詩篇146編説教     主の2024526

ハレルヤ。          ハレルヤ。 

わたしの魂よ、主を賛美せよ。 賛美せよ、わたしの魂よ、主を。

命のある限り、わたしは主を賛美し わたしは賛美しよう、主を、わたし

長らえる限り 生涯。ほめ歌おう、わたしの神を、

わたしの神にほめ歌をうたおう。生きる限り。

 

君侯に依り頼んではならない。 君侯たちに信頼するな。

人間には救う力はない。彼に救いのない所の人の子に。

霊が人間を去れば 彼の霊が去れば

人間は自分の属する土に帰り 彼は彼の土に戻る。

その日、彼の思いも滅びる。 その日、彼の思いも滅び行く。

 

いかに幸いなことか 幸いだ。

ヤコブの神を助けと頼み ヤコブの神を彼の助けとし

主なるその神を待ち望む人 彼の望みを彼の神、主の上におく者は。

天地を造り 彼は天と地を造った方。

海とその中にあるすべてのものを造られた神を 海とそれらの中のすべて

                      ものを。

とこしえにまことを守られる主は まことを永遠に守る方。

虐げられている人のために裁きをし 虐げられた者たちのために裁きをし

飢えている人にパンをお与えになる。 飢えている者たちにパンを与え、

主は捕らわれ人を解き放ち 主は捕らわれ人たちを解放し、

主は見えない人の目を開き 主は目が見えない人たちの目を開かれ、

主はうずくまっている人を起こされる。主はうずくまっている人を起こさ

主は従う人を愛し れる。主は義人たちを愛し、

主は寄留の民を守り 主は寄留の異邦人たちを守り、

みなしごとやもめを励まされる。 孤児とやもめを励まされる。

しかし、主は、逆らう者の道をくつがえされる。主は悪人たちの道を曲げられる。

主はとこしえに王。主は永遠に王である。

シオンよ、あなたの神は代々に王。 シオンよ、あなたの神は代々に。

ハレルヤ。 ハレルヤ。

                 詩篇第146110

 

 説教題:「幸いである、主を待ち望む人は」

 今朝は、詩篇第146110節の御言葉を学びましょう。詩編150編を1編ずつ学び続けて、残り5編となりました。

 

 

残り5編の146150編は、「ハレルヤ詩編」です。冒頭に「ハレルヤ」、「主を誉めたたえよ」とあり、最後にも「ハレルヤ」、「主を誉めたたえよ」とあります。「ハレルヤ」で始まり、「ハレルヤ」で終わっています。この「ハレルヤ」は、エルサレム神殿に集った会衆に向けて語られた言葉です。ハレルヤ詩編は神の民、会衆の神賛美です。

 

 ところが、146編は、詩人が「わたしの魂」に向けて神賛美する個人の讃美の歌で始まっています。12節で詩人は「わたしの魂よ、主を賛美せよ。命のある限り、わたしは主を賛美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌をうたおう。」と賛美しています。この詩編の導入部です。

 

 詩人は、「わたしの魂」に語りかけて主なる神を、彼の生涯にわたって、限りなく賛美しょうと宣言しているのです。

 

 詩編14521節で詩人が「わたしの口は主を賛美します。すべての肉なるものは 世々限りなく聖なる御名をたたえます。」と賛美していますね。146編の詩人は、それに答えるように主なる神を彼の生涯にわたって限りなく賛美すると宣言しているのです。

 

そして、詩篇146編は、39節で教訓詩を歌っています。詩人は、この世の君侯に信頼するな、死すべき人間に救いはないと警告し、ヤコブの神である主に望みを置く者たちの幸いを歌っています。

 

 このテーマは、これまで詩編の中でしばしば歌われていました。例えば詩編11859節です。89節で「人間に頼らず、主を避けどころとしよう。君侯に頼らず、主を避けどころとしよう。」と詩編118編の詩人は歌っています。

 

 詩篇146編の詩人も3節で「君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない」と歌っています。その理由は、4節の御言葉です。「霊が人間を去れば 人間は自分の属する土に帰り その日、彼の思いも滅びる」からです。

 

詩人は、旧約聖書の創世記27節の御言葉を思い起こしています。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」人間は、この世で永遠に生きることはできません。彼は土で造られ、神の息を内に吹き込まれました。だから、霊が去ると、人間は主なる神が人間を造られた塵に、土に帰らなければなりません。その時人間の企てはすべて無に帰するのです。

 

 このように聖書は、人間が主なる神によって塵から、土から造られたと証言しています。人間はこの世においては過ぎ去るものです。そして、人間が企てることは死と共に滅びるのです。だから詩人は、世の権力者に頼っても、滅びゆく人間に救いはないと言うのです。

 

 詩人は、むしろ、わたしたちの目には見えない主なる神に望みを置く人々は幸いだというのです。5節です。「いかに幸いなことか ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人」。

 

詩人はわたしたちに目に見える人間に救いはないと言い、他方、わたしたちの目には見えない主なる神に望みを置く人々は幸いだと言うのです。

 

