詩編説教047                   主の2014年8月24日

指揮者によって。コラの子の詩。
賛歌。
すべての民よ、手を打ち鳴らせ。
神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。
主はいと高き神、畏るべき方
全地に君臨される偉大な王。
諸国の民を我らに従わされると宣言し
国々を我らの足もとに置かれた。
我らのために嗣業を選び
愛するヤコブの誇りとされた。

神は歓呼の中を上られる。
主は角笛の響きと共に上られる。

歌え、神に向かって歌え。
歌え、我らの王に向かって歌え。
神は、全地の王
ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。
神は諸国の上に王として君臨される。
神は聖なる王座に着いておられる。
諸国の民から自由な人々が集められ
アブラハムの神の民となる。
地の盾となる人々は神のもの。
神は大いにあがめられる。
                   詩編第47編1-10節

説教題:「王である神をあがめる」
  詩編第47編1-10節の御言葉を学びましょう。

  詩編第47編は、主なる神が全地を支配される王であり、全地にいる諸国の民たちにあがめられるお方であると賛美しています。

 詩人は、諸国のすべての民たちに向けて、全地の王である主なる神をあがめ、礼拝しようと呼びかけています。

 2節で詩人は、「手を打ち鳴らせ」、「喜び歌い、叫びをあげよ」と命じています。イスラエルの王が即位して王座に着くときに、民たちが喜びを、そのように動作で表しました。

 たとえば、列王記下第11章12節です。6歳のヨアシュ王子が南ユダ王国の王位に即位した時の御言葉です。「そこでヨヤダが王子を連れて現れ、彼に冠をかぶらせ、掟の書を渡した。人々はこの王子を王とし、油を注ぎ、拍手して、『王様万歳』と叫んだ。」

 詩人は、全地にいる諸国のすべての人々に主なる神が全地の王として即位されたので、主なる神を王としてあがめるように呼びかけました。

 3-5節で、詩人はそのように呼びかけた理由を歌っています。3節で、詩人は主なる神につぎのような名称を付しています。「いと高き神」「畏るべき方」「全地に君臨される偉大な王」と。

 「いと高き神」は、イスラエルの先祖、アブラハムが信じた神の御名です。創世記14章18-19節でいと高き神の祭司、サレムの王メルキゼデクは、アブラハムを祝福して。「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように」と言いました。そして、いと高き神である主なる神は、アブラハムを諸国民の父とし、彼と彼の子孫を通して全地の諸国民を祝福すると約束してくださいました(創世記17:4 )。

 申命記7章21節でモーセが主なる神を「大いに畏るべき神、主」と言っています。主なる神は、奴隷の地エジプトからイスラエルの民を救い出されました。そして、シナイ山で主なる神は、イスラエルの民と契約を結ばれました。主なる神は、彼らの神となられ、彼らは神の民とされました。そして主なる神は、その契約を守り、荒れ野の40年間、彼らと共に歩まれました。そして、主なる神は彼らを約束の地カナンに導き入れようとされました。それが申命記であります。ところが、カナンの地には7つの異民族が定住していました。それゆえにモーセは、民たちを励まして、「彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主はあなたのただ中におられ、大いなる畏るべき神だからである」と言いました。モーセは、民に主なる神は民と共にいて、契約を守られ、カナンの7つの異民族に勝利し、カナンを彼らの嗣業の地としてくださると励ましました。


 それゆえに詩人は、主なる神を「全地に君臨される偉大な王」と賛美します。そして詩人は、主なる神が契約を守り、民たちにイスラエルの地を与えられたことを、4節で「諸国の民を我らに従わせると宣言し、国々を我らの足もとに置かれた」と賛美しています。

 そして、5節で詩人は、主なる神が全地を支配する王として、神の民イスラエルのためにカナンの地を彼らの嗣業の地として選ばれたと賛美します。「愛するヤコブの誇り」とは、エルサレムの町と神殿であります。主なる神は、エルサレムの町に、神殿に臨在されましたので、主なる神に愛された神の民イスラエルの誇りとなりました。

