詩編説教026                  主の20121125

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、今朗読される詩編の御言葉とその説き明かしである説教を心に留め、今主がわたしたちに伝えようされている御旨を理解させてください。福音において提供されている主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

         ダビデの詩。            ダビデの

 

主よ、あなたの裁きを望みます。          わたしを裁きたまえ、主よ。

 

わたしは完全な道を歩いてきました。  なぜならわたしは わが完全さに歩んだ。

 

主に信頼して、よろめいたことはありません。また主に私は信頼した。私はよろめかない。

 

主よ、わたしを調べ、試み  私を調べたまえ、主よ。また私を試みたまえ。

 

はらわたと心を火をもって試してください。精錬したまえ。わが腎臓とわが心を

 

あなたの慈しみはわたしの目の前にあり まことにあなたの慈しみはわが目の正面にある。

 

あなたのまことに従って歩き続けています。そして、私は歩く、あなたの真実の中に。

 

偽る者と共に座らず     私は座らない、偽りの人々と共に。呪術師のこと

 

欺く者の仲間に入らず    また偽善者たちと共に、私は行かない。申181014

 

悪事を謀る者の集いを憎み  私は憎む、悪を行う者たちの集いを。

 

主に逆らう者と共に座ることをしません。 また悪しき者たちと共に、私は座らない。

 

 

 

主よ、わたしは手を洗って潔白を示し     私は洗う、潔癖さで、わが手を。

 

あなたの祭壇を廻り      そして、私は廻ろう、あなたの祭壇を、主よ。

 

感謝の歌声を響かせ      聞かすため、感謝の声を、

 

驚くべき御業をことごとく語り伝えます。また語るため、すべてのあなたの驚くべき業を

 

主よ、あなたのいます家   主よ、私は愛する、あなたの家の住まいを。神殿を指す

 

あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。またあなたの栄光の宿る所の場所を。

 

 

 

わたしの魂を罪ある者の魂と共に    集めたまうな、わが魂を、罪人たちと共に。

 

わたしの命を流血を犯す者の命と共に  また私の命を、血の人々と共に。

 

   取り上げないでください。

 

彼らの手は汚れた行いに馴れ  ・・のところの彼らの手には、悪だくみが

 

その右の手には奪った物が満ちています。 また彼らの右の手は賄賂で満ちている。

 

 

 

わたしは完全な道を歩きます。  しかし私はわが完全さに歩む。

 

わたしを憐れみ、贖ってください。 私を贖いたまえ。また私を憐れみたまえ。

 

わたしの足はまっすぐな道に立っています。 わが足は立つ、平らかな地に。

 

聖歌隊と共にわたしは主をたたえます。 聖歌隊の中で私は讃美する、主を。

 

                   詩編第26112

 

 

 

 説教題:「完全な道を歩む者」

 

 詩編第26112節の御言葉を学びましょう。

 

 この詩編は、表題に「ダビデの詩」とありますように、ダビデ王が歌った詩編です。

 

 ダビデ王は、主なる神に正しい裁きを請い願い、祈っています。彼は、主の御前に誠実に落ち度なく歩んで来ました。彼は主なる神に自らの潔白さを訴えて、主なる神に悪人たちと共に滅ぼさないでくださいと乞い求めています。そして、主なる神が彼を平安の内にこの世を生かしてくださるのなら、エルサレムの幕屋において神を讃美しますと誓っています。

 

 ダビデ王が「主よ、あなたの裁きを望みます」と歌った具体的なことを、この詩編は記していません。こんな事件があったのだと、はっきりと推測できるものはありません。

 

 ダビデ王は、何か忌まわしい出来事に巻き込まれて、イスラエルの民に疑われる恐れがあったのでしょう。王の知らないところで、ダビデ王の側近の者たちが何か忌まわしいことをしたのでしょう。

 

 ダビデ王は、イスラエルの民に自らの潔白を証明する必要があったのでしょう。だから王は、主なる神にはっきりと「主よ、あなたの裁きを望みます」と訴えました。なぜなら、ダビデ王には、落ち度がなかったからです。だから、ダビデ王は主なる神に1節の後半で次のように告白しています。「わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません」と。

 

1節の「わたしは完全な道を歩いてきました」と11節の「わたしは完全な道を歩みます」。これら御言葉から「完全な道を歩む者」という今朝の説教題を付けました。

 

この「完全な道」と訳されている言葉は、そのまま日本語にすれば「わが完全さに」です。落ち度なく、汚れなく、誠実にという意味です。ダビデ王は、主なる神の御前に落ち度なく、汚れない、誠実な信仰生活をしてきたと歌っているのです。彼は、羊飼いであった少年の頃から主なる神のみを信頼し、他の神々に心を寄せ、よろめいたことはありません。

 

 ダビデ王は、2節で、主なる神に「主よ、わたしを調べ、試み はらわたと心を火をもって試してください」と歌っています。ダビデ王は主なる神に訴えます。「わたしの落ち度のない、汚れのない誠実な信仰生活は、主なる神がお調べくだされば分かります」と。

 

 ダビデ王の時代、金銀と他の不純物を分けるために火で精錬しました。ダビデ王は、主なる神が裁きという「火」によってダビデ王の腎臓と心臓を、「はらわたと心」を、すなわち、ダビデ王の思いと心をお調べくださいと訴えています。

