詩編説教141              主の2024225

     賛歌。ダビデの詩             歌。ダビデの。

主よ、わたしはあなたを呼びます。 主よ、わたしはあなたを呼びます。

速やかにわたしに向い 急いでください、わたしのために。

あなたを呼ぶ声に耳を傾けてください。耳を傾けてください。あなたを呼ぶ時

わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし のわたしの声に。わたしの祈りが

高く上げた手を 固く立ちますように、あなたの御前で薫香として。わたしの

夕べの供え物としてお受けください。 両手をあげることが夕べの捧げもの

                   として。

主よ、わたしの口に見張りを置き 主よ、置いてください、わたしの口に見張

唇の戸を守ってください。 りを。守ってください、わたしの唇の戸を。

わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。わたしの心を悪事に傾けさせ

悪を行う者らと共にあなたに逆らって ないでください。悪人とともに不正を

悪事を重ねることのありませんように。 行わせないでください。彼らの与え

彼らの与える好餌にいざなわれませんように。るご馳走を口にしませんように。

主に従う人がわたしを打ち 義人がわたしを打ち

慈しみをもって戒めてくれますように。慈しみをもって戒めてくれますように。

 

わたしは油で頭を整えることもしません。頭に注ぐ油をわたしの頭が拒みませ

彼らの悪のゆえに祈りをささげている間は。 んように。まことにわたしの祈

彼らの支配者がことごとく りがなおも彼らの悪の中にあって。彼らの裁き人

岩の傍らに投げ落とされますように。 らが岩の裂け目に突き落とされた

彼らは私の言葉を聞いて喜んだのです。 なら、彼らはわたしの言葉を喜び聞「あたかも地を裂き、地を割ったかのように  くことになろう。地において

わたしたちの骨は陰府の口に散らされている。」掘り起こす者、割る者のよう

                      にわたしたちの骨は陰府の口

主よ、わたしの神よ、わたしの目をあなたに向け に散らされる。まことに主

あなたを避けどころとします。よ、わたしの神よ、わたしの目はあなたに向い

わたしの魂をうつろにしないでください。 あなたの中にわたしは逃げ込む。 

どうか、わたしをお守りください。 わたしの魂を注ぎ出さないでください。

わたしに対して仕掛けられた罠に 仕掛けられた罠からわたしをお守りくださ

悪を行う者が掘った落とし穴に陥りませんように。 い。害悪を及ぼす者たち 

主に逆らう者が皆、主の網にかかり 数々の罠から。悪人たちが彼らの網に陥

わたしは免れることができますように。 るように。わたしが通り過ぎるまで。

           詩編第141110

 

説教題:「悪に染まらぬようにしてください」

今朝は、詩篇第141110節の御言葉を学びましょう。

 

この詩篇にも表題に「ダビデの歌」という表題が付いています。この詩編も140編と同様に個人の祈りの詩編です。詩人は悪人たちに罠を仕掛けられ、窮地に陥れられています。彼は、彼らの悪に抵抗し、エルサレム神殿で夕の犠牲の動物をささげて、主なる神に救いを祈り求めているのです。

 

この詩編は、四つに分けることができます。12節と34節、57節、810節です。57節を除いては、「主よ」という呼びかけあり、続いて詩人は主なる神に祈願をしています。

 

910節を読めば、詩編1406節を思い起こします。悪人たちに仕掛けられた罠と落とし穴から詩人は、主なる神に救いを祈り求めています。詩人は、悪人の悪からの解放と悪人たちが自らの悪によって滅びることを祈っています。

 

詩人は、弱者です。自分の置かれた環境を変える力はありません。むしろ、日々悪人たちの悪行を見て、耐える以外にありません。詩人にできる抵抗は、悪人たちの悪に染まらないことです。悪人たちは、詩人を彼らの仲間に引き入れようと、いろいろな罠を張り巡らせるのです。詩人の立場は弱く、主なる神に救いを求め、祈る以外にありませんでした。

 

