位した」と訳されています。

 

 

 

自然界の脅威を抑えて全世界の王に即位された主なる神を称える讃美です。

 

 

 

だから、この詩編はヤハウェ、すなわち、「主なる神」が王に即位された儀式の歌であると考えられています。

 

 

 

20世紀半ばに「死海写本」が発見されました。死海の西北岸のクムラン地域の洞窟から多くの写本が見つかりました。クムラン地域の11の洞窟と死海沿岸一帯の発掘調査によって今日「死海写本」と呼ばれている諸写本と多数の遺物が見つかりました。特にクムラン地域の11の洞窟から見つかった諸写本は「クムラン写本」と呼ばれています。

 

 

 

クムラン地域の発掘調査によりクムランの洞窟近くの遺跡は、古いもので紀元前8世紀、新しいもので紀元前2世紀のユダヤのハスモン王朝の時代の遺跡であると推測されています。

 

 

 

クムランの洞窟に紀元前2世紀から紀元前1世紀にユダヤ教の一宗派が修道院的な生活をしていたと考えられています。

 

 

 

死海写本は、エステル記を除く全ヘブライ語旧約聖書の原点と一部のギリシア語訳とアラム語訳の写本です。それから「旧約聖書続編」という名で、新共同訳聖書に日本語に訳されています旧約外典の一部のヘブライ語とアラム語の写本、そして旧約偽典の一部のヘブライ語とアラム語の写本が見つかっています。

 

 

 

現代の聖書翻訳では、旧約聖書の翻訳に死海写本が欠かせないものとなっています。

 

 

 

その死海写本の詩編の写本を見ますと、詩編93編の冒頭に「ハレルヤ」という言葉があるそうです。

 

 

 

クムランで修道院生活をしていた信仰者たちは、紀元前2世紀から紀元前1世紀のエルサレムの神殿体制を非難し、洗礼者ヨハネや主イエスのようにその腐敗堕落を糾弾しました。そして、主なる神による新しい神殿建設を待ち望んでいました。そして、彼らの終末の聖戦思想が熱心党のローマとの武力闘争につながり、他方ではエッセネ派とつながり、そこから洗礼者ヨハネが現れ、終末のメシア待望へとつながって行ったと考えられているのです。

 

 

 

クムランで修道院生活していた信仰者たちは、「主なる神こそ王である」と信仰告白したこの詩人のこの詩編を心から愛し、「ハレルヤ」と讃美していたのでしょう。だから、この詩編の冒頭で、「ハレルヤ」と記したのでしょう。

 

 

 

この詩編の他に詩編の中に7つ、「ヤハウェの王即位の歌」があります。詩編47編、そして詩編95編から100編です。この7つの詩編は、思想、内容、表現において詩編93編とよく似ています。

 

 

 

先ほど言いましたように、この詩編に表題がありません。だから、この詩編の作者やこの詩編が作られた時代背景を知ることはできません。

 

 

 

幸い、昔の写本を調べると、70人訳旧約聖書にはこの詩編に表題を付しています。「地に人が住んだ安息日の前日」、すなわち、「週の第六日」です。

 

 

 

また、新共同訳聖書は91篇、93編、そして95編に表題がありませんが、他の写本には「ダビデの讃歌」という表題が付されています。

 

 

 

5節で詩人は「主よ、あなたの定めは確かであり あなたの神殿に尊厳はふさわしい。日の続く限りに」と歌っていますね。

 

 

 

これは、かなり意訳しています。ヘブライ語の詩編をそのまま日本語に置き換えると、こうなります。「あなたの証しはとても確かです。あなたの家にふさわしい、聖なることは。主よ、日々の長さの限り。」

 

 

 

「あなたの定め」は「あなたの証し」です。「神殿」は「あなたの家」です。神の御名は「ヤハウェ」ですが、詩人はその名を直接に口にすることを恐れて「アドナイ」と神に呼びかけています。

 

 

 

だから、ある写本に「ダビデの讃美」という表題のあるものがあり、主の御名が古くから使われている神の呼び名であり、ダビデ王国の時代にまで、この詩編は遡ることができると思います。

 

 

 

この詩人をダビデと同定できないでしょうが、詩人はダビデと同じように、ダビデがエルサレムの都に建てた神の幕屋を「あなたの家」と呼び、そこで彼は主を礼拝し、主の証しを聞いたのです。

 

 

 

だから、詩人は、12節で次のように主を賛美しました。「主こそ王。威厳を着ている。主は着ている。力を身に帯びている。世界も固く据えられ、揺らぐことはない。あなたの座は固く立つ。あなたは昔から、永遠の昔から。」。

 

 

 

主なる神は、神の幕屋で神の民イスラエルの王として即位されました。主は王としての威厳を衣として着られ、全能の御力を帯びて御自身が創造された大地を、すなわち、この世界を支配し、しっかりした土台の上に築かれた建物のように世界をどんな自然の脅威からも保護されて、世界は揺り動かされることはない。あなたは永遠の昔からいますと、詩人は歌っています。

 

 

 

さらに詩人は、「主こそ王」であることを、主が王に即位されたことを、34節で主なる神の創造の御業を通して賛美しているのです。

 

 

 

3節の「潮」は、ヘブライ語の「ヘハロット」という言葉です。口語訳聖書は、「大水」と訳しており、新改訳聖書2017年は「川」と訳しています。新共同訳聖書と岩波訳聖書とフランシスコ会訳聖書は「潮」と訳しています。

