詩編説教126              主の2023326

都に上る歌。      歌 上りの  

主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて 主がシオンの回復を遂げた

わたしたちは夢を見ている人のようになった。時、わたしたちは夢見る人のよ

そのときには、わたしたちの口に笑いが うであった。そのとき、わたしたちの

舌に喜びの歌が満ちるであろう。 口は笑いで、わたしたちの舌は喜びで満た

そのときには、国々も言うであろう。 されていた。そのとき、彼は言った

「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。 異邦人たちの中で。「主は彼らに大きなことをした」と。

主よ、わたしたちのために 大きなことを主は

大きな業を成し遂げてください。 わたしたちに行った。

わたしたちは喜び祝うでしょう。わたしたちは喜んでいた。

主よ、ネゲブの川の流れを導くかのように 主よ、わたしたち捕らわれ人を

わたしたちの捕らわれ人を連れ帰ってください。 帰してください。ネゲブの   

                      川床のように。

涙と共に種を蒔く人は。涙をもって種を蒔く人は                 

喜びの歌と共に刈り入れる。 喜びでもって刈り入れる。  

種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 泣きながら種袋を背負い出て行

束ねた穂を背負い く人は、喜びの中に束をかかげて入って来よう。

  喜びの歌を歌いながら帰ってくる。

           

                   詩編第12616

 

説教題:「涙をもって種を蒔く人は」

 

今朝は、詩編第12616節の御言葉を学びましょう。

 

この詩編にも、「都に上る歌」という表題があります。巡礼歌です。神の民イスラエルがエルサレム神殿で主なる神を礼拝するためにエルサレムの都に巡礼した時に歌われました。

 

この詩編の理解の鍵は、1節と4節です。1節の「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られる」と4節の「わたしたちの捕らわれ人を連れ帰ってください」という御言葉は、定型表現です。この定型表現の特色は、主語が主なる神です。そして、この定型表現の用例は、次の二つです。一般的な状況の転換を表わす場合と捕囚の帰還を念頭に置く場合があります。

 

また、1節と4節の同じ定型表現が同一の事態を述べているのか、それとも異なる事態を述べているのかを、見定める必要があります。

 

新共同訳聖書は、次のようにこの詩編を理解していると、わたしは思います。13節で詩人は、過去に起こったバビロン捕囚からの解放とエルサレムへの帰還、そして神殿の再建を、主なる神の偉大な御業として回顧しています。

 

それは、バビロン捕囚の神の民イスラエルが、すなわち、詩人たち神の民イスラエルが見た夢でありました。その夢で見たとおりに主なる神が神の民イスラエルをバビロン捕囚からエルサレムに連れ帰ってくださいました。

 

そして、新共同訳聖書は、4節の定型表現を、1節とは異なる事態と見ていると思います。すなわち、神の民イスラエルがエルサレムに帰還しても、バビロン捕囚同様の苦難が続きました。

 

神の民たちは紀元前539年にペルシア帝国のクロス王によってバビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還しました。しかし、神殿の再建と共同体の形成は順調に進みませんでした。パレスチナを支配していた他国民によって妨害されたからです。

 

神の民イスラエルは、バビロン捕囚からの解放とエルサレムへの帰還後、約150年経てユダヤ教の共同体を形成したのです。その形成途上でこの詩編126編が作られたのです。

 

この詩編は、3つに内容を区分できます。13節、4節、56節です。

 

詩人が1節で「主がシオンの捕らわれ人を連れ帰られると聞いて わたしたちは夢を見ている人のようになった。」と歌います時、詩人は神の民イスラエルのバビロン捕囚からの解放とエルサレムへの帰還を、政治的出来事と思ってはいません。2節と3節で「主なる神が大きな御業を成し遂げてくださった」と証言しています。

 

詩人にとって、神の民イスラエルにとって、そして諸国民にとっても、神の民イスラエルのバビロン捕囚からの解放とエルサレムへの帰還は主なる神の大きな御業でありました。

 

