詩編説教059 主の2015年7月26日
指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき。
わたしの神よ、わたしを敵から救い出し
立ち向かう者からはるかに高く置いてください。
悪を行なう者から助け出し
流血の罪を犯す者から救ってください。
御覧ください、主よ
力ある者がわたしの命をねらって待ち伏せし
争いを仕掛けて来ます。
罪もなく過ちもなく
悪事をはたらいたこともないわたしを
打ち破ろうとして身構えています。
目を覚まし、国々を罰してください。
悪を行なう者、欺く者を容赦しないでください。 [セラ
夕べになると彼らは戻って来て
犬のようにほえ、町を巡ります。
御覧ください、彼らの口は剣を吐きます。
その唇の言葉が聞くに堪えるでしょう。
しかし主よ、あなたは彼らを笑い
国々をすべて嘲笑っておられます。
わたしの力よ、あなたを見張って待ちます。
まことに神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。
わたしを陥れようとする者を
神はわたしに支配させてくださいます。
彼らを殺してしまわないでください。
御力が彼らを動揺させ屈服させることを
わたしの民が忘れることのないように。
わたしたちの盾、主よ。
口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に
自分の唱える呪いや欺く詞の罠に
彼らが捕らえられますように。
御怒りによって彼らを絶やし
絶やして、ひとりも残さないでください。
そのとき、人は知るでしょう
神はヤコブを支配する方
地の果てまでも支配するかたであることを。 [セラ
夕べになると彼らは戻って来て
犬のようにほえ、町を巡ります。
彼らは餌食を求めてさまよい
食べ飽きるまでは眠ろうとはしません。
わたしは御力をたたえて歌をささげ
朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。
あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場。
わたしの力と頼む神よ
あなたにはほめ歌をうたいます。
神はわたしの砦の塔。
慈しみ深いわたしの神よ。
詩編第59編1-18節
説教題:「わたしの力と頼む神よ」
今朝は、詩編第59編1-18節の御言葉を学びましょう。
この詩編の表題には、この詩編を理解するためのダビデ伝承が記されています。「サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき」と。サムエル記上19章11節の御言葉です。そこにサウル王がダビデの家に人を遣わして見張らせ、翌朝にはダビデを殺させようとしたと記しています。ダビデは、妻ミカルの機転で、その危機を逃れました。その事件を、後にダビデは思い起こし、この詩編を歌ったと、この詩編の表題は推測しているのです。
この事件は、ダビデが妻ミカルの機転で、サウル王の迫害の危機から逃れることができました。しかし、その危機の中で彼が「わたしの力」と依り頼みましたのは、「わたしの神」、主の憐れみでありました。なぜなら、主なる神が妻の機転をお用いになり、ダビデを絶体絶命の危機から救い出してくださったからです。
主は、ダビデにとって、2節では「わたしの神」であり、6節では「あなたは主、万軍の神、イスラエルの神」であり、10節では「わたしの力」であり、「わたしの砦の塔」であり、12節では「わたしたちの盾」であり、18節では「わたしの力と頼む神」であります。このようにダビデは、主なる神を多様な呼びかけでもって、主がダビデの敵からの彼を救い出してくださることを嘆願しています。
ダビデにとって主なる神は、常にダビデの身近にいてくださり、ダビデを憐れみ、愛し、彼をあらゆる危険からお守りくださる神であります。同時に神の民イスラエルと共に臨在し、常に神の民イスラエルを愛し、憐れみ、敵国から守り、保護してくださる神です。
ダビデは、常に主なる神の力強い敵からの守りを信じていますので、主が彼を敵の中から救い出されるだけでなく、敵の手が及ばないところに彼を置いてくださいと祈っています。
3節の「悪を行なう者」「流血の罪を犯す者」とは、サウルです。サウルは、ダビデの命を奪おうと、夜に人を遣わし、ダビデの家を囲みました。
ダビデは、それを見てくださいと、主に訴えています。力ある者、サウルがダビデの命を奪うために、夜の闇に身を隠して待ち伏せをしました。
4節と5節でダビデが次のように「罪もなく過ちもなく 悪事をはたらいたこともないわたしを打ち破ろうとして身構えています」と述べていますね。彼は主に罪がない点で完全であると訴えているのではありません。サウルがダビデを迫害するように挑発をした点が全くないと抗議しているのです。つまり、ダビデは、主にサウルの迫害に身に覚えがないと訴えているのです。
だから、ダビデは、主、万軍の神、イスラエルの神が常に目を覚ましてサウルの悪行を御覧になり、またダビデに敵対する国々の悪行を御覧になり、ダビデを守り、神の民イスラエルを保護し、悪を行なう者、欺く者を罰して、その罪を赦さないでくださいと祈っています。「目覚めて」とは、ダビデが主に行動を促しているのです。ダビデが「わたしの力と頼む神」は、常に目覚めていて行動する神です。ダビデを敵から助けることがおできになり、ダビデの敵を、悪を行なう者を裁く神です。
サウルがイスラエルの国の敵として表現されるのは、彼が悪を行なう者であり、偽りを言う欺く者であるからです。サウルの罪が、主の裁きで神の民イスラエルに災いをもたらしました。事実、イスラエル王国はペリシテと戦い、敗れました。サウルは自決し、彼の息子たちとイスラエルの兵士たちの多くの者たちがペリシテの軍に殺されました。主は、ダビデの「悪を行なう者、欺く者を容赦しないでください」という祈りをお聞きになり、行動されました。
7節と15節の敵の行動が危険な野良犬に喩えられています。野良犬が夜になると、群れて町の中を歩き回っているのです。襲われれば、命を落とす危険がありました。そのようにサウルに遣わされた者たちが、夜の町を歩き回り、ダビデの命を奪おうとしているのです。野良犬が餌を得て、満腹するまで、徘徊を止めないように、ダビデの敵もダビデの命を奪うまで、夜中に町を徘徊するのをやめません。
ダビデは、主に8節でダビデの命を奪おうと、夜の町を徘徊している者たちの呪いの言葉を見てくださいと訴えています。「彼らの口は剣を吐きます」とは、ダビデに向かって聞くに堪えない呪いの言葉を口にしているということです。