だから、詩人は、主なる神への献物を携えて、夕にエルサレム神殿に行きました。神殿で詩人は主の御前で犠牲をささげました。動物犠牲です。祭司が犠牲を焼き、その煙が主に届きました。詩人は、その場で両手を挙げて、主なる神に祈りました。

 

詩人は、主なる神に呼ばわりました。速やかにわたしのために来て、わたしの祈りの声を聞き届けくださいと。詩人は、神殿で主にささげた犠牲と共に、主にささげた彼の祈りを受け入れてくださいと祈りました。

 

詩人は、3節で「主よ」と呼びかけて、「わたしの口に見張りを置き 唇の戸を守ってください。」と祈りました。言葉で罪を犯さないためです。だから、詩人は主なる神に沈黙を守らせてくださいと祈っているのです。悪人たちに弱者が抵抗できるのは沈黙だけです。

 

詩人は、自分が弱者であると、自覚しています。だから、4節で「わたしの心が悪に傾くのを許さないでください。悪を行う者らと共にあなたに逆らって 悪事を重ねることのありませんように。彼らの与える好餌にいざなわれませんように。」と祈るのです。

 

人の心は悪に傾きやすいのです。社会的弱者は、その悪に抵抗することなく、この世の有様に流されます。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」です。一人だけが悪を行い、悪い言葉を言えば、人は誰でもその悪人を非難するのです。しかし、誰もが悪を行い、人に悪口を言っているなら、人の悪と悪い言葉は、誰も非難しないのです。

 

しかし、詩人は、知っているのです。悪を許さないお方を、人を中傷する者の言葉を憎まれるお方を。彼が「主よ」と呼びかけるお方を。

 

主は、人の心をご覧になっています。そして人の心が悪に傾くのを憎まれるのです。彼の目は、悪人を恐れ見ているのではありません。主の目が彼に注がれているのを見ているのです。この世の基準に、詩人は関心がありません。主なる神が詩人を、神の民を、そしてこの世の人をご覧になっていることに関心があるのです。

 

詩人の反対の立場が悪人たちです。彼らは主なる神を無視するのです。主なる神の御意志である律法を軽んずるのです。彼らは自分たちの欲する悪をし、主なる神と隣人に無関心です。だから、十戒を破り、次々と悪を重ねるのです。4節の「彼らの与える好餌」とは豚の肉です。モーセ律法が禁じていたものを悪人たちは平気で食べていたのです。

 

詩人は、主の道を歩む敬虔な人です。57節で詩人は次のように述べています。「主に従う人がわたしを打ち 慈しみをもって戒めてくれますように。わたしは油で頭を整えることもしません。彼らの悪のゆえに祈りをささげている間は。彼らの支配者がことごとく 岩の傍らに投げ落とされますように。彼らは私の言葉を聞いて喜んだのです。『あたかも地を裂き、地を割ったかのようにたしたちの骨は陰府の口に散らされている。』」

 

 詩人は、弱者で、自分の弱さを知っています。彼には、神の民の共同体が必要です。彼に主の道に歩むように指導してくれる義人が必要です。彼を、励ましてくれる神の民が必要です。頭に香油が注がれることは、名誉に与ることです。詩人は、悪人たちの名誉に与るよりも、主の道を歩むために、義人の厳しい訓練と神の民たちの温かい励ましを得るほうがよいと述べているのです。

 

 詩人の置かれている現実は、彼が悪人たちの只中に置かれているということです。彼は敬虔な人々の中にいるのではなく、悪人たちの中にいて、彼らの悪が彼に伝染することがないようにと、主なる神に祈っているのです。彼の戦いは、祈りによってです。彼は、主なる神への祈りによって、悪人たちの悪に抵抗しているのです。

 

 詩人の祈りは、復讐の祈りではありません。単なる裁きの祈りでもありません。彼は、主なる神に悪人たちを執り成す祈りをしていたのではないでしょうか。主なる神が悪を裁かれ、この世の指導者たちを裁かれたとき、詩人は悪人たちが罪を悔い改めて、主なる神に立ち帰ることを祈っているのです。主なる神の御前に悪人たちが跪いて、詩人の言葉を喜んで聞いてくれることを願っているのです。そして、悪人たちが目を覚まし、見た彼らの現実がまるで地が裂かれ、割られたように、陰府の口に彼らの骨がまき散らされているという恐ろしい光景だったのです。

