詩編説教121              主の2022925

都に上る歌。        うた 上りの

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。 わたしは上げる、わたしの両眼を、山々

わたしの助けはどこから来るのか。 に向けて。どこから来るだろう、わたし

わたしの助けは来る の助けは。わたしの助けは、

天地を造られた主のもとから。 主から、天地を造った者から。

 

どうか、主があなたを助けて 主は

足がよろめかないようにし あなたの足がよろめくのを許されないし

まどろむことなく見守ってくださるように。 見守る者はまどろむことがない。

見よ、イスラエルを見守る方は 見よ、まどろむことなく、眠ることもない、

まどろむことなく、眠ることもない。 イスラエルを見守る者は。

主はあなたを見守る方 主は、あなたを見守る者

あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。 主はあなたの右手の上の陰。

昼、太陽はあなたを撃つことがない。昼間、太陽はあなたを撃たない。

夜、月もあなたを撃つことがない。 そして月も夜中に。

 

主がすべての災いを遠ざけて 主はあなたを見守る、すべての災いから。

あなたを見守り 

あなたの魂を見守ってくださるように。 主はあなたの魂を見守る。

あなたの出で立つのも帰るのも 主はあなたを見守る、出で立つのも帰るのも。

  主が見守ってくださるように。 

今も、そしてとこしえに。 今から、そしてとこしえまで。

                   詩編第12118

 

説教題:「主はあなたを見守る方」

 

今朝は、詩編第12118節の御言葉を学びましょう。

 

前回の詩編第120編に続けて、第121篇も「都に上る歌」という表題が付されています。巡礼の歌であります。

 

 

「都に上る歌」という表題は同じですが、詩の形式は違います。この詩編は、対話形式です。

 

この詩編は、二節が一つのつながった連になって、4つの連から一つの詩編に成っています。

 

第一連は12節です。詩人の「わたし」が山々に向かって目を上げて、「わたしの助けはどこから来る」と自問します。そして、彼は「わたしの助けは、主から、天地の創造者から来る」と自答しています。

 

このように12節は詩人が自分と対話しています。

 

そして、詩人は、3節以下で、彼のように信仰告白した者たちを、「あなた」と呼び掛けて、対話をし、主なる神が「あなた」を見守るお方であることを伝えようとしているのです。

 

34節は第二の連です。主なる神が「あなた」の歩みを支え、「あなた」に無関心になられることはないと伝えています。また、主なる神はイスラエルを見守るお方で、彼らに無関心になられることはないし、眠ることなく守られると、伝えています。

 

56節は、第三の連です。主なる神は「あなた」を覆う陰として、常に「あなた」の傍らにいて、「あなた」を守ってくださり、主なる神は昼夜、「あなた」を守られると伝えています。

 

78節は、第四の連です。主なる神は「あなた」をあらゆる災いから守られ、「あなた」の体だけではなく、「あなた」の魂をも守られ、「あなた」の一挙手一投足を守られ、今も、そして永遠に守られると伝えています。

 

この詩編は、エルサレムの第二神殿の時代に作られたでしょう。この詩編の成立の背景は、いくつか次のように推測されています。

 

第一は、礼拝で用いられました。応答歌です。会衆が12節を歌い、38節を神殿の祭司たちが主なる神に代わって歌いました。会衆が神に祈り、神殿の祭司が神に代わって、彼らの祈りに答えた歌です。

 

エルサレム神殿の礼拝を終えて、帰郷する巡礼者たちが、12節を歌い、彼らは主なる神の御守りと助けを確信しました。神殿の祭司たちは彼らに主なる神の見守りと祝福を告げて、送り出しました。

 

第二は、親しい者をエルサレム神殿への巡礼に送り出す歌です。この場合、12節は巡礼者の言葉です。3節以下は彼を見送る親族、友人たちが道中の安全を願って、彼を祝福した言葉です。

 

他にもありますが、以上の二つを挙げるだけで、この詩編が生まれた背景を、わたしたちは容易に想像できるでしょう。

 

第二神殿の時代に「都上りの歌」、すなわち、巡礼の歌として、神の民に愛された詩編だったでしょう。

 

この詩編の主題は、「わたしの助けは、天地の創造者、主なる神から来る」という主なる神への信頼です。

 

旧約聖書の神は、主なる神、ただ一人です。この御方は、天地の創造者です。木や石のような偶像ではありません。

 