 6節で詩人は、その理由を歌っています。「天地を造り 海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は。」主なる神は、天地の創造者です。海とその中にあるすべてのものの創造者です。そして、主なる神は摂理の御業を通して自然と歴史において造られたすべての生き物をとこしえに守られる真実の御方です。だから、主なる神に望みを置く者は幸いなのです。

 

 詩人は、この地上で生きるすべての生きものは、目に見える人間、この世の権力者によって生かされているのではなく、目には見えない主なる神によって生かされて、守られていると歌っているのです。

 

 さらに詩人は、主なる神に望みを託す理由を、79節で次のように賛美しています。「虐げられている人のために裁きをし 飢えている人にパンをお与えになる。主は捕らわれ人を解き放ち 主は見えない人の目を開き 主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し 主は寄留の民を守り みなしごとやもめを励まされる。しかし、主は、逆らう者の道をくつがえされる。」

 

 この詩編は、第二神殿の時代に、ペルシアの時代に作られたでしょう。詩人は、過去において神の民が経験した苦難を知っていたでしょう。南ユダ王国がバビロンに滅ぼされ、捕囚生活をし、再びエルサレムに帰還し、困難な中で神殿とエルサレムの都の城壁を再建したことを。神の民イスラエルは、王も、国の高官も役人たちも南ユダ王国とエルサレムの都が存亡の危機の時、救えなかったことをよく知っていました。預言者エレミヤたちが預言した主なる神だけが彼らを捕囚の地から救われたのです。

 

 バビロン捕囚の体験こそ「君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない」という究極の無力をはっきりさせたのです。

 

詩人は、わたしたちにこの真理を伝えているのです。わたしたちの救いは、目に見える人間から来るのではなく、目に見えないヤコブの神、主なる神から来るのです。主なる神は天地の創造者であり、すべての生きものを造られ、永遠に守られるお方です。

 

守られるとは、主なる神が摂理の御業によって季節を通して、植物を育てられ、食糧として与えてくださいます。だから、詩人は6節後半で「とこしえにまことを守られる主」と賛美するのです。

 

詩人は、主なる神とこの世の権力者を比較しています。そして、この世の権力者たちを信頼することの問題性を指摘するのです。それは、この世の権力者たちは永遠にまことを守ることができないということです。彼らは滅びゆく者だからです。人間は主なる神のように永遠にこの世に生きるものを守ることはできないのです。

 

この世の権力者は、主なる神のように虐げられている者のために裁きをしません。彼ら自身が虐げているからです。パンを求めて飢えている人は、権力者たちの利権によって生まれているのです。神の民をバビロンから解放したのは、ユダヤの王ではなく、主なる神でした。主なる神がペルシアの王クロスを動かされて、神の民をバビロンから解放されました。この世の権力者は見えない人の目を開くことはできません。むしろ、見える人がこの世の権力を批判する目を閉じさせるのです。うずくまっている人、義人、孤児とやもめと寄留者は、社会的弱者の代表者です。権力者は彼らを見捨てるのですが、主なる神は社会的弱者を、義人を守られ、励まされます。

 

だから、わたしたちがこの世の権力者に希望を置くなら、彼の死と共にわたしたちの希望も打ち砕かれるのです。わたしたちが主なる神に望みを置くのであれば、わたしたちは永遠に主なる神によって堅く立てられ、守られるのです。

 

なぜなら、主なる神こそわたしたちの永遠の王であるからです。エルサレム神殿に臨在する主なる神は、永遠にシオンの王です。

 

同じようにわたしたちがこの教会で礼拝します主イエス・キリストは、わたしたちの永遠の王です。わたしたちは、この詩人と共にこの世の権力者と人間に信頼することなく、今は目には見えませんが、やがて来られる主イエスを、わたしたちの永遠の王として待ち望もうではありませんか。

 

お祈りします。

 

 主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、詩篇第146編の御言葉を学べる機会をお与えいただき、感謝します。

 

 どうかわたしたちもこの詩人同様に心を尽くして主を崇め、心から主を讃美させてください。

 

このわたしたちの礼拝が永遠に、限りなく主の御名を賛美する場であることを知り、感謝します。

 

 どうか、今朝の詩編146編の御言葉に導かれて、天地万物を創造された主なる神にのみ信頼を寄せさせてください。

 

 どうか、創造者の摂理の御業を通してわたしたちと家族を、諏訪地方や松本、伊那の人々を、この世界のすべての生きるものを守り、祝福してください。

 

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 詩篇147編説教     主の2024623

ハレルヤ。                 ハレルヤ。 

わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく 実に良い、ほめ歌うこと

神への賛美はいかに美しく快いことか。は、わたしの神に。実に喜ばしい、

主はエルサレムを再建し 美しい賛美は。エルサレムを建てる者、主は。

イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。イスラエルの追いやら

打ち砕かれた心の人々を癒し れた者らを、彼は集める。癒す者、心の

その傷を包んでくださる。 砕かれた者らを。包む者、彼らの傷を。

 