 

 詩人は、再び主なる神に呼びかけて主が彼を守ってくださるように祈っているのです。弱者である詩人が頼るべきは、主なる神しかいません。この世と詩人に悪をなす者たちが自ら仕掛けた罠に陥ることを、詩人は切に祈っています。しかし、詩人は悪人たちが悪をなす社会の中に、彼らと一緒に生きているのです。そして、彼らの悪に詩人が染まることのないように祈っているのです。

 

 この詩編の詩人からわたしたちは、二つのことを学びたいと思います。第一にわたしたちキリスト者もこの詩人同様に弱者だということです。わたしたちは、この世で悪人たちの中で弱者として生きているのです。自分の心の弱さを、常に悪に傾きやすいという罪の性質を知っています。同時に主イエスは、罪を憎まれ、悪を裁かれるお方であることを知っているのです。

 

 旧約聖書の創世記19章に主なる神に滅ぼされたソゾムの町の物語があります。アブラハムは、み使いに執り成しました。その町に甥のロトと家族がいたのです。アブラハムもロトもソゾムの町の悪人たちと彼らの悪を変えることはできませんでした。主なる神に祈ることで、ロトと娘たちは悪を滅ぼされる主なる神の裁きから救われました。

 

 アブラハムとロトは、主なる神に反逆する悪人たちの悪に染まりませんでした。詩人のように彼らもカナンの地の悪人たちの悪に染まることがないように祈っていたからでしょう。主なる神は、アブラハムと彼の家族を守られました。

 

 この地に弱者として生きる神の民は、主なる神への祈りによって、この世の悪に抵抗するのです。

 

 第二に、神殿と教会の存在です。アブラハムは、祭壇を設けて主なる神を礼拝し、主なる神に祈りました。神の民イスラエルは、エルサレム神殿で動物犠牲をささげて祈りました。わたしたちキリスト者は、教会と家庭で、個人礼拝で主なる神に祈ります。

 

 詩人は、8節で「主よ、わたしの神よ、わたしの目をあなたに向け あなたを避けどころとします。わたしの魂をうつろにしないでください。」と祈っています。目を常に主なる神に向けていることが、信仰者の生きる姿勢です。聖書の信仰者たちは、旧約聖書でも新約聖書でもいつも主に目を向けて生きているのです。そして、主を避けどころとしています。いつも神の民は、主なる神に逃げ込んでいます。聖書の神の民、信仰者にとって、主なる神は常に自分の前におられる実在でした。主なる神は、人間が作り出した神という観念ではありません。生きた神、苦難の中にいる弱者であるわたしを助けることのおできになるお方です。

 

 だから、詩人は、「わたしの魂をうつろにしないでください」と懇願するのです。わたしたちの魂が主なる神の御力で満たされていなければなりません。わたしたちの言葉で言えば、キリストの愛によってわたしたちの心が満たされていないとなりません。

 

 それゆえにわたしたちには教会が必要であり、礼拝における説教と聖餐の恵みが必要です。御言葉と礼典と祈りによって、主なる神に近づくことが許されているのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、レントの季節にキリストの受難と十字架の御苦しみを覚えて過ごしています。今朝は、詩編141編の御言葉を学べる恵みを感謝します。

 

どうか、主イエスの御受難と十字架の御苦しみを覚えつつ、141編の詩人の祈りを学ばせてください。

 

詩人は夕にエルサレム神殿に行き、犠牲を主にささげて祈りました。悪人たちの悪に染まることを許さないでくださいと。

 

わたしたちと詩人は、悪人たちの悪を変える力はありません。だからこそ、主なる神に助けを求めて祈ります。悪人と悪からお救いくださいと。

 

キリスト者の祈りによる悪への抵抗が主の御心にかないますように。主イエスがゲツセマネの祈りによって、悪魔と十字架の苦しみと戦われたように、わたしたちが平和のうちにこの世の悪と戦わせてください。