 詩人が6節で「神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。」と賛美していますね。おそらく神殿に主なる神をお迎えしたことを賛美しているのでしょう。

 ダビデ王がエルサレムの町に神の箱を迎え入れた場面を思い起こしながら、詩人は賛美しているのでしょう。サムエル記下6章15節に、次のように聖書は証しします。「ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた」と。

 「神は歓呼の中を上られる」とは、主なる神がエルサレム神殿の中に迎え入れられたことを賛美しています。民たちが喜びの叫びをあげ、楽器を吹き鳴らし、主なる神を神殿に迎え入れたのです。

 詩人は、7節で再び全地にいる諸国のすべての民に、王である主を賛美せよと呼びかけています。

 そのように詩人は呼びかける理由を、8-10節で、次のように賛美しています。

 詩人は、8節で「神は全地の王」であるという理由をあげています。それゆえに詩人は、諸国のすべての人々に「ほめ歌をうたって、告げ知らせよ」と命じています。神礼拝を通して、諸国のすべての人々が「主なる神が全地の王である」ことを証しするように命じているのです。

 詩人は、続いて9節でその理由を次のように賛美しています。「神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる。」

 主なる神は、全地の王として全世界を今、統治されています。主なる神は、今エルサレム神殿で王座に着かれています。この事実が意味することは、地上のすべての諸国民が主なる神の民として、主に帰依するであろうということです。

  なぜなら、10節でその理由が示されていますように、主なる神は全地にいる諸国民から御自身の民をお集めになるからです。
 
  「自由な人々」とは、高貴な人々という意味であります。裕福な指導者層の人々を、主なる神は諸国民の中から御自身に帰依させるために集められます。諸国民は、主なる神とアブラハムとの契約に基づいて、アブラハムを父とする神の民になります。
 
  「地の盾となる人々」とは、地の指導者たちのことです。要するに諸国民の中の尊き人々が主なる神の所有として、神の民として集められるのです。
 
  当然主なる神が諸国のすべての民を「アブラハムの神の民」として集められるのは、「神は大いにあがめられる」ためであります。
 
  詩人の賛美は、実現しませんでした。主なる神が全地の王として、その主権と支配が全世界に及ぶのは、詩人にとって未来のことでありました。
 
  さて、キリスト教会は、詩編47編をキリストの昇天記念の詩編として重んじて来ました。その根拠は6節の「神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。」という御言葉です。教会は、詩人がキリストの昇天を預言していると理解しました。
 
  キリストは、全地の王、主なる神です。聖書に、「初めに言あり、言は神と共にあり」とあります(ヨハネ1:1)。この言であるキリストが、「肉となって、わたしたちの間に宿られました」(ヨハネ1:18)。そして、キリストはユダヤ人の王として、エルサレムの都に、人々の歓呼する中、入られました。キリストが王座に着かれたところは、エルサレム宮殿でもエルサレム神殿でもありませんでした。ゴルゴタの十字架のでありました。その十字架には、ヘブライ語とギリシア語とラテン語で「ユダヤ人の王」と記した札が掲げてありました。キリストは、全地の王、全地にいる諸国の民たちの王として処刑されました。
 
  それによって預言者イザヤが預言した御言葉が実現されました。「万軍の主は彼らを祝福して言われる。『祝福されよ、わが民エジプト わが手の業なるアッシリア わが嗣業なるイスラエル』と。」(イザヤ19:25)。
 
  使徒ペトロは、ペトロの手紙一の1章18-21節で次のように証ししています。「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくだしました。あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。」
 
  詩人がどこまでキリストのことを知っていたか分かりません。確かなことは、十字架で死なれたキリストは復活し、昇天されました。父なる神の右に着かれ、今聖霊と御言葉を通して全地を支配し、全地にいる諸国の民たちをキリスト教会を通して集めておられます。わたしたちもここに集められ、全地の王、主を、礼拝を通してあがめているのです。
 
