詩編説教096               主の2018年9月23

 

 

 

新しい歌を主に向かって歌え。 歌え、主に向かって新しい歌を。

 

全地よ、主に向かって歌え。 歌え、主に向かって、全地よ。

 

主に向かって歌い、御名をたたえよ。歌え、主に向かって彼の名を誉め称えよ。

 

日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。良い知らせを告げよ、日から日へ、

 

国々に主の栄光を語り伝えよ 彼の救いを。語れ、国々に彼の栄光を。

 

諸国の民にその驚くべき御業を。 すべての諸国民の中で彼の驚くべき御業を。

 

 

 

大いなる主、大いに賛美される主 まことに大いなる主は大いに賛美される方。

 

神々を超えて、最も畏るべき方。 恐るべき彼は、すべての神々を超えて。

 

諸国の民の神々はすべてむなしい。まことにすべての神々は、諸国民の偶像。

 

主は天を造られ  しかし、主は天を造られた。

 

御前には栄光と輝きがあり 尊厳と威光は彼の面前に。

 

聖所には力と光輝がある  力と輝きは彼の聖所の中に。

 

 

 

諸国の民よ、こぞって主に帰せよ 帰せよ、主に、諸国民の家族よ。

 

栄光と力を主に帰せよ。 帰せよ、主に、栄光と力を

 

御名の栄光を主に帰せよ。 帰せよ、主に彼の名の栄光を。

 

供え物を携えて神の庭に入り 携えよ、供え物を、そして入れ、彼の中庭に。

 

聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。ひれ伏せ、主に、聖なる輝きの中で。

 

全地よ、御前におののけ。 おののけ、彼の面前で、全地よ。

 

 

 

国々にふれて言え、主こそ王と。言え、諸国民の中で、「主が王である」。

 

世界は固く据えられ、決して揺らぐことはない。世界もまた堅く立つ。決して

 

主は諸国の民を公平に裁かれる。揺るがない。彼は裁く、諸国民を、公平に。

 

天よ、喜び祝え、地よ、喜び踊れ 喜べ、天は。喜び踊れ、地は。

 

海とそこに満ちるものよ、とどろけ とどろけ、海とそれに満ちるものは。

 

野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め 喜び勇め、野とその中にあるもの

 

森の木々よ、共に喜び歌え、はみな。そして、歓呼せよ、すべての森の木々は。

 

主を迎えて。 主の面前で、まことに彼は来る。

 

 

 

主が来られる、地を裁くために来られる。まことに彼は来る。地を差額ために。

 

主は世界を正しく裁き き彼は裁く。義によって世界を。

 

真実をもって諸国の民を裁かれる。 そして、諸国民を彼の真実によって。

 

 詩編第96113

 

 

 

説教題:「主こそ王」

 

 

 

今朝は、詩編第95111節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

何度も繰り返しお話ししますが、詩編第9399編には表題がありません。そして、93100編は一つのストーリーなのです。すなわち、主が諸国民の王となられ(93959799)、敵に復讐され(94)、全世界が「新しい歌」を歌いつつ(9698)、歓呼の中で主に仕える(100)という神の民の喜びと希望を歌っているのです。

 

 

 

だから、詩編96編の詩人も世界の諸国民に新しい歌を王である主に向かって歌えと呼びかけています。「全地」は全世界のことであり、詩人は、全世界の諸国民に王である主を礼拝し、賛美せよと命じているのです。

 

 

 

主は天と地の創造者で、全世界のすべての諸国民を支配されています。詩人はわたしたちをこの事実に導いているのです。

 

 

 

この詩編の10節で詩人は「国々にふれて言え、主こそ王と。」と賛美していますね。詩編96編は、主なる神が王に即位されたという詩編です。だから詩人は神の民イスラエルだけでなく、全世界の諸国民に王である主を誉め称えよと命じているのです。

 

 

 

さて、詩編96編から98編は、3つの点で共通します。第一は、主は創造者です。天地を創造されたお方が神の民イスラエルの神、主です。第二は、主はイスラエルの民だけの神ではなく、世界の諸国民の神、主であります。第三は、主は全地の統治者として、義によって全世界の諸国民を裁くために来臨されることを述べています。

 

 

 

わたしたちが手にしている新共同訳聖書には、詩編96編に表題はありません。ところが初代教会が礼拝で使用していた七十人訳聖書には、次のような表題がありました。「捕囚後、宮が建てられた時のダビデの歌」。

 

 

 

この詩編は、ペルシア帝国のキュロス王が紀元前539年に勅令を出し、バビロン捕囚のユダヤ人たちが祖国に帰還を許され、紀元前538年にエルサレムに着き、第二神殿の建設を始めました。途中ユダヤを支配していましたサマリア人の妨害があり、紀元前515年に第二神殿が完成しました。

 

 

 

七十人訳聖書はその頃にこの詩編が作られたと説明しているのです。

 

 

 

今第一と第三木曜日の聖書を学ぶ集いで、イザヤ書を学んでいます。5666章の、第三イザヤ書と呼ばれているところを学んでいます。ちょうどペルシア帝国のキュロス王が勅令を出し、バビロン捕囚のユダヤ人がエルサレムに帰還し、第二神殿を建てた頃に、この第三イザヤ書の無名の預言者が活躍しました。

 

 

 

彼も、第一に主を創造者、イスラエルの主とみなしました。第二に全世界の諸国民の主とみなし、神の民と共に諸国民が第二神殿で主を礼拝することを預言しています。そして、第三は、主は諸国民を裁くために来られることを預言しています。

 

 

 

だから、思想が似ており、詩編96編と第三イザヤは同じ時代に書かれ、それぞれ詩編とイザヤ書に編集されたのでしょう。

 

 

 

詩人も第三イザヤ書の無名の預言者も、全世界の諸国の民に主への賛美を促し、主が全世界に王として君臨され、義をもって諸国民を裁かれるという終末的希望を持っていました。

 

 

 

この詩編は13節の詩で成り立っています。その内容から16節と713節に分けることができます。

 

 

 

13節で詩人は、全地、すなわち、全世界に向かって主への賛美を促し、礼拝へと招いています。

 

 

 

1節の「新しい歌」とは、主なる神の新しい奇跡の御業を述べる賛美です。バビロン捕囚からの解放でしょう。第二イザヤ書(4055)では、エジプトからの脱出に、バビロン捕囚からの解放をたとえております。

 

 

 

だから、詩人は、バビロン捕囚からの解放を、主の新しい奇跡の御業として、第二神殿で主を礼拝し、主を賛美しようと命じたのでしょう。なぜなら、全世界の諸国民がバビロン捕囚から主が神の民イスラエルを解放されたことを見たからです。

 

 

 

だから、詩人は、全地が、全世界が主を賛美し、主の御名を称えて、日々、主のバビロン捕囚からの解放という御救いの良き知らせを、出エジプトの良き知らせを語り伝えたように、語り伝えようと呼びかけているのです。

 

 

 

詩人の先祖たちが出エジプトという主なる神の奇跡を、幕屋や神殿で歌って、主の栄光を彼らの子孫や周辺の諸国民に語り伝えたように、バビロン捕囚という驚くべき主の御救いの業を、全世界の諸国民に語り伝えようと、詩人は歌っているのです。

 

 

 

13節で、詩人の神賛美からわたしたちは、神の民の御救いを全地に、全世界の諸国民に宣べ伝えようという強い使命感を感じ取ることができるでしょう。この詩人から神の民の使命が主を礼拝賛美し、主の救いの御業を諸国の民たちに宣べ伝える伝道であるという強い情熱を感じないでしょうか。

 

 

 

さらに、46節で詩人は、まず主は大いなる方で、大いに誉め称えるべきお方と賛美します。

 

 

 

続いて詩人は諸国の民に、主のみを神として崇めるように促しています。彼らが生活の中で拝む神々は偶像であり、空しいと述べています。

 

 

 

それから、詩人は、主は天を創造され、栄光と輝きに包まれ、神殿の聖所には主の御力と光輝、すなわち、美が立ち込めていると歌っているのです。

 

 

 

わたしは、詩人の礼拝観を読み取れると思います。どうして全地の神の民が神殿で主を礼拝するのかと。

 

 

 

その答えは、主が天地の創造者で、真の神であるからです。諸国の神々は偶像で、空しいものにすぎません。主は栄光と輝きに包まれ、神殿の聖所には主の御力と光輝、すなわち、美が立ち込めています。

 

 

 

ですから、79節で詩人は諸国の民に主に栄光を帰せよと呼びかけるのです。

 

 

 

神殿で主なる神を礼拝するようにと招くのです。礼拝とは主を最も高貴なお方と認めることです。この世のすべてよりも価値があるお方と認めることです。

 

 

 

それが「主に帰せよ」、「栄光と力を主に帰せよ」、「主の御名を主に帰せよ」ということです。

 

 

 

礼拝は、主なる神が御自身を啓示された出来事に対する応答です。出エジプトという奇跡の出来事を通して、主なる神は神の民イスラエルと諸国の民に、御自身を天地の創造者、唯一の主として現わされました。

 

 

 

だから、主はモーセが神の民を導いたシナイ山に現れ、彼らと契約を結ばれ、彼らに十戒の石の板を授けられました。それに神の民が主のみを唯一の神として礼拝し、仕えるように教えられていました。

 

 

 

バビロン捕囚からの解放という第二の出エジプトの出来事を通して、主は再び御自身を天地の創造者、唯一の主として御自身を現わされました。

 