 

 

 

訳の相違に注目することも良いのですが、わたしは古代のイスラエルの民たちの世界観、世界像に注目すると良いと思います。彼らは、主なる神が造られた世界を三層に見ていました。すなわち、地の上にある天と天の下にある地と、そして地の下の水です。

 

 

 

彼らの世界像が出エジプト記20章で鮮やかに描かれています。有名な神の十戒の記事です。そこで主なる神は、モーセを通して神の民にシナイ山で十戒を授けられました。

 

 

 

主なる神は、神の民に第二戒で次のように偶像礼拝の罪を禁じられました。「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。」(出エジプト記20:4)

 

 

 

この彼らの世界像に照らして、詩人が3節で「潮」と言っているのは、「地の下の水」、すなわち、海、または創世記1章に神が天地を創造された時に、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創世記1:2)と記されている「深淵」でしょう。

 

 

 

だから、詩人は34節でこう主なる神を賛美します。「主よ、海の深淵はあげる、深淵は声をあげる。深淵はその轟をあげる。多くの深淵の声よりも、海に砕け散る波よりも、主は高き所で力強い。」

 

 

 

詩人の讃美の背後に主なる神の創造の言い伝えがあるのでしょう。主なる神は海の怪物レビヤタンに打ち勝たれ、荒れ狂う海の深淵を抑えつけて、その混沌から秩序を打ち立てられたという主なる神の創造の御業です。創世記12節の「深淵」こそ潮です。その深淵の混沌を抑えつけて、今日の秩序ある大地を、世界を、主は全能の御力で造られ、支配されているのです。

 

 

 

この詩編93編を「ハレルヤ」と讃美し、歌ったクムランの洞窟に住んだ敬虔な信仰者たちにとって、紀元前2世紀から紀元前1世紀は世界が混沌としていたでしょう。なぜなら、ユダヤはシリアのセレウコス王朝による支配が始まり、ユダヤの宗教的指導者のトビヤ家はセレウコス王朝に屈服しました。そして、ローマ帝国の脅威が迫りつつありました。ヘレニズムの世俗化がユダヤ社会に浸透しました。ユダヤの支配者層はユダヤ社会のヘレニズム化を歓迎しました。

 

 

 

だから、貧しく敬虔な信仰者たちは、世俗化したユダヤ社会を離れ、クムランの洞窟で修道院生活したのでしょう。

 

 

 

他方マカバイの乱が起こり、ユダ・マカバイがシリア・セレウコス王朝に勝利しました。そして、シリアに汚されたエルサレム神殿を清めたのです。

 

 

 

そして、ユダヤは紀元前143年から紀元前62までハネモネア時代が続くのです。そして、紀元前62年にローマ帝国がシリアに総督を置き、ユダヤもシリア総督のもとに置かれました。

 

 

 

この世は、主なる神に敵対する者たちが支配し、ユダヤに住む神の民たちにはこの世は混沌としたものとなりました。

 

 

 

しかし、クムランの洞窟に逃れた貧しい者、真に敬虔な信仰者にとって、王である主が、世界の創造時に混沌とした深淵から秩序ある大地を据え置かれたように、この世の終わりに主なる神は、この世界の王として、混沌としたこの世界を秩序ある大地として支配されることを、この詩編を通して待ち望むようになったでしょう。

 

 

 

今のわたしたちキリスト者たちも同じです。わたしたちの住む日本の国は、神に敵対する者が為政者となり、同時に世俗化が進んでいます。わたしたちの目には、この世は混沌としているのではないでしょうか。

 

 

 

だから、わたしたちはこの教会が持続することに不安を覚えています。この教会は今年で70年を迎えました。わたしは、これが主イエスの証しの確かさだと思っています。

 

 

 

主イエスは70年間、この教会で一日も休むことなく、日曜日に礼拝でわたしたちに語られてきました。御自身の御心を証しされてきました。

 

 

 

そこで詩人は、5節でこう讃美します。「あなたの証しはとても確かです。あなたの家にふさわしい、聖なることは。主よ、日々の長さの限り。」

 

 

 

主イエスがわたしたちの王として、全世界の支配者として、この世界を王として支配していることを証しされるのは、この教会の礼拝です。

 

 

 

そして、主イエスが礼拝でわたしたちに御自身の御心を証しなさる内容は、主なる神の聖なるものであります。

 

 

 

わたしは5節の「尊厳」は誤訳だと思います。

 

 

 

なぜなら、ヘブライ語「コデシュ」は「聖なること」「聖さ」であり、この言葉には二通りの意味があります。第一に「せいなること」は「明るい」「輝かしい」という意味があります。第二に「分離する」という意味があります。聖なることと汚れたことを、聖と汚れを、主なる神は分離されます。

 

 

 

まさに、この教会で主イエスが御自身の十字架を通して、わたしたちの罪を赦され、罪人から御自身の民に清めてくださることは、父なる神の栄光を現すことであり、この教会にふさわしいことではないでしょうか。

 

 

 

クムランの洞窟で修道生活をしていた敬虔な信仰者たちは、この世から逃れただけでなく、王なる主がこの世界に来られて、自分たち神の民をこの世から分離され、神の聖なるものとしてくださることを待ち望もうとしたのではないでしょうか。

 

 

 

わたしたちの教会が建物として持続することは、うれしいことです。しかし、今朝の詩編93編を通して、わたしたちは、今この世界に置かれている神の民の姿を、そしてわたしたちの教会の姿をはっきりと示されます。それは主に敵対する為政者とこの世の世俗化という混沌とした状況です。

