詩編説教136              主の20231217

恵み深い主に感謝せよ。  慈しみはとこしえに。 感謝せよ→讃えよ

神の中の神に感謝せよ。  慈しみはとこしえに。 神の神

主の中の主に感謝せよ。  慈しみはとこしえに。 主の主

                      実に彼の慈しみは永遠に

ただひとり

驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ。一人で偉大な不思議な業を行っ

慈しみはとこしえに。 た方を

英知をもって天を造った方に感謝せよ。 425節まで「感謝せよ」はない。

慈しみはとこしえに。 

大地を水の上に広げた方に感謝せよ。 

慈しみはとこしえに。

大きな光を造った方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

昼をつかさどる太陽を造った方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

夜をつかさどる月と星を造った方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

 

エジプトの初子を討った方に感謝せよ。 

慈しみはとこしえに。

イスラエルをそこから導き出した方に感謝せよ。 

慈しみはとこしえに。

力強い手と腕を伸ばして導き出した方に感謝せよ。

             慈しみはとこしえに。

葦の海を二つに分けた方に感謝せよ。 

慈しみはとこしえに。

イスラエルにその中を通らせた方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

ファラオとその軍勢を

葦の海に投げ込んだ方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。

イスラエルの民に荒れ野を行かせた方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

強大な王たちを討った方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

力ある王たちを滅ぼした方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

 

アモリ人の王シホンを滅ぼした方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

バシャンの王オグを滅ぼした方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

彼らの土地を嗣業として与えた方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

僕イスラエルの嗣業とした方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

低くされたわたしたちを

御心に留めた方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

敵からわたしたちを奪い返した方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

 

すべての肉なるものに糧を与える方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

天にいます神に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。 

                   詩編第136126

 

説教題:「慈しみはとこしえに」

今朝は、詩篇第136126節の御言葉を学びましょう。

 

詩篇136編は、「慈しみはとこしえに」というフレーズを各節に繰り返しています。エルサレム神殿の礼拝で賛美されたのでしょう。

 

詩編の類型としては感謝の歌です。

 

13節がこの詩編の導入部です。425節がこの詩編の中心部です。そして、26節がこの詩編の結びです。

 

この詩編には、すべての節に「感謝せよ」という言葉があります。実際には、「感謝せよ」という言葉があるのは、13節と26節です。425節には「感謝せよ」という言葉はありません。

 

神殿の祭司たちが13節で会衆に讃美を促しました。「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。神の中の神に感謝せよ。慈しみはとこしえに。主の中の主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」

 

13節は、「感謝せよ」が文章の冒頭にあります。1節を文字通り直訳すると、「感謝せよ、主に。実に良い」です。わたしたちの聖書は、この「良い」を「恵み深い」と意訳しています。詩人にとっても神の民イスラエルにとっても、主なる神は良きお方、恵み深いお方です。

 

2節の「神の中の神」、3節の「主の中の主」は、「神々の神」「主の主」です。これは、主なる神の最上級の呼び名です。真の神、真の主と同じ意味です。26節の天の神も同じです。

 

13節は、他のものと比較できない至高の神、主への賛美を、感謝を、祭司が会衆に促しているのです。

 

そして、祭司に促された会衆が425節で主の創造の御業を、歴史におけるイスラエルの救済の御業を賛美し、感謝するのです。そのたびごとに祭司たちは、「慈しみはとこしえに。」と賛美しました。

 

49節が神、主による創造の御業を賛美し、感謝しています。4節の「ただひとり」は、他の者の助けを借りないでという意味です。「驚くべき大きな御業」とは、59節の主なる神の創造の御業の数々です。

 

「英知をもって」とは、知恵と分別によってという意味です。神、主は5節で天を、6節で地を創造されました。79節は、神、主が天体を創造されたことを賛美し、感謝しています。主なる神は8節で太陽を創造し、9節で月、星を創造し、太陽に昼を司らせ、月と星に夜を司らせられました。

 

詩人は、植物、動物、人間の創造には触れていません。しかし、詩人は、25節で「すべての肉なるもの」、すなわち、被造物としての生き物を養ってくださる主なる神を賛美し、感謝しています。

 

1015節は、出エジプトの出来事を賛美し、感謝しています。歴史における主なる神の救済の御業を、詩人は賛美し、感謝しています。主なる神は、10節で「エジプトの初子」を打たれました。エジプト人の長子と彼らが所有する家畜の初子を打たれました。エジプトの王は、主なる神が自分の長子やエジプト人たちの長子、家畜の初子を打たれたので、国内にいる神の民イスラエルを、国外に出すことにしたのです。