 

 

だから、諸国の民はそれに相応しい畏れをもって主なる神を礼拝するように、詩人は促しているのです。

 

 

 

第一に8節で「供え物を携えて神の庭に入れ」と詩人は促します。その供え物は、目に見える品物ではありません。主が喜ばれるのは神の民の「砕けた魂」です。主は礼拝する者が主の御前に自分の罪を悔いることを軽んじられません。

 

 

 

第二に、9節で「聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ」とありますね。ここは口語訳聖書は「聖なる装いをして主を拝め」と訳しています。

 

 

 

ヘブライ語旧約聖書の原文は、そのまま日本語にすると次のようになります。「ひれ伏せ、主に、聖なる輝きの中で」。

 

 

 

サンデースーツという言葉をご存知でしょうか。日曜日には勝負服を着て、礼拝に出席することです。勝負服とは自分が持っている最高の服です。自分が最高の装いで主を崇め礼拝すべきだという根拠となった御言葉です。

 

 

 

新共同訳聖書は、口語訳聖書の訳を捨てました。礼拝者が聖なる装いで主を礼拝することよりも、礼拝は神殿に聖なる輝きに満ちた主が臨在されるゆえに、礼拝者は主を畏れ礼拝すべきだと理解しています。

 

 

 

礼拝で大切なことは、礼拝者はサンデースーツを着て、礼拝することではありません。礼拝は、聖なる輝きに満ちた主が臨在されるところです。だから、聖なるお方にふさわしく清い生活を礼拝者は心がけるべきなのではないでしょうか。すなわち、聖なる主に、ひれ伏すことから、わたしたち神の民の生活は始められるべきだということです。

 

 

 

1013節で詩人は、諸国の民に主なる神の主権性と来臨を告げ知らせています。

 

 

 

詩人は、諸国の民に10節で「主こそ王」と宣言します。詩編931節の御言葉です。「主は王である」という神の民の信仰告白です。10節は931節の引用です。

 

 

 

天地の創造者、主が全地を、全世界を、王として統治されています。だから、世界は堅く立ち、決して揺らぐことはありません。

 

 

 

また、詩人は。次のことを力強く宣言しています。創造者、主が全世界を裁くために来臨されると。

 

 

 

第二イザヤと第三イザヤと同じ終末観を、この詩人は信じているのです。

 

 

 

すなわち、世界の諸国民は、来たりつつある主の裁きに向けて、将来へと生きているということです。

 

 

 

主は世界の諸国民を公平に裁かれます。13節で詩人は、主の裁きを次のように宣言します。主は「正しく」、すなわち、義によって諸国の民を裁かれ、「真実をもって諸国の民を裁かれる」と。

 

 

 

詩人は、11節でその時を、主に創造された天と地は喜べ、森と木々は共に喜び踊れと賛美しています。

 

 

 

主は、御自身の主権性によって諸国の民を義と真実をもって裁かれます。

 

 

 

詩人は、諸国の民にそれを福音として告げ知らせているのです。

 

 

 

わたしたちが今朝の詩編96編の御言葉を、福音として聞き取るためには、主イエス・キリストを無視することはできません。

 

 

 

この詩人の預言通りに、主イエス・キリストは来られました。そして、礼拝に招かれた全世界の諸国の民は、公平に、義と真実によって裁かれました。

 

 

 

それが、キリストの十字架でした。

 

 

 

ヨハネによる福音書は、次のように主イエスの来臨を、主イエスを信じる者たちの福音として告げています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ316)

 

 

 

詩人が諸国の民を礼拝に招くのは、主イエス・キリストに招いているのです。主イエスを救い主と信じる者のみが、主が招かれる教会で新しい歌を主に向かって歌い、主の御名を称えているのです。

 

 

 

なぜなら、神の民にとって、主が公平と義と真実によって諸国の民を裁かれることは、救いであるからです。詩人が預言した通り、主は人となり、この世界に来られました。そして、この世界の諸国民が神の民、神の子とされるために、御自身の十字架において父なる神の裁きを受けてくださいました。

 

 

 

それを、わたしたちの罪のためであると信じて、主イエスをわたしたちの救い主と、今わたしたちは詩編96編の詩人同様に、礼拝で主イエスを救い主と、誉め称えているのです。

 

 

 

そして、再臨のキリストの訪れを待ち望んでいるのです。そこで主なる神は、最後の審判によって世界を裁かれます。しかし、神の民は再臨の主イエスに、死者の中から復活させられ、新しい新天新地に永遠の住まいを得るのです。そこで真実わたしたちは、この詩編96編を心から喜び、賛美するのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は詩編96編の御言葉を学ぶことができて感謝します。

 

 

 

 今朝も、主にお招きいただき、礼拝できる喜びを感謝します。

 

 

 

96編の詩人が預言したことは、主イエスが来られて、御自身の十字架で実現されました。また、主イエスの再臨によって完成され、わたしたちは主イエスが備えてくださった新天新地で永遠の命にあずかり、心から喜びをもって

 

この詩編96編を賛美できることをうれしく思います。

 

 

 

主は神の民にとって王であり、大いなる方であり、創造者であり、救い主であり、支配者であり、裁き主であります。どうか、この礼拝で主の御前にへりくだり、心から主に服従させてください。

 

 

 

どうか、心を頑なにして、御国に入ることの出来ない者にしないでください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

詩編説教097               主の20181028

 

 

 

主こそ王。 主は王、

 

全地よ、喜び踊れ。 喜び踊れ、地は

 

多くの島々よ、喜び祝え。多くの島々よ、喜べ。

 

 

 

密雲と濃霧が主の周りに立ちこめ 密雲と霧が主の周りに。

 

正しい裁きが王座の基をなす。 義と裁きが彼の座の基。

 

火は御前を進み  火が彼の御前を行き

 

周りの敵を焼き滅ぼす。 焼き尽くす、周りの彼の敵たちを。

 

稲妻は世界を照らし出し 照らす、彼の稲妻は、世界を。

 

地はそれを見て、身もだえし。見て、身もだえする、地は。

 

山々は蝋のように溶ける  山々は蝋のように溶ける、

 

主の御前に、全地の主の御前に。 主の御前で、全地の主の御前で。

 

天は主の正しさを告げ知らせ  彼の義を、天は告げ知らせる。

 

すべての民はその栄光を仰ぎ見る。 諸国民のすべては、彼の栄光を見た。

 

 

 

すべて、偶像に仕える者 すべて偶像に仕える者、空しい像を誇るものは、

 

むなしい神々を誇りとする者は恥を受ける。 恥じる。

 

神々はすべて、主に向かってひれ伏す。 すべての神々は彼にひれ伏した。

 

シオンは聞いて喜び祝い シオンは聞いて喜び

 

ユダのおとめらは喜び踊る。 ユダの娘たちは喜び踊った。

 

主よ、あなたの裁きゆえに。 主よ、あなたの裁きのために。

 

あなたは主、全地に君臨されるいと高き神。真にあなたは主、全地の上にいと

 

神々のすべてを超え、あがめられる神。高き者。すべての神々を超えて、あなたは上げられた。

 

主を愛する人は悪を憎む。 主を愛する者たちよ、悪を憎め。

 

主の慈しみに生きる人の魂を主は守り 彼の聖徒たちの魂を守る者は、

 

神に逆らう者の手から助け出してくださる。 悪人たちの手から彼らを救う。

 

神に従う人のためには光を  光は、義人のために蒔かれ、

 

心のまっすぐな人のためには喜びを 喜びは、心のまっすぐな者のために

 

種蒔いてくださる。 蒔かれる。

 

神に従う人よ、主にあって喜び祝え。 喜べ、義人たちよ、主にあって。

 

聖なる御名に感謝をささげよ。 感謝せよ、彼の聖なる記憶に。

 

 詩編第97112

 

 

 

宗教改革記念礼拝:説教題:「主を愛する人は悪を憎む」

 

 

 

本日は宗教改革記念礼拝をします。

 

 

 

宗教改革者マルティン・ルターが食卓を囲んで客人や友人たちと楽しんだ語らいの「語録集」、その題名を「卓上語録」と呼びます。ルターの伝記的資料として、また、ルターの信仰を生で伝える重要な記録として、有名な書物です。

 

 

 

その書物は3部構成で、第一部がルターの活動を、第二部がルターの仕事を、そして、第三部が世の諸々の事柄に関するルターの見解を、ルターが述べています。

 

 

 

彼の語録には番号が付され、1078のルターの語録が一冊の書物に収録されています。

 

 

 

この語録は、ルターがその生涯の晩年、15年間彼の家の食卓で客人や知人と語らった彼の語録が集められています。

 

 

 

今朝は、詩編97112節の御言葉を学びつつ、この書物を手掛かりにして、宗教改革者ルターが「神の義」をどのように思いめぐらしたかを学びたいと思います。

 

 

 

さて、詩編97編は、16節、79節、そして1012節に分けることができます。

 

 

 

16節で詩人は、主なる神が諸国の王に即位され、諸国の民の御前に現れられたことを歌っています。

 

 

 

79節で詩人は、主なる神が諸国の王として現れると、この世界がどうなるかを歌っているのです。偶像なる神々と偶像を礼拝する異教徒たちが主なる神に裁かれて恥を受け、神の民たちは主の裁きのゆえに喜び踊ると歌っています。

 

 

 

そして、1012節で詩人は、神の民の義務を歌って、この詩編を閉じているのです。

 