9節の主なる神の笑いは、ダビデの敵の計画が失敗することを暗示しています。事実、サウルがダビデを殺すという計画は失敗しました。水も漏らさない計画でした。しかし、主なる神はダビデを守り、彼を陥れようとしたサウルの手からダビデを安全な所に逃れさせられました。
12節の「彼らを殺してしまわないでください」というダビデの祈りは、ダビデが主に敵の命を殺さないように嘆願しているのではありません。14節でダビデは、彼らの滅びを強く願っています。ダビデは彼らが滅びる前に人々への教訓として神の民の御前で苦しみを受け、神の目的に仕えるようにと祈っているのです。
つまり、13節のダビデを呪う傲慢な者たちは、彼らが口にした呪いの言葉に、自らが罠に陥り、身を滅ぼすことになります。それは、主なる神が真実なお方であるからです。主なる神は、呪いの言葉を口にする悪行を行なう者や欺く者のように、人の裏をかくようなことはされません。夜の闇に身を隠して、ダビデの命を奪うようなことをされません。白昼堂々と、主なる神はダビデと契約を結ばれて、「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」という約束を忠実に果たされます。同様に主は神の民イスラエルとシナイ山で結ばれた契約を常に覚えてくださり、「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」という約束を忠実に果たされます。
だからこそダビデは、17節と18節で主なる神を、常にわたしの神、わたしたちイスラエルの民の神として礼拝し、賛美すると誉めたたえています。ダビデにとって礼拝は、彼の身近にいて、彼を守り、導く「わたしの神」主を礼拝し、感謝し、証しし、賛美する場所であります。
ダビデが「わたしの力と頼む神」主は、ダビデにとって苦難の日の逃れ場であり、砦の塔、すなわち、人生の堅固な保護者であり、何よりも慈しみ深いわたしの神であります。すなわち、ダビデに慈しみを賜る神であります。
慈しみとは、ヘセドゥというヘブル語で、「慈しみ」という意味のほかに、「愛」「あわれみ」という意味があります。ヘセドゥは、選ばれた民に対する神の不変の愛を意味しています。ダビデがエルサレムの都にある神の幕屋で主を礼拝しました時、彼にとって主は、イスラエルの民と契約を結ばれ、彼と契約を結ばれたお方です。民も、ダビデも神の契約に不忠実で、一時的に神の裁きを受けることがありました。しかし、主はいつもダビデとの「わたしの神」という関係を変えられず、彼をヘセドゥ、愛され、憐れまれ、慈しみを賜りました。この神の愛は、キリストの選びを通してわたしたちに無条件に与えられています。わたしたちキリスト者にとっても、神は「わたしの力と頼む神」であります。
わたしたちは、人としてわたしたちのところに来られたキリストを、「わたしの力と頼む神」として常に助けをキリストに求めています。ダビデのように自分の力ではどうにもならない者に、援助の手が差し伸べられることが「憐れみ」であります。主イエスは、わたしたちに山上の説教において「憐れみ深い人々は、幸いである。その人たちは憐れみを受ける。」(マタイ5:7)と約束されています。キリスト者としてこの世を生きる上で何事も自分の力では何もできないと思う者は、必ず「わたしの力と頼む神」、わたしたちの助け主キリストに事あるごとにダビデのように助けを祈り求めるでしょう。その時にキリストは聖霊を通してわたしたちに「あわれみ」を差し出してくださいます。ダビデにとって妻の機転が「わたしの力と頼む神」の助けであったように、わたしたちにとりましても、家族の助け、教会の兄弟姉妹たちの助け、見知らぬ隣人の助け等を通して、キリストは今もわたしたちをあらゆる苦難から助けてくださり、「わたしはあなたの神であり、あなたはわたしの民である」という、洗礼において主がわたしたち約束されたことを忠実に果たしてくださっています。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、詩編59編の御言葉を学ぶ機会が与えられ、心より感謝します。
「わたしの力と頼む神」を信じるダビデの信仰を通して、神のヘセドゥを学ぶことができ感謝します。
わたしたちは、ダビデのように自分では何もできない者です。日々の生活で主に助けを求めることがただあります。ダビデを妻の機転で助けられた主は、わたしたちにも同じことをしてくださり、感謝します。神の民イスラエルを選び、ダビデを選ばれたお方は、キリストの選びを通してわたしたちの教会を選び、わたしたちの神となって下さいました。
どうかキリストよ、約束通りわたしたちと共にいてください。あなたの憐れみを日々のわたしたちの生活で見せてください。そして、その喜びを、この教会での礼拝を通して、また交わりを通して証しさせてください。あなたの不変の愛を心から感謝し、賛美させてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
詩編説教060 主の2015年8月23日指揮者によって。「ゆり」に合わせて。定め。ミクタム。ダビデの詩。教え。ダビデがアラム・ナハライムおよびツェバノアラムと戦い、ヨアブが帰って来て塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき。 神よ、あなたは我らを突き放し 怒って我らを散らされた。 どうか我らを立ち帰らせてください。 あなたは大地を揺るがせ、打ち砕かれた。 どうか砕かれたところを癒してください。 大地は動揺しています。 あなたは御自分の民に辛苦を思い知らせ よろめき倒れるほど、辛苦の酒を飲ませられた。 あなたを畏れる人に対してそれを警告とし 真理を前にして その警告を受け入れるようにされた。 [セラ あなたの愛する人々が助け出されるように 右の御手でお救いください。 それを我らへの答えとしてください。神は聖所から宣言された。 「わたしは喜び勇んでシケムを分配しよう。 スコトの野を測量しよう。 ギレアドはわたしのもの マナセもわたしのもの エフライムはわたしの頭の兜 ユダはわたしの采配 モアブはわたしのたらい。 エドムにわたしの履物を投げ ペリシテにわたしの叫びを響かせよう。」 包囲された町に 誰がわたしを先導してくれるのか。 神よ、あなたは彼らを突き放されたのか。 神よ、あなたは 我らと共に出陣してくださらないのか。どうか我らを助け、敵から救ってください。 人間の与える救いはむなしいものです。 神と共に我らは力を振います。 神が敵を踏みにじってくださいます。 詩編第60編1-14節 説教題:「敵から救ってください」 今朝は、詩編第60編1-14節の御言葉を学びましょう。この詩編は、すでに学びました詩編44編とテーマが同じであります。主なる神に敵から救いを求めるイスラエルの神の民の祈りです。 