主は星に数を定め 彼は星たちの数を数える。

それぞれに呼び名をお与えになる。それらのすべてに名を、彼は名付ける。

わたしたちの主は大いなる方、御力は強く わたしたちの主は偉大で、御

英知の御業は数知れない。 力は大きい。彼の英知は限りない。

主は貧しい人々を励まし 主は励まされる、貧しい者らを。

逆らう者を地に倒される。 悪人らを、地まで低くされる。

感謝の献げ物をささげて主に歌え。主に歌え、感謝をもって。ほめ歌え、

竪琴に合わせてわたしたちの神にほめ歌をうたえ。 わたしたちの神に

                      琴をもって。

主は天を雲で覆い、大地のために雨を備え 密雲で天を覆い、地のために

山々に草を芽生えさせられる。 雨を備え、山々に草を芽生えさせる方を。

獣や、烏のたぐいが求めて鳴けば 彼は与えられる、獣に、烏の子らが鳴

食べ物をお与えになる。 けば、食物を。

 

主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく 彼は、馬の勇ましさを喜ばない。

人の足の速さを望まれるのでもない。彼は人の脚力ではなく、彼を恐れる

主が望まれるのは主を恐れる人 者らを、彼の慈しみを待ち望む者らを望

主の慈しみを待ち望む人。 まれる。

 

エルサレムよ、主をほめたたえよ エルサレムよ、主をほめたたえよ。

シオンよ、あなたの神を賛美せよ。シオンよ、あなたの神を賛美せよ。

主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし 実に彼はあなたの門のかんぬき

あなたの中に住む子らを祝福してくださる。 を強くし、あなたの中で

あなたの国境に平和を置き あなたの子らを祝福される。彼はあなたの

あなたを最良の麦にあかせてくださる。 領地に平和を置く者。彼は最良

                  の小麦であなたを満腹させられる。

主は仰せを地に遣わされる。主は彼の御言葉を地に送る者。

御言葉は速やかに走る。 御言葉が早く走るまで。

羊の毛のような雪を降らせ 彼は羊毛のような雪を降らせる者。

灰のような霜をまき散らし 彼は灰のような霜をまき散らし、

氷塊をパン屑のように投げられる。彼が氷をパン屑のように投げられたら、

誰がその冷たさに耐ええよう。誰がその冷たさの前に立ち得るだろう。

御言葉を遣わされれば、それは溶け 彼は御言葉を送られると、それらを

息を吹きかけられれば、流れる水となる。溶かす。風を吹かせられると、

                   水となって流れる。

主はヤコブに御言葉を 彼はヤコブに彼の御言葉を告げられる。

イスラエルに掟と裁きを告げられる。 彼の掟と裁きを、イスラエルに。

どの国に対しても 彼はすべての国に  

このように計らわれたことはない。 このように行われない。

彼らは主の裁きを知りえない。 彼らは、主の裁きを知りえない。

ハレルヤ。 ハレルヤ。

                 詩篇第147120

 

 説教題:「主の慈しみを待ち望む人」

 今朝は、詩篇第147120節の御言葉を学びましょう。

 

146150編は、「ハレルヤ詩編」と呼ばれています。冒頭に「ハレルヤ」とあり、最後にも「ハレルヤ」とあります。「ハレルヤ」で始まり、「ハレルヤ」で終わっています。このハレルヤ詩編は、エルサレム神殿で神の民、会衆の神賛美として歌われました。

 

 147編は、文学類型としては賛美の歌です。詩人は、1節と7節と12節で神の民、会衆に共同の神賛美を促しています。そして続いてその理由を述べるために、1節と13節に「実に」という言葉を用いています。7節以下には「実に」という言葉が使われていません。しかし、理由は述べられています。このように詩編147編は、1節と7節と12節で詩人は、神の民、会衆に神賛美を促し、その理由を述べているのです。

 

では、1節から見ていきましょう。詩人は1節で「ハレルヤ」と、神賛美し、神賛美をすることは良いことであり、美しい神賛美は実に喜ばしいと賛美しています。

 

「ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく 神への賛美はいかに美しく快いことか。」この御言葉に出会って、わたしたちの心はハーッとしないでしょうか。

 

わたしたちは、長年主日礼拝で神賛美しています。それが当たり前と思っていないでしょうか。気づくと、何の感動もなく賛美していないでしょうか。

 

詩人が「いかに喜ばしく」と言っているのは、「実に良い」という意味です。詩人が「神への賛美はいかに美しく快いことか」と言っているのは、「実に讃美はわたしたちの神にふさわしい」という意味です。

 

わたしたちが毎週主日礼拝で讃美歌を歌うことは、わたしたちにとって実に良いことであり、わたしたちの讃美歌は神にふさわしいことなのです。詩人は、わたしたちに毎週日曜日にわたしたちが教会に集まって礼拝で讃美歌を歌うことは、実に私たちにとって良いことであり、キリストにふさわしいことであると、歌っているのです。

 