永遠から永遠に生きる神です。天と地を、この世界の被造物のすべてを、無から御言葉によって造られたお方です。

 

そして、御自身が御自身に向けて造られた人間に対して無関心な御方ではありません。主なる神は、アブラハムと恵みの契約を結ばれた神の民に対して、常にまどろむことなく、すなわち、無関心になられることなく、彼らの傍らに常に立たれて、彼らを眠ることなく守られているのです。

 

今日は、この地域の御柱祭です。今年は御柱の年で、諏訪大社を初め、地域の神々が盛大に祭られます。

 

諏訪大社の上社の本体は守屋山であることは良く知られています。神々は山々に鎮座されています。

 

ですからわたしたちは現行讃美歌の301番を賛美します時、主なる神は山々にいますと思ってしまわないでしょうか。詩人は、エルサレムの山々を見上げて、そこに鎮座される主なる神に助けを祈っていると、思うのではないでしょうか。

 

日本の山岳信仰は、高い山の上に小さな社を設けて、そこに人々は巡礼します。御嶽山も山岳信仰の山です。

 

この詩人は、彼が見上げる山々に主なる神が鎮座されて、そこから彼の救いが来るのだと信じているのではありません。

 

たとえエルサレムの山々に神殿がありましても、詩人は、「わたしの助けは主から、天地の創造者から来る」と告白しています。

 

彼が見上げるエルサレムの山々は、天地の創造者、主が造られたのです。彼が救ってくださると信じる主が、今も生きて働かれていることの証しです。

 

日本人が考えているように、わたしたちを救われる神は、山の上の社に鎮座されている御方ではありません。木や石で作った偶像ではありません。

 

わたしを救うことのできるお方は、わたしたちが見上げる山々を造られた創造主です。

 

ものを作ることは、人格を持つ人間に可能なことです。人間は、神の形という人格を与えられ、創造主と同じようにものを創造することを許されているのです。

 

だから、わたしたちの救いとは、この世の滅びから、死からの救いです。人は誰でも死を免れません。詩人も自分の死を考えたでしょう。

 

そして彼は、主なる神と共に生きる永遠の命を、彼の心に憧れたでしょう。

 

詩人は、彼が見上げた山々に救いがあると思ってはいません。この山々を、わたしたちの言葉で言えば、わたしたちが住んでいるこの世界であり、自然であり、それを利用して人間が作る科学的技術です。神が造られた世界です。

 

わたしたちが見上げている山々、この世、この世界、人間の技術は常に変化し、歴史も変わります。そして、人間が死ぬように、この世界も自然も滅びてしまうのです。

 

人間の科学的技術は便利です。それを用いて人の命は長らえています。しかし、どんなに人が長生きしても100年です。その間に便利だった科学技術も、いつの間にか使われなくなります。次の新しい科学技術に乗り換えられます。

 

しかし、人の心は、科学技術だけでは満たされません。ただ長生きをするだけでは満たされません。永遠を思う心があるからです。

 

だから、詩人のように天地の創造者なる神の救いに、わたしたちの心も憧れるのです。

 

わたしたちは、見上げるこの世、この世界と自然と歴史がすべてだとは思っていませんね。人間が創り出したものがすべてであると思っていませんね。

 

この詩人のようにわたしたちの救いは、天地の創造主から来ると信じていますね。

 

この信仰の祝福は何でしょう。詩人のように旧約聖書のイスラエルの民は、彼らの救いが天地を創造された主から来ると信じました。

 

そして、この信仰は、神の民を神が造られた世界の中で生きる喜びを、平安を与えたのです。

 

例えば、わたしたちがものを作るのは、目的があるからです。科学技術を、わたしたちの生活をよくするために用いるのです。しかし、科学技術は、この世におけるわたしたちの生活をよくするためであり、永遠のものではありません。

 

ところが、天地万物の創造者である主なる神は、永遠から永遠において生きて働かれ、御自身が造られた世界を今から永遠まで配慮されているのです。

 

古代の神の民イスラエルは、天地の創造者なる神を信じただけではありません。その神が創造された天地を通して、造られたわたしたちを配慮してくださっていることを信じたのです。

 

この世界と自然、そして歴史は、創造主なる神の配慮です。主なる神は、この世界に、この自然の中に、そして歴史の中に生きるわたしたちに常に関心を持たれています。わたしたちを見守り、支えてくださり、養ってくださっています。

 

