詩編説教080           主の2017528

 

 

 

 指揮者によって。「ゆり」に合わせて。

 

 定め。アサフの詩。賛歌。

 

イスラエルを養う方

 

ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ

 

御耳を傾けてください。

 

ケルビムの上に座し、顕現してください

 

エフライム、ベニヤミン、マナセの前に。

 

目覚めて御力を振るい

 

わたしたちを救うために来てください。

 

  神よ、わたしたちを連れ帰り

 

御顔の光に輝かせ

 

わたしたちをお救いください。

 

 

 

万軍の神、主よ、あなたの民は祈っています。

 

いつまで怒りの煙をはき続けられるのですか。

 

あなたは涙のパンをわたしたちに食べさせ

 

なお、三倍の涙をのませられます。

 

わたしたちは近隣の民のいさかいの的とされ

 

敵はそれを嘲笑います。

 

万軍の神よ、わたしたちを連れ帰り

 

御顔の光を輝かせ

 

  わたしたちをお救いください

 

 

 

あなたはぶどうの木をエジプトから移し

 

多くの民を追い出して、これを植えられました。

 

そのために場所を整え、根付かせ

 

この木は血に広がりました。

 

その陰は山々を覆い

 

枝は神々しい杉を覆いました。

 

あなたは大枝を海にまで

 

若枝を大河にまで届かせられました。

 

 

 

なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。

 

通りかかる人は皆、摘み取って行きます。

 

森の猪がこれを荒らし

 

野の獣が食い荒らしています。

 

 

 

万軍の神よ、立ち帰ってください。

 

天から目を注いで御覧ください。

 

このぶどうの木を顧みてください。

 

あなたが右の御手で植えられた株を

 

御自分のために強くされた子を。

 

それを切り、火に焼く者らは

 

御前に咎めを受けて滅ぼされますように。

 

御手があなたの右に立つ人の上にあり

 

御自分のために強められた

 

   人の子の上にありますように。

 

わたしたちはあなたを離れません。

 

命を得させ、御名を呼ばせてください。

 

  万軍の神、主よ、わたしたちを連れ帰り

 

  御顔の光を輝かせ

 

    わたしたちをお救いください。  

 

   詩編第79113

 

 

 

説教題:「神よ、わたしたちを立て直してください」

 

今朝は、詩編第80120節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

詩編第80編の表題の「『ゆり』に合わせて」は、既に45編と60編の表題に出てきました。その時にお話ししましたが、「ゆり」という名の曲があったか、「ゆり」で始まる曲があったのでしょう。その曲に合わせて詩編80編を歌うようにという指示であります。

 

 

 

「定め」も詩編60編にあり、この「定め」は普通シナイ契約の諸規定を指します。詩編では律法を指します。これを「証し」と訳する聖書もあります。

 

 

 

ヘブライ語聖書をギリシャ語に翻訳した「七十人訳聖書」の詩編80編の表題には、「アッシリア人について」という表題が付されています。

 

 

 

本文の3節に「エフライム、ベニヤミン、マナセの前に」と、イスラエルの12部族のうち3つの部族の名が出てきます。2節の族長「ヨセフ」の二人の子らと彼の弟の名であります。「エフライム」と「マナセ」と「ベニヤミン」は、イスラエル王国に属する部族の名称であります。

 

 

 

北イスラエル王国は、紀元前722年にアッシリア帝国に滅ぼされました。その頃に詩編80編が作られました。

 

 

 

アサフは、南ユダ王国でエルサレム神殿の聖歌隊の指揮者でした。彼は、アッシリア帝国に北イスラエル王国が滅ぼされるのを目撃し、アッシリアに捕囚された北イスラエル王国の神の民たちに同情を持って、この民の嘆きの歌を歌ったのでしょう。

 

 

 

この詩編は、内容を4つに区分できます。24節、58節、915節、1620節です。

 

 

 

4節、8節、20節はリフレーンです。同じ文章が3度繰り返されています。「神よ、わたしたちを連れ帰り 御顔の光を輝かせ わたしたちをお救いください。」このリフレーンが、この詩編の中心です。

 

 

 

このリフレーンは、詩人がイスラエルの回復を祈願しているのです。ソロモン王の死後、神の民イスラエルは北と南に分裂しました。そして、今北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、神の民はアッシリアに捕囚されました。

 

 

 

詩人は万軍の主なる神に彼らを連れ戻し、イスラエル共同体の信仰を回復してくださいと繰り返し祈願しているのです。

 

 

 

だから、24節で、アサフは「イスラエルを養う方」、「ヨセフを羊の群れのように導かれる方」と、神に呼びかけています。

 

 

 

「イスラエルを養う方」は、「イスラエルの牧者」の意訳です。神を「牧者」と呼びかけるのは、詩編231節とここだけです。詩編231節は「主は羊飼い」と訳しています。

 

 

 

昔神は、ヨセフを、羊の群れのように導かれて、カナンからエジプトへと導き、そして神の民イスラエルをエジプトで養われました。

 

 

 

その後、神はエジプトで奴隷生活していた神の民を、エジプトからカナンへと導かれ、ヨセフの骨を神の民は携えて行きました。そして、主なる神はシナイ山で彼らと会見し、シナイの荒野で彼らを40年間養われました。

 

 

 

詩人は、神の民の羊飼いである万軍の神主に、イスラエルの神の民を回復してくださるように願い祈るのです。

 

 

 

詩人の祈りを通して、わたしたちは万軍の神である主と神の民イスラエルが羊飼いと羊の群れの関係にあることを学ぶことができます。

 

 

 

羊は愚かで、迷いやすい家畜です。羊飼いに依存しなくては、パレスチナの厳しい環境で生きていくことはできません。羊飼いは弱い羊たちを、愚かで迷いやすい羊の群れを力強く、そして優しく配慮して導いてくれるのです。

 

 

 

詩人は、24節で神の民の牧者である万軍の神主に寄り頼み、アッシリアに連れ去られた捕囚の神の民を連れ戻して、救ってくださるように願い祈りました。

 

 

 

しかし、詩人の祈りを阻むものがあります。神の御怒りです。

 

 

 

神の民イスラエルが北と南に分裂し、北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、そして、残された南ユダ王国もアッシリアの脅威にさらされています。その原因が神の民の罪であります。

 

 

 

だから、58節で詩人は、神の民が祈ってもいつまでも神の御怒りは煙突から上る煙のように絶えることがないと嘆いています。

 

 

 

5節の「いつまで」という言葉は、望ましくない状態が続き、早く終わってほしいと願う詩人の気持ちを表わす言葉です。

 

 

 

6節の「涙のパン」は、断食のことです。神の民イスラエルは、悲しみの時、灰を頭からかぶり、粗布をまとい、断食をしました。

 

 

 

紀元前722年にサマリアを、アッシリアが陥落させ、北イスラエル王国の神の民を捕囚しました。その後もアッシリアは南ユダ王国に圧力を加えていました。詩人は、こうした神の民の苦難と涙がいつまで続くのかと、嘆いているのです。

 

 

 

7節は、シリア・エフライム戦争のことを、詩人が歌っています。北イスラエル王国とシリアが同盟し、アッシリアに対抗しました。その時シリアと北イスラエル王国は、南ユダ王国を味方に引き入れるために、エルサレムを攻めました。

 

 

 

「敵はそれを嘲笑います」とは、アッシリアがパレスチナの仲間同士が互いに争っているのを侮蔑したのです。

 

 

 

915節で、詩人は、神の民イスラエルをぶどうの木にたとえます。神は、ぶどうの木を出エジプトからカナンに移し、植えられました。神の民がカナンに定着するために、先住民たちを追い出されました。そして、神の民はカナンに定着し、ダビデ王国を建て、パレスチナを支配しました。そのことを詩人は回想します。

 

 

 

しかし、今神は神の民イスラエルを守ることを止められています。神は「森の猪」「野の獣」であるアッシリアに北イスラエル王国を奪わせ、荒らすままにさせておられます。

 

 

 

15節の「立ち帰ってください」は、4節と8節の「連れ帰り」と同じ意味の言葉で、自動詞ですので、「立ち帰ってください」、「引き返してください」と訳されています。神が神の民イスラエルに御怒りを向け、顔を背けておられる現状を、神の側から変えて、神の民イスラエルの御目を注ぎ、ぶどうの木を訪れてくださいと、詩人は訴えています。

