詩編説教023 主の2012年8月26日
聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、今朗読される詩編の御言葉とその説き明かしである説教を心に留め、今主がわたしたちに伝えようされている御旨を理解させてください。福音において提供されている主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
賛歌。ダビデの詩。「歌、ダビデの」
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主は牧者、わたしは欠乏しない。
主はわたしを青草の原に休ませ 若草の野辺で、彼はわたしを伏させる。
憩いの水のほとりに伴い 憩いの水のほとりに、彼はわたしを伴う。「優しく導く」の意
魂を生き返らせてくださる。 わが魂を、彼は回復させる。「帰る、返す」→生き返らせる
主は御名にふさわしく 「わたしを先導する、義の道筋(道)に、彼の名のために」
わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも 「たとえ死の陰の谷の中でわたしが歩くときも、」
わたしは災いを恐れない。「わたしは災いを恐れない。」
あなたがわたしと共にいてくださる。「なぜなら、あなたがわたしと共に」
あなたの鞭、あなたの杖 「あなたのこん棒とあなたの杖」こん棒は野獣と戦う武器。
それがわたしを力づける。「それらは、わたしを慰める。」
わたしを苦しめる者を前にしても 「あなたは整える、わが前に食卓を、わたしを苦しめ
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。 る者たちの正面で」
わたしの頭に香油を注ぎ「あなたは油を注ぐ、油(「脂肪、オリーブ油」の意)でわが頭を」
わたしの杯を溢れさせてくださる。「わが杯は飽和状態」
命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。「善と慈しみだけが、わたしを追いかける」
主の家にわたしは帰り 「わが生涯のすべての日々、わたしは住む、主の家に、日々の
生涯、そこにとどまるであろう。 長きにわたり」
詩編第23篇1-6節
説教題:「主は羊飼い」
詩編第23篇1-6節の御言葉を学びましょう。
この詩編を、イギリスの伝道者スポルジョンは、「詩編の真珠」と呼びました。真に真珠のように美しく輝いている主なる神への信頼の歌であります。
この詩編の背景は、パレスチナの遊牧社会であり、旅人をもてなす習慣であります。そして、この詩編23篇は表題に「賛歌。ダビデの詩。」とありますように、イスラエル王国のダビデ王が歌ったものです。
彼は少年時代、羊飼いでありました。パレスチナは牧草と水の乏しい地方でありました。また熊やライオンなどの猛獣に羊たちが食い殺される危険がありました。少年ダビデは、パレスチナの砂漠のような土地で、羊たちのために牧草と水を確保し、羊たちを守るために猛獣たちと戦いました。
ダビデ王は、彼の羊飼いとしての体験を踏まえながら、「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と、彼は主なる神への信頼を告白したのです。
砂漠の中で乏しい牧草と水を、羊飼いは羊のために見付け、羊たちを襲う猛獣から守らなければなりません。羊飼いに何か配慮が欠けていれば、羊たちの命はありません。また羊飼いに何か、知恵が欠けていれば、羊たちの命はありません。そして、羊飼いに力と勇気が欠けていれば、羊たちは猛獣から自分たちの身を守ることはできません。
ダビデ王にとって、彼のこの世における生活と人生は、まさに荒野、砂漠の中を羊飼いに導かれ、守られる羊たちと同じでした。主なる神がダビデ王の羊飼いとして、彼を導き、守ってくださったので、彼は80年の人生を全うすることが許されました。危険がなかったわけではありません。彼が罪を犯さず、誤りのない人生を生き切ったわけでもありません。
むしろ逆でした。彼は主なる神にイスラエルの国の王となるように定められ、導かれました。それゆえに多くの祝福と特権を、主なる神から与えられました。
主なる神に祝福されたダビデ王を、サウル王は喜びませんでした。サウル王はペリシテの国との戦いで、彼が死ぬまで、イスラエル王国の隅々までダビデ王を追いかけて、殺そうと迫害しました。ダビデ王は彼の家来たちと共に水も食料もないユダの荒野、砂漠の中に逃げなければなりませんでした。