 

 

詩人は、1節で「主こそ王」と歌います。主なる神が諸国の王となられたと。「全地」は今日の全世界です。「多くの島々」は地中海やエーゲ海に浮かぶ島々です。

 

 

 

詩人たちの時代は、イザヤ書で学びましたエルサレムの第二神殿が完成したペルシア時代でしょう。地中海やエーゲ海の島々やその沿岸が世界の果てであると思われていました。

 

 

 

主なる神が世界の果てにある諸国の民の王となられたのです。それは、主がすべての諸国の民に喜びをもたらされることです。だから、詩人は、全地の諸国の民に向かって、世界の果てにある諸国の民に向かって、「喜べ」と命令しています。

 

 

 

詩人の時代、神の民イスラエルは苦難の中にありました。

 

 

 

南ユダ王国の神の民たちは、新バビロニア帝国のネブカドネツァル王によって滅ばされ、バビロンに捕囚されました。ダニエル書に書かれているように、バビロンもペルシアも異教の神々の世界で、偶像礼拝という人間の愚かで、迷信的な行為を、神の民たちは強制されていたのです。またダニエルが悪者たちに罪に落とし入れられたように、不正と悪がはびこり、主なる神に従い、神の掟である十戒を守って生きている神の民たちを苦しめていたのです。

 

 

 

だからこそ、詩人はエルサレムに第二神殿が建てられ、主なる神が神の民イスラエルだけでなく、全地の諸国民の王になってくださったと宣言するのです。 

 

 

 

詩人は、26節で主が世界の王として現れ、全地の諸国民を正義と公平によって裁き、すべての諸国の民たちが主の栄光を仰ぐと歌っています。

 

 

 

2節と3節は、出エジプト記191618節の御言葉を、シナイ山に集まりました神の民イスラエルの前に主が現れてくださった場面を、詩人は思い浮かべて歌っているのです。

 

 

 

主なる神が現れ、諸国の王となられ、2節で「正しい裁きが王座の基をなす」とありますが、主なる神は聖なる、義なるお方であり、正義と公正によって諸国の民を裁かれるのです。

 

 

 

3節の「周りの敵を焼き滅ぼす」とは、主なる神が聖なるお方であることを表しています。終わりの日に諸国の王である聖にして、義なる主は現れて、すべての敵を義と公正によって裁き、滅ぼされるのです。

 

 

 

だから、詩人は6節で「天は主の正しさを告げ知らせ、すべての民はその栄光を仰ぎ見る」と賛美しているのです。

 

 

 

だから、79節で詩人は、主が諸国の王として現れたら、世界はどうなるのかと歌っているのです。

 

 

 

バビロンやペルシアで偶像を礼拝し、神々を誇る異教徒たちは皆、恥を受けるでしょう。なぜなら、すべての神々は無条件で主に服従するからです。彼らが拝み、誇った偶像や神々は彼らが手で作ったものにすぎないことが明らかになるからです。

 

 

 

エルサレムの第二神殿で礼拝する神の民たちは、常にユダとエルサレムを支配する異教徒の支配者たちに神殿工事を妨害され、エルサレムの城壁工事を妨害され、苦しめられていました。

 

 

 

またバビロンに捕囚されなかった同胞が彼らの嗣業地を略奪し、生活に困窮していました。

 

 

 

だから、詩人は、神の民が主が諸国の王となり、現れてくださり、異邦人の敵たちと不正をなす同胞を、正義と公正によって裁かれることを、喜び踊ると歌っているのです。

 

 

 

主の裁きで、神の民たちは彼らの国と嗣業地を回復されるからです。

 

 

 

詩人は、1012節で神の民の喜びを歌うだけでなく、諸国の王となり、現れられた主に対する神の民の義務を歌っているのです。

 

 

 

第一に詩人は、「主を愛する者は悪を憎む」と歌っています(10)

 

 

 

「主を愛する者よ、悪を憎め」と、彼は命じました。神の民、キリスト者の義務は神の命令を遂行することです。

 

 

 

「主を愛する者」とは、聖徒のことです。

 

 

 

詩人は、聖徒に悪を憎む生き方をせよと命じています。

 

 

 

詩人も神の民たちも、この世で主が嫌われる偶像礼拝をする異教の支配者たちの下で生きざるを得ませんでした。この世で悪と不正は日常のことでした。弱肉強食の世です。強い者は弱い者を虐げ、悪賢い者は純朴で愚かな者を欺く世で、神の民は主が悪を憎まれるように、悪を憎んで生きなければなりません。

 

 

 

この命令に従うならば、世の迫害を覚悟すべきでしょう。だから、詩人の口を通して主は、10節後半で、神は聖徒に約束してくださいます。「主の慈しみに生きる人」は、聖徒のことです。主は聖徒の魂を守る者です。そして、主は悪人の手から彼を助け出すと約束されています。

 

 

 

第二に詩人は、光は義人のために蒔かれ、喜びは心のまっすぐな人のために蒔かれると歌っています(11)

 

 

 

光は救いのシンボルです。光と喜びは共に救いをイメージしていると思います。義人と心の直き人は、主を愛する者であり、神の聖徒です。主が神の聖徒に光と喜びを蒔かれるとは、キリスト教で言えば、キリスト者の聖化のことでしょう。光であるキリストがキリスト者の内に宿って、信仰から信仰へと歩ませてくださる、キリスト者の聖化の道を意味していると思います。

 

 

 

第三に詩人は、聖徒の人生が頌栄的人生であることを歌っています(12)

 

 

 

わたしたちキリスト者の人生の目的は、ウェストミンスター小教理問答の問1の答にありますように、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」です。

 

 

 

主を喜び祝い、主の聖なる御名に感謝をささげるとは、主を礼拝するということです。神を礼拝することこそ、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

 

 

 

わたしは、詩編からルターが豊かにキリストを、キリストの御救いを得たことは事実だと思います。

 

 

 

若き修道士のルターは、詩編の「神の義」に震え戦きました。彼は、神の義を神の報復と理解していたからです。

 

 

 

この詩編の「神の義」のように、神は罪人の彼に、厳しい審判を下す。だから、ルターは「わたしは災いだ。神の義の厳しい審判で永遠に滅びる」と心の底から、神の義とその裁きを恐れました。

 

 

 

若きルターは、晩年とは異なり、詩編を読むことは苦しみだったでしょう。

 

 

 

しかし、彼は、語録の中で神の義が神の厳しい審判でなく、神のあわれみと理解できた喜びを、何度も語っています。

 

 

 

その中の語録の74「パウロに対する敵意」で、彼は次のように語っています。

 

 

 

「あの『神の義』というみ言はわたしの心には青天の霹靂のようであった。というのは、教皇制度のもとで、『あなたの義によってわたしを助けてください』(302)、『あなたの真理によって』を読んだとき、この義は神の怒りの報復の激怒であると即座に思ったからである。『神の義は福音によって啓示される』(ロマ117)を読んだとき、わたしは心からパウロを嫌った。もちろん、続いて、『義人は信仰によって生きる』と記された箇所を読み、さらにアウグスティヌスを参照したとき、わたしは歓喜した。神の義はあわれみで、このあわれみによりわたしたちを義とすることを知ったとき、意気阻喪していたわたしは救われたのである」。

 

 

 

「神の義」は、神の裁きにかかわります。だが神はわたしたち罪人を憐れんでくださいました。わたしたち罪人に代わって御子主イエスを十字架で裁くことで、「神の義」をすべての民に告げ知らされました。

 

 

 

神であり、人である主イエス・キリストが十字架でわたしたち罪人の罪を贖われたので、神の義が満たされました。同時に神は、わたしたちに信仰を与えて、御子主イエスを信じる信仰によって、わたしたちを義人とみなして、和解してくださいました。

 

 

 

ルターは聖書から「神の義」の福音を見出しました。この詩人を通して主が命じられた「主を愛する者よ、悪を憎め」を、彼は生涯貫き通しました。そして、ローマ法王にカトリック教会から破門されたときも、ローマ皇帝の前で裁判に立たされたときも、彼は主なる神以外の何者にも屈しませんでした。彼は、「我ここに立つ」と言って、神の御言葉の前に立ち続けたのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今朝は宗教改革記念礼拝を守りました。詩編97編の御言葉を学ぶと共に、宗教改革者ルターの信仰の一端を学べて感謝します。

 

 

 

 宗教改革500年を、昨年、諏訪地方のプロテスタント諸教会の兄弟姉妹と祝うことができて、本当に感謝でした。

 

 

 

 共に神の御言葉である聖書と説教を重んじて、ルターが聖書から再発見した信仰義認の教えを喜びことができて、感謝しています。

 

 

 

97編の詩人が主なる神が諸国の王となり、諸国の民に喜びを与えられ、神の民イスラエルの敵を、義と公正で裁き滅ぼされ、主の裁きで神の民が救われる喜びを知りました。

 

 

 

まさにわたしたちは、キリストの十字架という神の義の裁きで、自分たちの罪を赦され、父なる神と和解できたことを心より感謝します。

 

 

 

詩人の口を通して、主がわたしたちにも「主を愛する者よ、悪を憎め」と、今朝お命じになりました。ルターのように生涯悪を憎むという生き方をなさせてください。

 

 

 

また、わたしたちの内に主イエスをお住まいくださり、わたしたちの生涯が信仰から信仰へと歩めるようにしてください。

 

 

 