 

 ダビデ王は無実でした。彼は潔白でした。しかし、彼の身近にいる者たちの悪によって、ダビデ王はイスラエルの民に疑いをかけられたのです。王の責任であると、責められているのです。それでもダビデ王は、主なる神を信頼し、主なる神の裁きに自らを委ねたのです。

 

 35節は、ダビデ王が自らの無実と潔白を言い表しています。3節は、ダビデ王が、主なる神の御前に落ち度なく、汚れなく誠実に信仰生活できる秘訣を告白しています。「あなたの慈しみはわたしの目の前にあり、あなたのまことに従って歩き続けています。」

 

 ダビデ王は彼の一生、生涯にわたって主なる神の慈しみとまことの中を歩みました。主なる神は、預言者サムエルを通して羊飼いの少年ダビデに油を注いで、イスラエルの王とすると約束されました。そして、主なる神は、ダビデを慈しみによりイスラエルの王の道を歩まされました。主なる神は、約束を守られ、激しいサウル王の迫害からダビデを守り、イスラエルの王とすることにより、主なる神の慈しみと真実を、ダビデ王の目の前に魅せられたのです。

 

 その主なる神の慈しみと真実によってダビデ王は、次のように主なる神に告白することができました。4節と5節です。「偽る者と共に座らず 欺く者の仲間に入らず、悪事を謀る者の集いを憎み 主に逆らう者と共に座ることをしません。」

 

 「偽る者」とは「むなしい者」であり、虚しい偶像を礼拝する者です。ダビデは、主なる神以外の神々の偶像を拝む者たちの集会に加わらないと述べています。また「欺く者」とは今日のオレオレ詐欺をする者たちのことです。「悪事を図る者」とは隠れた所で悪事を企み、隣人を罠に陥れる者たちのことです。ダビデ王は彼らの集まりを憎むと言っています。要するに主なる神の慈しみと真実の中に生きるダビデ王は、主なる神に逆らい、隣人を罠に陥れようとする者どもの仲間にならないし、彼らを憎むと述べて、自らの無実と潔白さを訴えたのです。

 

 68節は、ダビデ王が無実と潔白の証しを立てています。第1に手を洗って潔白を証ししました。6節前半です。「主よ、わたしは手を洗って潔白を示し」。ダビデは、自らの無実と潔白を証しするために、主なる神の臨在される神の幕屋に行きました。主なる神に仕え、主なる神を礼拝することこそ、ダビデの無実と潔白を示します。主なる神は、罪ある者を、汚れた者を身近に近づけられません。主なる神のいます幕屋でダビデ王は、両手を洗い、無実を示し、身の潔白を証ししました。

 

 第2にダビデ王は祭壇を廻り、主なる神に感謝と讃美をし、主の驚くべき御業を語り伝えることを誓いました。祭壇を巡るのは、主なる神がダビデの無実と潔白を明らかにしてくださった感謝を、公けにするためです。

 

 第3にダビデ王は、主の幕屋を、神のいます家、神の栄光が宿る家を愛すると告白しています(8)。「慕います」は「愛します」という意味です。主なる神に罪を赦され、義とされた者だけが、神に正しい、清いと受け入れられる者だけが、主なる神のいます家を、愛するのです。ダビデは、今日の言葉で言えば、わたしは教会を愛すると告白しています。

 

 911節は、ダビデ王が愛した神の家において願った救いを明らかにしています。9節の「取り上げないでください」とは、滅ぼさないでくださいという意味です。9節では、ダビデ王は、彼の魂を、罪ある者たちの魂と共に滅ぼさないでください。無実の者の血を流す者の命と共に、彼の命を滅ぼさないでくださいと祈っています。

 

 なぜなら主なる神に魂と命を滅ぼされる者たちの手は、隣人を罠に陥れる悪事に慣れ、隣人から賄賂を取り、隣人から物を搾取することに慣れているからです。

 

 ダビデ王は、主なる神に誓い、祈ります。「わたしは、主なる神に逆らう者たちの中で、主なる神の御前を落ち度なく、汚れなく誠実に信仰生活をします」と。ですから、「わたしを憐れみ、贖ってください」と。

 

 12節は、ダビデ王の平安と讃美です。「わたしの足はまっすぐな道に立っています」。そのまま読めば「わが足は、立つ、平らかな地に」です。平らかな地は、最終的に主なる神がダビデ王に与えられる救いの平安です。

 

 「聖歌隊と共にわたしは主をたたえます」。ダビデ王は、イスラエルの会衆と共に主なる神を讃美すると最後に歌っています。実は、それこそがダビデ王の無実と潔白さを証しするのです。罪無き、正しき者でなければ、主の集いに入れないからです。そして、神の家の会衆が、ダビデ王の無実と潔白の証人となるのです。

 

 詩編26篇の御言葉を1節から順に説明しましたが、ダビデ王の生涯の中でダビデ王が悪事に加担したとイスラエルの民に疑われる事件がありました。サムエル記下3章におけるイスラエルの将軍アブネルがダビデ王の側近のヨアブ将軍に暗殺された事件です。