 

教会のこの礼拝がわたしたちのこの世における悪との戦いの拠点としてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

詩編説教142              主の2024324

 マスキール。ダビデの詩 ダビデが  マスキール。ダビデの

洞穴にいたとき。祈り。 彼が洞窟にいたとき。祈り

声をあげ、主に向かって叫び 声をあげ、主に向かってわたしは叫ぶ。

声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう。声をあげ、主に向かってわたしは

御前にわたしの悩みを注ぎ出し 憐れみを求める。わたしは注ぎ出す、彼の前

御前に苦しみを訴えよう。にわたしの嘆きを。彼の前に苦しみを、わたしは告

            げる。

わたしの霊がなえ果てているとき わたしの霊がわたしの上で衰えるとき

わたしがどのような道に行こうとするか あなたはわたしの道を知っておられ

あなたはご存じです。る。

その道を行けば わたしが歩く道に、

そこには罠が仕掛けられています。彼らはわたしに対して罠を隠した。

目を注いで御覧ください。 右を見て、見てください。わたしを知る者はい

右に立ってくれる友もなく ません。

逃れ場は失われ 逃れ場は、わたしから失われました。

命を助けようとしてくれる人もありません。わたしの魂を配慮する者もいませ

                    ん。

主よ、あなたに向かって叫び、申します わたしは叫びます、あなたに向か

「あなたはわたしの避けどころ って、主よ。わたしは言います、「あなたは

命のあるものの地で わたしの避けどころ、生ける者たちの地でのわたしの分

わたしの分となってくださる方」と。け前。」

わたしの叫びに耳を傾けてください。 わたしの叫び声を聞いてください。

わたしは甚だしく卑しめられています。 実にわたしはとても弱りました。

迫害する者から助け出してください。わたしを救い出してください、迫害する

彼らはわたしよりも強いのです。 者から。実に彼らはわたしよりも強いので                     

わたしの魂を枷から引き出してください。 す。わたしの魂を出してください、

あなたの御名に感謝することができますように。牢獄から。あなたの御名を感謝するために。

主に従う人々がわたしを冠としますように。 実にわたしを義人たちが取り囲 

あなたがわたしに報いてくださいますように。 みます。実にあなたがわたし

                     に報いてくださるから。

           詩編第14218

 

説教題:「わたしの魂を枷から引き出してください」

今朝は、今週の受難週を覚えて詩篇第14218節の御言葉を学びましょう。

 

この詩篇は、個人の嘆きの歌です。表題に「マスキール。ダビデの詩」とあります。「マスキール」とは、教訓詩です。その詳細は分かりません。そして表題に「ダビデが洞穴にいたとき。祈り」と、続けて付されています。ダビデ王の故事に従って、この詩編の祈りを理解するようにという意味でしょう。すでに詩編第57編の表題に「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき」と付されていました。

 

ダビデ王の故事とは旧約聖書のサムエル記上2212節と同じくサムエル記上24123節の記事です。ダビデがサウル王の迫害を逃れて洞窟に隠れました。アドラムの洞窟とエン・ゲディの洞窟です。エン・ゲディの洞窟では、ダビデがサウル王を殺す機会を得ますが、ダビデは見逃しました。それによってダビデとサウル王の間に一時的平和が訪れました。

 

詩人もダビデ王のように強い敵に迫害されていたのです。140編と141編の詩人同様に彼も人生において敵から罠を仕掛けられ、窮地に陥れられているのです。しかし、彼は、ダビデ王のように敵を呪うことも非難することもありません。

 

この詩編は、三つに分けることができます。24節前半と4節後半-6節、78節です。

 

表題に「祈り」と付されていますように、142編は祈りです。2節で「声をあげ」と二度繰り返されていますように、詩人にとって祈りとは、声を出して神に語り掛けることでした。彼の心の思いを言葉に出して、一つの形として神に訴えることでした。

 

祈りは黙祷という形もありますが、声を出して祈ることが祈りの形ではないでしょうか。礼拝と祈祷会で、小会や男子会、婦人会で、そして聖書を学ぶ集いでも、わたしたちは声を出して祈るのです。