「『ゆり』に合わせて」という表題は、詩編45編1節にありました。「ゆり」という曲名の歌があり、その歌の旋律に合わせて、この詩編を歌いなさいという指示であります。 「定め」とは、「諭し」あるいは「証し」と訳される言葉です。歴史的な神の約束の言葉を意味しており、8-10節の神の託宣の言葉を指していると考えられます。 この詩編の背景は、サムエル記下8章と歴代誌上18章です。ダビデは、ペリシテ、アラム、エドム等の周辺諸国と戦っていました。そこではダビデの勝利だけが記録されています。「アラム・ナハライム」とは、アラム軍のことであり、「ツォバのアラム」とは、アラムの地名であります。ダビデが北でアラム軍と戦っているときに、南でエドム人が攻めて来ましたのでヨアブがエドム人との戦いで勝利し、イスラエル王国とエドムとの国境にある塩の谷でヨアブに率いられたイスラエル軍がエドム人1万2千人を打ち取りました。 表題の歴史的事件と詩編60編の3-6節と11-14節の御言葉がうまくかみ合わないのです。表題はダビデの勝利を記していますが、この詩編の本文は戦いに敗れた神の民イスラエルが、主なる神に敵からの救いを祈り求めています。 それから7-14節の御言葉が、そっくりそのまま108編の7節b-14節で出て来ます。8-10節の神の信託は、主なる神がエルサレムの幕屋でダビデに約束された御言葉であります。 サムエル記下の8章は、ダビデの戦果として勝利しか記してはいませんが、戦いの過程で負け戦もあったでしょう。戦後70周年、太平洋戦争で日本はアメリカ連合軍に敗れました。戦果として敗戦でした。しかし、その過程においてしばしば勝利しました。ダビデもアメリカ連合軍と同じです。最後は勝利したのですが、しばしば負けることもありました。ダビデが北でアラムと戦っている時に、南でエドムがイスラエルに戦いを仕掛けて来ました。敵に挟み撃ちにあうという危機に陥りました。アラムはエドムが南からイスラエルに攻撃を仕掛けたことを聞いて力を得、ダビデは一時戦局が不利になったのではないでしょうか。 ダビデにとって戦いは、主の戦いであり、信仰の戦いでした。ダビデがペリシテのゴリアトと一騎打ちをしましたとき、彼はゴリアトに次のように言いました。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう」(サムエル記上17:45)。ダビデとイスラエルの神の民にとって戦いの勝利は神の助けを得た結果であり、戦いの敗北は神の助けを得られなかった結果でありました。 だから、3-6節はダビデが神の助けを得られない敗戦の中で、神に敵からの救いを祈り求めているのです。神がダビデたちを突きはなされたとは、棄てられたということです。だから、ダビデたちは敵との戦いで破れてしまいました。 神の怒りがダビデたちに臨み、ダビデたちは敵との戦いに敗れて、四方に散らされてしまいました。ダビデは、神に敗北の苦しみの中で「どうか我らを立ち帰らせてください」と祈りました。ダビデは、神の怒りが自分たちに向けられていることを強く意識しています。と同時にダビデは神以外にこの状況を変えることができないことを確信しています。だから、彼は一心に神に赦しを乞い、神の民が神との間に和解を得て、敵との戦いに勝利することを祈ります。 ダビデたちにとって一時的であっても、敗戦は大地を揺るがす地震と同じです。敵に敗北することで、イスラエルの民の心は大きく揺り動き、動揺しました。 そして、この敗北は、神が歴史において神の民に教訓を与えるためでありました。5節のダビデの御言葉は、ダビデの死後およそ500年、イスラエルの民がバビロンに捕囚された時に実現しました。南ユダ王国は、主なる神によって滅びました。主なる神は、バビロンを御自身の裁きの器に用いて、エルサレムの都と神殿を破壊し、民たちをバビロンに捕囚しました。 そして、70年後にバビロン捕囚されたイスラエルの民は、ペルシャの王キュロスによって解放され、エルサレムの都に帰還し、都と神殿を再建しました。バビロン捕囚は、神を畏れる神の民にとっては警告となりました。 わたしたちに不幸が臨むのであれば、それは神から来たのであるというのが、わたしたちの信仰です。そしてわたしたちがそれを神の怒りの結果であると知る時に、わたしたちは神からの教訓と警告を受け取ることになるのです。 神から教訓と警告は、わたしたちにとっては苦しみ以外の何ものでもなく、耐えがたいことであるでしょう。しかし、ダビデはわたしたちに7節で次のように希望を語ります。たとえ神の民は、神の怒りにより敗北と悲しみを歴史的教訓として受け入れたとしても、悲しみと滅びの中に沈むのではなく、神を畏れる者を、神は愛されているという希望の中に立たされると。神は、神の民に教訓を与えるだけではなく、彼らを愛し続けてくださいます。だから、ダビデは神の愛を根拠にして、わたしたちを敵から救ってくださいと祈るのです。そして、神がダビデたちを敵から救われることこそ、神が神の民イスラエル愛されているということの応答でありました。 さらにダビデが神に敵からの救いを祈ることができる根拠を、次の8-10節の神の託宣に置いています。神は、神の民イスラエルに彼らがカナンの地を支配することを約束されました。「神は聖所から宣言された」という言葉は、「神はその聖において約束を破るようなことはなされない」という意味を含んでいます。だから、この神の託宣、約束の言葉を根拠にして、ダビデは11-14節でもう一度神に敵からの救いを祈るのです。 戦いは、神の助けがなければ、勝利に導かれることはありません。だから、ダビデは、神に向かってエドムとの戦いに神はだれを一緒に働かせてくださいますかと祈るのです。エドム人の知恵によって鉄壁に守られた難攻不落の町を、人が陥落させることは不可能と思えました。人の力を頼っては、エドムの町は落とせません。しかし、ダビデは神には不可能がないと信じています。だから、神に共に出陣してくださるように祈るのです。 わたしは、ダビデの祈りを聞いていまして、主イエスと金持ちの青年のお話を思い起こしました。金持ちの青年が主イエスとの対話で失望し、悲しみながら去った後で、主イエスは弟子たちに「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。弟子たちはそれを聞いて、大変驚きました。そして、彼らは主イエスに言いました。「それでは、だれが救われるだろうか。」主イエスは弟子たちを見つめて答えられました。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と(マタイ19:23-26)。 神の民とは、人間の限界を知り、神の無限の力に信頼する者であります。この世の敵とはサタンでありますが、わたしたちの目には見えません。