 

 

 

そして、クムランの洞窟に逃れた神の民たちや中世のローマカトリック修道院の修道僧たちのように、わたしたちにはこの世で逃れられる所はありません。

 

 

 

この詩編93編の詩人のように、この世の終わりに王なるキリストがこの世界に来られて、この混沌とした世界を神の御国として秩序ある世界を打ち立てられるのを待ち望むことです。

 

 

 

そして、王であるキリストが再臨されたとき、上諏訪湖畔教会がこの世界に持続しているかは、正直に見通せないでしょう。しかし、「あなたの証しは確かです」。主イエスは、毎週日曜日に礼拝で御自身の御救いを証しされ、この教会を通して、この世の汚れからわたしたちを聖なる者と分離してくださいます。

 

 

 

主イエスが全世界の王として即位される時、主イエスの御支配の中でわたしたちが聖なる者とされ、神の御国の一員とされるのです。

 

 

 

だから、この詩人と共に、わたしたちも待ち望もうではありませんか。復活の主イエスが再びこの世界に、王として来られ、この世界のすべてのものを裁かれて、わたしたちを聖なる者として永遠に御自身のところに置いて下さる日を。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は詩編93編の御言葉を学ぶことができて感謝します。

 

 

 

 主はわたしたちの王です。主イエスはわたしたちの神、わたしたちの王です。

 

 

 

詩編93編は小さな詩編です。わたしたちの主は、天地の創造者、この世でのわたしたちの保護者です。

 

 

 

この世は、わたしたちの目に混沌とし、この世の支配者たちは王なる主に敵対します。また、この世は世俗化により、人は神を遠ざけて生きています。

 

 

 

だから、わたしたちの生きる世界は混沌です。

 

 

 

しかし、今この教会に希望があり、神の民に希望があることを教えられ感謝します。

 

 

 

この世は、主なる神が王として、わたしたちを支配し、わたしたちを勝ち組と負け組に分かたれるので社ありません。

 

 

 

主イエスの十字架を通して、わたしたちをこの世の罪から清めて、神の聖なる者と分けてくださいます。

 

 

 

毎週の教会の礼拝を通して、わたしたちは聖なる者とされ、神の御国の一員としてこの世界を旅していることを教えられ、感謝します。

 

 

 

どうか、わたしたちがこの世に絶望することなく、来るべき王なる主イエスが再臨され、世界の王となられる日を待ち望ませてください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

詩編説教094               主の2018722

 

 

 

主よ、報復の神として 復讐の神、主よ、

 

報復の神として顕現し 復讐の神、顕現せよ(光を放て)

 

全地の裁き手として立ち上がり 立ち上がれ、地を裁くものよ。

 

誇る者を罰してください。 報復を返せ、驕る者たちの上に。

 

 

 

主よ、逆らう者はいつまで いつまで悪人たちは、主よ、

 

逆らう者はいつまで、勝ち誇るのでしょうか。 いつまで悪人たちは勝ち誇る

 

彼らは驕った言葉を吐き続け のだろう。彼らは高慢の言葉を吐くのだろう。

 

悪を行う者は皆、傲慢に語ります。自慢するのです、不義をなす者たちは皆。

 

 

 

主よ、彼らはあなたの民を砕き あなたの民を、主よ、彼らは圧し潰します。

 

あなたの嗣業を苦しめています。 そして、あなたの嗣業を苦しめています。

 

やもめや寄留の民を殺し 寡婦や寄留者を殺し

 

みなしごを虐殺します。 そして、孤児たちを虐殺するのです。

 

そして、彼らは言います。 そして、彼らは言います、

 

「主は見ていない。 「見ていない、主は

 

ヤコブの神は気づくことがない」と。  また、悟らない、ヤコブの神は」

 

 

 

民の愚かな者よ、気づくがよい。 悟れ、民の中の粗野な者たちよ

 

無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。 また、愚かな者たちよ、いつお

 

耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。前たちは賢くなるのか。耳を植え

 

目を造った方に見えないとでもいうのか。 た者は聞かないだろうか。目を造

 

人間に知識を与え、国々を諭す方に  った者は見ないだろうか。国々を戒め

 

論じることができないとでもいうのか。 る者は叱責しないだろうか、人に

 

主は知っておられる、人間の計らいを 知識を教える者は。主は知っている、

 

それがいかに空しいかを。 人の思い計らいを。まことに彼らは空しい。

 

 

 

いかに幸いなことでしょう 幸いだ。

 

主よ、あなたに諭され 主よ、あなたが戒めるその男は。

 

あなたの律法を教えていただく人は。 あなたの律法であなたが教える人は。

 

その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。 災いの日々から彼を静めるた

 

神に逆らう者には、滅びの穴が掘られています。 めに。悪人のために穴が掘

 

主は御自分の民を決しておろそかになさらず られるまで。まことに主は御自

 

御自分の嗣業を見捨てることはなさいません。分の民を見捨てられない。そし

 

正しい裁きは再び確立し て、彼の嗣業を見離さない。まことに裁きは義に帰

 

心のまっすぐな人は皆、それに従うでしょう。り、そして、心のまっすぐな者たちは皆、その後に就く。

 

 

 

災いをもたらす者に対して 誰がわたしのために立ち上がろう、悪を為す者ら

 

   わたしのために立ち向かい に対して。

 