当然、主なる神がダビデ王の羊飼いとして、サウル王の迫害から逃げるダビデ王を導き守られなかったなら、ダビデ王の命はありませんでした。ユダの砂漠の中に彼は朽ちていたでしょう。だが、主なる神は、全知全能の神として、ダビデの王の羊飼いとなり、どこまでも彼と共に居て、彼と彼の共の者たちを、ご自身が飼う羊たちとして導き、守られました。サウル王の迫害の中で、主なる神はダビデ王に「青草の原」、水のほとりに導き、しばらく平安の時をお与えくださいました。
ダビデ王は、サウル王に迫害された若き日の自分を思い起こし、あのユダの砂漠の中で食料も水もない欠乏の苦しみを通して、主なる神がわたしの羊飼いであり、わたしには乏しいことがないという信仰体験を経験したのです。わたしたちの人生は、わたしたちの羊飼いである主なる神の導きと守りの中で羊たちのように日々命を支えられ、日々の糧を与えられ、人生に憩いと平安を得ていることを、ダビデ王はまさにわたしたちが生きているこの世界で実験したのです。
ダビデ王にとって、迫害するサウル王は恐ろしかったでしょう。しかし、主イエスは、弟子たちに言われました。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)と。
ダビデ王にとって、サウル王の迫害よりも恐ろしいことは、主なる神と離れて生きることでした。主なる神の御前に生きることができないことでした。
ダビデ王は、イスラエルの王国の王となり、すべてがうまく進んでいると思われた時に、サタンの誘惑により姦淫と殺人の罪を犯しました。彼の忠実な家来の妻を誘惑し、その罪を夫の家来に知られることを恐れて、家来を戦いの最前線に立たせて、敵に殺させたのです。
主なる神は彼から離れられました。彼と彼の家庭に次々と不幸な事件が起こりました。兄が妹を犯し、弟が兄を殺し、そして最後には息子が父ダビデの王国を奪うために反逆しました。最もダビデ王が信頼していた友人が裏切り、その友人の勧めによって、父に反逆した息子は、ダビデが人に隠れて行った姦淫の罪を、昼間堂々と行い、父の側室たちを奪いました。ダビデ王は、サウル王に迫害された時のように、王宮もエルサレムの町も捨てて、ユダの荒野に逃げました。
まるでダビデ王は、生きた屍でした。もし主なる神がダビデ王との契約をお守りくださらなければ、ダビデ王はユダの荒野で、神を離れた罪人の末路として、朽ち果てたでしょう。
しかし、ダビデ王は、「主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない」と告白しています。
ダビデ王は、主なる神によって「魂を生き返らせてくださる」という恵みを、経験したのです。主なる神は、ダビデ王との契約を覚えてくださり、彼の神を離れた者という状況の中で、主なる神の御名にふさわしく、契約に忠実なお方としてダビデの魂を復活させて、再び彼が神の御前に正しい道を歩めるようにしてくださいました。
主なる神は、契約の神であるがゆえに、ダビデ王が神に罪を犯しても、主なる神は「わたしはお前とお前の家の神となる」という約束を守り続けてくださいました。だから、ダビデ王はサウル王の迫害による死の陰の谷に居る時も、息子の反逆によって死の陰の谷に居る時も、契約の神、主なる神が羊飼いのように共に居てくださるので、安心であると歌ったのです。
羊は愚かで、迷いやすい家畜です。羊飼いは羊を導き、守るために鞭と杖を用います。鞭とは、猛獣を追い払うために用いる「こん棒」のことです。杖は、羊飼いが羊を導くものです。ダビデ王は、主なる神が羊であるダビデのために彼の危険を遠ざけ、彼が罪を犯せば懲らしめて、魂を生き返らせて、神の御前に歩めるようにしてくださるので、この世に生きるわたしに勇気と慰めを与えくださると感謝しています。
ダビデ王は、主なる神を旅人をもてなす主人として賛美します。恐らく旅人は、砂漠の道を旅していて、強盗に襲われて、ある人の天幕に逃げたのでしょう。天幕の主人が旅人を保護してくれました。そして、主人は、旅人を追いかけて来た強盗たちの前で旅人のために豊かな祝宴を開いてくれました。主人は、旅人にオリーブ油を注ぎました。そして、ぶどう酒を杯から溢れるほどに注いでくれました。
旅人を保護した天幕の主人のように、主なる神はダビデ王の人生において彼が敵から襲われるごとに主なる神がいつも彼を保護し、守り、祝福してくださったと賛美しています。
ダビデ王は、この世においてわたしたちの人生が砂漠のように危険に満ちたものであっても、羊飼いである主なる神が共に居てくださるのであれば、主に導かれ、守られて安全であることを歌っています。
そして、ダビデ王は、エルサレムの幕屋において主なる神を礼拝し、彼の目を御国へと向けています。「命のある限り」。それは主なる神と永遠に共に生きる限りであります。この世においてはダビデ王の生涯は、苦難の連続でした。しかし、主なる神と共にある御国においては、ダビデ王を主の恵みと慈しみが追跡します。