見える最後の敵は、死であります。これだけは、わたしたちが人の助けで何とかできるものではありません。死だけは、人の救いは本当に空しいのです。死に対して勝利する道は、主イエス・キリストの復活以外にありません。復活されたキリストが、聖霊を通してわたしたちと共にいてくださり、神の神殿とされたこの体がキリストの死の体が復活させられたように、わたしたちの体も復活させられる。それによって死が神に踏みにじられない限り、わたしたちが死というこの地上の最後の敵に打ち勝つ道はありません。 神と共にわたしたちは力を振い、死から復活する。これは人の助けでは不可能ですが、主イエス・キリストを死人の中から復活させられた神には不可能ではありません。イエス・キリストの父なる神は、わたしたちを愛してくださっていますので、必ずわたしたちを死から永遠の命に復活させてくださいます。 お祈りします。 イエス・キリストの父なる神よ、詩編60編の御言葉を学ぶ機会が与えられ、心より感謝します。 「わたしたちを敵から救う神」は、わたしたちをキリストにあって死から永遠の命を与えてくださる神であることを学ぶことができ感謝します。 ダビデが苦境の中で神に救いを求め、敵からの救いを祈りながら、人の救いの空しさを知り、神の救いに不可能のないことを確信しました。ダビデの確信は、主イエス・キリストによって確認されました。 この世の中でわたしたちが目に見える最後の敵は死です。死だけは、人のどんな助けも空しくなります。死んだ者をわたしに返してくださいと言われても、人は誰も死んだ者を生き返らせることはできません。 しかし、父なる神は御子イエス・キリストを通して、わたしたちを愛し、キリストの死からの復活により死に勝利し、わたしたちに永遠の命の道を開いてくださいました。 キリストはわたしたちに約束してくださいました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と(ヨハネ11:25-26)。どうか、主イエスよ、約束通りわたしたちを死から永遠の命へと復活させてください。そして神の愛の真実を、世の人々に証ししてください。 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
詩編説教061 主の2015年9月27日 指揮者によって。伴奏付き。 ダビデの詩。 神よ、わたしの叫びを聞き わたしの祈りに耳を傾けてください。 心が挫けるとき 地の果てからあなたを呼びます。 高くそびえる岩山の上に わたしを導いてください。 あなたは常にわたしの避けどころ 敵に対する力強い塔となってくださいます。 あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り あなたの翼を避けどころとして隠れます。 [セラ神よ、あなたは必ずわたしの誓願聞き取り 御名を畏れる人に 継ぐべきものをお与えになります。 王の日々になお日々を加え その年月を代々に永えさせてください。 慈しみとまことに守られますように。 わたしは永遠にあなたの御名をほめ歌い 日ごとに満願の献げ物をささげます。 詩編第61編1-9節 説教題:「敗戦後の新たな希望」 今朝は、詩編第61編1-9節の御言葉を学びましょう。「伴奏付き」とは、この詩編が礼拝の讃美歌のように、弦楽器、すなわち、立琴に合わせて神殿の礼拝で歌われたということです。 この詩編は、ダビデの詩であります。彼が逆境にある時に主なる神に賛美しました。 ダビデは、神に叫びました。「神よ、わたしの叫びを聞き わたしの祈りに耳を傾けてください」と。 宗教改革者カルヴァンは、このダビデの「叫び」を「ある激しい感情のことである」と言っています。ダビデの心の底から出て来る金切り声であります。ダビデは、全身で大声を張り上げて、祈りました。 カルヴァンは、次のように述べています。「わたしとしては、これをアブサロムの陰謀の時期と結びつける人々の意見に従うことで、満足しよう。なぜならば、彼が国土の最遠の境界、このような叫び声を挙げるには、追放され亡命中であることが、どうしても必要であるからである」(旧約聖書詩編注解 詩編Ⅱ)と。 アブサロムはダビデの3男であります。彼は、妹のタマルが兄アムノンに辱められたので、復讐をし、兄を殺しました。その後ダビデに罪を赦されて、エルサレムに戻りましたが、父ダビデから王位を奪おうとしました。ダビデは、僅かな家臣を連れて、エルサレムの都を脱出し、ヨルダン川を渡り、ベニヤミン族の嗣業の地であるマハナイムまで逃亡しました。 エルサレムの神の幕屋の大祭司ツァドクとアビアタルは、神の箱を持ち出して、ダビデと共に逃亡をしようとしました。しかし、ダビデは彼らに言いました。「神の箱は都に戻しなさい。わたしが主の御心に適うのであれば、主は連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう」(サムエル記下15:25)と。 ですから、3節の「地の果て」とは、神から遠い地、あるいは遠い状況を暗示しています。神の箱が置かれていますエルサレムの神の幕屋から遠く離れた地で、ダビデはエルサレムの都の方角に向かって、心の底から金切り声を出して主なる神に祈りました。 祈るダビデの心は弱り果てていました。信仰者であるダビデにも、「心が挫けるとき」がありました。ダビデの霊と心が弱り、ダビデは命の危険の中にいました。そこから彼を救うことができるのは、主なる神以外にありません。だから、ダビデは全身で、心の底から声を張り上げて、主なる神に祈り、主なる神に祈るダビデの声を聞き届けてくださいと叫んだのです。 ダビデが4節で「高くそびえる岩山の上にわたしを導いてください」と祈りますのは、エルサレムの都に戻してくださいという祈りであります。ダビデは、都落ちをしたときに、主なる神の御心に適うのであれば、再びエルサレムの都に戻り、神の箱が安置されている聖所で主なる神を崇めることができると信じていました。 ですから、ダビデは、今心が挫けてしまい、自分で自分を救うことができません。自力でエルサレムの都に戻る気力もありません。ただ主なる神が自分に力を貸してくださり、今、ダビデにとっては登れない高い山のようなエルサレムの都に、主なる神が彼を導いてくださいと祈るのです。 4節と5節で、ダビデは主なる神への信頼を告白しています。このダビデの神信頼こそが、今心が挫けた中でもダビデが主なる神に助けを祈る事のできる原動力です。 祈りと人への頼みごとを混ぜこぜにできませんが、わたしは似ていると思うのです。祈りも頼みごとも、信頼がないとできない行為でると思います。神に信頼するから、わたしたちは祈りますし、親や友人を信頼するから頼みごとをします。 ダビデの生涯は苦難の多い生涯でした。