悪を行う者に対して 誰がわたしのために立ち構えよう、不義を働く者に対し

 

  わたしに代わって立つ人があるでしょうか。 て。

 

主がわたしの助けとなってくださらなければ もし主がわたしの助けとならな

 

わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう。 かったら、わたしの魂はもう

 

「足がよろめく」とわたしが言ったとき 少しで沈黙に留まったであろう。わ

 

主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。 たしが「わたしの足がよろめく」

 

わたしの胸が思い煩いに占められたとき と言ったとき、主よ、あなたの慈し

 

あなたの慰めが みがわたしを支える。わたしの思い煩いがわたしの腹の中で

 

  わたしの魂の楽しみとなりました。 増える時、あなたの慰めがわたしの魂を楽しませる。

 

 

 

破滅をもたらすのみの王座 あなたの味方になるか、破滅の座が。

 

掟を悪用して労苦を作り出すような者が 法を超えて災いを造り出す者が

 

あなたの味方となりえましょうか。 

 

彼らは一団となって神に従う人の命をねらい 彼らは徒党を組みます、義人の

 

神に逆らって潔白な人の血を流そうとします。魂に敵対して。そして清い血を

 

                     罪に定めます。

 

主は必ずわたしのために砦の塔となり しかし、主はわたしのために高い塔に

 

わたしの神は避けどころとなり なった。そしてわたしの神がわたしの避け所

 

  岩となってくださいます。 の岩に。

 

彼らの悪に報い そして、彼は返します、彼らの上に彼らの不正を。

 

苦難をもたらす彼らを滅ぼし尽してください。 そして彼らの悪事によって、

 

わたしたちの神、主よ  彼らを滅ぼし尽すように。

 

  彼らを滅ぼし尽してください。 彼らを滅ぼし尽すように、主よ、わたしたちの神

 

 詩編第94123

 

 

 

説教題:「神との親しい交わり」

 

 

 

今朝は、詩編第94123節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

詩編第9399編には表題がありません。ただ表題がないだけではありません。93100編は、一つのストーリーです。すなわち、主が王となられ(93959799)、敵に復讐され(94)、全世界が「新しい歌」を歌いつつ(9698)、歓呼の中に主に仕える(100)という神の民の希望を歌っているのです。

 

 

 

だから、詩編93100編は、一言で言うと、神の民の希望の歌なのです。そして、神の民が希望の歌を歌う時、彼らは苦難の状況に置かれているのです。それゆえ彼らは主にのみ希望を置こうとしているのです。

 

 

 

神の民は、バビロン捕囚を経験し、ペルシア時代にエルサレムへの帰還が許され、第二神殿を建て、エルサレムの城壁を修復しました。

 

 

 

旧約聖書のエズラ記、ネヘミヤ記がその頃の神の民たちの信仰を物語っています。エルサレムに帰還した神の民たちは、総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアの指導に従って第二神殿を建設します。途中ユダを支配するサマリア人たちの妨害を受けますが、紀元前515年に第二神殿を完成させます。

 

 

 

そして、ネヘミヤの指導でエルサレムの城壁を修復工事します。サマリア人の妨害を防ぎながら、工事を進め、城壁を完成させました。

 

 

 

こうして神の民はバビロン捕囚から帰還し、第二神殿とエルサレムの城壁の完成によって彼らの信仰共同体の基盤を確かなものとしました。

 

 

 

しかし、神の民の信仰共同体は、内も外もいろいろな問題が山積みでした。第一の問題は、政治的な問題です。ユダを実質に支配するのは神の民ではありませんでした。サマリア人たちでした。彼らは、主に逆らい、神の民たちが神殿を建て、エルサレムの城壁を修復するのを妨害しました。

 

 

 

第二の問題は、経済的な問題です。神の民たちの生活の基盤は神の嗣業の地でありました。

 

 

 

ところが、帰還しても、神の嗣業の地を取り戻せず、貧しい生活を余儀なくされている者たちがいました。14節の詩人の御言葉は、バビロン捕囚で神から与えられた自分たちの嗣業の失った神の民たちの希望の歌です。

 

 

 

第三の問題は、宗教の問題です。帰還のユダヤ人たちは、異邦人たちと結婚し、イスラエルの純潔を汚すという問題を起こしました。

 

 

 

詩編94編は、雑婚の問題よりも社会的正義を問題としています。すなわち、57節です。8節で詩人は「民の愚かな者よ、気づくがよい」と警告していますので、敵はサマリア人ではなく、同胞のユダヤ人たちです。彼らは、同胞の神の民たちの嗣業地を自分の財産と主張しました。

 

 

 

だから、詩人は5節で主に次のように彼らの不正義、不正によって神の民が苦しめられている現状を訴えているのです。「主よ、彼らはあなたの民を砕き あなたの嗣業を苦しめています。」と。

 

 

 

また、神は申命記24章で困窮者ややもめと寄留者と孤児の権利を守るように命じられています。ところが、主の目に悪を行う同胞の者たちは、自らの財産を主張し、弱い立場にある者たちの生活の基盤を奪い、実際に殺害、虐殺と呼べる状況を作っていたのです。

 

 

 

だから、94編の詩人は、冒頭の12節で主なる神を無視して弱者を虐げる悪人に神の復讐があるようにと、繰り返し訴えているのです。

 

 

 

申命記3235節で主なる神御自身が神の民に、こう告げられています。「わたしが報復し、報いをする。彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。彼らの終わりは速やかに来る」と。