しかし、わたしたちは弱い者です。主イエスが「試みにあわせず、悪からお救いください」と祈るように命じられました。どうか、主イエスよ、この世の悪の手からわたしたちを助け出してください。

 

 

 

これから聖餐の恵みに共にあずかります。弱さの中でこそ、主の恵みの力が発揮されることを確信させてください。

 

 

 

どうか、この礼拝で主の御言葉を聞き、生涯神の栄光をあらわし、神を永遠に喜べるようにしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

詩編説教098             主の20181125

 

 

 

        賛歌。 賛歌

 

新しい歌を主に向かって歌え。 歌え、主に向かって、新しい歌を。

 

主は驚くべき御業を成し遂げられた。諸々の不思議な御業を、彼は行ったから。

 

右の御手、聖なる御腕によって 彼を救ったのは、彼の右手と彼の聖なる腕。

 

主は救いの御業を果たされた。 

 

主は救いを示し 知らせた、主は、彼の救いを。

 

恵みの御業を諸国の民の目に現し 諸国の民の目に、彼の義を現した。

 

イスラエルの家に対する    彼は覚えた、イスラエルの家に対する

 

  慈しみとまことを御心に留められた。彼の慈しみと彼の真実を。

 

地の果てまですべての人は 見た、すべての地の果てまで

 

わたしたちの神の救いの御業を見た。わたしたちの神の救いを。

 

 

 

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。歓声をあげよ、主に、全地よ。

 

歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。 歓呼せよ、喜び歌え、ほめ歌え。

 

琴に合わせてほめ歌え  ほめ歌え、主に、琴をもって。

 

琴に合わせ、楽の音に合わせて。 琴と歌の声をもって。

 

ラッパを吹き、角笛を響かせて ラッパと角笛の音とによって。

 

王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。 歓声を上げよ、王主の御前で。

 

 

 

とどろけ、海とそこに満ちるもの とどろけ、海とその中に満ちるものは、

 

世界とそこに住むものよ。 世界とその中に住む者たちは。

 

潮よ、手を打ち鳴らし 諸々の川は手を打ち鳴らし

 

山々よ、共に喜び歌え。 山々も共に喜び歌え。

 

主を迎えて。 主の御前で、

 

 

 

主は来られる、地を裁くために。 まことに彼は来る、地を裁くために。

 

主は世界を正しく裁き 彼は裁く、義によって世界を

 

諸国の民を公平に裁かれる。 公平に諸国の民を。

 

 詩編第9819

 

 

 

説教題:「全地よ、主を喜びたたえよ」

 

 

 

詩編第9819節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

詩編第95編から第100編までの6つの詩編は、「礼拝詩編」と呼ばれています。そして、共通性を持っています。

 

 

 

第一の共通性は、詩人がほめたたえる主は、全世界の王であります。

 

 

 

詩編95編の詩人は、3節で「主は大いなる神 すべての神を超えて大いなる王」とほめ讃えています。詩編96編の詩人は、10節で「国々にふれて言え、主こそ王」とほめ讃えています。97編の詩人は、1節で「主こそ王」とほめ讃えています。98編の詩人は、6節で「王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ」とほめ讃えています。99編の詩人は、1節で「主こそ王」とほめ讃えています。

 

 

 

第二の共通性は、主が王として世界を支配されている事実に、詩人たちは関心を持っています。

 

 

 

95編の詩人は、主が世界と神の民の創造者で、大いなる神であるという事実に関心を持っています。96編の詩人は、主が全世界に君臨される王であるという事実に関心を持っています。97編の詩人は、全世界の王なる義の神が顕現され、敵を滅ぼされるという事実に関心を持っています。98編の詩人は、全世界が主の不思議な御救いを見たという事実に関心を持ち、全被造物に王である主に歓呼を上げることを促しています。99編の詩人は、聖なる神がシオンに座し公正と正義をもって神の民イスラエルを統治されるという事実に関心を持っています。

 

 

 

第三の共通性は神の民イスラエルだけでなく、全世界の諸国民に、全被造物に礼拝を呼び掛けています。

 

 

 

95編の詩人は、神の民イスラエルに礼拝を呼び掛けています。96編の詩人は、諸国民、すべての民に礼拝を呼び掛けています。97編と98編の詩人は、全世界の民と全被造物に礼拝を呼び掛けています。

 

 

 

96編と97編と98編の詩人は、王である主が地を裁くために来臨されることを歌っています。全地、すなわち、全世界と全被造物が王である主が来られるとき歓喜すると歌っています。

 

 

 

96編の詩人は、1112節で「天よ、喜び祝え、地よ、喜び踊れ 海とそこに満ちるものよ、とどろけ、野とそこにあるすべてのものよ、喜び勇め 森の木々よ、共に喜び歌え」と歌っています。97編の詩人は、1節で「全地よ、喜び踊れ。多くの島々よ、喜び祝え。」と歌っています。98編の詩人は、78節で「とどろけ、海とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものよ、潮よ、手を打ち鳴らし 山々よ。共に喜び歌え」と歌っています。

 

 

 

98編の1節の冒頭と9節の終わりを見てください。すでに96編の冒頭の1節と終わりの13節と同じですね。

 

 

 

98編と詩編96編は共に礼拝詩編であり、主が王に即位される即位式の祭りを背景としています。

 

 

 

旧約聖書には主なる神ご自身を王とする思想があります。イスラエルの王制は、サムエル記上のサウル王に始まります。そして、ダビデ王が王制を確立し、ダビデ王国を建てました。

 

 

 

メシア、「油注がれた者」という称号は、本来、イスラエルの王の称号です。預言者イザヤをはじめ、多くの記述預言者たちは、メシアの救済を預言しました。メシア、キリストという理想的な王の到来を預言し、待望しました。

 

 

 

詩編93編から100編の詩人たちも、同じメシアという理想の王の到来を待ち望んでいます。

 

 

 

すなわち、詩編93編から100編の詩人は、主が王となられ(93編、95編、96編、97編、99)、敵に復讐し(94)、全世界が「新しい歌」を歌いつつ(96編、98)、歓呼の中に主に仕える(100)希望を歌っているのです。

 

 

 

これらの詩編の歴史的背景は、次の通りです。紀元前586年にバビロンの王ネブカドネツァルによって南ユダ王国は滅ぼされました。エルサレムの都と神殿は破壊され、廃墟となりました。神の民イスラエルはバビロンに捕囚されました。

 

 

 

その結果、この地上に離散のユダヤ人たちが生まれました。彼らは捕囚の地バビロンに定住し、バビロンが滅びて、ペルシア帝国が起こると、ペルシア帝国内に定住しました。そして、ギリシアのアレクサンドロス大王が地中海からペルシア帝国、そしてインドまで領土を拡大すると、その帝国内の都市に定住しました。そして、ローマ帝国の時代に彼らはヨーロッパ中の町々に定住しました。まさにギリシア語を話す離散のユダヤ人たちは、コスモポリタン、世界市民として生きました。そして、離散のユダヤ人が信じる主は、彼らの生きる全世界を創造し、神の民と諸国民の創造者であり、全世界の王であり、支配者でした。

 

 

 

詩編98編の詩人はバビロン捕囚からの解放を経験していたでしょう。だから、

 

彼は、13節でこう歌っているのです。

 

 

 

新しい歌を主に向かって歌え。 

 

主は驚くべき御業を成し遂げられた。

 

右の御手、聖なる御腕によって 

 

主は救いの御業を果たされた。 

 

主は救いを示し 

 

恵みの御業を諸国の民の目に現し 

 

イスラエルの家に対する    

 

   慈しみとまことを御心に留められた。

 

地の果てまですべての人は 

 

わたしたちの神の救いの御業を見た。

 

 

 

 詩人は、エルサレム神殿で神の民に顕現される主に向かって、新しい歌を歌えと呼び掛けています。

 

 

 

続いて1節の2行目から3節まで、彼が主に向かって新しい歌を歌うように、礼拝者たちに促す理由を述べています。

 

 

 

主は驚くべき御業を成し遂げられた」とは、バビロン捕囚からの解放であります。主は、ペルシアの王クロスを用いて、バビロンを滅ぼし、捕囚のユダヤ人たちを解放し、エルサレムに帰還させられました。

 

 

 

この出来事は、主の勝利の出来事であるので、エルサレム神殿で礼拝する神の民たちは、新しい歌、勝利の歌を、主に向かって歌えと、詩人は促しているのです。

 

 

 

中近東世界のすべての人々が、このバビロン捕囚からの解放という、主なる神の勝利を、彼らの目で見たのです。

 

 

 

右の御手、聖なる御腕」とは、共に主なる神の御力を強調する表現です。主なる神は全能の御力で、バビロン捕囚から神の民を解放するという救いの御業を実行されました。

 

 

 

主は救いを示し」とは、主が神の民イスラエルをバビロン捕囚から救い出すことを、世界の諸国民に知らせられたということです。

 

 

 

クリスマスという出来事は、神が人となり、乙女マリアから生まれられた幼子キリストが世界の諸国民をご自身の十字架の死によって罪と死から解放されたという救いを告げ知らせることです。

 

 

 

それが福音です。ここでもバビロン捕囚からの解放という出来事を通して、神の福音が世界の諸国民に告げ知らされたのです。

 

 

 

詩人は、主が「恵みの御業を諸国の民の目に現し」と歌っています。「恵みの御業」は字義どおりに言うと、「義の御業」です。義と救いとは同義語です。どちらも救いを表しています。だから、詩人は、主が諸国の民の目に、神の救いの御業を啓示されたと歌っています。神の救いの御業とは、主が神の民をバビロン捕囚からの解放されたことでした。