 

 

 

1620節で詩人は、万軍の神なる主がイスラエルの王を祝福してくださるようにと、祈っています。

 

 

 

南ユダ王国は、アッシリアの脅威の前に危機的な状況にあります。だから、詩人は、万軍の神なる主がヒゼキヤ王を祝福してくださるように祈ります。

 

 

 

16節の「あなたが右の御手で植えられた株」とは、南ユダ王国です。「御自分のために強くされた子」とは、イスラエルの王、ヒゼキヤのことです。

 

 

 

17節で詩人は、南ユダ王国とヒゼキヤ王を滅ぼそうと攻めて来るアッシリアが神の裁きで滅ぼされるようにと祈ります。

 

 

 

18節の「御手があなたの右に立つ人」と「人の子」は、イスラエルの王ヒゼキヤのことです。ヒゼキヤ王に主の祝福の御手があるように、詩人は祈ります。

 

 

 

19節は、ヒゼキヤ王の宗教改革を背景にした詩人の祈りです。ヒゼキヤ王は、モーセが祝った過越祭を復活し、北イスラエル王国に住む神の民にも祭りに来るように誘い、盛大な過越祭を祝いました。

 

 

 

ヒゼキヤ王の過越祭でモーセ以来の民の伝統が回復されました。その祭りをこの詩人も祝うことができたのでしょう。「わたしたちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください」と、詩人は喜びをもって主と共に生きることを祈っています。

 

 

 

今朝の詩編80編を学び、今年が宗教改革500年であることを思い起こしましょう。

 

 

 

宗教改革者ルターは、雷に打たれ、幸い命を失うことはありませんでした。彼は、修道士になることを、聖アンナに誓いました。

 

修道士の生活は、ルターに平安を与えませんでした。なぜなら、ルターも神に詩人と同様に「いつまで怒りの煙をはき続けられるのですか。」祈らざるを得なかったからです。

 

 

 

彼にとって、神の義は罪人を裁く義でありました。しかし、この詩人が15節で「万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いで御覧ください。このぶどうの木を顧みてください」と祈っていることを、ルターも経験したのです。

 

 

 

神は罪を怒るお方であると同時に、恵みによってその罪を赦してくださるお方でもあります。

 

 

 

ルターは、神の義を、罪人を裁く神の義と考えて、平安を得ることができませんでした。しかし、彼はイエス・キリストを通して神が啓示された義は、信仰によって生かされる神の義でした。キリストの十字架によって、罪人を義とする神の義でした。

 

 

 

ルターは、キリストが彼の罪に代わって十字架の刑罰を受けて下さり、彼に義を与えるためにキリストが十字架の死に至るまで神の御前に従順に生きられたことを知りました。彼の罪はキリストが負われ、キリストが得られた神の義を、彼は信仰によって得たのです。

 

 

 

この喜ばしき交換のゆえに、ルターは生涯、キリストから離れず、教会の礼拝から離れませんでした。信仰によって命を得させて下さった、主イエス・キリストの御名を、常に礼拝を通して呼び続けました。

 

 

 

詩編80編は、主イエス・キリストへの信仰を通して読む時に、わたしたちの詩編歌となります。主イエスは、わたしたちの羊飼いであり、わたしたちはその羊です。主イエスは、わたしたち羊のために十字架の上で命を捨ててくださり、再び復活によって命を得てくださいました。キリストの十字架の死でわたしたちは罪の赦しを得、キリストの復活によってわたしたちは永遠の命を保証されました。復活主イエスは、今も羊飼いとしてわたしたちを御国へと導いてくださっています。

 

 

 

また、キリストはぶどうの木の幹であり、わたしたちはその枝であります。わたしたちの信仰生活は、命の源であるキリストにつながっています。そして、世界中に教会は建て上げられ、そこに根付いています。

 

 

 

「この木は地に広がりました」という御言葉は、ペンテコステの出来事以来、教会が世界中に広がり、実現しているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編80編の御言葉を学ぶ機会が与えられ、心より感謝します。

 

 

 

 詩人は、アッシリアに北イスラエル王国が滅ぼされたのを目撃しました。アッシリアに神の民が捕囚されたことに、心を痛め、神の民イスラエルの回復を祈りました。

 

 

 

 ある旧約学者が「怒りの神に嘆きつつなお救いを求めるのがイスラエルの信仰である」と今朝の詩編80編を解説しながら記しています。

 

 

 

どうか、わたしたちも、希望するすべがなかったとしても、聖書の神の約束だからと、望みを抱き、この世で生きることができるようにして下さい。

 

 

 

わたしたちも罪のゆえに、いつまでと祈らざるを得ないことがあります。それでも主イエスに信頼して、主イエスと共にこの世において歩ませてください。

 

 

 

ルターが宗教改革運動を始めて500年になります。信仰義認の教理の素晴らしさを知り、礼拝で神を喜び讃えさせてください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

詩編説教081               主の2017625

 

 

 

          指揮者によって。ギティトに合わせ

 

          て。アサフの詩。

 

わたしたちの力の神に向かって喜び歌い  喜び歌え、わたしたちの力の神に。

 

ヤコブの神に向かって喜びの叫びをあげよ。 歓声を上げよ、ヤコブの神に。

 

ほめ歌を高くうたい、太鼓を打ち鳴らし。上げよ、ほめ歌を。そして打ち鳴ら

 

琴と竪琴を美しく奏でよ。 せ、太鼓を。心地よい琴を竪琴と共に(かき鳴らせ)

 

角笛を吹き鳴らせ  吹き鳴らせ、新月に、角笛を。

 

新月、満月、わたしたちの祭りの日に。 満月に、わたしたちの祭の日に。

 

これはイスラエルに対する掟  まことに、それはイスラエルのための掟

 

ヤコブの神が命じられたこと。 ヤコブの裁きの神の

 

エジプトの地を攻められたとき 証を、ヨセフの中に、彼はそれを置いた。

 

ヨセフに授けられた定め。  エジプトの地から彼が出たときに。

 

 

 

わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。 わたしが知らない言語をわ

 

「わたしが、彼の肩の重荷を除き  たしは聞く。わたしは彼の肩を重荷から

 

籠を手から取り去る。 除いた。彼の両掌は荷籠から通り抜ける。

 

わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い 苦難の中であなたは叫んだ。

 

雷鳴に隠れてあなたに答え  そしてわたしはあなたを救い出した。雷の隠れ

 

メリバの水のほとりであなたを試した。 た所でわたしはあなたに答え。メリ

 

わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。 バの水の畔でわたしはあなた

 

イスラエルよ、わたしに聞き従え。 を吟味した。聞け、わたしの民よ、

 

あなたの中に異国の神があってはならない。 わたしはあなたに警告しよう。

 

あなたは異教の神にひれ伏してはならない。 イラエルよ、もしあなたがわた

 

わたしが、あなたの神、主。  しに聞くなら。あってはならない、あなたの

 

あなたをエジプトの地から導き上った神。 中によその神が。またあなたはひ

 

口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。 れ伏してはならない、異邦の神                 

 

に。わたしはあなたの神、主。               あなたをエジプトの地から上らせた者。広く開けよ、あなたの口を。すると、わたしはそれを満たそう。

 

 

 

しかし、わたしの民はわたしの声を聞かず  ・・・聞かなかった。

 

イスラエルはわたしを求めなかった。 ・・快くわたしに同意しなかった。

 

わたしは、頑な心の彼らを突き放し わたしは彼らの心の頑なさの中に彼らを

 

思いのままに歩かせた。      送り出した。彼らの思いの中に彼らが歩

 

わたしの民がわたしに聞き従い   くように。もしわたしの民がわたしに聞

 

イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら き従い、イスラエルがわたし

 

わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ  の道に歩み続けるならば、たち

 

彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに。」 まちにわたしは彼らの敵を屈

 

                       服させる。そして彼らを苦しめる者の上にわたしの手を返す。

 

 

 

主を憎む者が主に屈服し       主を憎む者たちが彼にへつらう。

 

この運命が永劫に続くように。    そして、彼らの時が永遠になるように。

 

主は民を最良の小麦で養ってくださる。 最良の小麦から食べさせてくださる。

 