 

 

 

詩人は、主の御言葉を信じて、報復の神が世界の中に臨在され、悪人たちを裁かれるように訴えているのです。

 

 

 

詩人は、世を嘆きました。この世は、悪人が幅を利かせる社会であります。この悪人は、神に逆らう者のことです。7節で彼らは、常に言っています。「主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない」と。そして、彼らが大手を振るっていますので、まるでこの世には神がいまし給わないように見えるのです。

 

 

 

だが、詩人は知っています。彼らが愚かな民であり、世に見えざる隠れた神は、「復讐の神、主」であり、全地、全世界の民を裁かれるお方であり、天地の創造者であると。

 

 

 

だから、811節で詩人は、同胞の不信仰者たちに、弱い立場の者を虐げている富裕の者たちに、「愚かな民よ、気づけ」と警告し、神学論争をしています。

 

 

 

「主は見ていない。ヤコブの神は気づくことがない」と主張する彼らに、詩人は、次のように論破しています。彼らに詩人は目覚めよと警告し、主は創造者であり、人の耳を造られたお方が聞こえないということがあろうか、人の目を造られたお方が見えないということがあろうか、人に知識を与え、諸国民を教育するお方が善悪を論じることができないということがあろうかと。

 

 

 

だから、詩人は彼らに主張するのです。主はすべてを知られているから、悪人が思い巡らすすべての計画と思いは空しくされると。

 

 

 

続いて1223節で詩人は、悪人から自分の方に見える方向を変えているのです。悪人から自分に向けて語り、神に戒められる義人は、神に支えられることを歌っています。

 

 

 

詩人にとって幸いな者とは、主に戒められ、主の律法を教えていただく人です。神の律法は神の御心であり、神の御心を知る者は、どんな苦難が襲うとも、心静かにすべてを主に委ね、平安に過ごすことができるでしょう。

 

 

 

詩人は悪人の存在に悩まされていました。しかし、彼は気づかされました。自分こそが神に戒められている者ではないか、主の律法を主から教えていただいている幸いな者ではないかと。

 

 

 

主の律法は申命記ではないかと思います。そこで主は、詩人に二つの道を教えられました。神に従う者の祝福の道と神に逆らう者の呪いの道であります。

 

 

 

この詩人は、実に不思議な体験をしています。

 

 

 

詩人は、悪人から自分に目を向けさせられています。確かにこの世で詩人は悪人の存在に悩んでいます。彼らの不信仰と不正義に苦しめられています。だから彼は報復の神、主に悪人を裁いてくださいと訴えたのです。

 

 

 

ところが、それは彼にとって幸いなことだったのですが、彼は悪人ではなく自分が主に戒められていると気づきました。また、詩人は彼らに悩まされることで、主が彼に主の律法を教えてくださっていることに気づかされました。

 

 

 

改革派教会は、この詩人に似ていると思います。この世の不正に目をつむることはできません。世の為政者の不正と国の腐敗に、御言葉によって警告しようとします。

 

 

 

先日国会でカジノ法案が通されました。それを聞きまして、わたしは父のことを思い起こしました。父は競馬、競輪と、賭け事が好きで、家に稼ぎを入れないで、すべて賭け事に使い果たしました。今日ではギャンブル依存症という病名が付けられたでしょう。昭和の時代には父のような人間は、家では困った存在でした。

 

 

 

母もわたしも父のギャンブルにどんなに悩まされたことでしょう。しかし、今朝の詩人の言葉に、気づかされます。その悩みを通して我が家は主に懲らしめられていたのではないかと。そして、主はわたしに聖書を教えて下さったのではないかと。

 

 

 

詩人が悪人に悩まされていることの中に、主が彼を懲らしめ、彼に御自身の律法を教えられていることを見ました。悪人から自分に目を移しました時に、彼は災いが苦しみではなく、主が詩人を守り支えて下さっているという慰め、平安を見出したのです。

 

 

 

彼は、おそらく申命記を通して、主なる神は神に従う民をおろそかにされないし、彼らに与えた嗣業を見捨てられないことを確信しました。

 

 

 

主は必ずこの世界に現れて、正しい裁きによってシオンを回復し、心まっすぐな者たちは主の裁きに従うと確信しました。

 

 

 

1619節で詩人は、確信しました。この世には悪人がおり、彼に災いをもたらすのです。しかし、主が常に詩人のために悪人に立ち向かわれ、彼に代わって立ってくださいます。

 

 

 

詩人は知りました。主が彼の助けになってくださらなければ、彼の魂はこの世において沈黙に伏すのみであると。

 

 

 

しかし、彼が「よろめく」と言ったとき、詩人の人生の危機を救ったのは、人ではなく主に慈しみが支えてくれたのです。

 

 

 

彼の心が悪人のことで思い煩いに占領されたとき、主が教えてくださる神の律法に詩人は慰めを見出して、彼の魂が楽しみになりましたと、告白しています。

 

 

 

わたしは、詩人同様にカジノ法案を通す日本の国の将来は破滅であると思います。詩人が20節で言うことは、真実です。今の日本の政権担当者たちは、「破滅をもたらすのみの王座」です。「掟、法を悪用して労苦を作り出すような者」に主は味方となられません。カジノ法案が通りましたので、これからこの国の保証で賭け事がなされ、わたしの父のようにギャンブル依存症の人が増え、それによって労苦する日本の家庭がさらに増えて行くのではないでしょうか。

 

 

 