まことにわたしたちはこの世に生まれてから死ぬまで主なる神が配慮された摂理の中に生かされているのです。

 

また、この詩編の詩人は、天地の創造者がイスラエルを守るお方と述べています。主なる神は神の民という集団の神であるだけではありません。「あなた」を常に見守られる神です。

 

わたしたち個々人の祈りを聞き届けて、神の民一人一人に寄り添われ、信仰者の個々人の人生を始めから終りまで守り導かれるお方なのです。

 

天地の創造者は、神の民一人一人を羊飼いが羊を一匹一匹見守り世話をするように、エルサレムの都を夜警が眠らないで守るように、守られます。

 

主イエスは、天地の創造者、独り子なる神です。御自身が創造された世界に来られ、わたしたちの罪のために死なれ、死人の中から復活し、天に上げられました。

 

主イエス・キリストは、天地の創造主であり、この御方からわたしたちの救いが来ると信じています。

 

だから、この世界は、詩人が言うようにキリストの配慮です。主イエスは12弟子たちに神の摂理を語られ、この世のことで心を煩わせてはならないと言われました。

 

わたしたちも、この詩人のように、わたしたちの救いが天地を創造された主イエス・キリストから来ることを信じ、この世界も自然も歴史も、そしてわたしたちの人生も主イエスのご配慮の中にあると信じ様ではありませんか。

 

主イエスは言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネ11:26)

 

主イエスは、天地の創造者であり、わたしたちの復活と命の源です。この御方からわたしたちは永遠の命の希望を得ているのです。そして、主イエスは、ヘブライ人への手紙が告白しますように、「イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのないお方です。(ヘブライ13:7)

 

わたしたちは、この御方の見守りの中に生きているのです。わたしたちの日々の生活、人生は、この御方の見守りと配慮です。そしてわたしたちの信仰の旅時は、永遠の御国なのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編121編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

今朝は、「都に上る歌」の二番目、121篇を学びました。

 

どうかこの詩人のように、わたしたちも「わたしたちの救いは天地の創造者主から来る」と信仰告白させてください。

 

わたしたちはこの世の巡礼者です。御国に至るまで長く苦しい信仰生活が続くことでしょう。

 

どうかわたしたちの日々の生活に、人生に、生きているこの世に、主イエスの見守りと配慮を見させてください。

 

天の御国を目指し、この世では寄留者として生きなければなりません。しかし、主イエスが創造されたこの世界に、主イエスの配慮を見させてください。

 

小さくて弱いわたしたちですが、主イエスの見守りの中を生きていることを知ることが出来て感謝します。

 

この世に生きることを恐れることなく、主の御心のままに歩ませて下さい。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教122              主の20221023

都に上る歌。ダビデの詩  ダビデの 上りの うた 

主の家に行こう、と人々が言ったとき わたしは喜んだ、彼らがわたしに言う

わたしはうれしかった。 とき。主の家にわたしたちは行こうと。

エルサレムよ、あなたの城門の中に 立っていた、わたしたちの足が

わたしたちの足は立っている。 あなたの門の中に、エルサレムよ。

エルサレム、都として建てられた町。 エルサレムは建てられた。

そこに、すべては結び合い そこに一つに結び合わされた町として。

そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。 そこに上った。部族たちが、

主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。主の部族たちが。イスラエ

そこにこそ、裁きの王座が は。ルの定めとして、主の御名を讃えるために。

ダビデの家の王座が据えられている。 まことにそこに裁きの座、ダビデの家の座が据えてあった。

エルサレムの平和を求めよう。 求めよ、平和を、エルサレムの。

「あなたを愛する人々に平安があるように。「安らかであるように、あなたを愛

あなたの城壁のうちに平和があるように。 する人々が。平和があるように、

あなたの城郭のうちに平安があるように。」 あなたの城壁の内に。安らぎが

                    あるように、あなたの城郭の中に。

わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。 る。わたしの兄弟と同胞の

「あなたがたのうちにへいわがあるように。」 ために、わたしは語ろう。「

わたしは願おう どうか、平和があなたがたの中に」。

   わたしたちの神、主の家のために。 わたしたちの神、主の家のために、

「あなたに幸いがあるように。」 わたしは願おう、あなたの幸いを。

                   詩編第12219

 

説教題:「平和を求めよう」

 

今朝は、詩編第12219節の御言葉を学びましょう。

 