「わたしは岩から蜜を滴らせて  わたしは岩から蜜で、あなたを満腹させる。

 

  あなたを飽かせるであろう。」

 

   詩編第81117

 

 

 

説教題:「旅する教会の力」

 

今朝は、詩編第81117節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

本日の説教題は、讃美歌222番の「旅路をゆく人のちから」という歌詞から借用しました。讃美歌222番の「なぐさめのこえこそ 旅路ゆく人のちから」というリフレーンの歌詞は、この詩編816節と7節の御言葉から生み出されました。

 

 

 

この讃美歌222番のリフレーンの歌詞に助けられて、わたしは今朝の詩編81編を学ぶことができて心より感謝しています。

 

 

 

この詩編もアサフの詩です。アサフは、エルサレム神殿の聖歌隊の指揮者です。

 

 

 

「ギディトに合わせて」の「ギディト」が何を意味するのか、よく分かっていません。ヘブライ語をギリシャ語に翻訳した70人訳聖書が「ギディト」を「ぶどう酒の搾り場」と説明しています。

 

 

 

そこから「ギディトに合わせて」を、二通りに解釈できます。すなわち、「ギディト」という名の歌があったか、この言葉で始まる歌があり、その旋律で詩編81編を歌いなさいという指示であるという理解です。

 

 

 

この詩編は二つの部分から成り立っています。

 

 

 

26節の2行目と6節の3行目-17節です。26節の2行目までは神讃美です。63行目-17節は主なる神の託宣です。

 

 

 

23節で詩人アサフは、神の民イスラエルに「わたしたちの力の神」「ヤコブの神」に喜び賛美しようと、神礼拝に招いています。

 

 

 

その理由を、詩人は4節から6節の2行目で喜び賛美しています。

 

 

 

「わたしたちの祭の日」が新月から満月まで、神賛美で祝われました。琴と竪琴を奏で、太鼓を打ち鳴らし、角笛を吹き鳴らして、神の民イスラエルはほめ歌を高らかに歌いました。

 

 

 

新月は71日の新年祭であり、満月は715日の仮庵祭でした。新月の新年祭に角笛、ラッパを吹き鳴らすことが定められていました。

 

 

 

さて、「わたしたちの祭の日」とは、715日の満月の仮庵祭であります。

 

 

 

5節の「ヤコブ」と7節の「ヨセフ」は、創世記の族長たちの名ですが、ここでは神の民イスラエルを表わす名称です。

 

 

 

5節の「掟」、6節の「定め」「証」は、同義語で、4節の「わたしたちの祭の日」である仮庵祭が主なる神が定められたものであることを、詩人は賛美しているのです。

 

 

 

だから、詩人は562行目で出エジプトの時に、主なる神が民の指導者モーセを通して神の民イスラエルに過越祭と仮庵祭を守るように命じられたことを賛美しています。

 

 

 

さら、6節の1行と2行目で、仮庵祭が出エジプトを記念する祭であり、主なる神に民が律法を授けられたことを記念する祭であることを、詩人は賛美しています。

 

 

 

主なる神は、出エジプトのとき、エジプトのパロや民たちに十の災害を下されました。これが6節の「エジプトの地を攻められたとき」でしょう。そして、主なる神は、神の民イスラエルをエジプトから脱出させられました。

 

 

 

そして、主なる神は神の民の指導者モーセを通して、神の民に律法を、シナイ山で2枚の石の板をお授けになりました。これが「ヨセフに授けられた定め」でしょう。

 

 

 

詩人アサフは、262行目で、神の民イスラエルを仮庵祭に招き、過去における主なる神の出エジプトという神の御業を述べて、主なる神を賛美しようと促しているのです。

 

 

 

ところが、6節の3行目で局面が一変してしまいます。

 

 

 

それが63行目の詩人の御言葉です。

 

 

 

「わたしは思いがけない言葉を聞くことになった。」

 

 

 

ヘブライ語聖書をそのまま翻訳すると、「言語を、わたしが知らない、わたしは聞く」です。

 

 

 

「わたしが知らない言語を、わたしが聞く」。神の託宣を聞いた「わたし」とは、詩人アサフでしょうか、それとも族長のヨセフでしょうか。

 

 

 

新共同訳聖書は、詩人アサフが神の御言葉を聞いたと理解し、翻訳していると思います。「思いがけない言葉」は、詩人アサフの知らない言葉で、彼は715節まで主なる神の託宣を聞きました。

 

 

 

主なる神は詩人アサフに直接に語りかけられました。7節の「わたし」は主なる神です。

 

 

 

7節で、主なる神である「わたし」は、神の民イスラエルをエジプトの苦役から救われたお方です。

 

 

 

8節で、主なる神である「わたし」は、神の民イスラエルを苦役から救う前に彼らの叫びを聞かれ、彼らを奴隷から解放し、シナイ山に導いて、そこで雷鳴の中から彼らに答えられたお方です。シナイ山で主なる神である「わたし」は、民の指導者モーセを通して神の民に様々な掟を授け有れたお方です。

 

 

 

主なる神である「わたし」は、メリバの水のほとりで神の民を試みられたお方出ず。旧約聖書の出エジプト記177節です。シンの荒野で神の民イスラエルは、喉が渇き、飲む水がなかったので、モーセに向かって不平を述べました。神の民は、主なる神が彼らの間におられるかどうかを試しました。主なる神である「わたし」は、モーセが杖で打った岩から水を出させて、彼らと共にいることを証しされました。

 

 

 

9節以下が主なる神である「わたし」の託宣の中心です。

 

 

 

9節から11節で主なる神である「わたし」は、神の民イスラエルに掟、すなわち、神の律法を授けて、彼らに主なる神である「わたし」への従順をお求めになりました。

 

 

 

10節で、主なる神である「わたし」は、神の民イスラエルに十戒の第一戒をお命じになられたお方です。

 

十戒、すなわち、神の律法は、神の民が主なる神である「わたし」に従順を示すか否かを試み、知るためのものです。

 

 

 

神の民イスラエルは、出エジプトし、シナイ山で十戒を授けられ、主なる神である「わたし」以外のものを神とし、異教の神々を礼拝することを禁じられました。

 

 

 

なぜなら、神の民イスラエルをエジプトの奴隷状態から救い出したお方は、主なる神である「わたし」以外におられなかったからです。

 

 

 

しかし、主なる神である「わたし」は、詩人アサフに1213節で神の民イスラエルの不従順を指摘し、彼らは自らの思いのままに不従順に歩んだと言われています。

 

 

 

神の民イスラエルは、約束の地カナンに入り、主なる神である「わたし」をすぐに忘れ、カナンの神々にひれ伏し、アッシリアやバビロンの外国の神々にひれ伏しました。

 

 

 

しかし、主なる神である「わたし」は、契約の神であり、恵みの神です。主なる神である「わたし」は、アブラハムとモーセとの契約をお忘れになりません。「わたしは、あなたの神、あなたはわたしの民」であることを常に覚えて、神の民イスラエルを憐れみ、彼らが自らの罪を悔い改めて、主なる神の「わたし」に戻るならば、主なる神である「わたしは」は彼らの敵を屈服させ、彼らを敵の支配の中から救い出すと約束してくださるのです。

 

 

 

16節の「主を憎む者」とは、異教の民のことでしょう。シリアのセレウコス王朝のアンティコス4世エピファネスを思い起こす方がおられるかもしれません。彼は、エルサレム神殿を汚し、多くのユダヤ人たちを迫害しました。

 

 

 

詩人がその時代の人であれば、ユダヤがセレウコス王朝の支配の中で、主がアンティオコス4世エピファネスを裁かれることを願ったでしょう。

 

 

 

しかし、詩編81編で詩人は、実際に異邦人の敵に虐げられ、迫害されているのではありません。

 

 

 

神の民イスラエルとキリスト教会は、共にこの世の旅路を行く者たちであります。主なる神の「わたし」に十戒の第一戒を命じられ、主への従順を求められる者です。

 

 

 

しかし、罪のこの世において、神の民イスラエルもキリスト教会も罪ゆえに主への不従順は避け得ません。

 

 

 

だからこそ81編の詩人アサフは、神の民イスラエルを神礼拝へと招き、彼が聞いた神の託宣を知らせるのです。その神の御言葉は、思いがけない言葉です。不従順な神の民を主なる神である「わたし」は、裁き、滅ぼされません。