サウル王のねたみと迫害、息子アブサロムの反逆と友人アヒトフェルの裏切り、近隣諸国の敵対」と、彼の生涯は戦いでありました。そして、常に命の危機にあるダビデを、主なる神が避けどころとなり、塔となり、お守りくださいました。ダビデは、すべてを神の保護の中に身を委ねて生きました。 神への信頼と神の保護に身を委ねたダビデに、5節で新たな希望が芽生えました。エルサレムの都に戻り、神の幕屋にとこしえに宿るという希望です。彼は、雛鳥が親鳥の翼の陰に身を隠すように、神の保護の中に自分を置くことを決心しています。 祈りも頼み事も、信頼と確信がないと続かないのです。心挫けていたダビデが、それでも祈り続けたのは、彼に主なる神への信頼と神は必ず彼の祈りを叶えてくださるという確信があったからです。 だから、ダビデは、6節で「神よ、あなたは必ずわたしの誓願を聞き取り、御名を畏れる人に 継ぐべきものをお与えになります」と賛美しています。ダビデは、神はダビデのように神を信頼している者の祈りを必ず聞き届けてくださると確信していました。 使徒ヤコブが次のように確信を持って祈るように勧めています。「あなたがたの中に知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えくださる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わす、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。」(ヤコブ1:5-7)。 7節と8節は王への祈りです。神の民イスラエルにとりまして、王の存在と務めは重要でありました。3人称の祈りであるので、ダビデが祈っていると思うと、少し違和感を覚えるかもしれません。しかし、9節でダビデは、うまく日本語に訳されていませんが、「かくてわたしは」と賛美しています。7節と8節をダビデは祈り、「かくてわたしは、永遠にあなたの御名をほめ歌います」と賛美しています。 7節と8節の王への祈りは、サムエル記下7章で主なる神が預言者ナタンを通してダビデに「あなたの家とあなたの王座とは、わたしの御前に永遠に続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」と約束されました。 ダビデは、主なる神の約束に基づいて王への祈りを口にしました。神が恵みによってダビデの王座をとこしえに支えてくださると約束してくださいました。ダビデは、神の約束と恵みに支えられて、日々イスラエルの王として生きることが許されました。 しかし、わたしたちは、知っています。今ダビデ王は存在しません。墓で休んで、復活の日を待ち続けています。神の御前で永遠に王座に就かれたのは、復活のイエス・キリストです。ダビデの王への祈りは、復活のイエス・キリストによって実現しました。キリストは、父なる神の右に座されて、恵みと慈しみにより世の終わりまでわたしたちの世界を支配されています。 キリストは、天より心挫けるわたしたちに聖霊をお与えくださり、わたしたちの弱さを励まし、力づけ、わたしたちの目には天の御国ははるか高くそびえる高い山のようでありますが、日々わたしたちを守り、導いてくださっています。 ですから、わたしたちは、ダビデと共に9節で「かくてわたしはほめ歌おう」と喜び賛美しましょう。聖書に啓示された神の御名を、父と子と聖霊の三位一体の神を、その神の御救いをほめたたえましょう。そしてわたしたちは、洗礼と信仰告白の時に神に誓約したことを、今日の礼拝を通して果たそうではありませんか。 まことに心挫ける者であり、知恵に欠けた者でありますが、主に聖霊を祈り求め、聖霊に助けられて、礼拝で語られる神の御言葉を理解し、毎月の聖餐の恵みにあずかり、励まされて、祈りつつ、御国へと主に導かれて歩んで行きましょう。 お祈りします。 イエス・キリストの父なる神よ、詩編61編の御言葉を学ぶ機会が与えられ、心より感謝します。 昔の神の民イスラエルは、主なる神が立てられた王によって守られ、主を礼拝し、御国に導かれました。 しかし、王であるダビデは、心挫かれる弱い者であります。神への信頼と祈りが聞かれるという確信、そして神の御言葉の約束だけが、彼を祈りの人であり続けさせました。 この世の中でわたしたちキリスト者も、心挫ける者です。わたしたちの王であり、父なる神の右に座されている主イエス・キリストへの信頼とキリストがわたしたちの祈りを聞き届けてくださるとの確信と主の約束の御言葉だけが、どんなときにもわたしたちを祈りの人であり続けさせてくれます。 たとえサタンに翻弄されて、わたしたちがこの教会に失望しようと、復活のキリストは、慈しみ深く御自身の十字架を通してわたしたちに御国の道を開いてくださいました。だから、わたしたちはどんなに心が挫けても、キリストを信じて、聖霊により頼み、御言葉の約束に基づいて常に祈り続けて、御国に向けて歩み続けさせてください。 いろんな事情で今御言葉が聞けなくなり、聖礼典を奪われ、聖餐にもあずかれず、わたしたちと共にここで礼拝を守れない者たちも、神から遠く離れている者も、今朝のダビデの祈りのように、聖霊よ、どうか心の底から主に向けて叫ぶことができるようにしてください。 この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
詩編説教063 主の2015年11月22日
賛歌。ダビデの詩。ダビデがユダの荒
れ野にいたとき。
神よ、あなたはわたしの神。
わたしはあなたを捜し求め
わたしの魂はあなたを渇き求めます。
あなたを待って、わたしのからだは
乾ききった大地のように衰え
水のない地のように渇き果てています。
今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み
あなたの力と栄えを見ています。
あなたの慈しみは命にもまさる恵み。
わたしの唇はあなたをほめたたえます。
命のある限り、あなたをたたえ
手を高く上げ、御名によって祈ります。
わたしの魂は満ち足りました
乳と髄のもてなしを受けたように。
わたしの唇は喜びの歌をうたい
わたしの口は賛美の声をあげます。
床に就くときにも御名を唱え
あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。
あなたは必ずわたしを助けてくださいます。
あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。
わたしの魂はあなたに付き従い
あなたは右の手でわたしを支えてくださいます。
わたしの命を奪おうとする者は必ず滅ぼされ
陰府の深みに追いやられますように。
剣にかかり、山犬の餌食となりますように。
神によって、王は喜び祝い