 

11節で奴隷の地エジプトから神の民イスラエルを解放して下さった主なる神を賛美し、感謝しています。12節で「力強い手と腕を伸ばして」と述べて、主なる神の力強い導きを賛美し、感謝しています。そして、13節で主なる神が紅海を二つに分けられ、14節で神の民イスラエルをその中を通らせ、15節でファラオとエジプト軍を葦の海に投げ込まれたことを賛美し、感謝しています。

 

1622節は、荒れ野の旅と約束の地カナンへの定住が神、主の御業であったと、賛美し、感謝しています。16節でシナイ山での主なる神との会見を記していません。また、荒野における神の民イスラエルのかたくな罪にも触れていません。主がアモリ人の王シホンとバシャンの王オグを滅ぼされたことを賛美し、感謝しています。そして、主がカナンの地を、彼らの嗣業の地としてお与えくださったことを賛美し、感謝しています。

 

2325節は、士師記の時代です。神の民イスラエルはカナンの地に住み、彼らの罪ゆえにしばしば周辺の諸国に支配されました。その度に主は、神の民に士師を送られ、彼らを周辺の諸国から救われました。

 

23節の「低くされたわたしたち」とは、モアブ、カナン等の周辺諸国にイスラエルが支配され、主なる神がイスラエルとの恵みの契約を思い起こされ、士師を遣わされ、彼らを救われました。主なる神が遣わされた士師たちによって敵の手から救い出されたことを感謝しているのです。

 

25節で詩人は、主なる神が御自身が創造された被造物のすべての生き物ためにパンを与えて養ってくださることを賛美し、感謝しています。

 

最後の26節は、この詩編の結びです。「天にいます神に感謝せよ」と賛美しています。これは、最高神を表わす表現です。

 

詩篇136編の詩人は、主なる神の創造と歴史における救済の二つの御業を通して、主なる神を賛美し、感謝しています。

 

135編の詩人は、出エジプトの出来事を、主なる神の選びと記しました。136編の詩人は、出エジプトの出来事を主なる神の苦難からの解放ととらえています。135編は、イスラエルは小さな民であったので、主なる神に宝の民として選ばれたと述べています。しかし、136編は、23節で「低くされたわたしたち」と述べて、至高の神、主が、天にいます神主が神の民イスラエルの低くされたことに目を向けられ、救われることを感謝しています。

 

慈しみは、神の愛です。神の愛がとこしえにという賛美の繰り返しは、神の民イスラエルの主なる神に対する創造と歴史における救済の御業からの信仰の確信ではないだろうか。

 

神の民イスラエルは、主なる神の創造と歴史における救済の御業が継続されることを通して、神の愛が永遠に続くものであることを確信したのです。

 

詩篇136編を通して、今のわたしたちも主なる神の創造と救済の御業を同時に見ることで、神の愛が永遠に続くものであることを確信しよう。

 

わたしたちは、今の暗き世界から創造主であり、救済者であるキリストを通して、御国へと解放されるのです。主日礼拝ごとに、わたしたちは、キリストの御業を賛美し、感謝し、神の愛は永遠に続くと、賛美するのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編136編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

神の民イスラエルが主なる神の創造と救済の御業を賛美し、感謝したように、わたしたちもキリストの御業を賛美し、感謝させてください。

 

創造者であり、救済者であるキリストが、いつもわたしたちの低さに目を留めてくださり、この世から御国へとわたしたちを導きてくださることを賛美し、感謝します。

 

どうか、キリストの御業を見つめつつ、神の愛が永遠に続くものであることを確信させてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教136             主の20231217

恵み深い主に感謝せよ。  慈しみはとこしえに。 感謝せよ→讃えよ

神の中の神に感謝せよ。  慈しみはとこしえに。 神の神

主の中の主に感謝せよ。  慈しみはとこしえに。 主の主

                      実に彼の慈しみは永遠に

ただひとり

驚くべき大きな御業を行う方に感謝せよ。一人で偉大な不思議な業を行っ

慈しみはとこしえに。 た方を

英知をもって天を造った方に感謝せよ。 425節まで「感謝せよ」はない。

慈しみはとこしえに。 

大地を水の上に広げた方に感謝せよ。 

慈しみはとこしえに。

大きな光を造った方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

昼をつかさどる太陽を造った方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

夜をつかさどる月と星を造った方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

 