ダビデ王がこの地上に残された日々に願うことは、一つです。王が築いたエルサレムの都にある主の幕屋にとどまることです。そして、そこで主なる神の客として、主の祝福にあずかることです。そして、神の幕屋は主なる神とダビデ王との交わりを、長き日々に、永遠へと導くのです。
羊飼いである主なる神は、主イエス・キリストとしてこの世に来てくださり、主イエスはわたしたちと永遠の契約を結ばれて、わたしたちの神となり、わたしたちと共にいると約束してくださいました。
ダビデ王のようにわたしたちのこの世における人生は、主イエスの霊である聖霊が主の羊であるわたしたちを導き、守ってくださっています。聖書という鞭と杖を、主イエスの霊である聖霊は用いて、わたしたちをこの世において主なる神の義の道筋を歩めるように導き、教えてくださいます。そして、ダビデ王のようにわたしたちも罪を犯し、主から離れることがあります。その時に聖霊は、わたしたちを苦しみを通してわたしたちの魂を生き返らせ、もう一度主イエスに戻るようにお導きくださいます。
次週に聖餐式を行います。それは、ダビデ王が「わたしを苦しめる者を前にしてもあなたはわたしに食卓を整えてくださる」と歌っている喜びであります。キリスト者にとってこの世は、苦難です。この世は主なる神に敵対し、わたしたちに敵対する世です。そして、主イエスは、今御国におられ、そして、わたしたちと共にこの教会の集まりに居てくださいます。そして、わたしたちを祝福し、天国の前味を、聖餐を通して体験させてくださいます。わたしたちの罪と苦難と悲しみと涙は、この世だけのものです。御国においてわたしたちに主の恵みと慈しみが常に追いかけてきます。
20世紀最大の神学者と呼ばれたカール・バルトは、説教の中で憧憬、憧れという言葉を何度も語っています。信仰とは、この地上にあっては主なる神に、ダビデ王のように憧れることです。女性が美しい真珠のネックレスを身につけたいと憧れるように、この教会でこの地上の生涯、そして永遠に主イエスと共にいたいと憧れることです。
ぜひとも主イエスに憧れて、主イエスとこの世だけでなく、永遠に共にいたいと思って、次週は共に聖餐の恵みに与りましょう。主イエスは、わたしたちの人生の羊飼いであり、天の御国においてわたしたちをもてなし祝福してくださる主人です。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」。主イエスがわたしたちの羊飼いとして、わたしたちの人生を導き、お守りくださいますので、わたしたちはダビデ王のように、ただ心から主イエスを信頼し、歩むことができます。また主イエスは御国においてわたしたちをお迎えくださる主人でもあります。主イエスとの永遠の交わりに生かされている喜びを感謝します。どうかこの地上の残された日々、この教会の礼拝において御言葉と礼典にあずかり、心から主イエスに憧れて、御国への希望に生かしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
詩編説教024 主の2012年9月23日
聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、今朗読される詩編の御言葉とその説き明かしである説教を心に留め、今主がわたしたちに伝えようされている御旨を理解させてください。福音において提供されている主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
ダビデの詩。賛歌。
地とそこに満ちるもの 主のもの 地とそれに満ちるものは
世界とそこに住むものは、主のもの。 世界とその中に住む者たちは
主は、大海の上に地の基を置き なぜなら、彼は海の上にその基を据えた
潮の流れの上に世界を築かれた。 そして川の上にそれを築いた
どのような人が、主の山に上り 誰が上る 主の山に
聖所に立つことができるか。 また誰が立つ その聖なる場所に
それは、潔白な手と清い心をもつ人 両手の清い そして心の純な
むなしいものに魂を奪われることがなく わたしの魂を虚しく上げないところの
欺くものによって誓うことをしない人 また欺瞞のために誓わない
主はそのような人を祝福し 彼は主から祝福を受ける
救いの神は恵みをお与えになる。 また義を 彼の救いの神から
それは主を求める人 これが彼を求める者たちの世代
ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。 尋ね求める者たち あなたの顔を ヤコブよ