さらに21節で詩人は、ユダヤ人の富裕層の者たちが一致団結して神に従う人の命を狙い、神に逆らって潔白な人の血を流そうとしますと預言しています。

 

 

 

わたしは、この詩人の預言に、洗礼者ヨハネの殉教を、そして、イエス・キリストの十字架の苦難を見ることができると思います。

 

 

 

主は、カジノ法案を通すこの国の政治家たちの味方にはなられないでしょう。主が味方しない支配者は、義人を迫害し、神に反逆し、潔白な人の血を流そうとします。すなわち、この国でわたしたちキリスト者は住みにくい思いをしなければならなくなるでしょう。

 

 

 

だから、詩人は、主なる神との間に親しさを失った悪しき支配者を滅ぼしてくださいと繰り返しています。

 

 

 

だが、詩人は知っているのです。主なる神が現れて、この世界を裁かれたら、悪しき支配者だけでなく、自分も裁かれることを。

 

 

 

だから、この詩編には隠れた詩人の問いかけがあると、わたしは思うのです。

 

 

 

主なる神がこの世界に現れ、この世界を裁かれ、神に傲慢な者に刑罰を下されたとき、あなたは逃れの道を持っているのかと。

 

 

 

神の裁きが下ると、ソドムとゴモラの例があるだけです。神はロトと彼の二人の娘たちだけを憐れみ、滅びから逃れさせてくださいました。神は背徳の町ソドムで暮らすロトと親しくなり、御使いを遣わされて、彼を災いから救われました。

 

 

 

神に逆らう者たちは滅ぼされます。それから逃れられる道を、詩人は次のように歌っています。「主は必ずわたしたちのために砦の塔となり わたしの避けどころとなり 岩となってくださいます」と。

 

 

 

「砦の塔」「避けどころ」「岩」は、唯一の確かな救いを意味していると思います。

 

 

 

主イエスは、弟子のペトロを召された時に、「ペトロ、岩の上にわたしの教会を建てる」と約束されました。

 

 

 

そして、今、主イエスは、この世の人々に「わたしのところに来なさい」と招かれています。主イエスを救い主と信じる道だけが、神に近づける道であり、神と親しく交わる道であります。

 

 

 

詩人が預言しましたように主イエスは、罪なき潔白な人でありましたが、わたしたちの身代わりとして十字架の上で神の裁きを受けられ、死んでくださいました。

 

 

 

こうしてわたしたちは、この教会で主イエスを通して父なる神と和解し、神と親しい交わりに生きることを許されています。

 

 

 

だから、主イエス・キリストこそわたしたちの慰めであり、この慰めによってこの世の苦しみ、苦難の時も、わたしたちの魂に楽しみが与えられているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は詩編94編の御言葉を学ぶことができて感謝します。

 

 

 

 この世の悪人の存在に悩まないキリスト者は存在しません。彼らを報復の神主が裁かれるように、祈ることは許されています。

 

 

 

主イエスは、敵を愛せよと命じられました。だから、わたしたちは悩みます。そして、わたしたちは詩編94編の詩人から新たな視点を与えられたことを感謝します。

 

 

 

それは、わたしたちがこの世の悪人の存在に悩むとき、主はわたしたちを懲らしめ、わたしたちに聖書を教えてくださることです。

 

 

 

わたしたちが聖書を学び、神の約束を知ることができれば、神はわたしたちを捨て給わないという強い確信が与えられ、常に神の助けの中にいるという慰めと希望に生かされている事を知らされ、心から感謝します。

 

 

 

主イエスの十字架を通して、わたしたちが父なる神と和解し、毎週の教会の礼拝で親しく交わることができて、感謝します。どうか、主イエスよ、わたしたちを神の御国にまで助け、導いてください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

詩編説教                                                                   主の 2018 8 26

 

    主に向かって喜び歌おう。さあ、わたしたちは喜び歌おう、主に向かって。

        救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。歓声をあげよう、わたしたちの

       御前に進み、感謝をささげ    救いの岩に向かって。わたしたちは出迎えよう、

       楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。彼の顔を、感謝をもって。歌をもっ

        主は大いなる神    歓声をあげる彼に向かってまことに主は大いなる神。

       すべての神を超えて大いなる王。 そして、すべての神々の上で、大いなる王。

 

        深い地の底も御手の内にあり    地の深みは彼の御手の中に。

        山々の頂も主のもの。    そして、山々の頂も彼のもの。

        海もまた、御手によって形づくられた。海もまた、彼のもの。彼自身がそれを

        陸もまた、御手によって形づくられた。そして陸地を、彼の両手が形造った。

        わたしたちを造られた方    いざわたしたちはひれ伏そうそしてかがめよう。

         主の御前にひざまずこう。ひざまずこう、主の御前に。

        共にひれ伏し、伏し拝もう。    わたしたちを造った者。

        主はわたしたちの神わたしたちは主の民      まことに彼こそわたしたちの神、

        主に養われる群れ、御手の内にある羊。わたしたちは彼の牧する民。彼の手の

        今日こそ、主の声に聴き従わねばならない。    羊。今日、あなたがたが彼の声

        「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように    を聞き従うなら、あなたがた

        心を頑にしてはならない。の心を固くするな、メリバや荒れ野のマサのように。

        あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。あのときあなたたちの先祖は

        わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。わたしを試み、わたしの業を見

        四十年の間、わたしはその世代をいとい    にもかかわらず、わたしを試した。

        心の迷う民と呼んだ。四十年、わたしは忌み嫌う、この世代を。そして、わた

        彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。しは言った、彼らは心の迷った民。

        わたしは怒り    彼らは、わたしの道を知らない。それゆえ、わたしは誓った、

        彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」わたしの怒りの中で。「彼らは

                                                                                                                   決して入らない、わたしの憩いに」

                                                                                          詩編第 95 111

 