エジプトの初子を討った方に感謝せよ。 

慈しみはとこしえに。

イスラエルをそこから導き出した方に感謝せよ。 

慈しみはとこしえに。

力強い手と腕を伸ばして導き出した方に感謝せよ。

             慈しみはとこしえに。

葦の海を二つに分けた方に感謝せよ。 

慈しみはとこしえに。

イスラエルにその中を通らせた方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

ファラオとその軍勢を

葦の海に投げ込んだ方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。

イスラエルの民に荒れ野を行かせた方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

強大な王たちを討った方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

力ある王たちを滅ぼした方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

 

アモリ人の王シホンを滅ぼした方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

バシャンの王オグを滅ぼした方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

彼らの土地を嗣業として与えた方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

僕イスラエルの嗣業とした方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

低くされたわたしたちを

御心に留めた方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

敵からわたしたちを奪い返した方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

 

すべての肉なるものに糧を与える方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。 

天にいます神に感謝せよ。 慈しみはとこしえに。 

                   詩編第136126

 

説教題:「慈しみはとこしえに」

今朝は、詩篇第136126節の御言葉を学びましょう。

 

詩篇136編は、「慈しみはとこしえに」というフレーズを各節に繰り返しています。エルサレム神殿の礼拝で賛美されたのでしょう。

 

詩編の類型としては感謝の歌です。

 

13節がこの詩編の導入部です。425節がこの詩編の中心部です。そして、26節がこの詩編の結びです。

 

この詩編には、すべての節に「感謝せよ」という言葉があります。実際には、「感謝せよ」という言葉があるのは、13節と26節です。425節には「感謝せよ」という言葉はありません。

 

神殿の祭司たちが13節で会衆に讃美を促しました。「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。神の中の神に感謝せよ。慈しみはとこしえに。主の中の主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。」

 

13節は、「感謝せよ」が文章の冒頭にあります。1節を文字通り直訳すると、「感謝せよ、主に。実に良い」です。わたしたちの聖書は、この「良い」を「恵み深い」と意訳しています。詩人にとっても神の民イスラエルにとっても、主なる神は良きお方、恵み深いお方です。

 

2節の「神の中の神」、3節の「主の中の主」は、「神々の神」「主の主」です。これは、主なる神の最上級の呼び名です。真の神、真の主と同じ意味です。26節の天の神も同じです。

 

13節は、他のものと比較できない至高の神、主への賛美を、感謝を、祭司が会衆に促しているのです。

 

そして、祭司に促された会衆が425節で主の創造の御業を、歴史におけるイスラエルの救済の御業を賛美し、感謝するのです。そのたびごとに祭司たちは、「慈しみはとこしえに。」と賛美しました。

 

49節が神、主による創造の御業を賛美し、感謝しています。4節の「ただひとり」は、他の者の助けを借りないでという意味です。「驚くべき大きな御業」とは、59節の主なる神の創造の御業の数々です。

 

「英知をもって」とは、知恵と分別によってという意味です。神、主は5節で天を、6節で地を創造されました。79節は、神、主が天体を創造されたことを賛美し、感謝しています。主なる神は8節で太陽を創造し、9節で月、星を創造し、太陽に昼を司らせ、月と星に夜を司らせられました。

 

詩人は、植物、動物、人間の創造には触れていません。しかし、詩人は、25節で「すべての肉なるもの」、すなわち、被造物としての生き物を養ってくださる主なる神を賛美し、感謝しています。

 

1015節は、出エジプトの出来事を賛美し、感謝しています。歴史における主なる神の救済の御業を、詩人は賛美し、感謝しています。主なる神は、10節で「エジプトの初子」を打たれました。エジプト人の長子と彼らが所有する家畜の初子を打たれました。エジプトの王は、主なる神が自分の長子やエジプト人たちの長子、家畜の初子を打たれたので、国内にいる神の民イスラエルを、国外に出すことにしたのです。

 

11節で奴隷の地エジプトから神の民イスラエルを解放して下さった主なる神を賛美し、感謝しています。12節で「力強い手と腕を伸ばして」と述べて、主なる神の力強い導きを賛美し、感謝しています。そして、13節で主なる神が紅海を二つに分けられ、14節で神の民イスラエルをその中を通らせ、15節でファラオとエジプト軍を葦の海に投げ込まれたことを賛美し、感謝しています。