 

 サウル王の死後ダビデ王はユダの王となり、勢力を拡大し、ユダとイスラエルの統一王国を目指していました。その時に敵のイスラエルのアブネル将軍がダビデ王と和解を求め、ダビデ王はアブネル将軍と和解しました。しかし、ヨアブ将軍はアブネル将軍に自分の弟アサヘルを殺された恨みから、アブネル将軍を暗殺しました。

 

 ダビデ王は、ヨアブ将軍がアブネル将軍を暗殺したのは、自分の意志ではないことを、兵士たちの前で衣を裂き、粗布を着て、アブネル将軍の死を悼み、アブネル将軍の墓のまで大きな声で泣き、哀歌を歌って、民に証ししました。そして、全イスラエルは、アブネル将軍が殺されたのは、ダビデ王の意志ではないことを知りました。ダビデ王は、ヨアブ将軍の悪を抑えることができませんでした。主なる神御自身に裁きを委ねています。

 

 これと同じような事件が他に、ダビデ王にあったのか、分かりません。しかし、詩編26篇のダビデの歌は、主なる神の御前に完全な道を歩む者を暗示しています。

 

 神が裁かれることによって、その者の完全な道が明らかにされるのです。まさに詩編26篇は、十字架のキリストの祈りです。「主よ、あなたの裁きを望みます。わたしは完全な道を歩いてきました。主に信頼して、よろめいたことはありません。」1節のこの御言葉は、まさにゴルゴタの丘を歩まれるキリストの祈りです。主イエスは、御自身罪無き者でした。父なる神の御前に汚れ無き神の御子でした。十字架の死に至るまで父なる神の御前に落ち度なく、汚れなく、従順に歩まれました。最後まで父なる神を信頼し、ゆらぐことはありませんでした。その生涯、神に逆らう者の仲間にならず、隣人を罪に陥れる者の仲間になられませんでした。生涯罪無き者として歩まれ、罪人たちと共に十字架に付けられ、共に墓に納められました。しかし、父なる神は、聖霊を通して主イエスの命を復活させられました。そして、今主イエスは天の御国におられます。そして、わたしたちの罪を贖い、わたしたちに永遠の命をお与えくださいました。

 

次週よりアドベントに入ります。教会は、今年もクルスマスを迎えようとしています。感謝の歌声を響かせ、神が人となりて、生まれられたクリスマスの、神の驚くべき救いの恵みの御業を語り伝えようではありませんか。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、ダビデ王のように、わたしたちキリスト者も神の裁きを願う者です。どうか、主イエス・キリストの十字架に目を注ぎ、神の裁きによって罪無き神の子であることを証しされた事実に、わたしたちの目を留めさせてください。罪無き御子キリストの死によって、罪あるわたしたちが罪の赦しを得、キリストの復活によってわたしたちに永遠の命が与えられた喜びを、心より感謝します。次週よりアドベントを迎えます。クリスマスの神の驚くべき救いの御業を宣べ伝えさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

詩編説教027                  主の20121230

 

 

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、今年最後の礼拝において御言葉を聞くわたしたちに御声を聞かせてください。福音において提供されている主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

         ダビデの詩               ダビデの

 

主はわたしの光、わたしの救い

 

  わたしは誰を恐れよう。

 

主はわたしの命の砦

 

  わたしは誰の前におののくことがあろう。

 

さいなむ者が迫り

 

わたしの肉を食い尽くそうとするが

 

わたしを苦しめるその敵こそ、かえって

 

  よろめき倒れるであろう。

 

彼らがわたしに対して陣を敷いても

 

  わたしの心は恐れない。

 

わたしに向かって戦いを挑んで来ても

 

  わたしには確信がある。

 

 

 

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。

 

命のある限り、主の家に宿り

 

主を仰ぎ望んで喜びを得

 

その宮で朝を迎えることを。

 

 

 

災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ

 

幕屋の奥深くに隠してくださる。

 

岩の上に立たせ

 

わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ

 

主に向かって賛美の歌をうたう。

 

 

 

主よ、呼び求めるわたしの声を聞き

 

憐れんで、わたしに応えてください。

 

心よ、主はお前に言われる

 

  「わたしの顔を尋ね求めよ」と。

 

主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。

 

御顔を隠すことなく、怒ることなく

 

あなたの僕を退けないでください。

 

あなたはわたしの助け。

 

救いの神よ、わたしを離れないでください

 

見捨てないでください。

 

父母はわたしを見捨てようとも

 

主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。

 

 

 

主よ、あなたの道を示し

 

平らな道に導いてください。

 

わたしを陥れようとする者がいるのです。

 

貪欲な敵にわたしを渡さないでください。

 

偽りの証人、不法を言い広める者が

 

  わたしに逆らって立ちました。

 

 

 

わたしは信じます。

 

命のあるものの地で主の恵みを見ることを。

 

主を待ち望め

 

雄々しくあれ、心を強くせよ。

 

主を待ち望め。

 

                   詩編第27114

 

 

 

 説教題:「去る年、神に一つの事を願う」

 

 今年最後の礼拝を、主にささげましょう。詩編第27114節の御言葉を御一緒に学びましょう。

 