  この喜びを、世の人々にわたしたちの礼拝を通して、告げ知らせることがわたしたちの使命であります。
 
  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、全地の王である主なる神の御名を崇めさせてください。
 
  主よ、感謝します。あなたの召しにより、共に神の赦しと約束に生きる兄弟姉妹たちをお与えくださっていることを。
 
  主よ、感謝します。全地の王であるキリストが、今も天においてこの世界を支配されているので、わたしたちは今日も、ここに集められ、主を礼拝し、主を賛美し、主に在る交わりを許されていることを。
 
  どうか、主よ、詩人の祈りを、わたしたちの祈りとさせてください。聖霊に導かれて今朝の詩編の御言葉を理解させてください。
 
  詩人と共に全地の王、主を、十字架と復活の主イエス・キリストを、この世の人々に宣べ伝えることができるようにしてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

詩編説教048                主の2014年9月28日

         歌。賛歌。コラの子の詩。
大いなる主、限りなく賛美される主。
わたしたちの神の都にある聖なる山は
高く美しく、全地の喜び。
北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都。
その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される。

見よ、王たちは時を定め、共に進んできた。
彼らは見て、ひるみ、恐怖に陥って逃げ去った。
そのとき彼らを捕らえたおののきは
  産みの苦しみをする女のもだえ
東風に砕かれるタルシシュの船。

聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た
万軍の主の都、わたしたちの神の都で。
神はこの都をとこしえに固く立てられる。
神よ、神殿にあってわたしたちは
    あなたの慈しみを思い描く。
神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。
右の手には正しさが溢れている。
あなたの裁きゆえに
  シオンの山は喜び祝い
ユダのおとめらは喜び踊る。

シオンの周りをひと巡りして見よ。
塔の数をかぞえ
城壁に心を向け、城郭を分け入って見よ。
後の代に語り伝えよ
この神は世々限りなくわたしたちの神
死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。
                   詩編第48編1-15節

説教題:「死を越えてわたしたちを導かれる神」
 
  詩編第48編1-15節の御言葉を学びましょう。
 
  詩編第46編6節で、詩人の「コラの子」が次のように神賛美をしています。「神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えくださる。」この御言葉に基づいて、詩編第48編はシオン、すなわち、神の都であるエルサレムの町を、そこにいます主なる神を賛美しています。
 
  この詩編のテーマは、エルサレムの町が解放された喜びであります。
 
  3節の「シオンの山」の「シオン」とは、エルサレムであります。エルサレムの町は、ダビデ王がエブス人から奪い取り、「ダビデの町」を建てました。そして、その町にダビデは、主の箱を運び入れ、「シオンの山」に主なる神の幕屋を据えました。こうして2節で「大いなる主、限りなく賛美される主」と詩人が賛美します主なる神が、エルサレムの町に、シオンの山に住んでくださいました。
 
  エルサレムは、神の都となりました。主なる神の永住される場所となり、シオンの山は「聖なる山」(2節)となりました。「わたしたちの神の都」であるエルサレムの町は、主なる神の「聖なる住まい」であり、天と地が出会う場所となりました。
 
  2節の「聖なる山は」、3節で歌われているように「高く美しく、全地の喜び」であります。なぜなら、主なる神が神の民イスラエルと共にいますことのしるしであるからです。
 
  3節の「北の果ての山」とは、神々が住むところの山であります。先住民のカナン人たちが彼らのバアルの神々が北部シリアのザボン山に住んでいると信じていました。詩人は、主なる神が住まわれているのは、シオンの山であり、エルサレムの町の大いなる王の都であると賛美しています。
 
  それゆえに詩人は、4節で「その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される」と賛美しています。エルサレムの町が安全に守られているのは、城郭や砦の塔があるからではなく、この町に主なる神が臨在されているからであると賛美しています。主なる神こそがエルサレムの町と神の民を守る砦あるのです。
 