城門よ、頭を上げよ 上げよ 門よ お前たちの頭を
とこしえの門よ、身を起こせ。 また上られよ 永遠の扉よ
栄光に輝く王が来られる。 すると入る 栄光の王が
栄光に輝く王とは誰か。 誰か 栄光の王は
強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。 力強い主 また勇ましい主 戦いの勇士
城門よ、頭を上げよ 門よ、上げよ お前たちの頭を
とこしえの門よ、身を起こせ。 また上げよ 永遠の扉よ
栄光に輝く王が来られる。 すると入る 栄光の王が
栄光に輝く王とは誰か。 誰か その栄光の王は
万軍の主、主こそ栄光に輝く王。 万軍の主 彼こそ栄光の王 セラ
詩編第24篇1-10節
説教題:「主こそ栄光に輝く王」
詩編第24篇1-10節の御言葉を学びましょう。
この詩編は、ダビデ王が3つの主題を讃美しています。1-2節は、ダビデ王の創造主なる神への賛美です。3-6節は、ダビデ王が神の御前に立つべき者が誰であるかを賛美しています。そして、7-10節は、ダビデ王の栄光に輝く王である万軍の主への賛美です。
この詩編が歌われた背景は、ダビデ王がエルサレムに、シオンの山の幕屋に神の契約の箱を運び入れた出来事です(サムエル記下6章、歴代誌上15章)。
ダビデ王は、1-2節において創造主なる神を賛美します。「地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの。主は、大海の上に地の基を置き 潮の流れの上に世界を築かれた。」
「地と大地」は世界のことです。「それに満ちるもの」と「それに住むものら」とは、諸国民です。「大海と潮」とは、出エジプト記20章4節に「地の下の水の中にある」と言われているものです。神が天地を創造されたとき、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」ました(創世記1:2)。その「深淵」がこの大海と潮であり、神はその上に地と大地を築かれ、据えられました。「主のもの」は、創造主なる神をたたえるための決まり文句です。
3-6節は、ダビデ王の信仰問答です。「主の山」はシオンの山を指しています。そこに主なる神の幕屋、神殿があり、主なる神がイスラエルの民たちの前に現れてくださいます。「聖所」とは、幕屋、神殿を指します。
ダビデ王は、3節で「どのような人が、主の山に上り 聖所に立つことができるか。」と問いかけます。主なる神を礼拝するにふさわしい人は誰かという問いかけです。
4-6節に、ダビデ王は自ら答えています。4節です。「それは、潔白な手と清い心をもつ人 むなしいものに魂を奪われることがなく 欺くものによって誓うことをしない人。」
この「手」とは「両手」のことです。「両手」は人の祈りを指しています。「心」は人の思いを指しています。
ダビデ王は、わたしたちに礼拝にふさわしい人を具体的に示しています。第1に潔白の両手を持ち、心の清い人です。彼は「むなしいものに魂が奪われることがなく」と、ダビデは賛美します。
「虚しいもの」とは、神ではない「偶像」のことです。「魂を奪われることがなく」とは、「何々を切望することはない」という意味の文章です。ダビデは、神の聖所で礼拝できる人は、偶像を礼拝しない人、偶像に自分の心を向けて、祈りと願いをしない人と賛美しているのです。
それから第2に、「欺くものによって誓うことをしない人」です。神の名を用いて隣人に偽りの誓いを立てない人のことです。旧約聖書のレビ記19章12節に、主なる神は次のように命じておられます。「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」
ダビデ王は、偶像礼拝せず、偶像に心を向けて祈らず、神の御名を用いて隣人に偽りの誓いをし、神の名を汚さない人は、主なる神の御前に立ち、礼拝できるのだと賛美しています。
そして、ダビデ王は、続いて5節に主なる神を礼拝する人に主なる神の祝福と義があると賛美します。「主はそのような人を祝福し 救いの神は恵みをお与えになる」。日本語の聖書のこの訳は、少しダビデの言葉と違います。ダビデは、次のように賛美します。「彼は主から祝福を受ける。また義を救いの神から」と。
ダビデ王は、主なる神を礼拝する人は、主なる神から祝福を受けると賛美します。その神の祝福は漠然とした恵みではありません。
救いの神である主なる神から与えられる具体的な祝福である神の「義」です。救いの神である主なる神から礼拝する人は、神の正義をいただくのです。それによって主なる神を礼拝するイスラエルの民は、約束の地カナンにおいて異邦の諸国民から救われ、安息を得るのです。