 ダビデは、今闇の中にいます。彼の命を脅かす敵が間近に迫っているからです。ダビデは、「さいなむ者が迫り わたしの肉を食い尽くそうとする」と歌っていますね。敵は、今にもダビデの命を滅ぼそうとしています。

 

でもダビデは主なる神を信頼しています。主なる神は、光のように闇を照らして、苦しみと危険の中にいるダビデに命と希望を与えてくださいます。救いの神としてダビデを常に命の危険から救い出してくださいます。そして、主なる神は、あたかもエルサレムの都が城壁によって安全に守られているように、主なる神御自身がダビデの砦となり、ダビデの命を守り、ダビデのために安全を確保してくださるのです。

 

だから、ダビデは、光であり、救いであり、砦である主なる神を心から信頼しているので、1節において繰り返して「わたしは誰を恐れよう」「わたしは誰の前におののくことがあろう」と告白しているのです。

 

ダビデが「誰を恐れよう」と言っていますのは、誰に対しても動じないという意味です。ダビデは、わたしは主なる神に信頼しているから、さいなむ者が自分に迫り、戦争をしかけてきて、自分を滅ぼそうとしても、その敵に対して動じないと言っているのです。

 

 これが、今朝のダビデの詩編から学ぶべき、大切な第1のことです。なぜならば、わたしたちは、人生においてこの恐れの感情というものから逃れられないからです。

 

イエスさまも、わたしたちによく「恐れるな」「思い煩うな」と言われていますね。人生において恐れることと思い煩うことは一番無益なものです。そして万人に避けがたい感情であります。

 

ダビデから、恐れの感情に支配されない人の幸いを学びましょう。ダビデは、3節に「わたしには確信がある」と言っていますね。これこそ、わたしたちが恐れから解放される秘訣です。

 

その秘訣とは、光であり、救いであり、砦である主なる神を信頼することです。なぜなら、ダビデの敵を、主なる神御自身がよろめき倒し、ダビデを敵から守られるからです。

 

ダビデのように主なる神に信頼しましょう。そして、「わたしには確信がある」と言えるほどに、主なる神にすべてを委ねて生きようではありませんか。わたしたちも恐れから解放されるでしょう。

 

次にダビデは、「わたしには確信がある」と主なる神を全面的に信頼することができる場所を教えてくれています。46節です。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ 幕屋の奥深くに隠してくださる。岩の上に立たせ わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ 主に向かって賛美の歌をうたう。」

 

ダビデは、今命の危険の中に居ます。彼の敵がダビデに戦争をしかけています。災いの日にダビデは、ただ一つのことを願いました。主なる神が臨在される近くにいることを願いました。彼は、命が続く限り、神の幕屋において主なる神を礼拝させてくださいと願いました。

 

わたしたちの聖書は、「主を仰ぎ望んで喜びを得」とありますね。これは、「主の麗しさを見」という御言葉です。ダビデは、神の幕屋において臨在される主なる神を礼拝し、そこで主なる神の恵みを見ました。それを、彼は「主なる神の麗しさ」と捉えているのです。

 

ダビデは神の幕屋を訪れ、そこで主なる神を礼拝し続けることを願いました。礼拝においてダビデに主なる神の御言葉が告げられました。8節に彼は、主なる神が彼の心に「わたしの顔を尋ね求めよ」と告げられたと証ししています。ダビデは、常に神の幕屋で主なる神の御言葉を聞き、主なる神の恵み、御救いの良い知らせを聞いたのでしょう。それを、ダビデは「主の麗しさを見」と言いました。

 

ここでわたしたちがダビデから学びますことは、わたしたちも礼拝において語られている説教、そして聖餐式や洗礼式を通して、臨在されるキリストの御言葉を聞き、その恵みと御救いの良い知らせ聞いて、わたしたちの信仰を通して、キリストの恵みと救いの美しいと見ることです。教会の礼拝を通してわたしたちがキリストの美しさ、父なる神と聖霊の美しさを見ることです。

 

ダビデは、今敵に命を狙われる危険の中にいます。だから、714節において主なる神に彼の嘆きを訴えて、主なる神に助けを祈り求めています。

 

ダビデの祈りから、わたしたちはどのように神に祈るべきかを学びましょう。

 

ダビデは、神の幕屋における礼拝を通して主なる神が、彼の心に「わたしの顔を尋ね求めよ」と言われたので、「わたしは、主の御顔を尋ね求めます」と答えて、主なる神に祈っています。それがダビデの祈りです。ダビデにとって祈りは、主なる神との会話です。そして、主なる神がダビデの心に、「わたしを尋ね求めよ」と語られたので、彼は主なる神の御顔を尋ね求めて祈りました。

 

ダビデの祈りは、主なる神への信頼です。ダビデは、主なる神に「御顔を隠すことなく、怒ることなく、あなたの僕を退けないでください」と祈っていますね。祈りは、ダビデと主なる神との間に信頼関係がなければ無意味なのです。主なる神がダビデを拒まれれば、どうしてダビデは主なる神に祈れますか。むしろ、主なる神がダビデと共にいてくださり、ダビデに味方してくださるので、彼は主なる神に心から信頼して祈ることができるのです。  

 