  詩人は、宗教改革者ルターが讃美歌267番で「神はわがやぐら、わがつよき盾」と賛美したように、「わたしたちの神は城郭であり砦の塔である主である」と賛美しています。
 
 そして、詩人は、彼の賛美が真実であることを、5-8節で次のように記しています。

  主なる神が歴史に介入し、エルサレムの都をアッシリア帝国のセンナケリブ王から解放されたことを賛美しています。紀元前701年にアッシリア帝国のセンナケリブ王は、南ユダ帝国に侵略し、次々とユダの町々を略奪し、エルサレムの都を包囲しました。ヒゼキヤ王は、預言者イザヤを通して主なる神に助けを祈りました。主なる神は、御使いを遣わされ、アッシリアの陣営の18万5000人を撃たれました。センナケリブ王は恐怖に陥り、アッシリアに逃げ帰りました。詩人は、センナケリブ王の敗北を妊婦の産みの苦しみと貿易のタルシシュの船が海の嵐で遭難したことに喩ました。
 
  詩人は、9-12節でエルサレムの都を訪れて、主なる神がアッシリアの手からエルサレムの都を守り、「とこしえに固く立てられる」という言い伝えを確かめ、その都の中にある神殿で主なる神が歴史に介入し、さまざまな恵みを神の契約の民に施されたことを心に思いめぐらせたと賛美しています。
 
  主なる神が御自身に敵対するアッシリアを、義によって裁かれたので、エルサレムの都と「ユダのおとめら」は、喜び踊りました。「ユダのおとめら」とは、南ユダ王国の町々のことです。エルサレムの都も、南ユダ王国も解放された喜びに満たされました。
 
  詩人は、13-15節で、エルサレムの町に巡礼した者たちに「シオンの周りをひと巡りして見よ」と促しています。詩人と同じ体験をしてほしいからです。エルサレムの都と神殿の威容を確かめるようにと、勧めています。
 
  その目的は、後の世の人々に語り伝えるためであります。そして後の人々に伝えるメッセージは、15節の御言葉です。「この神は世々限りなくわたしたちの神 死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。」
 
  詩人がわたしたちに伝えているのは、次のことです。神の都エルサレムは、主なる神がいますところであり、主なる神が契約の民に恵みを施される特別なところであるということです。
 
  詩人は、エルサレムの都を見て、そして神殿に詣でて、主なる神が契約の民に真実に恵みを施されることを確かめることができて、この世だけでなく、死を越えて、永遠に主なる神の恵みに中に生きる喜びを体験したのです。
 
  今この詩編の御言葉を聞き、わたしたちは何を見るのでしょうか。詩人が訪れた神の都エルサレムは、地上のキリスト教会であります。主なる神は、歴史に介入し、わたしたちのように肉体をとり、イエス・キリストとしてこの世に住まわれました。そして神の敵であるサタンと罪と死を滅ぼし、その支配下にあるわたしたちを救い出すために、十字架の上で死なれ、三日目に死人の中から復活されました。
 
  こうしてこの世にキリスト教会が存在しました。「聖霊は、神が御子によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために」(使徒言行録20:28)、わたしたちの教会に牧師と長老を任命されたのです。
 
  教会は、キリストの体であり、キリストはわたしたちを守る城壁であり、砦であります。そして、わたしたちは、毎週の主の日に教会に来て、礼拝を通して主イエス・キリストを通してわたしたちを救われた神の恵みを聞いています。そして、洗礼と聖餐にわたしたちもあずかり、キリストの救いを確かめているのです。
 
  教会は、大いなる主、限りなく賛美される主が、御子の血によって御自分もものとなさったものであり、キリストは羊を導く羊飼いのように、必ずわたしたち選びの神の民をこの礼拝に招集し、そして聖霊と御言葉を通して洗礼と聖餐にあずからせ、有限と時間の中で集められたわたしたちを、死を越えて、永遠の命の交わりへと、御国へと導いてくだします。
 