 

 

 

イスラエルの家に対する」とは、イスラエルの民に対するという意味です。

 

 

 

慈しみとまことを御心に留められた」とは、慈しみとまことを、主はお忘れにならなかったということです。

 

 

 

神の民イスラエルは、主なる神との契約を捨て、パレスチナや諸国民の神々を偶像礼拝し、主なる神の怒りを買いました。そして、主なる神はバビロンを道具に用いられて、南ユダ王国を滅ぼされました。神の民たちを異郷の地バビロンへと捕囚させられました。

 

 

 

しかし、主なる神は神の民イスラエルを忘れ去られたのではありません。

 

 

 

「慈しみ」は、「いつくしみ、愛、あわれみ」です。主なる神の不変の愛を表します。主なる神は、どんな神の民イスラエルが堕落しようと、アブラハムとの恵みの契約を忘れられません。神はアブラハムに「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」と約束されたことに、常に忠実なお方です。それを神の「まこと」と言います。

 

 

 

要するに「慈しみとまこと」も救いと同義語なのです。主なる神は、神の民イスラエルに対する救いを忘れられることはありません。

 

 

 

だから、詩人は、「地の果てまですべての人は わたしたちの神の救いの御業を

 

見た」と証言するのです。

 

 

 

それは、こういう意味だと思います。主なる神は、神の民イスラエルの救いを忘れられません。だから、離散のユダヤ人たちが世界の果てにまで移住し、世界中の異邦人たちが世界の果てまで主なる神が神の民イスラエルを通して、彼らを救われるのを見たと。

 

 

 

神の救いは、離散の神の民イスラエルを通して、世界の果てにまで及ぶのです。

 

 

 

だから、詩人は49節で、こう歌っているのです。

 

 

 

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。

 

歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。 

 

琴に合わせてほめ歌え  

 

琴に合わせ、楽の音に合わせて。 

 

ラッパを吹き、角笛を響かせて 

 

王なる主の御前に喜びの叫びをあげよ。 

 

 

 

とどろけ、海とそこに満ちるもの 

 

世界とそこに住むものよ。 

 

潮よ、手を打ち鳴らし 

 

山々よ、共に喜び歌え。 

 

主を迎えて。 

 

 

 

主は来られる、地を裁くために。 

 

主は世界を正しく裁き 

 

諸国の民を公平に裁かれる。 

 

 

 

4節の「全地」は3節の「地の果て」と対応しています。

 

 

 

 詩人は、全地に、地の果てに至るまで、主なる神の喜びの声を上げよと、讃美を促しています。

 

 

 

 旧約の神の民たちの讃美はまことに豊かです。琴、竪琴、角笛、ラッパと、様々な楽器に合わせて、神の民たちは主を賛美しました。

 

 

 

 礼拝は人間だけでありません。詩人は7節と8節で、海に、世界とそこに住む被造物に、潮、すなわち、大川に、山々に主を賛美するように促しています。

 

 

 

 わたしは、詩人が被造世界に向かって主を賛美せよと歌うのを聞いていて、使徒パウロのローマの信徒への手紙8章の御言葉を思い起こします。

 

 

 

 「被造物は神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷従から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。(ローマ8:1922)

 

 

 

 だから、詩人は、王である主なる神が来られることを祈り求めるのです。

 

 

 

 9節の「主を迎えて」のヘブル語は「主の御前で」という意味です。

 

 

 

 イスラエルの神、王である主がこの世界に来られる。

 

 

 

 この事実は、詩人にとっては世界の喜びとなるのです。

 

 

 

 神の民イスラエルだけでありません。世界の諸国民、さらに全被造物を含めた世界の喜びとなるのです。

 

 

 

 世界の喜びとなる救いは、神の民イスラエルから、シオンから流れ出るのです。エルサレムの神殿から流れ出るのです。

 

 

 

 主が来られて、地を裁かれ、この世界の闇を裁かれ、その裁かれたシオンから全世界に、全被造物に救いが及ぶのです。

 

 

 

 主がこの世界に来られて、正しい裁きがなされる、諸国民が公平に裁かれるという信仰は、神の民イスラエルの根本的な信仰であります。

 

 

 

 旧約の預言者エレミヤは、主なる神にこう祈ります。「万軍の主よ、人のはらわたと心を究め 正義をもって裁かれる主よ。わたしに見させてください あなたが彼らに復讐されるのを。わたしは訴えをあなたに打ち明け お任せします。」(エレミヤ11:20)

 

 

 

これはエレミヤの復讐の祈りです。エレミヤがかたき討ちをしようとしているのではありません。「お任せします」は、「投げかける」という言葉です。主なる神の義の裁きに絶対的に信頼しますと、エレミヤは祈っているのです。

 

 

 

 裁きは、人の罪を怒る神の報復であります。義なる神は公平に裁かれるのです。だから、神の裁き徹底的になされれば、世界のすべての民と全被造物は滅びるでしょう。

 

 

 

 だから、どうしても神が人となられて、この世に来られ、屠られる小羊とならねばなりませんでした。

 

 

 

 父なる神の御怒りを、御子主イエスがゴルゴタの十字架で受けられることで、神がこの世の罪人を罪と死から解放されました。

 

 

 

 そして、この神の驚くべき御救いの御業は、今や全世界に福音として告げ知らされているのです。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、98編の詩人が主なる神が諸国の王となり、諸国の民に、そして、全被造物に喜びを与えられ、今義と公正でこの世を裁くために来られることを学びました。

 

 

 

どうか、次週よりクリスマス月間に入り、キリストの受肉、クリスマスを喜び祝います。

 

 

 

その喜びがキリストの十字架という神の義の裁きで、人の罪が贖われ、わたしたちが父なる神に御子の死をもって罪を赦され、父なる神と和解できたことを心より喜ぶ機会としてください。

 

 

 

どうか、人の罪と堕落で全世界の被造世界が今虚無に服しています。主イエスよ、再臨してくださり、この世界とわたしたちを新しい命に再生してください。そして、すべての神の民と全世界の被造物が共に神と歩み、神を永遠に喜び、楽しみ、主に喜びの声を上げさせてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

詩編説教099               主の20181230

 

 

 

主こそ王。 主は王である。

 

諸国の民よ、おののけ。おののけ、諸国民は。

 

主はケルビムの上に御座を置かれる。 彼はケルビムに座している。

 

地よ、震えよ。震えよ、地は。

 

主はシオンにいまし、大いなる方。主はシオンの中で偉大(大きい)で。

 

すべての民の上に高くいます。そして、彼は諸国民の上で高くにいます。

 

御名の大いなること、畏るべきことを告白せよ。大いなる畏るべきあなた

 

主は聖なる方。の御名をほめよ。 彼は聖くいます。

 

 

 

力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め 王の力は裁きを愛し、あなたは公平

 

ヤコブに対する裁きと恵みの御業を を堅く立てる。ヤコブに裁きと義を

 

自ら成し遂げられる。あなたは行った。

 

我らの神、主をあがめよ。 あがめよ、我らの神、主を。

 

その足台に向かってひれ伏せ そして、ひれ伏せ、彼の両足の足台に。

 

主は聖なる方よ。 彼は聖くいます。

 

 

 

主の祭司からはモーセとアロンが モーセとアロンが、彼の祭司たちの中に。

 

御名を呼ぶ者からサムエルが、主を呼ぶと そしてサムエルが、彼の御名を

 

主は彼らに答えられた。呼ぶ者たちの中に。彼らは主に向かって呼ぶ。すると

 

神は雲の柱から語りかけ 彼は彼らに答えられる。密雲の柱の中で彼は彼らに

 

彼らに掟と定めを賜り 語る。彼らは守った、彼が彼らに与えた証しと定めと

 

彼らはそれを守った。 を。

 

我らの神、主よ、あなたは彼らに答えられた。我らの神、主よ、あなたは彼ら

 

あなたは彼らを赦す神 に答えられた。あなたは彼らを赦す神であるが、

 

彼らの咎には報いる神であった。 彼らの諸々の業には復讐する者である。

 

我らの神、主をあがめよ。あがめよ、主を、我らの神。

 

その聖なる山に向かってひれ伏せ。そして、ひれ伏せ、彼の聖なる山に。

 

我らの神、主は聖なる方。まことに我らの神、主は聖くいます。

 

 

 

 

 

 詩編第9919

 

 

 

説教題:「われらの神、主は聖なる方」

 

 

 

今年最後の礼拝です。詩編第9919節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

99編の1節の冒頭で詩人は、「主こそ王」と宣言しています。

 

 

 

ヘブライ語旧約聖書には、「アドナイ マラフ」と、ヘブライ語の単語二語です。「アドナイ」は「主」、「マラフ」は「王」です。だから、詩人は「主は王である」と歌っているのです。

 

 

 

それを新共同訳聖書は、「主こそ王」と、日本語に訳しました。

 

 

 

面白いのは、文語訳聖書です。「エホバは統御(すべをさ)めたまうふ」と訳しています。

 

 

 

文語訳聖書は、それに続けて「もろもろの民はをののくべし」と訳しています。「をののく」とは恐怖で「震える」ことです。「べし」は人の意志や当然の行為、義務を表す言葉で、「震えなければならない」という意味です。

 

 

 

99編は王の即位式を背景にしています。だから、主なる神の即位の詩編と呼ばれているのです。

 