詩人は、わたしたちにそのように神賛美を促す理由を26節で賛美しています。23節はイスラエルの神の民たちの歴史です。主なる神は、バビロン捕囚の神の民たちをエルサレムに帰還させて、エルサレム神殿を再建されました。紀元前515年です。それによって70年間バビロン捕囚で心傷ついていた神の民たちは主なる神に癒され、主が彼らの心の傷を包んでくださいました。それがエルサレム第二神殿での彼らの礼拝でした。

 

神の民をバビロンからエルサレムに導かれた主なる神は、創造主です。全能の神です。主は造られた夜空の星の数を御存じです。詩人は、「それぞれに呼び名をお与えになる」と歌っていますが、主がその無数にある星を支配されているという意味です。

 

詩人は、56節でわたしたちの主は大いなるお方であり、偉大なお方であり、わたしたちは想像もできない主の英知の御業によって裁かれ、主は貧しい者らを励まし、悪人たちの身を低くくさせて、死者の世界まで落とされると歌っているのです。

 

このように詩人は神を賛美する理由を、こう述べています。創造主であり全能の神である主がわたしたちのために神殿と教会を造られたからです。主がわたしたちのために自然を支配し、貧しい者らを励まされ、神に敵対する富める者たちを低くされ、滅ぼされるからです。

 

詩人は、神の民に、わたしたちに、理由を述べて、こう伝えたいのです。自然と人と民族の運命を左右するのは、カナンの神々でも、人でもない。唯一の神である創造主なる神、全能の神である主であると。だから、わたしたちが主なる神を賛美することは、わたしたちの神、主に相応しいことであると。

 

続いて詩人は、7節でも神の民、会衆に神賛美を促しています。「感謝の献げ物」は、神への感謝のことです。詩人は、主なる神に感謝して、神賛美せよと勧めています。「竪琴に合わせて」とは、オルガンの演奏に合わせてという意味です。「うたえ」は、応えるという意味です。主なる神の慈しみに応えて、すなわち、主なる神によってバビロン捕囚から解放された神の民は、その神の恵みに応えてエルサレム第二神殿で神賛美したのです。わたしたちキリスト者も同じです。キリストの十字架によってわたしたちは罪を赦され、永遠の滅びから救い出されたのです。わたしたちは、この恵みを感謝して、主なる神を、キリストを賛美するのです。

 

詩人は、8節でパレスチナの自然を支配するのは、カナンの神々ではなく、主なる神だと賛美しています。主なる神は、慈しみ深いお方です。パレスチナの地で神の民が生きるために、そして造られたすべての生き物のために水を備えられ、日々の糧を与えられます。

 

詩人は食べ物を求めて泣く、烏の子らにも与えてくださいますと賛美していますね。わたしは、主イエスが彼の弟子たちに日々の糧のことで思い悩むなと諭されたことを思い起こします。ルカによる福音書1224節で主イエスはこう言われました。「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる。あなたがたは、烏よりもどれほど価値があることか」と。

 

詩人は、さらに1011節で主なる神が神の民に何を望まれているのかを教えています。主は、神の民が、わたしたちが軍事力に頼ることを喜ばれません。馬は詩人の時代、軍事力の代表でした。「人の足の速さ」とは、健脚力の強い人間のことです。馬と歩兵の強さが当時の戦争を左右したからです。しかし、主なる神は、神の民が馬と人に信頼することを望まれませんでした。主が望まれたのは、主を畏れ、主の愛を待ち望んでいる信仰者です。

 

バビロン捕囚から帰還したユダヤ人たちは、ペルシア帝国の支配下にありました。ペルシア帝国は、馬、すなわち戦車によって、歩兵の強さによって諸国を支配していました。常にこの世は力が優先します。大国の軍事力の前で神の民イスラエルは無力な存在です。しかし、主なる神が望まれるのは、イスラエルが軍事力を得ることではなく、主なる神を畏れ、神の慈愛に望みを置くことでありました。

 

詩人は、12節でエルサレムとシオンに主なる神をほめたたえよと促しています。詩人は1314節で「実に」(13)という言葉を使ってその理由を述べています。賛美する理由は、主なる神が神の民にエルサレムの都の城壁の修復を促され、エルサレムの都を守られ、都に住む神の民たちを最良の小麦で養われ、祝福されたからです。

 

「城門のかんぬきを堅固にし」とは、主なる神がシオンを、エルサレムの都を保護されたということです。エルサレムは都市国家として独立するようになり、エルサレムは神の民の中心に属するものとなり、神は彼らを祝福し、生活を豊かにされるだけではなく、神の律法によって掟と裁きによって神の民を支配されました。

 

詩人は、1520節で神の御言葉について述べているのです。15節の「仰せ」は神の啓示であり、神の御意思です。「御言葉が速やかに走る」とは、パレスチナの自然の中で主なる神は創造主としてご自身の御心をあらわされたのです。

 

わたしたちは、神の啓示を自然啓示と特別啓示である聖書に区別します。パレスチナは乾季と雨季があり、冬になると、パレスチナでは雪、霜、雹が天から降りました。その自然界の現象を、詩人は不思議な神の御業と思っているのです。天の雲に蓄えられた水が雪に、霜に、雹という氷に変化するのです。そして、主なる神は、自らの御意志で、「御言葉を遣わされて」その氷を水にして、ヨルダン川に流され、パレスチナの地を人や獣が生きることのできる豊かな地としてくださるのです。