そしてダビデ王は、6節で「それは主を求める人 ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。」と賛美します。「主を求める人」は複数形であり、「主を求める世代」という意味です。イスラエル民族の先祖である族長ヤコブが主なる神と契約を結び、主なる神は彼と彼の子孫の神となられ、ヤコブと彼の子孫であるイスラエルの民は、主なる神の民となりました。だから、6節でダビデ王は、主なる神を礼拝するイスラエルの民は「主を求める」「御顔を尋ねる」という使命を共にする者たちであると賛美しています。
7-10節は、ダビデ王が栄光に輝く万軍の主なる神を賛美しています。7節です。「城門よ、頭を上げよ とこしえの門よ、身を起こせ 栄光に輝く王が来られる。」
ダビデ王は、エルサレムに神の契約の箱を運び入れました時を思い起こしながら、賛美しています。神の契約の箱を担いだ祭司たちがエルサレムの都の城門を通り抜けました。そして、シオンの山に据えられた幕屋の聖所に契約の箱を安置しました。神の契約の箱がエルサレムの都の城門を通り抜け、そしてシオンの山の幕屋にある聖所に、扉を通り抜けて運び入れられました。その時にイスラエルの民たちが声高らかに賛美したのでしょう。
「頭」が何を指すのかは不明です。「とこしえの扉」とは非常に古い扉という意味です。神の幕屋にその扉があったのでしょう。
「栄光に輝く王が来られる」は、良い訳だと思います。ダビデの言葉そのままに言えば、「すると栄光の王が入る」です。イスラエルの民たちが礼拝します主なる神が、神の契約の箱と共にエルサレムのシオンの山にあります幕屋に入られました。
8節と10節のダビデの賛美も、3-4節と同じ信仰問答です。聖所から祭司が礼拝する民に「栄光に輝く王とは誰か」と8節と10節に問いかけています。おそらくその問いに民が答えたのでしょう。8節では「強く雄々しい主、雄々しく戦われる主」と。10節では「万軍の主、主こそ栄光に輝く王」と。
ダビデ王は、ペリシテのゴリアトと一騎打ちをして、戦いました時に、この戦いは主の戦いであると言いました。主なる神は、常にイスラエルの民と共に臨在され、イスラエルの民の敵と雄々しく戦われる勇士であられました。そして主なる神は、約束の地カナンにおいてダビデ王やイスラエルの民のために戦い、王と民を敵に勝利させるために、万軍の主としてエルサレムのシオンの山にある幕屋にお入りくださったのです。
わたしたちは、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、今朝のダビデ王の詩編24篇の賛美を、わたしたちの賛美とすることを許されています。
わたしたちの主イエス・キリストは、世界とわたしたち人間の創造者です。ヨハネによる福音書は、1章3節において創造主イエス・キリストを、次のように賛美しています。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった」と。
そして、そのキリストを神として礼拝できる者は誰かと聞かれれば、主イエス・キリストのみをわたしの救い主と信じ、心からキリストを信頼する者です。そして、キリストを礼拝する者に、キリストは聖霊を通してキリストを信じる信仰の賜物を与え、彼に神の義を与えてくださいます。ご自身の十字架を通して、わたしたちをこの罪の世から救い出し、ご自身の復活を通してわたしたちに永遠の御国における安息をお与えくださいました。
そして、キリストは栄光に輝く王として、再びわたしたちのところに来てくださいます。今主イエス・キリストは、聖霊と御言葉を通してわたしたちの心の扉をたたかれているのです。
ダビデ王やイスラエルの民たちが、城門を開き、幕屋の扉を開いて、神の箱を迎え入れたように、主イエス・キリストはわたしたちが心の扉を開いて、わたしたちの栄光に輝く王であるキリストを迎え入れるように促されているのです。
それは、わたしたちがこの世の罪の世界の中で、栄光の王であるキリストによって勝利し、永遠の御国に入れられるためであります。
イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちの栄光に輝く王であるキリストが、わたしたちの心の扉をたたかれて、今わたしを迎え入れるように招かれています。わたしたちもダビデ王のように、心から主イエス・キリストをわたしたちの救い主、わたしたちの栄光に輝く王として受け入れ、信頼して、歩ませてください。この世においてキリストにあって罪と死に勝利し、栄光の王であるキリストの再臨と御国における主との交わりを待ち望ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