 

 

 

むしろ、主なる神である「わたし」は、神の民に11節で大きく口を開けよと言われ、その口を神の恵みと慰めの言葉で満たしてくださるとおっしゃっています。

 

 

 

主なる神である「わたし」は、神の民イスラエルを最良の小麦で養うと約束されています。主イエスは、わたしたちを命のパンである御言葉で養ってくださっています。

 

 

 

その主なる神である「わたし」の慰めの声こそ、この世の旅路を行く神の民の力であったでしょう。

 

 

 

ある旧約学者が81編を紐解いて、この詩編の中心には十戒の第一の戒めが堅く立ち、神の民イスラエルが神に従う時、神を神とする時、そこに聖書の信仰があり、そこに真の救いがあると述べています。

 

 

 

今朝も、主なる神である「わたし」は、肉体をとり、この世で主イエス・キリストとして、わたしたちに語りかけてくださいます。

 

 

 

この世の罪と死とサタンの支配の中で、わたしたちを空しい生活から救い出されたお方は、わたしたちの身代わりに十字架に死なれ、わたしたちの永遠の命の保証として復活された主イエス・キリスト以外にありません。

 

 

 

そして、十字架と復活の主イエス・キリストは、主なる神の「わたし」と同じお方であり、わたしたちが心を変えても、「昨日も今日もいつまでも変わることはありません」

 

 

 

主なる神であるわたしである主イエス・キリストは、わたしたちを次のように慰めてくださいます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

 

 

 

この主イエスの慰めの声こそ、この世を旅する教会の力です。わたしたちは、本当に弱い罪人、人間に過ぎません。しかし、ここにキリストが臨在してくださる教会があり、キリストは聖霊を通して聖書のキリストのお言葉をわたしたちの口いっぱいに溢れさせてくださいます。

 

 

 

わたしたちは、この礼拝で主イエスの命の御言葉、慰めの御言葉をわたしたちの口いっぱいに溢れさせ、この罪の世を、死と暗黒の支配する世界を、力強く生きる力を得ているのです。この世を旅する教会は、主イエスの御言葉の力で生きるのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は詩編81編の御言葉を学びました。心より感謝します。

 

 

 

 詩人が力ある神を、ヤコブの神を喜んで賛美しようと、わたしたちを礼拝に招き、臨在のキリストに近づけてくれたことを感謝します。

 

 

 

歌ったことのない讃美歌222番を、今朝歌えることを感謝します。

 

 

 

どうか、神の民イスラエルとキリスト教会が共にこの世を旅する者であり、罪ある弱いものであることを心に留めさせてください。

 

 

 

そして、主なる神の「わたし」と主イエス・キリストこそ、神の民の救い主であり、唯一の慰め主であることを心に留めることができるようにして下さい。

 

 

 

神の民も教会も、共に礼拝で主の慰めの御声を聞くことこそ、この世に生きる力であることを、今日学ばせていただき、心から感謝します。

 

 

 

 どうか、この世で生きる限り、兄弟姉妹と共に礼拝をし、主の御言葉を聞き、わたしたちの口いっぱいに主の御言葉を溢れさせ、この世の旅人として生きる力をお与えください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

詩編説教082            主の2017723

 

 

 

         賛歌。アサフの詩。   賛歌、アサフの

 

神は神聖な会議の中に立ち         (エロヒーム)は神の集いに立ち

 

神々の間で裁きを行われる。        神々(エロヒーム)の真ん中で裁く

 

 

 

「いつまであなたたちは不正に裁き    「いつまであなたが は不正に裁き

 

神に逆らう者の味方をするのか。      悪人たちの顔を挙げるのか。

 

弱者や孤児のために裁きを行い       弱者(ダル)や孤児(ヴェヤトム)を裁き

 

苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。   困窮者(アニー)、貧乏人(ヴァラシュ)

 

弱い人、貧しい人を救い          正しく裁け 弱者、極貧の者(ヴェエヴヨン)を救い

 

神に逆らう者の手から助け出せ。」     悪人たち(レシャイーム)の手から救い出せ。

 

 

 

彼らは知ろうとせず、理解せず         彼らは知らず、悟らず

 

闇の中を行き来する。             暗闇の中を歩き回り

 

地の基はことごとく揺らぐ。          (アレツ)の基(モセデー)はすべて揺らぐ。

 

わたしは言った                 わたし(アニー)は言った 岩波訳「このわたし」

 

「あなたたちは神々なのか。          「あなたたちは神々、あなたがたは皆、

 

皆、いと高き方の子らなのか」と。       いと高き者の息子たち」

 

しかし、あなたたちも人間として死ぬ。      しかし、人のようにあなたたちも死ぬ

 

君侯のように、いっせいに没落する。       また君侯たち(サリーム)のように倒れる

 

 

 

神よ、立ち上がり、地を裁いてください。     神よ、立ち上がり、地を裁き給え

 

あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。  まことにあなたはすべての国民(ゴイーム)を嗣業とされる。

 

 詩編第8218

 

 

 

説教題:「主なる神と神々」

 

今朝は、詩編第8218節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

説教題を「主なる神と神々」としました。

 

 

 

1節の「神」と「神々」、そして6節の「神々」はすべて、ヘブライ語は「エロヒーム」です。神、エルの複数形であります。

 

 

 

詩人アサフは、同じ「エロヒーム」というヘブライ語の言葉を用いて天地創造の神、主と異教の神々を使い分けているのです。

 

 

 

短い詩編ですから、繰り返し読んでくださいますと、すぐに詩人の思いにお気づきになるでしょう。

 

 

 

彼が主なる神に、主が神々を裁かれ、主お一人がすべての国民の神であることをお示しくださいと祈っていることを。

 

 

 

1節の「神聖な会議」とは、「神の集い」であります。この「神」は、単数のエルです。「エルの集い」は旧約聖書の中でここだけに出てきます。

 

 

 

ダビデが詩編291節で、栄光を主に帰せよと、天の宮廷におられる主に服従と賛美を呼びかけています。「神の子らよ、主に帰せよ、栄光と力を主に帰せよ」と。

 

 

 

新共同訳聖書は「神の子らよ」と訳していますが、岩波訳は「神々の子らよ」と訳しています。

 

 

 

「神々」と「神々の子ら」は、当時の人々の神話的な天上の世界を下敷きにして、詩人は異教の神々、さらにはこの世で神々のように振る舞う権力者、または悪しき天使たちを描いたのではないでしょうか。

 

 

 

主なる神が天の宮廷で神々を集めて、裁かれました。

 

 

 

それが82編のテーマであります。

 

 

 

当然、わたしたちの関心は、「神々」とは誰であるのか、です。

 

 

 

わたしが最近よく読んでいますフランシスコ会聖書研究所訳注の「聖書」は、この「神々」を不正な裁判官であると理解しています。ですから、この詩編は、主なる神が不正な裁判官を責めたものであると主張します。

 

 

 

 福音派が出しました「新聖書注解」の「詩編」を読みますと、「神々」を天使と理解しています。主の御旨を遂行しなかった天使たちが主に裁かれたことを、この詩人は歌っていると主張します。

 

 

 

 さらに詩人の時代の人々は、次のような神話的世界に生きていたという理解です。すなわち、主なる神の下に神々がいて、人間世界を支配していたという考えです。

 

 

 

 わたしは、詩人が「神々」を、カナンの神々と理解していたと思います。

 

 

 

 1節の「神聖な会議」とは、主なる神がカナンの神々を僕としている神話的表現でしょう。

 

 

 

 詩人アサフは、天上に神聖な会議があり、神々は主なる神と人間たちとの間に存在し、人間世界を支配していると考えていたのです。

 

 

 

 そして、詩人アサフは、人の心の中に生ずる悪、この人間の悪は主なる神以外の、この神々によって起こると確信していたのでしょう。

 

 

 

 だから、詩人は主なる神に神々を裁き、貧しい神の民たちを救ってくださいと祈り、賛美するのです。

 

 

 

 24節で詩人は、主なる神が世の神々に神々が正しく人間世界を支配していないと、叱責されたことを賛美します。

 

 

 

「いつまで」とは、主なる神の嘆きです。

 

 

 

この世の神々は、実は人間の欲望をかなえる対象です。そして、人間の心の欲望は悪の根であります。

 