 

そして、主なる神は、ヤコブ、すなわち、神の民イスラエルにご自身の御心を伝えて、「掟」と「裁き」、すなわち、神の律法を、特別啓示である旧約聖書を与えられました。神の民たちは、エルサレム神殿の礼拝で祭司やレビ人によって神の律法が朗読されるのを聞きました。

 

神の民であるユダヤ人以外に、どの諸国民も神の御意志である特別啓示、旧約聖書の神の御言葉を、礼拝を通して聴いたものはいません。神の民以外に神の律法を、特別啓示である旧約聖書を知りえる者はいませんでした。

 

詩人は、主なる神は神の民イスラエルを選ばれ、彼らに神の律法を与えられたことを伝えているのです。

 

詩人がわたしたちに伝えたかったことは、神殿とエルサレムの城壁の再建であり、それによって神の民が確立されたことです。詩人にとってバビロン捕囚からエルサレムの都に神の民たちが帰還し、神殿とエルサレムの都を再建できたことは、主なる神に見捨てられた彼らが再び主なる神の花嫁として迎え入れられた喜びのおとずれでありました。

 

だからこそ詩人は、神の民に、会衆に、そしてシオンとエルサレムに主なる神を賛美せよと促しました。彼らは、神の律法を通して彼らの礼拝を、そして、日常の生活を整え、主なる神を賛美したのです。

 

神の民を特徴づけるものは、神の御言葉です。神の御言葉によってわたしたちの世界は守られています。創造主であり、全能の神である主は、ご自身の御心によってこの世界を支配し、人も獣も守り、養われています。

 

そして、主なる神が授けられた神の律法が神の民たちの「掟」と「裁き」として神の民たちを確立しました。神の民にとって神の御言葉は神の律法という形になりました。

 

キリスト教会とわたしたちキリスト者にとっては、神の御言葉は、キリストとキリストを宣教する福音です。特別啓示としてのキリストを預言する旧約聖書とそのキリストの成就を記す新約聖書とその聖書の御言葉を解き明かす説教が神の御言葉として最も重要であります。

 

旧約の神の民も新約の教会も神の御言葉を与えられていることで、主なる神の民として生きることができるのです。それゆえにわたしたちは、今朝の詩編147編の詩人の神賛美の御言葉を通して、わたしたちに聖書を与えてくださった主なる神に、キリストを与えてくださり、この教会の礼拝を通して神の御言葉を与え続けられている主なる神を賛美し、この神に心から感謝をしようではありませんか。

 

お祈りします。

 

 主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、詩篇第147編の御言葉を学べる機会をお与えいただき、感謝します。

 

 わたしたちが今朝の礼拝で主を崇め、主を讃美することに理由のあることを、147編の詩人から学ぶことができて感謝します。

 

天地万物を創造された主なる神が、全能の神として自然を支配され、人と獣のために水を備え、食べ物をお与えくださり、感謝し、主をほめたたえさせてください。

 

 主なる神が摂理の御業を通してわたしたちに教会を与え、毎週の主日礼拝を守り導いてくださり、感謝し、主なる神をほめたたえさせてください。

 

 わたしたちに聖書とキリストをお与えくださり、キリストの十字架の福音を聞き、人々に福音として語らせてくださることを感謝し、主なる神をほめたたえさせてください。

 

 今日、ここで主を崇め礼拝し、主を賛美できる幸いを感謝させてください。どうか、上諏訪湖畔教会が主を礼拝し、賛美する教会としてこれからも継続させてください。

 

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

詩篇148編説教        主の2024630

ハレルヤ。                 ハレルヤ。 

天において      主を賛美せよ。主を賛美せよ、天から

高い天で       主を賛美せよ。彼を賛美せよ、高い天で。

御使いらよ、こぞって 主を賛美せよ。彼を賛美せよ、全ての御使たちよ。

主の万軍よ、こぞって 主を賛美せよ。彼を賛美せよ、全ての彼の軍勢よ。

日よ、月よ      主を賛美せよ。彼を賛美せよ、 太陽よ、月よ。

輝く星よ       主を賛美せよ。彼を賛美せよ、輝く全ての星よ。

天の天よ       主を賛美せよ。彼を賛美せよ、天の天よ。

天の上にある水よ   主を賛美せよ。彼を賛美せよ、天の上にある水よ。

主の御名を賛美せよ。        賛美せよ、主の御名を。

主は命じられ、すべてのものは創造された。 じつに彼が命じられ、これ

主はそれらを世々限りなく立て らは造られた。彼はそれらを世々に立て

越ええない掟を与えられた。 れた。過ぎ去らない掟を、彼は与えた。

 