 

1622節は、荒れ野の旅と約束の地カナンへの定住が神、主の御業であったと、賛美し、感謝しています。16節でシナイ山での主なる神との会見を記していません。また、荒野における神の民イスラエルのかたくな罪にも触れていません。主がアモリ人の王シホンとバシャンの王オグを滅ぼされたことを賛美し、感謝しています。そして、主がカナンの地を、彼らの嗣業の地としてお与えくださったことを賛美し、感謝しています。

 

2325節は、士師記の時代です。神の民イスラエルはカナンの地に住み、彼らの罪ゆえにしばしば周辺の諸国に支配されました。その度に主は、神の民に士師を送られ、彼らを周辺の諸国から救われました。

 

23節の「低くされたわたしたち」とは、モアブ、カナン等の周辺諸国にイスラエルが支配され、主なる神がイスラエルとの恵みの契約を思い起こされ、士師を遣わされ、彼らを救われました。主なる神が遣わされた士師たちによって敵の手から救い出されたことを感謝しているのです。

 

25節で詩人は、主なる神が御自身が創造された被造物のすべての生き物ためにパンを与えて養ってくださることを賛美し、感謝しています。

 

最後の26節は、この詩編の結びです。「天にいます神に感謝せよ」と賛美しています。これは、最高神を表わす表現です。

 

詩篇136編の詩人は、主なる神の創造と歴史における救済の二つの御業を通して、主なる神を賛美し、感謝しています。

 

135編の詩人は、出エジプトの出来事を、主なる神の選びと記しました。136編の詩人は、出エジプトの出来事を主なる神の苦難からの解放ととらえています。135編は、イスラエルは小さな民であったので、主なる神に宝の民として選ばれたと述べています。しかし、136編は、23節で「低くされたわたしたち」と述べて、至高の神、主が、天にいます神主が神の民イスラエルの低くされたことに目を向けられ、救われることを感謝しています。

 

慈しみは、神の愛です。神の愛がとこしえにという賛美の繰り返しは、神の民イスラエルの主なる神に対する創造と歴史における救済の御業からの信仰の確信ではないだろうか。

 

神の民イスラエルは、主なる神の創造と歴史における救済の御業が継続されることを通して、神の愛が永遠に続くものであることを確信したのです。

 

詩篇136編を通して、今のわたしたちも主なる神の創造と救済の御業を同時に見ることで、神の愛が永遠に続くものであることを確信しよう。

 

わたしたちは、今の暗き世界から創造主であり、救済者であるキリストを通して、御国へと解放されるのです。主日礼拝ごとに、わたしたちは、キリストの御業を賛美し、感謝し、神の愛は永遠に続くと、賛美するのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、詩編136編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

神の民イスラエルが主なる神の創造と救済の御業を賛美し、感謝したように、わたしたちもキリストの御業を賛美し、感謝させてください。

 

創造者であり、救済者であるキリストが、いつもわたしたちの低さに目を留めてくださり、この世から御国へとわたしたちを導きてくださることを賛美し、感謝します。

 

どうか、キリストの御業を見つめつつ、神の愛が永遠に続くものであることを確信させてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教137              主の20231231

バビロンの流れのほとりに座り ほとりで バビロン川の

シオンを思って、わたしたちは泣いた。 そこでわたしたちは座した。そして泣

竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。 いた。わたしたちが思い出す時、シオン

わたしたちを捕囚にした民が を。そこにある柳の木々にわたしたちはわたし

歌をうたえと言うから たちの竪琴を掛けた。まことにわたしたちを捕虜

わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして にした者たちが、そこでわたしたち

「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。に歌詞を求めたからだ。わたし

たちを嘲る者たちが慰めにシオンの歌から歌って見せよと。

どうして歌うことができようか。どうしてわたしたちは、主の歌を歌えよう。 

主のための歌を、異教の地で。異国の地で。

 

エルサレムよ もしも、エルサレムよ、

もしも、わたしがあなたを忘れるなら わたしがあなたを忘れるなら

わたしの右の手はなえるがよい。わたしの右手は萎えてしまえ

わたしの舌は上顎にはり付くがよい。わたしの舌はわたしの上顎にくっついて

もしも、あなたを思わぬときがあるなら しまえ。もしもわたしがあなたを思

もしも、エルサレムを い出さないなら もしもわたしがエルサレムを最上の

わたしの最大の喜びとしないなら。 喜びとしないなら。

 