詩人が「わたしたちは夢を見ている人のようになった」と述べているように、主なる神の大いなる御業が神の民たちの無力さの中で行われたのです。

 

神の民イスラエルができることは、その主なる神の御業を感謝し、ほめたたえることだけです。詩人は、「そのときには、わたしたちの口に笑いが 舌に喜びの歌が満ちるであろう。」と歌っています。

 

神の民イスラエルは、異教の地バビロンで捕囚の民として無力でした。彼らは自らを解放することも、エルサレムに帰ることもできませんでした。

 

昔、主なる神はモーセを神の民イスラエルの指導者に立てられ、エジプトで奴隷生活をしていた神の民を救出されました。同様のことをバビロン捕囚の神の民にしてくださいました。

 

主なる神はペルシアのクロス王を立てて、神の民イスラエルをバビロン捕囚から解放し、エルサレムに帰還させられました。それは、中近東諸国の人々にとって驚くべき出来事でした。「主なる神が神の民イスラエルに、大きな御業を成し遂げられた」ことを目撃したからです。それは、主なる神の摂理の御業でありました。だから、神の民イスラエルだけではなく、周辺諸国の民たちも「主なる神は、この人々に、大きな御業を成し遂げられた」と主をほめたたえました。

 

しかし、詩人は、4節で「主よ、ネゲブの川の流れを導くかのように わたしたちの捕らわれ人を連れ帰ってください。」と歌っていますね。

 

ネゲブ川は、エルサレムの山地から見て、南の方角にあります。ネゲブとは、乾燥したという意味です。パレスチナの気候は雨期と乾期があります。雨期にはネゲブ川は氾濫します。乾期にはカラカラになります。砂漠の川が豊かな恵みの雨をいただいて、砂漠があっという間に沃地に変わるように、詩人は神の民イスラエルの大転換を願っているのです。

 

バビロン捕囚から解放され、エルサレムへと帰還した神の民は少数でした。ほとんどのユダヤ人たちはバビロンに、ペルシアの国に根を下ろして、離散のユダヤ人として生活していました。そしてその地で豊かな生活をし、今更荒廃したエルサレムに帰国する気がありませんでした。

 

詩人は、神の民たちの異国の生活を根こそぎにしても、捕囚の地から彼らを約束の地エルサレムに連れ戻してくださいと祈っているのです。

 

わたしたちキリスト者は、この世において神の御国へと旅する者です。しかし、あまりにもこの世を愛し過ぎていないでしょうか。

 

主の祈りに「御国を来たらせたまえ」という祈りがあります。毎週の礼拝で、祈祷会で、男子会や婦人会で主お祈りをします。そしてわたしたちは「御国を来たらせたまえ」と祈ります。この世におけるわたしたちの信仰生活は、その祈りととても隔たっているのではないでしょうか。

 

4節の詩人の祈りは、彼自身の祈りですが、神の民イスラエルへの励ましだと思います。

 

どんなに神の民がこの世における生活を愛しても、神の御国から遠く隔たるとも、詩人は彼らのこの世の生活を根こそぎにしても、彼らを神の約束の地に連れ戻してくださいと祈るのです。そして、詩人は、この世を愛するわたしたちのためにも祈るのです。わたしたちのこの世の生活が根こそぎにされても、どうかわたしたちを御国に連れ戻してくださいと。

 

5節と6節の御言葉は有名です。愛唱聖句の一つにしている兄弟姉妹も多くおられるでしょう。この御言葉は、伝道する者への励ましですし、この世に生きる信仰者への励ましです。特にこの世において苦難の中にいる者を励ましてくれます。

 

神の民イスラエルにとっても、わたしたちキリスト者にとっても、この世は苦難の連続です。一つの苦難の山を乗り越えると次の苦難の山が、わたしたちの前に立ちはだかっています。