 

 

ヤコブの手紙114節にこう記されています。「人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」。

 

 

 

ヤコブはわたしたちキリスト者に次のように悪から離れるように勧告します。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」と。

 

 

 

同様のことを、主なる神も不正をなす神々に警告されるのです。主なる神の正義は、この世の弱者、孤児、困窮者、貧しい者、乏しい者を助けることであります。

 

 

 

主なる神は申命記24章で人道上の規定を定め、貧しい者、困窮者、孤児、やもめの権利を擁護されました。弱い立場にある者たちを守ることこそ主なる神の愛であり、正義でした。

 

 

 

ところが、詩人の目には5節でこの世の神々が主なる神の愛と正義を知ろうとせず、理解もしていません。だから、人間はこの世界で暗闇の中を歩きまわっています。そして、この世界は社会の根本から揺れ動いています。

 

 

 

この世の神々は、主なる神から愛と正義によって民を裁くように命じられても、その意味を知り、理解することができません。

 

 

 

だから、人間世界は常に混乱するのです。世界の根本は狂ったままですから、この世の神々はそれを解決できず、最後は没落するのです。

 

 

 

カナンの土地の神々は君侯の様に、すなわち、この世の権力者と同様に、神のように振る舞いましたが、人間として死にました。この世の神々は人間のように死に、この世から消えました。

 

 

 

詩人アサフは、この世の神々や神のように権力を振るおうとする者たちがこの世界を支配することに耐えられません。

 

 

 

だから、詩人アサフは、8節で、主御自身が直接世界の諸国民を支配し、この世界で諸国民を愛と正義で裁いてくださいと訴えているのです。

 

 

 

長いカナンでの生活を通して、詩人が体験したことは、主なる神以外にイスラエルの神の民と世界の諸国民を救う者はないということでした。

 

 

 

神々に服しても、人間の欲望は満たされず、むしろ、それによって人間の悪が広まり、世界は混乱するだけなのです。

 

 

 

天地万物を創造し、世界を正しく愛を持って裁かれる神によって、人は救われ、真の命を見出し、この世界に生きる意味を与えられるのです。

 

 

 

人間の歴史が真に命のある歴史になります。

 

 

 

8節の詩人の祈りに答えられて、父なる神はご自身の御子主イエス・キリストをこの世界に遣わしてくださいました。

 

 

 

神の御子キリストが人となり、この世に来られました。父なる神がキリストをわたしたちの罪の身代わりとして、十字架で裁かれました。

 

 

 

この神の愛と正義の裁きにより、世界の諸国民は詩人が祈った通り、神の嗣業となりました。

 

 

 

神々の子たちではなく、真に神の子たちとなりました。

 

 

 

キリストの十字架の死によって、世界の諸国民は父なる神により真の赦しを得ました。

 

 

 

 わたしたちは、今朝の詩編の御言葉から聖書の神こそ、主こそわたしたちを救う真の神であることを心から告白し、賛美しようではありませんか。

 

 

 

 詩人同様に、神の民イスラエルがカナンで経験したように、この異教の日本で、諏訪の地でわたしたちも神々の支配を、現人神天皇の支配を経験しました。

 

 

 

 日本は八百万の神々が支配すると言われますが、歴史の中で、特に日本の近代史の中で、現実に支配したのは現人神天皇です。

 

 

 

 戦後は日本国憲法により天皇は、国民統合の象徴として国民を支配しています。

 

 

 

わたしは、昭和天皇の死によって、初めて象徴天皇の国民支配を知りました。特に天皇が危篤であると報道されますと、国民が一斉に率先して自粛しました。

 

 

 

それで一番影響を受けたのは、日本の中で弱者の立場にある方々でした。

 

 

 

わたしは、その時新聞の投稿欄に次のような投稿があったのを、今も忘れられません。「自粛のあおり、末端の弱者に」。市民祭やチャリティーが昭和天皇の危篤と死で、自粛され、弱い立場の方々が作られて来たバザーや出展物が皆キャンセルになりました。そして、今も弱者のある方は売れる見込みもない絵ハガキを今日も作り続けていると、投稿者は書いていました。

 

 

 

キリストの十字架の死によって、何かを自粛した者はいないでしょう。女たちは香油を持って主イエスの葬られた墓に行きました。墓は空で、天使たちが主イエスは復活されたと告げました。そして、弟子たちは再び主イエスにお会いし、そしてペンテコステの日にキリスト教会が生まれ、教会は主イエスが言われた通り、貧しい者と共に生きてきたのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は詩編82編の御言葉を学びました。心より感謝します。

 

 

 

 詩人アサフが思い描いた世界は、日本のわたしたちキリスト者たちの世界と何ら変わらないことを学び、感謝します。

 

 

 

この世の神々の支配、権力ある者が神のごとくなり、国民を支配することがどんなにその国民を不幸にするか、わたしたちは、日本の戦後を通して教えられてきました。

 

 

 

しかし、戦後70年が過ぎ、再び神々の支配を求める政治家がおり、首相がいます。詩人を通して、主が言われる通り、彼らは自らの欲望のみを求めて、わたしたちを愛と正義で治めることをしません。

 

 

 

悪人に手を貸し、忖度で国民の税金を浪費し、今日本の国の土台が揺るごうとしています。

 

 

 

わたしたちは、日本の政治を批判し、政治家を非難することに心を奪われず、今朝の詩編の82編の御言葉に心を向けて、主イエス・キリストの直接の支配を、御国の到来を待ち望ませてください。

 

 

 

どうか、共に礼拝で主の御言葉を聞くことこそ、この世でわたしたちが真に生きる力であることを学ばせてください。

 

 

 

 この世で生きる限り、主イエス同様に、わたしたちがこの世の弱い立場にある方たちと共に歩ませてください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

 

詩編説教083            主の2017820

 

 

 

         歌。賛歌。アサフの詩  歌 賛歌 アサフの

 

神よ、沈黙しないでください。  神よ、休まないでください。

 

黙していないでください。    神よ、沈黙しないでください。

 

静まっていないでください。   また、静まらないでください。

 

御覧ください、敵が騒ぎ立っています。なぜなら見よ、あなたの敵たちが騒ぎ、

 

あなたを憎む者は頭を上げています。あなたを憎む者たちが高慢に振る舞い

 

あなたの民に対して巧みな謀をめぐらし あなたの民に対して密かに奸計を

 

あなたの秘蔵の民に対して共謀しています。企み そしてあなたに匿われてい

 

彼らは言います  る者たちに対して謀り合うのです。彼らは言う。

 

「あの民を国々の間から断とう。「さあ、わたしたちは彼らの国を滅ぼそう。

 

イスラエルの名が             イスラルの名が

 

  再び思い起こされることがないように」と。もう思い起こされないように」

 

 

 

彼らは心をひとつにして謀り まことに彼らは心を合わせて謀り合う。

 

あなたに逆らって、同盟を結んでいます。 あなたに対して彼らは同盟を結ぶ。

 

天幕に住むエドム人           エドム人の天幕と

 

イシュマエル人、モアブ、ハガル人。イシュマエル人 モアブとハガル人

 

ゲバル、アンモン、アマレク ゲバルとアンモンとアマレク

 

ペリシテとティルスの住民。 ペリシテ、それにティルスの住民

 

アッシリアもそれに加わり アッシリアもまた、彼らと同行する。

 

ロトの子らに腕を貸しています。 彼らはロトの子らの腕となったのです。

 

これらの民に対しても、なさってください。 彼らに行なってください。

 

あなたが、かつてミディアンになさったように ミディアンにしたように。

 

キション川のほとりで            キション川で

 

 シセラとヤビンになさったように。 シセラとヤビンにしたように。

 

エン・ドルで彼らは滅ぼされ   エン・ドルで彼らは滅ぼされた。

 

大地の肥やしとされました。 彼らは大地の肥やしであった。

 

これらの民の貴族をオレブとゼエブのように 彼らの貴族をオレブとゼエブの

 

王侯らをゼバとツァルムナのようにしてください。ようにしたまえ。ゼバとツ

 

彼らは言います ァルムナのように、彼ら王侯を。彼らは言ったのです。

 

「神の住まいを我らのものにしよう」と。「われらのものに取得しよう、神の牧場を」

 

わたしの神よ、彼らを車の輪のように わたしたちの神よ、彼らを車輪のよう

 