誓いを立てた者は誇りますように。
偽って語る口は、必ず閉ざされますように。
詩編第63編1-12節
説教題:「神へのあこがれ」
今朝は、今お読みしました詩編第63編1-12節の御言葉を学びましょう。詩編は全部で150編ありますが、その中で最も神に親しく話しかけているのは、この詩編であると言われています。
ダビデがユダの荒れ野にいたときに、この詩編を歌ったと、見出しに説明があります。旧約聖書のサムエル記上23章14節に「ダビデは荒れ野のあちこちの要害にとどまり、また、ジフの荒れ野の山地にとどまった。サウルは絶え間なくダビデをねらったが、神は彼をサウルの手に渡されなかった」と記しています。見出しの説明は、この御言葉に基づいてこのダビデの詩編を理解し、瞑想するように、そしてわたしたち読者がダビデの信仰の恵みの体験を追体験できるように導こうとしております。
この詩編でダビデは、彼の信仰生活の過去と現在と未来を歌っています。2節は過去です。ダビデは、ユダの荒れ野での神へのあこがれを歌っています。3-9節は現在です。今ダビデは、ユダの荒れ野で神を愛し、強くあこがれた神に聖所で出会っています。彼は聖所で臨在の神の栄光と御力を見ました。自分の命にまさる神の慈しみを体験し、その神の翼の陰に生き、楽しみ、満たされ、その神を信頼し、その神に支えられる喜びを味わっています。10-12節は未来です。過去と現在においてダビデに敵対する者を、未来において神は滅ぼされ、ダビデに神に祝福された王の喜びを賜るでしょう。
2節の「神よ、あなたはわたしの神」というダビデの信仰告白は、彼がどんなに深く神を愛し、彼の全存在でもって神を信頼しているかを、言い表しています。これ以上の神との親しい関係というのはありません。
ダビデは神を「わたしの神」と愛するので、彼の魂が強く神にあこがれるのです。彼の魂が愛する神との交わりに飢え渇いているので、彼の魂と一体である彼のからだもまた、「あなたを待って」、すなわち、神との愛の交わりにあこがれて、まるで乾いた砂漠が水を渇き求めるように、求めても決して満たされないように、彼のからだが彼の魂と共に、神へのあこがれで疲れ果ててしまいました。
2節は、ダビデがサウルの迫害でユダの荒れ野をあちこちと転々と逃げ回り、神から離れた彼の生活を、水を求める「乾ききった大地の衰え」にたとえているのです。
ダビデの神へのあこがれは、3節で「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み あなたの力と栄えを見ています」と、満たされました。
ダビデがユダの荒れ野で彼の魂とからだで神へのあこがれに飢え渇いたことが、今、聖所で満たされているのです。
聖所には、契約の箱が安置され、そこに神が臨在され、神の民は神と出会うことができました。「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み あなたの力と栄えを見ています」というダビデの賛美は、彼が今聖所で神と会見したという喜びの賛美です。
ダビデは、詩編第11編7節で「主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる」と賛美しています。別の聖書の翻訳を見ますと、「心のまっすぐな者は主の顔を仰ぎ見る」(フランシスコ会訳聖書)となっています。後者の方が正しい訳だと思います。主の顔を見ると、見た者は死ぬと、旧約聖書にあります(出エジプト記19:21、士師記6:22他)。逆に神を見て死なない者は、神に罪を赦された義人、心のまっすぐな者です。
ダビデは、今聖所で死ぬことなく、神に出会っています。それは、神の慈しみにより恵みに生かされているからです。だから、神の慈しみはダビデの命にまさる恵みです。
ダビデが聖所で神に出会うことは、わたしたちキリスト者が礼拝で主に出会うことと同じです。わたしたちも礼拝で神の力と栄えを見ているのです。それは、キリストの十字架と復活であります。わたしたちは、礼拝ごとに御言葉と礼典を通してキリストの十字架と復活による神の御救いと神の栄光を信仰の目を通して見ています。そして、ダビデと同じように「あなたの慈しみは命にまさる恵み」を体験しているのです。すなわち、「わたしは神の恵みによって生かされているのだ」という喜びの信仰体験であります。
この礼拝における喜びの体験こそが、神賛美をわたしたちの人生の目的にしているのです。だから、ダビデは5節で「命のある限り、あなたをたた」と賛美しています。そして、ダビデは、神賛美から「御名によって祈り」へと導かれています。ダビデは、神賛美によって神の慈しみに対する感謝を言い表し、その感謝の応答として、自らを神に捧げ、神の御心に適うようにと、「御名による祈り」に導かれました。
聖所の礼拝で、ダビデの魂は満たされました。6節の「乳と髄のもてなしを受けたように」の「乳と髄」は、脂肪と髄です。これは、神にささげられるいけにえの部分であり、最上の食物の象徴でありました。ダビデは、聖所で神の慈しみという最上の食物でもてなされ、彼の魂は満たされ、それが彼の神賛美の根拠となりました。
わたしは、ダビデの6節の御言葉から御言葉と聖餐式をイメージしました。毎週礼拝でわたしたちは、主に御言葉でもてなされています。それによってわたしたちの魂が満たされています。そこから神賛美が礼拝において力強く歌われています。聖餐式は、主イエスがわたしたちを御自身の食卓にお招きくださることです。主の御言葉に添えられたパンとぶどう酒のもてなしを受けて、わたしたちの魂だけでなく、わたしたちの体も神の慈しみに満たされます。「わたしたちは心も体も主の恵みによって生かされている」という喜びを体験します。その喜びがあふれて神賛美となります。
ダビデは、聖所での喜びが日々の生活におけるデェボーションへとわたしたちを導くことを教えています。7節です。ダビデは夜床に就きます時、「御名を唱え」ました。神に祈り、夜を過ごしました。ダビデは、夜寝る前に神を瞑想したのです。ダビデの瞑想は、祈りを口ずさむことであり、ダビデはおそらく聖所での喜びの体験を思い起こしながら、祈りを口ずさんだでしょう。そして、ダビデは、聖書の神の約束を彼の祈りで確信したでしょう。
毎夜のダビデのデェボーションは、神の助けへの信頼を高めてくれました。ダビデは神の翼の陰に、すなわち、神に日々を守られて生き、神を喜び歌い、日々神に満足し、神により頼み、まるで母親に抱かれた赤ん坊のように、神の御手に抱かれて人生を歩める今を、心から感謝しています。
10節と11節は、ダビデの命を奪おうとした者への神の裁きを歌っています。ダビデは、敵に対する復讐をすべて神に委ねています。府陰の深みとは地の深い所であり、滅びを言い表しています。「山犬の餌食」とは、死んでも葬られないことを言い表しています。葬られないことは不名誉なことでありました。