          説教題:「喜び歌おう」

 

 

          今朝は、詩編第 95 111 節の御言葉を学びましょう。

 

              前回にお話ししましたように、詩編第 9399 編には表題がありません。それ

        だけではなく、93100 編は一つのストーリーです。すなわち、主が王となら

        (93959799 )、敵に復讐され(94 )、全世界が「新しい歌」を歌いつ

       (9698 )、歓呼の中に主に仕える(100 )という神の民の希望を歌っている

        のです。

 

          だから、詩編 95 編も神の民の希望の歌なのです。

 

             ヘブライ語の旧約聖書の詩編 95 編の 1 節の最初は、「レフ」というヘブライ

       語です。「さあ」という呼びかけの言葉です。

 

              「新改訳聖書 2017」は、1 節を、こう訳します。「さあ、主に向かって、喜

       び歌おう」。

 

              フランシスコ会訳聖書、岩波書店の旧約聖書の詩編も、1 節の冒頭に「さあ」

        という呼びかけの言葉を訳しています。

 

              95 編は、神の民に主に向かって、希望の歌を歌おう、わたしたちの神、わた

        したちの王を、感謝し、礼拝しようと、呼びかけています。

 

              教会の礼拝で、招詞があり、神の民を礼拝に招く御言葉が読まれます。この

       95 編の 17 節も、礼拝の招きの言葉としてよく朗読されています。

 

              実は、95 編から 100 編は「礼拝用の詩編」と呼ばれていて、「招きの詩編」

        として、礼拝の招詞に用いられてきました。

 

              95 編は、17 節前半と 7 節後半から 11 節に、その内容を二つに分けること

        ができます。

 

              読めば、その内容の違いがはっきりしています。17 節前半は神賛美です。

        雄大で明朗な礼拝への招きの御言葉です。7 節後半から 11 節は、何か不気味な

 

        神の威嚇の御言葉です。神に絶対的に服従せよとの警告の御言葉です。

 

              95 編の特色は、全く対照的な内容が一つになっているところです。そして、

        95 編を理解するカギがこの内容の違うものが一つの詩編になっているところに

        あるのです。

 

              1 節の「レフ」、「さあ」という言葉は、「行け」という意味の言葉です。「行

        って、わたしたちは主なる神を喜び称えましょう。救いの岩である主に向かっ

        て喜びの賛美を歌いましょう。」

 

              神殿に行って主を喜び賛美しようと、詩編 95 編の詩人は、神の民を礼拝に招

        いています。

 

             神の民が礼拝で喜び賛美する主なる神は、1 節で「救いの岩」と呼ばれ、3

        で「大いなる神」「すべての神を超える大いなる王」と呼ばれ、46 節で「創

        造主」と呼ばれ、7 節の前半で「牧者」と呼ばれています。

 

          まず 17 節前半の御言葉を見ていきましょう。

 

              15 節が礼拝に誘う言葉です。95 編の詩人は、エルサレム神殿に詣でた神の

       民を礼拝に誘っています。

 

              1 節で「主に向かって喜び賛美しよう」と誘い、2 節で「御前に進み、感謝を

       ささげ、ラッパやシンバル、トランペットの伴奏に合わせて、主に喜びの叫び

        をあげよう」と誘います。

 

              2 節の御言葉を、そのままに日本語にすると、「わたしたちは出迎えましょう、

        彼の顔を、感謝をもって」となります。

 

              詩人は、神礼拝を、神の民が主の御顔を出迎えることだと考えています。そ

        の時に詩人は、神の民たちの心に救いの岩なる主なる神への感謝が伴っていな

       いといけないと考えているのです。

 

 

 

主なる神が「救いの岩」と呼ばれているのは、89 節の御言葉に関係がある

 

と思います。

 

 

 

出エジプトし、荒れ野に入った神の民たちは、メリバやマサで飢えと渇きで、

 

指導者モーセに不平をつぶやき、主なる神に服従しませんでした。

 

              しかし、主は神の民を憐れみ、ホレブの岩から水を出す奇跡をなさいました。

        そして、宿営していた神の民たちと家畜たちに水を供給されました。

 

              だから、主は救いの岩と神の民たちに呼ばれました。

 

              詩人にとって主が「大いなる神」であるのは、このお方が全世界の創造者で

        あり、「すべての神々の上に(いる)大いなる王」、支配者であるからです。

 

              そして、大いなる神、大いなる王は、深い地の底も山々も海も創造されまし

      (45 )

 

              詩人が主を創造者として賛美しますのは、異教世界の人々が地の深いところ

118        に、高い山々の頂に神々がいますと信じていたからです。彼らは地の深きとこ

119        ろも高い山々の頂もすべては創造主なる主のものだと宣言しているのです。

 

              6 節の冒頭に「ボウー」というヘブライ語が使われています。「来い」という

122        意味の言葉です。1 節の「さあ」に呼応しています。

 

              新改訳聖書 2017 6 節を次のように訳しています「来たれれ伏し    

        をかがめよう。私たちを造られた方    主の御前にひざまずこう

 