前回の詩編第121編に続けて、第122篇も「都に上る歌」という表題が付されています。さらに122編は「ダビデの詩」という表題が付加されています。124編、131編、133篇にも「ダビデの詩」という表題の付加があります。

 

新共同訳聖書は、「ダビデの詩」と記しています。「詩」という言葉は、ヘブライ語聖書の詩編にはありません。「ダビデの」とあるだけです。新共同訳聖書は「詩」という言葉を補足して訳しています。

 

「ダビデの」という言葉の付加は、この詩編がダビデ王の作った詩編であるという意味です。口語訳聖書は、その意味に理解し、この詩編の表題を次のように付しています。「ダビデがよんだ都もうでの歌」と。

 

口語訳聖書の表題は、読み込み過ぎであると思います。「ダビデの」という言葉を本詩の中で関連付けられるのは、5節の「ダビデの家の王座」だけです。

 

表題だけで、詩篇122編の作者を決めることは出来ません。この詩編全体を通して、この詩人は誰であるかと考えるのが良いと、わたしは思います。

 

短い詩ですが、とても巧みに作られています。わたしのこの詩に対する第一印象は、一枚の絵画です。一枚の絵画が立派な額縁に納められ、その絵画は見る者たちにエルサレムの平和を祈ろうと呼びかけています。

 

その立派な額縁とは、12節と9節です。この詩の初めと終わりは互いに呼応しています。どちらにも「主の家」という言葉があり、「わたしたち」が主語です。

 

「主の家」はエルサレム神殿のことです。わたしたちがエルサレムに巡礼し、エルサレム神殿にしっかりと立ち、わたしたちはわたしたちの神とエルサレム神殿のために、「エルサレムの平和を祈る」と、詩人は歌っています。

 

だから、額縁である12節と9節を読むだけで、この詩編がエルサレムの都への巡礼の歌であり、エルサレムの都への平和を祈り願う歌であることが分かるのです。

 

さらにこの詩編は、三部構成になっています。12節、35節、69節です。詩人は、人々がエルサレムの都へと巡礼し、エルサレム神殿で礼拝しようと言うのを聞いて、心から喜びました。そして、詩人は彼の家族や地域の人々と共にエルサレムの都へと巡礼し、詩人と家族と人々は、彼らの足をエルサレム神殿にしっかりと立てました。2節の「あなたの城門の中に」とは、詩篇84編の詩人が11節で「わたしの神の家の門口に立っている」と歌っているのと同じです。

 

エルサレム神殿には、幾つもの神殿の出入りの門がありました。その門を出入りして神の民たちは、神殿の中庭に入り、主なる神を礼拝しました。詩人は、神殿の門の敷居に自分たちの足をしっかりと立てたと歌っているのです。

 

35節は、巡礼者がエルサレムの都を回想しているのです。エルサレムの都が何の目的で建てられたかを思い巡らせています。

 

詩人は詳しく述べてはいませんが、巡礼者たちは主なる神が御自身の住まう所としてエルサレムの都に神殿を建てられたことを知っています。

 

主なる神は、神の民イスラエルの12部族が一つとなり、主なる神を礼拝するために、彼らが主なる神に感謝し、主なる神を褒め称え、賛美するために、エルサレムの都に主の家、すなわち、エルサレム神殿を据えられました。

 

そして主なる神はエルサレム神殿で神の民が礼拝することを定められました。申命記161617節で主なる神は神の民イスラエルにこう命じられました。「男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。ただし、何も持たずに主の御前に出てはならない。あなたの神、主より受けた祝福に応じて、それぞれ、献げ物を携えなさい。」

 

巡礼者たちは、おそらくエルサレムの都の歴史を回想したでしょう。エルサレムの都の発端は、ダビデ王がエブス人からエルサレムの町を奪い、ダビデ王国の首都とし、神の契約の箱を運び入れ、神の幕屋を建てたことです。そしてダビデ王の子ソロモン王が神殿を建てました。イスラエルの12部族はエルサレム神殿で主なる神を礼拝したのです。こうして神の民イスラエルが形成されました。

 

詩人は5節で「そこにこそ、裁きの王座がダビデの家の王座が据えられている」と歌っていますね。エルサレムの都は、ダビデ王国の立法と行政と司法の中心でもありました。ダビデ王朝の王たちは、主なる神に代わって神の民を裁きました。

 

69節で詩人は、エルサレムを「あなた」と呼び掛けて、エルサレムの平和を祈っています。

 