主よ、覚えていてください 思い起こしたまえ、主よ。

エドムの子らを エドムの息子たちを

エルサレムのあの日を エルサレムの日を

彼らがこう言ったのを 彼らはこう言ったのだ。

「裸にせよ、裸にせよ、この都の基まで。」「裸にせよ、裸にせよ、その基

娘バビロンよ、破壊者よ  まで」 娘バビロンよ、略奪された者たちよ、

いかに幸いなことか 幸いだ、お前に仕返しをする者たちは。

お前たちがわたしにした仕打ちを お前がわたしたちに下した仕打ちを

  お前に仕返す者 幸いだ

お前の幼子を捕らえて岩にたたきつける者は。お前の幼児たちを、掴み取って

                     岩に向かって打ち砕く者は。

                   詩編第13719

 

説教題:「シオンを思ってわたしたちは泣いた。」

今朝は、詩篇第13719節の御言葉を学びましょう。

 

詩篇137編は、歴史的背景がはっきりしています。神の民イスラエルがバビロニア帝国に捕囚された時期であります。そこで神の民イスラエルが受けた苦しみ、恥辱を思い出しながら、嘆きと呪いを、詩人は歌っているのです。

 

1節と3節に「そこで」という言葉があります。新共同訳聖書は省略しています。1節は「バビロン川のほとりで、そこでわたしたちは座した。そして私たちは泣いた。シオンを思い出しながら」です。

 

これは、詩人の過去の出来事を思い起こして、歌っているのです。バビロン川は、運河のことです。場所は分かりませんが、捕囚されたイスラエルの民が居住していた所でしょう。そこでエルサレム神殿で聖歌隊の一員であった詩人が、バビロニア帝国の者たちに辱められたのです。

 

バビロニア帝国の捕囚の民イスラエルを監視していた者たちが、彼らの楽しみのために、あるいは慰めのためにエルサレム神殿で歌われたシオンの歌を歌えと、詩人に強要したのです。

 

詩人は、2節で竪琴を柳の木々に掛けました。これは、詩人が神の民を嘲る者たちの要求を拒んだということだろう。しかし、それは事実ではないだろう。詩人は、バビロニア帝国の者たちの要求を受け入れ、屈辱を味わったことだろう。

 

だから、詩人は3節でこのように歌っているのではないだろうか。「まことにわたしたちを捕虜にした者たちが、そこでわたしたちに歌の言葉を求めたからだ。わたしたちを嘲る者たちが自分たちの楽しみにシオンの歌を歌って見せよ」。

 

この屈辱に、詩人は4節で「どうしてわたしたちは、主の歌を歌えよう。異国の地で。」と述べています。これは、詩人がシオンの歌を歌わされてしまったことに対する後悔の言葉、彼の魂の苦しみの言葉でないでしょうか。

 

だから、詩人は、バビロン川のほとり、運河のほとりに座って、一人泣いていたのでしょう。

 

バビロニアの人々は、詩人にシオンの歌を歌わせて、笑い物にしているのです。おそらく詩人が信じる主なる神を、彼らは無能の神として嘲ったでしょう。そのことを詩人は思い出すと、涙が止まりません。自分がこの異国にいることが悲しくて仕方がありません。

 

だから、エルサレムへの思いが一層に募って来るのです。56節で詩人は、エルサレムを決して忘れないと誓います。もし彼がエルサレムを忘れることがあるなら、彼の右手が切られて、竪琴を奏でられなくなっても良いし、彼の舌が上顎に引っ付いてシオンの歌を歌えなくなっても良いと言っています。

 

詩人は、バビロン捕囚の間、エルサレムを忘れることはありませんでした。エルサレムを最大の喜びとして生きたのです。紀元前586年、第二回目のバビロン捕囚より50年後に、ペルシア帝国のクロス王の解放によって、神の民イスラエルはエルサレへの帰還を許されました。

 

実は、バビロニア帝国に捕囚された民は、ユダヤ人たちだけではありませんでした。他の民もいたのです。しかし、ユダヤ人たちだけがエルサレムに帰還し、エルサレム神殿を再建し、エルサレムの都を修復し、彼らの共同体を再建しました。彼らは、この詩人のようにエルサレムへの思いを決して忘れることなく、次の世代に伝えていたのです。詩編137編は、後の世代にエルサレムへの思いを伝える良き教材となったでしょう。

 