風に巻かれる藁のようにしてください。に、風の前の藁屑のようにして下さい。

 

火の手が林を焼くように 森を燃やす火のように

 

炎が山々をなめるように 山々を燃え上がらせる炎のように

 

あなたの嵐によって彼らを追い そのようにあなたの嵐によって彼らを追いた

 

あなたのつむじ風によって恐れさせてください。まえ。あなたのつむじ風で彼

 

彼らの顔が侮りで覆われるなら らを恐れおののかせてください。彼らの顔を

 

彼らは主の御名を求めるようになるでしょう。恥辱で満たし、主よ、彼らがあ

 

彼らが永久に恥じ、恐れ なたの御名を求めるように。彼らが恥じ、永遠にお

 

嘲りを受けて、滅びますように。びえ、恥じ入って滅びるようにしてください。

 

彼らが悟りますように。そして、彼らが知るようにしてください。

 

あなたの御名は主   あなたこそ、その名は主、

 

ただひとり                あなただけが

 

  全地を超えて、いと高き神であることを。全地の上にいと高き方であることを。

 

                                                           詩編第83119

 

 

 

説教題:「神の沈黙」

 

今朝は、詩編第83119節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

詩編第73編から83編まで、「アサフの」という表題が付いた詩編を学んできました。今朝の詩編で、アサフの詩編は終わりです。

 

 

 

今朝のアサフの詩編は、民族の嘆きの歌であります。

 

 

 

南ユダ王国が近隣の諸国に取り囲まれて攻撃を受け、そこにアッシリア帝国も加わり、神の民イスラエルが存亡の危機にありました。

 

 

 

詩編83編の歴史的背景は、南ユダ王国のヒゼキヤの時代です。アッシリア帝国が南ユダに侵入し、アッシリアと近隣諸国が南ユダ王国を滅ぼし、エルサレムの都にあるエルサレム神殿を汚そうとしていました。エルサレム神殿で聖歌隊の指揮をしていたアサフは、主なる神にこの嘆きの歌を歌いました。

 

 

 

そして、彼は敵に囲まれた南ユダ王国の国家的危機の中で主なる神がアッシリアや近隣の諸国の敵たちに報復され、主のみが神であることをお示しになることを祈り求めたのです。

 

 

 

だから、アサフは、主なる神が行動することを祈り求めました。それが、2節の御言葉です。

 

 

 

「神よ、沈黙しないでください」。岩波訳の詩編83編では「神よ、休まないでください」と訳しています。フランシスコ会訳聖書は、「神よ、耳をふさがないでください」と訳しています。

 

 

 

旧約聖書の神の民イスラエルの信仰は、主なる神が歴史の中で働かれることを信じる信仰です。

 

 

 

主なる神とは、行動する神です。世界と人を造られた創造主です。人に目と耳と口と手足を造られたお方が、今南ユダ王国が危機の時に休まれている、神の民たちの助けを求める祈りに耳をふさがれている。

 

 

 

それは、詩人アサフには信じられないし、許されることではありません。主なる神は創造主であり、行動する神です。

 

 

 

だから、アサフは、主なる神に呼びかけるのです。「どうか、神よ、休んでいないでください。耳をふさいで、沈黙していないでください。静かにしていないで、今、わたしたちが危機にある時に、あなたが行動を起こしてください」と。

 

 

 

アサフが主なる神に行動を促す理由が、39節でアサフが神に嘆きながら訴えています。

 

 

 

岩波訳の旧約聖書の詩編には、39節の歴史的状況を特定することは困難であると欄外に記されています。

 

 

 

それは、詩人アサフが神の民の歴史的危機を何重にも重ねているからだと、わたしは思います。

 

 

 

ヒゼキヤの時代だけではなく、カナン定住からサウル、ダビデ、そしてヒゼキヤの時代に至るまで、神の民イスラエルの歴史は近隣の諸国に苦しめられた歴史でした。そして、主なる神が行動を起こされ、士師を立て、預言者や王を立て、近隣諸国の敵から神の民イスラエルを守り、主なる神こそが神であることを明らかにされて来たのです。

 

 

 

しかし、ヒゼキヤの時代、エドム、ペリシテ、モアブ、アンモン等の近隣諸国だけでなく、アッシリアが加わり、北イスラエル王国を滅ぼし、今南ユダ王国を滅ぼそうとしているのです。

 

 

 

神の民イスラエルに敵対する近隣諸国は、10の国々が列挙されています。これらの国々は、神の民イスラエルが奴隷の地エジプトから解放され、約束の地カナンに定住し、ヒゼキヤの時代まで神の民イスラエルと争い、戦い、神の民を苦しめて来ました。幾度となく、敵たちはイスラエルの国を滅ぼそうとしました。

 

 

 

その度に主なる神が神の民イスラエルのために行動を起こされ、士師たちを立て、預言者や王を立ててイスラエルの国と民たちを救ってくださいました。

 

 

 

今、アッシリアが加わり、南ユダ王国とエルサレムの都と神殿は滅びの危機を迎えているのです。

 

 

 

だから、アサフは、1013節で主なる神が行動され、士師の時代にキション川でシセラ将軍の軍隊を滅ぼし、カナンの王ヤビンを滅ぼしたことを、そして、主なる神は士師ギデオンを立て、ミディアンの王たちを滅ぼされたことを思い起こしています。

 

 

 

そして、アサフは、今主なる神が行動を起こされ、士師の時代に神の民イスラエルの敵たちを滅ぼしたように、アッシリアや近隣諸国の敵たちを滅ぼしてくださいと嘆願しています。

 

 

 

アサフは、1416節で敵たちが「車の輪」のように、すなわち、風に転がる枯草の塊のように、火が森を焼くように、炎が山々を燃え上がらせるように、主なる神が起こされる嵐で彼らを追い、つむじ風で彼らを恐れさせてくだいと祈っています。

 

 

 

アサフは、1719節で敵の滅亡を祈ります。彼らが主なる神によって永遠に恥じ、嘲りを受けて、滅びるようにと、祈ります。

 

 

 

アサフの祈りから、わたしたちは、次の二つのことを学びます。

 

 

 

1に、神を信じるということは、神が行動されることを信じるということです。

 

 

 

神の民イスラエルは、ただ主なる神を信じていたのではありません。主なる神は創造の神であり、歴史の中で行動される神であると信じていました。

 

 

 

神が行動されたので、神の民イスラエルは奴隷の地エジプトから解放され、約束の地カナンに定住しました。

 

 

 

神が行動されたので、神の民イスラエルはカナンに定住してから何度も近隣諸国に支配されましたが、また、悪だくみにより近隣諸国がイスラエルを滅ぼそうとしましたが、主なる神が行動を起こされ、士師を立て、預言者と王を立て、近隣諸国の敵から神の民イスラエルを救われたのです。

 

 

 

どうしてあの中近東の地で小さくて、弱いイスラエルが2000年の歴史の中で生きることができたのか。主なる神が行動されたからです。主なる神は、行動し、イスラエルの民の先祖である族長アブラハムと契約を結ばれ、「わたしはあなたとあなたの子孫の神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる」という約束をお守りになりました。

 

 

 

アブラハムと彼の子孫たちは、神が行動し、アブラハムとなさった恵みの契約を常に思い起こし、危機の中で主なる神が行動されることを祈り、求めました。

 

 

 

神を信じるだけでは、わたしたちの信仰は歴史の危機の中で希望とはなりません。わたしたちが信じる神は創造主であり、行動する神です。だから、どんな危機の中でも、神が行動されれば、神の民は危機の中で救われ、守られ、そして、継続し、持続していくのです。

 

 

 

2は、この行動する神は、アサフの行動してくださいという祈りに応えて、行動し、神の御子キリストを、人としてこの世に遣わされ、父なる神がキリストにあって選ばれた神の民を、今キリスト教会を通して救おうとされているのです。

 

 

 

わたしたちキリスト者も、アサフのようにこの世の苦難の中で、主イエスよ、行動してくださいと祈るべきです。

 

 

 

主イエスは、十字架と復活の後、昇天されました。しかし、父なる神と御子は聖霊なる神を地上に降され、教会と聖書をわたしたちキリスト者にお与えくださいました。

 

 

 