6節後半から8節は、エルサレムの平和を祈る祈祷文です。

 

6節前半の「エルサレムの平和を求めよう」という御言葉は、誰が誰に向けて呼びかけているのか、分かりません。6節後半から7節がエルサレムの平和を祈る内容です。その祈りは、エルサレムの都を愛する人々の平安、エルサレムの都の平和、エルサレムの王宮の平穏です。

 

巡礼者たちの平安、エルサレムの都の平和、そして、宮殿の平穏が祈られています。

 

わたしたちは、旧約聖書のサムエル記、列王記を読みますと、エルサレムの「サレム」が平安を意味しますが、言葉とは裏腹にエルサレムの都が何度も戦乱に巻き込まれたことを知っています。

 

だから、詩人が「エルサレムの平和を祈ろう」と呼び掛けるのは、戦争から平和へとエルサレムが変えられることだと、わたしたちは思うでしょう。

 

しかし、詩人が祈る平和、平安、平穏は、戦争がないということだけではありません。主なる神の祝福に与ることです。主なる神の命に満ちあふれることです。

 

詩篇23編でダビデが「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう」と賛美しています。わたしは、これが主の平和だと思います。

 

エルサレムが平和の都であるのは、そこに主なる神が臨在され、主を礼拝する神の民たちが主なる神の祝福と命に与り、互いに、共に和合し、一つとなるからです。詩編133編に通じていると、わたしは思います。

 

だから、89節で詩人は、彼の兄弟と友のために平和を祈るのです。そして、その祈りが現実のものとなるために、主なる神、すなわち、神の民イスラエルのわたしたちの神と主の家であるエルサレム神殿のために、エルサレムの都の幸いを祈るのです。

 

詩人は、主なる神こそが神の民の祝福の源と確信します。主なる神が選ばれたエルサレムの都、そこにある神殿の礼拝こそが神の民を祝福し、一つとし、彼らに永遠の命を与えるものと確信するのです。

 

わたしは、詩人がエルサレムの平和を祈ろうと呼びかけるのは、神の民イスラエルが主なる神と一つに結ばれ、その祝福と命の喜びを共にするためだと思うのです。

 

この詩編122編を聖書全体の中でどこまで展開できるのか、わたしには分かりませんが、わたしに分かることがあります。それは、神の恵みの契約、神の救いの歴史です。創世記にバベルの塔の物語があります。神は人が一つとなり、神に反逆することを防ぐために、言葉を乱されました。

 

その結果、人は全地に散りました。しかし、主なる神は、その中からアブラハムを選ばれました。主なる神は彼と恵みの契約を結ばれ、「わたしはあなたとあなたの子孫との神となり、あなたとあなたの子孫はわたしの民となる」と約束してくださいました。

 

アブラハム契約は、モーセを通して主なる神と神の民イスラエルとのシナイ契約に更新されました。アブラハムとイサクとヤコブ、族長たちは祭壇を設けて主なる神を礼拝しましたが、神の民イスラエルは神の幕屋で主なる神を礼拝しました。そして、ダビデ・ソロモンの時代にエルサレムの都に神殿を建てる準備と建設がなされました。こうしてこの詩人が歌っているように、神の民の12部族がエルサレム神殿で一つに結ばれて、主なる神を礼拝しました。

 

しかし、ソロモン王の死後、ダビデ王国は二つに分裂しました。そして、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、南ユダ王国はバビロニア帝国に滅ぼされました。

 

しかし、主なる神は預言者エレミヤを通して新しい恵みの契約を約束されました。シナイ契約のように石の板二枚を、すなわち、十戒を彼らの前に置くのではなく、聖霊によって彼らの心に刻むことを約束されました。こうして新しい契約の民は、主を心で知ることが許されました。それが、キリスト教会です。

 

主イエス・キリストが新しい契約の仲保者となられました。そして世界中に散らされた神の民を、キリストの教会に福音宣教を通して集めてくださいました。

 

主イエスは、12弟子たちに新しい戒めを授けられました。それは、互いに愛し合いなさいという戒めです。

 

この戒めを通して、キリスト教会は詩編122編の平和を祈り続けるのです。エルサレムは、新約聖書のキリストの教会です。

 

使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙第21417節でこう述べています。「実にキリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」

 

今朝の詩編122編を、わたしたちはキリスト教会の平和を祈ろうと、この詩人が呼びかけているのだと理解しましょう。

 