 

祈りは、「主に向かって」するのです。主に向かって呼びかけ、主に嘆き、主に願うのです。

 

そのために重要なことがあるのです。詩人は、2節後半で「憐れみを求めよう」と祈っていますね。主に恵みを乞い求めているのです。これは、詩人が何か具体的な願いをするという意味ではありません。詩人は、主なる神との正しい関係を回復することを祈り求めているのです。

 

今朝も礼拝において共に主の祈りをしました。わたしたちは、「御名を崇めさせたまえ。御国を来たらせたまえ」と祈り、その後に具体的な日用の糧を、罪の赦しを、悪からの救いを祈りました。

 

主の祈りは、主イエスがわたしたちに教えてくださった祈りです。祈りにとって大切なことは、主なる神とわたしたちの関係です。この関係が正しくて、祈りは成り立つのです。しかし、わたしたちが主なる神と正しい関係を築くことはわたしたちの力が及ばないことです。だから、詩人は主なる神に恵みを乞い求めているのです。主なる神が恵みによって彼とただし関係を回復してくださるようにと。

 

続いて3節で詩人は、「御前にわたしの悩みを注ぎ出し 御前に苦しみを訴えよう」と祈ります。悩みと苦しみは同じものです。詩人の心の中にあるものです。詩人は、主の御前で声を出して祈り、告白し、彼の心の中にある苦しみと悩みをすべて注ぎ出そうとしているのです。

 

詩人の心の嘆きは、4節で「わたしの霊がなえ果てる」ほど深いものでした。彼の心からこの世の悩みと苦しみを注ぎ出しても、彼の霊性は衰えました。主なる神は詩人が行くべき人生をよく知っておられました。しかし、詩人は敵から罠を仕掛けられました。

 

主なる神に助けを祈り求めても、詩人が置かれている現実はすぐには変わりません。詩人のように、わたしたちも主なる神の助けを遠くに感じる時、わたしたちの霊性が弱る時があるでしょう。

 

自分の周りが敵だらけであり、主イエスに助けを祈っても、今の苦しい現実が変わらなければ、わたしたちはこの詩人のように心が弱るのではありませんか。

 

詩人は彼を守ってくれる者を見出そうと、右を見て、期待したのです。でも、いませんでした。また、彼にはどこにも逃れる場所がなく、彼の命を助けてくれる人、頼りになる人はいませんでした。

 

詩人は、この世で、彼の人生において彼の命を守ってくれる友も、信頼できる人も見出せませんでした。

 

だからこそ彼は、6節で主なる神を親しく「あなた」と呼び掛けて、告白するのです。「わたしの避けどころはあなただけです」と。詩人は、この世における孤独の中で、主なる神にだけ避けどころを求めました。

 

この世に生きている者たちは、土地があり、家があり、家族がありました。しかし、詩人は祭司やレビ人たちのように、主なる神が自分の分け前であると告白しています。

 

昔神の民イスラエルは、奴隷の地エジプトから解放され、約束の地カナンに入りましたとき、主なる神から嗣業の地を与えられました。しかし、祭司とレビ人たちは、カナンの土地ではなく、主なる神ご自身が彼らの分け前でした。受けるべき嗣業でした。

 

だから、わたしは詩人がレビ人であると思うのです。そうでなくても、彼にはレビ人のように、主なる神以外に分け前はありません。主なる神が彼の嗣業の地になってくださるからです。

 

7節と8節は、詩人の願いであります。主なる神が迫害する者から詩人を救いだされることを祈り求めているのです。新共同訳聖書は、詩人が迫害する者たちにひどく卑しめられている、低くされていると訳しています。しかし、詩人は、彼自身がとても弱くなり、迫害する者から救い出してくださいと、主なる神に祈願しているのです。

 