 

 

詩人は、主なる神がシオンに座して王となられ、諸国の民に臨まれるので、諸国の民は王である主なる神の裁きに震えよと歌っているのです。

 

 

 

だから、詩人は、続けて「主はケルビムの上に御座を置かれる」と歌います。これは、主なる神が全地を裁く王となられたということを意味します。それゆえ詩人は、「地よ、震えよ」と命令しています。

 

 

 

文語訳聖書は、「地ふるわん」と訳しています。新共同訳聖書と共同訳聖書、新改訳聖書2017は命令形で「地よ、震えよ」、「地は揺れよ」と訳しています。

 

 

 

詩編99編の詩人にとって、主なる神が全地の王となられることは、全地に喜びをもたらすのではなく、恐れとおののき、すなわち、震えをもたらすのです。

 

 

 

詩人が「主はケルビムの上に御座を置かれる」と歌い、2節で「主はシオンにいまし」と歌うとき、彼がイメージした世界はこの世ではありません。

 

 

 

ケルビムはエルサレム神殿の至聖所の中に置かれた契約の箱の上の二対のケルビムの像ではありません。

 

 

 

「ケルビム」は、天のみ使いです。ケルブの複数形です。二対のケルブの像が、契約の箱の上に羽を向い合せるようにして置かれておりました。その間に主が臨在されて、主はモーセや祭司たちに御言葉を語られました。

 

 

 

また、ケルビムは、旧約聖書の創世記3章で主が罪を犯したアダムとエバをエデンの園から追放されたとき、登場しています。「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた」と、創世記331節は記しています。

 

 

 

エゼキエル書にもケルビムのイメージが描かれています。半分人間で、半分獣の姿で、大きな翼を持っている神のみ使いです。

 

 

 

詩人が「ケリビムの上に御座を置かれる」と歌うとき、彼はエルサレム神殿の契約の箱のケリビムの間に臨在される主をイメージしてはいません。彼は、主なる神が天のみ使いたちであるケリビムの上に座されている姿をイメージしているのです。

 

 

 

ダビデが詩編181011節で主なる神がケリビムに座されている姿を次のように歌っています。「主は天を傾けて降り 密雲を足もとに従え ケルブを駆って飛び 風の翼に乗って行かれる」と。

 

 

 

だから、詩人が「主はシオンにいます」と歌っているのは、天にある神の御座のことです。主なる神は、天の御座に座されて、全地、全世界の王に即位されました。だから、99編の詩人は、世界の諸国の民に、全地の被造物に主を畏れ、おののけと呼びかけているのです。

 

 

 

どうして、主なる神が王として、諸国の民たちと全地に臨まれることを、恐れ、震えなければならないのでしょうか。

 

 

 

詩人は、23節で次のように歌っています、「主はシオンにいまし、大いなる方。すべての民の上に高くいます。御名の大いなることを、畏るべきことを告白せよ。主は聖なる方。」

 

 

 

主なる神は天にいます偉大なお方なのです。すべての諸国の民たちを超越しておられるのです。3節の「御名」は主なる神のことです。「告白せよ」は「神を賛美せよ」という意味です。

 

 

 

詩人は、諸国の民たちに主なる神が偉大で、畏るべき方であると賛美せよと呼びかけているのです。

 

 

 

3節と5節と9節に「主は聖なる方」と三度繰り返されています。ヘブライ語聖書では「カドーシュ フー」という二語です。そのまま日本語にすれば、「聖なる かれは」となります。

 

 

 

文語訳聖書は「エホバは聖なるかな」と訳しています。「かな」は感動を表すことばです。「エホバは聖だなあ」という感動の気持ちを表現しています。

 

 

 

わたしは良い訳だと思います。それに比べて「主は聖なる方」は、信仰告白の表現に意訳しています。わたしは、信仰告白の表現で訳すならば、ヘブライ語聖書のままに「彼は聖でいます」、または「彼は聖くいます」と訳す方が良いと思います。

 

 

 

主が聖くいますので、諸国の民たちと全地は主を畏れ、震えなければならないのです。

 

 

 

この詩編を理解するカギは、この三度繰り返される「彼は聖くいます」、「主は聖くいます」です。

 

 

 

讃美歌66番で、「聖なる、聖なる、聖なるかな」と三度繰り返して三位一体の神を賛美していますね。この詩編99編が引用聖句としてないのが残念です。旧約聖書のイザヤ書63節が引用聖句として取り上げられています。

 

 

 

アモツの子イザヤを、主なる神が預言者に召されました。その場所はエルサレム神殿でした。そこでイザヤは、高く天の御座にいます主なる神の幻を見ました。そして天の御使いたちが歌う神賛美を聞きました。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」(イザヤ6:3)

 

 

 

その時イザヤはその幻を見て、歓喜に、喜びに満たされませんでした。むしろ、彼は次のように告白しました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は 王なる万軍の主を仰ぎ見た。」(イザヤ6:5)

 

 

 

イザヤは、聖くいます万軍の主を、たとえ幻の中であっても、彼の目で見てしまったのです。

 

 

 

だから、イザヤは今のわたしたちに分かるように言うと、こう言ったのです。「もうおしまいだ。こんな罪深い口の汚れたわたしが、また罪深い世の中に生きているわたしが、こともあろうに聖でいます天の軍勢の主である王を見てしまったのだから」。

 

 

 

聖でいます主の御前に立つことは、このイザヤのように恐るべきことであるというのが、旧約時代の神の民たちの思いでありました。

 

 

 

ヘブライ語の「聖」は、二つの意味を持ちます。第一は、「明るい」、「輝かしい」です。第二は、「分離する」です。「聖別」です。

 

 

 

聖別とは聖と汚れたものとを分離することです。そして聖なる神は汚れたものを滅ぼされます。

 

 

 

だから、この詩人にとって、聖なる主が王となられることは、主が全世界と諸国の民たちを、聖と汚れたものとを分かたれ、汚れたものを裁き、滅ぼされるということです。それが、主なる神が王としてこの全世界を統治なさるということなのです。

 

 

 

だから、詩人は、4節で次のように歌うのです。

 

 

 

「力強い王、裁きを愛し、公平を固く定め ヤコブに対する裁きと恵みの御業を 御自ら、成し遂げられる。」

 

 

 

聖くいます主なる神は、「力強い王」として、神の民イスラエルが奴隷の地エジプトで苦しんでいた時、エジプトの神々とエジプトの王と民を裁かれました。

 

 

 

そして、神の民イスラエルを救い出され、シナイ山へと導かれました。主なる神は彼らに御自身の御名を現わされ、モーセを通して十戒の石の板二枚を授けられました。

 

 

 

それによって神の民たちの間に公平が堅く据えられました。主なる神が十戒によってヤコブ、すなわち神の民イスラエルに「裁きと恵みの御業」、すなわち、「公正と神の義」を行われたからです。

 

 

 

だから、詩人は神の民イスラエルに「我らの神を崇めよ」と呼びかけ、主なる神への礼拝を求めて、「その足台に向かってひれ伏せ」と呼びかけているのです。足台は、王座に就いた王が両足を載せる台です。

 

 

 

6節で主なる神が具体的にどのように王として公正と神の義によって神の民イスラエルを治められたかを歌っています。祭司からモーセとアロンを、そして「御名を呼ぶ者」からサムエルを用いられました。「御名を呼ぶ者」とは神の民のために執り成しの祈りをする者です。

 

 

 

彼らが主に御心を尋ねると、主は彼らに答えられ、彼らは主の御言葉を神の民イスラエルに伝えたのです。

 

 

 

モーセは神の民の指導者として、荒れ野の40年間、主なる神の御前に歩む神の民イスラエルを主に執り成しました。大祭司アロンは、神の民イスラエルの代表として、神の民の罪の身代わりである動物犠牲を、主なる神に献げました。そして最後の士師であり、祭司であり、預言者であるサムエルは、神の民イスラエルを裁き、彼らに主なる神の御言葉を伝え、彼らのために主に祈り執り成しました。

 

 

 

7節で詩人が「神は雲の柱から語りかけ」と歌っているのは、民数記が記しているように荒野の40年間、神の民イスラエルに顕現されたことを述べているのでしょう。そして、詩人は、主がモーセを通してシナイ山で十戒を授けられ、神の民イスラエルはそれを守ったと述べています。

 

 

 

8節で詩人が「我らの神、主よ」と告白する神は、神の民イスラエルの歴史の中で常に彼らの主への行動に対して赦しと裁きで答えられたと歌っているのです。 

 

 

 

旧約聖書の歴史を見るに、主なる神は神の民イスラエルを赦す神です。幕屋やエルサレム神殿で神の民イスラエルは、常に動物の犠牲を主に献げて罪を赦されていました。

 

 

 

しかし、8節の「彼らの咎」とは神の民が犯した悪しき業です。偶像礼拝や十戒への違反です。主なる神は、神の民の罪に対して報復されました。

 

 

 

北イスラエル王国も南ユダ王国も、主なる神になした悪の御業によって共に滅ぼされ、神の民たちは異国へと捕囚されました。

 

 

 

今朝の詩編の御言葉からわたしたちは、どんな希望を聞くことが出来るのでしょうか。

 

 

 

わたしたちの神、主は、聖でいますという福音です。

 

 

 

わたしたちの神、主は、聖でいます。だから、神の民イスラエルを赦す神であり、裁く神です。

 

 

 

聖でいます一人の神の中に赦しと裁きが同時にあるのです。

 