すると、教会の祈りにおいて毎週世界のキリスト教会のために祈ることの重要性を理解できるでしょう。

 

エルサレムはキリスト教会です。キリスト教会を愛する人々に平安があるように祈りましょう。わたしたちが日々に暮らし、教会の営みをしているこの長野県のために、日本のために、世界のために祈りましょう。国家や為政者たちに平穏があるように祈りましょう。

 

わたしたちの兄弟姉妹たちのために、友たちのために、教会に平和があり、礼拝と福音宣教が続けられるように祈りましょう。

 

キリストのために、父なる神と聖霊のために、キリスト教会のために、わたしたちは、この上諏訪湖畔教会が三位一体の神の祝福となるように祈ろうではありませんか。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編122編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

今朝は、「都に上る歌」の三番目、122篇を学びました。

 

どうか、この詩人のように、わたしたちもキリスト教会のために平和を祈らせてください。

 

どうか、混乱と分裂しているわたしたちの世界にキリストの福音を伝えられるわたしたちの教会を祝福してください。

 

わたしたちも教会の礼拝に行こうという人々を、心から喜ぶことが出来るようにしてください。

 

わたしたちが毎週の主日礼拝を通して、キリストの十字架の福音によって隣人との敵意を取り去り、和合し、一つの神の祝福に与らせてください。

 

わたしたちは、天の御国を目指し、この世では寄留者、巡礼者として生きなければなりません。しかし、主イエスがわたしたちと共に居てくださり、この世の教会には罪の赦し、復活の希望、永遠の命の祝福があることを信じさせてください。

 

諏訪の地に、長野県に、日本に、世界に神の平和があるように祈らせてください。わたしたちの家族に、わたしたちの知人に平安があるように祈らせてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教123              主の20221127

都に上る歌。         上りの うた 

目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます。 あなたに向かってわたしは上げる、

天にいます方よ。 わたしの眼を。天に座しておられる方。

 

御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ 見よ、僕たちの眼が彼らの主人の手

はしためが女主人の手に目を注ぐように  に向くように、はしためが女主人の

わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ 手に向くように、このように

憐れみを待ちます。わたしたちの眼は、わたしたちの神、主に向く、わたしたち

          を彼が恵み給うまで。

わたしたちを憐れんでください。 わたしたちを恵んでください。

主よ、わたしたちを憐れんでください。 主よ、わたしたちを恵んでください。

わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。実にわたしたちは多くの侮り

平然と生きる者らの嘲笑に にわたしたちの魂は大いに満腹しています。安泰

傲然と生きる者らの侮りに の者たちからの嘲笑に。

わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。高ぶる者たちの侮りに。                   

                   詩編第12314

 

説教題:「暗き世から救い給え」

 

今朝は、詩編第12314節の御言葉を学びましょう。

 

本日よりアドベント、待降節に入ります。週報に報告していますように、クリスマス前の四番目の主日から、今年は1127日の主日からクリスマスイヴの1224日までアドベント、待降節に入ります。

 

アドベントはラテン語で「到来」という意味です。キリストの第一の到来がクリスマスです。そして第二の到来がキリストの再臨です。ですから、アドベントは、クリスマスを準備する期間であり、キリストの再臨にわたしたちの心を向ける期待と喜びの期間なのです。

 

そして、重要なことは、キリスト教会の暦がアドベントから始まるということです。

 

主なる神の摂理の御手によりアドベントの第一週の主の日に詩編123編の御言葉を学べる事はまことに感謝であります。

 

さて、詩篇123編は、表題に「都に上る歌」とだけあります。ダビデの名がありません。作者不明の詩編です。

 

この詩編の特色の一つは、1節が「わたし」であるのに、24節は「わたしたち」であることです。個人の歌から「わたしたち」、すなわち、神の民の歌に代わっています。

 

ある聖書学者は、「個人が民族の代表者として語っている」と述べています。詩編の類型に従えば、個人の嘆きの歌と民族の嘆きの歌が合わさったものです。

 

この詩編は、エルサレム神殿の礼拝で歌われていたと思われます。

 

この詩編は、何時頃作られたのでしょうか。その手掛かりが34節の御言葉にあります。神の民たちの苦難の時代です。バビロニア帝国の捕囚から解放され、エルサレムの帰還した後でありましょう。

 