12節の「神よって、王は喜び祝い」とは、ダビデ自身ことです。ダビデは、神によって羊飼いからイスラエルの王とされました。ですから、ダビデは神から委託されて、神に支えられて王国を統治していると自覚していたでしょう。イスラエルの王は、王に即位する時に神に忠誠を誓約しました。ダビデは誓約を守る王を、神は守り支え、誓約を守らない王を退けられると戒めています。
わたしたちも、洗礼式で誓約をしました。その誓約を守り、礼拝生活を続けるときに、主はわたしたちの信仰を守り、さらに確信するように導いてくださいます。
どうか、一週間今朝の詩編の御言葉を繰り返し口ずさみ、心に刻みつけてください。わたしたちの心がダビデのように神へのあこがれを求め、わたしたちの礼拝で自分の心とからだが満たされるように、祈っていください。わたしたちが礼拝ごとに神の御言葉を聞き、洗礼と聖餐にあずかり、わたしたちが今神の恵みに生かされているという喜びに満たされるなら、わたしたちの口に神賛美が生まれ、神への感謝の応答としての祈りにわたしたちは励み、わたしたちは主の礼拝から日常生活でのデェボーションにつながり、また主の日の礼拝へと導かれる祝福された礼拝人生を生きることができます。その中でわたしたちは神を愛し、喜び、神に信頼し、神に守られ、支えられ、魂とからだが満たされた神の祝福の高みへと導かれるでしょう。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、詩編63編の御言葉を学ぶ機会が与えられ、心より感謝します。
ダビデは、「神よ、あなたはわたしの神」と信仰告白し、神との親しい交わりを求めました。乾いた砂漠が水を求めるように、彼は魂と体で神にあこがれました。
ダビデの愛する神は、聖所でダビデに会われ、御自身の慈しみと栄光を示されました。ダビデは、聖所で神の恵みに生かされている喜びを体験し、心から神賛美をし、神に信頼して祈り、日々神を瞑想して信仰生活を歩みました。
わたしたちも、ダビデの信仰に倣うことができるように、聖霊の導きをお願いします。毎週の礼拝で、御言葉と礼典を通して神の慈しみと栄光にあずからせてください。わたしたちの日常生活が神の御言葉から離れるのではなく、むしろ、日々に神の御言葉を瞑想できるようにしてください。
どうかダビデのように、過去のわたしたちに対する神の恵み、今現在にわたしたちが主の臨在の中に生きることができるように、そして、未来においてキリストの再臨と最後の神の審判に信仰の目を向けて歩ませてください。
次週からアドベントに入ります。クリスマスを準備し、再臨のキリストを心から待ち望ませてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
詩編説教064 主の2015年12月27日
指揮者によって。賛歌。
ダビデの詩。
神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。
敵の脅威からわたしの命をお守りください。
わたしを隠してください。
さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから。
彼らは舌を鋭い剣とし
毒を含む言葉を矢としてつがえ
隠れた所から無垢な人を射ようと構え
突然射かけて、恐れもしません。
彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け
「見抜かれることはない」と言います。
巧妙に悪を謀り
「我らの謀は巧妙で完全だ。
人は胸に深慮を隠す」と言います。
神は彼らに矢を射かけ
突然、彼らは討たれるでしょう。
自分の舌がつまずきのもとになり
見る人は皆、頭を振って侮るでしょう。
人は皆、恐れて神の働きを認め
御業に目覚めるでしょう。
主に従う人は主を避けどころとし、喜び祝い
心のまっすぐな人は皆、主によって誇ります。
詩編第64編1-11節
説教題:「神へのあこがれ」
今年最後の主の日の礼拝で、今お読みしました詩編第64編1-11節の御言葉を学びましょう。
この詩編64編は、ダビデ個人の嘆きの歌です。ダビデが神に救いを祈り求めた歌です。2―3節は、ダビデが神に呼び掛けています。彼は、神に悪人たちからお救いくださいと祈ります。4-7節は悪人たちの描写です。8-10節はダビデの敵、悪人たちへの神の審判です。11節は、主に従う人、心まっすぐな人への祝福です。
ダビデには、今敵の脅威に身に迫っています。サウル王の迫害か、息子アブサロムの反逆か、他に彼の敵たちがおり、彼に危険が迫っていたのか、ダビデが神に悩みを訴える状況は、定かではありません。しかし、2-3節のダビデの祈りは、ダビデにとって命の危険が迫っていました。
だから、ダビデは神に祈りました。「神よ、悩み訴えるわたしの声をお聞きください。敵の脅威からわたしの命をお守りください。わたしを隠してください。さいなむ者の集いから、悪を行う者の騒ぎから」と。
2節の「悩み訴えるわたしの声を」という言葉は、「悲嘆の中のわが声」であります。ダビデの今の現実は、悲嘆の中にありました。サウルの迫害で荒れ野の中をさまようダビデを想像することができますし、息子アブサロムと友であるアヒトフェルの裏切りでエルサレムの都から落ち延びたダビデを想像することができます。
3節の「さいなむ者の集い」と「悪を行う者の騒ぎ」とは、2節の「敵の脅威」のことであり、悪人たちが徒党を組んでダビデの命を狙って、今彼に迫っている状況を、ダビデが描写しています。ダビデの命は、まさに風前の灯火です。
だから、ダビデは祈っているのです。「神よ、わたしの声を聞いてください。わたしを隠してください」と。神がダビデの声を聞いて、彼を敵から彼を隠してくださることが、ダビデの救いです。なぜなら、神がダビデの声を聞いて、行動を起こされるからです。神はダビデを敵から隠されます。すなわち、神がダビデを敵から守られるのです。
だから、ダビデの祈りは、彼の祈りが神に聞かれ、救われることを求める願いなのです。ダビデは、敵たちの脅威から神が行動を起こして、彼を守ってくださることを切に求めているのです。
4-7節は、ダビデが彼の敵について、次のように描写しています。「彼らは舌を鋭い剣とし 毒を含む言葉を矢としてつがえ 隠れた所から無垢な人を射ようと構え 突然射かけて、恐れもしません。彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け 『見抜かれることはない』と言います。巧妙に悪を謀り 『我らの謀は巧妙で完全だ。人は胸に深慮を隠す』と言います。」