 

 

聖でいます主は、わたしたちの罪と汚れを裁き、わたしたちを滅ぼすのではなく、自らがそれを負い、罪人であるわたしたちの罪を赦してくださいました。

 

 

 

それが、主イエス・キリストの十字架です。

 

 

 

聖でいます主が、罪人であるわたしたちを聖とし、罪を赦す方法は、この十字架の他にありませんでした。

 

 

 

永遠の神であり、父なる神の独り子であるキリストが、聖霊によって処女マリアから生まれ、罪なき人間性を取られて、わたしたち罪人の身代わりとなられる方法しかありませんでした。

 

 

 

こうして主イエス・キリストの十字架において聖でいます神の裁きと赦しが同時になされたのです。

 

 

 

だから、わたしたちは、聖でいます主を、十字架のキリストを、わたしたちの神と崇め、礼拝しようではありませんか。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今年最後の礼拝で詩編99編の御言葉を学べましたことを感謝します。

 

 

 

どうか、次週より新年を迎えます。聖でいます主の御前で自らの罪をよく知り、同時にキリストの十字架ゆえに罪を赦された喜びをもって、心から新年の礼拝にあずからせてください。

 

 

 

この一年の恵みを感謝し、来年一年の恵みを祈りつつ、新しき年へと歩ませてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

 

詩編説教100               主の2019120

 

          賛歌。感謝のために。  感謝の賛歌

 

全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。あなたがたは歓声を上げよ、主に

 

喜び祝い、主に仕え 向かって、全地よ。仕えよ、主に、喜びの中で

 

喜び歌って御前に進み出よ。 来い、彼の面前に、喜びの歌をもって。

 

知れ、主こそ神であると。 知れ、主こそ神。

 

主はわたしたちを造られた。 彼がわたしたちを造った。

 

わたしたちは主のもの、その民。 そして、わたしたちは彼のもの。

 

主に養われる羊の群れ。 彼の民 そして彼の牧する羊の群れ。

 

 

 

感謝の歌をうたって主の門に進み  来い、彼の門に、感謝をもって

 

賛美の歌をうたって主の庭に入れ。 彼の中庭に、賛美をもって。

 

感謝をささげ、御名をたたえよ。 感謝せよ、彼に。褒め称えよ、彼の名を。

 

主は恵み深く、慈しみはとこしえに まことに彼は良い。永遠に彼の慈しみは。

 

主の真実は代々に及ぶ。 そして、彼の真実は代々にまで。

 

 詩編第10015

 

 

 

説教題:「神礼拝の喜び」

 

 

 

詩編第10015節の御言葉を学びましょう。

 

 

 

100編には表題があります。「賛歌。感謝のために」と。これは、「感謝の賛歌」です。この詩編は神賛美、主なる神への感謝を歌ったものであるということを示しているのです。

 

 

 

これまでお話ししてきましたように、詩編95編から100編の6つの詩編は、「礼拝詩編」と呼ばれています。巡礼でエルサレム神殿に詣でた神の民たちを、神殿の祭司たちが主なる神の礼拝へと招くのがこの詩編です。

 

 

 

わたしたちの教会の主日礼拝の順序の中に「招詞」がありますね。これは、主の日の朝に教会の礼拝に来ましたわたしたち礼拝者を主がご自身へと招かれる御言葉であります。

 

 

 

神礼拝は、主が神の民を招かれるところから始まります。主なる神の招きなしに、わたしたちの神礼拝は成り立ちません。

 

 

 

だから、詩人は、1節で「全地よ」と呼びかけ、「主に向かって喜びの叫びを上げよ」と命令しています。

 

 

 

この「全地」は「全世界の人々」という意味です。詩人は、全世界の人々に向かって、「あなたがたは主に向かって歓声を上げよ」と命令しています。全世界の人々がエルサレム神殿に詣でて、主なる神を賛美し、主なる神に感謝せよと命令しているのです。

 

 

 

詩人は、2節で「喜び祝い、主に仕え 喜び歌って御前に進み出よ」と命令し、4節で「感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、主の御名をたたえよ。」と命令しています。

 

 

 

これらの御言葉は、その当時の神の民たちが主なる神を礼拝するために、どのようにエルサレム神殿の「主の門」を通り抜け、「主の庭」に入り、主なる神を礼拝したかを生き生きと描いています。

 

 

 

彼らが、主なる神を礼拝するのは、主なる神をほめたたえ、感謝するためです。

 

 

 

昔教会の礼拝に用いられました口語訳聖書は、この詩編の表題を「感謝の供え物のための歌」と記していました。巡礼者たちが神殿で主なる神を礼拝する時に、普通動物犠牲をささげ、感謝の供え物をしたと考えたからです。

 

 

 

さて、巡礼者たちは、礼拝のために神殿の「主の門」を通り抜けて「主の庭」に入りました。「主の庭」は内庭と外庭がありました。内庭には神殿の至聖所と聖所がありました。そしてその前に祭壇がありました。その祭壇を取り囲むようにして主に仕える祭司たちが主なる神を礼拝しました。そして、祭司たちの庭の前にイスラエルの男子たちが主なる神を礼拝する庭がありました。男子と女子が主なる神を礼拝する庭は壁で隔てられていました。そして女子が礼拝する庭から男子が礼拝する庭に入るために、その出入口としてニカノルの門がありました。異邦人たちは神殿の異邦人の門を通り抜けて、外庭に入り、主なる神を礼拝しました。

 

 

 

この詩編は、いつ作られたのでしょうか。バビロン捕囚後、エルサレムの都に帰還した神の民たちが第二神殿を建てた後(紀元前520515)であろうと考えられています。

 

 

 

紀元前539年にペルシア帝国の王クロスが勅令を出し、バビロン捕囚のユダヤ人たちを解放しました。そこでユダヤ人たちはエルサレムに帰還し、神殿を再建し、都の城壁を修復しました(紀元前445)。しかし、多くのユダヤ人たちがエルサレムに帰還しないで、離散のユダヤ人となりました。彼らは、中近東世界、地中海世界に離散して住み、過越の祭、ペンテコステの祭、仮庵の祭の時に、主なる神を礼拝するためにエルサレムの都まで巡礼したのです。その巡礼者は、彼らだけではなく、諸国民、すなわち、異邦人たちもいたのです。

 

 

 

旧約学者の浅野順一氏が「詩編研究」という著書の中で、この詩編について次のように述べておられます。「この詩編は最初巡礼の歌であったものが、感謝のささげものをするさいに歌われるようになり、感謝祭の歌になったのであろうということである。」

 

 

 

この詩編は巡礼という背景から生まれました。だから、この詩編は、巡礼者たちが13節を歌い、神殿の門を通り抜けて、神を礼拝する主の庭に入りました。すると、巡礼者たちを出迎えるように神殿の祭司たちが45節を歌い、巡礼者たちを神礼拝へと招いたのです。

 

 

 

この詩編を理解するためには9399編の詩編との関係を考えるべきです。特に主なる神が全世界の王であるという共通のテーマを共有しています。そして、この詩編100編がその締めくくりとなっています。

 

 

 

だから、詩人は、1節で「全地よ」と呼びかけて、この神殿で、全世界の人々が主なる神を全世界の王と認めるように、命令形で神礼拝に招いているのです。そして、5節で詩人は、全世界の王である主なる神の慈しみと真実の下で全世界に住む神の民たちと諸国民が心安んじて生活ができることを歌っているのです。

 

 

 

詩人が12節で3度「喜びの叫び」、「喜び祝い」、「喜び歌って」と神の民たちに「喜び」を強調しています。

 

 

 

この喜びこそこの詩編の「基調」です。「基調」とは、音楽では支配的な音で、絵画では色で、哲学や思想では根底となる傾向、考え方のことです。

 

 

 

この詩編は喜びが支配的です。だから、感謝の賛美なのです。それは、この詩編が神礼拝のためのものであったという意味です。

 

 

 

そこから当然、次の結論がでます。神礼拝は喜びであると。だから、今朝の説教題を、「神礼拝の喜び」としたのです。

 

 

 

では、どうしてこの詩編は喜びを基調とし、神礼拝は喜びなのでしょうか。

 

 

 

巡礼者たちが礼拝に招かれた神殿に、すなわち、聖所と至聖所がある「主の庭」に主なる神がいますからです。

 

 

 

これを、神学用語で「神の現在」と言います。罪の「原罪」ではありません。日本語大辞典で「現在」を紐解きますと、「現に存在すること」と、簡潔で、適切な説明があります。

 

 

 

出エジプト記3章にモーセが荒れ野で主なる神に出会った記事があります。主がモーセを神の民イスラエルの指導者に召され、エジプトに遣わされたという出来事を記しています。その時にモーセはエジプトの神の民たちに自分を遣わされた神の名を何と言えばよいのですかと質問しました。主なる神は彼に御自身を紹介されて、こう言われました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と。

 

 

 

この「わたしはある」を、改革派教会は「神は自存者である」と理解してきました。自存とは自力で生きるという意味です。反対語は他力です。神は自力で存在され、人とこの世界はその神によって存在させられています。

 

 

 

だから、この神、主が永遠に「わたしはある」というお方で、この世界と人間の創造者で、そして、宇宙と歴史の主権者なのだと、改革派教会の信徒は信じているのです。

 

 

 

そして、「わたしはある」という主の御言葉は、もう一つの意味があります。それは「わたしは今いる」、「わたしは今いるという者である」という意味です。

 