詩編説教025 主の2012年10月28日
聖霊の照明を求めて祈ります。「聖霊なる神よ、今朗読される詩編の御言葉とその説き明かしである説教を心に留め、今主がわたしたちに伝えようされている御旨を理解させてください。福音において提供されている主イエス・キリストを、わたしたちの救い主として喜んで受け入れさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。」
ダビデの詩。 ダビデの
主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み あなたに向かって 主よ、わが魂を私は上げる
わたしの神よ、あなたに依り頼みます。 わが神よ、あなたに私は依り頼む。
どうか、わたしが恥を受けることがないように 私が恥を負わないように
敵が誇ることがないようにしてください。勝ち誇ることがないように 敵どもが私に
あなたに望みを置く者はだれも まことにすべてのあなたを待ち望む者たちは
決して恥を受けることはありません。 恥を負わない。
いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。 恥じるように 裏切る者は 理由なく
主よ、あなたの道をわたしに示し あなたの道を、主よ、知らせたまえ。
あなたに従う道を教えてください。あなたの小道を 私に教えたまえ
あなたのまことにわたしを導いてください。 私を導きたまえ あなたの真実の中に
教えてください そして私に教えたまえ
あなたはわたしを救ってくださる神。 なぜなら、あなたは神、私の救いの
絶えることなくあなたに望みをおいています。 あなたを待ち望む、一日中
主よ、思い起こしてください。 思い出したまえ、あなたの憐れみを 主よ
あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。 そしてあなたの慈しみを
わたしの若いときの罪と背きを思い起こさず わが若き日の罪を、そしてわが咎を
慈しみ深く、御恵みのために あなたの慈しみに従って 私を思い出したまえ あなたが
主よ、わたしを御心に留めてください。
主は恵み深く正しくいまし 主は恵み深く正しい方。
罪人に道を示してくださいます。 それゆえ彼は教える、罪人たちを、その道で
裁きをして貧しい人を導き 導くように へりくだる者たちを 裁きの中に
主の道を貧しい人に教えてくださいます。また教えるようにへりくだる者たちに彼の道を
その契約と定めを守る人にとって 守る者たちにとって 彼の契約と彼の証しを
主の道はすべて、慈しみとまこと。すべての小道は、主の慈しみと真実
主よ、あなたの御名のために あなたの名のために 主よ
罪深いわたしをお赦しください。また赦したまえ私の不義を なぜならそれは大きい
主を畏れる人は誰か。 だれか その人は 畏れる 主を
主はその人に選ぶべき道を示されるだろう。彼に示す 道を 彼が選ぶ
その人は恵みに満たされて宿り 彼の魂は善の中に宿る。
子孫は地を継ぐであろう。 そして彼の子孫は継ぐ、地を
主を畏れる人に 主の秘密は、彼を畏れる者たちのため
主は契約の奥義を悟らせてください。 また彼の契約を 彼らに知らすために
わたしはいつも主に目を注いでいます。 わが目は常に主に向かって
わたしの足を網から引き出してくださる方に。なぜなら彼は取り出す。網からわが足を
御顔を向けて、わたしを憐れんでください。向きたまえ、私に。そして私を憐れみたまえ
わたしは貧しく、孤独です。なぜなら、一人で、かつ貧しい、私は。
悩む心を解き放ち 苦難は私の心を広げる
痛みからわたしを引き出してください。 わが苦境から私を引き出したまえ。
御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。 見たまえ、私の苦しみと私の悩みを
どうかわたしの罪を取り除いてください。 また取り上げたまえ、すべてのわが罪を
御覧ください、敵は増えて行くばかりです。 わが敵どもを、なぜなら彼らは増える
わたしを憎み、不法を仕掛けます。そして憎しみで、暴虐の彼らは、私を憎む。
御もとに身を寄せます。 なぜなら、私は逃げ込む、あなたの中に。
わたしの魂を守り、わたしを助け出し 守りたまえわが魂を。そして私を救い出したまえ。
恥を受けることがないようにしてください。 私が恥を負わないように
あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら 完全さと正しさが