そして、キリストは行動する神として、今教会を通して、聖霊と御言葉によってわたしたちを救い、守り、御国へと導いてくださっています。

 

 

 

キリスト者として、この日本の国で生きることは、苦難の連続です。日本の国ではキリスト者は少数派であり、さらにキリスト者の家庭は少数で、その家族が揃って礼拝するのはさらに少数です。

 

 

 

鵜沼裕子というキリスト教思想家が『近代日本のキリスト教思想家たち』という本を出版されています。

 

 

 

その本の中で日本社会の中でキリスト者となった者が立たされる場所は「砂漠」なのである」と記されています。

 

 

 

そして、鵜沼氏はそのように記して、次のように記されています。「砂漠」とは語るものは神以外になく、渇きを癒すものは神の使いの示す「水の井戸」のみの場所であると。

 

 

 

まことに日本のキリスト者は、水の井戸である教会以外に真の慰めの場はありません。

 

 

 

なぜなら、家庭も社会も、日本の社会は世俗化が進み、わたしたちキリスト者をキリストから引き離そうとしているのです。聖書よりもこの世の情報が、そして神の御言葉より人の言葉が家庭と社会にあふれているからです。

 

 

 

その結果、わたしたちは、神の沈黙の世界に生きているのです。

 

 

 

その沈黙の中で、アサフのようにわたしたちキリスト者も信仰の危機の中にあります。信仰の持続の危機です。信仰が子や孫に継承されないという危機です。

 

 

 

今、改革派教会は伝道できないという危機と共に、信仰が継承されなくなっているという危機が重なり、首都圏でも改革派教会が伝道所に種別変更され、自然に閉鎖になりつつあります。

 

 

 

この危機にあって、わたしたちができることは、アサフのように「主イエスよ、行動してください」と祈る以外にありません。

 

 

 

主イエスが行動されれば、主イエスはわたしたちをこの礼拝に招かれ、この礼拝を通して主イエスは語られ、行動され、「あなたが信じれば、あなたの家族が救われる」という恵みを、わたしたちに見せてくださるでしょう。

 

 

 

そして、主イエスが今行動してくださる以外に救いのないことを、わたしたちは理解するのです。

 

 

 

改革派教会は、立派な信条を持ち、教会規程を持ち、整った礼拝をしています。その中心にわたしたちが礼拝している主イエスは、わたしたちの信仰の危機の中で、行動を起こし、わたしたちの信仰を守られるだけでなく、わたしたちの家族を救い、友を救い、この町の人々を救われるという信仰が今、必要なのではないでしょうか。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は詩編83編の御言葉を学びました。

 

 

 

 詩人アサフの最後の詩編です。

 

 

 

神がこの世で、この世の歴史の中で行動する神であることを信じることがどんなに大切なことかを学ぶことができて感謝します。

 

 

 

今年は春に、遠藤周作の小説『沈黙』を、映画化したので、岡谷の映画館で見ました。

 

 

 

江戸時代のキリシタン迫害を、映画を通して見て、今のわたしたちキリスト者の幸せを感じました。それは毎週の礼拝の中で主イエスは行動され、聖霊と聖書の御言葉を通して、わたしたちの救いのために、そして、わたしたちの信仰を守るために働いてくださっているという喜びを覚えました。

 

 

 

世俗化した日本に、神の御言葉よりも人の言葉に溺れて、わたしたちはに地上生活を生きていますが、主の日の礼拝を通して、また、家庭礼拝や個人礼拝を通して、聖書の御言葉に触れ、聖霊に導かれて、主イエスが行動され、洗礼を受ける者が起こされ、契約の子らが信仰告白し、教会の外にいる選びの民をお招きくださり、一緒に礼拝できることを心より感謝します。

 

 

 

どうか、詩編83編の御言葉がこの一週間のわたしたちの生活の中でキリスト者として生きる希望となり、ともし火となるようにしてください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

詩編説教084           主の2017924

 

 

 

指揮者によって。ギティトに合わせ て。コラの子の詩。賛歌。

 

万軍の主よ、あなたのいますところは。 何と愛すべきか、あなたの住まいは

 

どれほど愛されていることでしょう。   万軍の主よ。

 

主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。 わが魂は憧れ、そして恋

 

命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。焦がれる、主の中庭をわが

 

あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り 心と肉は喜び歌う、生ける神に向かって。

 

つばめは巣をかけて、雛を置いています。小鳥でさえ家を、つばめもおのが巣

 

万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。を見出し、おのが雛を置く、あなたの

 

いかに幸いなことでしょう 祭壇に。万軍の主よ、わが主よ、わが神よ。幸い

 

あなたの家に住むことができるなら だ。あなたの家に住む者たちは。

 

まして、あなたを賛美することができるなら。(セラ さらに、彼らはあなたを賛美するでしょう。 

 

いかに幸いなことでしょう          幸いだ。

 

あなたによって勇気を出し 人は彼の力があなたの中に

 

心に広い道を見ている人は。   大路が彼らの中に

 

嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。バーカーの谷を通る者たち

 

雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。は、それを泉とし、諸々の祝福をも

 

彼らはいよいよ力を増して進み ()の雨が覆う。彼らは力から力へと歩いて

 

ついに、シオンで神にまみえるでしょう。行く。シオンで神に見える。

 

 

 

万軍の神、主よ、わたしの祈りを聞いてください。主よ、万軍の神よ、聞き給

 

ヤコブの神よ、耳を傾けてください。(セラ え、わたしの祈りを。耳を傾けた

 

神よ、わたしたちが盾とする人を御覧になり まえ、ヤコブの神よわたした

 

あなたが油注がれた人を顧みてください。ちの盾を見たまえ、神よ。そして

 

           見つめたまえ、あなたに油注がれた者(メシア)の顔を。

 

あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。まことにあなたの中庭の中

 

主に逆らう者の天幕で長らえるよりは の一日は千()より善い。わたしは選ぶ、

 

わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。悪人の天幕に住むことより

 

主は太陽、楯。 わが神の家の中で門口に立つことを。まことに主は太陽にし

 

神は恵み、栄光。て盾。神は恵みと栄光を与え給う。

 

完全な道を歩く人に主は与え 主は良きものを与えて拒まれない。

 

良いものを拒もうとはなさいません。完全さの中で歩む者たちに。

 

万軍の主よ、あなたに依り頼む人は 万軍の主よ、幸いだ。あなたに

 

いかに幸いなことでしょう。 信頼する人は。

 

                  詩編第84113

 

 

 

説教題:「わが魂は主をあこがれる」

 

今朝は、詩編第84113節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

今朝の詩編84編は、「シオンの歌」と呼ばれています。エルサレム神殿をたたえ、神をたたえた賛美です。

 

 

 

神殿で神を礼拝することに憧れた巡礼者の歌であると考えられています。フランシスコ会訳聖書は、詩編84編に「巡礼者の聖所へのあこがれ」という題を付しています。

 

 

 

この詩編は、詩編42編と43編に似ています。「コラの子ら」が作り、歌った詩編です。詩編42編と43編は本来一つの詩編であり、詩人はエルサレムの都から遠く離れた地に住んでおり、神の御前から遠ざけられ、見捨てられたと嘆いています。

 

 

 

ところが、この詩編の詩人は嘆いていません。心からエルサレム神殿で神を礼拝することにあこがれ、恋焦がれています。

 

 

 

詩人は、彼があこがれ、恋焦がれる神殿の礼拝にいます神を、「万軍の主、わたしたちの王、わたしたちの神」(4)と呼びかけています。

 

 

 

「万軍」には諸説があります。イスラエル軍の軍勢、星の群れ、天使の群れなどです。天体の群れか、地上の軍隊かは不明です。要するにエルサレム神殿に君臨される主の権威を表わしているのです。その方が詩人にとって「わたしたちの神、わたしたちの主」なのです。

 

 

 

詩人は、「コラの子ら」の一員、レビ族のコラ氏族の一員として、神殿の宮に住み、朝に夕に神殿の礼拝において神を賛美する特権を与えられていました。

 

 

 

25節で詩人は、エルサレムの神殿で神賛美に仕える者として、神礼拝にあこがれ、恋焦がれ、万軍の主なる神をたたえ、神殿をたたえました。そして、エルサレム神殿に住み、いつも神を礼拝し、賛美できるレビ人としての彼の人生が、何と幸いなものであるかと歌っているのです。