ダビデは、彼の父と母が彼を見捨てても、主なる神は彼を見捨てず、彼を御下に引き寄せてくださると言っていますね。このように彼の祈りは主なる神への信頼の上でなされているのです。

 

ダビデは、主なる神への信頼を、どこで養ったのでしょうか。神の幕屋における礼拝です。ダビデは、礼拝において光である主なる神の導きによって神の示された平和な道を歩むように導かれました。

 

この世は、ダビデにとって闇の世です。無数の落とし穴があります。光である主なる神の導きがなければ、いつわダビデは間違った道を歩むか、分かりません。ダビデの敵が、彼を罠に陥れようとしていました。だから、礼拝における神の御言葉だけがダビデを平和な道に導いてくれる保証でありました。

 

13節にダビデが、神の幕屋の礼拝において主の恵みを見ることを願っていますね。どんな主の恵みなのか、分かりません。しかし、彼は光であり、救いであり、砦である主なる神が、どんな困難な中にあろうと、彼を救い、お守りくださると信じています。そして、今彼は危険の中にあって、今にも主なる神が彼を救ってくださるのを待ち望んでいます。主なる神は、礼拝の中でダビデの心に「雄々しくあれ。心を強くせよ。主を待ち望め」と呼び掛けられたのでしょう。だから、ダビデは、迫り来る敵を前にして、勇気を出して、主なる神を信頼し、主なる神への救いの希望を持ち続けているのです。

 

キリストは、礼拝においてわたしたちに告げられました。「わたしは必ず来る。あなたがたは雄々しく、主を待ち望みなさい」と。わたしたちは、去る年、主の恵みとお守りを感謝し、そして新しき年主が来てくださり、わたしたちを永遠の命の御国へと引き上げてくださることを、ダビデのように勇気を持って待ち望みたいと思います。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、今年も終わろうとしています。この一年間あなたの恵みとお守りを感謝します。ダビデのように教会の礼拝を通して、主イエス・キリストの麗しさを見せていただき感謝します。新しき年、礼拝を通してキリストが御国の到来を約束してくださった、主イエス・キリストの再臨を、勇気をもって待ち望ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

 

 

詩編説教028                  主の2013127

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、御言葉を聞くわたしたちに福音において提供されている主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

         ダビデの詩               ダビデの

 

主よ、あなたを呼び求めます。      あなたに向かって、主よ、わたしは叫ぶ。

 

わたしの岩よ              わたしの大岩よ

 

わたしに対して沈黙しないでください。  耳を塞がないでください、わたしから

 

あなたが沈黙しておられるなら      沈黙されないように、わたしから

 

わたしは墓に下る者とされてしまいます。さもなくば同じになります、穴に下る者と。

 

嘆き祈るわたしの声を聞いてください。  聞きたまえ、わたしの嘆願の声を

 

至聖所に向かって手を上げ        わたしが叫ぶ時、あなたに向かって

 

  あなたに救いを求めて叫びます。   わたしが上げる時、わたしの両手を、あなた

 

の聖なる至聖所に向かって

 

 

 

神に逆らう者、悪を行う者と共に     わたしを引いて行かないでください、悪しき

 

  わたしを引いて行かないでください。 者らと共に、また邪悪を働く者らと共に。

 

彼らは仲間に向かって平和を口にしますが 平和を語る者たち、彼らの親友らと共に

 

  心には悪意を抱いています。     しかし、悪意が彼らの心の中に

 

その仕業、悪事に応じて彼らに報いてください。与えてください、彼らに、彼らの業に従

 

その手のなすところに応じて  って、また彼らの業の悪に従って 彼らの手の行為に従

 

彼らに報い、罰してください。 って。与えてください、彼らに、返してください、

 

                彼らの報いを、彼らに。

 

主の御業、御手の業を彼らは悟ろうとしません。なぜなら彼らは悟らない、主の業につい

 

彼らを滅ぼし、再び興さないでください。 て、また彼の両手の行為について。彼がそれ

 

                     らを滅ぼすように、またそれらを建てない

 

                     ように。

 

主をたたえよ。              ほむべきかな主は

 

嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。なぜなら彼は聞く、わたしの嘆願の声を。

 

主はわたしの力、わたしの盾        主は、わたしの力、またわたしの盾。

 

わたしの心は主に依り頼みます。    彼に依り頼む、わたしの心は。

 

主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。するとわたしは助けられる。そして喜ぶ、

 

歌をささげて感謝いたします。  わたしの心は。それでわたしの歌によって、わたしは

 

                 彼に感謝する。

 

主は油注がれた者の力、その砦、救い。主は彼らの力、また彼が油注いだ者の救いの砦。

 

お救いください、あなたの民を。 救ってください、あなたの民を。

 

祝福してください、あなたの嗣業の民を。そして祝福してください、あなたの嗣業を。

 

とこしえに彼らを導き養ってください。そして彼らを飼いならしてください、また彼らを

 

                   負ってください、永遠に。

 

                   詩編第2819

 

 

 

 説教題:「救いを求めて叫ぶ者」

 

 詩編第2819節の御言葉を御一緒に学びましょう。

 

 ダビデは、主なる神に救いを祈り求めて、彼の祈りを主なる神が聞き届けて、主なる神が彼を敵から救ってくださった喜びを賛美しています。

 