そして、8節前半で彼は、「わたしの魂を枷から引き出してください。あなたの御名に感謝することができますように」と祈るのです。枷とは、牢獄のことです。詩人は、心の悩みと苦しみによって彼の魂が牢獄に入っていると感じているのです。だから、この枷、牢獄はたとえです。実際の牢獄ではありません。詩人は、敵から攻撃され、罠を仕掛けられていますが、裁判に訴えられ、留置所に入れられているのでもありません。主なる神が今陥っている窮地から詩人を救い出してくださいと祈っているのです。

 

そして、詩人は、主なる神に救われることに意味を見出しています。「あなたの御名に感謝できますように」と。

 

この142編は、エルサレムの第二神殿の時代に作られたと思います。バビロン捕囚から解放された神の民イスラエルは、エルサレムに帰還し、彼らを解放された主なる神を礼拝しました。そして、多くの困難を経てエルサレムの第二神殿を再建し、エルサレムの都の城壁を修復しました。

 

8節後半の詩人の祈りには、エルサレムの第二神殿で帰還の神の民たちが礼拝する喜びが反映していると、わたしは思うのです。

 

新共同訳聖書は、8節後半を「主に従う人々がわたしを冠としますように。あなたがわたしに報いてくださいますように。」と訳しています。「主に従う人々」とは、義人のことです。神殿の礼拝に集う会衆のことです。「わたしを冠としますように」とは、詩人を礼拝に出席した会衆たちが取り囲むようにということです。

 

詩人は、神の民であるエルサレム神殿の会衆たちと共に主を礼拝することが主なる神の彼への報いだと言っています。

 

詩人は、心が悩みと苦しみで溢れ、主なる神に救いを祈り求めました。しかし、その祈りは聞き届けられたのでしょうか。わたしは、聞き届けられなかったと思うのです。彼は、心も体も弱りはて、主なる神が知られる彼の道を歩みました。その道に敵たちの罠が仕掛けられていたのです。しかし、彼を助けてくれる人は誰もいません。彼が逃れられるところはどこにもありません。主なる神のみが彼の嗣業でありました。

 

わたしは、この詩人に、受難の主イエスを重ねるのです。主イエスは、まさに主なる神の分け前です。父なる神の独り子です。しかし、わたしたちの罪のために十字架の道を歩まれたのです。罪なきお方であられたのに、多くの悩みと苦しみを担われて、十字架の道を歩まれたのです。ただ主イエスは、この詩人のように父なる神のみに目を注がれ、彼の歩まれる道には敵たちの多くの罠が仕掛けられたのです。主イエスは、ローマの兵士にムチ打たれ、体はとても弱られ、新共同訳聖書が訳しましたように「わたしは甚だしく卑しめられています」という受難の道を歩まれたのです。そして、最後に罪人の刑罰を、罪人と共にお受けになり、死なれて、罪人と共に葬られたのです。

 

来週の主の日は、イースター礼拝です。主イエスが死人の中から復活されたことをお祝いします。新共同訳聖書が「主に従う人々がわたしを冠とします」ように、わたしたちは復活の主イエスを冠とするのです。昔の人々は、競技に勝利した人に月柱冠を頭にかぶらせたのです。

 

この一週間、わたしたちの罪のために苦しまれた主イエスが、次週のイースターに勝利者としてほめたたえられるのです。

 

お祈りします。

 

 イエス・キリストの父なる神よ、受難週の第一日目に詩編142編のみ言葉を学べる幸いを感謝します。どうか受難週のこの一週間、わたしたちの罪のためにキリストが受難と十字架の死の苦しみを味わわれたことを覚えて過ごさせてください。

 

どうか、142編の詩人の苦しみと嘆きに、受難と十字架の主イエスの苦しみを覚えさせてください。父なる神以外に受難の主イエスを助け者、主イエスを復活の命に生かす者はいません。

 

だから、主イエスは詩人のように、ただ父なる神にのみを信頼し、十字架の道を歩まれたのです。

 

詩人の祈りが主イエスのゲツセマネの祈りに重なります。どうかこの一週間、わたしたちの罪のために十字架の道を歩まれた主イエスの御跡をたどらせてください。

 

次週の主の日、主の復活を心から祝わせてください。

 

 

この祈りと願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。