地において      主を賛美せよ。主を賛美せよ、地から

海に住む竜よ、深淵よ 竜たちよと全ての深淵よ。

火よ、雹よ、雪よ、霧よ 火と雹よ、雪と霧よ。

御言葉を成し遂げる嵐よ 御言葉を行う嵐の風よ。

山々よ、すべての丘よ 山々とすべての丘よ。

実を結ぶ木よ、杉の林よ 実を結ぶ木と全ての杉よ。

野の獣よ、すべての家畜よ 獣と全ての家畜よ。

地を這うものよ、翼ある鳥よ 這うものと翼ある鳥よ。

地上の王よ、諸国の民よ 地の王たちと全ての民族よ。

君主よ、地上の支配者よ 高官たちと地の全ての裁き人たちよ。

若者よ、おとめよ 若い者たち、また若い女たちよ。

老人よ、幼子よ。老人たちと共に、少年たちよ。

 

主の御名を賛美せよ。 賛美せよ、主の御名を。

主の御名はひとり高く じつに彼の御名だけが気高い。

威光は天地に満ちている。 彼の威光は天地の上にある。

主は御自分の民の角を高く上げてくださる。彼は彼の民の角を上げた。              

それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。賛美は、彼の聖徒たち

主に近くある民、イスラエルの子らよ。 すべてに。彼の近くのイスラエ

ハレルヤ ルの子らに。ハレルヤ。

                 詩篇第148114

 

 説教題:「主を賛美せよ」

 今朝は、詩篇第148114節の御言葉を学びましょう。

 

 この詩編148編も「ハレルヤ」で始まり、「ハレルヤ」で終わっています。主をほめたたえよと詩編です。神の民イスラエルが褒め称える主なる神は、天地の創造主です。詩人は、創世記1章の御言葉をこの詩編の土台にし、主なる神は初めに天地を創造された。だから、詩人は主なる神に創造された被造物は皆、創造主なる神を誉め称えるべきであると促しています。

 

1節で詩人は、「天において 主を賛美せよ。高い天で 主を賛美せよ」と歌っています。そして6節まで詩人は天の被造物に創造主を賛美せよと促しています。「高い天」は「天の天」です。天は何層にもなっており、4節で天の上には豊かな水が蓄えられているのです。

 

詩人は2節で天使とその軍勢に主をほめたたえよと賛美を促しています。詩人は、3節で天体、太陽と月と星を主が造られたから。太陽と月と星は主をほめたたえよと促しています。

 

主なる神は創世記1章で、御言葉によって、命令によって主なる神が「光あれ」と命令されると、光が存在したのです・

 

神は天地を創造されただけではありません。造られた自然に法則を定め、海が陸地を越えないように定められました。

 

詩人は、7節で「地において 主を賛美せよ」と賛美を促しています。海の怪獣、竜は神が創造されたものです。深淵は竜の住みかです。8節で詩人は、「火よ、雹よ、雪よ、霧よ、御言葉を成し遂げる嵐よ」と呼びかけています。火は稲妻です。出エジプト記は、シナイ山は雷鳴がとどろき、山が煙に包まれたと記しています。神に創造された自然界は神の御意志に従いました。

 

詩人は、912節で神の民のために山々を。実のなる木を、神の民たちの神殿と家を建てるレバノン杉をお造りになられたと賛美を促します。

 

君主も諸国の民も、主が造られたのです。高貴な者に対して、貧しい人も主が造られたのです。

 

1314節で詩人は、「主は御自分の民の角を高く上げてくださる」と賛美しています。

 

神がご自身の民のために角を高く上げられたと詩人が賛美するのは、何を意味するのでしょうか。

 

主なる神が神の民イスラエルを救われることを意味しているのでしょう。ダビデ王国の建設か、バビロン捕囚からの解放か、古代ユダヤ教の創設か、それとも、来るべきメシアへの待望でしょうか。

 

創造主を賛美する、それが神の民の存在理由です。上諏訪湖畔教会が神賛美する限り、上諏訪湖畔教会は存在意義があるのです。

 

お祈りします。

 

 主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、詩篇第148編の御言葉を学べる機会をお与えいただき、感謝します。

 

 わたしたちが今朝の礼拝で主を崇め、主を讃美することに理由のあることを、148編の詩人から学ぶことができて感謝します。

 

天地万物を創造された主なる神は、すべての被造物に讃美されるべきお方です。

 

 主なる神が創造と摂理の御業を通してわたしたちに教会を守り導き、かみをほめたたえるわたしたちに存在理由を与えてmくださいます。。

 

 今日、ここで主を崇め礼拝し、主を賛美できる幸いを感謝させてください。どうか、上諏訪湖畔教会が主を礼拝し、賛美する教会としてこれからも継続させてください。

 