この詩編の出だしは、詩編25篇と似ています。少し表現は異なっていますが、ダビデが主なる神に嘆き祈る姿は同じです。恐ろしい敵がいるのです。ダビデを無実の罪に陥れ、滅ぼそうとする敵がいるのです。

 

25篇よりさらに今朝の詩編の方が、ダビデは苦しんでいます。ダビデは、主なる神を信頼しています。そして、ダビデにとって主なる神だけが頼りです。なぜなら、ダビデにとって主なる神は、「わたしの大岩」だからです。主なる神は、ダビデの命と人生を確かなものとしている大岩です。主イエスは、山上の説教において賢い人は岩の上に家を建てると言われました。永遠に確かなものの上に、主なる神の上に、自分の命をあずけ、人生を歩む賢い人がダビデです。

 

ダビデは、わたしたちキリスト者が信仰の模範とすべき人です。ダビデのようにわたしたちも、主イエス・キリストを「わたしの岩」と依り頼むべきです。イエス・キリストの土台の上に自分たちの命をあずけ、人生を歩むべきです。ダビデが苦しい時に主なる神に助けを求めたように、わたしたちも苦しい時に主イエスの助けを求めて祈るべきです。

 

だが、今ダビデには大きな試練があります。主なる神が沈黙されています。ダビデは、主なる神に「わたしに対して沈黙しないでください」と訴えています。ダビデは、主なる神に「わたしの声に、主なる神が耳を塞がないでください」と祈っているのです。ダビデは、依り頼む主なる神とコミュニケーションが取れない状態にあります。

 

それは、ダビデにとってとても危険な状態です。だから、ダビデは、「あなたが黙しておられるなら、わたしは墓に下る者とされてしまいます」と、助けを哀願しています。主なる神がダビデの声に耳を塞がれ、主なる神とダビデとの間にコミュニケーションがないままであれば、ダビデは生ける神との交わりを失い、墓に葬られた死人と同じになってしまうからです。

 

そこでダビデは、主なる神との交わりの場所、エルサレムの都に設けた神の幕屋にある聖所の庭に行きました。そして、主なる神に嘆き祈りました。「嘆き祈るわたしの声を聞いてください」と。主なる神は、神の幕屋の至聖所にいます。そこにダビデが運び入れた契約の箱が置かれています。そこから主なる神がダビデの祈りに答えてくださるように、ダビデは至聖所に向かって両手を上げて、「主なる神よ、わたしを救い出してください」と祈り叫んだのです。

 

後にダビデの息子ソロモン王が、エルサレム神殿を建てました時に、ソロモンは次のように祈りました。「ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。どうか、あなたのお住まいである天にいまして耳を傾け、聞き届けて、罪を赦して下さい。」(列王記上82930)

 

主なる神は天にいます。しかし、ダビデやソロモン、神の民イスラエルの民のためにエルサレムの幕屋、神殿に居てくださいます。神の民と共に住んでくださっています。だから、ダビデとソロモン、そしてイスラエルの神の民は、苦難の時にエルサレムの幕屋と神殿の庭に行き、主なる神に助けを祈り求めることが許されました。

 

新約聖書のヨハネによる福音書は、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ114)と証言しています。主なる神は、御子イエス・キリストとしてわたしたちの間に共にお住みくださいました。だから、わたしたちには神の幕屋と神殿は必要ありません。主イエスは、わたしたちの間に常にいると、次のように約束してくださいました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ1820)。わたしたちが集まりますこの教会に主イエスは共に居てくださいます。さらに使徒パウロは、「わたしたちは生ける神の神殿である」(Ⅱコリント615)と言っています。聖霊を通してキリストは、わたしたちの内にお住みくださり、キリスト者は神の神殿です。

 

ですから、わたしたちキリスト者は、ダビデのように苦しみの時教会で主イエスに助けを求めて祈ることも、一人密室において主イエスに助けを求めて祈ることが許されています。許されているというよりも、苦しみの時、主なる神に助けを求めることは、主なる神を「わたしの岩」信頼する者の特権であり、恵みです。

 

この世は、「神に逆らう者、悪を行う者」がダビデと共に生きています。ダビデは、主なる神が彼らと共にダビデを滅ぼさないでくださいと祈っています。

 

「神に逆らう者、悪を行う者」は、イスラエルの民です。ダビデの悪しき隣人です。その悪しき隣人は、イスラエルの民の習慣に従って、仲間のダビデに向かって「主なる神の平和があるように」と挨拶をします。しかし、悪しき隣人の心は、口とは裏腹にダビデに対して悪意を抱いています。すきあらば、ダビデを罠にかけて、滅ぼそうと企んでいるのです。

 

ダビデは、自ら悪しき隣人に復讐をしません。聖書に次のように言われています。「『愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります。」(ローマ1219)。ダビデは、悪しき者への復讐を、主なる神に委ねました。ダビデは、悪しき隣人の行い、悪事に応じて、主なる神が報いて、罰してくださいと祈りました。ダビデは、悪しき隣人の行いと悪事を、家に見たてて、破壊し、二度と再建しないでくださいと祈っています。

 