  お祈りします。
 
  イエス・キリストの父なる神よ、詩編第48編の御言葉を学ぶ機会をお与えくださり感謝します。
 
  教会で、「大いなる主、限りなく賛美される主」を賛美できることを感謝します。
 
  主よ、昔、エルサレムの都にいまし、今わたしたちの教会にいてくださることを感謝します。
 
  礼拝を通してわたしたちも詩人のように、教会の2000年の歴史を主キリストがお守りくださり、またキリストは聖霊と御言葉を通して、教会に集められた選びの民を、洗礼と聖餐にあずからせ、死を越えて永遠の御国へとお導き下さり感謝します。
 
  どうか、この教会を通してこの世の人々に十字架と復活の主イエス・キリストの御救いを宣べ伝えることができるようにしてください。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 詩編説教49              主の2014年10月26日
 
              指揮者によって。コラの子の詩。
              賛歌。
  諸国の民よ、これを聞け
  この世に住む者は皆、耳を傾けよ
  人の子らはすべて
  豊かな人も貧しい人も。
  わたしの口は知恵を語り
  わたしの心は英知を思う。
  わたしは格言に耳を傾け
  竪琴を奏でて謎を解く。
 
  災いのふりかかる日
  わたしを追う者の悪意に囲まれるときにも
  どうして恐れることがあろうか
  財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。
  神に対して、人は兄弟をも贖いえない。
  神に身代金を払うことはできない。
  魂を贖う値は高く
  とこしえに、払い終えることはない。
  人は永遠に生きようか。
  墓穴を見ずにすむであろうか。
  人が見ることは
  知恵ある者も死に
  無知な者、愚かな者と共に滅び
  財宝を他人に遺さねばならないということ。
  自分の名を付けた地所を持っていても
  その土の底だけが彼らのとこしえの家
  代々に、彼らが住まう所。
 
    人間は栄華のうちにとどまることはできない。
    屠られる獣に等しい。
 
  これが自分の力に頼る者の道
  自分の口の言葉に満足する者の行く末。
  陰府に置かれた羊の群れ
  死が彼らを飼う。
  朝になれば正し人がその上を踏んで行き
  誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。
  しかし、神はわたしの魂を贖い
  陰府の手から取り上げてくださる。
  人に富が増し、その家に名誉が加わるときも
  あなたは恐れることはない。
  死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず
  名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。
  命のある間に、その魂が祝福され
  幸福を人がたたえても
  彼は父祖の列に帰り
  永遠に光を見ることはない。
 
     人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。
     屠られる獣に等しい。
 
                    詩編第49編1-21節
 
  説教題:「お金ではなく、神により頼む」
   10月31日が宗教改革記念日であります。その日に一番近い主の日を、宗教改革記念礼拝として、多くのプロテスタント教会で礼拝が守られています。
 
  いつも第4主の日には詩編の御言葉を学んでいます。宗教改革者の一人、カルヴァンが詩編注解の序言に「彼の突然の回心」について記しています。それは、彼にとって「予期せぬ回心」でありました。
 
  カルヴァンの「回心」は、「正しい聖書の教理を受けいれる」ことでした。ローマカトリック教会の愚かな迷信から抜け出して、知的、そして信仰的な神賛美へと向かうことが、彼の回心でありました。
 
  このカルヴァンの「回心」に心を留めて、わたしたちは今朝の詩編の49編の御言葉に耳を傾けてみたいと思います。
 
  さて、誰の目にも、人の死は、消すことのできない事実です。わたしたちは、よく人の死を知っています。人は息を引き取り死にます。人間死ぬと、心臓が止まり、脈がなくなり、体温が下がり、体が冷たく、硬直します。そして、死んだ体は火葬場で、体重60キロの人であれば、5キロの骨と灰になります。その一部を骨壷に入れ、墓に埋葬します。そして、今朝の詩編の詩人が述べています「陰府」に行くのです。
 