 

バビロン捕囚からの解放とエルサレムへの帰還は、主なる神の大きな救いの御業です。しかし、救出された神の民イスラエルに次の苦難が待ち受けているのです。主なる神は、バビロンから解放された神の民たちに荒れ地のエルサレムの復興という難事業を課せられました。その事業は、他国人の支配者たちの妨害がありました。エルサレムに帰還しても彼らの土地は他国人に奪われていたでしょう。主なる神に救出されても、現実は彼らに厳しいものでした。苦労が徒労に終わるというリスクがありました。

 

エルサレムに帰還した神の民たちの生活は、農夫たちの生活に似ていました。春に種を蒔いても、秋に収穫があるという保証はありません。それでも、農夫は徒労と思っても、必ず主はお守りくださり、秋には収穫が得られると信じて、田畑を耕し、大麦、小麦の種を蒔くのです。

 

飢饉があれば、農夫は腹を空かせても、小麦、大麦を食べないで、種を取り、蒔きます。秋に収穫するまで、他のもので飢えをしのぎ、秋の収穫に期待するのです。

 

詩人は、5節と6節で主の摂理による約束をもって農夫を、そしてわたしたちを励ましてくれています。

 

詩人は因果応報を述べているのではありません。主なる神は、わたしたちの悲しみを喜びに変えることがおできになると約束しているのです。

 

この世での貧しい生活は、わたしたちの努力によって変えられません。主なる神が神の民たちの、わたしたちの悲しみを喜びに変えてくださることによって変えられるのです。

 

農夫はエルサレムの門を出て、自分の田畑で働き、そして夕刻、そこから門を通って自宅に帰ります。主なる神の慈しみと摂理を通して農夫の一日一日が支えられています。

 

同様にわたしたちも、この世においてはどんな苦難があろうと、涙を流そうと、この世にキリストの教会を建て上げ、人々にキリストの福音を宣べ伝え、そして生活の糧を得て行かなければなりません。

 

この世における生活は、キリストの再臨によってすべては無に帰するでしょう。しかし、わたしたちのこの世における労苦を、キリストは御国に入る喜びとしてくださるのです、わたしたちが家族のために流す涙を、キリストはわたしと家族が御国に入れる喜びに変えて下さるのです。

 

本当にこの世においてわたしたちは、失敗の連続で、涙なしにこの世を語れません。しかし、キリストが十字架に死なれ、三日目に復活され、わたしたちの失敗も涙も喜びに変えて下さるのです。

 

だから、主なる神はわたしたちの涙を、悲しみを喜びに変えてくださるという、この詩人の御言葉に信頼して、今日の一日を、この一週間を、希望をもって生きようではありませんか。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編126編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

レントの季節、キリストの御苦しみを瞑想し、一日一日感謝し、歩ませてください。

 

詩人は、主なる神の大きな御業によってバビロン捕囚から解放され、エルサレムに帰還できたことを、主なる神に感謝しています。

 

しかし、神の民イスラエルにとって神の約束の地は、平安の地ではなく、むしろ苦難の地でした。第二神殿を再建し、エルサレムの都を再建し、神の民イスラエルの共同体を再建しなければなりませんでした。更に他国人の支配者たちの妨害もありました。

 

神の御国に至るには、苦難の連続です。一見徒労に思えます。しかし、主なる神がわたしたちを守り、悲しみを喜びに変えて下さることを信じさせてください。

 

教会の伝道が不振ですが、どうか、主なる神がわたしたちの教会を変えて下さると信じさせてください。

 

家族のために涙する者を、喜びに変えてください。この世の不正に涙する者を、喜びに変えてください。貧しい者へ援助に労している者たちの空しさや悲しみを喜びに変えてください。

 

平和のために祈る者たちの悲しみを喜びに変えてください。

 