ダビデは、6節と7節に主なる神に救われた喜びを賛美します。主を賛美し、ダビデは、主なる神がダビデの祈りに耳を傾けてくださったことを喜んでいます。祈りが聞かれる、主なる神をわたしの岩と信頼する者にとって、それは無上の喜びです。

 

ダビデは、その喜びの中で「主はわたしの力、わたしの盾 わたしの心は主に依り頼みます」と信仰告白します。ダビデは、「本当に主なる神は、生きておられ、わたしを救う力となり、守る盾となり、わたしを敵から救ってくださった」と喜びました。

 

神を喜ぶこと、礼拝の喜び、ダビデにとってこの喜びは、「主の助けを得て」与えられた神の恵みです。ダビデは、神の沈黙という苦しみを自ら解決できませんでした。主なる神が一方的恵みによってダビデの祈りの声に耳を傾けて聞いてくださいました。そして、ダビデは悪しき隣人との苦しみを自分で解決できませんでした。主なる神がダビデの祈りを聞いて救い出してくださいました。

 

ですから、ダビデは主なる神の一方的な恵みによって主なる神の助けを得て、「わたしの心は喜び躍ります」と賛美しているのです。

 

そして、主なる神に救われたダビデは、主なる神を神の幕屋で礼拝し、賛美し、感謝をささげています。

 

最後にダビデは、主なる神が「油注がれた者の力、その砦、救い」と信仰告白します。「油注がれた者」とは、ダビデ自身のことでしょう。主なる神は、ダビデにとって彼を救い、守る力であり、砦です。さらにダビデは、主なる神がじぶんだけでなく、神の民イスラエルを救われるように祈ります。そして、主なる神が、イスラエルの民の大牧者となられ、永遠に民を養い、導かれるように祈ります。

 

ダビデの信仰告白と祈りは、わたしたちキリスト者の祈りです。わたしたちは、ダビデ同様に聖霊によって「油注がれた者」であり、主イエスはわたしたちの救い主であり、守る盾です。そして主イエスは、教会を通して全世界の民を救われています。そして教会の大牧者として、聖霊と御言葉を通してわたしたちを永遠の御国へと養い、導かれています。お祈りします。

 

 

 

イエス・キリストの父なる神よ、ダビデの詩編を学ぶことができて感謝します。ダビデのように、わたしたちも主イエス・キリストを「わたしの岩」として堅く信頼する信仰をお与えください。ダビデのように苦しい時に素直に主イエスに助けを祈り求めることができますように、お導きください。ダビデのように、わたしたちも主イエスにわたしたちの祈りを聞いていただいたという喜びを味わわせてください。聖霊のお助けを得て、神を喜び、礼拝を喜ぶ祝福にあずからせてください。ダビデのように、主イエス・キリストを信じ、聖霊と御言葉に導かれ、永遠の御国へとお導きください。主イエス・キリストの御名によってお願いします。アーメン。

 

 

 

 

 

 

詩編説教029                  主の2013224

 

 聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、御言葉を聞くわたしたちに福音において提供されている主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」

 

 

 

賛歌。ダビデの詩。

 

神の子らよ、主に帰せよ

 

栄光と力を主に帰せよ

 

御名の栄光を主に帰せよ。

 

聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。

 

 

 

主の御声は水の上に響く。

 

栄光の神の雷鳴はとどろく。

 

主は大水の上にいます。

 

主の御声は力をもって響き

 

主の御声は輝きをもって響く。

 

主の御声は杉の木を砕き

 

主はレバノンの杉の木を砕き

 

レバノンの子牛のように

 

シルヨンを野牛の子のように躍らせる。

 

主の御声は炎を裂いて走らせる。

 

主の御声は荒れ野をもだえさせ

 

主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。

 

主の御声は雌鹿をもだえさせ

 

月満ちぬうちに子を産ませる。

 

神殿のものみなは唱える

 

「栄光あれ」と。

 

主は洪水の上に御座をおく。

 

とこしえの王として、主は御座をおく。

 

 

 

どうか主が民に力をお与えになるように。

 

主が民を祝福して平和をお与えになるように。

 

                  詩編第29111

 

 

 

詩編2911節の御言葉を学びましょう。

 

ダビデは、雷を伴う嵐を通して、主なる神の偉大さと御力を賛美しています。

 

ダビデは、1節と2節に「神の子らよ」と呼びかけ、3度栄光と力を主に帰して、聖なる輝きに満ちておられる主なる神を礼拝しなさいと命令しています。

 

「神の子ら」とは、イスラエルの民のことではありません。「神々の子ら」です。この言葉は、ここと詩編897節に出て来ます。旧約聖書は、唯一の神のみを信じる信仰です。主なる神のほかに神や神々の存在を認めません。しかし、主なる神に仕えています天の御使いたちの存在は認めています。ここでダビデが「神の子ら」「神々の子ら」と呼びかけていますのは、天の御使いたちのことです。

 

ダビデは、天の御使いたちを「神の子らよ」と呼び掛けて、主なる神に服従し、神をほめ称えるようにと命令しているのです。3度の「主に帰せよ」は、主なる神を賛美しなさいという促しです。

 

ダビデは、39節に嵐や落雷や地震という自然の脅威を通して、主なる神が栄光と御力を現されたことを賛美しています。

 