さらに詩人は、79節でバビロニア帝国とその侵略を手伝ったエドム人への恨みと復讐を歌っています。

 

詩人は、主にエドム人のことを覚えていてくださいと祈ります。彼らに主が復讐されるためです。バビロニア帝国が南ユダ王国を侵略し、エルサレムの都を攻撃したとき、エドムの人々もその攻撃に加わっていました。エドム人は、イスラエル、すなわち、ヤコブの兄エソウの子孫です。イスラエルと兄弟です。エドム人は兄弟を裏切り、エルサレムの都が破壊尽くされるように呪いました。主がそのことを忘れないで、いつの日かエドムを裁かれるように、詩人は祈っています。

 

また、詩人はバビロニア帝国を呪っています。エルサレムの都を破壊し、神の民を虐殺し、彼らの財産を奪い、捕囚したバビロニア帝国を滅ぼす者が幸いな者となるようにと祈っています。バビロニア帝国が犯した悪事を仕返しする者が幸いとなり、バビロニア帝国の子供たちが殺され、帝国が滅びるように祈っています。

 

この復讐の祈り、賛美は、わたしたちに人気がありません。詩編歌を歌うことにつまずきとなっています。

 

主イエスは、敵をも愛せよと言われました。暴力には暴力によって仕返しするなと命じられました。しかし、詩篇の中には、この詩編のように嘆き訴える詩人が復讐を祈るものが多くあります。

 

報復を願うのが人の本能です。やられたら、やり返すのです。数年前に「半沢直樹」というテレビドラマで、倍返しが流行になりました。主人公の半沢直樹が銀行で不正な取引で窮地に立たされ、倍返しで不正な者たちを退治する痛快劇でした。

 

旧約聖書はそうした人間の本能を肯定しているのです。今イスラエルとハマスの戦争が問題になっていますが、不当に攻撃されれば、報復を願うのが人の常です。仕返しは、人の持つ本能です。

 

今のイスラエルの国には、大国アメリカに支援によってハマスに報復する十分な武器があります。しかし、詩篇137編の詩人や神の民イスラエルは、バビロニア帝国に、エドム人に報復する力はありませんでした。むしろ、エルサレムに帰還した後も、神の民たちは屈辱を受け続けなければなりませんでした。

 

だから、この詩人のように神に報復を祈る以外になかったのです。旧約聖書は、人の本能だからと言って、神の民が自ら報復することはありません。エジプトに奴隷として300年間苦しめられました。彼らはエジプト人に報復して、奴隷から解放されたのではありません。主なる神がエジプト人たちに報復して下さったのです。

 

だから、旧約聖書の申命記に主なる神が「わたしが報復し、報いをする」(32:35)と言われています。使徒パウロもこの御言葉を引用して、「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(ローマ12:19)と述べています。使徒パウロは、わたしたちに復讐は主に委ね、善をもって悪に勝つように勧めています。

 

わたしたちキリスト者は、聖霊をいただいています。これは、聖霊の御力でわたしたちが善き業をなせるということです。だから、使徒パウロが勧めるように、悪に対して善によって仕返しをするのです。

 

残念なことは、イスラエルの国が神の民の国ではないことです。もしイスラエルの国が主イエスを信じて、主エスのように貧しいパレスチナの人々を慈しみ憐れむことができたら、平和が実現したのではないでしょうか。復讐し、パレスチナの子供たちを虐殺し、パレスチナの人々を滅ぼすよりも、貧しい子供たちを助け、援助することで将来に平和を得る方がよいと思うのです。

 

それと聖書を正しく理解すべきです。詩編137編の詩人が主なる神に復讐を祈るのは、彼に復讐の力も手段もなかったからです。彼や神の民イスラエルが無力であるから、彼らは主なる神に復讐を祈ったのです。

 

それを克服する道は、わたしたちにとっては聖霊に寄り頼む以外にないと思うのです。憎しみを愛に変えてくださいという祈り以外にありません。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今年最後の礼拝で詩編137編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

詩人や神の民イスラエルがこの世で味わう苦しみは、わたしたちの苦しみと同じです。わたしたちも涙し、御国を思うことがあります。どうか、この詩人や神の民イスラエルが、エルサレムを忘れなかったように、わたしたちも御国とそこから来られる再臨のキリストを忘れることがないようにしてください。

 

今年最後の日が主の日であったことを感謝します。どうか、新しき年、キリストの再臨と御国の完成を希望を持ち、待ち望ませてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。