そのことがわたしを守ってくれるでしょう。わたしを守るように なぜなら私はあなたを
待ち望む
神よ、イスラエルを 贖いたまえ 神よ、イスラエルを すべての彼の苦難から
すべての苦難から贖ってください
詩編第25篇1-22節
説教題:「苦難から救ってください」
詩編第25篇1-22節の御言葉を学びましょう。
この詩編は、表題に「ダビデの詩」とありますように、ダビデ王が歌った詩編です。表題の「25」という数字の下に( )に閉じて、「アルファベットによる詩」とありますね。ダビデ王は、この詩編を、各節の冒頭の言葉の文字をヘブライ語のアルファベットの順に歌っています。「アルファベット形式の歌」と呼ばれています。この形式の賛美で、一番有名なものが詩編119篇です。アルファベット形式の詩編が、詩編の中に9つあります。
どうしてダビデ王は、この詩編をアルファベット形式で歌ったのでしょうか。それは、わたしたちがこの詩編を記憶するためです。さらにダビデ王は、わたしたちに彼の教訓を与えることを目的に、この詩編を賛美しています。
ダビデ王が、いつこの詩編が歌ったのか、この詩編からは分かりません。分かることは、第1にダビデ王は主なる神のみに信頼を寄せています。第2にダビデ王は自分の罪を知り、主なる神に罪の赦しを求めて祈り、賛美しています。第3にダビデ王は主なる神がダビデ王に示し、教えられる主の道を常に歩めるようにと祈っています。この詩編はダビデ王が主なる神の御前にへりくだり祈っている歌であります。
ダビデ王は、1節と2節の前半に主なる神への信頼を賛美しています。「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み わたしの神よ、あなたに依り頼みます」。ダビデ王は、主なる神を「わたしの神」と心から信頼し、その信頼に基づいて彼の願いを祈っています。
ダビデ王がどんなに主なる神に深い信頼を寄せているかは、次の御言葉によく表われています。1節と2節の「あなたを仰ぎ望む」、「わたしの神よ、あなたに依り頼みます」、5節の「あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています」、20節の「御もとに身を寄せます」、21節の「あなたに望みをおき」と。
ダビデ王はこの詩編を通してわたしたちに祈りについて教えてくれます。祈りは、何よりも主なる神への信仰、信頼に深く結び付いています。わたしが身を寄せ、わたしがこころから信頼する「わたしの神」にわたしの願いを申し述べることです。
次にダビデ王が「わたしの神」である主なる神に何をお祈りしたのかを学びましょう。ダビデ王は、主なる神に信頼し、祈り、いろいろなことを願っています。
第1の祈りは、2節と3節と20節です。ダビデ王の敵からダビデ王が恥を受けることがないようにと祈っています。「どうか、わたしが恥を受けることがないようにしてください。あなたに望みをおく者はだれも決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。」「わたしの魂を守り、わたしを助け出し 恥を受けることがないようにしてください。」
「恥を受けない」とは、どういうことでしょうか。神の民は日々の生活の中で色々と信仰の上で困難に出くわす時があります。ダビデ王は、その時にわたしが敵対者に負けることがないようにしてくださいと、主なる神に祈ります。具体的には、ダビデ王が息子のアブサロムの反逆の時に、都エルサレムを捨てて、ユダの荒野に逃げました。その時に先代のイスラエルの王であるサウル王の一族の出身のシムイが逃げるダビデ王を罵り、呪いました。しかし、ダビデは呪うシムイを、主なる神がダビデを呪わせていると耐え忍びました(サムエル記下16:5-14)。ダビデ王は再び王に返り咲きましたときに、シムイが赦しを請いましたので、彼に復讐をしませんでした。
ダビデ王は、主なる神に従い、主なる神に望みをおく者たちが、この世の不信仰者たちに負けることがないように、主なる神にあって勝利することができるように祈りました。
第2の祈りは、主の道を教え、導いてくださいという祈りです。4節と5節、21節です。「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください。」「あなたに望みをおき、無垢でまっすぐなら そのことがわたしを守ってくれるでしょう。」
「主の道」「あなたに従う道」とは、どちらも律法に示される神の民の生き方です。主なる神は、シナイ山において指導者モーセを通して神の民イスラエルに十戒という律法をお与えになり、彼らが主なる神に従って生きる道をお示しになりました。それは、主なる神の喜ばれる生き方でありました。