バビロニア・ペルシア時代に神の民たちがエルサレムに帰還し、第二エルサレム神殿を再建し、エルサレムの城壁を修復したころか。紀元前538年から紀元前433年頃です。更に時代が下りヘレニズム時代にエジプトやシリアがユダヤを支配していたころか、です。紀元前323年から紀元前168年頃です。

 

宗教改革者カルヴァンは、詩篇注解で次のように判断しています。「バビロン捕囚のころ、あるいはおそらく、アンテオコス時代に、かの野放図な暴虐が猛威を振るっていたころ、すべての信仰者のために、この祈りの定式を執筆した。」

 

どちらにしましても、ユダヤの神の民たちにとっては、暗き世であり、不安定な社会情勢でした。

 

異邦人の王たちの抑圧と暴虐だけではなく、ユダヤの周りの高慢な異邦人たちの侮りとさげすみがありました。

 

旧約聖書のネヘミヤ記第21720節です。ネヘミヤは神の民に言いました。「『御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない。』神の御手が恵み深くわたしを守り、王がわたしに言ってくれた言葉を彼らに告げると、彼らは『早速、建築に取りかかろう』と応じ、この良い企てに奮い立った。ところが、ホロニ人サンバラト、アンモン人の僕トビヤ、アラブ人ゲシェムは、それを聞いてわたしたちを嘲笑い、さげすみ、こう言った。『お前たちは何をしようとしているのか。王に反逆しようとしているのか。』そこでわたしは反論した。『天にいます神御自ら、わたしたちにこの工事を成功させてくださる。その僕であるわたしたちは立ち上がって町を再建する。あなたたちには、エルサレムの中に領分もなければ、それに対する権利の記録もない。』」

 

このネヘミヤの御言葉が詩編123編に符合すると思います。帰国した神の民たちは主なる神の保護以外に何の保証もありませんでした。近隣の高慢な異邦人たちは、神の民イスラエルを侮り、さげすみました。だから、ネヘミヤたちは主なる神に助けを叫び求めて、エルサレムの城壁の工事に携わりました。

 

カルヴァンは、このネヘミヤを例に挙げて、こう述べています。「この詩編が誰によって書かれたにせよ、神の霊感によって民のために、この祈りの模範を定めさせた。聖霊は敵どもがひとりやふたりの信者だけでなく、教会全体を不正かつ高慢にも苦しめ迫害するときはいつでも、声高く神に助けを求むべきことを、われわれに教示する。」

 

では、今朝の詩編の御言葉にわたしたちの心を向けましょう。何よりも神の民が、この世の教会が目を上げて、礼拝をし、助けを求めるべきお方が誰かを考えましょう。

 

1節で詩人は、こう歌っています。「目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます。天にいます方よ。」

 

詩人が礼拝し、助けを求める神は、天に座されているお方です。天は、神が創造された被造物であり、主なる神が住まわれる所です。神に創造されたわたしたちは、神が創造された地に住む者です。

 

「天にいます方」とは、神の超越性、普遍性を表わしています。詩人は、礼拝し、助けを求める主なる神と彼との間に大きな隔てのあることを、天と地の隔てのあることを知っています。

 

この隔ての感覚は、神の民がバビロニア帝国に国を滅ぼされ、捕囚されたことによって体験的に得たのです。主なる神は、天にいまして神の民を助け、裁くお方です。

 

彼は、礼拝する主なる神に、助けを求めて、彼の目を主なる神が住みたもう天に上げるのです。天にいます主なる神は、神の民の先祖アブラハムとの恵みの契約を忘れることなく、どんな時も神の民と共におられ、変わることなく神の民をお助けくださいます。

 

詩人は、3節で主なる神と神の民イスラエルとの関係を、主人と僕、女主人とはしための関係に譬えています。すなわち、主人と奴隷の関係に譬えているのです。

 

昔の僕とはしため、すなわち、奴隷は、その存在を主人、女主人の手にありました。主人と女主人は奴隷を支配していました、だから、奴隷は自らを守ることはできません。彼らができることは、主人の手によって恵みを得、助けを得ることです。

 

2節で詩人は、主人と奴隷の関係を、主なる神と神の民との関係に譬えて、この詩編を学ぶわたしたちに次のように教えようとしています。主なる神の恵みのみにわたしたちの目を注ぎ、主なる神の御手にのみ、わたしたちの身を委ねるようにと。

 