主イエスよ、あなたは「悲しんでいる者たち幸いである、彼らは慰められる」と約束してくださいました。どうか世界中の悲しんでいる者を喜びに変えてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

詩編説教127             主の2023423

都に上る歌。 ソロモンの詩     歌 上りの ソロモンの  

主御自身が建ててくださるのでなければ もし主が家を建てなければ

家を建てる人の労苦はむなしい。それを建てる者たちの労苦はむなしい。

主御自身が守ってくださるのでなければ もし主が町を守らなければ

町を守る人が目覚めているのもむなしい。見張りが目覚めているのはむなしい。

朝早く起き、夜おそく休み あなたがたにはむなしい。早く起きる者たちよ、遅

焦慮してパンを食べる人よ く座する者たちよ。辛苦のパンを食べる者たちよ。

それは、むなしいことではないか。 

主は愛する者に眠りをお与えになるのだから。このように彼は与える。愛する

                     愛する者に眠りを。

見よ、子らは主からいただく嗣業。見よ、息子たちは主の嗣業。

胎の実りは報い。 胎の実は報酬。

若くして生んだ子らは、勇士の手の中の矢。 帰勇士の手の中の矢のようだ、若 

いかに幸いなことか い時の息子たちは。幸いだ。                 

矢筒をこの矢で満たす人は。 それらで矢筒を満たす男は。  

町の門で敵と論争するときも 彼らは恥を受けることがない、敵を門で撃退

恥をこうむることはない。するとき。

                     詩編第12715

 

説教題:「主が建て、守られるのでなければ」

 

今朝は、詩編第12715節の御言葉を学びましょう。

 

この詩編と次の詩編第128編は、結婚式に読まれる御言葉として有名です。それは、この二つの詩編が新しく家庭を作るという意味に取られるからです。

 

1271節の「主御自身が建ててくださるのでなければ」という御言葉は、文字通り主なる神が家を建てられることですが、詩人は家庭を作ること、家庭生活全般のことを歌っています。そういうわけで結婚式にこの詩編が読まれるのです。

 

さて、この詩編は、一般には「知恵の詩」と呼ばれています。イスラエルの知恵ある者は、民衆に生活のための実際的な指針を与えました。そして、この知恵を、イスラエルの人々は生活経験を積んだ長老に求めました。だから、この詩編は表題に、知恵の代表者である「ソロモン」王の名を付しているのです。

 

表題は、後世の人が付したものです。ソロモン王は、イスラエルの中で最も知恵のある人でした。この詩編が知恵と結びつきますので、この詩編はソロモン王が作ったと言う人がいます。また、ユダヤ人たちは、1節の「家を建てる」こととソロモン王の神殿建設を結び付けました。

 

それから2節に「主は愛する者に」とありますね。「愛する者」は、旧約聖書のサムエル記下1225節でソロモン王が「エディドヤ」すなわち、「主に愛された者」と名づけられた由来を記しています。その「エディドヤ」と同じ言葉です。それでこの詩編の表題に、ソロモン王の名が付されたのです。

 

宗教改革者カルヴァンは、表題の「ソロモン」を受け入れて、次のように述べています。「政治上の事柄について教えるのが常であったソロモンが、知恵の霊によって彼が認識し、体験さえした事柄について論ずるというのは、はなはだふさわしいからである。」

 

しかし、現在は、この詩編の表題の「ソロモン」が作者であるとは信じられていません。この詩編はバビロン捕囚の後にイスラエルがエルサレムに帰還し、神殿とエルサレムの城壁を再建したころに作られたと考えられています。

 

この詩編は、二つに内容が区分できます。12節、35節です。12節は、主なる神の祝福なしに、人が家庭を営むことはむなしいことを歌っています。35節は、子供たちは主なる神の祝福であると歌っています。

 

12節で三度「むなしい」という言葉が出てきます。家を建てること、町を守ること、日々の労働、これらは、人のこの世における大切な営みです。人がこの世に生き、生を営むために最低限必要不可欠なものです。しかし、詩人はそれ以上に重要な存在があると歌っているのです。