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 詩篇149編説教        主の2024721

ハレルヤ。                 ハレルヤ。 

新しい歌を主に向かって歌え。 歌え、主に、新しい歌を。

主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。彼への賛美を、忠実な

イスラエルはその造り主によって喜び祝い 者たちの集いの中で。喜べ、

シオンの子らはその王によって喜び踊れ。イスラエルは、己の造り主を。

踊りをささげて御名を賛美し シオンの子らは、王のゆえに喜び踊れ。踊

太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ。りで主の御名を賛美せよ。太鼓と

                 竪琴で彼をほめ歌え。

主は御自分の民を喜び まことに主は、彼の民を喜び

貧しい人を救いの輝きで装われる。貧しい人たちを救いで装われる。

主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み 忠実な者たちは栄光の

伏していても喜びの声をあげる。中で喜び勇み 自らの寝床の上で喜び

口には神をあがめる歌があり 叫ぶ。神への称賛が彼らの喉に。

手には諸刃の剣を持つ。 両刃の剣が彼らの手の中に。

国々に報復し 諸国民に報復を行うために。

諸国の民を懲らしめ 諸民族を懲らしめ

王たちを鎖につなぎ 彼らの王たちを手かせで縛るために

君侯に鉄の枷をはめ 彼らの貴族たちを鉄の足枷で

定められた裁きをする。 書かれた裁きを、彼らの中で行なうために。

これは、主の慈しみに生きる人の光栄。それは、彼の忠実な者たちすべて

ハレルヤ              の輝き。    ハレルヤ。

                 詩篇第14919

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主の2024721

 

説教題:「主を賛美せよ」

 今朝は、詩篇第148114節の御言葉を学びましょう。

 

 この詩編149編は、「ハレルヤ」で始まり、「ハレルヤ」で終わっています詩編の4番目のものです。

 

1節で詩人は、「新しい歌を主に向かって歌え」と歌っています。詩編961節と981節の御言葉と同じです。この御言葉の始まりは、イザヤ書4210節の御言葉です。そこには、第二イザヤが主の僕、預言者として主に召された記事があります。そして、彼は主なる神の勝利を預言しています。すなわち、主なる神がバビロニア帝国に捕囚された神の民たちを解放してくださるという福音です。そこで第二イザヤは、神の民たちに主に向かって新しい歌として歌えと呼びかけたのです。バビロン捕囚からの解放は、主なる神の新しい奇蹟の御業であったからです。

 

続けて詩人は1節後半で「主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。」と賛美を促しています。「主の慈しみに生きる人」は、前の詩編14814節に出てきました。149編でも1節と5節に出てきます。ヘブライ語の「ハシディム」という言葉です。神を敬う者、忠実な者、信実な者という意味があります。紀元前2世紀にマカベアの時代にハスモン家の運動が政治運動となり、そこから「ハシディム」が生まれました。そして、後の主イエスの時代のファリサイ派となるのです。

 

「ハシディム」は、集会で主なる神を礼拝し、賛美していたのでしょう。「主の慈しみに生きる人」は、意訳です。神を敬う人、主なる神に忠実な人です。新改訳聖書2017は、「敬虔な者たちの集まりで」と訳し、聖書協会共同訳は、「忠実な人々の集いで」と訳しています。要するに、神の民イスラエルの共同体のことを意味するのだと思います。神の民イスラエルの会衆の中で主に向かって新しい歌を歌えと、詩人は促しているのです。

 

わたしは、上諏訪湖畔教会が『讃美歌21』を主に向かって賛美することをうれしく思っています。ヒムプレヤーのお陰でわたしたちは、主の日の礼拝ごとに新しい歌を主に歌っています。この諏訪の地で主イエスがわたしたちを救われた奇蹟の御業を、『讃美歌21』を通して賛美できるのは幸いであると、わたしは思うのです。将来、オルガニストが与えられれば、改革派教会のジュネーヴ詩編歌も賛美に加えてほしいと思います。

 

詩人は、15節と69節の二部構成でこの詩編を賛美しています。主題は、「諸国民に対する勝利を喜ぶイスラエルの民の新しい歌」です。

 

2節の「イスラエル」と「シオンの子ら」は、イスラエルの神の民です。詩人は賛美します。「イスラエルはその造り主によって喜び祝い シオンの子らはその王によって喜び踊れ。」この讃美によって、神の民イスラエルにとって、彼らが礼拝し、賛美する主なる神は、創造主であり、彼らの王様であることが分かります。

 

主なる神は、昔出エジプトにおいて神の民イスラエルを奴隷から解放され、シナイ山で彼らを主なる神の民としてお造りになりました。彼らと契約を結ばれて、主なる神はイスラエルの民の神となられ、イスラエルの民は主なる神の民となりました。そして彼らに十戒を授けられたのです。また、彼らの周りの諸国には王がいましたが、イスラエルの神の民の王は、主なる神でありました。主なる神は彼らに授けられた十戒によって彼らを統治されました。

 

詩人が3節で「踊りをささげて御名を賛美し 太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ」と賛美していますね。出エジプトの出来事の時、主なる神は神の民たちに紅海を渡らされました。海に道を造られ、神の民たちは渡しました。追いかけて来たエジプトの王パロと家来たちは、海に呑まれて滅びました。その勝利を、モーセの姉ミリアムと女たちがタンバリンを鳴らして踊り、勝利の賛美を主に向かって歌いました。

 