ダビデの敵たちは、言葉でダビデを攻撃しました。ダビデの心を傷つけ、彼を絶望に追い込むために、彼に矢のように言葉を射かけました。5節に悪人の振る舞いを、ダビデが描いています。5節の「無垢な人」とは罪なき者のことです。悪人たちは、隠れて罪のないダビデを、突然敵意ある言葉によって危害を加えました。具体的には、王国における彼の王としての立場と彼の安全を危うくしました。ダビデを失墜させようとしました。悪人たちは神を恐れずに、ダビデを攻撃しました。
6-7節は、悪人たちの心の思いです。彼らは、神を恐れずに悪事を企みました。だから、彼らは悪事にたけ、共謀して計画に計画を重ねてダビデに罠を仕掛けました。だから、悪人たちは誰にも彼らの悪事を見ぬかれないと驕っていました。彼らの悪事は完全でした。そして、悪人たちの悪事は、「人は胸に深慮を隠す」ものでした。すなわち、彼らの悪事が底知れぬ不気味な者でありました。
8-10節は、ダビデが悪人たちに対する神の審判を描いています。「神は彼らに矢を射かけ 突然、彼らは討たれるでしょう。自分の舌がつまずきのもとになり 見る人は皆、頭を振って侮るでしょう。人は皆、恐れて神の働きを認め 御業に目覚めるでしょう。」
ダビデは、神が悪人たちになさろうとしている裁きを描いています。神は、ダビデの祈りに応えてくださいました。悪人たちの悪事に介入されました。そして、神もまた、悪人たちが突然、ダビデに言葉の矢を射かけたように、突然悪人たちを矢で射かけられました。それは、悪人たちが口にした言葉を、彼らが破滅する道具にされました。悪人たちが罪のないダビデに悪事を仕掛けて、彼を滅ぼそうとした事が、彼ら自身の定めとされました。悪人たちは隠れて悪事を謀りました。しかし、神の裁きによって人の目に明らかとされ、人々は悪人たちの悪事を嘲りました。そして神が審判によって悪人たちを滅ぼされたのを見て、人々は心の底から神を恐れました。神の審判は、神の義の働きです。ダビデは、神は存在し、悪人を裁き、滅ぼすことで、神の義の御業を為されています。
10節は、新共同訳聖書のように訳している日本語の聖書は少数派です。たとえばフランシスコ会訳聖書は、「そして、すべての人は恐れ、神の業を宣べ伝え、その行われたことを悟る」と訳しています。こちらの訳の方が多数派です。
多数派の訳に従えば、ダビデはすべての人が悪人たちとは異なり、神を恐れて神の審判を世の人々に告げ知らせ、神が行われた義の御業を理解したと賛美しています。
この世のすべての人が神の審判を通して義を行われる神を恐れ、人々が神の義の御業を理解したので、11節でダビデは、次のように神の民たちに命じています。すなわち、「主に従う人」と「心真っ直ぐな人」とは、神の民であります。神の民は、主のゆえに喜びなさい、主を信頼して、主のところに身を寄せなさい、そして、心から主を誇り、賛美しなさいと。
クリスマスを終えて、わたしたちは今、新しき年、2016年を迎えようとしています。再臨にキリストを待ち望み、新しき年を迎えます。
同時にわたしたちは、今年1年を振り返ります。IT革命によりインターネットが世界中に広まりました。スマートホンはとても便利なものです。しかし、インターネットは、わたしたちを見えない敵、言葉の暴力という危険にさらしています。教会のパソコンのメールのほとんどは、迷惑メールです。多い日には百通近くあります。消さないと、大変なことになります。
インターネットの特徴は、匿名であることです。インターネットで簡単に誰とでも通信ができます。しかし、こちらも相手も身元を明かすことは危険です。匿名でやり取りをします。よく突然、大量の悪意あるメールが送られ、開いたホームページやブロウグが炎上したという話を聞きます。見えない敵は巧妙にインターネットを通して、メールという言葉でわたしたちを攻撃してきます。最近はサイバー攻撃という言葉を耳にします。インターネットの戦争です。
また、言葉の悪事は、インターネットを通してだけではあいません。今年もオレオレ詐欺がさらに巧妙となりました。毎日テレビや新聞で取り上げられました。息子や孫になりすまし、巧みに老人からお金をだまし取る者が減るどころか、増えています。老後の不安を覚える者たちに巧みに融資を持ちかけて、お金をだまし取る者たちも後を絶ちません。
言葉の悪事は、突然、隠れた所から罪ない者に射かけられます。彼らは共謀して悪事をなし、弱い者から命の次に大事な金を奪い取るのです。神を恐れず、自分たちの悪事が見破られるとは思ってもいません。
しかし、神は今でも、存在され、悪人たちの悪事を御覧になり、彼らに審判を突然に下されます。わたしたちは再臨のキリストが、すべての人の前で悪人たちを裁かれることを信じています。
何よりもわたしたちは、再臨のキリストのゆえに喜ばねばなりません。常にわたしたちにはキリストに逃れることができるからです。
キリストはわたしたちの教会に約束してくださいました。「常にわたしたちと共にいる」と。教会は、わたしたちにとってキリストのもとに逃れることです。キリストは教会に臨在され、御言葉と聖礼典を通して、わたしたちにご自身の救いを知らしめ、わたしたちが神の子であることを確信させてくださいます。
ですから、わたしたちは預言者エレミヤや使徒パウロのように、そしてダビデの今朝の詩編64篇のように主を誇り、神の子であり、神の民であることを誇ることができるのです。
お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、今年最後の主の日の礼拝で詩編64編の御言葉を学ぶ機会が与えられ、心より感謝します。
ダビデが神に悪人たちの言葉の攻撃から救われることを神に祈り求めましたように、わたしたちもインターネットの時代の中で見えない敵の言葉攻撃にさらされております。
ダビデの時代もわたしたちの時代も、言葉による悪事は絶えません。言葉でいじめられ、言葉でセクハラを受け、苦しみ、命を断つ者が絶えません。
ダビデが信じるように、わたしたちも神が存在され、御自身の義を行われ、悪人を裁かれることを信じない限り、この世に逃れ場はありません。
どうか、この教会が常にわたしたちの逃れ場となりますようにお願いします。毎週の礼拝で、キリストがご臨在くださり、御言葉と聖礼典を通してわたしたちに神の慈しみと栄光にあずからせ、わたしたちが神の子であることを確信させてください。
今年1年の恵みを感謝します。どうか来年もわたしたちが主と共に歩めるようにしてください。どうかキリストの再臨と最後の神の審判に、わたしたちの信仰の目を向けさせてくださり、この地上が生涯を歩ませてください。
次週の新年の最初の主の日礼拝で御言葉と聖餐の恵みにあずからせてください。
この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。