  この死という事実を知っていても、今のわたしたちの関心は、死よりもお金ではないでしょうか。この世の人々は、余ほど末期がんのような重症患者でない限り、死よりもお金の心配で、心を悩ませているのではないでしょうか。
 
  また、世間一般に、この世はお金が支配し、すべてがお金で解決できると、多くの人は思っているのではないでしょうか。
 
  ところで、今一人の知恵ある者が声高らかに呼びかけました。「諸国の民よ、全世界の人々よ、わたしの声に耳を傾けよ。富める人も貧しい人も、人はすべて、わたしが語る知恵、英知に心を留めよ。わたしが語る格言に耳を傾けよ。琴を奏でて、わたしは今人にとって重要な死について明らかにしよう」と。
 
  この世界には、富める者と貧しい者がいます。高貴な人と卑しい者がいます。名誉ある人と無名の人がいます。世界の人々は平等ではありません。そして、世界の人々は、神よりもお金に頼り、物の豊かな生活を日々に求めています。
 
  詩人は、この世のみに目を向ける全世界の人々に死が富める者にも貧しい者にも平等に訪れ、人はだれも死を逃れられる者はないと訴えています。
 
  詩人は、世界中の人々にこの世に死という現実がある限り、お金を頼みとし、富の力を誇る愚かな者ではなく、神を頼る者となるように勧めています。
 
  6節で、たとえ敵の悪意に囲まれるという災いの日が来ても、詩人は恐れる必要がないと主張しています。
 
  この世界の人々が目にしている事は、富める者が貧しい者を虐げ、バカにして、自らの富の力を誇っているという、この世の姿です。詩人も富める者に苦しめられている者の一人であるかもしれません。
 
  詩人は、8-9節で、神の存在に心を向けています。神こそが、今詩人が最も重要なこととして語ります人間の死について、救うことができる唯一のお方であります。
 
  詩人が言うように、人は神に対して犯した罪とそれに対する神の刑罰を逃れることはできません。どんなに心から愛している兄弟たちでも、彼らが死ねば、神にお金を支払って彼らの命を贖うことは不可能です。
 
  ですから、詩人が10節で言うように、人間は永遠にこの世で生きることはできません。墓穴、すなわち、陰府である、死人たちの国に入ります。
 
  11-12節で詩人は、人の死が日常経験であると言っています。人の死は信仰のあるなしに関係がありません。神を敬う信仰者も、不信仰者や無神論者も死にます。「滅びる」とは、この地上における神との交わり、その命を失うという意味です。
 
  当然死ねば、その人のお金と財産は他人の物となります。
 
  12節の御言葉は、トルストイの「人はいかに生きるべきか」というお話を思い起こさせます。ある男が一日で歩いて往復した土地を、お前の土地にすると言われて、多くの土地を得ようと遠くまで歩きます。気づくと遠くまで来すぎて、日が暮れそうになり、その男は一生懸命走って、元のところまで帰りました。しかし、心臓発作を起こし死んでしまいました。結局その男が手に入れた土地は、彼が葬られた墓であるというお話でした。
 
  詩人は、更に14-15節で次のように述べています。お金や富に頼る人は、神ではなく、自分に頼っている者であり、彼らは陰府の中に置かれた羊の群れであり、死が彼らの牧者となり、彼らを滅びへと導いて行くと。
 
  詩人は、16節で一つの信仰の確信を持って、「神はわたしの魂を贖い 陰府の手から取り上げてくださる」と述べています。
 
  陰府の滅びという絶望から、わたしたちの魂を贖うことができるのは、神のみであります。「取り上げてくださる」とは、旧約聖書の創世記5章24節で「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」と記され、列王記2章で神が預言者エリヤを生きたまま取り上げられたので、エリヤはこの世からいなくなったことを記しています。二人は、この世から神のいますところに取り上げられました。死後も神との交わりに生きる者とされました。
 