 

主なる神という存在です。神の民イスラエルにとって、主なる神の存在とその祝福が最も重要なものなのです。だから、どんな人にとっても、その主なる神なしという条件で営まれる生活は、むなしいということです。お金があっても、豊かで便利な生活をしていても、あるいはこの世の有名人、権力者であっても、どんなに魅力ある生活をしていても、詩人は「むなしい」「むなしい」「むなしい」と三度繰り返すのです。

 

聖書の知恵文学の特徴は、具体的な事柄を挙げて、はっきりと教えることです。12節は、家を建てること、町を守ること、日々の勤労という具体的な事柄を挙げて、詩人は主なる神なしでは、それらの営みは皆むなしいと教えているのです。

 

家を建てる時、主なる神が共にいて祝福してくださることが必要です。実際にこのわたしたちの教会を建てる時、この土地を買い、起工式を行って、建てました。それによってこの教会堂は、わたしたちが建てるのではなく、主が建てて下さることを、わたしたちは信じたのです。

 

主なる神はわたしたちの家を建ててくださるだけではありません。助けてくださるのです。何よりもこの教会堂をよしとし、どんな暴風が来ても、この教会堂が倒れないように助けてくださいました。火事から守ってくださいました。

 

主なる神がいてくださり、この教会堂を祝福してくださるから、この教会堂は60年間、今まで継続して来ているのです。

 

さらにこの詩編は具体的な事柄を挙げています。町が守られることです。家庭と教会が守られるためには、町が、この国が平和でなければなりません。

 

主なる神が、諏訪の町を、この日本の国をお守りくださるのでなければ、平和はありません。

 

先週保阪正康氏の「昭和の怪物 七つの謎」という新書を読みました。保阪氏は日本の現代史の専門家です。4000人から証言を集めて、日本がどうして戦争をしたのか、戦争に関わった人々の「歴史の闇」を追い続けておられます。

 

日本が戦争に負けた原因はいろいろありました。しかし、わたしがその本を読んで、それから今、幸日出男氏の「キリスト教と日本」という題の本を読んでいますが、これは近代日本史と信教の自由を取り上げているものです。これらの本を読んで、思いましたことは、明治以降日本という国は、国も日本人の家庭も主なる神なしに人生の営みをしようとしたということです。主なる神の助けなしに日本と日本人の家庭を守ろうとしたのです。

 

戦前の高級軍人たちは傲慢で、アメリカの国力も考えないで、精神論で日本の国を、国民を守れると思っていたのです。

 

しかし、わたしたちが知っていますように、軍人は国も国民も守れませんでした。軍人たちの努力も計画も、アメリカの国力と物量の前にむなしいものでした。日本は首都東京をはじめ、多くの都市をアメリカの空爆によって廃墟と帰しました。広島、長崎は原爆によって町も人々の家庭も廃墟となりました。

 

しかし、先週の木曜日の聖書を学ぶ集いでアモス書を学びましたが、主なる神は預言者アモスを通して北イスラエル王国と神の民の滅亡と破壊をお告げになり、同時に主なる神は、「ヨセフの残りの者を憐れむ」と約束しておられます。主なる神は、日本と日本人の家庭を滅ぼし尽くさず、残りの者たちに憐れみを示されました。

 

わたしは、箴言1022節の、次の御言葉に心を惹かれるのです。「人間を豊かにするのは主の祝福である。人間が苦労しても何も加えることはできない。」

 

これが詩編127編の詩人が教える神の知恵です。

 

日々の営みを顧みてください。詩人が2節で歌っているとおりでありませんか。わたしは、子供のころを思い起こします。父や母が朝早く起きて、夜遅くまで働いていたことを。一日の食事も貧しく、大変だったことを。

 