 

 

主なる神は、神の民イスラエルにとって常に「今います」お方でした。それを、預言者イザヤは、「インマヌエル」(「神、我らと共にいます」)と言い表しました。

 

 

 

詩人は、主なる神が今いますという喜びを知っている人です。バビロン捕囚の解放を通して、主なる神が神の民たちの罪を赦し、それを贖われた喜びを知る人です。

 

 

 

彼だけでなく、巡礼の神の民たちも知っていたでしょう。主なる神は今いまして、アブラハム、モーセ、そして、ダビデと結ばれた恵みの契約を忠実に遂行されるゆえに、今の自分たちがこの世界で、この歴史の中で神を礼拝することが出来ると。また、彼らは主にシナイ山で神の律法を授かりました。主は彼らに割礼を命じ、割礼を通して彼らを神の民に加えられました。そして、彼らはどこに住もうと、祭ごとにこうして巡礼し、神殿で神に感謝し、動物犠牲をささげ、感謝の供え物をしました。

 

 

 

2節の「主に仕え」とは、「礼拝の行事を執り行う」という意味です。礼拝するという意味です。だから、礼拝は喜びをもってするのです。

 

 

 

申命記1211節と12節で主なる神は、モーセを通して神の民に神礼拝する場所を次のように定められました。「あなたたちの神、主がその名を置くために選ばれた場所に、わたしの命じるすべてのもの、すなわち焼き尽くす献げ物、いけにえ、十分の一の献げ物、収穫物の献納物、および主に対して誓いを立てたすべての最良の満願の献げ物を携え行き、あなたたちの神、主の御前で、息子、娘、男女の奴隷、町の中に住むレビ人と共に、喜び祝いなさい。

 

 

 

これが主に仕えることです。神礼拝です。

 

 

 

さらにヨシュア記241426節を読みますと、何度も神の民の指導者ヨシュアは、約束の地カナンに導き入れられた神の民に、カナンの地での全生活を通して「主に仕える」ことを誓わせています。彼は、神の民たちに今日、「主に仕える」か、カナンの神々に仕えるかを選びなさいと命じて、神の民が主に仕えることを選びますと、彼らとシケム契約を結びました。そして、その契約のしるしとして大きな石を、彼らが神礼拝をしていました聖所のテレビンの木の下に置きました。

 

 

 

ヨシュアにとって「主に仕える」ことは、聖所だけ、神殿だけでありませんでした。約束の地での神の民たちの生活全体が「主に仕える」ことでした。ヨシュアは、神の民たちにカナンでの彼らの生活の隅々まで主に仕えることを要求したのです。そして、ヨシュアは次のように警告しました。もし彼らが主を捨て、他の神々に仕えるのであれば、主もまた彼らを捨てられ、彼らは他国で奴隷となると。

 

 

 

だから、詩人は、3節で「知れ、主こそ神。」と告白するのです。詩人は、ヨシュア同様に、主なる神以外に仕えることを許しません。主こそが真の神であるからです。

 

 

 

主なる神は天地万物の創造者です。そのお方が出エジプトの出来事を通して神の民を創造し、また、バビロン捕囚の解放と第二神殿の再建とエルサレムの城壁の修復を通して、主なる神を礼拝する神の民を創造してくださいました。

 

 

 

だから、詩人は、「彼がわたしたちを造られた。わたしたちは彼のもの。彼の民、彼の牧する羊の群れ」と告白するのです。

 

 

 

彼の告白は、神の民たちの信仰体験です。

 

 

 

そして、この告白はすべての神の民の信仰告白であり、当然わたしたちキリスト教会の信仰告白でもあり、わたしたちの教会とわたしたちキリスト者は、この詩人と巡礼者である神の民と同じ信仰体験を持つのです。

 

 

 

今、わたしたちもここで神礼拝をしています。この恵みは、キリストの十字架と復活の御業によって与えられたのです。わたしたちの父なる神は、アブラハムとの恵みの契約を遂行するために、御子キリストを真の人としてこの世に遣わされ、キリストを神の律法の下に置かれました。彼は、真の人として神の律法を積極的に行われ、父なる神に義と認められました。同時にキリストは罪無きお方でありましたが、わたしたちの罪を贖うために御自身を十字架にささげられました。そして、キリストは三日目に死人の中から復活されました。

 

 

 

このキリストの十字架と復活の御業によって、父なる神はわたしたちの罪をお赦しくださいました。また、キリストが真の人として神の律法を行われ、父なる神の要求を満たされ、得られた義を、わたしたちにお与えくださいましたので、わたしたちは罪を赦されただけでなく、父なる神に義と認めていただき、父なる神と和解し、神の子とされました。

 

 

 

だから、わたしたちは主イエスをキリスト、救い主と信じて、洗礼を受けました。そして、頭であるキリストの体なる教会の一員とされました。

 

 

 

そして、天に昇られたキリストは、聖霊と御言葉を通して今もわたしたちと共におられるのです。だから、上諏訪湖畔教会は70年間休むことなく神礼拝を続けることが出来たし、今も続いているのです。

 

 

 

 

 

詩人が5節で「主は恵み深く」と賛美していますね。本来のこの言葉の意味は「主は良い」「主は美しい」という意味です。神礼拝は、礼拝者たちが主なる神を「主は良い」「主は美しい」と告白する場なのです。

 

 

 

人間には審美眼という能力があります。だから、わたしたちの眼で、人や物の美醜を見分けることができます。大学には美学という学問もあります。しかし、詩人が「主は善い」「主は美しい」と告白しているのは、審美眼という人間の能力を働かせて、主なる神の美醜を見分けたのではありません。

 

 

 

そうであれば、どうして新共同訳聖書が「主は恵み深い」と意訳しているのか、わたしたちは理解できないでしょう。詩人は、主なる神の美醜を見分けたのではありません。礼拝に今神の民と共にいます主なる神を見て、「神の民と共にいる主なる神は恵み深いお方だと」と信仰告白しているのです。

 

 

 

なぜなら、詩人が5節で神賛美しますように、主なる神の「慈しみはとこしえ」であり、「真実は代々で」あるからです。

 

 

 

「慈しみ」というヘブライ語は「ヘセド」です。これは、契約に基づく神の真実の愛を意味しています。

 

 

 

その神の愛に、神の真実が永遠に及ぶのです。

 

 

 

詩人が「まことに彼は良い(美しい)。彼の慈しみは永遠。そして、彼の真実は代々にまで」と告白します時、彼は彼らの先祖アブラハムから1500年にわたる主なる神の御救いに感謝し、主の御名をほめたたえているのです。

 

 

 

また、わたしたちも、この礼拝で主なる神がアブラハムと結ばれた恵みの契約に基づいて、主イエス・キリストの十字架と復活を通して、わたしたち異邦人たちを救おうとされた神の愛と真実を見させられるのです。

 

 

 

だから、わたしたちも、この礼拝で心から主なる神に感謝し、主なる神をほめたたえるのです。

 

 

 

神の真実に応答するのが人の真実、すなわち、信仰です。実は旧約聖書ではヘブライ語の「真実」と「信仰」は同じ言葉で、「エムナー」と言います。新共同訳聖書は、この「エムナー」というヘブライ語を「真実、信仰、まこと」と日本語に訳しています。この「エムナー」は「信仰のある」から派生した名詞です。この言葉は、「信実」と「真実(まこと)」と「アーメン」と共に、「確かに信頼できるという意味の動詞から派生しました。態度がしっかりしていて、信頼できることを意味しています。

 

 

 

例えば、ヘブライ人への手紙1378節で、ヘブライ人への手紙の記者は次のように述べて、迫害の苦難の中にある教会とキリスト者たちを励ましていますね。

 

 

 

あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを思い出しなさい。彼らの生き様の結末をよく見て、その信仰に倣いなさい。イエス・キリストは、昨日も今日も、また永遠に変わることのない方です。(聖書協会共同訳聖書)

 

 

 

人の真実は常に破れます。しかし、神の真実、キリストの真実は永遠に変わりません。十字架のキリストの愛は永遠に変わらないのです。だからこそ、わたしたちは、この礼拝で神の言葉を語った教会の指導者たちの変わらない態度を見て、キリストの真実を信頼するように、ヘブライ人の手紙の記者は勧めているのです。

 

 

 

このキリストの真実にいつも立ち帰ることが、わたしたちの信仰です。神礼拝に立ち帰ることで、わたしたちは常に聖霊と御言葉を通して、キリストの十字架の変わることのない愛をいただくのです。

 

 

 

そして、そこからわたしたちは、信仰の喜びを与えられるのです。

 

 

 

どうか、この一年間、神を礼拝し続け、変わらないキリストの愛によって信仰の喜びに満たされましょう。

 

 

 

お祈りします。

 

 

 

 イエス・キリストの父なる神よ、今年も礼拝で詩編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

 

 

どうか、今年一年間神礼拝の喜びで満たしてください。常に不確かな中を生きているわたしたちです。今わたしたちと共にいます主なる神よ、恵みの契約に基づいて、どうかわたしたちを守り、主イエスの十字架の下にわたしたちを導いてください。キリストの十字架と復活の御業を通して、主なる神がわたしたち異邦人を救い、罪の赦しと神の子としていただいた喜びをもって、心から神に感謝する礼拝をささげさせてください。

 

 

 

どうか、新しき年、わたしたちの教会に神を礼拝し、感謝する者を多く起こしてください。

 

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。