「目を上げる」「目を注ぐ」とは、奴隷が自分の主人だけに希望の目を注ぐように、わたしたち神の民は、主なる神にのみ希望の目を注ぐということです。

 

だから、詩人は、2節終りに「憐れみを待ちます」、「恵みを待ちます」と歌い、3節で主なる神に憐れみを、恵みを乞い続けるのです。

 

このように旧約聖書の神の民たちはこの地上における生活で、常に天にいます主なる神からの恵みを、憐れみを乞い、待つことでした。そこに彼らがこの世に生きる独自性があります。

 

この点でキリスト教会も同じです。彼らと同じように天にいます主なる神を礼拝し、そこからいつも主がわたしたちに助けの手を伸ばされるのを、主の憐れみと恵みを乞い、待ち続けています。

 

なぜなら、常に神の民たちが生きるこの世は暗き世です。恥多き世です。神の民は何時の世もこの世の高慢な者によって、この世で何の煩いもなく生きる者たちから侮られ、さげすまれています。

 

「平然と生きる者」とは、主なる神を畏れることなく生きる者たちです。彼らはセレブな生活をし、富めるゆえに世の煩いがありません。自分の力で生きているとおごりますので、主なる神に憐れみと恵みを乞う神の民をさげすむのです。

 

「傲然と生きる者」とは、高慢な者のことです。彼らは、神の民たちに向かって「お前の神はどこにいる」と侮るのです。己を神とし、己中心に生きるのです。彼らは、主なる神の御手に身を委ねる神の民を、教会を侮るのです。

 

この世は光を失い、闇が覆っています。教会は、何時日本が戦前に戻り、天皇が現人神として偶像礼拝され、宮城遥拝を強制されるか分かりません。

 

そうではなくても、学校で、会社で、地域社会でキリスト者と彼の子供たちが侮られ、さげすまれることはあるでしょう。神などいないというこの世で教会が教会として生きること、キリスト者がキリスト者として生きることは、この世と人に侮られ、さげすまれます。

 

この世では教会もキリスト者も恥で満たされ、この世の人々が教会を侮り、さげすむ言葉が教会に大きな影響を与え、信者たちの信仰に暗い影を落とすことがあるでしょう。

 

また神などいないというこの世のセレブたちの生き方が、この世の人々だけではなく、教会に、そしてキリスト者の家庭に大きな影響を与えることもあるでしょう。

 

カルヴァンは、こう述べています。「教会全体が悪しき者らの暴行、残虐、欺瞞、その他の法外な努力、それに汚辱と嘲笑とを重荷に感じて来たことを常に心に留めなければならない。」

 

わたしたちキリスト者の心は、この世の闇に支配された人々の不信仰に、不義に、不正に、神を侮る言葉に満腹にされているのです。

 

世の暗闇の中で、闇が神の民たちを覆う中で、神の民たちの信仰がこの世の人々の侮りとさげすみの言葉で弱められている時に、詩人は主なる神の憐れみを、恵みを乞い、待ち続けました。

 

暗き世の中で詩人は、神の憐れみと恵みという一筋の光を祈り、待ち続けているのです。

 

この詩人に、主なる神は、どのように答えて下さったのでしょうか。主イエス・キリストの誕生、クリスマスの出来事を通して答えてくださいました。

 

ヨハネによる福音書が証言するように、キリストはこの世の闇の中に、わたしたちと同じ人間として来て下さいました。主なる神に憐れみと恵みを乞い求めた詩人に答えるように、この世の闇の中で誰にも理解されることなく、十字架の道を歩まれました。

 

暗き世にキリストの十字架という一筋の光が、罪に覆われ、支配されたわたしたちを救ってくれたのです。

 

この十字架の言葉も信じるわたしたちには神の力ですけれども、滅び行くこの世の人々には愚かなことです。

 

ただわたしたちは、この詩人のように主なる神の憐れみを、恵みを乞い、待つ以外にありません。

 

アドベントは、この暗き世に生きる教会が神の憐れみを、恵みを乞い、キリストという一筋の光を待ち望む機会なのであります。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編123編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

アドベントに入りました。クリスマスに備えると共に、キリストの再臨に心を向けさせてください。

 

どうか、この詩人のようにわたしたちもこの世の暗闇の中で主なる神の憐れみと恵みを乞わせてください。

 

どうか、わたしたちがこの世界で神などいないと言う人々に出会っても動揺することなく、主なる神の御救いを待ち望ませてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。