労働時間を長くして、生活費を稼ごうとしていました。それが、わたしの子供のころの日本人の家庭で見られる風景でした。

 

わたしの家庭はキリスト教ではありません。主なる神がおられません。父も母も自分たちの力のみを頼りして生きていました。

 

しかし、今、父と母が一生懸命働いて、守ろうとした家は、他人の手に渡りました。詩人が言うように、主なる神なしの労苦は、むなしいのです。

 

父と母だけではありません。普通、人の一生は大部分が仕事です。そして、それには定年があります。主なる神なしの仕事は、詩人はむなしいと言います。その通りです。テレビで定年を迎えた人の寂しさを放映していました。一所懸命、会社のために働いたのに、定年を迎えた日その人が知ったのは、誰も彼に関心を持たず、一人寂しく会社を去ることでした。

 

詩人は、主なる神が愛する者に眠りを与えられると歌っています。この世において幸せを感じるのは、食べること、眠ることです。どんな時にも食べられること、眠れることほど、幸いを覚えることはありません。睡眠は、詩人が言う通り主が愛される者にお与えくださるプレゼントです。睡眠は、一日の労苦を忘れさせ、明日の活力を与えてくれます。

 

詩人は、この詩編の後半、35節で家庭において子供を与えられるのは、主なる神の祝福であると歌っています。

 

詩人は、3節で「見よ、子らは主からいただく嗣業。」と歌っています。嗣業は、イスラエルが主なる神からいただいたカナンの土地です。主なる神から財産として与えられるものです。

 

子どもが嗣業であるという思想を、この詩人は持っています。子どもたちは、夫婦の努力の結果ではなく、主なる神の嗣業であり、報酬であると、詩人は言っているのです。すなわち、主なる神の恵みの賜物なのです。

 

4節で詩人は、若い時に丈夫な子として産んだ男の子は、何よりの頼りであると歌っているのでしょう。それは、共に敵と立ち向かえるからです。

 

5節で詩人は、幸いな人を歌っています。丈夫な男の子を与えられた人です。彼は、「町の門で敵と論争するとき」と歌っていますね。これは、町の門は裁判の場所だったからです。そこで裁判において敵と論争した時に、子供が彼の助けとなり、恥を蒙ることはないと、詩人は歌っているのです。

 

この詩編がネヘミア・エズラの時代であれば、イスラエルは周辺諸国の敵に囲まれ、エルサレム神殿と城壁の再建に労苦していたときです。神殿の再建も城壁の修復も人出がいります。帰還したイスラエルの神の民たちは、主なる神のお守りと助けを強く願っていたでしょう。更に彼らの家庭に生まれた子供たちの成長を待ち望んでいたでしょう。

 

彼らにとって主なる神の祝福に生きることは、エルサレム神殿と城壁の再建だけではなく、彼らの家庭における子供たちの成長だったでしょう。

 

どんなに時代が変わっても、人の価値観が変わろうとも、主なる神の祝福の中に生きるという神の民たちの信仰に変化はありません。

 

だから、わたしたちも、主なる神が教会、町、国、そして家庭を建て、守られるのでなければ、すべてはむなしいと信仰告白しましょう。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編127編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

主なる神が教会、町、国、わたしたちの家庭を造り、守られるのでなければ、すべてのことはむなしいと、詩篇127編の詩人を通して、主なる神の御心を学ぶことができて感謝します。

 

わたしたちの国も民も、神の民イスラエルと同様に、廃墟となるむなしさを体験しました。しかし、復興して75年を経ましたが、今なお主なる神なしで一生懸命生きています。そして、今日本と国民はいろんな困難なことに直面しています。

 

戦後日本が得意として来た経済に陰りが見え、これまでの労苦が徒労に思えます。

 

だからこそ、わたしたちが主なる神の祝福に生きることにより、周りの人々に大切なことは天地万物の造り主なる神の祝福に生きることだと証しさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。