  ですから、詩人は信仰者たちに17節でこの世の富める者に富が増し、名誉が加わることをうらやむなと警告しています。
 
  なぜなら、詩人が18-20節で言うように、人は死ぬ時、何ひとつ、この世のものをあの世へと持って行くことはできません。お金と富だけではありません。名誉も携えることができません。この世では、人は名誉を得、祝福を受け、幸せな人であると人々の称賛を浴びても、いつかはわたしたちの先祖たちと同じように、死の門をくぐらなければなりません。そこは陰府という永遠に光のないところです。
 
  現在のわたしたちも、詩人と同じようにお金に頼る人々に囲まれて日々を生きています。まるでお金がわたしたちのすべての望みをかなえてくれると錯覚しそうです。毎日見ているテレビ、インターネット、アイフォーン、新聞や雑誌、お金があれば何でも買えます。あなたの願いはお金でかなえられますと宣伝しています。メールには毎日のように、お金が儲かりました。あなたもお金を得たければ、こちらにメールをしてくださいという怪しいメールが入って来ます。
 
  今のわたしたちは、死を遠ざけ、死を考えないようにし、自分はいつまでも生きていけると思っています。そしてこの世で生きる限り、すべてはお金で解決でき、わたしたちの願うものはお金で手に入れることができると思っています。まるで屠られる牛や羊や牛のように、自分が死ぬことを忘れ、悟ることがありません。
 
  主イエスは、兄弟と財産を分けるためにその仲裁人になってほしいと頼みましたある男に、愚かな金持ちの話をされました。その金持ちは無神論者であり、神を信じないで、お金と財産だけを頼りました。しかし、神はある夜に彼に死を告げられました。その時まで金持ちは、自分の命の代価を、自分のお金と財産で支払うことができないことを知りませんでした。
 
  詩人は、この詩編で死から逃れようとはしてはいません。人が死んで、陰府に行くことは、だれも逃れることができません。詩人がわたしたちに教えているのは、死と滅びから人の魂を救うのはお金ではなく、人の命を贖うことができる神であるということです。
 
  お金は、この世では役立つでしょう。しかし、お金に頼っても、死んだ者に再び命を与えることはできません。しかし、神は、無から世界を創造し、死んだ者に命をお与えになることができます。
 
  神がわたしたちにお与えくださった命こそキリストであります。わたしたちキリスト者は、そのキリストと一つにされました。
 
  聖霊は、このキリストをわたしたちに一つに結び付けてくださいました。こうしてわたしたちは、十字架の道を歩まれ、そして死んで、復活し、神の御国帰られたキリストの御後に従って、今神を礼拝し、神を賛美し、この地上におけるキリスト者の生活を続けているのです。神であるキリストに頼ってこそ、死を越えた永遠の命の希望があります。
 
  お祈りします。
 
  主イエス・キリストの父なる神よ、本日は宗教改革記念礼拝を守りました。わたしたちは、始祖であり、人類の代表者であるアダムの罪により、生まれながら罪人です。それゆえにわたしたちは、罪の刑罰としての死と滅びに定められていました。
 
  しかし、父なる神はわたしたちを憐れみ、御子キリストをわたしたちの身代わりとし、キリストの十字架の死によりわたしたちを罪と死と滅びよりお救いくださり、感謝します。
 
  いつの世もわたしたちの世界は罪の世であり、人は神よりもお金に心を奪われます。
 
  しかし、キリストの十字架の死よって救われたわたしたちが、今朝の詩編の詩人のようにわたしたちの世界の人々に声を挙げて、「人が死から救われるのはお金ではなく、十字架のキリストであり、復活されたキリストによる頼む以外に、わたしたちに死から命の希望のない」と伝えることができるようにお導きください。
 
  今日は世界中のプロテスタント教会で宗教改革記念礼拝がなされ、伝道集会をしている教会もあります。その上に神の豊かな祝福をお願いします。
 
  主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。