ダビデは、39節に7回「主の御声は」と繰り返しています。3節の2行目に「栄光の神の雷鳴はとどろく」と、ダビデが歌っていますね。イスラエルの民たちは、主の御声を神の栄光の雷鳴として体験しました(出エジプト記19)

 

奴隷の地エジプトから解放されましたイスラエルの民は、指導者モーセに導かれて、シナイ山に着きました。そして3日目にシナイ山で主なる神と会見しました。モーセが主なる神に語りかけると、主なる神は雷鳴をもって答えられました(出エジプト記1919)

 

ダビデは、「主の御声は」と7回繰り返し、二通りの仕方で主なる神の姿を神賛美しています。第13節の「水の上、大水の上」、そして10節の「洪水の上」にいてとこしえの王として座されている主なる神です。第249節のレバノン杉を落雷によって砕き、レバノンの地とヘルモン山を、そして荒れ野を地震によって揺るがす主なる神です。

 

ダビデは、3節と4節に主なる神が御威光によって水と大水を制圧されたと神賛美しています。「水」、「大水」、そして「洪水」と言えば、わたしたちは旧約聖書の創世記の69章に記されています「ノアの洪水」を思い出しますね。東日本大震災の大津波を思い起こします。大水が荒れ狂い、一瞬にして東北の町々村々を破壊し尽くしました。

 

ノアの洪水では、天の窓が開き、大量の水が地に注がれて、地上を覆い尽くしました。ダビデは、この世界の中に水の災いがありますが、主なる神が威厳のある永遠の王として、御力によって水を制圧し、わたしたちを、その災いからお守りくださっている偉大な神であることを賛美しています。

 

ダビデは5節と6節に威厳に満ちた主なる神が驕り高ぶる者を打ち砕かれることを、二つのたとえで神賛美しています。5節の「レバノン杉」と6節の「レバノンの地とシルヨン、すなわち、ヘルモン山」です。レバノン杉は、繁栄と美しさを象徴する樹木でした。だから、人間の傲慢さにたとえられました。ヘルモン山も2800メートルを超える高い山です。主なる神に反逆する人間の傲慢を表すものとして、この山もたとえられています。

 

ダビデは、7節と8節に主なる神が御威光によって荒れ野を震撼させると神賛美しています。「主の御声は、炎を裂いては走らせる」とありますね。これは、稲妻の描写です。

 

ダビデは、9節に落雷に雌鹿が驚き、早産するように、主の御声が天にある神殿の礼拝において爆発的な神賛美を引き起こし、天の御使いたちが「栄光あれ」と神賛美すると歌っています。

 

ダビデは、10節に天と地が一つとしてなす神礼拝において主なる神が永遠の王として着座されると神賛美しています。そしてダビデは、11節に神の民の平和と祝福を祈ります。

 

わたしは、詩編29篇を読んでいまして、旧約聖書の創世記1章を連想しました。主なる神は、御声、すなわち、御言葉によって天と地を創造されました。その時水に覆われ、闇と混沌、無秩序でした。主なる神は、御声でもって、水と水を分けて、天の大空を造られ、水を一か所に集めて、海を造られ、陸を造られ、陸に動植物を造られ、そして太陽を造り、星を造られ、四季を定められました。そして人間を神のかたちに創造されました。こうして、主なる神は御言葉によって一つ一つこの世界を秩序づけられました。

 

続いて、主なる神がアブラハムを選ばれて、契約を結ばれ、彼と彼の子孫の神となり、彼を通して諸国民を祝福してくださいました。こうして主なる神は、イスラエルの民の神となってくださいました。

 

そして、主なる神がダビデを選ばれて、ダビデの王国を堅くし、彼の子孫からメシアが現れ、メシアが永遠に神の御国の王座に着くと約束されました。

 

メシアは、とこしえの王として天の御国に着座されている主なる神です。アブラハムとダビデとの約束を果たすために、御自身が定められた時に処女マリアより、聖霊を通してイエス・キリストとしてお生まれになりました。

 

主イエスは、御自身が主の御声であることを、ガリラヤ湖の嵐を静める奇跡を通して、またガリラヤ湖の嵐の中を水の上を歩く奇跡を通して証しされました。

 

そして主イエスは、ダビデがここで祈りました「主が民に力を与え」「主が民を祝福して平和を与える」ために、すなわち、わたしたちを罪と永遠の死から救い出して、神との平和を与えるために、ゴルゴタの丘に向けて十字架への道を歩まれました。そして、主イエスは復活されました。今天の御国に永遠の王として座して、わたしたちを御国へと導いてくださっています。

 

わたしたちは、ダビデが天の御使いたちに命じていますように、主イエスの御名の栄光をほめ称えましょう。お祈りします。

 

イエス・キリストの父なる神よ、レントの第2主日主イエスの御受難を覚えつつ、詩編29篇の御言葉を学ぶことが許され感謝します。天地を創造された主なる神が、わたしたちの神であり、御子イエス・キリストを通してわたしたちを罪と滅びから救い、永遠の命の喜びにお導きくださり感謝します。331日のイ-スターに伝道集会をします。この町の多くの方々をお招きください。共に主なる神をほめたたえることができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。