詩人は、マカバイの時代の人でしょう。捕囚の地から帰還した神の民たちは、出エジプトの神の民たちが荒野の40年という苦難を経験したように、多くの苦難を経験したでしょう。特にシリアのセレウコス王朝によるユダヤ支配は苦難に満ちたものだったでしょう。特にアンテオコス四世エピファネスは、ユダヤの地をヘレニズム化しようと、神殿にオリンポスのゼウス像を安置し、偶像礼拝を強要しました。これによって有名なマカバイの乱が起こりました。指導者ユダ・マカバイがユダを勝利に導きました。主なる神が勝利を与えてくださいました。これを詩人は、新しい歌として賛美を促したのでしょう。

 

45節は、次のような背景があったでしょう。ヘレニズム化に反対したハシディムの人々がマカバイの乱を起こしたマタティアとその五人の子供たちを支持し、アンテォコス四世エピファネスと戦いました。

 

「主は御自分の民を喜び 貧しい人を救いの輝きで装われる。主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み 伏していても喜びの声をあげる。」

 

「貧しい人」とは、支配者に抑圧されている人のことです。「主の慈しみに生きる人」のことです。ユダヤのヘレニズムかによって偶像礼拝が強要されました。主なる神に忠実な敬虔な人が支配者から厳しい拷問を受け、虐待されました。しかし、政権によって虐待されたイスラエルの民を、主なる神は御自分の民として喜んでくださいました。そして、彼らに主なる神は勝利を与えてくださったのです。その栄光に、神の民たちは喜び踊りました。その喜びは彼らの寝床まで歓喜で満ちました。

 

この詩編の後半の部分は、前半とは様子が変わっています。69節です。一言で言えば、詩人は主なる神による諸国民への、諸国の王や高官たちへの復讐を賛美しています。

 

「口には神をあがめる歌があり 手には諸刃の剣を持つ。国々に報復し 諸国の民を懲らしめ 王たちを鎖につなぎ 君侯に鉄の枷をはめ 定められた裁きをする。これは、主の慈しみに生きる人の光栄。」

詩人の口には主なる神をほめたたえる歌があります。主なる神は、どのような苦難の中でも神の民を見捨てられません。荒れ野の40年間、神の民は繰り返し主なる神に背きました。しかし、主なる神は彼らの子たちを、孫たちを約束の地カナンに導かれました。

 

主なる神は、アンテオコス四世エピファネスの大迫害から神の民イスラエルを守ってくださり、勝利を与えてくださいました。敬虔な者たちにとって現実は、彼らの無力さを強く感じさせたでしょう。彼らは、貧しい人に過ぎませんでした。異国の王の迫害で日々虐待される人々でした。だから、彼らは、主なる神の復讐を祈りました。主なる神がユダの民を迫害する諸国民に、王に、高官たちに復讐してくださるようにと。主なる神が諸国の民を懲らしめ、王に手かせをはめ、高官たちに足枷をはめられるようにと。そして昔の預言者たちが預言の書に書いているように、主なる神が諸国民を裁いてくださり、主なる神に忠実な神の民イスラエルが誉れを得られるように、と詩人は祈るのです。

 

紀元前2世紀のマカバイの時代の神の民たちは、奴隷の地からの解放でも、捕囚の地からの帰還でもなく、彼らを支配する異国の王とその勢力から彼らが解放され、救われることでした。詩人は、主なる神が諸国民を支配され、裁かれ、神の民たちの解放と救いの時代が来ることを待ち望んでいるのです。

 

詩人の祈りと願いは、主イエス・キリストの到来によって実現するのです。それは、慈しみに生きる人の光栄であります。旧約聖書に書かれているとおりに、主なる神は、裁きによって主なる神に忠実な人、敬虔な人を救われました。わたしたちを救ってくださったのです。

 

旧約聖書の預言通りに、キリストは神であられたのに、人となり、来られました。神に裁かれるわたしたちの罪の身代わりとして、十字架に死なれました。同時にご自身が十字架に死ぬまで、神に従順に従われ、得られた義を、わたしたちに与えてくださいました。

 

こうしてわたしたちは、毎週日曜日に教会に集まり、主イエス・キリストの奇蹟の御救いを、わたしたちの新しい歌として賛美するのです。

 

お祈りします。

 

 主イエス・キリストの父なる神よ、今朝、詩篇第149編の御言葉を学べる機会をお与えいただき、感謝します。

 

 わたしたちは、毎週主日礼拝に集まり、『讃美歌21』によって主なる神に新しい歌を歌える喜びを感謝します。

 

主イエスの十字架と復活の御業を通して、わたしたち上諏訪湖畔教会の群れをお造りくださり、主イエスをわたしたちの王として礼拝できる喜びを感謝します。

 

 わたしたちは、詩篇149編の詩人同様に、異教の偶像礼拝の世界に生きています。幸い、今は迫害がありませんが、いつ今の天皇を現人神として礼拝を強要される時代が来るか分かりません。

 

 どうか今日、ここでわたしたちが再臨の主イエスがすべてのものを裁くために来られることを信じさせてください。どうか、上諏訪湖畔教会をこれからも守り、毎週日曜日に主を礼拝し、賛美する教会として立たせてください。

 

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。