             詩人は、神礼拝に訪れた神の民たちに礼拝を指示しているのです。

 

              神礼拝は、主権者である主の御前に進み出る服従者の動きを表しています。

        そこで主への服従のしるしとして詩人は神の民「ひれ伏し       膝をかがめよ

        「主の御前にひざまずこう」と指示しているのです。

 

 

              こうして詩人の指示に従い、神の民は神殿で主への服従のしるしとして、膝

        をかがめ、頭を垂れます。その姿勢で、神の民は御座から語られる主の御言葉

        を待つのです。

 

             神の民は、「主に養われる群れ、御手の内にある羊」です。だから、彼らは全

        世界の創造者、支配者であり、彼らの牧者である主の御声を待つのです。

 

             7 節後半から、特に 811 節で主の御言葉が記されています。詩人が預言者

        として神の民に取り次いだ御言葉でしょう。

 

              詩人は、礼拝に来た神の民に「今日こそ、主の御声に聞き従わねばならない」

        と命じました。

               95 編のヘブライ語の詩編は、7 節後半を 8 節の「心を頑なにしてはならない」

        に結びつけています。

 

              新改訳聖書 2017 それを忠実に訳しています「今日     もし御声を聞くな

            あなたがたの心を頑なにしてはならない

 

              心を頑なにするとは、頑固だという意味です。礼拝における神の民は、主に

        服従し、主の御声に注意深く聞き入るように、詩人は彼らに指示しているので

        す。

 

              神の民が大いなる神である主に対してなすべきことは、礼拝において今日主

        の御声を聞き従うことです。

 

              詩人は、神の民に主の御言葉をもって礼拝が今日主の御声を聞く機会となら

        なければ、あなたがたは自分の心を固くし、自分たちの先祖の罪を繰り返すこ

        とになると、警告するのです。

 

              「荒れ野のメリバやマサ」とは、出エジプトした神の民が荒れ野での飢えと

        渇きに耐え切れず、指導者モーセに不満を述べ、主なる神に反逆した場所です。

 

 

              彼らは、主が奇跡の御業によって彼らを紅海の海を渡らせ、追手のエジプト

        とパロと彼の家来たちから救い出されたのを見たのです。その経験があるのに、

        頑固になって主の御声を聞かないで、主に不平を言いました。

 

              エジプトから約束の地カナンは少なくても 2 週間あればたどりつけたでしょ

        う。しかし、神の民たちの心の頑なさと不信仰で、出エジプトした世代が荒れ

        野で死に絶えるまで、40 年間彼らは荒れ野をさ迷いました。

 

              指導者のモーセも大祭司のアロンも約束の地に入れませんでした。

 

              「彼らはわたしの道を知ろうとしなかった」と、主は詩人を通して言われて

        いますね。主が神の民を統治される方法を、荒れ野を旅した神の民の先祖たち

        は知ろうとしませんでした。

 

              主はモーセのような預言者を通して、そして、祭祀やレビ人を通して、神の

        民にご自身の御言葉を語り、その御言葉に神の民が絶対に服従することで、彼

        らを治められました。

 

              神の民が主を礼拝することは、神賛美です。しかし、それだけではありませ

        ん。主は礼拝に神の民を招き、彼らに御言葉を語られ、彼らが主の御言葉に服

        従することで、彼らをご自身の民として治められているのです。

 

              主を試すとは、本当にここに今も、神の民のために主は必要なものを与えて、

       ご自分のものとされるお方かどうかを疑う行為なのです。

               マサで水を求めた神の民は、今ここにわたしたちの間に主はおられるかどう

        かと言って、主の臨在を疑いました。

 

              だから、詩人は神の民に警告するのです。「もし今日、主が招かれたこの礼拝

        であなたがたが主の御声に聞き従わないのであれば、あなたがたが荒れ野をさ

        迷った先祖たちのように、主の怒りに触れ、主の憩いの地に入ることはできな

       い」と。

 

 

             21 世紀に生きるわたしたちは、新約の教会に生きる神の民です。出エジプ

        トという奇跡を起こされた主は、主イエス・キリストの十字架と復活という奇

        跡の御業を通して、わたしたちを罪と死から解放してくださいました。

 

 

 

そして、主は今も神の民であるわたしたちに御国を約束してくださっていま

 

す。

 

 

 

その御国に至る道は、95 編の詩人が指し示しましたように日曜日の教会の礼

 

拝に行き、そこで今日主の御声を聞いて服従する以外にありません。

 

             主イエスは、ヨハネによる福音書を通して、わたしたちに天の住まいを用意

       すると約束してくださいました。 

              頑固にならず、心から主イエスの御言葉に服従し、喜んで礼拝に主をたたえ

       ようではありませんか。

 

              お祈りします。 

             イエス・キリストの父なる神よ、今朝は詩編 95 編の御言葉を学ぶことができ

        て感謝します。

              今朝、主の招きで礼拝を守ることが許され、感謝します。

 

              95 編の詩人が神の民を礼拝に招き、どのように主を崇め、礼拝賛美するか、

        教えられました。

 

              主は神の民にとって「救いの神」「大いなる神」「大いなる王」「創造者」「牧

        者」です。主は救い主であり、わたしたちの支配者です。礼拝において心から

        絶対的な神に服従することができますように、お導きください。

 

             主の御声に注意深く耳を傾け、主の御声に従わせてください。

 

              心を頑なにして、御国に入れないものとしないでください。

 

 

 

 

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。