 

 

 

レビ人は祭司ではありませんから、神殿の前庭までしか行けません。しかし、そこで彼は神を礼拝し、賛美できることが常に彼のあこがれであり、恋焦がれることなのだと歌っているのです。

 

 

 

神殿にはたくさんのツバメたちが巣を作り、雛を育てていたのでしょう。詩人は、神殿の柱廊のくぼみにツバメが巣を作り、雛を育てているのを見て、詩人があこがれる神と共にある平和と安全を見たのです。

 

 

 

だから、詩人は本当に幸いな人は、「あなたの家に住み」、すなわち、神殿に住み、いつも神を礼拝している人であると、歌うことができました。

 

 

 

日々神殿で神礼拝をし、神を賛美できるわたしは、何と幸いな者であろうと。

 

 

 

詩人は、610節でシオンに巡礼する者たちの幸いを歌っています。巡礼者、神を避け所とする者の幸いを歌っています。

 

 

 

6節の「あなたによって勇気を出し」は、意訳です。ヘブライ語をそのまま日本語にすると、「人は彼の力があなたの中に」となります。岩波訳は「あなたをおのが力とし」と意訳しています。フランシスコ会訳は「あなたに寄り頼んで奮い立ち」と意訳しています。要するに神をおのが力とすることか、神に寄り頼み奮い立つことを、イメージして日本語に訳しているのです。

 

 

 

常に主を避け所とし、主に寄り頼んで、「心に広い道を見ている人は」幸いなのです。フランシスコ会訳は、「巡礼を志す人は」幸いであると訳し、この詩編を「巡礼者の聖所へのあこがれ」という題を付しています。「広い道」を神殿に上る道であると解して、巡礼者をイメージしているのです。

 

 

 

 「嘆きの谷を通るときも」とは、バーカーの谷底です。エルサレム神殿への途上にある涸れ谷です。その場所は不明です。神殿への道すがらの荒れ果てた谷を通る巡礼者には泉ある所となるのです。

 

 

 

巡礼者は、人生を主と共に、主にあこがれて、旅する者です。巡礼者の経験は、広く人生航路における信仰者の経験でもあります。荒れ果てた地であろうと、苦難の人生であろうと、主なる神がいまし、神礼拝をできるところがあれば、信仰者にとってそこは神の恵みがわき溢れる泉となるのです。

 

 

 

使徒パウロは、言っています。「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と。キリスト者は神の御国を目ざす旅人です。人生は平たんな道ではありません。困難があり、欠乏があり、悲しみがあり、迫害があります。巡礼者が神殿に行くためには嘆きの谷を通らなければならないように、キリスト者が御国に至るためには罪のこの世を通らなければなりません。

 

 

 

実際に、わたしたちは、毎週ここで神礼拝をし、この世をキリスト者として通り過ぎています。そして、わたしたちは、生きる神に向けてわたしたちの全存在をもって、助けを呼び求めるのです。その声を主はお聞きくださり、この世の悲しみを、わたしたちの涙を、恵みの泉に変えてくださいます、

 

 

 

この罪の世に生きるわたしたちを、祝福で覆ってくださいます。だから、わたしたちは主に祝され、守られて、信仰の力から信仰の力へと進み、毎週主の日に教会の礼拝で主に見えるのです。

 

 

 

9節で詩人は、万軍の主、ヤコブの神、イスラエルの神に祈ります。祈りを聞き届けてくださいと。

 

 

 

彼の祈りの内容は10節です。「わたしたちが盾とする人」のための祈りです。その人は、「油注がれた人」です。「盾」はイスラエルの王のことです。王は民にとって、詩人にとって、神の代表者でした。

 

 

 

主は神殿に臨在されるように、王と共にいてくださる、これが旧約の民たちの信仰でした。

 

 

 

しかし、旧約聖書のサムエル・列王記上下を読めば、サウル、ダビデ、ソロモンの罪が記され、北イスラエル王国と南ユダ王の王たちの中にも不信仰な王たちがいました。

 

 

 

詩人が主にどの王のために祈ったか、詳しいことは分かりません。詩人は、10節の2行目で、「見つめてください。あなたに油注がれた人の顔を」と歌っています。

 

 

 

1113節で詩人は、次のように幸いな人を歌っています。その人は、神殿で一日朝と夕に神を礼拝している人です。その一日は千日にまさる恵みがあります。

 

 

 

主の御名こそ救いです。主は太陽であり、楯です。主はわたしたちの創造主であり、命の源です。主はわたしたちの守り手であります。

 

 

 

だから、わたしたちが神に、恵みを乞い求めて生きることは幸いです。主は御自身と共に歩む者を恵み、決して主を礼拝する者に良きものを与えることを拒まれません。

 

 

 

だから、詩人は万軍の主に、「あなたを寄り頼む者こそ幸いな人である」と賛美しています。

 

 

 

この詩編を繰り返し読むならば、神殿であれ、教会であれ、そこに集う信仰者たちは、この世の、地上の巡礼者であることを理解します。

 

 

 

この詩編を読み、どれほどわたしたちがこの教会を、この教会での礼拝を愛しているかを知らされます。

 

 

 

わたしたちは、主イエスに、神にあこがれ、恋焦がれているのです。

 

 

 

ペトロの手紙一189節の御言葉がその証しです。聖霊に導かれたキリスト者が持っている思いです。「なたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」。

 

 

 

キリスト者は皆、キリストを通して、十字架のキリストを通して、神に罪を赦されました。そして、神はキリストの執り成しを通して、わたしたちのすべての願いを聞き届けてくださいました。

 

 

 

だから、この詩人の祈りは、キリストを通して聞き届けられました。主イエス・キリストに寄り頼むキリスト者は、幸いであります。

 

 

 

わたしも60歳を越え、老いを身近に感じる年となりました。どれだけ生きることが許されているか、分かりません。しかし、この年になると悟ることがあります。

 

 

 

詩人が11節で「主に逆らう者の天幕で長らえるよりは わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。」と歌っていることです。

 

 

 

「主に逆らう者の天幕」は、「富の幕屋」です。この世で贅沢な暮らしをする金持ちになるよりも、「神の家の門口に立っている」、すなわち、乞食として神の神殿の入口にいる方を、詩人は選ぶと歌っているのです。

 

 

 

旧約学者の関根正雄は、詩編注解でこの詩人について、次のように寸評しています。「詩人の心が神の前に低く貧しく、ルターの死の前の言葉、「われわれは乞食だ、それが本当だ」のように、詩人はただ神の恵みを乞い求める気持ちで一杯であった」。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は詩編84編の御言葉を学ぶ恵みが与えられ、感謝します。

 

 

 

 詩人の幸福論から、わたしたちの礼拝と人生観が神に問われました。

 

 

 

詩人が神に、神殿に、そして、神殿の神礼拝にあこがれ、恋焦がれたように、わたしたちも主イエスに、この教会に、教会の礼拝にあこがれ、恋焦がれているかと問われました。

 

 

 

どうか、詩人のように、わたしたちもわが身と心で、自分たちの全存在をもって、主を礼拝し、主を寄り頼むことができる幸いを得させてください。

 

 

 

また、わたしたちは自分たちが信じている主イエスは、わたしたちにとって生きている神かと問いかけられました。

 

 

 

主イエスが生きている神であれば、この世で、主イエスはわたしたちに答えてくださいます。

 

 

 

わたしたちを守ってくださいます。わたしたちのこの世の悲しみ、苦難を見過ごさないで、共に歩んでくださいます。

 

 

 

だから、わたしたちはどこにいても、どんな環境でも、そこには主の恵みの泉がわき溢れています。

 

 

 

世俗化した日本の中で、今ここで神を礼拝する一日が与えられていることを、心から感謝します。今日の一日が礼拝を通して、御国に至る喜びであることを感謝します。

 

 

 

「受くるより、与える方が幸いである」と言われた主よ、わたしたちは、この礼拝であなたの貧しさで、十字架の死で恵み富ませていただきました。

 

 

 

どうか、詩編84編の御言葉がこの一週間のわたしたちの生活の中でキリスト者として生きる喜びを証しするものとなり、主イエスに、教会に、そして礼拝にあこがれ、恋焦がれ、そして、家族や知人にキリストを証しさせてください。

 

 

 

 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。