ダビデ王は、心から信頼する主なる神に神の律法を通してどのように神の民が生きることが主なる神の御喜びになることなのかを教え、お導きくださいと祈っているのです。指導者モーセ自身が主なる神に次のように祈っています。「お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるか知りうるでしょう。」
ダビデ王は、信仰者にとってこの世の生活が悩み多い、誘惑の多いものであることを知っております。だからこそ主なる神がダビデ王に示し、教えられる主の道に誠実に、そして正しく歩めるように、主に導かれてこそこの世において神に喜ばれて生きることができると確信していました。
第3の祈りは、ダビデ王が主なる神に憐れみと慈しみを思い起こして下さいと祈っています。6節と7節です。「主よ思い起こしてください あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず 慈しみ深く、御恵みのために 主よ、わたしを御心に留めてください。」
ダビデ王が主なる神を、「わたしを救ってくださる神」と心から主なる神に信頼を寄せることができるのは、「あなたのとこしえの憐れみと慈しみ」がダビデ王の信仰を支えているからです。ダビデ王は、主なる神が永遠からお示しになられた「憐れみと慈しみ」のゆえに主なる神を心から信頼しました。そして彼が若いころに犯した自分の罪を正直に主なる神に告白し、罪の赦しを求めることができました。
第4の祈りは、ダビデ王が主なる神に罪の赦しを祈っています。7節と11節と18節です。「主よ、あなたの御名のために 罪深いわたしをお赦しください。」「御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください。」
ダビデ王は、正直に主なる神に「罪深いわたしをお赦しください」と祈ります。彼は、主なる神との契約、そして神の律法に従うことのできない自分をよく知っているのです。だからダビデ王は、「主、主、憐れみ深く恵みの富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」(出エジプト記34:6-7)神の御名のゆえに、神の大きな愛のゆえに自分の罪が赦されることを確信し、「どうか罪を取り除きください」と罪の赦しを祈るのです。
第5の祈りは、ダビデが苦難からの解放を祈ります。16節と17節、18節です。「御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。悩む心を解き放ち 痛みからわたしを引き出してください。」
デンマークの哲学者でキリスト者であったキルケゴールは、神の民、キリスト者は、単独者であると言っています。ダビデ王は、主なる神以外に頼るものがない貧しい者、神の御前にただ一人立つ、孤独な自分を、はっきりと自覚しています。
ダビデ王は、自分の罪のゆえに心を悩まし、息子たちの姦淫と兄弟殺しに心に痛みを味わいました。ダビデ王は、主なる神に自らの罪を赦されて、彼の苦難から解放されることを祈っています。
そして、第6の祈りは、ダビデ王の敵対者からの守りを、主なる神に祈ります。19節と20節です。「御覧ください、敵は増えて行くばかりです。わたしを憎み、不法を仕掛けます。」「御もとに身を寄せます。わたしの魂を守り、わたしを助け出し 恥を受けることのないようにしてください。」
ダビデ王は、敵からの苦しみが次々に起こることを、主なる神に訴えています。ダビデ王は、この悩みと苦しみの多い状況の中で、ただ一人、神の御前に立ち、主なる神にのみ望みを置き、主なる神に従う道を歩む以外に、彼の幸いはないと確信しています。
この詩編25篇のダビデの祈りは、わたしたちの祈りです。わたしたちも自らの罪により、この世において色々な試練を、苦しみを避けることができません。だからこそキリストの十字架による罪の赦しに、常にわたしたちは目を注ぎます。そこに永遠の神の大きな愛と慈しみが、わたしたちに向けられています。だから、わたしたちも自分の罪を恐れなく主に申し述べ、罪の赦しを願うことが許されています。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちもダビデ王のように、心から主イエス・キリストの十字架に目を注ぎ、永遠の神の愛と慈しみに心から信頼し、わたしたちの罪の赦しを祈らせてください。この世においてキリストに従い、敵に打ち勝ち、罪と死に勝利し、御国における主との交わりを待ち望ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。